水死体に咲く花
夏だ。そうぽつりと私は言葉にする。命の匂いが濃くなる季節。道行く緑が目に優しい。吹く風はどこか夏休みのグランドの匂いがする。「わたし、ちゃんと呼吸できてるかしら」平日の昼間からベンチに座ってそう呟く。足をぶらぶらさせて、中原中也の詩集を読んでいる。だけど集中できなくて人間には知らない言葉で小鳥は騒がしく鳴いているのをまるで知らない国に迷い込んだ気持ちで聞いている。突如、足元に影が映ったので見上げたら、見知らぬ青年が立っていた。まだ若い。顔立ちははっきりしていて、ハンサムだ。「あの」そう言葉にした。ナンパかしらと身構えていると彼は気づいたのか慌てて手を振って、「隅っこの空いた席に座っていいですか」と訊いてきた。私はどうぞと答える。ぷつりと会話はそこで途絶えた。沈黙の帳が降りる。世界に風のざわめきが息を吹き返した。小鳥は騒がしく鳴いて、髪がさらさらと揺れる。本をめくる音は意味深だ。ふと、とある言葉が浮かぶ。「命の匂ひが薄れる冬が訪れて、やっと呼吸が楽になるのです。まるで水死体に咲く花のやうな」ため息を漏らした。その言葉は糠雨の中で何日も濡れながら彷徨って見つけた温もりだった。ひとりで生きて、いつしか勝手に救われてくのだと少し前を向いて歩んでいこうとふいに思った。
水死体に咲く花