Mariaの日記 -12-
真理子が待ち望んでいた金曜日がやってきた。
課長と一緒にスーパーで買い出しをする約束の日だ。
このチャンスを利用しようと真理子は企んでいた。店内の品物を見ながら計画を実行しようと思案する。
買い物以外のことに気を取られている真理子に、課長が声を掛けた。
「大路さん、海老は好きですか?」
「は、はい! 大好きです」
「じゃあ沢山買おうかな、来週のお弁当に使いましょう」
課長の何げない言葉に、真理子の胸が痛む。
事が解決してしまえば一緒にランチなど出来なくなってしまうのだ。
「あ、あれ……買いたいです!」
真理子は、愛飲しているミネラルウォーターが安売りしているからと半ダース買い込んだ。
だがこれは嘘であり口実だ。
真理子はミネラルウォーターなど飲まないし、飲むとしても重たい物の買い溜めはネットスーパーを利用していた。
この購入は課長に荷物を運んでもらう口実なのだ。
そして真理子が頼まなくても、課長はミネラルウォーターを玄関まで運んでくれた。
「すみません、安かったのでつい……」
「構いませんよ。このくらい軽いもんです」
詫びのために真理子が頭を下げると、課長は「また来週ね」と軽く挨拶して玄関を出ようとした。
「待って下さい!」
「……ん、どうしたの?」
真理子に引きとめられて、課長は足を止めた。
「一人になるのが怖いんです、明日は土曜日だし……また雨山さんが来るかもしれない」
「大丈夫ですよ、今週は大人しかったじゃないですか」
「でも……」
真理子は、課長の腕にしがみ付いた。
「御願いです。帰らないで下さい!」
真理子は思い切った行動を取っている自分自身に驚いた。
「Mariaの日記」と課長の親切を利用してしまっている罪悪感が過る。でも今を逃せばチャンスは二度とないかもしれない。
だから真理子は決心を固めて繰り返した。
「帰らないで下さい」
課長は暫く考え込んでから言葉を発した。
「ぬか喜びさせてはいけないから決定するまで黙ってようと思ったんですが……雨山は他支店へ異動させる予定です」
「雨山さんを異動……?」
「はい。本人には告げてないのですが察しているようです。主任職の出来る人材を欲しがっていた支店への栄転ですから雨山は受け入れるでしょう」
本来なら喜ばしいことなのに、真理子は笑顔を見せることが出来なかった。
雨山が転勤してしまえば何もかも解決する。恐怖から逃れることが出来る。
でもそれは課長との距離が元に戻ってしまうことを意味する。
「本来なら解雇すべき件なのでしょうが、雨山がブログを書いたと認めない限り会社では証拠を押さえる術が無いんです。被害者である大路さんとしては腹立たしい処分でしょうが許して下さい」
課長は謝罪の意を表すように頭を下げた。真理子は慌てて課長を制した。
「頭を上げて下さい!課長……」
「あまりにも加害者側を追い詰めてしまうと極端な行動に出てしまう恐れもあると思う。雨山を解雇するよりは他支店への異動で遠くに住まわせることが一番の策だろうと判断した結果です」
「はい、ありがとうございます」
真理子は、先程の大胆な行動を思い出して恥ずかしくなった。
それは恥じらいの気持ちではなく、己の愚かな行為を恥じる気持ちだ。彼は課長であり、自分はパート社員なのだ。それ以上の関係など有り得ない。
――馬鹿みたい、私……。
Mariaの日記 76日目
「卑怯者……!」
真理子は握りしめた拳でテーブルを叩いた。
「やっぱり雨山は卑怯者だわ……!」
快晴の土曜日。
買い物がてら散歩したら気持ち良さそうな日和だが真理子はストーカーの恐怖から部屋を出ることが出来ない。
今日の「Mariaの日記」は、そんな状況に置かれている真理子の神経を逆なでるような内容であった。
皆さん、こんばんは。
今日は真実を打ち明けたいと思います。
実は……
「Mariaの日記」は小説です。
実話ではありません。
それを踏まえて読んでいただければと思います。
Mariaは架空の人物……実在はしません。
「今更、何もかも作り話だって言うの?」
怒っているのは真理子だけではなかった。
コメント欄には沢山の罵詈雑言が書きこまれている。面白がっていた連中は、ネタだったのかと笑っていられるだろう。
だが、中 にはMariaの性格を心配して真剣にコメントしていた人達もいたのだ。
「栄転で主任職に着く前に悪事を消そうってのかしら……本当に卑怯者だわ」
真理子は溜息を吐いた。
「Mariaの日記」は終了したのだ。
――これで以前と同じ生活に戻れる……。
課長との距離も元通りになるのだ。
――仕方ないよね、元々仕事上の付き合いなんだし!
課長……私の送り迎えとか大変だったろうな……。
Mariaの日記
これは小説です。
実話ではありません。
Mariaは存在しないのです。
月曜の朝、真理子は「Mariaの日記」の異変に気付く。
トップに紹介文が書き加えられていたのだ。
「Mariaの日記」というブログの紹介として書かれた三行。実話ではなく日記風に書かれた小説であるという逃げ口上。
真理子は、紹介文の下に書かれた「Mariaの日記」1日目を読み返した。
「終了か……」
真理子は呟いて、スマートフォンを閉じた。
Mariaの日記 -12-