トリニティ
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ジン、ドライベルモット、スイートベルモットを均等に注ぐ。
俺の頬はいま、痛んでいる。
ちょうど唇の端、頬骨のいちばん尖りと顎先のあいだに感覚がある。いや、痛みはズキズキやドクドクといったものではなくて、痺れたような、ぐっとわだかまるような、鈍麻だ。
俺よりも身体が小さなアイツが殴ったのだ。そして、原因は俺にある。
俺たち学生時分から同じ空間で過ごしてきた。俺は野球部のスタメンでアイツはベンチ。俺は学食のカツカレー大盛りでアイツはキツネうどん。お笑い番組とドキュメンタリー。JPOPと洋楽。マンガと太宰治。MTBとママチャリ。ギャルの彼女と彼女なし。
嫌味なしでよく目立った方だった俺は、学校にいる時はほとんど話しかけたりもしなかった。いま思うと思春期によくある、無意味な区別だったかもしれない。それでも部活になれば互いにライバルでアドバイザーだったし、自分が持っていない、アイツの趣味というか、センスをどこか尊敬してもいた。
部活帰りは腹を割って話し合える、純粋な時間だった。
お前、大学受けるんだって?
最後まで迷ったけどね。そっちは就職?
会社の野球部に知り合いがいてさ、多分そっちだわ。
それがどうだ、そんな俺たちが今や、殴られ、自分の失言に反撃もせず、席を立ってしまう。たった十年足らずが、関係性を変えてしまった。いや、変わってしまったのは俺の人間性だ。どうして俺はアイツを軽んじていたのだろう。
もうアイツの手は分厚く、突き出した拳は力強いというのに。
僕が進学したのは市内の中心部から一時間も離れた私立大学だった。
高校時代、僕はレフト、肩が強く打率もそこそこだったが、どうしてもポジションを奪えなかった。彼の脚は誰よりも早く、華々しい守備と鮮やかな盗塁の一番打者は対戦高の度肝を抜いた。公式戦でスタメンに選ばれたことはない。相手が悪かった。
大学は政経学部とほどほどの偏差値で決めた。何より近くの学生マンションと弱小の野球部が魅力だった。だからと言って、なにも野球が嫌いになったわけではなくて、むしろ是が非でも試合に出たい、とにかく彼と肩を並べたい、欲が湧いた。理由は変わってしまったが走り込みは今でも続けている。
同窓の彼に憧れていた。
彼女と再会したのはこの頃だ。高校の野球部マネージャーだった彼女は、別の大学でもマネージャーをしていた。
まさか続けているとは思わなかったな。
最初は「なんとなく」だったんだけど、いつの間にかどっぷりハマっちゃって、私もびっくりよ。
そうだよな、俺も彼のオッカケだと思ってたもの。
何よそれ。それに「俺」だなんて、カッコつけちゃって。
あれから僕は大手建設会社に滑り込み、なんとか順調に昇進もし、彼女とふたり、一緒にいることが、普通の暮らしになった。
「おいおい、マジかよ。こんなところでお前と会うなんて、ご縁ってのはどこかで繋がっているんだな。」
ある日、実業団を辞めて、彼がウチに越してきた。膝を壊して、もう野球はやっていないと言う。
お前という言葉に、チクリとした。
私は二人を知っています。
私に尽くす悦びを教えたのは彼で、悦びを強くしたのはあなたです。
マネージャーになったのは、彼に少しでも近づけたらという思いでした。彼のオッカケだと言われた時はどきりとしたけど、今はどうでもいい。あなたの良いところなら、私がいちばん知っている。
あなたは努力家です。このあいだも、建設業経理士という、難しそうな資格を取りました。
あなたは朗らかです。私が似合わないというと、素直に「僕」に戻しました。
あなたはたくましい。背は高くないけれど、私を軽々と抱き上げることができる。
あなたは思い遣りがあります。野球ばかりで仕事に不慣れな彼を心配していました。
あなたは誠実です。彼の上司になったことにバツの悪さがある。
あなたは私を誰よりも愛してくれます。親友の彼を殴ってしまったのだから。
婚約のお祝いに3人で食事をしたことがあって、そのあと彼の行きつけの店に場所を移しました。あの晩、彼が「コイツ、見えないところに黒子があっただろ」と私を指差したわね。そんなもの私だって知らない。彼はもうだいぶんと強いのを飲んでいたし、あなたも弱いくせに飲んでいた。間の悪い冗談だった。
そして、私は黙ってしまった。そう、私は彼と肌を交わしたことがあります。ずいぶん前、女子大生の頃に、もちろんあなたと出会う前に、彼とはそれきり、あなたの会社に入って来るまで会うこともなかった。どれほどの罪があるのでしょう。
彼が去って、あなたは少し笑って言った。
「僕ら、いい大人のくせに、子供のようだね」
私はありがとうと言った。
あなたはあえて彼を諭さなかった。彼と同じ目線で彼を打った。冗談で済まさなかったのは、彼に謝罪の機会を与え、私に許す機会を与えるため。若い時代の青春に罪を見つけたりしないけれど、あなたは私を決して蔑ろにしないから。だから、振り抜いた手に慈しみがあること、私は知っています。ありがとう。
私はいつも通り振舞っています。いつも通りあなたが愛してくれるの待っています。
彼のグラスには薄まったジン。
あなたは冷えたベルモット。
私のグラスは空いたままにしてあります。
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