自殺

自殺


 この一週間、毎日三十度を越す暑さが続いている。部屋はエアコンが入っているので、そのためかどうだかは分からないが、飼っているグッピーの様子がおかしい。グッピーの飼育を始めてかなりになる。しかし、今までこのようなグッピーを見るのは始めてである。
 一つの水槽の中の、まだ一度しか卵を産んでいない五匹の若い雌が、急によたよたと泳ぐようになった。一日たったところで、五匹の腰は曲がり、なんとも哀れな格好だ。どのグッピーでも年をとれば自然と猫背になってくるものだが、数日前はぴっぴっと元気に泳いでいた。
 グッピーの水槽はかなり広く、中には水草が元気よく繁茂し、エアーポンプはぶつぶつと機嫌の良い音を響かせて泡を吹き出している。水槽の掃除屋であるレッドスネイルも元気よく子孫を増やしている。水温計は二十八度を示し、グッピーにとっては適した温度だ。それなのにどうしたことか、急に年をとった原因は全く分からない。
 飼料の中に骨にとって悪いものが入っていたのかもしれないが、長い間使い続けている信用のあるメーカーの品である。今までにこのようなことが起きたことはなく、管理にはかなり神経を使っているつもりである。
 残るは水の成分のためと考えられる。一昨日、いや昨日だったか、一日汲み置いておいた水を半分ほど水槽に足してやったのだが、それがいけなかったのだろうか。汲み置いておいたにしても、水道水に何が混じっているか分からないことは確かである。
 飼育の本を何冊か読んで調べた。だがそんなに急変する病気のことは書いていない。
 その日は日曜日。一日中、絶えず三つある水槽に眼をやっていた。
 三時を回った頃である。開けてある居間の窓から、プーンと異様な匂いが漂ってきた。塀にそって排水溝があり門の脇に人が入れるくらいの大きな排水槽がある。降った雨が道にそった排水溝から排水槽に流れおちる。時々市の管理者が枡の蓋を持ち上げ掃除をしているが、夏の暑いときには雨水がすくないことから溜まった水から悪臭がただようことがある。
 あとで排水槽をみにいこうと、窓から外を見た時ぎょっとした。
 黒っぽい服を来た男がだまって庭に入ってきた。浮浪者だ。私はドキッとして窓に駆け寄り、窓に手をかけたとき男がこちらを見た。
 身の毛がよだつ思いで、やっと、「だれ」と声が出た。
 男は茶色のベレー帽を深くかぶり、熱いのに、黒いしみが点々とついた破れた白いレインコートをひきずり、たぶだぶの長靴から汚らしい茶色の水を泡といっしょにあふれさせていた。
 臭い匂いが強くなった。匂いは明らかにその男から発せられていた。
 男はこっちを向いて何も言わず立っている。
 私の動悸もおさまってきた。男の顔もまともに見られるようになった。男は意外に色が白く、高い鼻はきれいに整っていた。口は大きめで、どこか愛嬌のある二重瞼の大きな目でこちらを見ている。ひしゃげたような、押しつぶされたような顔にそれらの顔の道具がうまく配置されている。年齢はなんとも計りがたく、十九にも、四十九にもみえないでもない。乱暴をするような雰囲気の男ではない。
 「何か、用ですか」
 私はかなり落ちついて声をかけた。
 男が窓のところまで近寄って来た。臭い匂いがさらに強くなった。
 彼は居間においてあるグッピーの水槽を見ている。
 男が私を見た。
 背が低い。小学生より少し大きい程度だ。男は白いレインコートにつっこんでいた手をそろりそろりと外に出した。痩せた手には何かが握られている。
 それを、私のほうにつきつけた。
 口の欠けた牛乳瓶であった。彼はそれを私の目の前にかざした。
 牛乳瓶の底には泥がたまっている。その上の少し澄んでいる水の中に何か動いている。魚だ。私の目の焦点が魚にあった。
 私は「アッ」と言う声を上げた。手を伸ばすと彼の手から牛乳瓶を奪っていた。
 男はあわてもせず、手を脇に下ろすと、牛乳瓶を奪い取った私を見て微笑んだ。
 私は受け取った、いや奪い取った牛乳瓶に目を近づけた。その中では緑色のグッピーが二匹、尾ひれをひらひらさせて泳いでいた。雌と雄だ。
 私の忘れることのできない緑色のグッピーだ。
 私は四つ目の小さな水槽に、他の水槽から水を少しずつ移して満たした。エアーポンプを設置し、牛乳瓶の緑色のグッピーを移した。
 彼はその間、窓の外から泡ただし動いている私を見て微笑んでいた。
 目頭が熱くなってきた。この緑色のグッピーは私が涙ぐましい努力をして作り出した、世界に一つとしていない貴重なものだった。
 この緑色のグッピーが生まれたのは一月前のことになる。卵から孵化したときは普通のグッピーだった。ところが大きくなるにつれ鮮明な緑色のグッピーに育った。たくさんいる兄弟姉妹の仲で数匹だけが緑だった。私はそいつらをつかって、緑色の形質を定着させてやろうと、いさんで新しい水槽を買い飼育をはじめた。
 自分はこういう緊張した時によく失敗をやらかす人間だったが、この時もそうなってしまった。藻の枯れはじめた部分を網ですくいビンにうつした。そのあと、瓶を持って家の前の排水溝にすてた。水槽のところに戻って緑色のグッピーがいないことに気付いたのである。あわてた私は水槽を隅々まで確認し、網の目もくまなくを確認し、やっと藻と一緒に捨ててしまった可能性が頭にうかんだ。
 排水溝にもどった。捨てた藻は排水溝から排水槽につながるところの柵に引っかかっていた。あわてて手を伸ばし、藻を水のはいった瓶に戻したが、グッピーはいなかった。すでに排水槽におちてしまったのだろう。槽の重い蓋をもちあげ、よく調べたが、下のほうに少しばかり溜まっている泥の混じった水にはいなかった。
 それが、今、手元に戻った、泣く泣くあきらめていたグッピーが戻ったのである。頭が真っ白になるのも許されるだろう。尾ひれや肌に少し傷があるが、元気に目の前の水槽で泳いでいる。
 そこで男のことを思い出し、窓を見た。男はまだニコニコと微笑んでこちらを見ている。この炎天下に、この恩人を立たしておいたことに申し訳なく思い、「玄関のほうからお上がりください」と声をかけた。
 「どうもありがとうございました、そんな熱いところに立たしたままですみません」
そういったが、男は何も言わずにうなずいただけである。どぶ泥の匂いがまた強くなった。
 男に「どうぞ玄関のほうから」と再度促したが、男はただニコニコしていた。
 「このグッピーどこで見つけてくださったのですか、私もずい分探しましたがだめでした、まさか戻ってくるとは思っていませんでした」
 彼にどんなもてなしをするべきか頭の中は混乱していた。金が欲しいなら有り金全部差し出してもかまわないくらいの気持である。この緑色のグッピーになら、何十万払ってもいい。
 私はもう一度たずねた。
 「このグッピーは私には自分の命の次に大事なものでした、どこにいたのでしょう」
 どこで見つけたにせよ、良く私の家のものだとわかったものである。
 男は無言のまま振り向いて庭の先を指差した。
 やはりグッピーは排水槽の中にいたのだ。でもなぜこの男が、あの蓋のかかっている排水槽で見つけることができたのだろうか。
 「よく見つけることができましたね」
 私がそう聞くと、男はもじもじとうつむいてしまった。
 もしかすると、残っていた水の表面にグッピーが浮かんで出てきたところに出くわしたのかもしれない。だけど、なぜ排水槽の蓋を開け覗いたのだろう。
 「泥の匂いがします、中へ入って手足を洗ってください、今風呂を沸かしてきます」
 私はキッチンに行き、風呂のスイッチを押した。
 戻ってくると、男は相変わらずグッピーをニコニコと見ていた。
 「コートをどうぞ、クリーニングに出してお返しします」
 男は首を横にふった。
 「外の水道もあります、手足を洗って下さい」私は庭の隅の水道を示した。
 男はそれには従って水道のところに行くと、手と足を洗った。かぶっていた帽子をとって頭から水をかけた。すぐそのまま帽子をかぶった。
 私はタオルを開けた窓から差し出した。もどってきた男は手をだらんと下げて、水を滴らせている。濡れた髪の毛が顔にへばりついている。
 男はタオルを受け取らなかった。
 変な男だ。私は財布から札を全部取り出すと、机の上にあった封筒に入れて彼に渡した。
 「少しで申し訳ありませんが」
 しかし男は後ろに下がって首を横に振った。
 「何か飲み物をもってきましょう」
 私はキッチンの冷蔵庫からコーラをもってきて、コップに注ぎ彼に勧めた。男はこの炭酸飲料にはあからさまにいやな顔をした。
 「他の飲み物をお持ちしましょうか」
 私がそうたずねても、首を横に振るだけであった。だが、男は立ち去るわけでもない。居間の中のグッピーをみつめて、にこにこしている。目的は何なのか、一向に分からない。
 どうしたらいいか分からず、男を見ていると、男が急に自分の喉を両手で押さえ、苦しそうなうめき声と共に窓に寄りかかって、しゃがみこんでしまった。
 私が窓から外を見ると今にも倒れそうに男のからだが揺れている。
 私はおどろいて玄関に回り、庭に出て男のところに駆け寄った。男は窓の下で倒れていた。
 大変なことになったと思い、男に近寄ると、男は私を見上げ口をかすかに開けた。
 どぶ泥の匂いが強く鼻をついた。このとき私はこの匂いがどぶの匂いではなく彼の口から吐き出されているものであることがわかった。男の体臭なのである。生まれつきのものなのであろうが、これでは他人の家に上がることはできないだろう。レインコートを着ているのも匂いを隠すためかもしれない。
 男はあえぎながら、初めて声を発した。しゃがれた声で、
 「水を」と言ったのである。
 私はあわてて家に入ると、水道からコップに水をいれ男のところにもどった。
 ところが、男はその水は帽子を取って頭にかけただけで飲もうとしなかった。よろよろと立ち上がると、窓からグッピーの水槽を指差した。
 「なんでしょう」
 私は彼の欲するものをすぐには理解できなかった。
 男は二度目の口を開いた。
 「その水をください」
 「どの水でしょう」
 「水槽の水、コップ一杯でいいのです」
 男はまた窓の下にしゃがみこんでしまった。
 「水槽の水ですか」と聞きなおすと男はうなずいた。万が一、ここで死なれでもしたら大変だ。家の中に戻ると、グッピーたちを気にしながら水槽の水をコップに入れ、窓からしゃがんでいる男に差し出した。男は顔を上げると、何とか立ち上がり、コップを大切そうに両手でもつと、勢いよく飲み干した。男はふーっとため息をもらした。胸の動きが穏やかになってきた。水槽をみつめている。
 まだ欲しそうだ。私はもう一杯水槽の水をコップにいれた。手渡すと今度はゆっくりと味わうように、薄い唇を湿すように旨そうに飲んだ。
 男はため息をついた。
 「どうも」男はそういうと、お辞儀をして、足をひきずるように庭から門のほうにむかった。お礼を言わなければならないのは自分のほうだ。
 「ありがとうございました、大丈夫ですか」
 そう言ったのだが、男は振り返ることもせず、うなずいて立ち去っていった。
 どぶ泥の匂いがまだ漂っていた。

 次の朝早くまだ薄暗いうちに目を覚ました。緑のグッピーが戻ったこともあり、気になって眼があいたのだ。
 パジャマのまま居間の四つの水槽を見て回った。緑色のグッピーは元気よく泳ぎまわり、雄は雌を追いかけている。安堵して他の水槽を見ると、不思議なことに腰曲がりになっていた五匹の雌のグッピーの腰が元に戻り、ぴんとしてすいすい泳いでいる。
 私はすがすがしい気持で窓を開けた。さわやかな朝の風が部屋に吹き込んできた。まだ薄暗いが、今日も天気はよくなるだろう。
 風の中に、かすかであるが、昨日の男の匂いが混じっているような気がした。
 そう思っていると匂いがだんだん強くなってくる。あの男がまた現れたのだろうか。窓の外を見ても誰もいない。
 パジャマのまま庭に出た。朝日が少しさしてきた庭の木々の緑が濃く浮きでてきた。熱くなりそうである。匂いは塀の外からだ。
 門から出ると、どぶ泥の匂いが強くなった。排水槽からのようである。
 近寄ると、塀の脇に排水槽の蓋がころがっている。排水槽は開いていた。水が上のほうまできている。と思ったのだが水ではなかった。半透明の緑色のどろどろのものが槽の出口すれすれまで溜まっていた。とても臭い。昨日の男の匂いである。
 よく見ると、匂いのひどさからは想像できないほどきれいな緑色だ。光があたるときらきらと光が反射する。なんだろう。
 排水槽の脇に、丁寧にたたまれた白っぽいレインコートと、ベレー帽がおいてあった。昨日の男が着ていたものだ。男はどうしたのだろう。
 レインコートとベレー帽を手にとった。その時、白っぽいものが道に転がり落ちた。
 それを拾い上げたとき、まさかと思ったが、すべてが理解できた。
 白いものは皿のような骨だった。その縁には白い毛がまばらについていた。彼の頭の上にあったものである。

 この町には山に囲まれた小さな湖があった。それが埋め立てられ団地になった。人口が増え、町は潤ったがそのあたりの自然は壊された。大昔、そこには不思議な生きものたちが生息していたと、子どものころ話を聞いたことがある。おじいちゃんがよく話をしてくれたのは、釣りに行って釣った魚を河童に横取りされたことだった。釣れなかったことのいいわけだろうと思っていたのだが、本当にあったのかもしれない。
 湖を住処にしていた彼は、湖がなくなったのでやむなく放浪の旅に出た。長い長い旅のはて、年老いた彼はなつかしいこの町に戻ってきた。湖が無いだけではない、町にあふれていたのは塩素臭い水道の水の匂いだった。彼は決心をした。その最初の試みは我が家の前の排水槽に身を投げることだったのではないだろうか。だが蓋を開け、中をのぞいたら、私の緑のグッピーが水の表面で泳いでいた。彼は身投げを一時やめた。掬い取ったグッピーを私の家にもってきた。
 グッピーの水槽の水を旨そうに飲んだ彼の顔が眼に浮かぶ。末期の水である。
 二度目の試みで、今度は誰にも邪魔されることなく、排水槽にはいり死んだのだ。清い水にしか飲めない彼は、そこに溜まっていた汚れた水を飲んだ。彼はあっという間に溶けて緑色の塊になった。私は手を合わせた。

 それから、一年が過ぎ、緑色のグッピーの子どもは次から次へと生まれた。中にかなり緑色の濃いグッピーがまじっている。何世代か先になると、すべて緑色のきれいなグッピーになるだろう。
 水槽ののなかには、緑色のゼラチンのようなものが沈んでいる。あの河童の亡骸をすくって、四つの水槽にいれた。そのお陰だろう、グッピーはあれからおかしくなることもなく元気に生きている。時々、グッピーがこの緑色のものを突っついていることがある。そのような時、緑色の物体が嬉しそうに身をくねらせているようにみえるのである。

自殺

私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 挿絵:著者 

自殺

自分で改良した珍しい緑色のグッピーを誤って逃がしてしまった。ある日、薄汚れたコートを着た男がどぶ泥の匂いをさせて庭から入ってきた。手には緑色のグッピーの入った瓶が握られていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-05-31

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