Mariaの日記 -8-
車での送り迎えが始まって数日後の帰り道、課長は大型スーパーへの寄り道を提案してきた。
「私、恥ずかしながら女房に捨てられて一人身だから……ちょっと行きつけのスーパーへ寄っても良いかな」
「あ、はい。私も買い出ししないと……」
真理子は気付く。今の発言は真理子を気遣ってのことだろう。
真理子だって一人暮らしだから買い出しへ行くことは必須条件だ。冷蔵庫の中が空っぽになれば飢え死にしてしまう。
だが、真理子からスーパーへ寄り道してほしいとは要望しにくい。課長は察してくれたのだろうと思うと、真理子の中に微かな特別な感情が芽吹いた。
真理子は、運転中の課長の横顔を眺めた。
――こんなに優しい人なのに、どうして離婚したんだろう?
真理子は疑問に思うが、単なる上司と部下の関係でしかないのに踏み入ったことを聞くわけにもいかなかった。
「Mariaの日記」はマー君がMariaに告白した日からは、毎日、マー君への愛の言葉で埋め尽くされていた。
雨山にとって、Mariaが発する言葉は真理子が発する言葉なのだろうか?
まるで真理子が雨山に好意を持っているかのように妄想しているのではと思うと寒気がした。
だが、事務所内での雨山の態度は変わらず真理子に対して攻撃的であった。真理子としては、その方が恐怖を感じずに済んだ。
――「Mariaの日記」では、マー君とMariaは付き合い始めている。
もしも雨山自身が、そのような展開を望んでいるのだとしたら……
恐ろしい内容の日記を思い出すと真理子は身震いする。だからこそ、雨山の態度がいつも通り攻撃的であることが真理子を安心させるのだ。
そして何よりも真理子の気持ちを落ち着かせていたのは課長の存在であった。
仕事中、真理子の不安と恐怖が膨らまないように優しく話しかけてくれる。車での送り迎えは滞りなく、数日毎には一緒に買い出しへと出掛けた。
真理子は解決を望む半面、解決してしまえば課長との距離が離れてしまうことを残念に思い始めていた。
ある日。
真理子は残業をした為に帰りが遅くなっていた。
課長の車が停めてある駐車場に着いた頃には辺りは真っ暗になっていた。
真理子は、車の助手席に乗り込もうとして立ち止まった。運転席に課長が乗っていない。
当然、鍵も掛かったままだ。
――いつもなら課長が先に駐車場で待っていてくれるのに……。
真理子はスマートフォンを開いて、課長から届いたメールを確認する。
さすがに事務所から二人並んで帰社するわけにもいかず、いつもメールで時間を合わせて駐車場で合流しているのだ。
遠くに足音が聞こえて、真理子は振り向いた。課長が来たのだろうと……。
近づいてきた人物を確認して、真理子は恐怖に凍りつく。
――なんで雨山が!!
大路真理亜などという酷似した偽名でMariaという最悪のキャラクターを生みだした男。
ネットで笑い者にしたいほど自分を嫌っているのか。それともMariaに告白したってことは歪んだ愛情のような物を持っているのか……。
何れにしろ、暗闇で二人きりになるのは怖い相手だ。
雨山は、車の近くに立つ真理子の姿を確認すると怪訝な表情を浮かべた。
真理子は怯みながらも雨山に声を掛けた。
「な、何か用ですか?」
脅える真理子を見て、雨山は文句を言う。
「お前なぁ、自分から呼び出しといて何の用かは無いだろ」
「呼んだ? 私が? ……まさか! 私が雨山さんを呼び出すはずないでしょう!! 変なこと言わないで下さい!!」
雨山は真理子の態度に激昂して声を荒げた。
「お前が駐車場に来いって呼び出したんだろうが! ふざけるな!!」
雨山の言葉に、真理子は不安になる。
――こいつ、現実とブログの区別が付かなくなってきているとか……?
真理子の脳裏を嫌な想像が過る。だが、怯えから弱々しい態度で接することは真理子のプライドが許さなかった。
こんな卑怯な男に屈することなど出来ない……!
この気持ちが高まると、真理子の言葉は強みを増していく。
「近づかないで下さい!気持ち悪いブログとか書いて迷惑です!!」
「はぁ? 何? ブログって……」
「白々しい! もう嫌がらせは止めてください!!」
「雨山!!」
足早に近づいてくる人影が雨山を呼んだ。
真理子は、声の主が誰なのか気付いて安堵した。
「雨山! こっちに来い!」
課長は、大きな声で再び雨山に声を掛けた。
「……ったく、何なんだよ」
雨山は愚痴ってから、課長の方へ小走りで向かった。雨山は課長と少々会話した後、ちらりと真理子のほうを振り向いたが、そのまま会社のほうへと歩いて行った。そして課長が真理子のほうへと近付いてくる。
真理子は恐怖から解放された安堵の溜息を吐いた。
「大丈夫だった?」
「あ、はい……怖かったけど課長が来てくれたから……」
課長は助手席のドアを開けて真理子に乗るように促す。
真理子は「ありがとうございます」とお辞儀をしてから乗り込んだ。
課長は運転席に座ると真理子に声を掛けた。
「ごめんね。直ぐに事務所を出ようとしたんだけど電話が掛かって来て……まさか雨山が行くとは思わなくて」
「雨山さん……」
真理子は口籠ってから言葉を続けた。
「あの人、ブログと現実の区別が付かなくなってるのかもしれません。私に呼び出されて駐車場に来たって言ってたし……」
「大路さんに呼び出された? そんな妄想を……雨山が?」
「はい……」
「雨山が……ちょっとそれは……」
課長の言葉が途切れ、真理子は不安から課長の顔を覗きこむ。
「課長?」
「ああ、うん……。ちょっと危険だね。でも大丈夫、私に任せてください」
課長は真理子の方を向いて笑顔を見せた。
その優しく頼もしい言葉に真理子は安心感を覚える。
「ありがとうございます」
Mariaの日記 -8-