グレート・ジェニファー

横路 枸櫞 作

 僕がふと気づくと、膝の上に白い猫が現れていた。退屈な午後一時の、大学の講義の時に。なんの前触れもなく。
 どうしたことだろう、と心中で呟いてみたが、僕はすぐに鼻で笑った。あぁこれはデイドリームなのだ、と。だいたい考えてみても欲しい。こんな野良猫一匹いない都会の大学に、どうしてこんな毛並みの綺麗な猫が、ましてや僕の膝の上にいるだろうか!しかしデイドリームにも明晰夢(めいせきむ)とやらがあるとは、と僕はすっかり感心していた。
 膝の上の猫は気持ちよさそうに目を細めて眠っている。見たところ、ノルウェージャン・フォレスト・キャットだろう。僕は昔、この種の猫を飼っていたのだ。おそらく間違いないだろう。その猫は、白絹のような真っ白い毛並みで、羽毛のようにふわふわとしている。どことなく上品なブルー・ブラッドのようにも見える。ウィリアムソンティーのアールグレイが好きかもしれないな、と僕は呟き、その毛並みを左手で柔らかく撫でた。懐かしい感覚だった。

「あぁ!僕はわかったぞ」僕は心中で声を上げた。「この夢は僕が飼っていたあの猫を思い出させようとしているのだな!僕をセンチメンタルにさせるつもりなんだな。しかし、そうはいかないぞ。僕はもうそんなセンチメントからは脱却しているんだ」しかし、猫は声もあげず、眠っている。まるで広い世界の中で自分のためだけの居場所を見つけたように。
 僕はだんだん不安になり始めた。よく考えてみたら、ここまではっきりと感触のある夢などあるのだろうか、という疑念を抱き始めたからだ。膝を通して伝わる人間とは異なる熱、洗いたてのシャンプーのにおい、そして、上質な毛織物のような確かな手触り。「現実に、僕の膝の上に猫が寝ているのではないだろうか?」僕はだんだん夢だという自信がなくなってきた。よれよれに萎えたブドウのようになっていたのだ。
 僕はついに気になって周りを見回してみたが、誰一人として僕の膝の上に注目している人はいなかった。気づいていない、とは思いたくないが、そうとしか言えなかった。僕の左右の学生は、もし僕の膝の上に猫がいたのなら、すぐに気づくだろう。しかし、どうやらその様子はなかった。
「おかしい」僕はさらに混乱し始めた。まるで不意に洗濯機に落ちてしまったかのように。「やはり、これは夢なのだろうか?」しかし、猫は気持ちよさそうに、行儀よく寝ている。ただ、穏やかな寝息が聞こえるだけだ。


「今日の講義は、えぇ、以上になります」白髪混じりの髪とひげを蓄えた日本近代史の教授のその声で、退屈な講義が終わった。
 学生たちがすぐに立ち上がり、足早に教室を出ていく。僕の横の通路を何人も何人も通って行ったが、誰一人として膝の上の猫に気にかける人はいなかった。無視とは到底言えなかった。言うなれば、まるで猫がそこにいないかのように、まるで僕がそこにいないかのように、彼らは僕の横を当たり前に通り過ぎるのだ。
「おかしい」僕は膝から猫を下ろして隣の席にそっと置いた。「お前は何なんだい?猫なのか、あるいは僕の夢なのか」僕は次の講義があったので、白い猫をそのままその教室に置いていった。席から離れる際、ちらりと見やったが、猫はまだ眠っていた。
 次の教室に移って、いつもの前から三列目の席に座り、ファイルからプリントを取り出そうとして俯くと、膝の上に猫がいた。先程、教室に置いてきたはずのノルウェージャン・フォレスト・キャットだ。僕はひどく驚いて、「えぇ!」とつい声を上げてしまった。何人かがぱっと僕の方を見たので、しまった、と思い、すぐ間髪入れず、ごほっごほっ、とむせたふり(ヽヽ)をした。それでも猫は眠っていた。十分前と同じ体勢で、同じ雰囲気で、同じにおいで。
 僕は、暗闇の中で辺りのものを確かめて触るように、そっと、ゆっくりその白い毛並みに触れた。「あぁ、この毛並みだ」と僕は心底に感じた。ひどく手に馴染む感覚であった。しかし、どうしてこの猫は僕の膝の上にいるのだろう?
 仮にあの教室から知らずのうちに付いてきたとしよう。もしそうだとしたら、行き交う人々の黄色い歓声を受けるのではないだろうか?世の中には猫を好きな人は多いし、ましてやこの大学だけ全員犬好きというわけでもないだろう。少なくとも僕は猫の方が好きだし、僕の友人たちも猫好きだ。加えて、やはりこの教室でも、膝の上の猫に視線を送る人はいない。人々は熱心にキウイフルーツみたいな頭をした教授を見るか、配布されたプリントに目を通しているか、携帯を見ているかだ。僕以外、誰も猫を見ていなかったし、無論、僕を見ている人もいなかった。
 それでも猫は未だ眠っている。寝息の音がする度に、体がわずかに上下する。確かにこの猫は生きているのだ。そして、生きてここにいるのだ。それは確かだ。「それは確かなはずなんだ」僕は自信なく、静かに独りごちた。


 その講義は、いつの間にか終わっていた。僕が取り憑かれたように猫を撫でているあいだに。気づくと僕の頭はこの猫でいっぱいになっていた。無論、僕が類を見ないほどの愛猫家だ、という自負があるのももちろんだが、それでもこの猫にはある種の魔力があった。得体も知れず、目にも見えず、でもどこかやさしいがなにかが。
 二限が終わり、すっかり昼休みとなった。学生の多くは、三つある学食に怒涛のように押し寄せるが、僕は人混みの中で食事するのが好きではなかったし、加えて三限は空いていたので、大学からすぐ近くにある公立の図書館にひとり向かった。猫をあの教室において。
 誤解してほしくはないのだが、僕はあの猫を毛嫌いしているわけではない。むしろ昔飼っていたジェニファーに寝息までもよく似ていて、それと重ね合わせることもないわけじゃない。ただ、ひとつ僕は仮説をもっている。それを確かめたいだけなんだ。

 赤レンガの図書館にいつもの足どりで入っていく。ここはアメリカやイギリスのようなスタイリッシュな潮流など素知らぬふりの、古き良きレトロな図書館だ。僕はいつどおり海外文学の書架に、いつもと同じ順路でたどり着き、いつものように右手で本を手にし、いつもの閲覧専用の席に着いた。何事もいつも通りに、だ。
 そして、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を開き、その序文を読んでいると、やはり膝に生きている確かな熱を感じた。咄嗟に視線を落とすと、やはりそこには、質のいい今治タオルのようなあの猫(ヽヽヽ)がいた。相も変わらず、気持ちよさそうに目を細めて寝ている。そして、周りの人間も相変わらずこの猫に気づく素振りを見せなかった。
「やはりそうだ!」と僕は心中で呟き、ほくそ笑んだ。まるで計略が全て思うように進んだ軍師のように。エセ探偵が名推理とでも言わんばかりの推理を思いついたように。「やはりこの猫は、僕の夢(ヽヽヽ)、もしくは幻覚(ヽヽ)なのだ!世の人々の中には、入眠時幻覚といって、眠りに落ちるその瞬間に幻覚をみる人もいるという。それも、夢と違って、今いるその位置で、虫などがいるというはっきりとした幻覚を見ると。僕にとっては、それな虫ではなく白猫であり、ウェジーであっただけで、それが入眠時ではなかっただけなのだ。それだけなのだ(ヽヽヽヽヽヽヽ)

 それだけなのだ、と僕は確かめるように何度も何度も頷いた。そして、その眠り猫を何度も撫でた。耳と耳の間を、首から背中を、その臀部(でんぶ)を、やさしく、やさしく撫でた。そこにはいくらかの感情が挟まれていたのは疑いない。それもそのはず、あまりにジェニファーに似ていたからだ。ジェニファーは、僕の都合など関係なく、いつも膝の上に飛び乗って眠ったので、右手で作業をしながら、よく左手で撫でたものだ。気づくと僕は、すっかりセンチメンタルになっていた。

『グレート・ギャツビー』を百ページほど読んだ頃、首と目が疲れて顔を上げて周りを見ると、隣に灰色を被った老人が僕を凝視していた。その老人は手に園芸の雑誌を手にしていたが、それには一瞥(いちべつ)すらせず、僕の方ばかりを凝視している。よくよく見ると、それは僕の膝の上にあるような気がしてきた。
「まさか、そんなはずはあるまい」僕は心底でひどく震えていた。マッドサイエンティストが自身の完璧(だと思っていた)な目論見が外れたように。「そんなはずはない!この猫は僕にしか見えないはずなんだ、そうでないはずがないんだ!」
 心の中の僕は喉が裂け、血が沸騰して心臓がはち切れそうなほど叫んだ。それでも猫は膝の上で眠っているし、灰色は僕を凝視している。
 僕の内側の熱がすっかり冷めると、僕はある試みを思いついた。僕は、隠そうともせず、あからさまにほくそ笑んだ。「すみませんが、」と僕はその灰色に尋ねてみた。いやに丁寧で、むしろ失礼に思われるような態度で。「先程からお手元の雑誌には目もくれず、こちらを凝視されていますが、何か用でもおありですか?」僕はその時どういうふうにいったか、正確には覚えていなかったが、概ねこういう趣旨だったと思う。ひどく嫌味を含んだ口調で話したのは確かだ。
 その質問に対して、その灰色は、意外にもまばたきを一度だけしたばかりで、相も変わらず僕を凝視、いや睨んでいるようだった。まったく僕の声が聞こえてなかったようにも見える。あるいは、まるで僕自体がそこに存在しないかのように――。
 温厚なことで知られる僕も、さすがにその視線が不愉快に思えたので(加えて、その灰色はそれをやめようともしなかったので)、僕は『グレート・ギャツビー』をもとあった棚に戻して、いらだたしげに靴音を鳴らしながら退出した。若干、カウンターにいた司書に睨まれたが、気にもしなかった。僕を睨むならあの灰色を睨んでくれよ、と僕は切実に思った。猫は本棚に寝かせておいた。


 赤レンガの図書館を出て、さてどこへ行こうかと、小学校を囲む細道を歩きながら思案していると、道の先に人影が見えた。さきほどの灰色だ。僕は心底から震えた。計算が狂ったからではなく、脅迫的な恐怖から。
 なぜだ、なぜだ?さきほど、確かに隣の席にいた老人だ、それは確かなんだ。江戸時代の武士の月代(さかやき)のようにすっかり禿げ上がっていて、左右に残った髪は一本残らず灰色で、頭は首が壊れた人形のように変に前に出過ぎている。服装もさきほどと何も変わらない。しかし、僕より後に退出したとして、どう考えても僕より前にいるはずはないし、あの萎えたきゅうりみたいな足で、僕を追い越せるはずはない。そのはずなんだ(ヽヽヽヽヽヽヽ)
 さらに僕を混乱させたのは、その老人が、さきほど本棚に置いてきたウェジーを抱えていることだ!骨と皮だけのふたつの腕で、大事そうに猫を抱えているのだ。その上、猫は、もう眠ってなどいなかった。その大きなグリーン・アイをカッと開き、その小さな楕円の黒目で僕を睨んでいた。
「おい、」とどこから僕に向けて声がした。地の底から響いてきたかのような低い声で、どこか人を不安にさせる声だった。「オレがわかるか?」どうやらそれは灰色からではなく、あのグリーンアイの白猫からだった。「オレを知っているのだろう?サイトウ・ショウタ。オレだ(ヽヽヽ)
「わからないよ」と僕は震えた声で言った。恐怖ですっかり声が裏返っていた。「わからないよ、誰なんだい、君は」
「わからないはずはあるまい。さきほどまでオマエはオレを慈しみを込めて撫でていたじゃないか?エェ?まさか、心当たりすらもない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)とは言わないだろうな、サイトウ・ショウタ」

 本当にわからないんだ、と僕は言おうとしたが、恐怖が喉につまり大きくむせた。僕の頭では到底理解できそうにないことが、今目の前で起きている!それだけは確かだった。猫は僕を睨み、灰色はその猫を抱えている。
 少しあとで息を整えると、「まさか、」僕は脳裏に思いついた言葉をそのまま口にしてみた。素直に答えなければならない、という強迫観念が僕をすっかり飲み込んでいた。「君は、ジェニファーなのかい(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)?」
 その猫はにやりと笑った。「あぁ、そうさ、オレだよ、サイトウ……いや、オールド(ヽヽヽヽ)スポート(ヽヽヽヽ)

 あろうことか、猫が溶岩の流れるような低い声で話し、ましてやそれがかつての飼い猫・ジェニファーだといい、僕がさきほどまで読んでいたジャツビーの真似さえもしてみせたのだ!「夢であってくれ」と僕は瞼の裏で、平生信じてもいない神に祈った。
「いやそれは叶わないな、オールド・スポート」ジェニファーはまるで僕の心を読んだかのようにそう言った。「これは夢ではない、かといって幻覚でもない。オマエのみっともない憶測は全部ハズレなんだよ。これは現実(ヽヽ)さ、紛れもなくな」

 僕はさらに混乱した。まるで巨大な渦潮に巻き込まれるような、あるいは巨大な蟻地獄に飲み込まれていくような気分がした。僕はただ震えるしか出来なかった。インナーもシャツも髪も、今まさに川から這い上がってきたかのように、いやな汗ですっかり濡れていた。猫はそのグリーンアイで僕を睨んでいる。
「これは現実なんだよ」ジェニファーは繰り返すように、念を押すように言った。より一層低く、(しゃが)れた声で。「オールド・スポート、まずそれを認めろよ。これは現実なんだ、と。理論の肉付けはそのあとだ。まずは単純化して理解しろ、ハリボテだっていいんだ」
「わかった、わかったよ。これは事実なんだね?どういう理屈とか原理とか抜きに」

「それでいい」と猫は灰色のポケットに手を突っ込み、赤のマルボロを取り出した。そして器用に一本を掴み咥えた。火はつけなかった。「それでいいんだ」なぜ猫がマルボロを咥えたのか、なぜ火をつけなかったのか、そこに疑問を持つ余裕もなかった。
 僕はその様子を見て、どういう因果か、少し落ち着きを取り戻したので、「ねぇ、ジェニファー」と猫に質問してみた。ひとつひとつの言葉の音を確かめるように。「どうして今更、僕の前に現れたんだい?」
 猫は何も言わず僕を睨んでいた。

「それに答えるにはまだ早い。そもそも、どうしてオレが現実(ヽヽ)だと言ったか、それを知りたいんじゃないのか?」
「それはそうだけどさ」と僕は口を(つぐ)んだ。
「だったら、今からオレが言うことを大した反発もせず聞くことだな、オールド・スポート。トウェインの『人間とは何か』の青年みたいに、いちいち持論を展開して突っかかってくるんじゃねぇぞ。そんときにゃ、その喉笛を食いちぎるからな」
 わかったよ、と僕は静かに答えたつもりだが、声が出ず、頷くだけになってしまった。猫はマルボロを咥えて僕を睨んでいる。相変わらず火はつけていない。


「まず、結果から言うならばね、オールド・スポート。これは、あくまで認識上(ヽヽヽ)の問題でしかない」とジェニファーは嗄れた声で言った。まるで、パブのカウンターでウィスキー片手に過去の告白をするように。「認識上の問題なんだ」
「認識上?」

 そうだ、と猫は満足そうに目を瞑った。火のついていないマルボロを味わっているようにも見えた。僕には納得がいかなかった。何を言うんだと思ったら、認識だと!そんな馬鹿げた理由があるか、と僕は心中で叫んだ。
「聞こえているぞ、オールド・スポート。忘れたか?オレにはオマエが脳内で考えていること全てが手に取るようにわかるのさ。以前の会話を観察していない証拠だな」
「申し訳ない、ジェニファー。でも、そうだろう?なにが認識上だ。現に今こうして僕は君と、その君を抱えている灰色を認識している。それだけだろう?」灰色を一瞥すると、すっかり黒目が無くなり、ゆで卵のような目をしていたので、また僕は「えぇ!」という声を上げて、すっかり腰が引けてしまった。

「確かにそうかもな。だがね、オールド・スポート」猫は僕に諭すように言った。地底の底から響くような不合理な恐ろしさはそこにはなかった。「だが、そもそもを考えてみろ。認識というものはどういうものだ?答えてみろ」
「そんなのは簡単だ。そこにそのものがあると知覚することだろう」
「あぁ、そうさ。だが、それはそこにあるものがどういうものか、分かっていないと知覚はできまい?つまり知らないものは、知らないものとしてしか知覚できない。それはわかるな?」
 僕は黙ってその声に頷いた。

「ただ、本当に認識というものは、知識としてしか知らないものしか認識できないのか?例えば、オレは猫だ。猫というものを知っている奴はオレを猫と認識するだろう?しかしオールド・スポート、オマエは違うな?」
「そうだ」と僕は鼻声で答えた。再び手足が震え始めていた。「君は、ノルウェージャン・フォレスト・キャットだ。そうだろう?」
「そうさ、ウェジーとも言われるが、ノルウェージャン・フォレスト・キャット。馬鹿みたいに長ぇ名前がオレらの種の本来の呼び名だ。まぁあくまでオマエらが一方的に付けた名だが、それもほかの猫と区別(ヽヽ)して認識するためだろう、オールド・スポート?」
「そうだ」
「それが普通の認識(ヽヽヽヽヽ)だ。知識量の差で認識には差が出てくる。同じ景色を見ているようで、実は個体ごとに捉えている、いや認識しているものは異なるということだ。これはわかるだろう?」
 僕はまた黙って頷いた。通行人が来ないだろうか、と僕は気になったが、その道を通る人は誰一人としていなかったし、隣の小学校からも活気のある声も聞こえなかった。猫はマルボロを咥えて僕を睨んでいる。
「しかしだ」猫はマルボロをぺっと吐き出して、より一層低い低い声で言った。もしこの世に悪魔がいるのならこうした声なのかもしれないと、直感的に思わせる声だ。「しかし、そんなに脳は完璧だろうか?そんな完全無欠で、利口のいいシステムだろうか?」

「何が言いたいんだい」僕はなにやら吐き気を催し始めていた。
「つまりはね、オールド・スポート。脳には、先天的にある種のバグ(ヽヽ)があるんじゃないかと言っているんだ。一部、大皿の(いしま)のようなものが」

 猫はそこですっと口を結んだ。そのあとに言葉が続く気配がしたので、僕は黙ったままでいた。そして、僕は猫が何を言わんとしているか、全くわからなかったが、どことなく背筋の凍るような、心臓を指先で撫でられているような気分さえした。

「オレはね、オールド・スポート。そのバグが個体ごとに異なる部分にあると、オレは考えているんだ」ジェニファーは腕を組んで言った。「そのバグの箇所によって、認識にもバグが生まれてくる。脳はそんなに完璧じゃない。本来、あるはずのないものが、バグとして、認識上(ヽヽヽ)、確かにそこにあると勘違いしてしまう、ということが起こるとは言えないか?」
 僕はその言葉にはっと気がついて咄嗟に言った。「つまり、その説に従うならば、君自身が僕の脳のバグ(ヽヽヽヽヽヽ)だと?」

「そうだ」猫はニヤリとした。「正確にはオレだけじゃない。このジジイもそうさ。どこかで見覚えないか?」

 ジェニファーがそう言うので、僕は死体のような灰色を隈無く観察してみた。かつて、こんな人間と出会ったことがあっただろうか?こんな灰色で、工事現場の作業員みたいな格好をした人と……「あ、」僕はその瞬間に気がついた。「まさか、ハセガワさん(ヽヽヽヽヽヽ)?」
 猫はまたニヤリとした。「そうさ、思い出したか。お前の高校で清掃員をしていた男だ。そして、お前の目の前で電車に飛び込んだ男だ」
僕はその映像を鮮明に思い出していた。僕が高校一年生の時、駅のホームで下り電車を待っていると、この男が改札を飛び抜け、今まさに電車が通過しようとしているホームに、発狂して走ってきたのだ。
「そうだ、そのあとすごい音がしたと思ったら、すぐにちぎれた腕が僕の方にぶつかって…」
「いや、無理に思い出さなくていいんだ、オールド・スポート。その記憶を封じていたのは紛れもなくオマエ自身だ」猫は僕をなだめるように、ずっとやさしい声で言った。その声に恐怖や棘を感じなかった。

「まさか」僕は気が付きたくもないことにもうひとつ気がついてしまった。「君もそうなのかい(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)?」

 猫は何も言わなかった。僕らの間には、あくまで僕の認識では、何の音もしなかったし、何の匂いも、感触もなかった。ただの無が漂っているだけなのだ。

「オールド・スポート。オマエには本来的にバグになるべきところがあったんだよ」
 猫はマルボロをまた一本加えて言った。さきほどよりもずっとやさしい声で、ライオンが穏やかな時に出す声に似ていた。「しかし、それは可能性(ヽヽヽ)でしかなかった。いわば空き地(ヽヽヽ)みたいなものさ。わかるだろう?バグがその空き地を買うかもしれないが、お気に召さず買わないかもしれなかったんだ。それが本来のお前だった。可能性としてはずっと低かったんだ。しかし、その空き地にだってバグにだって、思いもよらなかったことがあった。オマエ自身を大きく変革してしまうほどの、外からの力があった。それがこのジジイであり、オレだったのさ」


 ジェニファーは、僕が生まれた時に子猫としてこの世に生まれた。それも全く同じ日に、だ。しかし、彼の方が先に産まれたので、僕の兄のような存在でもあった。彼にもその自負があったのかもしれない。彼の母親は、僕の両親が五年も前から飼ってきた、いや、一緒に暮らしてきた、グリーンアイのウェジーだ。与えられた名前はベイカー。『グレート・ギャツビー』をなによりも好んだ僕の両親が、ジョーダン・ベイカーからとった名前だ。
 ベイカーは多くの子どもを産んだ。全部で何匹か、僕は聞いたことがないが、その多くを猫と暮らしたいと望む、やさしい人びとに譲ったという。その中で、ジェニファーと名付けられたこの白猫は、僕と同じ出生日ということもあって、大切に扱われ、僕らの手元に残されたのだ。
「ジェニファーは今よりずっと小さい頃から、ショウタのそばにずっといたのよ」母親はいつぞやかそんなことを語った。具体的な日付は覚えていなかったが、もしかするとジェニファーが亡くなった日だったかもしれない。しかし、その声に乗っていたはずの感情を思い出すことができなかった。「まるで、オレがここにいるからな、って語りかけているみたいにね。ずっと傍から離れなかったのよ。ちっこいのに、妙に誇らしげな、キリッとした顔をしていたわね。オレがお兄ちゃんだぞ、って威張っていたのかもね」
 現に、僕はジェニファーと類を見ないほど親しかった。まさにそれは兄と弟のようで、何をするにも僕のそばに彼はいた。勉強をしていると膝の上に座って眠っていたし(決して僕の邪魔をしなかった)、僕がベッドで寝ようとするといつも枕のそばに来て一緒に寝た。僕が学校に行こうとするといつも通学路の中腹まで着いてきて、「ま」の字が剥げ落ちた、錆だらけの看板のところまで来ると思いついたように踵を返した。その帰っていく様子は、通学する小学生を見守っているようだった。今思えば、ジェニファーはひどく利口で、賢い猫だった。僕はジェニファーが大好きだったし、彼のグリーンアイからも慈しみの情を感じたものだった。
 だからこそ、ジェニファーが亡くなったとき、僕は完全に狂ってしまった。僕を構成していた歯車のひとつが、がちゃん、という音を立てて崩れてしまったような気がしたのだ。事故死だった。いつどおり、僕を通学路の中腹まで見送ったあと、飲酒運転の車に轢かれたのだ、という。僕はその話を母から聞いているそばから、ひたすら、死んでしまいたい、と望んでいた。
 それが目の前に現れたジェニファーの言う、バグを発露させるきっかけになったという。


「あくまでそれは空き地でしかなかったんだ」ジェニファーは低い声でそう呟いた。それは昔、すぐそばにあった声とよく似ていた。「空き地のままであったなら、どれほどよかっただろう?しかし、オレの死により、そこに初期段階のガンのようなバグの種が生まれた。そして、同時にオマエは無意識にオレの記憶ごと忘れさろうと務めていた。そして、不思議なことにすっかり表層からは消えたのだ。一時的にはな。バグの種が生まれたと言ったが、それだけでは認識上のバグになりうるほどのものじゃないんだ。そこでそのままダメになっちまう方が多いんだ、ケースとして。だが、オマエの場合、そうはいかなかった」
「つまり、この老人の事故を目の当たりにしたから?」と僕は言った。もう声は震えてはいなかった。
「そうだ。そのショックが、バグの芽を育ててしまった。いや、正確にはその空き地を肥やす形になってしまった。それと同時に、脳の奥底に沈めたはずのオレの記憶もだんだんと浮上し始めたんだ。そのバグが育つまでに数年かかったが、その結果が、オレとこのジジイということさ。」


「正直、申し訳ないと思っているんだよ、オールド・スポート」ジェニファーは、百万回生きたねこが泣くような声で言った。「こんな幽霊みたいな形でオマエに会うことになってしまって。巷でよくある、幽霊を見ただとかいうのは、ほとんどがこの認識上のバグのためだ。その点、オレも幽霊みたいなものだと言えるわけだが。その上、執拗にオマエを傷つける結果になってしまった」
「謝る必要なんてないんだ、ジェニファー」
「オールド・スポート?」

 震えず伝えなくちゃ、言わなくちゃいけないんだ、と自分を奮い立たせて、一息置いたあとで僕は彼に言った。はっきりとした口調で、かつて彼に投げかけていたときのように。

「認識上のバグだろうと、幽霊だろうと、なんだっていい。どうだっていいじゃないか。僕はね、ジェニファー。もう一度、その美しい毛並みを撫でられてよかったよ。僕は深い深い悲しみから、君を忘れようと努めてきたよ。あの灰色の事故のことも。嫌なことを忘れてしまえればなんて楽なんだろう、って。でも、もう無理やり忘れ去ろうとはしないよ。もうその努力もおしまいだよ、ジェニファー。亡くなったものに対する悲しみを忘れようとするのではなく、僕はこの記憶を、この悲愴を抱えていくよ。忘れずに抱えていくよ、君の確かな感触とともにね」

 そういうと、ジェニファーは、一瞬、さらに目を大きく開いたが、すぐいつものように目を細めた。僕は無意識のうちに手を伸ばしていた。そして、その柔らかな熱に触れたとき、ジェニファーと老人は、灰色の砂になって崩れ落ちた。ビルの間を縫うように吹き込んだ強風がその砂をあとかたもなく、まるでそこには何も無かったように、消していった。


「でも消えるはずはないよ、」僕は灰色が飛んでいった方に左手を伸ばした。まさにギャツビーが緑色の灯火に手を伸ばしたように。「オールド(ヽヽヽヽ)スポート(ヽヽヽヽ)
 熱がどんどん冷めていく。それでも、皮膚の一枚下で、確かな感触は残っていた。

グレート・ジェニファー

グレート・ジェニファー

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-05-23

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