二十一時、なぞのビルにて
「死んじゃったら、逢えないから」
と、先生が、毎夜、あやしい儀式を執り行っているとうわさの、ビルに、入ってゆくのを、ぼくは、いつも、見ているだけだった。
古ぼけたビル、五階建ての、夜に浮かぶ、青白い看板の光が、ぶきみだが、あやしい儀式を執り行っているらしいところとは、おそらく、関係ないと思われる、会社のなまえの、看板であった。昼間に来たことがないので、内部の詳細は、不明で、夜も、ビルの入り口の、銀色の郵便ポストが集まったところまでしか、足を踏み入れたことがなかった。つまり、ほんとうに、その、あやしい儀式が執り行われているかも、わからずに、けれど、先生は、なにかに導かれるように、ビルの、ガラス張りの扉を開けて、入っていく。ぼくは、その瞬間を、道路をはさんで、ビルの向かい側にある、喫茶店の、窓際の席から、見つめている。二十一時。
(死んじゃったら、逢えないから)
誰が死んじゃったら、逢えないのか。
死んじゃったら、誰に逢えないのか。
一度だけ、ふいに、ぽろっとこぼした、先生が、ビルに通う理由について、ぼくは、うなされたように、ずっと、考えている。残り少なくなった、アイスコーヒーを、ずずずと、ストローで啜りながら、あのなかで執り行われているかもしれない、儀式の内容について、想像してみるけれど、どれも、現実味がなくて、なんだかちょっと、新興宗教にのめりこんだひとみたいに、先生が見えてくる。
あのビルのなかで、なにをしているのかや、先生はいったい、誰に逢えなくなるのを、おそれているのかなんかを、たずねても、もちろん先生は、一切を答えてくれず、気づけば、ぼくは、先生のストーカーみたいに、なってしまっていた。塾の帰りに、居残りで復習をしていると、親に、うそまでついて。
ビルは、四階だけに、あかりがともっていて、いつも、あそこに、先生はいるのだと思う。
ストローの、蛇腹になった、白い袋を、指で弄び、生きているものは、みんな、生まれて、死ぬ、というのが、自然の摂理であって、神さまのつくった世界の循環機能であるのでは、などと考え、考えているうちに、あたまが痛くなってくるので、ほんの気持ちばかりに参考書を開くのが、さいきんは、常であった。
死んじゃったら、逢えないから。
きっと、たいせつなひとに。
死なない方法や、生き返るための手順なんかを、もしかしたら、あのビルで、教えてくれるのかもしれないが、興味はなかった。つめたくなった、食べかけのホットサンドをかじって、先生が、なにかに祈る姿を、思い浮かべた。おなかのなかにじわっと、なにか、あたたかいものが、ひろがった気がした。
二十一時、なぞのビルにて