真夏に遺書

前にどこかで書いた中で一番気に入ってたやつ。

 カーテンから漏れる光がどうしても眩しくて、このところ朝は五時には起きてしまう。ちゃんと遮光のカーテンなんたけど、どんなにぴっちり閉めたって、上とか下とか、とにかく光は巧みに隙間を見つけて私の顔を差してくる。
 洗濯機を回したら下の階の人にまだちょづと迷惑な時間帯かな。そう思って枕元に置いてある読み止しの本を広げたら思いのほか捗ってしまって、気付けば時計は八時を指していた。これだから長編小説はいけない。
 ゆりは寝巻のまま部屋を出る。こんな時間だ、朝ご飯は手軽にトーストでいいだろうと算段する。空気は夏の太陽にもう大分温められていて、湿気を含んだそれはじっとりと肌にまとわりついた。でも本当は、ゆりは暑いのがそんなに苦にならないタイプなのだ。炊飯器からよそいたてのほかほかのご飯だろうと余裕で食べられる。でもこの時期にそんなものを食卓に並べたら、同居人のさゆりからブーイングがくるに決まっている。さゆりは夏が大嫌いで、夏になると必ず朝食のハンストを行いゆりを困らせる。おかげでシリアルだのトーストだのサラダだの、夏の朝食はすっかり欧米化してしまった。しっかり食べないとむしろ夏バテするという理屈は彼女には通用しないのだ。
 ダイニングキッチンのドアを開けると、震えるほどの冷気がゆりを包んだ。ひ!と小さく悲鳴を上げて思わず両腕で身体を抱く。ゆりよりも先にダイニングテーブルに陣取っていたのは、さゆりだ。大学の授業で使うシャープペンとルーズリーフ、それから小さな国語辞典を携えて、ペンギンでも飼えそうな極寒の中でさゆりは一心不乱にペンを走らせていた。彼女は下着の他には白いキャミソールしか身につけておらず、案の定唇は紫色になっている。中々鬼気迫る光景だ。
 ゆりはさゆりの足もとに落ちているエアコンのリモコンを拾い上げてボタンを連打し、室温を26度まで引き上げた。意外にもさゆりからのブーイングはなかった。作業に夢中になっているのだ。
「……さゆり、何してんの?」
 単刀直入に訊いてみた。さゆりはルーズリーフから目を離さないまま、遺書、とハッキリ言った。
「遺書?」
「そう、遺書。もう駄目、私は地球の温暖化についていけない。死ぬ」
 さゆりが馬鹿なことを言うのはいつものことなので、ゆりは特に驚かない。二人分のトーストをトースターにセットし、二人分のミルクをコップに注いだ。図太いさゆりのことだ、その日の朝食も食べずに死んだりはしないだろう。ちょっと考えてから、コップをレンジで一分ちょっとにセットする。
「誰に宛てた遺書なの?」
「別に誰というわけじゃないけれど。誰に対しても別に言いたいことなんてないし」
 淡々としたさゆりの口調にゆりはほんのちょっとだけ寂しくなる。仮にも同居人で友人だ、死ぬ時くらい何か言ってほしい。私には。
 ゆりはさゆりの遺書を覗き込むふりをしてみた。特に怒る様子がなかったので、次は堂々と覗き込む。「暑すぎて駄目だ、誰が地球をこんな風にしたのだ。ていうか地球は地球でもう少し太陽から逃げたらどうなのだ。せめて逃げる努力だけでもして欲しい。全くやる気が感じられない。太陽もいい加減にしろ。空気を読め。この水素とヘリウム野郎」……大体こんな感じのハチャメチャ且つどうでも良すぎる罵倒が延々書かれていた。彼女らしい横暴さだ。まさか惑星に宛てた苦情を遺書にする気だとは思わなかった。
 小気味いい音を立ててトーストが飛び出したので小休止。たっぷりとバターを塗って二人で朝食を摂る。ラジオ曰く今日も非常に暑くなるらしい。ただし午後からところによっては雨が降る。夏の雨はある程度温度を下げてくれるがその分ひどく蒸すのであまり好きではない。夕立なんて最悪だ。空が光ったり雷鳴が轟く度に雷嫌いのさゆりが大騒ぎするし、その間は電化製品が使えない(さゆりが家中のコンセントを抜いて回るのだ)。
「ごちそうさまでした」
 さゆりが食器を下げる。彼女はいただきますとごちそうさまを欠かさない。

 反芻でもしてるのかと疑いたくなるくらい食べるのが遅いさゆりがもっそもっそとトーストを食べて食器を洗うまでの間に、ゆりは洗濯機を回した。洗濯物を干すのを手伝って貰えると見越してシーツやタオルケットまで洗ったのに、洗濯カゴをいっぱいにしてダイニングへ戻った頃には、さゆりの姿はどこにもなかった。テーブルの上のルーズリーフや辞書がなくなっているので、自室でまた遺書を書いているのかも知れない。仕方がないのでゆりは一人で全ての洗濯物を干した。……ちょっとした仕返しに、さゆりの下着はハンガーの外の方に吊るしてやった。存分に晒し者になるがいい。
「ゆり、海に行こうよ」
 そんな悪だくみをしていたから、突然のさゆりの呼びかけにゆりは思わずびくんと震え上がった。怖々と振り返ったけれど、さゆりに人の思考を読む能力は無く、干してある下着を気にする素振りもない。挙動不審なゆりをただ不思議そうに眺めているばかりだ。白く細い腕にはビニールバッグを二つ抱えていた。三年くらい前に揃いで買った水着の入ったバッグ。ノリと勢いで買っただけだから一回も着てないやつ。この三年間見た覚えないんだけど、どこから引っ張り出してきたんだろう。
「……さゆり、暑いの嫌いでしょう?」
「死ぬ前に一度くらいは夏に対峙してみようかと思って」
 彼女は変なところで物凄く負けず嫌いなのだ。
 だが海へ向かう道はさゆりにとっては地獄の道のりにも等しかったに違いない。出発したのは真昼間。二人とも日傘を差してはいるけれど、アスファルトの照り返しは遠くで陽炎を立ち昇らせていて、これからそこを歩く予定の私達の気をひどく滅入らせた。道行かば蝉の声、夏休みの子供たちのはしゃぐ声、暑さに苛立っているのか赤ん坊が号泣する声と三拍子。いつさゆりが怒りを爆発させるかとゆりははらはらした。でも、特に何事もないまま二人は駅までたどり着いた。日傘を閉じたさゆりは真っ先に自動販売機へ向かいスポーツ飲料を買ったので、ゆりは納得する。熱中症を起こしかけていて怒る気力がもうなかったのだ。
 電車はすぐにやってきた。発車のベルが鳴る中で500mlを一気に飲み干しペットボトルをゴミ箱に放り投げ、電車へ駆け込む。車両は弱冷房車と銘打たれていたが炎天下を歩いてきた身には充分涼しくてありがたい。海辺の駅までは三十分ほど。今から海へ行くというのに既に疲れ切った様子のさゆりはすぐにうとうと船を漕ぎ始めた。ゆりもつられてその後うたた寝してしまったのだけれど、海岸駅は終点だったので助かった。「お客さん、終点ですよ」なんてコマーシャルでしか聞いたことなかった台詞に少し感動する。本当に言うんだ、これ。

 快適だった電車を降りると真上から容赦なく太陽の光が襲い掛かってきた。けれど体感はそう悪くない。すぐそこの浜辺から涼しい風が吹いてくるのだと分かった。沖から海の上を滑ってきた、とびっきりの風。線路の終わりを珍しそうにしげしげと眺めているさゆりに「ほら、海だよ」とゆりは声を掛ける。颯爽、溌剌とした空の青と、涙を集めて流したみたいに、どこか悲しみを沈澱させて見える海の青の対比がキレイ。水平線からは潮を含んだ風が絶えず心地よく吹き続ける。
 はしゃいださゆりはゆりの手を取って浜辺を走った。丸くなったガラス片やら割り箸やら花火の残骸やらが散らばったそこはキレイという言葉には程遠い気がしたけれど、どこまでも広がっていて自由だった。地の果てまで来たのにこどもは相変わらずうるさいしカップルは仲好さそうに手を繋いでいて神経に触る。足が砂に埋もれて上手に走れないし、海に手を入れればワカメがぬるりと触ってきた。ああもう、髪から爪の間まで砂と塩にまみれてごわごわする。海はたくさんの情報が入り混じってしっちゃかめっちゃかで、最高だった。
「ゆり、もっと沖まで行こう!」
「え、私足つくとこまでしか無理!カナヅチだもん!」
「うわ、だっさ!」
「うるさいなー!」
 どんな宝石よりも輝く笑顔でさゆりが波を掻き分ける。どんどん遠く遠くなっていく。ふと、朝彼女が書いていた遺書のことを思い出したけれど、頭を振って嫌な考えを払った。こんな光ときらめきと歓声の中で彼女が死ぬとは思えない。彼女が死ぬとしたら、もっと寂しくて暗い時期と場所を選ぶはずだ。例えば、寄せる波の下、深い海の底とか。
 遠く遠く、豆粒のような彼女が手を振る。ゆりも手を振り返す。あそこまでいけばきっともう騒音はないに違いない。波の音さえ無いかも知れない。風の音、自分の浮くちゃぷちゃぷという音、それから自分の呼吸の音くらい。
 あ。そういえば洗濯物干しっぱなしだった。夕立にやられなければいいけれど。そう心配するけれど、こんな場所からじゃもう手の施しようはないのだ。

真夏に遺書

真夏に遺書

夏は暑くて死にたいね。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted