嘘をつく雨

横路 枸櫞 作

Lying-Rain

 六月のとある退屈で鬱屈(うっくつ)な木曜日に彼女に出会った。濃い灰色の雲が湿気を多く含んだ空気を地上に溜め込み、紫陽花を鮮やかに映していたときに。人々が煩わしそうに何度も灰色を仰いでいたときに。
 僕は大学の帰りで、あてもなく骨董(こっとう)通りをふらふらと散歩していると(それは僕のつまらない帰り道の唯一の楽しみだった)、カッパ(ヽヽヽ)を着た女子が遠くからこちらに向かって来た。もちろん、多くの通行人の中にはカッパを着ていた人は一人もいなかったから、彼女はひどく目立った。白紙に落とした一滴の黒インクのように。一見、不思議な人もいるものだと思って、否応なしに彼女に目を奪われていたのだが、それはよく見るとガールフレンドのユリだった。彼女も僕に気づくと人混みの中を、くるくると、綺麗な円を描きながら僕のもとにやってきた。彼女の大学もここから近いところにあったのだ。


「しかし、君はなんでカッパなんか着てるんだい?」僕は彼女に尋ねた。僕らは移動販売車で氷がカラン、カランとよく鳴るアイス・コーヒーを買って、今にも雨が降りそうな中、青山の閑静な道を歩いていた。僕は時々灰色を覗いた。「傘じゃダメだったのかい?」
ポンチョ(ヽヽヽヽ)」彼女は唇を丸く突き出して、念を押すように言った。
「ぽんちょ?」
「そう、ポンチョ」彼女はおおげさに、むっ、と眉間にしわを寄せて頬をふくらませて怒ったふりをした。それが彼女のくせであり、僕が好きな彼女の仕草だった。「カッパじゃないの。ポンチョ。わかった?」ふふん、と鼻息を吹き、人差し指で僕を指さした。
「わかったよ、ポンチョね。で、なんでポンチョなんだい?」
 その言葉を聞くと、彼女はその当然の質問を、一年前から待っていたかのように目を輝かせて、「やっぱり、気になる?」と語尾を上げて言った。意地悪そうな、でも心底楽しそうで嬉しそうな感情を顔いっぱいに表した。本人は気づいていないが、ユリはわりに感情が全面に出やすく、言葉よりもずっと早かった。「ふふん、なぜでしょう?当ててみん」
「と、言われてもなあ。今日はじめてポンチョという言葉を知ったんだよ、僕は」そう言うと彼女はより、にまにま、と笑みを浮かべていた。どうやら僕が知らないことを自分が知っていたという優越感に浸っているようだった。

「教えてあげようか?」彼女は下から覗くように僕を見た。僕が身長一七〇センチほどであるのに対して、彼女は特に小柄で一五〇センチほどしかなかったから、必然的に彼女は僕を仰ぐかたちになる。しかし、彼女の覗き込む行為は彼女をよりチャーミングにみせたし、何より小動物のようで愛くるしかった。「教えてあげようかなあ。いやどうしようかなあ」
「教えてくれよ、ユリちゃん」僕はあえて弱った声を出してみた。僕らはこうやってふざけることはしょっちゅうあったし、なにより僕らはそれを楽しんでいた。
「いや、教えないね!」彼女は、にっ、と歯を見せて笑ってみせた。相変わらず歯並びが綺麗で精巧な作りものみたいだった。「オトメの心を考えてみるのもひとつの訓練じゃよお、リュウくんや」おじいさんかおばあさんか、どちらともいえない口調で彼女はおどけて見せた(これも彼女のおふざけの定番だった)。僕は趣味で小説を書いていた。「心理描写を表すのはお手の物じゃろう?これまでどれだけの少女の心理を描いてきたのじゃあ?」
「あくまで小説は小説だよ、現実は同じようにはいかないよ。現実は小説よりももっと複雑で、難しいんだ」

 それじゃあ仕方ないね、と彼女はスカートのようにポンチョをヒラリと舞わせて前をちょこちょこ、と歩き始めた。北斎の藍刷りような生地に、大きな白い水玉模様がプリントされたポンチョだった。「やっぱり彼女は小動物みたいだ。クアッカ・ワラビーとか、そんな感じの」という感想を言おうとしたが、外に出すことなく飲み込んで、僕はそのあとを大股で追った。埃くさい雨のにおいが彼女を追うにつれて強くなっていた。


 彼女とは付き合ってもう三年になるが(僕が今まで付き合った誰よりも長かった)、彼女がポンチョを身につけたのは一度も見たことがなかった。彼女は雨具は性能と手軽さで選んでいたし(彼女はビニール傘しか使わないんだと前に言っていた)、それに関心を寄せるような人ではなかったのだ。「ポンチョは前から好きだったのかい?」僕はなんとなく気になってそれとなく聞いてみた。
「好きだよ」と彼女は短く答えただけだったが、もしかしたら僕と会わないときには着ていたのかもしれないな、と思い直した。僕らは雨が降る日に外でデートをしたことなどなかったからだ。だいたいそういう日には、僕の狭い部屋で肩を寄せながらディケンズの長編小説を読んだものだった。

 彼女は道の上でよく、くるくると回った。コンパスで正確に何センチと測って回したように、綺麗な円をいくつも描いて回った。その度にその短く揃えたボブが同じ円を描いて揺れる。まるで雨が来るのが待ち遠しくてじれったく思っているかのように。灰色を背景に、閑静な青山の住宅街で回る彼女は美しかった。それはある種の規律に厳格な儀式のような、不気味な黒いなにかを僕に思わせた。
 僕の靴音とビニール傘が地面をつつく音。そして、住宅街を流れる音のない、でも確かにそこに流れる無機質な伴奏。それに合わせて、彼女は踊る。まるで雨乞いをするかのように、あるいは、まるで彼女はなにかに取り憑かれていて、もうすでに彼女そのもの(ヽヽヽヽ)ではないように。
「あ、雨が降ってきた」彼女は思いついたように呟いた。雨のにおいは、気づけば僕らをすっかり覆い尽くしていた。傍らで紫陽花が僕らを見ている。まるで世界にあってはならない異物を睨みつけ凝視するように。


 霧雨にも達さない、十秒に一度、一滴の雨粒が降る程度の雨だった。これなら傘はいらないな、と傘を開こうとした手を元に戻して、遠くに菱形のガラスを積み重ねた塔を臨んだ。重い灰色に映えるガラスの塔は、その日はいやに不気味に見えた。人間の認識ではとらえきれない、ある種の禍々しさを覚えるような感覚だ。わからない恐怖や、悪魔の城を遠くに見るような恐れにも似ているのかもしれない。それはいやに美しく、かつ怪しく佇んでいるのだ。

 そういえば、今日の彼女はいつもとは異なった。いつもはすぐにその小さな手で僕の手を取って、前に前に引っ張っていった。まるで先にあるものが見たくて居ても立ってもいられず、ぐいぐいと母親の手を引っ張る少年のように。
 しかし、今日のポンチョの彼女は違った。僕の手を引くことはなく、ましてや並んで歩くこともなく、ただ僕の二メートル前をちょこちょこ歩いては、時々傘を回すようにくるくると回った。彼女自身が傘の軸になって、ひらり舞うポンチョを傘の生地としたみたいに。ポンチョを着たことが、彼女に対してなにかしらの影響を与えたのは確かだった。しかし、その影響がなんなのか、頭の悪い僕にはいまいち思いつかなかった。こと洞察力というものに自信がないのだ(小説を書いているからと言って、その手の能力に優れているわけでもなければ、僕は小説家などと名乗れるものでもなかった)。
「好きなモデルとかが着ていたのかもしれないな」僕はとりあえずそう理解することにした。ある種、そう理解しなくてならないような直感が、潜在下で働いていたのだ。


 ついにガラスの塔の真下に来た。アメリカから来たであろうサングラスが似合うラフな格好の人たちや、大きな声でとやかく話すアジア系の人たちが必死になって塔を写真に収めている。そういえば僕はこれまで、まじまじとこれを観察をしたことはなかったが、たしかに芸術的で人を吸い込んでしまうような引力が、あるいは異物感(ヽヽヽ)がある。
「果たしてこれは人間の作ったものなのだろうか?」僕はそんな根源的な疑問を抱いたし、見れば見るほど、それは怪しく輝いて見えた。僕は、これは宇宙人が作ったもので、実は宇宙船なんだと言われても信じたと思う。もしくは、これが宇宙からここに突き刺さる形で飛来したんだと言われても信じた。しかし、どちらにせよ実体がよく掴めないのはたしかで、僕はしばらく、不思議とこれを仰ぎみていた。よくわからないものは、どれだけ長く眺めてもわからないものだが、それでも不思議と長く視線を奪われてしまうものだ。十分の一の雨で濡れて、ガラスの塔はより怪しく澄んでいた。

 それは彼女も同じようだった。灰色を背景にガラスの塔を見上げていた。しかし、彼女の目には、僕とは異なるモノが映っている気がした。それはあくまで直感でしかなかったが、少なくとも僕をそう確信させるものがあった。
 たしかに僕らはこの目の前の菱形を積んだガラスの塔を見ている。僕は不思議な建物だと感心ばかりしているが、彼女にとってそれはどうだろう?彼女の雰囲気から、根源的な謎に触れている気配がないのだ。嘆息ひとつ聞こえてこないのだ。むしろ彼女は、この世で誰よりも(ヽヽヽヽ)ガラスの塔を知っているような目でこれを覗き込んでいるのだ。その目は、ガラスが反射してサファイアのように見えた。


「ねぇ、」彼女は、僕らのあいだに漂っていた数分間の沈黙を、不意に破って僕に囁くように言った。コンデンスミルクよりも甘い声だった。「雨って、好き?」
「好きだよ」僕は素直に答えた。なにかふざけてみようとしたのだが、彼女の青い目が放つ鋭い輝きは、そうはさせなかった。
「どういったところが?」
「そうだなあ。雨はたしかに濡れたりして厄介がられたり、煩わしかったりするけど、でもそれだけが雨じゃないと思うんだ」

 彼女は何も言わず、青い目で僕のダーク・ブラウンの目をじっと見た。瞳の中に雨が降っているように見えた。涙ではない、もっと異質(ヽヽ)なものだ。
「つまりはね」僕は念を押すように言った。「雨は悪いところだけじゃないんだ。雨は人をひどく落ち着かせるし、忘れていた悲しみを思い出させる。だが、その悲しみは深いものじゃなくて、むしろ健康上必要(ヽヽ)なものなんだ」

 僕は一度咳をしてまた続けた。
「きっと必要なものなんだ。それに雨は人を詩人にさせる。いや、詩だけじゃなく、物語(ヽヽ)を生み出させる原動力になる。そのためには悲しみがなくてはならないんだ。それに、雨はどことなく叙情的だろう?加えて、ロマンティックだ。それを表現したいと、物語を描く人間として、そう思わずにはいられないんだ。だから、雨は好きだよ」

 彼女は黙ったままだったが、その目から青はいつの間にか消えていた。「そう、よかった」彼女はすっかり安堵したようにそれだけ言うと、静かにポンチョのフードを被った。すると、不思議なことに、僕はありえない(ヽヽヽヽヽ)疑問を抱いてしまった。彼女を覆っていた、彼女の形をしたヴェールがひび割れて崩れ落ち、中から、彼女と全く同じ姿をした彼女(ヽヽ)が現れた、というように。
「君は、――」その疑問を言いかけたとき、彼女が灰色に指を伸ばすと(僕には灰色に対して合図を送ったようにみえた)、わずかに湿らせるだけだった雨が急に激しい驟雨(しゅうう)に変わって、無数の白線を重い灰色から降り注がせた。地上には白煙が立ち込めた。

 とっさの出来事に、ガラスの塔を撮影していた人たちは屋内に逃げるように走り去り、塔の前の歩道を歩く人たちはみな傘をさして早足で去っていく。さっそく溜まった水溜まりの中を自動車が勢いよく走って行った。雨音は一秒ごとに大きくなっていく。その中で、僕は傘をささず雨に濡れ、彼女はポンチョのフードを被って佇んでいる。気づけば彼女のポンチョは、白の水玉を映した青から、血のような真っ赤(ヽヽヽ)に変わっていた。地上までも灰色に覆われた中で、その赤はあまりに鮮明すぎた。モノクロの世界で唯一色を与えられた真っ赤な薔薇のように。
 濡れた前髪のあいだからみえる彼女の目が、僕をたしかにとらえている。藪の中からギロりとこちらを狙う虎のように。やはり瞳の中で雨が降っている。水銀朱ような雨だ。「君は(ヽヽ)!」僕は自分が可能な限りの大声を出して雨音を切り裂き、彼女になんとかして言葉を届けた。届けなければならなかったのだ。「君はいったい誰なんだ(ヽヽヽヽ)!」

「わたし?わたしはわたし(ヽヽヽ)よ」彼女はにやりと不気味に笑って言った。それは決してユリの笑い方ではなかった。もっと狂気に充ちていて、サイコパスや殺人鬼がその顔に浮かべる笑みのように不気味に嗤った。「それ以上、それ以下もないわ、わたしよ(ヽヽヽヽ)
「ああ、お願いだ、教えてくれ。君は誰なんだ!」

「さあね」彼女は素っ気なく答えた。ユリとは似ても似つかなかい、ずっと低い声だ。感情が一寸たりとも介在しない声だ。「わたしにはいくつだって名前(ヽヽ)があるの。そのどれかを選ぶなんてできっこないわ。まあいいわ、アナタ。またどこかで会いましょう、アナタの好きな雨の日にね。赤いポンチョ(ヽヽヽヽ)を着て待っているわ。あなたが()を望む限り、(わたし)はいつでも現れるわ、彼女の皮を被って(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)


 そういうと彼女は僕に背を向けて、白煙の充ちる雨の中に消えていった。彼女の目立つ赤色のポンチョも、灰色から伸びる白糸と白煙の中にすっかり朧気になって、その足音も激しい雨音の中に反響せず永遠に消えてしまった。
そして、一分後、蛇口をひねって止めたかのようにすっかり雨は止み、彼女の痕跡は、そこにはほとんど残っていなかった。ただ、唯一残ったのは、僕の目に焼き付いた、ベンガラのように赤いポンチョと、その瞳の中に降る水銀朱の雨だった。

嘘をつく雨

嘘をつく雨

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更新日
登録日 2019-05-29

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