二十年のこだま

「吉岡さん、二週間後のマーラーの五番、トップを吹いてもらえないかなあ。近藤のお母さんがちょっと大きな病気で入院したらしくって、彼、しばらく吹けないって言うんだよ」
 事務局の浜田が恐るおそるといった様子で訊いてきた。
「来月のマーラーって、誰が振るんだっけ?」
 吉岡が尋ねると、浜田は「ボスだよ」と言った。音楽監督の所澤が指揮をするということだ。マーラーの五番か、と思った。最後に舞台で吹いたのはいつだろう。少なくとも五年は演奏していない気がする。若い頃は得意にしていたが、定年を間近にしたホルン奏者が吹くには大変な曲だ。
 演奏家にとって老いによる肉体の衰えは避けることのできない敵だ。特に金管楽器では、人によっては技術の低下がかなり顕著に現れる。吉岡の所属するホルンパートは、表向きは吉岡と近藤の二人の首席奏者による二枚看板となっていたが、吉岡に技量の衰えが見られるようになったここ数年は、近藤がほぼ一人で難曲を受け持っていた。四年前に若くしてこのオーケストラの首席の座に就いた近藤は抜群の技量と音楽性の持ち主で、彼自身も自分の力を発揮できる曲に登板したがったし、吉岡の方も、いまさら自分が出しゃばるより優秀な若手に機会を与えた方がいいだろうと、近藤の望むままに大曲を譲っていた。
 やがてそれが続くうちに吉岡には易しい曲だけを割り当てるという不文律のようなものができあがり、それに伴って吉岡は、周囲の自分を見る目が変化してきたことにも気がついていた。誰も表立って口には出さないが、オーケストラ内には吉岡をどこか避けるような空気ができあがっている。吉岡はそのことで申し訳なさも感じていたが、どうせあと数年で定年なのだからと割り切っていた。
 来月の定期演奏会は、ホルンに重要なソロがあるマーラーの五番がメインのプログラムということで、いつものように出番が近藤に割り振られていた。だが近藤が出られないのであれば仕方がない。外から臨時の奏者を雇うこともできたが、自分がいるのにそれでは団に迷惑もかかる。そして心のどこかに、自分がマーラーから逃げたと思われたくないという気持ちもあった。
 吉岡は手帳を開き、浜田にリハーサルと本番の日程を聞きながらスケジュールを確かめた。多少の調整は必要だが、日は空けられる。吉岡は心配そうな様子の浜田に向かって無言で頷いた。
「ありがとう。助かるよ。いや、また吉岡さんのソロが聴けるのは嬉しいな。楽譜は用意してあるから、いつでも取りにきてよ」
 浜田はそう言って立ち去っていったが、彼の言葉が本心から出たものではないことは吉岡にも分かった。なにより吉岡の顔を見る彼の不安げな表情がそれをはっきりと物語っていた。あれは予定外の出番を吉岡に割り当てる心苦しさだけから出たものではない。吉岡さん、腕の落ちたあんたはもうこの曲が吹けないんじゃないかな。昔はあんたもすごかったが、いまじゃ歳を取りすぎた。浜田が内心でそう言っている声が、吉岡にははっきりと聞こえるようだった。吉岡の心にふと、くすぶっていた(おき)から小さな炎が立つように、久しぶりに思い切り吹いてやろうかという思いが浮かんだ。
 三年前に音楽監督が先代から現監督の所澤に代わって以来、このオーケストラの雰囲気は大きく変わっていた。人柄が温厚で礼儀正しく、誰からも尊敬されていた先代の監督と違って、所澤は愛嬌があると同時に癖もある性格で、周囲に敵を作ることも多かった。しかし所澤は、オーケストラを力強く鳴らし、本番の舞台で演奏を大きく盛り上げる能力では誰もが認める才能の持ち主だ。
 所澤が音楽監督に就任してから二年ほどは、前の音楽監督とつながりの深かったベテラン団員が所澤に反発し、それに伴って団内の派閥間の亀裂もかなり大きくなった。混乱の余波は演奏水準の低下として顕著に現れ、しばらくは舞台で演奏していても皆の音が噛み合わず、情けない演奏に終始することが少なくなかった。
 ちょうど同じタイミングで吉岡自身の技術の衰えも急速に進んだ。いつか起こり得ると頭では分かっていたつもりでも、いざ実際に自分の衰えを現実として突きつけられると、吉岡は大きなショックを受けた。それが原因で、オーケストラで演奏することにあまり情熱を持てなくなっていった。
 それでも時間の経過とともに団員たちは所澤の流儀に次第に馴染み、ベテランの有力団員が相次いで定年退職したこともあって、団内の波乱は次第に落ち着いていった。演奏の質はふたたび目に見えて向上し、所澤も本領を発揮できるようになって、オーケストラはかつてない充実した音を出すようになった。それがここ一年ほどのことだ。一時は低迷していた定期演奏会の客足も戻り、いまでは楽団史上でもまれに見る黄金時代が到来したというのが業界での一致した評価だった。
 団の雰囲気が悪かったころは演奏をしていても楽しくなかったし、自身の衰えもあって、吉岡はいつしか楽団の活動に心理的な距離を置くようになっていた。だがふたたび好調を取り戻した団の中で、自分だけが大曲・難曲から逃げている後ろめたさを感じながら、こんなふうに腐ったままではいけないという思いも最近は少しずつ心の中に募っていた。そこへ降った湧いたような今回のマーラーの五番だ。
 吉岡にとっては、この一年ほど心のどこかで待ち受けていた機会だったのかもしれない。若い頃のようには吹けないことは分かっているが、いまでもまだ本気を出せばそれなりには吹けるはずだ。心の奥に小さなかけらとなって眠っているプライドと、改めてきちんと向き合うべき時が来たのかもしれない。
 いまの自分に本当にマーラーのトップが勤まるのかという不安と、それでも久しぶりに前向きになって高揚した気持ちを抱きながら、吉岡は譜面を受け取りに事務室へ向かった。

「吉岡さん、今日はあまり飲まないのね」
 ジョッキに三分の一ほど残ったビールを見て、居酒屋の若い女主人がカウンター越しに言った。三十代半ばの彼女は長い髪を後ろにまとめ、白に近いベージュのトレーナーの上からエプロンをつけている。下はいつものように細いGパンをはいている。
「いやあ、今日の練習でずいぶんしごかれちゃってねえ」
 吉岡は笑いながら、刺身をつまんでいた箸を止めて答えた。
「あら、最近はあまり出番を取らないって言ってたじゃない。ずいぶん楽になったって言ってたのに、珍しいのねえ」
 吉岡は思わず苦笑した。いくら飲み屋の会話でも、そんなことを言っていたと同僚の奏者たちに知られれば、さすがにどう思われるかわからない。ただでさえ最近は肩身が狭いのだ。
「いちおうオーケストラの団員だから、演奏しないわけにはいかないしね。たまには大きな出番も回ってくるよ。あの、ちょっとおでんをもらえるかな」
 吉岡がそう言うと杏子さんはにっこり笑ってカウンターの奥へ行った。
「吉岡さん、ビールのおかわりは?」
 彼女が鍋からおでんを器によそいながら言った。
「いや、いいよ。おでんだけ頂戴」
「はーい」
 この店は落ち着くなと吉岡はいつも思う。今日のような大変な一日のあとにこういう店があると、ほっと助けられるような気がする。同僚と飲みに行くときは練習場の近くの大きな居酒屋へ行くが、ひとりで飲みたいときは自宅の近くにあるこの小さな店に来る。特に最近はこっちの店に来ることが多い。カウンターが数席に小さなテーブルが二つあるだけの店だ。
 人情の吹き溜まりのように街のすきまにひっそりと(たたず)むこの店は、間違っても誰かの目に留まって雑誌に取り上げられるようなところではない。目立たないビルの狭い階段を上がって二階にある隠れ家のような店だが、内装はずいぶんくたびれ果てて、古ぼけた天井の木の板には誰かがわざわざ灰色のインクを投げつけたような染みが広がっているし、床のタイルもひび割れだらけだ。入り口の引き戸はがたついて開けるのにコツがいる。冷蔵庫だけは場違いに新しくきれいなものがカウンターの奥に収まっているが、これは石器時代の遺物のようだった前の冷蔵庫が秋に故障して、新しいものと入れ替えたばかりだからだ。それでも店は手の届く範囲できちんと清潔に保たれ、料理も珍しいものはなくともちゃんと手をかけたものが出てくる。ひとりで静かに飲むには何の不足もない。
「吉岡さん、こんどは何を演奏するの? ベートーヴェン?」
 彼女は吉岡に出番を尋ねるときは、必ずベートーヴェンかと聞いた。いつもベートーヴェンって言うね、と以前に吉岡は言ってみたことがある。
「だってそれしか知らないから」
 杏子さんはそう答えた。特に腹も立たなかった。世間一般の人にとって、クラシック音楽なんてそんなものだ。
「いや、マーラーという作曲家だよ」
「ふうん、マーラー」
 杏子さんは言葉の響きを確かめるように言った。
「なんだか辛い中華料理みたい」
「まあ、そう言う人もときどきいるけど」
 吉岡は苦笑いしながらいった。ときどきそう言う人もいる。
「マーラーはチェコだかスロヴァキアだか、あのへんの出身だったと思うけど、活躍したのは十九世紀の末ごろのウィーンだね。いわゆる世紀末ってやつだよ。難しいホルンのソロがあるんだ」
「へえ、それを吉岡さんが弾くの?」
 杏子さんはいつも「弾く」と言う。ホルンは管楽器なので、「弾く」のではなく「吹く」ものだと何度か説明したが、彼女がずっと「弾く」と言い続けるので、吉岡もじきに諦めてしまった。
「そうだよ。だから練習でつかまっちゃって、しごかれたんだ」
 わたしクラシック音楽ってよくわからないからなあ、と言いながら彼女はおでんの皿を吉岡の前に置いた。
「いちど聴きにくるかい? チケットなら都合するよ」
 吉岡は大した期待もせずにそう言った。いままでにもなんどか自分の出る演奏会に彼女を誘ってみたことがあるが、いつも店を休めないからと断られているのだ。今日も彼女は首をかしげるようにして少し考え込んでから、結局「お店があるから……」と言った。
 まあ構わない。彼女には別に吉岡の演奏を聴く義理もないのだ。吉岡は出されたおでんの大根に辛子をつけて口に運んだ。柔らかくなった大根に染み込んだ出汁の味が、辛子のつんとする香りとともにじわりと口に広がった。吉岡はビールのジョッキに手を伸ばし、ひと息に飲みかけたところで手を止めた。いや、やめておこう。今日は深酒はしないと決めたのだ。明日は音大の指導もないし、久しぶりに自分のためにしっかりと練習しなければならない。今日のリハーサルでばててしまうまでさんざん吹かされた挙句にここで飲みすぎたら、今回せっかく転がり込んできた機会を棒に振るのは目に見えている。
 吉岡は午後の練習を改めて思い返した。今日がマーラーの五番の最初のリハーサルだった。練習場へ入ってきた所澤が指揮台に上り、オーケストラを見渡して最初に目を留めた相手が吉岡だった。
「お、ホルンは吉岡さんなんだね」
 何気ない口調で所澤はそう言ったが、吉岡にはその言葉が「本当にちゃんと吹けるの?」と言っているように聞こえた。心なしか周りの奏者たちの冷たい視線が自分に集まった気がした。考えすぎかもしれないし、そうでないかもしれない。だが所澤はこのオーケストラの音楽監督だ。主要な奏者の実力はすべて把握している。ホルンのソロが決定的に重要な役割を果たすこの交響曲で、所澤が不安を覚えたのは間違いないはずだった。
 所澤はリハーサルの最初に全曲をざっと通してしまうと、そのあとはホルンのソロがある第三楽章を重点的に取り上げた。
「この楽章が全曲の要になるし、一番難しいからね」
 彼はオーケストラ全体に向かってそう言ったが、練習で実際に一番つかまったのは吉岡だった。このところの技術面の苦しさから、吉岡は難しい楽譜を大きな破綻のないように何とかごまかしながら吹く癖がついていた。今回のマーラーは最近では珍しく事前にかなり練習をしておいたつもりだったが、やはり何年も体に染みついた習慣は簡単には消えはしない。吉岡が守りの姿勢で出す音はどうしても覇気がなく、小さくまとまったものになりがちだった。所澤はもちろんそれを見逃しはしなかった。
「吉岡さん、そこもっとしっかり鳴らして。ほら、ヨーロッパの騎士物語なんかで、角笛が粉々に砕け散ってしまうくらい朗々と吹き鳴らすなんてのがあるじゃない。あんな感じで吹いちゃってよ」
「吉岡さん、そこクレッシェンドをしっかり効かせて」
「吉岡さん、そこ、フレーズ感はいいんだけど、スタッカートを曖昧にしないで」
 所澤は厳しく注文をつけながら、ひたすら吉岡にソロを吹かせた。曲が進むにつれて別のパートへの指示も出していたが、それは単に吉岡をしばらく休ませる口実でしかなかったように、すぐにまたホルンのソロに戻っては執拗に吉岡に吹かせるのだった。
 リハーサルの終盤には吉岡はすっかり疲れ果て、集中力も切れてミスを連発していた。口の周りの筋肉は疲労でコントロールが効かなくなり、疲れ目で楽譜もぼやけて見えた。リハーサルが終わったときには吉岡は思わず椅子の背に体をもたせかけ、眼鏡を外して天井を見上げながら大きく息を吐いた。
「お疲れ様でした」
 隣の二番ホルン奏者が吉岡に声をかけて練習場を出ていった。近くにいた他の楽団員たちも吉岡に挨拶をして去っていったが、三番ホルンの真川だけは何も言わずに出ていった。突き刺さるように冷たい無言の嘲りを吉岡は感じた。だが腹は立たなかった。彼の立場からすれば無理もないのだ。
 四年前に首席ホルン奏者のオーディションがあったときに、真川は団内から応募していた。しかし外部から応募してきた近藤が首席の座を勝ち取ったために、真川はいまも三番奏者に留まっている。吉岡は首席ホルン奏者として応募者たちを審査する側にいたが、吉岡から見れば真川は音楽的に冷淡な印象を与えるところがあり、首席奏者に向いているとは言い難かった。技術的には申し分ないが、聴衆に感銘を与える音楽を奏でるという点ではどうも物足りないのだ。そのためにオーディションで真川を落としたのだが、間の悪いことにオーディションから時を置かずして吉岡自身の技量が衰え始めたのだった。吉岡と真川の間がぎくしゃくしだしたのはその頃からだった。吉岡が首席の座にしがみつき、自分にはチャンスをくれずにいる。真川がそう考えていることは吉岡にもよく分かった。
 真川を落とした吉岡自身が、いまの体たらくでは首席奏者の責任を果たせているとはとても言えなかった。重要なソロを吹かなければならないところで、このとおり息も絶えだえになっている。吉岡は、自分を辞めさせるために真川が音楽監督の所澤に直談判したという噂も耳にしていた。だが、それは仕方ないと思う気持ちも心のどこかにあった。結局は実力がものを言う世界なのだ。吉岡は、過去の栄光に頼って自分をことさらに権威付けし、自分の地位にしがみつくようなことだけはしたくなかった。過去にそうやって醜態をさらした諸先輩を何人も見ていたからだ。自分自身もその一歩手前にいる今となっては彼らの心情も分からないではない。それでも、彼らの同類となって晩節を汚すようなことは避けたいと思っていた。
 だが、仮に自分がクビになるにしても、ただ静かに消えていきたいとは思わなかった。その前に、あだ花の一つでもいいから咲かせてやりたい。周囲に対して一矢報いるというのではなく、もういちど自分自身のために奮起したい。幸い本番までは少し間があった。まだ自分なりに準備をする余裕はある。
 楽器を片付けて練習場を引き揚げようとしたところで、吉岡は事務局の浜田に呼び止められた。
「吉岡さん、ボスが呼んでるよ。ちょっとだけ話したいことがあるんだって」
 ふと自分のまわりの空気が冷たくなった気がした。来るべき時が思ったよりも早く来たのだろうか。
「ああ分かった。ありがとう浜ちゃん」
 吉岡はわざと明るい声でそう答え、指揮者の控え室へ向かった。
「ああ吉岡さん、わざわざごめんね」
 所澤は吉岡を普段と変わらない調子で出迎え、椅子をすすめた。
「今日はたくさんつかまえちゃって、すみませんねえ」
 吉岡が椅子に座るのを待たずに、所澤は立ったまま話し始めた。
「いや、こっちこそ頼りないソロで申し訳ないよ」
「いやいや、なに言ってるんですか。立派だったじゃない。あれだけ吹ける人はそういないよ」
 吉岡はおやと思った。所澤の口調には、吉岡に降板を切り出す緊張感といったものは感じられなかったからだ。所澤という男にはなんとも言えない愛嬌がある。少なくとも吉岡は所澤に好意的な印象を抱いていた。彼が自分よりずっと年上の吉岡にくだけた口調で話すのはいつものことだが、吉岡がそれを失礼だと感じたことはいちどもない。彼の言うことなら丸ごと受け入れたいと思わせるものを、所澤は持っている。だが安心はできなかった。所澤が世界のオーケストラを相手に活躍する海千山千であることもまた事実なのだ。
「いや、ちょっと吉岡さんにはちゃんと伝えとかなきゃいけないかなと思うことがあって、こうして来てもらったんだけどさ」
 やっぱりきた。吉岡は緊張して身構えた。
「俺ね、吉岡さんがソロを吹いてくれるって知って、実は今日ものすごく嬉しかったんだよ。もう二十年くらい前かな、俺がまだ学生の時分に吉岡さんがこのシンフォニーを吹くのを聴いてさ、俺めちゃくちゃ感動したんだよね。いつか自分が指揮台に立って、吉岡さんにあのソロを吹いてもらえたらいいなって、そのときすごく思ったんだよ」
 吉岡はなにも言わずに所澤の次の言葉を待った。
「吉岡さん、今日のリハでも言ったんだけど、もうバンバン吹いちゃってほしいんだよ、昔みたいに。誰にも遠慮なんてすることないからさ。そもそもマーラーの五番って、何かと戦ってる音楽でしょ。俺はそれってマーラー自身が当時の保守的な楽壇と戦ってたんだと思ってるんだけど。後の方の大地の歌とか九番のシンフォニーくらいになるとさ、もっと後ろに引いた諦観みたいなのが出てくるけど、五番はやっぱり戦わないといけないんだよ。だから細かいことを気にせずリスクを取って吹いてもらえないかな。何があっても俺が責任を取るから。演奏の最後の責任は指揮者の俺にあるんだよ。だからもう、悪いことは全部俺のせいにして吹いちゃってほしいんだよ」
 それは違うだろうと吉岡は思った。ホルンのソロに最後の責任を持つのはこの自分だ。音楽の方向性を指し示すのは指揮者の仕事だが、実際に音を出すのは奏者の役割だ。出てくる音そのものの最終的な責任は、どう考えても奏者の側にある。だがそう言おうと思っても、予想外の話の流れに疲れた頭がついていかず、言葉がうまく出てこなかった。
「分かったよ、ありがとう」
 なんとかそれだけ言って立ち上がった吉岡の肩をぽんと叩き、所澤は笑顔を見せた。
「吉岡さん、疲れを溜めないように今日はゆっくり休んでね」
 控室を出ながら、吉岡は自分でも驚くほど前向きな気分になっていた。所澤に気を遣わせたことは自分でも情けないと思うのだが、それ以上に彼のためにしっかりソロを吹こうという気持ちが強く湧き起こっていた。ちょうど明日はリハーサルも大学の指導もない日だ。今夜はかるく一杯だけ飲んで、明日は練習に励もう。
 吉岡は空になったおでんの皿を脇によけて、ジョッキに少し残ったビールを飲み干した。
「杏子さん、お勘定」
「はーい」
 彼女がうつむき加減に伝票を見ながら電卓を叩いている間に、吉岡は壁にかけていたマフラーを首に巻き、コートを羽織った。
「二七四〇円です」
 吉岡は言われた額をきっちり払い、椅子の脇に置いていた楽器ケースを手にした。
「ありがとう。また来るよ」
「ありがとうございます。コンサート頑張ってくださいね。えっと、何だっけ。ベートーヴェンじゃなくて、ほら、辛いやつ」
「マーラー」
「ああそれだ。ごめんなさいね。じゃあ、おやすみなさい」
 吉岡は思わず笑いながら店を出て家に帰った。

 第二楽章が終わりに向けて静かになり、チューバがこの楽章の主題の断片を厳かに吹いたあと、低弦のピチカートが静かに楽章を締めくくった。吉岡は楽器のマウスピースに口を当て、音を出さずに軽く息を吹き込んだ。それから小さく肩を回して息を吸った。緊張はなかった。
 燕尾服姿の所澤が指揮台から吉岡を見た。吉岡は小さく頷いた。所澤が指揮棒を持ち上げ、吉岡の右に並んだホルンパートが一斉に楽器を構える。所澤が鮮やかに棒を振り下ろすと、吉岡を除くホルン奏者たちが勢いよく三楽章冒頭のファンファーレを吹き鳴らした。彼らの音がフォルテで最高音に達したところで吉岡も流れに加わり、そこから朗々とソロを吹き始める。調子は悪くない。所澤の求めるとおりの豊かな音が出せている。
 木管楽器や弦楽器と絡みながらホルンのソロが進み、高いレの音まで軽やかに音階を駆け上がって最初の一節が終わる。気分が良かった。こんなに自信と誇りをもって本番に臨むのは久しぶりだ。次のソロに向けて楽器を構えたところで突然確信が閃いた。大丈夫だ。今日は吹ける。昨日までのリハーサルでは感じなかった手応えを、いまははっきりと自分の中に感じることができる。
 音楽が進み、オーケストラがずっしりとした響きで歩みを止めたところで、吉岡はその重みをすべて一人で引き受けるようにフォルテッシモのソロを吹く。オーケストラの強奏を突き抜けて満員のホールに自分の音が響き、遠い過去のこだまのように残響音が返ってきた。弦楽器が吉岡のソロを受けて静かな和音を鳴らす。そしてまたホルンのソロ。吉岡は全力で楽器を吹き鳴らした。体と楽器が一体化した感覚があった。自分の思いのままに楽器が鳴っている。それでいてすべてが見通せるほどに意識が冴えている。そう、これだ。この感覚が本当なんだ。
 そう思った瞬間、吉岡の脳裏に突然二十年前の演奏会の記憶が弾けた。いまはもう引退してしまったトランペットの田代さん、トロンボーンの藤川さん、そしてチューバの中野さんと一緒にマーラーの五番を吹いたときだ。みな金管の名首席といわれた人たちだった。当時まだ若かった吉岡は、あの演奏会で渾身の気合を込めてソロを吹いた。全力で吹けば吹くほど、舞台の向こう側からトランペットやトロンボーン、チューバが分厚い響きで反応してくる。楽譜と指揮者を見ている吉岡の視界には入らないはずの彼らの表情が、目の前にありありと見えた気がした。彼らの音に触発されて、吉岡はますます絶好調にソロを吹ききった。
 あれは言葉を超えた対話であり、壮絶な真剣勝負だった。触れただけで火花が散るような緊張感があり、恐ろしいまでの快感があった。皆が自分の技を誇りながら他の奏者にも敬意を払い、またとない個性と連帯感をみなぎらせていた時代だった。そんな演奏を日常的にやっていた日々が、かつては自分にもあったのだ。
 輝かしい過去の日々を思い出し、吉岡はやる気のギアがさらに一段上がるのを感じた。突然力強さを増した吉岡の音に、指揮台の所澤が一瞬驚いたような顔を見せ、それから嬉しそうに満面の笑みを見せた。吉岡から始まった音の変化は瞬く間にオーケストラ全体に広がり、舞台から客席へあふれ出た。
 吉岡はソロを吹きながら、二つ隣に座っている真川がちらりと自分の方を見たのを目の端に捉えた。吉岡の変化に驚いているのだろう。まあ無理もない。吉岡自身が自分の変化に驚いているのだ。
 吉岡は演奏に集中した。練習の時にはここはこう吹こう、あそこは少しこうしてみようと頭でいろいろ考えていたが、いまは音楽の表現が心の奥から自然に流れ出ている。自分と音楽が一体化し、意識の流れに寄り添って演奏すれば、それがそのままあるべき音楽の姿に変わっていく。自分でもますます調子が上がるのを感じながら、吉岡は第三楽章を一気に吹き切った。あっという間にこの楽章が終わった気がした。二十年前もそうだった。
 第四楽章は弦楽器とハープだけで演奏される美しいアダージェットだ。三楽章で輝きを増した弦楽器の音色は四楽章でもそのままで、吉岡は穏やかな気分で官能的な響きに心を委ねた。このオーケストラの弦楽器がこれほど充実した明るい響きを出すのを、吉岡はこれまで聴いたことがなかった気がする。ここ数年で楽団の弦楽器の水準は飛躍的に向上したが、それにしても今日の弦の艶と色気は尋常ではない。むせ返るような香気を放って聴き手をマーラーの世界へ誘い込み、心を捉えて離さない。
 吉岡は演奏を聴きながら思わず笑い出しそうになった。面白いことがあったからではない。いま自分がこの演奏に加わっていることに突然たまらない愉悦を感じたのだ。このまま永遠にこの音楽の世界に入り込んで、美しい響きにひたったままマーラーの情景を彷徨(さまよ)い続けたかった。
 しかし弦楽器が分厚い響きで四楽章を締めにかかると、別の思いが吉岡の心を揺り動かした。さあ、また吹くときがきた。明るく鈴が鳴るように何かが心にそう告げた。その声を聞くと吉岡は音の快楽の眠りから目覚め、ふたたび演奏の興奮が自分を支配するのを感じた。楽器を構え、マウスピースから息を吹き込んで楽器を温める。息が楽器を巡るのに合わせて、研ぎ澄まされた集中力が自分の意識を駆け巡る。
 やがて弦の響きが彼方に消えていき、爽やかな朝の光が射し初めるように吉岡のホルンが夜明けを告げる。ファゴットとオーボエのソロがしばらく吉岡のソロと掛け合いを続け、やがて堰き止められていた大量の水が溢れ出すように、最終楽章の音楽が一気にほとばしり出た。管楽器を主体とした音楽がしばらく続き、次いで巨大なフーガが姿を現した。
 ここからは一気呵成だった。この楽章では複数のホルン奏者が同じ音を一緒に演奏する場面が多いが、その合間に時おり吉岡のソロも回ってくる。数人で演奏するのであれ、ソロであれ、吉岡はとにかく吹いた。思い切って全力で吹き切った。
 もちろん昔とまったく同じように吹くことはできなかった。ちょっとした細かいミスは避けられなかったし、その頻度は最終楽章に入って明らかに上がっていた。やはり歳には勝てない。口のまわりの筋肉には疲労がたまり、弱くなった腹筋はしっかり息を支えきれず、若い頃のようには音をコントロールできていない。昔ははち切れんばかりの響きで、どんなパッセージを吹いても揺るぎない安定度を誇ったものだが、いまでは音がときどき支えを失ったように揺れてしまう。音を並べることに必死でリズムが崩れることも少なからずあった。そして何より、自分自身を支え、疲れや困難に立ち向かうだけの体力と精神力が弱まっていた。ここぞというところの最後のひと踏ん張りが、どうしても効かないのだ。
 それでも聴き手に何かを訴えかける力はまだ残っているはずだ。吉岡はそう信じて必死に吹き続けた。現にいま、客席は静まり返って演奏を聴いているではないか。聴衆の顔は見えないが、誰もが息を詰めて自分たちの演奏に聴き入っていることは、舞台上からもはっきり分かった。
 音楽はそのまま終結部に入り、所澤は狂ったようにテンポを上げてオーケストラを(あお)りに煽った。オーケストラも必死で指揮に喰らいつき、凄まじい勢いで一気に曲を締めくくった。途端に客席からすさまじい拍手と歓声が沸き起こった。汗だくになった所澤がオーケストラのメンバーを立たせ、指揮台から降りた。所澤が客席に向かっておじぎをすると無数のブラボーの声が重なって、怒号のように会場に鳴り渡った。
 所澤はいちど舞台袖に下がり、すぐに舞台に戻ってくると弦楽器のメンバーをかき分けるようにホルンパートの方へやってきて、吉岡ひとりを最初に立たせた。客席の拍手と歓声が大きく膨れ上がった。吉岡が思わずのけぞるほどの圧力だった。
 久しぶりの充実感を覚えながら、吉岡は他のホルン奏者たちも一緒に立たせた。客席からまた盛んにブラボーの声が飛んだ。横で一緒に立っている奏者たちを見たときに、ふと真川と目が合った。真川はすぐに目をそらして客席の方を向いた。
 吉岡は不意に胸を突かれたような気持ちになった。真川に勝ったとか負けたとか、そういう思いではなかった。自分の時がもう過ぎ去ろうとしている。急にそんな気がしたのだ。もうそろそろ彼らに道を譲る時なのかもしれない。
 所澤はホルン奏者たちを座らせ、こんどはトランペットの首席奏者を立たせた。そして次々と管打楽器の奏者たちを立たせていき、最後にオーケストラ全体を立たせて指揮台から客席におじぎをした。会場の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

「ああ吉岡さん、ちょっと聞きたいんだけどさ」
 次の演奏会のリハーサルを終えて楽器を片付けている吉岡のところに事務局の浜田がやってきて声をかけた。
「なんだい浜ちゃん」
「近藤から連絡があってさ、お母さんが来週退院できることになったんだってさ。こないだマーラーの五番を吹いてもらったから、来月の定期の火の鳥は近藤が替わりに吹いてもいいって言ってるよ。どうする?」
 吉岡は少し考えてから答えた。
「いや、俺が吹くよ」
 浜田はそれを聞くと頷いて言った。
「頼もしいなあ。また火の鳥もソロがあるね。じゃあお願いね」
 浜田はそう言って去っていった。
 あのマーラーの五番を全力で吹き終えたとき、ほとんど虚脱状態の中でもう潮時だと思った感触はいまでも心のなかに残っている。だが演奏会が終わって日が経つにつれて、ふたたびもっと吹きたいという思いが強まっていた。もちろん音楽に真摯に立ち向かい、日々の演奏をこなしていくことは楽ではない。しかしまだ吹きたいという気持ちがあるうちは、もう少し吹いてもいいのではないか。吉岡はいまではそう考えていた。なんと言っても自分はまだそれができる立場にいるのだ。
 吉岡は練習場からの帰り道に一杯やろうといつもの店に寄った。
「ああ吉岡さん、待ってたのよ」
 吉岡の顔を見るなり杏子さんはそう言った。
「こんばんは。どうしたの?」
 吉岡がコートを壁に掛けながら聞くと、彼女は得意そうな顔で言った。
「わたし、吉岡さんのコンサートに行ったのよ」
「え、そうなの?」
 吉岡は心底驚いた。
「お店があるって言ってたじゃない」
「そうなんだけど、彼氏からどうしても行きたいコンサートがあるからって誘われたのよ。このまえ吉岡さんが演奏会の話をしてたから、わたしもなんだか急にオーケストラを聴いてみたくなって、お店を休みにして行っちゃったのよ。そしたら驚いちゃった。吉岡さんが出てるんだもん」
 杏子さんの彼氏というのがどんな相手なのか吉岡は知らなかった、そもそも彼女に恋人がいることを吉岡は今日まで知らなかったのだ。新しくできた恋人なのかもしれない。吉岡は心の中でその男性に感謝した。
「そうか、聴いてもらえたなら嬉しいな。どうだった? 楽しめたかな?」
 彼女の顔が大きくほころんだ。
「ええ、すごい迫力だったわ。ああいう、交響曲っていうのかな? 私、クラシックの音楽をちゃんと聴くのは初めてだから詳しいことは分からないんだけど、なんだか聴いててぞくぞくしちゃった。吉岡さんもいっぱい吹いていたでしょう。よく聞こえたわ。吉岡さんの楽器の音がとっても心地よくって、私ずっとあの音を聴いていたいって思ってたの」
 杏子さんが「吹く」という言葉を使ったことに吉岡は思わず微笑んだ。きっと彼女の恋人がきちんと教えたのだろう。
「そりゃ良かった。そう言ってもらえるとすごく嬉しいよ」
「それで彼氏がね、吉岡さんってあのオーケストラに昔からいて、伝説的な名人なんだって教えてくれたの。私のお店によく来るお客さんだって言ったらびっくりしてたわ。今回の演目を見て、ものすごく久しぶりに吉岡さんの演奏を聴きたくなったんだって。私たち二人とも吉岡さんを知ってるのに、そのことを二人とも全然知らずにいたのよ。もうびっくりでしょ」
 どこで誰が自分の演奏を聴いているか分かったものではない。彼女の恋人が選んだ演奏会が今回のマーラーで本当に良かった。これがしばらく前の演奏会で、自分が頼りない演奏をしているのを聴いたら、二人はどんな感想を持っていただろう。
「ねえ吉岡さん、こんど彼氏がここへ来て吉岡さんとお話ししたいって言ってるんだけど、いいかな」
「もちろん構わないよ」
「ありがとう。じゃあそう言っておくわ。またこんど日を決めましょう」
「ああ、いつでもいいよ。ところで生を一杯もらえるかな。あと、冷奴と刺身の盛り合わせ」
「あらごめんなさい、最初にそっちを聞かなきゃいけなかったのに」
 杏子さんは慌てたようにカウンターの奥でジョッキにビールを注ぎ始めた。
 吉岡はカウンター席に座ってひと息ついた。昔の自分を覚えている人間が舞台にも客席にもいるということに、あらためて不思議な感慨を持った。都合が合うようなら、杏子さんと相手の男性に火の鳥の演奏会のチケットを手配しておこう。
「はい、どうぞ」
 杏子さんが吉岡の前にジョッキを置いた。
「ありがとう」
 吉岡はビールを一息にあおった。冷えたビールが喉を一気に駆け抜けた。

二十年のこだま

二十年のこだま

老いて衰えをみせ始めたホルン奏者が、演奏会で難曲のマーラーの交響曲第5番を演奏する顛末を描いた短編小説。 フィクションです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-23

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著作権法内での利用のみを許可します。

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