れてれて坊主

保坂アヤ 作

  1. パン粉雪
  2. ふた目ぼれ
  3. てるてる坊主、ふたつ
  4. るてるて坊主
  5. 好きになるって
  6. 弱気になる
  7. まだ夜は明けず
  8. 続く…

パン粉雪

「おかあさん、雪は何でできているの? 」
背中の方から幼い男の子の無邪気な質問が聞こえてきた。
「じゃあねえ、ヒント。雨は神さまが流したなみだなんだって」
男の子のおかあさんは見守るような、それでいてちょっとからかうような声だ。
「そうか、雪はなみだが寒くて凍ったものなんだね」
どうかしらね――。おかあさんとその息子の幸せそうな声をふり切るようにぼくは歩く速度を速めた。
午後から降り始めた雪が歩道に積もっては溶け、積もっては溶けを繰り返し、ついでにぼくの頭やコートにまでくっついてじんわり溶けようとしていた。パン粉のような雪だった。ポケットにつっこんだ両手は冷えきって、耳は針に刺されたかのように痛む。鼻水をすすりながら歩くぼくは、いつかの授業で習った雪の成分について考えていた。
主な材料は水と空気中のちり。雨と変わらない。氷結した粒が溶ければ雨、溶けなければ雪となる。
そこでぼくは心の中で叫んだ。お前ら、雪をなめてみろ!ところがあの幸せそうな声はまだ聞こえてくる。雪に塩分など入っていようがそうでなかろうが構わない、というかのように。ぼくはあきらめてさらに足を速めることにした。
「神さま、泣きやんでね」
ぼくは苦笑いしてしばれた拳をかたく握った。しょっぱい雪なんてあるわけないだろうに。
それにしても、この雪は積もりそうだな。そう心の中でつぶやきこり固まりそうな肩の力を緩めた。たくさんの水分と空気を含んだ雪は雪だるまを作るのに最適な性質だ。ぼくはこの雪をパン粉雪と名付けた。
おい、パン粉雪。早くやんで溶けてくれ。そう念じながら天井を見上げる。墨汁を二、三滴の水で薄めたような空が大粒のパン粉雪を落としていた。ひらひらと落とされた雪は、少なくともぼくの目には涙なんかに見えなかった。街頭に照らされるものはドラマチックに。そうでない大多数はライヴ会場の観客のように。地面に散らばるパン粉雪……。
そんなこと、どうだっていいか。ぼくは横断歩道を渡り、その先にあるホームセンターへ急いだ。
入口のマットでくつ底を拭いていざ、入店。きゅ、きゅ、とくつ底のゴムと床がこすれ合う嫌な音を聞きながら真っ先に向かったのは店の奥に設けられた園芸コーナーだ。ぼくにはなじみの薄いミニバラや洋ランなどが見栄えよく棚に置かれている。別の棚にはいろんな種類の土があった。そのうちのひとつ、『サボテンの土』を手にしてぼくは先に進む。そのまた別の棚にはじょうろ、そのわきには球根や野菜の種なんかもあった。ホームセンター独特のゴムのような、木材のようなにおいが鼻をくすぐった。だが、一番大事なもの、鉢が見つからない。
もしかすると通りすぎているのかもしれない。そう思ったぼくはいったん園芸コーナーを後にして手前の仏花コーナーから再び回ることにした。でかでかと天井からつりさげられた『園芸』の文字の奥、壁際の棚に大小さまざまな鉢が並んでいた。ほら、やっぱりな。よく見ないでいたらしい。探し物が苦手だと言われるだけはあると思う。苦笑いをしながらそこへ向かい、手のひらサイズの一番小さな鉢を手にとった。
『大特価品!』
帰ろうとして反対方向に顔を向けると、そんな文字が目に入った。黄色い紙で目立つようにそう書かれると、興味がなくても見てみようかなんて思ってしまう。よく見てみるとそれは観葉植物のようだった。棚のすきまからのぞいているみどりは、さして不健康そうには見えなかった。
「半額! アイビー百円、パキラ、サンスベリア二百五十円――」
値札を声に出して読んでみると虚しさがより際立った。そうか、売れ残りか。お前たちもかわいそうだな、なんて心の中で呟いてみる。アイビーはうなだれていた。パキラは腰をひねっていた。サンスベリアはしゃきっと背筋を伸ばして威嚇しているようにさえ見えた。ぼくの手には負えないようだ。ちょっとした心のしこりを抱えつつ、ぼくは土と鉢をレジに持っていった。

ふた目ぼれ

来室時間、四時間目。
体温、三十六度六分。
来室理由、さぼり。
……正直でよろしい。
「またさぼってるの?進級できなくなるわよ」
万由子先生がしかめっ面を向けながらぼくにそう言った。
「計算してるから大丈夫ですよ。学校に来てるだけましでしょ」
「まあ、そうだけど……」
もごもごとなにか言っている万由子先生を尻目に、ぼくはソファに深く座った。というのも、ぼくの定位置、四人は使えるくらい大きな机の窓側の席に、見慣れない女子生徒が座っていたからだ。
自分から女の子の隣とか向かい側に座るというのは気が引けるし、それは向こうだっていやだろう。見ず知らずの人に話しかけるなんてことをしたら疎まれるのがオチだ。面倒くさいふりをして観察するのがぼくには合っているんだ。
でも、よく考えてみるとぼくがこうして彼女の姿を観察したり気持ちを察したりしているのは、快、不快を問わず少しばかり興味を持っているからであって、それに気付いてぼくはため息をついた。
彼女は半分ほど開いた窓の向こうを見ていた。そこにはケヤキの並木道があって、五月のさわやかな風がみどりの葉をダンスに誘っている。風は保健室の中にまでやってきて、女子生徒の髪を静かにもてあそんでいた。肩にかかるか、かからないかくらいの髪はふわふわと踊りだし、陽気な日光に当たってこげ茶色に化粧を      しているように見えた。顔はむこうを見ていてここからではわからない。でもきっとまじめな人なんだろう。 だってスカートの丈は規則通り、制服も着崩していない。セーラー服のカフスのボタンだってちゃんととじて いた。上履きの模様の色が青だったから、彼女は二年生。ぼくよりもひとつ年上だ。
突然あっという叫び声が聞こえた。びっくりしてふりむくと、万由子先生がデスクにどすんという音を立てながら段ボール箱を置いていた。
「北原君、草部さん。ちょっと手伝ってくれない?」
にこやかな笑顔に甘い声。いやな予感がした。そこにちょうど内線の電話がかかってきて話は途切れる。ぼくはやれやれと腰を上げてうわーっと伸びをした。ごりっと背中のこりが治るのを感じた。そうしたあとで万由子先生のデスクに近づくと、段ボールに貼りついたガムテープをはがし取った。べりべり、べりべり。騒音だ。電話をしている先生にはちょっと悪いことをしたな。
とにかくふたを開けてみる。何百冊と積み重なった薄い冊子と一枚の紙、そして裏返しになったシールの台紙が四枚ほど入っていた。
シール?疑問に思って台紙の一枚を手にとる。
4,373 4,373 4,373 4,373 4,373 4,373 4,373 4,373 4,373……
「うわっ……」
思わず声をあげたのは、これからやらされる仕事の概要を知ってしまったからだ。これ、全校生徒分やらなきゃいけないのか。おそるおそる冊子の上に乗った紙を手にとる。
『印刷ミスがありました。三ページ、五行目の表記4,273を4,373に直してください』
冊子の表紙には『交通安全』と題された文字と、教科書の挿絵みたいなイラストがプリントされてあった。ぼくの眉間にしわがよる。こんなの、配った後ひとりひとりに直させればいいじゃないか。ああ面倒くさい。やってられるか。
万由子先生の電話が終わり、受話器を置く音が聞こえた。
「急用が入っちゃった……。あ、開けてくれたんだ。じゃあふたりともシール貼りをお願いね。」
「え、ちょっとちょっと。これふたりでやる量じゃないでしょ!」
せかせかと資料をかき集める万由子先生に、ぼくは焦りを覚える。なんていったって一時間で終わる量じゃない。おかしいって。先生にぼくらを手伝うという気はないだろう。こんなことならもう少し大きな音でガムテープをはがしていればよかった。
「シール貼り、ですか」
草部という名字らしいその人がぼくのうしろで返事をする。大人びてはいるけれど、自信なさげな小さい声だった。本気でやるつもりなのだろうか。ぼくはお断りだ。
「そうそう、文章の修正だから大丈夫。ね、北原君、さぼっているんならひまでしょう?」
「嫌ですよ」
万由子先生はぼくに笑顔を向けた。予感的中、拒否権なし。今度はぼくがしかめっ面をする番だった。

万由子先生がいなくなった保健室。そこに、ぼくと窓際の二年生、それから二人のあいだに吹きこむ皐月の風が残っていた。ぼくは先生の椅子に座ってくるくると回る。そして左右にゆれてみる。どちらもさして意味はないけれど、ぼくにとってそれは必要なことだった。
先生のデスクはいつもきたない。ごみとかそういうのじゃなくて、資料でいっぱいなのだ。デスクのいたるところにノートやファイルが積み重なっていたりブックスタンドにたてかかっていたりする。つまりものを書くスペースではなくなっている。そんな状態にもかかわらず、写真とかを飾っているからすごいと思う。
ぼくはそのうちのひとつを見つめた。知らない生徒と一緒に万由子先生が写っている。いつ撮られたのかもわからないその写真はちょっと色あせていた。それでも写真の中の彼ら、彼女らは幸せそうにぼくに向かって笑いかけている。笑顔はいつまでたっても色あせてはいなかった。
部屋の中で物音がした。窓際の二年生がおもむろに立ち上がったのだ。ぼくはびっくりしてついそっちに目を向けてしまった。こちらを向いたその人をちらちらと盗み見る。決して派手ではないけれど、印象に残る良い顔立ちをしている。彼女はつかつかと歩み寄って、とうとう段ボール箱をかかえた。この人、本当にやるのかよ。
結局その人は冊子の山を広げてシールを貼りだした。思った通り、きまじめだな。九百近い生徒の分を肩代わりして、何になるというのだろう。これだからまじめな人はおもしろい。偽善者ぶっているようなのにロボットみたいでもあって、半分くらいのやさしさを持っている。万由子先生のいるうちに嫌なら嫌と言えばいいのに。どうせ大人になったら言えなくなるんだから。ぼくは立ち上がって彼女のいる机を横切った。万由子先生がベッドのわきに置いた鉢植えを眺めるためだ。ぼくはそれが楽しみになっていた。いつものように、鉢の中にはこぶがふたつついた握り拳ほどもあるサボテンが植えてあった。
ぱらっ……、ぺりっ……。紙をめくる音と、シールをはがす音がリズムよく聞こえてくる。ぱらっ……、ぺりっ……。さらさらとケヤキの葉がダンスする。ぱらっ……、ぺりっ……。気持ちのいい風が、ぼくのほおをなでる。ぱらっ……、ぺりっ……。校庭から女子生徒たちの笑い声が聞こえる。ぱらっ……。体育だろうか。そういえばそろそろ体育祭だな。
おや、と思った。窓際のあの人の手が止まっている。いくら待ってもぺりっ……、という音は聞こえてこなかった。どうしたのだろう。ますますその人に興味がわいてぼくは後ろを振り返った。
窓の外を見つめる彼女が目に映る。校庭で女子生徒たちがソフトボールをするのをだまって見つめているようだ。その目には悲哀があって、羨望がこめられていた。嫉妬、それから軽蔑も秘めていたかもしれない。ぼくは彼女じゃないから分からない。けれど、彼女が感情におぼれていることはわかった。そして、静かに泣いていることも。
静寂の保健室に洟をすする音が割り込む。ぼくは足早に彼女の向かい側の席に歩み寄って、座った。案の定その人は手を口元にあてて顔をそむけた。残念だったね。ぼくはきみの泣き顔なんてどうでもいいんだよ。それにきみにとって大事なことは心を落ち着かせることであって、泣くのを我慢することじゃない。
ぼくは山積みの冊子を一冊手にとってぱらぱらと流し読む。交通事故の統計や、自転車運転にひそむ危険、自動車の内輪差なんかについて書かれていた。
ぺりっ……。シールを台紙から剥がして4,273を4,373に修正する。シールの向きがまっすぐじゃないけれどさして問題はないだろう。
ぱらっ……。ぺりっ……。
目のすみっこで赤い鼻の女子生徒がぼくのことを見ていた。たしか、草部――って言ったかな。ルドルフと呼ぼうか迷ったけれど、あまりにもかわいそうだからやめておいた。
赤鼻の草部はなみだを拭く。最後にもう一度洟をすすると何事もなかったかのように真顔になった。

ぼくたちは昼休みを告げるチャイムが鳴るまで作業を続けた。当たり前だけど終わるはずがなかった。結局万由子先生は帰ってこなかったし、保健室に残されたふたりは一言も会話しなかった。
ありきたりなチャイムの音に集中力を切らしたぼくは、うーん、と伸びをする。ふっと周りの空気がのんきな色に変わる。ああ、疲れた。でも、疲れたというとなにかに憑かれるらしいから声には出さない。向かいの席をちらと見ると、彼女はまだ作業を続けている。
「草部さん、休まない?」
何となく、でも疎まれるのを覚悟して話しかけてみる。どんな反応をするのか興味があった。
彼女はえっ、とかあっ、とか言った後で「はい」と言った。予想通りだ。ぼくが思わず笑うと、向こうも愛想笑いを返す。
「なんで敬語なんだよ」
二度目の愛想笑い。少し人見知りがあるようだ。
「遠慮なんかしなくても大丈夫だよ」
「……そう。北原くん、だっけ?」
「うん」
きっとものすごくいい子なんだろう。だからあんなふうにおぼれてしまうんだ。
「何年生?」
「一年生」
草部はまたえっ、と言葉に詰まった。
「驚いた?それともなんだコイツってなった?」
「そんなことないけどさ」
「でも本当は?」
「何が?」
だんだんと草部の顔つきが変わる。
「本当はちょっとむかついたって顔に書いてあるけど」
「正直に言えば、そうだね」
ぼくはにっと笑った。草部はむっとした表情を見せた。
「いきなりタメ口だもんね」
「確信犯でしょ」
「悪い?」
「別に……」
草部の顔がさらに不機嫌そうになった。薄い唇をとがらせていておもしろい。やっぱりまじめだな、と思った。
「それにしてもこの量は多いよ」
そう言いながら山積みの冊子を眺めると、そうだね、と大人びた声が聞こえてくる。
「そもそもこの交通安全の集会っていつなんだよ?」
「明日だよ」
明日?まだ四分の一も終わっていないのに。万由子先生の忘れっぷりには参ってしまう。ぼくは思わず顔をしかめた。
「間に合うのかな」
草部の言葉に思わず笑ってしまう。
「そんなこと気にすんなって」
そうかな、と言われたのでそうだよ、と答えた。……とりあえず今日は教室に戻ろうかな。弁当も教室にあるし、授業にも出なければならない。
「じゃ、草部さん。また会えればいいね」
たぶん草部はちょっと疲れたから休んでいただけだろう。明日からはもう会うことはないんだ。もったいないような気もしたけれど、それでいいのかなと思った。


来室時間、六時間目。
体温、三十六度八分。
来室理由、さぼり。
……正直でよろしい。

「草部さん、めちゃくちゃ眠いよ」
ぼくは草部と一緒に昨日の作業の続きをしていた。保健室に一日中いたという草部がひとりで、四分の三くらいの冊子を修正していたらしい。ぼくはあの後、万由子先生がすべての作業をやってしまったとばかり思っていたから、まんまとワナにはまってしまったのだ。しかも肝心の先生はデスクでパソコンとにらめっこをしている。手伝ってくれよと心の中で懇願しながらぼくは眠い目をこすった。
「七時間目に間に合わなくなるよ」
「やばい、寝そう」
「フリスキーあげるから頑張ってよ」
「もう口の中は冷えきってるってば……」
ぼくはごちゃごちゃ言いつつも向かい側の草部に手を差し出す。草部は、いかにもハードなフリスキーが入っていそうな真っ黒いケースを二、三度振る。ころころ、とぼくの手に四つの小さなタブレットが落ちてきた。草部はぼくの手からそれを一粒取り上げ、口の中に放り込んだ。
「三つも食べたら口の中が死んじゃうだろ!」
作業を再開した草部はぼくの声を無視している。……いや聞いていない。仕方なく手のひらに乗ったその白い粒を口に含む。さわやかな甘みが広がったのはほんの数秒のことで、それはすぐに強烈な刺激に変わった。息を吸えばのどに氷をあてたような冷気。それでも眠気は覚めなかった。
一日中保健室にいたという草部を見ていると、ちょっと疲れただけだろうという昨日の考えが恥ずかしく思えた。ぼくの憶測は見事に外れたのだ。彼女は、心の底に無限に生き返る悩みを飼っていた。それでも彼女と再会したことはちょっとした奇跡だと思ったし、嬉しいなと思った。その一方で不謹慎だなとも思うのだけれど。
実のところぼくはまじめな人が苦手だ。他人の言うことに従順だったり本当のことをなかなか言わなかったりしている人を見ていると、もどかしさで苛立ちを覚えるのだ。反対におもしろいと思えるときもあるにはある。だけどそれはまれで、だいたいは顔をしかめることになるのだった。
だけど実際、ぼくはおもしろいと思っていた。草部のことを嫌いになれそうもなかった。普段のぼくならとっくに苛立っているころなのに、どうもおかしい。真面目さの他にひねくれが混じっているからかもしれないけれど、なんだか好感を持てたのだ。やっかいごとに巻き込まれているはずなのに平常心の自分がいた。
「ほら、手が止まってるよ」
草部が口をとがらせてそうしゃべるものだから思わず笑いそうになってしまう。冊子の残りはおよそ十分の一。ラストスパートだ。
「で、さっき言いかけてたことって何?」
言い訳代わりに話を逸らすと、やっぱり不機嫌そうな顔をして。顔は正直なんだな。
「忘れたよ」
「えー。思い出して」
「なんだったっけ」
今度は草部の手が止まる。その隙にぼくは作業に戻る。
「ところで七時間目は出席するの?」
しばらく無言でいた草部が話題を変えた。結局思い出せなかったらしい。
「するわけないじゃん」
ぼくの素早い回答にたじろぐ草部は見ていて気持ちがいいものだ。
「集会って一番楽だと思うんだけど」
行ってくればと言わないところがぼくのツボにはまった。
「人ごみの中でうずくまって、ケツが痛くなって、おまけにうるさいしゃべり声。はたしてこれが本当に楽だと思える?」
右上の方を見るように首をかしげる草部。んー、と考える声が漏れている。
「たしかにその通りかも。集会よりは自習の方が嬉しいかな私は」
「だろ。……ほら、手が止まってるよ」
あっ、と小さく声を出して草部は修正シールをはがす。その少し慌てた顔が何とも言えずおもしろかった。でも彼女がそこで二回目のあっ、を言ったからぼくはハッとしてしまった。
「最後の一冊だ!」
「やったな、草部さん」
「やりましたね、北原くん」
嬉しさのあまりふたりして不敵な笑みを浮かべた。
ぱらっ……。ぺりっ……。
ふたりして拍手を送る。拍手はとても大事なことだ。それが鳴りやむと草部はんーっと伸びをした。その仕草につられるように六時間目終了のチャイムが鳴った。
「終わった?」
万由子先の問いかけに声をそろえてはいと答える。
「お疲れさま。あとは先生が体育館で配るから、北原くんは先に行っててね」
「んー、何のことかな?」
「……もう!」
ぼくと草部と万由子先生とで冊子を段ボール箱に詰める。それが終わるとありがとねー、と言い残して先生はそのまま保健室を出ていってしまった。
がらがら、と閉まるドア。達成感があふれ出た。
「またふたりきりですね」
しんとした部屋の中で照れくさそうに笑いながら草部はぼくに話しかけた。そうだな、と相づちを打って彼女の顔をちらっと見る。ちょっとだけ照れているように見えた。恥ずかしい気持ちがうつってしまいそうだ。
「何照れてるんだよ」
「照れてない」
「あ、怒った」
「こんなところで話す相手がいると思わないでしょ」
僕はこのつんけんとした物言いが妙に気に入ってしまった。からかいがいがあって飽きないな、とも思った。これはいい人を見つけた。ぼくは嬉しくなってちょっとふわふわした。ははは、と声に出して笑うと、草部は不服そうに目を背けてしまった。
「ゴメンゴメン、遊びすぎたな。反省します」
ぼくはちょっとだけ反省してまた笑う。
「うそばっかりついてないで少しは真面目になったらどうなの」
はいはい、と聞き流してぼくは立ち上がった。何をするかは決まっていない。
「何する?」
特に思いつかないのでそこの彼女に聞いてみる。草部はうーんと考えて、左手をあごにあてた。ぼくのために考えていた。
「そうだ、昨日見ていたものを教えてよ」
おもむろに答えた草部は目を輝かせていて、まさに好奇心の顔だ。だけど、記憶にない。頭をフル回転させて思い出そうとするけれど、昨日見ていたものなんてたくさんあるから全くピンとこない。
「なんのことさ?」
「そこのベッドの奥の方――」
「ああサボテンのことか」
ようやく話がかみ合った。
「サボテン?」
草部の間抜けな声にぼくはうなずく。
「そう、サボテンだよ」
ぼくは、ベッドの奥にちょこんと置かれた小さな棚。ぼくはそこまで歩いていく。ちょうど備え付けのカーテンが草部の体を隠したから、なるほど、これじゃあ気になるわけだと思った。しばらくして、興味深そうにあとをつけてくる彼女の姿をとらえる。綺麗な立ち姿だった。「ほんとだ、サボテンだ」
「だろ」
それはいつもと同じようにそこにたたずんでいた。時計の秒針みたいな葉をまとってぼくたちに見つめられていた。握り拳ほどの胴体に月見団子のようなこぶがふたつ。いつ眺めてもサボテンはそのまま立っているのだ。
「植物が好きなの?」
ぼくが首を横に振ると草部はなぜか笑いだす。
「サボテンは長生きするんだよね」
そう言って彼女はゆっくりととげの先端に触れた。彼女の指にみどりとは対照的な赤茶色のそれが食い込む。指の腹がやわらかく沈みこむそのさまを見ていると、妙なエロティシズムがわいてきた。
「立派に防衛してる」
草部はなんだか嬉しそうだ。よくわからなかった。彼女がまた魅力的に感じる。悔しさと一緒にどきりとするような嬉しさが血中を巡っていた。
「百年以上生きているのもいるらしいよ」
「そこまできたら砂漠の賢者だな」
うん、と草部。彼らは一体何を思うのだろう。シャワーのような光を降り注ぐ星を眺めて雨を待っているのだろうか。そしてあまりにも暇になって静かに「死」を哲学しているのだろうか。なあ、草部さん。きみはどう思うんだ?
「来週って体育祭だよね」
草部がとげの先端をつつきながらそう言う。ぼくはサボテンになりたくなった。
「面倒だよな」
「うん」
万由子先生はまだ帰ってこない。けど今のところは帰ってこなくていいかな。楽しいから。
「一緒にさぼろうか?」
冗談のつもりでそう言うと、意外にも草部はうなずいた。早くもぼくに毒されたかと思うと、彼女の一部を征服したように感じられて、また少し、エロい気持ちになった。
「保健室が人気者になる日だからね。そんな時にここに居られない」
「そだな」
サボテンから目を離し、草部の方を向く。さすがの彼女も、もう照れたりはしない。
「何をするの?」
「なーんも。しいて言うなら考え事」
「どこで?」
確かに言われてみれば場所がない。全校生徒が動き回る中、静かでいられる場所なんてないんじゃないか?
「学校を抜け出そうか」
「だめでしょ」
真顔で否定されると、さすがのぼくも考え直さざるを得なくなる。まったく、さぼると言った割には臆病だな。これもまじめな性格の弊害なんだろうか。
「じゃあ屋上とか?人でいっぱいかな」
返事はなかった。草部はぼくに背を向けて窓のある机へ戻る。サボテンがそんな草部を観察していた。
「そうだね」
そんな声が聞こえたのはそれからしばらく経ってからのことだ。震えるような声がぼくの耳を刺激した。ぼくの心臓がどきりと反応する。早足で彼女の後をついていくと、顔を赤にして今にも泣きだしそうな草部がいた。
「ど、どうした?ぼく、なにか悪いこと……」
草部は首を横に振る。なんだかわからないけれど、ぼくは女の子を泣かせようとしている。そんなことは小学生のときに経験したっきりだった。どう扱えばいいんだ……。相手は女子高生。小さな小学生じゃない。ぼくは急いで保健室の常備品、ティッシュを手にとる。昨日はあんなに冷静だったくせに、慌てふためく自分に腹が立った。
「どうしたんだよ」
うろたえるぼくの目の前で、草部は笑顔で二、三粒の涙をこぼす。
「なんでもない」
「なんでもあるだろ」
彼女はなおも笑いながらぼくの手からティッシュを受け取り、洟をかんだ。
「大丈夫だから気にしないで」
「ならいいけど」
本当は気にしないでいるほうが難しかった。少なくとも、原因はぼくなのだから。でも気にするなと言われているんだからそうするよりほかはないだろう。
「私、サボテンになりたい」
「ばかなこというなよ」
「だって、サボテンは泣かないでしょ」
草部は薄い唇をとがらせるとやっぱり納得いかない顔をした。
サボテンになりたいだなんていい人だな。おもしろい、そう思うのは何度目だろうか。ぼくは草部のことがすっかり気に入ってしまったらしい。彼女のことを深く知りたいと思ったし、相容れない考えを共有したいとも思った。そんな思考が働いたのも彼女がくそまじめだからだし、からかいがいがあるからでもあるし、サボテンになりたがっているからに違いなかった。
「泣けるから人間がいいんだろ」
「そんなわけない」
またも不服そうな草部に笑顔を向ける。
「人間は賢者なんかじゃなくていいんだ」
「その考えが、もう嫌」
そうなんだよ、と念を押したところで彼女は納得しないだろう。
「涙は身体から出るものの中で一番きれいな物質だって話は有名だろ?」
うん、とうなずく草部。ぼくの胸が切なくなった。
「まあ、そういうこと」
「どういうこと?」
なんだか照れくさい。ぼくは鼻の頭を触って窓の方を見つめた。
ああ、二目ぼれだな。胸が切ないのが何を示しているかは、さすがにわかっている。そこまで鈍くはないし、そこまで慣れているわけでもない。惚れたもん負けという言葉があるのであれば、ぼくはもう負けてしまったことになる。でもま  あ、いいか。楽しいし。
「そういうことだよ」
首をかしげる草部に、ぼくは笑いかけた。万由子先生はまだ帰ってこない。

てるてる坊主、ふたつ

目を開けると青藍の空がカーテンのすきまからのぞいていた。時計は朝の四時半を指している。どうやら早く起きすぎたようだ。私はぐっと伸びをして布団から抜け出た。四時半か……。とりあえず、何かしらの行動をとりたい。すばやく身支度を済ませると、姿鏡の中に制服姿の自分が映った。目の下にうっすらとくまができているのがわかった。
昨夜はあまり眠れなかった。心臓の鼓動が強く感じられたし、コーヒーを飲んだかのように目が冴えていたのだ。それは今日が体育祭だからなんて理由では断じてなかった。時間を刻む時計の音を聞くたびに期待と心配で胸が高鳴る。私はもう一度、セーラー服姿の自分を見つめた。学校の規定に少しもはみ出さない、いつもの自分の格好を観察する。
……なんてつまらないんだ。彼はなぜ、こんなにもつまらない、冷たい人間に話しかけてくれたんだろう。私は学校に対する忠誠心を水のような何かで薄めたくなった。本物の冴えない私は、鏡に映る冴えない彼女をどう変えるかを想像してみた。リボンは短くしたくない。だってこっちの方が綺麗だから。カフスを外すのもちょっと見栄えが悪いかな。だらしなく見える。腕にミサンガをつけてもいいけど、あいにくそんなものは持っていない。まして、マニキュアなんか買ったことすらない。
私はちょっとドキドキしながらスカートのウェスト部分に触れた。今までこんなことはやったことがなかった。
私はくっと息を止めて、スカートを二回折り曲げた。
鏡に映る自分をもう一度観察する。でも何も変わらなかった。厳密に言うと、見た目は変わっている。けれど、これは私じゃない。そこにいるのは内側が何も変わらない『気取った私』だった。こんなの、冴えない私よりもっとつまらない。私はスカートを元の丈に戻す。泣きたくなるのをこらえ、ほおを軽く平手打ちした。北原くんの顔とサボテンが、一瞬だけ浮かんで消えた。こんなことを考えていた自分を情けなく思った。校則を破ることが怖いんじゃない。自分が自分じゃなくなるのが嫌だった。
私は勉強を少しして、そのあとお母さんが朝食を作るのを手伝った。そして普段より三十分早くに家を出た。お母さんは驚いていたけれど、今日は体育祭だから頑張ってくる、と言ったら何の疑いも持たずに送り出してくれた。ちょっと悪い気もしたけれど、内容が違うだけで頑張っていることには変わらないからいいのかなとも思った。
曇りだした空が、地上を明るい灰色にぬりかえている。自転車に乗りながら、私は物思いにふけった。
北原くんと最後に話してからちょうど一週間が経つ。その間、私は教室に行ったり保健室に戻ったりをくりかえしていたけど、彼と会うことは一度もなかった。だけど私は北原くんの存在とか喋った内容とかをちゃんと覚えていた。ふたりでサボテンを見つめたあの日、私は今まで感じたことのないくらいの期待に胸が膨らんでいたからだ。
あの後、私たちはどこでサボろうかという重大な会議を開いた。それで、第四特別教室でのんびりしようということで、話はまとまった。その教室と言うのは、保健室がにぎわっている時に使ういわば最後の隔離スペースのようなものだった。私は彼より一年長くこの学校にいるし、誰も使わないさびれた部屋があるというがわかっていた。屋上とか中庭とか、他にもいろんな案が出たけれど、結局そこが一番人通りも少ないということで決まったのだった。
面倒くさい人――。それが北原くんに対する私の第一印象だ。けれどいつの間にか私は、そんな北原くんの心にひきつけられていた。
北原くんは、今まで私が見てきた誰とも似ていなかった。おとなしくもないしうるさいわけでもない。真面目でもなく、不良でもなかった。だからと言って中間や普通ということでもないから不思議だ。それくらいに彼は難しかった。
彼は私のことを覚えているだろうか。私は昨夜、そのことが気がかりでうまく寝つけなかった。そのあとにつづくのが、きっと覚えていないんだろうな、という諦めの声なものだから余計悲しくなって眠れなかった。だってあれから一週間も経っているし、そのあいだに会うことだってなかったじゃない。諦めかけている私の心の声が、卑屈そうにつぶやくのだ。もし、できるのなら――。私は横断歩道の前でブレーキをかける。早く信号機の色が変わらないかと思いながら、心の奥底では違うことを考えていた。北原くんと本当の友達になりたい――。彼と話していて楽しかった。また会いたいと強く思っていた。もしかしたら私のことを誰よりもわかってくれるんじゃないかと期待もした。もしそうだったならどれだけ気が楽になることだろう。
それでも私は、そううまくいくはずがないことをわかっていた。
信号が青に変わる。私は自転車をこぎだした。灰色の街にさわやかな風が吹きこむと、私の心はますます跳ね上がった。
予想通り三十分早く学校に着いた私は、二階の職員室へ向かった。早朝の学校は静かでほっとする。すれ違う人もいないし大きな笑い声とかも聞こえないから過ごしやすかった。担任に保健室にいるということを伝え、その場をあとにする。そうしておかないと無断欠席扱いされてしまうかもしれないからだ。でなければ家に電話されるかも。せっかく登校しているからにはもったいないことはしたくない。ちょっとよこしまな考えが私を支配していた。
三階へ続く階段をあがりきった私は第四特別教室の前に立った。私とすれ違うのは気持ちいい空気と時間だけ。ドアの隙間からは薄明かりが漏れている。部屋の照明とは違う、自然の光だった。誰もいないかな、と思いながらもドアを三回ノックして中に入る。そのとたん、ふわっとした皐月の風が私の体を通り抜けた。
窓が開いている。
「おはよう」
窓際の一番後ろの席に、ほおづえをつく北原くんがいた。
あっ、と声を漏らした後でおはようと返すと、北原くんはにこっと笑みをこぼした。私は彼から机ひとつ離れた隣の席まで歩き、肩に下げたカバンを下ろす。その様子をじっくりと観察されて気恥ずかしくなった。口を真一文字に結んで私が椅子に座っても、ふうとため息をついても、ずーっと私のことを観察している。私は、彼の視線が気になってつい口を開いてしまった。
「なんでずっと私のことを見ているの? 」
北原くんは答えない。んー、とはぐらかして窓の方を向いてしまった。私がもう一度北原くん、と呼ぶと、彼は渋々と言った顔でもう一度こちらを向いた。
「草部さん」
口を開いてもすぐには答えが出ない。私は北原くんが何を考えているのか全く分からなかった。
「なんでしょう」
「大した理由じゃないんだけど、言わなきゃだめ?」
私がうん、とうなずくと、北原くんはほおづえをつくのをやめて急に真面目な顔になった。
「覚えていてくれたんだなって、それだけ」
私の背筋がピンと伸びる。まるで冷たくて気持ちのいい水が心臓から全身へめぐっていくようだった。こんなにうれしい気持ちになったのは久しぶりかもしれない。彼が私のことを覚えていてくれたことに喜びを覚えたし、自分と同じことを思っていたことに驚きもした。
「お互い様じゃん」
私がそう言うと、北原くんくんは自分の鼻を軽く触った。
「草部さん、何する?」
話題をそらすかのように彼は言う。私は窓の外に目をやった。そこには灰色の街があって、そこを歩く高校生があって、通勤する車があった。
「考え事をするんじゃなかったの?」
北原くんはうーん、とうなる。そして私と同じ向き――、窓の方向を向いて灰色の街を見つめはじめた。
「そのつもりだったけど、やめた」
そう言ってこちらを向いた北原くんはすごく嬉しそうな顔をしていた。私はそれ以上何も聞かず、静かに相づちを打った。
「じゃあ、何か話そうか」
「いいよ。話そう」
北原くんは私にむかって軽く笑いかけた。その様子があまりにも素直だったのでかわいいなと思ってしまった。実を言うと、彼が考え事をすると言った時は勉強を進めようと思っていた。私は考え事をするとすぐに不幸になりたがる癖がある。だから、なにか話そうと言ってくれてすごくうれしかったし、北原くんのことを理解しようと気合も入った。とは言ったものの、あまり男の子と話したことがない私はあたりさわりのない話題しか思いつかない。
「北原くんはさっきまで何してたの? 」
とっさに思いついたのは、これだけ。不幸になりたがるもう一人の自分がばーか、と私に毒づいた。
「待ってた」
北原くんは即答した。
「……いやいや、何をして待ってたのかを聞いたつもりだったんだけど」
「わかってるって。人の足音を聞きながら、草部さんを待ってました」
ひょっとして、人をおちょくるのが好きなのかな。そんなことを思った。
「足音なんか聞いて何かいいことがある?」
「いいことはないかな」
「……ふうん」
うーん。的外れだ。彼はちょっとひねくれているのかもしれない。
「そういえばさ、ドアを三回ノックするのってなんか意味があるの?」
今度は北原くんが質問する。
「特にないよ」
私も北原くんの真似をしてみる。一応意味はあったけど言えなかった。まさか変わったことをして変だなあって思って欲しかっただなんて。ねえ。
「ぼくも真似しようかな」
いいよ、真似なんてしなくても。どうせ不純な動機の行動なんだからさ。そんなことにも気づかないんだね。それでも北原くんはなんだかずっとニコニコしている。私といることがそんなに楽しいのだろうか。こんなにパッとしない私といるのが、本当に?
信じられない気持ちと、それに対抗するようなちょっとした快感が混ざり合う。
「万由子先生は、すぐにぼくか草部さんだってわかるようになるだろうね」
「そうだね」
それからしばらく無言が続いた。私は教室の外がだんだん騒がしくなっていくのを聞いていた。とりとめのない話をして盛り上がっている。そんなみんながちょっとうらやましかった。私もそんなふうに、楽しいときはそれ以外に何も考えないようにできればいいのに。曇り空はだんだんと青空に変わる。灰色の街も夢の街に変貌する。いいなあ。私はあくびをした。
北原くんは、何を思っているんだろうか。夢の街を眺めたり、何も書かれていない黒板を眺めたりして。私は彼といるだけでワクワクしていた。北原くんもそうだといいな。こんな私なんかでよければ――。妙な沈黙は私の頭に何やら怪しげな考えを生み出した。
「草部さんは頑張り屋? 」
そんな問いかけが飛んできたのは、いよいよ体育祭の開会式が始まる、という時だった。
たぶんそうだろうと思ってうなずくと、彼はそうなんだ、とだけ言ったからそこで話は途切れた。廊下からは人の気配は感じられない。きっとみんな校庭にいるんだろう。さぼっているという感覚がじわじわと押し寄せてドキドキしてきた。はあーっと息を吐くと少しだけ落ちついて、またしばらくすると心が弾んで、それの繰り返しだった。
「緊張してるの?」
北原くんがそんな私にひと声かける。
「さあね」
私はそう言った。
「じゃあ落ち着けるような話を探しに行こうか」
と、北原くん。
「肯定なんてした覚えはないんだけれど」
北原くんはそういうところは鋭いのか。それとも強引なだけなのか。
とにかく、こうして私たちは落ち着く話を探し始めた。昼よりは夜の方が落ち着く、という話から始まり、月の話、ウサギの話、そしていつの間にかてるてる坊主の話になっていた。一体どうやったらそうなるのだろうか。自分でもそう思う。思うけど、なったのだ。
北原くんの話は笑いを誘うというよりは哲学的な内容だった。私は考えすぎるだけで、本質的には重い話も嫌いではなかった。だからおもしろがってそれらの話を聞いていた。たとえば、こうだ。
「ウサギと言えば、小学校で鶏と一緒に飼ってなかった?」
「あー、あったね」
「ぼくたちはウサギに無関心でさ。でもきっとウサギだってぼくたちなんかに関心はないんだよな――」
こんな話しぶりだったらいずれはてるてる坊主の話になるのもうなずけた。
「てるてる坊主を逆さにすると雨が降るって言うよ」
と私は言う。
「うん。ふれふれ坊主とか、るてるて坊主とか、言うらしい」
北原くんも乗ってくる。
「あれ、晴れてから顔を書いてあげるんだよ。知ってた?」
私はお母さんから教わったことを得意げに話してみせた。少し気取った口調になって、自分で笑ってしまった。
「それは知らないな。でもアイツ全然仕事しないよな」
ぼくが作って晴れたためしがない、と笑う北原くんがやっぱりかわいく見えてしまう。
「念が足りなかったんじゃない?」
両手を目の前にかざして超能力を使うふりをすると、彼はおー、と小さく声を上げた。
「それだな。ぼくそういうの信じてないから」
意外と現実主義なんだ。私はふうん、と言って口をとがらせる。
「信じないのに作ったんだ?」
「だって作らなきゃ怒られる時だってあるだろ。幼稚園とかさ」
遠い目をする北原くん。私も真似して遠くを見た。運動会の前日にお母さんと一緒にてるてる坊主を作ったことを眺めるように思い出す。小学校時代の私は、お母さんが縫い合わせたガーゼにワタをつめていた。きっと北原くんもそんな『時』を眺めているんだろう。
「小さいころなんてなーんも考えてなかったよな」
そうだね、と言いかけてふっ、と間違っているんじゃないかという念にかられた。北原くんが何にも考えていないところを想像できなかったからだ。彼の顔をそっと眺めると、穏やかそうな顔で『時』を見つめていた。一週間前と同じ、愁いのこもったまなざし。まだまだ幼さの残る、鼻から口までのラインには、哲学者の風格のようなものがあった。
「今考えれば小さいことを考えていたんだよ。きっと」
「よし、今からてるてる坊主を作りましょう」
気付くとそんなことを口走っていた。
「えっ」
北原くんが私の方に顔を向ける。驚きと、少しのきらめきが瞳に表れていた。
「えっ、て何。てるてる坊主」
「そんなこと知ってるよ」
ほっぺたをムッとさせる北原くんは、本当に可愛い。決して美形だとか器量が特段良いとか、そんなことではない。そうなんだけれど。
「明日の予報はね、なんと雨なんです。本当に当たらないのか試してみない?」
「ぼくは……」
顔をしかめるこの少年は、一体何を考えているのだろう。そうやってひとりつかみどころのない思考をめぐらしている彼がちょっとだけ素敵に思えた。
「良いよ。ぼくの方が正しいって、証明してみせる」
ニヤッといたずらっぽく笑った北原くんの顔が私の目に映り込む。良いぞ、良いぞ。
わいわいがやがや、特別教室の外はお祭り騒ぎ。どうやら昼休みのようだ。廊下も隣の教室も騒がしくなっていた。扉の窓ガラスから教室の外を見つめる。廊下を走る生徒たちは、髪を巻いてお洒落をしていたり、誰かを追いかけまわしたり、二リットル入りのサイダーを持ち歩いたりしていた。熱に浮かされているなあと思った。
草部さーんという北原くんの呼び声にハッとする。
「ぼくティッシュも何も持ってないんだけれど、何で作るの」
「ティッシュなんてもので作るから叶うものも叶わなくなるんだよ」
「ふーん、そんなものかなあ」
「ちなみに家庭科室は先生が鍵を持っているから使えないよ」
よく知ってるね、という北原くんの言葉を受け流して、私は考えた。
確かに材料がない。一応裁縫道具ならあるんだけれど、と呟くと、北原くんは不思議そうな顔をした。眉間にしわを寄せて考え込む私に、不思議そうな顔をする北原くん。二人の間に妙な時間が流れていた。
ふと、悪い考えが頭をよぎる。私は、北原くんに染められてしまったのだろう。ふふ、と思わず声が漏れる。心臓はスタッカートを刻み、血液は軽快に流れていた。
「北原くん、今日はもっともっとサボろうか」
一瞬キョトンとした北原くんの顔が、徐々にキラキラした笑顔に変わる。
やっぱり可愛いなあ。なんとなくそんな気持ちが心に居座っていた。
皐月の風は私に若草のにおいを運んできた。
学校でお昼ご飯を食べ終えた私たちは、こっそりと学校を抜け出した。これで不良の仲間入りである、なんて思いながら大きな手芸屋のある大通り行きのバスに乗り込む。程なくして緑色のボディのバスはやってきた。案の定車内は空いていて、私たちは二人して一番後ろの席に座った。いろんなものが混じり合ってどきどきするのが止まらなかった。非日常の緊張で縮こまるようにバッグを膝の上に置くと同時にドアの閉まる警告音がビー、と鳴る。バスがぶろろろん、と言う轟音を立てて発車した。
「不思議だと思わない?」
私は変わる風景を眺めながら、北原くんに問いかけた。
「何が?」
隣で北原くんは問い返した。
「お互いなんだかよくわからない人と一緒に学校をサボっているのが」
「そうだね」
にっと笑う北原くん。どうやら私はすっかり北原くんに惚れてしまったようだ。
きっと明日は晴れるんだろうな。私は妙な確信を心に抱いた。

るてるて坊主

パーン、と吹奏楽部の部室からロングトーンの響きが聞こえてくる。そのユニゾンが耳を通り抜ける度に私の心はかき乱された。北原くんはそんな音の塊を聞き流してすやすや眠っている。いいなあ、と思った。北原くんの伏せた頭のそばには紺色の筆入れが置いてある。開いた筆入れの口からのぞいている筆記用具のチョイスはシンプルで、製図用のシャープペンシルだとか、消しかすが出にくい消しゴムだとか、太めのボディで装飾のほとんどない三色ボールペンだとか、そんな風だった。
夏の蒸し暑い風が通り抜ける放課後の保健室。今日は最後の時間のホームルームだけこっそり抜け出してきた。だけど万由子先生はその一時間中ずっと保健室にはいなくて、代わりにねむりこける北原くんがいたのだ。長袖のワイシャツを七部丈くらいにまくって、まだ成長途中の白い腕が肘のあたりまで見えている。北原くんは特別色白というわけではない。けれど部活もしていないようだったし、この白いのはただ単に日焼けしていないだけなんだろう。私は彼を起こさないように静かに席に座る。そして北原くんの足元に置かれている通学カバンに目を向けた。濃いめのウォームグレイのカバンだ。フロントポケットにはキーチェーンに繋がれた定期券が入っている。その隣にぶら下がっているのは、紛れもなくあの時作ったてるてる坊主だった。私はそれを見る度に体育祭のことをうっすらと思い出す。あの日の妙な確信は奇跡的に当たった。次の日、雨は降らずむしろ気持ちがいいほどの快晴になったのだ。そして北原くんは保健室に来るなり罰が悪そうに苦笑いして、「それでもやっぱり信じてないから」と言った。私は信じる信じないなんてその時にはどうでもよくて、その時にちらっとこのてるてる坊主がカバンにぶら下がっているだけでよかった。
私は英語の教科書の訳文を考えながら、うまい表現を解き明かすべく頭を動かす。パーン、今度は調和のとれたカデンツが私の心をかき乱した。
「草部さん、おはよう」
そんな北原くんの声が聞こえたのは時計の針が、かちっと五時を指した時だった。
「寝すぎ」
私はノートから目を離さずにそう答える。それでもちょっとだけわくわくした。
「会うの久しぶりじゃない?」
北原くんはそう言った。
「そうだね、二週間ぶりかな」
私がそう嘘をつくと、へえ、と嬉しそうな声がした。
「数えてるの? わざわざ? 」
「そんなわけないじゃん。適当だよ」
「そう……なんか、久しぶりっていいね。昨日ぶりだけどさ」
そういうと北原くんはにこにこしながら私の方を向く。そうかな、私は一緒にいて楽しい人となら毎日でも会いたいと思うけどな。
「いつ帰るの?」
北原くんはあくびをひとつした後でそう言った。北原くんがいることがすごく幸せでいつ帰るかなんて考えていなかったから、ちょっと戸惑った。まだまだ日が陰ることの知らない真夏の夕時。熱のこもった風がじっとりとした汗を乾かした。そうか、これはイヴニングなんだなあ、と思った。
「北原くんは?」
そう問い返すと、んーと言いながら北原くんは鼻のてっぺんを触った。
「明日は学校にずっといるから、眠気が覚めたら帰ろうかな」
ふーん、と声に出した後であれ、と思った。そういえば明日は何かがあったような……。
「一年生は野球応援があるんじゃないの」
はあー、と深いため息が向かい側から聞こえる。いかにも嫌そうだ。
「行かない」
ムッとした顔で私を見てたところで何にもならないのにな、と思う。
「行ってきなよ。他の学校に可愛い子がいるかもよ」
「行かないったら行かない。面倒くさい」
ぼそぼそとしゃべってはいるが、内容は駄駄をこねる子供のそれと同じだ。
「友達、宗一くんだっけ。一緒にそのあたりをぶらぶらするだけでもいいじゃん」
これにはうーん、と悩んだようだったが、やっぱり不服そうだった。
「そもそもさ、なんでサボり癖がついたの?」
こんなに楽しそうなのにさ、と付け足すと、北原くんはサッと真面目な顔になった。私はそれが触れてはいけないものだったと気づき、何かひやりとした恐ろしさを感じた。
「そうだなあ、まがまがしいぼくの一面、聞きたい?」
そうだよね。私と同じように北原くんにだって言いたくないこと、見せたくないことくらいあるよね。汗の蒸発とは違った涼しさがからだの末端を冷やした。
私が聞きたくない、と答えると、それは残念だなあなんて言ってすぐにいつもの調子に戻ってしまった。私は、そういうところが北原くんらしいなあと思いながら筆記具を机に放り投げ、頬杖をついた。そうして窓の外をぼーっと見つめていた。しん、と保健室の中が静まり返る。風が、気持ち悪いくらいに大きな音に感じられた。
シドレミファソラシドシラソファミレドシー。トランペットが突き抜けるようにパリッとした音を響かせた。
北原くんはぼーっと窓の外を眺めている。私もつられてぼーっとする。彼の幼さの残る顔に見とれながら。私はあまのじゃくだと思った。こんなに好きなのに、ぶっきらぼうにしか言葉を返せない。普段の私は人と話すことも少ないし、嫌われないように話すのが精一杯だった。でも北原くんに限っては違う。なんだか素直になれないのだ。多分今までだって自分に素直でいられたことなんてなかったかもしれない。だからそんな風になってしまうのも当然だと思った。でも、これでは困る。だからお前はだめなんだ、ともう一人の私がすかさず自身を攻撃した。
夏の日差しが目に刺さったのか、北原くんはまた私の方を向いた。私はとっさに北原くんから目をそらした。目の端で北原くんを盗み見ると、夏の暑さに汗をかいて顔が若干ほてっていた。
北原くん。私は聞こえるか聞こえないかのぎりぎりで彼を呼んだ。北原くんはなに、と言いたげな目で私を見つめた。そうされるともう私は冷静になれなくて、不機嫌そうに唇を尖らせてしまう。
「まだ帰らないでね」
私は、それはもう小さな声でそう言った。いつもより真面目にしゃべってしまって、なんだかさっきの台詞が特別な言葉になってしまったような気がした。あわてて「予定があるなら別だけど」と付け足したけれどそれでも特別感が拭えなくて、恥ずかしくなってしまった。
「さみしいの? 」
「そうじゃないけどさ」
「じゃあ、ぼくといるのが楽しいんだね。嬉しいよ」
私が黙っていると北原くんはハハハと冗談交じりに笑った。正直、ひとりになるのはさみしかったし一緒にいるのが楽しかったけど、それを口に出してしまうのがたまらなく恥ずかしくて、自分じゃない別の何かになってしまうような気がした。
「草部さんはえーって思うかもしれないけどねえ、少なくともぼくは草部さんといると楽しいよ」
北原くんは飄々とそんなことを言う。よくそんなふうに言えるなあ。いいなあ。自分の気持ちひとつ伝えられないなんて私はだめだなあ……。
「あーあ。明日雨が降れば良いのに」
北原くんはそう言った。
てるてる坊主を逆さにすれば雨が降るかもよ、という私の言葉にそうかあ、と北原くん。
「ほら、体育祭のときだって晴れたじゃん」
「それは偶然だろ」
北原くんが苦笑いしながらそう言うのを、確かに偶然だろう、と思いながら聞き流した。ああ、それでも雨が降ってほしいな。そうすれば明日も北原くんに会えるのに。
「偶然かどうか確かめてみれば良いじゃない? 」
そんな私の言葉に北原くんは口元を緩めてへへ、と笑う。その後で彼はよっこいしょとかがんで自分の通学カバンに手を伸ばす。真っ黒な男っぽいカバン。そこには不似合いな可愛らしいてるてる坊主だけがぶら下がっていた。その様子を眺めている私に不意打ちのように妙に冷たいそよ風が吹いて私の髪の毛を踊らせた。涼しいな、そう思い外に目を向けると、いつのまにか深いグレイの雲がかかっていた。ゴロゴロ、と雷神の唸るような音が、遠くから聞こえてくる。夕立だ。
「草部さん、あのさ」
頭を上げた北原くんは私を呼ぶ。「何」と一言声をかけ、再び北原くんの方を向くと彼は青い顔をしていた。
「もし……だよ。もし、これに本当に何か得体の知れない力があったら、どうしよう」
そう言って北原くんは自分の右手を私に差し出した。てるてる坊主の裾をつまんでいて、文字どおり「るてるて坊主」になっていた。
「何言ってるの、偶然でしょ」
私は思わずふふ、と笑って再び吹いてきた冷たい風に顔を向けた。この雨が明日中続きますようにと願いながら。



***
「悟ー」
大声で宗一がぼくを呼ぶ。ぼくは、なんだよ、ともごもごしながら机に伏せた顔を上げる。あくびをひとつした後で目の前にピントを合わせると、モヤモヤの中に宗一のふざけたような笑顔が現れた。中学校の頃からの友人の彼は、昔も今もバスケ部で頑張っているやつだった。とにかく明るくて、声が大きくて、身長が高かった。
「甲子園野球地区大会はまだまだ始まったばかりではありますが! 」
「却下」
「オッケー、さあ立てゲーセン行くぞ」
遊びたがりの宗一は、いつもこうだ。
「だから聞こえないのか、却下だって。だいたい今日は雨だしやる気でないし」
今日は野球応援のはずだった日だ。昨日の夕暮れから雨は降り続き、今日の下校時刻になっても土砂降りが続いている。野球の試合が翌日に延期になったのは紛れもなく、あのるてるて坊主のせいだった。
「おれは行かないからな」
ぼくはむっすりとする宗一を睨みそう言う。宗一も負けじとぼくを睨み返す。しばらくの沈黙があったが宗一は一言も口に出さず無言の圧力をかけていた。
「……わかったよ」
「おーし、じゃあ校門で待ってるからな」
明るく濁りのない声が鼓膜を揺らした。机の上の筆記用具は散らかっていた。ぼーっとしながらそれを片付け始めると、ばらばらばら……、大粒の雨が教室のベランダに落ちていく。意識をさらに音へと伸ばしていく。雨が雨どいからつたってくる音、アスファルトに打ちつけられる音、自動車のタイヤがしぶきを撒き散らす音が聞こえた。ジャバジャバ、ザバザバ、プシャー……。そんな音に気を取られて、ぼくは机のものを床に落としてしまう。ぼくは一瞬注目の的になる。開け放した窓から強い風が吹く。それがいつもより肌寒く感じた。ぼくが乗り気でなかったのは、この雨を独り占めしたかったからに他ならなかった。
もたもたしていたにも関わらず宗一には遅かったなと言われただけだった。傘をさし、ちょうどやってきた満員のバスに乗ると、ジメジメとした湿気と雨のにおいがぼくらを襲った。不快感を覚えながらも、混みあったバスはぷしゅー、と発車する。そしていつものようにぶろろろろ、とエンジン音を鳴らしながらスピードを早めた。
混み合うバスの中に座る席なんてひとつもなかったけれど、できるだけ広い場所を求めてぼくは後ろを振り返った。
すると目の前に保健室で見慣れたあの草部の姿があった。
彼女はもみくちゃにされながらもなんとかつり革につかまって立っていた。と、バスが急ブレーキをかける。前にいた宗一に右足を思いっきり踏まれ、その拍子にぼくは草部に寄りかかってしまった。
「北原くん? 」
ぼくは気まずくて、うんともすんとも言えなかった。好きな人に体重の半分くらいをかけてしまった。宗一のいる所で草部に会いたくなかった。やっとの思いで細い声でごめん、とだけ言った。そしてそう口にした次の瞬間、さっきまでの気まずさは消え、代わりに草部が今までになく近くにいることで頭がいっぱいになった。
草部が隣にいる。ぼくの手の届く距離に。触ろうと思えばどこだって触ることができてしまうのだ。もちろんそんなことは絶対にしないけれど、とにかくそんな考えがふっと生まれた。
「悟ー、今やってるゲームがさ――」
頭上で声がした。宗一だった。
「って感じで新しい機種に変わったんだよ。入っている曲もめちゃくちゃ増えてさ……」
仕方なく声の主の方を向く。それでもぼくは彼の話を聞いちゃいなくて、後ろに耳を向けていた。草部の話し声が聞こえたからだ。どうやら友人と一緒らしい。言葉遣いもぼくに対してとあまり変わらなくて、裏表がないのかな、なんて思った。
前後の話はわからなかったが、「真紀」と呼ばれていた。
そうか、名前は真紀っていうんだ。草部真紀。真紀さんか。なんだかかわいいなあと思った。
「おい、聞いてるか? 」
どれだけの時間が経ったろうか。宗一が右足を軽く蹴ったことでぼくは我に返った。
「蹴るなって。眠かっただけだ」
「降りるぞ」
彼に言われるがまま、ぼくはバスをのそのそと降りた。けれどぼくはまだ若干上の空で、「真紀」という響きの可愛らしさに圧倒されていた。正常な人ならばただの名前としか認識しないであろうその言葉に、ぼくは魅入られていた。全くもって愚かだなあと思いつつ、いつかぼく自身の口から「真紀さん」と呼べる日が来てほしいと願った。
傘をさすまでのわずかなときを逃すまいと大粒の雨がぼくたちの制服を濡らす。ざあざあと天からこぼれ落ちるのは昨日から止まない魔法の雨だった。ぼくと草部が作ったてるてる坊主がかけた魔法だ。
「雨、止まないな」
ぼくが誰にいうともなくそう呟くと、宗一はケラケラと笑いだす。
「この雨が降ったから俺たち堂々とサボれるんだぜ」
その通りだった。けれどぼくたちは残念ながら宗一のために魔法をかけたわけじゃないから、変な話だなあと思わずにはいられなかった。
しばらく他愛もない話で間をつなぐぼくらだったけれどそれもつかの間、すぐに目的地に到着した。ぼくらはしばらく馬鹿みたいに遊んで、擬似的な獣になって、爆音の森の中に逃げ込んだ。
時を知らせる砂の量はいつの間にやら増えていく。
宗一の携帯の通知もいつの間にやら増えていたようだった。ひとしきり遊んだ後携帯を見た宗一の顔はなんとなく引きつっているように見えた。
「おー、彼女?」
ぼくが冷やかしと冗談交じりに問うと、宗一は「やべえ、すっかり忘れてた」と焦りだした。その一言で全てを察したぼくは、やっちまったなーと茶化した。
「彼女との約束くらい覚えろって」
青ざめるくらい大切な用事ならなおさらだ。
「俺は天才だから大丈夫」
宗一の携帯を打つ指がせわしなく動く。ああ、こいつは本当に馬鹿の天才だな。自分にはなくて彼にあるものがとても眩しくて、それなのにこいつときたら気づいていなくてぼくは目を細めた。
「わり、先行くわ」
宗一が慌ただしくと店内から出る頃には、ぼくの獣の仮面は剥がれていた。
ぼくは大きく伸びをしながらゲームセンターを後にした。思った以上の夜が街を覆っていた。
宗一の大きな背中はすでに見えず、代わりに見知らぬ人の群れが大通りを占領していた。
じっとりとした空気の中でゆらゆらうごめく傘の群れも、通り過ぎる車から跳ね上がるしぶきも、街灯や信号機の乱反射する光も、何もかもからネズミ色を感じられる。ぼくもそのネズミの一匹にすぎなくて、ぼくの歩む先の方にいる図体の大きな友人だけが、大空を舞う鷲のように見えるのだ。いつかヒエラルキーの頂点にいる彼に捕食されてしまうのではないか。そんな恐怖と嫉妬心がぼくの芯の部分を黒くどろどろに溶かしていく。
ぼくはただの凡人だ。
バシャバシャとしぶきをあげる車。このまま町が沈んでしまうんじゃないかと思った。

好きになるって

ああ、今日の私は浮かれている。
雨の田舎道をのろのろと歩きながら、私は幸せを噛みしめた。さあさあと降り続く雨。人通りの少ない住宅地を足取り軽く早歩きで進む。傘をくるり、しぶきはローファーに跳ねる。薄暗い雲の隙間から太陽の光がうっすらと漏れていた。ああ、こんなに浮かれちゃって。私ってばばかねえ。
そんな風にもうひとりの自分は毒づく。私はそれでも楽しかった。
ばかなことくらい自分でわかっている。それでもどうしても、この気持ちがふわふわするのは大切にしたかった。北原くんの重みをずっと覚えておきたかった。もうばかで愚かで情けないくらいに彼のことが好きになっていた。私なんかが……、そう思ったところでどうやったってこの気持ちに嘘をつくことができなかった。
昨日の「るてるて坊主」がこの優しいスタッカートの雨を降らせて、きっと偶然だろうけど、浮かれ気分な私の色眼鏡にいつもの風景は水彩絵の具の絵画ように淡く幻想的に見えていた。
きっと、これが人に心奪われるということなのだろう。
田舎の住宅街は相変わらず雨降りで、でも私は北原くんのかけた魔法に惑わされて、いい気分だった。
悟っていうんだ。悟。いい名前だ、と思った。悟くん。声に出して彼のことを呼んでみる。そうしたら胸の奥の方がむずがゆくなって体がほんのり火照ってしまった。
ああ、早く帰らなきゃ。

次の日。昨日の雨は晴れ、夏にしてはひやりと涼しい風が吹いていた。学校に入るなり金管楽器のパリッとした音が校内中に響いていて、やっぱり今は夏なんだなあとなった。
「おはよう。真紀。今日は顔色いいね」
私が登校するなりそんな声をかけられる。こんなことを言われたのはいつにも増して機嫌がいいからだろうか。私に声をかけたのはこの場所で私にとって唯一心許せる友人のみどり。彼女は何かと私のことを気にかけてくれる。
「あ、やっぱり顔色がいいように見える?」
冗談めかしてそう言うと、みどりは静かに笑った。
「だってこんなに楽しそうな真紀、二年ぶりくらいだよ」
そう言った後で二年は言い過ぎか、ちゃんと数えたら二年と二ヶ月かもしれない。と真顔になる。冗談の質が個性的なのが彼女の特徴だった。
「なになに、どういうことがあったのよ」
どうやら私がぼうっとしている様子にみどりの好奇心が刺激されたようで、それで私はちょっと困ってしまった。いくら親友とはいえ、自分の盲目的な恋についてを話す気にはなれなかった。
「みどりには興味ない話だと思うよ」
私はそれとなくその話題をかわす。みどりはうーむ、と首をかしげる。
「興味があるかないかはわたしが決めるから」
今度はわたしがうむむとなる番だった。こういう風に私の秘められた感情を吐露するのがどうにも恥ずかしいのだ。そもそもみどりは北原くんなんて人を知らないだろう。同級生や他クラスの生徒、部活の仲間ならいざ知らず、まさか保健室でたまたま出会った下級生の生意気な男の子に恋をしてしまったなんて。そうしている間にも北原くんの顔を思い浮かべるとどうやったってほっぺたが上がってしまって楽しくなってしまうのだ。隠そうとしても隠しきれなくて、とっても恥ずかしい。私の恋愛疾患は重篤だ。
「真紀ったらにんまりしちゃって。すごく気になる」
こんなにためらってはいるけれど、まさかこんな話題を友達にしようとする時が来るなんて思わなくて、ちょっと嬉しかった。だから私は深呼吸をした。ことの一部を話すことにしたのだ。
「……みどりは何か、それか誰か、この際なんでもいいんだけど、そのたったひとつに心奪われたことはある?」
みどりは目をパチパチさせた後で、んー、と考え始めた。しばらく待っていると、へへへ、と笑ってまた真顔になった。
「心奪われたもの、なんだろう。わたしは……ああ、そうだなあ」
みどりはちょっとだけ苦しんだ後でパッと顔を輝かせた。
「空、かな」
みどりはそう言うと涼しい風の吹き込む窓に目を向けた。同じように私も空に目を向ける。相変わらずの鮮やかなブルーは少しミルクがかっているようにも見えた。
「空?」
「そう。知ってる? 空の色はね、この一瞬その時だけ。二度と同じ色にはならないんだよ」
そう言ってみどりはちょっとだけ悲しそうな顔をした。
「この空に心奪われた……」
「そう。演劇部で照明を担当していたとき、先輩からそう教わったんだ。それから毎日、部活に行く前に空を見上げるようになった。今日の空はどんな顔かな、って。そうしたらいつの間にか……そうだなあ、こう言う表現がうまいかはわからないけど、惚れてたね」
そうなんだ、とすぐに言うわけにはいかなかった。なんだかとっても重大なことを打ち明けてくれた気がして、しばらくの間その言葉たちを頭の中で繰り返しては味わって、彼女の言ったことの全てを理解しようと思った。
「真紀がそんなことをいつ聞くのかなって楽しみにしてた。その時はこの話をしようと思っていたんだ。……きっと真紀の大切なものが見つかったんだね」
「……うん」
「その心奪われたものっていうのは真紀にとってかけがえのないものなんだよね」
「うん」
みどりがこんなに真剣に聞いてくれてすごく嬉しかった。
「こんな私でも、人って好きになれるんだね」
へへへと笑ったみどりの後ろにミルキーブルーの空。お似合いだな、と思った。その混じり気のない一目惚れの中に始業のチャイム音が吸い込まれていった。

放課後、私は保健室へと向かった。校内はまだまだ賑やかで、興奮に渦巻いていた。どうやら今日の甲子園野球地区大会で逆転ホームランを決めた我が母校がベスト4に入ったらしい。「いつでも惜しい野球部」と名高かった野球部は、今度こそ甲子園の土を踏もうと今年も懸命にプレーをしていた。北原くんは面倒臭がっているけれど、私は彼と野球部員とどちらの気持ちもわかったから、なんだか宙ぶらりんな感覚に陥った。北原くんと出会う前のことを思い出しながら、私はきっとなりそこないなんだなあと平静な心でそう思った。
保健室には真由子先生以外はいなくて、「失礼します」と挨拶をした後しばらくのんびりと古典の勉強をした。北原くんのノック音が聞こえるのを待ちながら、私は平安時代の言い回しに頭をぐるぐるとさせていた。
趣の世界に踏み入れた私は、華やかな都を思い浮かべながら物語の想像を巡らす。古文の物語には突拍子もないものが多いと感じる。けれども出来事と出来事の間を考えるのが私は好きだった。
こんこん、こん。今日出された課題があらかた終わった時だった。保健室の扉が三回ノックされた。
「失礼しまーす」
扉を開ける音にかき消されそうな北原くんの声。開いた扉から、ちらりと表情を確認する。彼の疲れた顔が目に映った。今日の日照りで鼻筋と頰が赤く火照っている。北原くんは保健室に入るなり彼の定位置、テーブルを挟んだ私の向かい側にどっかと座り込んだ。そうして大きくため息をつく。そのあとはテーブルに突っ伏しながら言語化変換することの難しいモヤモヤした感情を「あー」とか「んー」とかで表していた。
「お疲れさま」
しばらくして北原くんの顔が見えると私は笑顔で声をかけた。
「明日は草部さんの番だから行けなくなるように暗示をかけてやる」
眉間にしわを寄せて北原くんはそう言う。
「てるてる坊主は?」
「あれは偶然だよ、僕はやっぱり信じない」
「昨日はあんなに青ざめていたのに」
私がそう言うと、北原くんの眉間のしわはますます深くなっていく。
「あれは違うんだって」
北原くんはばつが悪そうにそう言うと、うーんと伸びをした。疲れた顔がくしゃっとつぶれ、まくったシャツの袖がぎゅっと引きのばされた。
「ぼくの顔、赤くない? 」
「赤い」
「やっぱりか、風呂の時は痛いだろうな……」
「あー……」と、再び言語化できない疲れを吐き出した北原くん。私ももう一度「お疲れさま」と言い、終わった課題をカバンにしまい始めた。
「えっ、帰るの? 」
 驚いたような北原くんの声に、私はドキッとした。
「帰らないよ」
 私の声はほんの少し赤みを帯びているようだった。私の返事を聞いて「よかった」という彼の返しはさっきの「あー」より少しあたたかかった。
 かわいい女の子はいた?
 いたよ。
 ふーん。
 でもそんなことよりぼくは涼みたかったよ……。
 こんな調子からしばらくいつものぐだぐだとした会話が続いた。そんなことが続いた後で北原くんはうーんとうなりながら切り出す。
「ぼくさあ」
「うん」
「こんなこと言っていいのかわからないんだけどさ、むかつくんだよ」
険しい顔で北原くんはそう言った。
「……どうして? 」
私は北原くんの口からそんな言葉が出てきたのに驚いてしまって、言葉に詰まってしまった。
「イライラするんだよ、今日みたいなことをしてると」
北原くんの声音が、語気が、だんだん乱暴になっていく。
「なんであんなに頑張るの。わからない。そういうのをなんで応援しなきゃならないんだよ。楽しいのかな。ぼくの楽しいって感覚はマヒしているんだろうか。人のことを応援したいっていう、そんな気持ちにならないぼくはおかしいんだろうか。どうやっても自分は本気になれなくて、今日みたいなことじゃなくても、例えば全く別の何かをしていたってふっとした時に『何でこんなことしているんだろう』って思っちゃうんだよな」
「……そっか」
「そりゃ、ぼくだってたまには何とかしたいって思うよ。みんなみたいな……たぶん努力ってやつをしたいって思うんだけど、残念なことにぼくには何の興味も取り柄もない。今までやってきたことといえば……なんだろうな。うん、こんな風に思いつかないんだ。何もない。あー、いったいぼくって何なんだろうな」
北原くんが自分の気持ちをこんな風にしゃべっているのを見たことがなかったので、私は心底驚いてしまった。
「どうしたのいきなり」
「なんだろうなあ、ほんと。ぼくにもわかんないや。とにかく今日はすごく疲れたからそのせいかな。ごめんね」
北原くんは、へへ、と笑った。その笑い顔には無理に作ったような悲しさがにじんでいた。
「草部さんはどう思う? 」
「私? 」
私はどうしようかと迷った。私の中の壊れそうなところ、ずるいところ、卑屈なところ。それらは心のずっと内側のほうに鍵をかけて押し込めていた。一度それを外してしまったら、もうどうしようもならなくなってしまうのが怖かった。だから北原くんに預けるにはそんな感情は重すぎるように思えてならなかった。
「私は――」
「うん」
「北原くんみたいになれたらなあって……たまに思う。」
ああ、私は何をいっているんだろう。わかってもらえるはずなんてないのに。
「ならないほうがいいよ」
北原くんは感情の読めない声でそう言った。それでも私は話し続ける。
「私がなんで保健室に来るようになったかって、教室にいると涙が出てくるからなんだよ。元々自分に自信がないから無理やり他人に身を預けちゃう癖があってさ、しまいには『ダメなのは私』っていう呪いを自分自身にかけちゃうんだ」
私がそう話し終える。なんだか北原くんの顔に霞がかかっているような気がした。北原くんの口がゆっくり開かれる。
「たぶんぼく以外の人も思うことだろうけど、初めて話したときから思っていたこと言っていい? 」
北原くんは私と目を合わせてにっと笑う。北原くんのことをぼーっと眺めていた私はバッチリと彼と目が合ってしまった。突然の出来事に心臓が激しく動き出す。
「草部さんってまじめだよね」
「え、あー……。うん、そうね」
つっかえそうになる言葉を無理やり押し出してそう肯定する。てのひらには変な汗がにじんでいた。
「ぼくは草部さんみたいになりたかったな」
 こんなふうな北原くんも許せるんだ、好きなんだな。私は彼のいたずらっぽい笑みに安堵のため息で返した。
「ならないほうがいいよ」

弱気になる

数日後。私は小雨のぱらつく野球場で青春の現場を眺めていた。じめっとする場内には大勢の観客と生徒たち。グラウンドに飛び回る選手たちの声や観客の声。なるほど、これが北原くんが『むかついた』光景なのだなとひそかに感じた。隣にいるみどりは楽しそうにはしゃいで応援している。私はというと相変わらずこのグラウンドに響く様々な音たちにざわざわとした感覚を覚えていた。この場にいることによってぼんやりとした不安に襲われている感覚。パリパリとしたトランペットの音が耳を通り抜ける。まさにこの高校球児の背を押すような、勢いのある調べだった。
 ぽつ、ぽつ。少しの雨がわたしの腕をわずかに濡らす。冷たい雨粒だった。私の心の奥の鍵がゆるんで、羨望と嫉妬、そしていらだちや行き場のないあきらめを含んだ悲しみがどんどん重く、飛び出しそうになっていた。
嫉妬に支配されそうな私は本当にみじめで、そんな自分自身に心底あきれてしょうがなかった。
もし、吹奏楽部をやめていなかったら。そんな風に思ってしまう。もし、もっと努力することを諦めなければ。もし、トランペットに出会っていなかったら。そもそも最初からなにもしていなければ……。
明るい性格になりたかったなあ、とぼやけた頭でそう思った。そうすれば毎日が楽しくて、北原くんに想いを伝えるのも容易いのかなあ、羨ましい、と思って妄想を膨らませた。
「――真紀? 」
みどりの声に、ハッとして現実に引き戻される。
「大丈夫? 具合悪い? 」
どうやら私は周りの皆が立ち上がって大声を出す中ぼーっと座っていたらしい。慌てて立ち上がると少しの立ちくらみを覚えた。
「……大丈夫」
 全然大丈夫なんかじゃなかったけど私はそう返した。そうでも言わないと自分がひどく落ちぶれた人だと認めているような気がした。小雨は強くも弱くもならない。不安定な曇り空はねずみ色で太陽の日差しは生ぬるい。7回表の松野高校の攻撃は冴えていて、優勝候補の高校から一点リードしていた。
「みどり、今日の空は好き? 」
「まあまあ好きかな」
「……そっか」
何もしない選択をするほうがよかったなんて、そんなこと北原くんには言うことができないな。
己になんの取り柄もなくて、頑張ることもできなくてモヤモヤすると言っていた北原くん。私がそんなことを思っていると知られたらきっと嫌がるだろうなあ……。
かきん、とバットがボールに当たる音が鳴り響く。同じクラスのバッター、成井くんだった。成井くんの打った球は、みるみる遠くへ飛んでいく。
「ホームラン、かあ」
歓喜の爆発に包まれながら、私はそうつぶやいた。

数日後。昼休みの保健室は日差しが差し込み蒸し暑い。明日からは夏休みだ。今日が終われば北原くんとはなかなか会うことができなくなる……、と言っても翌日からは課外。おそらく全く会えなくなるということはないだろう。
私はこの数日間、もやもやとした心を抱えていた。北原くんの『むかついた』気持ちと、私の『悲観的な後悔』とをはかりにかけてはうーん、とうなっていた。
 考えれば考えるほど、好きなんだけどなあ……と悲しい気持ちになる。私の気持ちを否定されたくないのと、彼の気持ちを否定したくないのがフラフラしていて、どろどろなエゴの塊になっていた。私は北原くんにどうしてほしいのか、わかっていた。でも、他人を制御することなんてできっこないし、なにより彼を自分の渇きを満たすために利用するというのを認めたくなかった。そんなことは絶対にしたくない。
私のこの感情って、持っていてもいいものなのだろうか。私の中の北原くんへの想いって、実は勘違いなのではないだろうか。一人で舞い上がって、恋に擬態した執着を愛と勘違いして、自分に酔いしれているだけなのではないか。どんどん、どんどん悪い方向へ考えてしまっていた。

「草部さん? 」
私を呼ぶ北原くんの声音は今日も普段と変わりはない。なんで、なんで……。認められたい気持ちがぎゅっと首を絞めつける。
「元気ないけど、大丈夫? 」
ごめんね、北原くん。本当にごめん。
「……私ね、昔吹奏楽部だったんだ」
しばらくしてから私は大した抑揚もつけず、そう言った。北原くんは私の言ったことに驚いたようで、えっ、と気の抜けた声を出した。
「小学生の高学年から去年の夏までずっと、トランペットを吹いてたんだ」
「ふうん」
北原くんは、悲しいような、恨んでいるような、とにかく悪い感情が渦巻いたようななんとも言えない顔をしていた。まとわりつくような風が私と北原くんの髪をさらさらと揺らす。
「音楽が好きだったから始めたんだけどね、楽しかったのに結局やめちゃったんだ」
私がふふ、と微笑むと、北原くんはむすっとした顔をさらにゆがめる。
「なんで笑うの。全然おかしくないよ」
北原くんはとても微妙な表情でそう言った。彼の心の中は読めそうで読めなかった。
「高校には私よりも上手い人がたくさんいてさ、努力したから報われるとは限らないってこういうことなんだなって思った」
私は自虐を込めてそういう。
「草部さんは部活が好きでがんばったんでしょ。笑うことないよ」
「こんな思いをするなら初めから何もしないほうがよかったって後悔したよ」
 しばらく、保健室中にいやな静けさが漂った。
ばん。
突然、北原くんの両手が机を叩き殴った。自分の血が急激に冷え、全身を狂ったようにめぐっているのが分かった。私は顔をあわせることができなくて、彼から目をそらした。
「そんな風に言う草部さんは嫌いだ、そんな言葉はいらない」
しばらくしてから蚊の鳴くような、かすれた声で北原くんはそう言った。恐る恐る目線を向けると、北原くんがしょんぼりとした顔でうつむいていた。いつもより瞳の涙量が少しだけ多いような気がした。私は何も言わなかった。きっとこの時なら謝ることもできただろう。それでも、できなかった。
いいよ、嫌いで。
やっとの思いで口に出すと、北原くんの唇がぎゅっと固く結ばれた。そんなところを見なくたって、表情が読めなくたって、私は北原くんの心の痛みをわかっているつもりだった。
……いらない。
そうなのね。
そんな草部さんはいらないんだよ。
そうだよね。
本当にそう思ってるのかよ!
思ってるよ。
そんな草部さんなんて嫌いだ! ぼくは、ぼくは……。
もう、いいよ。
私はそばにあったティッシュを二枚手渡すと、北原くんに渡した。彼は震える手で受け取ったその薄くて白いのを、唇をかみしめて見つめていた。そこにいるのは、苦しんでいる北原くんだった。私の大好きな北原くん。とても弱くて、優しくて、賢くて可愛い北原くんだった。北原くんは悲しくて悔しいのを、下を向きながらじっと耐えていた。
「ぼくだって」
吹奏楽部の部室から野球応援の軽快な音色が時を刻む。北原くん、ごめんね。ごめんね……。陽気な野球応援の音色はこの想いをかき消してはくれなかった。それでも私は何も言わなかった。
北原くんのほおに一粒美しいしずくが伝った。それが一粒、また一粒と増えるところを私は黙って見つめていた。
私は彼の心が今どの辺りにいるかということをわかっていた。
だから私はこれで終わったなあと思った。この関係がついに終わるのだなあという感覚が薄い膜のように心の上にかぶさっていた。

来室時間、六時間目。
体温、三十六度四分。
来室理由、さぼり。
……正直でよろしい。

あれから何日が経っただろう。夏休み後も保健室にたびたび通う私は最近、利用用紙にこんなことを書くようになっていた。この「正直でよろしい。」という一文は北原くんが毎回保健室利用用紙に書いていたことだった。同じことを書いていればなんとなく北原くんに近づけるかなと思った。北原くんはあれ以来見かけなくなった。ごめんね、という申し訳ない気持ちがずうっとあった。野球応援には結局行ったのだろうか、とか暑かったでしょ、とか本当は色々なことを話したかった。そんなこと許されるはずがないことはわかっているつもりだった。でも、こんな私とまた笑顔で話してほしいだとか、そういうことを思うと探して謝りたい気持ちでいっぱいになった。あんなことを言ってしまった以上会うことすらできなかった。
今日も私はいつもの席でひとり自習をする。友達がいて、特にいじめられてもいないのにここにいるなんて……だとか、こんなことを続けて進級できなかったらどうしようとか、将来はどうしようだとかいう、そういう外側の悩みも増えた。どうしよう、どうしよう。私はぐるぐるとその思考にとりつかれていた。結局私は北原くんに無様な裸の私を見せたかっただけだと思った。北原くんのことも、本当はもっともっと知りたかったし受け止めたかった。北原くんはきっと怖かっただろう。だって私も怖いもの。
「あら、草部さん?」
いつの間にか職員会議から帰ってきていた万由子先生が私を呼んだ。驚いて声をあげると、笑いながらごめんごめんと言われた。
「最近はどう?」
万由子先生はふわっとそう尋ねる。優しいな。その度にそう思う。
「最近はとってもいいですよ。教室で授業も受けることができています」
私もふわっとした答えを返した。でも、私自身のことはそんなに優しいだなんて思えなかった。最近の私はますます「よくない子」になっていた。なんとなくサボり癖がついていたし、教室で授業を受けることが意味のないものに思えてしょうがなく思えていたからだ。それでも、昔の自分に比べたら少しはおもしろい生き物になれたかな、なんて思っていた。そんなことを思うのも、どれもこれも北原くんのせいだった。勉強なんてどんな環境だってできる時はできる。私がやりたいかやりたくないかだけなんだと思うのだ。今の私はとても学びたい。だからこんな風になんとかなっている。北原くんの事だって、本当はきっと……。でも、私には分かっていた。そうなるには勇気がいる。私はこれ以上自分の半端な勇気で彼を不幸にしてはいけないのだ。だって大好きだから。本当は北原くんと一緒にいたいくせに。自分を見つめるごとにそんな風に思ってしまう。わからない。
「そういえば草部さん」
なんだろう、と先生の方を向くと、万由子先生が何か手のひらサイズのチャック付き小袋を持っているのが目に入った。
「これ、あげる」
そう言いながら先生は席を立つ。身を乗り出して受けとる。それはとても軽かった。
「なんですか?」
これはね。万由子先生はふふふ、と嬉しそうな顔をした。
「サボテンの種よ」
サボテンの種。その存在になんだかびっくりしてしまった。考えてみれば植物なんだしその存在自体は当たり前なのだけれど、そうかこれが賢者の知識の濃縮されたやつなんだなという風に思った。
「そこのサボテンの花が咲いてたの、知ってる?」
「……知りませんでした」
私がそういうと、万由子先生は一枚の写真を見せてくれた。私は興味津々にそれを受け取り目を落とす。そこにはいつものサボテンが映っていた。そして刺々しい砂漠の賢者の頭には、鮮やかな黄色の大きな花が一輪咲いていた。
「そうだ、北原くんにも渡しておかなきゃね。北原くん、なんだか元気なかったし渡しそびれちゃった」
そんな先生の言葉で私の胸の中央付近は苦しくなる。春に初めて出会った時、二人してサボテンを見つめていたことを思い出す。私にはもう北原くんのことを好きでいる資格なんてないんじゃないかな、と思った。
「北原くん、最近ここに来ていますか?」
こっそり、聞こえるか聞こえないかくらいの声で私はそう言った。万由子先生は何かを察したみたいで私の向かい側、北原くんがいつも座る席にゆっくりと目を向けた。
「そうねー、さっき草部さんが来る前に少しの間だけ来てたわよ」
「そうですか」
こんなにだめだめな私はもうおしまいにしたかった。気づくとぼろぼろと涙が溢れていた。

まだ夜は明けず

***
ぼくは保健室に通うことをやめることにした。何に怒っているのか、ぼく自身にもよくわかっていなかった。いや、本当はわかっていたのかもしれない。でも今のぼくの頭は濃霧で覆われていて、とても悲しい気持ちになったということが、何となく感じられるもののすべてだった。そしてなぜか涙が止まらなかった。ぼくは弱かった。ぼくは強くなりたかった。帰りのバスに乗りながら、ぼくはそれだけを考えていた。草部はきっと僕のどうしようもない感情なんて全然わからないんだろうな、と思った。ぼくだってわからないのに、他人がわかるはずがないんだから。もう、草部と話すことはないんだろうな、とも思った。体が火照って頭のどくどくいうのがまだ感じられる。得体の知れない悲しみに飲み込まれたぼくは、まためそめそと泣いてしまった。動き出したバスの中で涙がこぼれる。ぶろろろろ、というエンジン音が吹奏楽部の高らかな響きをかき消していた。
ケヤキ並木の通りを抜けて、バスは大通りを通過する。いつも宗一とたむろするゲームセンターや体育祭の時に秘密の冒険をした手芸屋を横目に、ぼくは洟をかんだ。駅のバスターミナルについても気は晴れず、駅構内の書店でぼーっとすることにした。
紙のにおいは不思議と落ち着く。昔からそうだった。本棚で狭くなった通路に静かにたたずむと、少しだけ甘く、大人っぽいにおいで肺が満たされた。昔は本の虫だったぼくだけれど、最近はめっきり文章を読まなくなってしまった、そんなことを思いながら一冊の本を選び取る。パラパラとめくってはみるが内容は全く頭に入らなかった。
あーあ、明日は野球応援か。嫌だなあ。そんなことを思うぼくはもうどうしようもないやつだ。いつか草部が言っていた通り、宗一とぼーっとしようか、なんて思う。本当は草部とぼーっとしたかったんだけどなあ。あの時ちゃんと言ってしまえばよかった。
努力することが悪いことだなんて思ってはいないけれど、ぼくはそういうのが苦手だった。何かに一生懸命になれたなら、どんなに幸せだろう。ずっとそう思ってこの十年とちょっとを生きてきた。何の取り柄もなく、努力もできず。部活には入らなかったから人との繋がりは少ないし、宗一以外の友人とは疎遠になっていった。だからぼくは何かの目標に向かって頑張って、死ぬ気で努力する人が羨ましい。嫉妬もする。キラキラしている人たちのようにぼくもなりたかった。そうすれば、こんな風に役にもたたないことについて考えることなんてなかったのに。自分のことが嫌いで嫌いでしょうがなかった。そしてかつてはそんな風だった草部のことも妬ましく思えてしまった。彼女は僕が絶対にできっこない「努力」がいともたやすくできてしまうんだ。おまけに、そんな大切なものを持っているのに、なくてもいいなんて言ってしまうんだ。
あんなことを言ってしまったんだから、ぼくの好きな人は傷ついたと思う。そして、こんな嫉妬にまみれたくだらないぼくに好きになられても困るんじゃないかと思う。
久々にどん底まで落ちてしまったぼくは、静かに書店を後にした。

次の日。燃えるような暑さの中、ぼくはひとり、球場の外で涼んでいた。そしてどうしてぼくはこんなに嫌なことから目を背けるんだろう、としょんぼりしていた。ぼくらの高校がこの試合に勝てば県大会優勝、ついでに言うとそもそもベストフォー入りは十何年ぶりらしかった。そんなわけで球場から聞こえる応援はものすごく大きい。全校生徒が応援しているのに加え、興奮で声量が三割り増しになっていた。ぼくは手にしたスポーツ飲料を一口喉に流し込む。ぬるいコンクリートの階段に腰掛けるぼくはとても青春なんて言えるような雰囲気ではなかった。
「おーい、悟」
その声にびくりと身をこわばらせる。振り返ってみると、宗一だった。制服姿の見慣れた顔だ。いつもの通りキラキラしている人気者だ。それなのにそんな彼とどうして程よく仲がいいのか未だにぼくは分からない。
「なに」
ぼくは気だるげに答えた。
「元気ねえな」
ぼくのほうに近づく宗一の首筋に目をやると汗の粒が流れているのが見えた。汗のにおいは当然だけど男っぽくて、嫌だなあと思った。
「なあ」
ぼくは低い声で唸るように呼びかける。宗一はなんだよ、と言いながらぼくの隣に座った。
「お前さあ、部活やってんじゃん、なんでそんなに頑張れるの? 」
ぼくが妙に深刻そうな顔でそう言ったせいかもしれない。宗一は怪訝そうな顔をしてぼくを見つめた。
「なんでって言われてもなあ。楽しいとか何となくそう思うだけで理由なんてないぜ」
「おれは」
なんで、どうしてお前みたいになれないんだ。そう言ってしまいたかった。
「……おれはその楽しいからとか理由がないっていうのがよく分からない」
そんな風に言うと、眉を寄せていた宗一の顔が緩んだ。
「そんなことで悩んでるのかよ」
「悩んでない」
図星だったが、肯定してしまうのはなんとなく癪だ。
「お前が何考えてるかなんて俺にはよく分からねえけど、楽しいから頑張れることはそこら中にあると思うぜ」
気づかないだけでさ、と一言付け加えてやつは笑った。
ぼくにはイマイチよく分からなかったけど、そんなものなのかなと思った。
「例えば? 」
そう問いながら、この男ときたらぼくがいくらジメジメしていても、いつだってかんかん照りの晴天でぼくと話してくれていたことに気づいた。宗一はうーんと十秒くらい考えてから「こうやってサボってる時、好きな人を眺めてる時、ゲームしてる時……などなどを考えると頑張れる気がする」と答えた。
「そんなことで? 」
「じゃあ悟、逆になんで俺がお前と一緒にいるか知りたいか? 」
「は? 」
「お、知りたいって顔してるな。じゃあ教えてやろう。俺はお前といて楽しい。頑張れる気がする。だから一緒にいるのだ。言わせんなよな」
「別に言わせてないし」
「おまえといると楽しいからいつの間にか時間が過ぎている時が多くてさ」
「なあ、宗一……」
「お前なら俺の馬鹿みたいなことだって理解できるだろ。悟、そういうことだよ。多分だけど」
宗一はぼくのか弱い抵抗をかき消し、そう言った。
ぼくは今まで生きてきた短い人生の中でそんな風になった出来事を思い出してみる。それは考え事をしてぼーっとしているときだったり、おいしいものを食べているときだった。でも一番奥底にあるのはやっぱり宗一とゲームをしているときだったり、草部と一緒にいる時だった。二人といると時が早く過ぎていて、つらくなるほどにいつもすぐに別れの時間になってしまっていた。そうか、確かに楽しい時間だった。もしかしたらぼくは、どんなに嫌なことがあっても宗一や草部がいるから『がんばって』学校に来ているのかもしれなかった。
「そうかもな。お前の言うとおりかもしれない。多分だけど」
ぼくは鼻の奥がツンとするのをこらえながら、そう言った。
わー、とかきゃー、とかいう歓声が反対側のベンチスタンドから聞こえた。まるで爆発音のようだった。相手の学校の吹奏楽部の少し上ずったブラス音が場内全体に響き渡る。
「あー、これは打たれたなー。サヨナラ負けか」
宗一は、うわーっと声を出しながら空を仰いだ。ぼくの夏も終わるなあ、と思った。

みーんみん、じりり。アブラゼミとミンミンゼミがデュエットを奏でている。
夏休みとはなんなのだろうか。夏期講習という名の残業がぼくたちの気力体力を奪っていた。暑さにゆだる教室の中で、ぎゅう詰めにされたぼくたちはうちわや扇子に助けられながら勉学に励んでいた。
ぼくは文句も言わず手を動かす。どうせなら冷房の効いた広い会議室なんかで勉強したいなあ、なんて思う。黒板に書き出される漢文の文字らを、目を細めながら見つめると、それらが浮かび上がって動き出すような感覚に陥った。それで、ああ、自分は疲れているんだなあと悟った。最近のぼくは珍しく真面目で、授業をサボるようなこともない。もともとぼくは集団で何かするというのが苦手だった。それに勉強が何の役に立つかなんてどうでも良いとも思っていた。だからぼくは毎日のようにサボって、うだうだと時間を潰していたのだ。ただ、新しい知識が増えるのはたまらなく快感だった。そしてどちらかというと勉強は好きな方だったのだ。それなら保健室で勉強すればいいだろうと自分でも思うけれど、それよりもおしゃべりの方が重要な気がしてしまって、どうにも集中できなかった。
威勢のいい日差しはぼくの目をくらませ、目はさらに閉じられる。さめた湯船のような風がぼくの首筋を通って、少しの涼しさを感じさせる。授業は残り数分だ。明日からは講習も終わり、ぼくは完全にサボりぐせを克服するだろう。そして、草部とは二度と話すこともないのだろう。早く涼しくならないかな、とそわそわしながら、ぼくは授業中に渡されたプリントに落書きする。シャープペンシルを走らせ、無意識のうちにてるてる坊主を描き上げる。あまりかわいいとは言えなかったが、それでもぼくにとっては充分だった。
ぼくはその落書きを消しゴムでそっと消した。胸がひどく締め付けられるような感覚を覚えた。

続く…

執筆中…

れてれて坊主

れてれて坊主

保健室で出会った高校生ふたりの小さな恋をつづります。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-05

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著作権法内での利用のみを許可します。

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