散りゆく桜の花のようにそっと7
☆
だけど、でも、正直なことを言えば、わたしは彼女のことが羨ましかった。田畑が高校のときからずっと好きでいるという彼女のことが。
確かに、最愛のひとに裏切られるのは辛いだろう。ありもしない噂をたてられて、不当に蔑まれるのは我慢できないかもしれない。なんで自分の身にこんなことが起こらなければならないのかと運命を呪いたいような気持ちになったかもしれない。
だけど、それでも、田畑が自分のことを好きでいてくれるのなら、わたしはそれらの不幸を進んで受け入れてもいいような気がした。
一寸先も見えないような深い暗闇のなかでも、田畑が側にいて、自分のことを想っていてくれるのなら、生きていける、惨めな感傷かもしれないけど、わたしはそんなふうに思わずにはいられなかった。
☆
目を覚ますと、腕時計の針は午前四時を少し過ぎたくらいを指していた。夏とはいえさすがにまだ暗かったが、その闇のなかにもほんのわずかに朝日の光が混ざりはじめていて、寝る前に見た闇と、今の闇では少し濃度が違っているような気がした。ふととなりを振り返ってみると、佐藤可奈はまだ気持ち良さそうに寝息を立てていた。
わたしは座席の上で大きく伸びをすると、座席をもとの状態に戻した。そして車のエンジンをかける。夜が明けきってしまうまでにもう少し距離を稼いでおこうと思った。
車を走らせてしばらくしても、佐藤可奈は瞳を閉じたままで、起きだす気配はなかった。それにしてもよく寝る娘だなと可笑しくなる。わたしと出会ってからほとんどの時間を寝て過ごしているんじゃないだろうか。起すのも悪いので、そのままにしておくことにした。
佐藤可奈といえば、ただの偶然の一致だが、わたしには過去に佐藤可奈という同姓同名の友人がいたことがあった。それは小学校高学年のときのことで、彼女はわたしのクラスに転校生として入ってきたのだった。
彼女は髪の長い、色白の、綺麗な二重の瞳をした、比較的顔立ちの整った女の子だった。彼女はわりと物静かな娘だったので、仲良くなるまでにしばらく時間がかかったのだが、ふとしたことが切っ掛けでわたしたちは友達になった。
それはある日の放課後のことだった。わたしが放課後、忘れ物を取りに教室に戻ると、綺麗な、でも、少しだけ哀しい感じのするピアノの音が聞こえてきたのだ。
最初は音楽の先生がピアノを弾いているのだろうかとも思ったのだが、でも、ピアノ音が聞こえてくるのは音楽室の方からではなかったので、どうやら音楽の先生が弾いているわけではなさそうだった。というのは、音楽の先生がピアノを弾くのなら、自分の事務所がすぐ隣にある音楽室で弾くはずだからだ。
ピアノがおいてある教室は、音楽室以外にも、もうひとつあって、どうやらピアノの音はその教室から聞こえてくるようだった。その教室は準備津になっている、普段は使われていない教室だった。昔、もっと生徒の数がたくんさんいた頃は音楽室として使われていたこともあるらしいのたが、今はその頃の名残なのか、古いアップライトピアノが忘れさられてしまったように、ひとつだけぽつんとおかれているだけだった。
わたしは誰かピアノを弾いているのか気になったので、少し怖いような(幽霊がピアノを弾いているのを見たという噂があった)気もしたけれど、思い切ってその教室までいってみることにした。
教室の窓から恐る恐るなかを覗いてみると、そこでピアノを弾いていたのは、最近わたしのクラスに転校してきたばかりの、佐藤可奈という名前の女の子だった。わたしは彼女とは何かの用事があって二言三言話したことがあるくらいのものだったので、教室のドアを開けて声をかけたものかどうかすごく迷った。
でも、彼女の弾くピアノがあまりにも上手で、あまりにも素敵だったので、そのことを伝えたくて、わたしは思い切って教室のドアをあけた。
わたしが教室のドアを開けると、きっと驚いたのだろう、転校生はピアノを弾くのをやめてしまった。そして教室のドアの方を振り返ってわたしの顔を見た。
わたしは彼女と目が合った。早く何か言わなきゃと思うのだが、変に緊張してしまって上手く言葉がでてこなかった。すると、佐藤可奈の方が先に口を開いた。
「ごめんなさい」
と、少し小さな声で佐藤可奈は言った。
「ピアノがあったから、勝手に弾いてたの。いけなかった?」
佐藤可奈はどこか怯えたような表情でわたしの顔を見ると言った。
わたしは彼女の言葉に首を振った。そしてそれから、
「違うの」
と、わたしは慌てて言った。
「教室にリコーダーを取りにもどったら、すごく綺麗な演奏が聞こえてくるから、誰が弾いてるんだろうって気になって」
わたしは言いながら、ゆっくりと佐藤可奈の側に近づいていった。彼女はそんなわたしを、まるで小動物が見たことのない生物を警戒するような顔つきで見ていた。
「すごく上手だね、ピアノ」
わたしは彼女のとなりに立つと、そう微笑みかけて言った。
「ありがとう」
彼女はわたしの言葉に、少しぎこちなく口元を笑みの形に変えると、恥ずかしそうに答えた。
「わたしもピアノの習いたかったんだけど、うちの家ピアノないし、貧乏だし、だから、習わしてもらえなかったんだ」
わたしは彼女の警戒をとこうとひとりで喋り続けた。
「すごく小さい頃からピアノ習ってるの?」
と、わたしは尋ねてみた。
すると、彼女はわたしの問に短く頷いた。
「お母さんがピアノの先生やってたの。だから、もう小さな頃から」
そう答えた彼女の声は、なぜかしら哀しそうにも響いた。
「そっか」
と、わたしは彼女の答えに頷くと、ちょっと躊躇ってから、
「ねえ、良かったら一緒に帰らない?」
と、誘ってみた。
すると、彼女は心持戸惑ったような、それでもいくらかは嬉しそうな表情で、
「うん」
と、頷いた。
☆
その日の学校からの帰り道、わたしたちははじめてたくさんのことを話した。話していくなかでわかったことは、彼女が父親の仕事の関係で頻繁に引越しを繰り返しているということだった。この前は九州の田舎の方に住んでいたという話だった。
「じゃあ、結構大変でしょう?そんなにしょっちゅう引越ししてたら友達だってなかなかできないだろうし」
わたしが心配して言うと、彼女はちょっと難しい顔をして黙って、それから、
「でも、もう慣れちゃったから」
と、わたしの顔を見て、どこか哀しそうな笑顔で小さく笑った。
「そっか」
と、わたしはどう言ったいいのかわからなくて、足元の地面を見つめながら曖昧に頷いた。少しの沈黙があって、最近になって鳴きだした蝉の声が聞こえた。季節は六月の終わりで、もうすぐ夏がはじまろうとしていた。
「いつもああやって、放課後ピアノ弾いているの?」
しばらくの沈黙のあとで、わたしはとなりを歩いている彼女の横顔に視線を向けると尋ねてみた。
すると、彼女はうんと頷いた。最近になってあの教室に誰も使っていないピアノがあるのを見つけて、それでひとりでこっそり弾いていたのだ、と、彼女は語った。
「わたし、あんまり家に早く帰りたくないの」
と、彼女はいいわけするように言った。声の底に淡い影がついているような声だった。
「どうせ帰っても誰もいないから。わたし一人っ子だし。ピアノだって、いま家にピアノないから、学校じゃないと弾けないの」
「えっ?でも、さっきお母さんがピアノの先生をやってるって言ってなかった?」
わたしは不思議に思って尋ねた。
「・・・そうなんだけど」
と、彼女は少し目を伏せて迷うような答え方をした。
あまり触れ欲しくない話題なのかと思ったわたしは慌てて、
「ごめん。答えたくないことだったら無理に答えなくてもいいから」
と、取り繕うように小さく笑って言った。
彼女は伏せていた眼差しを上げてわたしの顔を見ると、
「べつにそういうわけじゃなんいだけど・・」
と、呟くような声で言って、結局その話はうやむやに流れてしまった。
☆
その日以来、わたしと彼女は学校が終わったあとや、休みの日などによく一緒に遊ぶようになった。放課後は大抵わたしと彼女が知り合ったあの教室で、彼女がピアノを弾いているのをわたしが聴いているということが多かった。
彼女のピアノの演奏はほんとうに素敵だった。淡い水色の色彩がついているような、透明で、静かな感じのする、綺麗な演奏だった。だけど、でも、その演奏は聞いていると、どうしても、少し哀しい感じがしてしまうのだった。何度か、その原因について彼女に尋ねてみようと思ったことがあるのだが、でも、できなかった。なんとなく、そのことには触れでいた方がいいような気がしたのだ。
そのうちにわたしも彼女にピアノを教わるようになった。最初は思うように指が動かなくてイライラしたのだが、彼女が丁寧に、我慢強く教えてくれているうちに、だいぶマシになってきた。簡単な曲であれば弾くことができるようになった。
彼女はそんなわたしを見て、美樹ちゃんは飲み込みが早いよと言って褒めてくれた。それでわたしもすっかり得意になって、もしかしたらわたしには特別な才能が備わっているんじゃないかと本気で思い出す始末だった。
「可奈ちゃんは将来はピアニストになるんでしょ?」
と、彼女がピアノを弾き終えたあと、あるとき、わたしはふと彼女に尋ねてみた。彼女のピアノの演奏はほんとうに素晴らしかったし、彼女自身もピアノを弾くことを楽しんでいるようだったので、わたしは当然彼女はピアニストになることを目指しているのだろうと思い込んでいたのだ。
彼女はわたしの問に、自分の両手の掌に視線を落とすと、
「そうなれたら素敵だろうな」
と、呟くような声で言って、それから、眼差しあけでわたしの顔を見ると、
「でも、きっと無理」
と、言って、ため息をつくように小さく口元で綻ばせた。
どうして?わたしが尋ねるよりも先に、彼女の方がさきに口を開いた。
「お父さんが反対なの。わたしがピアノをやるの」
と、彼女は短く答えた。
「もう二年くらい、ピアノを習わしてもらえてないの」
「だけど、可奈ちゃんのお母さんはピアノの先生なんでしょ?」
わたしが疑問に思って尋ねると、彼女は少し顔を伏せて、弱く首を振った。そしてそれから、彼女は物思いに沈むように眼差しを伏せると、ピアノの鍵盤の上あたりを見つめたまま黙っていた。
「・・・二年前に、お母さん、家を出て言っちゃったの」
と、しばらくの沈黙のあとで、彼女は口を開くと唐突に言った。
わたしは彼女の口からでてきた科白があまりにも意外だったので、咄嗟になんて言ったらいいのかわからなかった。だから黙っていた。わたしが黙っていると、彼女は続けて話した。
「お母さん、お父さんのことをおいて、他のひとのところに行っちゃったの」
彼女は顔を俯けたまま、静かな声で話した。
「そうなんだ」
と、わたしは相槌を打った。ほんとうはもっと違う、何か彼女を慰めるか、励ますような言葉が口にしかったのだが、そのときわたしが口にすることができた言葉はやっとそれだけだった。
「それでお父さん、お母さんのこと、すごく怒って。お母さんのピアノとか全部、お母さんのもの捨てちゃったの。・・・わたしがピアノを習うのも駄目だって」
「それでさっきピアノを習わしてもらえてないって言ってたんだ」
わたしはやっと彼女の言葉が理解できたような気がした。それからわたしは想像してみた。自分の母親が自分とお父さんのことを捨ててほかの男のひとのところへ行ってしまうということを。もし、そうなったら、きっとわたしはすごく傷ついただろうと思った。そして、自分のことを捨てていった母親のことを憎んだかもしれないと思った。
「だから」
と、彼女は話続けた。
「お父さんが、わたしにピアノを習っちゃだめだっていう気持ちもすごくわかるの」
と、彼女は言った。
「・・・お父さん、お母さんのこと、すごく好きだったみたいだから、だから、余計に、お母さんのことが許せないのよね。わたしが、お母さんが好きだったものを、続けるのが許せないの。お父さんはたぶん自分のことを裏切ったお母さんの全てを否定したいんだと思う・・・」
「そっか」
と、わたしは相槌だけを打った。そしてなんとなく、彼女の弾くピアノ音が悲しげに感じられる理由が、わかったような気がした。
「・・・かわいそうなお父さん」
と、彼女は小さな声で付け加えるように言った。
それから、しばらくの沈黙があった。その日は夏にしては肌寒い日で、教室の窓からは霧のように輪郭が曖昧な曇り空が見えていた。
「可奈ちゃんは」
と、わたしはいくらかの沈黙のあとでちょっと迷ってから尋ねてみた。
「やっぱりお母さんのことが許せない?」
わたしの問に、彼女はそれまで俯けていた顔をあげてわたしの顔を見た。彼女の顔には表情らしい表情は浮かんでいなかった。強いていえば、精気のない、疲れたような表情を浮かべていた。それから、彼女はわたしの顔に向けていた視線を、窓の外に向けると、
「どうだろう」
と、考え込むような顔つきをして答えた。
「もう、お母さんには会えないんだと思うと、すごく哀しくなるときもあるし、今の現実を受け入れたくないような気持ちになることもあるけど・・・」
わたしは彼女の言葉の続きを待って黙っていた。
彼女は窓の外に向けていた視線をわたしの顔に戻した。
「でも、お母さんのことが憎いとか、許せないとか、そういうことはあんまり思わないかな。ただ、ぼんやりとした喪失感みたいなのがあるだけ」
彼女はそう言うと、目線をピアノの鍵盤の上に落とした。まるでそこにさっき自分が口にした言葉が落ちていて、その言葉の意味と、今の自分の気持ちを見比べるみたいに。
「お母さんはすごく優しかったの」
と、彼女は幾ばくかの沈黙のあとで言った。
「わたしのこと大事にしてくれてた。わたしに優しくピアノを教えてくれたし、何か哀しいことがあると抱きしめてくれたし・・・だから、そのお母さんがいなくなって寂しいとは思うけど、嫌いとか、許せないとか、そんなふうに思うことはできない、のかな」
彼女はお母さんのことを思い出しながら話すようにゆっくりとした口調で言った。
「だけど、可奈ちゃんのお母さんは可奈ちゃんのことを置いていっちゃったんだよ?」
わたしは彼女の気持ちがいまひとつ理解できなくて、残酷かもしれない質問をした。なぜなら、普通であれば自分のことを捨てていった母親を憎みはしないまでも、抗議したくなるのが当然の感情だろうとわたしは思ったからだ。
彼女はわたしの問に、伏せていた顔をあげると、あまり感情のこもらない瞳でわたしの顔をじっと見つめた。それから、また眼差しを鍵盤の上に落とすと、
「きっと仕方がなかったんだと思う」
と、ポツリと言った。
「お母さんがわたしたちのことを置いていったのは、べつにわたしたちのことを愛してなかったとかそういうことじゃなくて・・・ただ、あまりにもお母さんと一緒に出て行ったひとのことを好きになりすぎたんだと思う・・・きっとお母さんもすごく悩んで悩んで、それで仕方なくだした結論だと思うから・・・だから、仕方がないと思う」
彼女は眼差しを伏せたまま、淡い青色の色素がついているような静かな声でそう話した。
「可奈ちゃんは優しいんだね」
と、わたしは彼女の横顔に視線を向けて小さな声で言った。
散りゆく桜の花のようにそっと7