不幸の集う広場
広場にひとりの旅人が来ました。
旅人の姿は汚れていますが、きちんとした身なりをしていて、顔は疲れと、深い悲しみが刻まれているシワがありました。
そして、旅人の眼には涙が今にもあふれんばかりに溜まっています。
ゆらゆらと、広場の中央まで来ると旅人は言いました。
「俺は…旅の途中で一番大切な物をなくした。とても大切な物だ。なくしてから、俺はそれにより生かされていたことに気がついた。こんなことなら最初から知らなければよかった…悲しみなんて言う感情がなければよかった…」
そして、旅人はついには目からポロポロと涙をこぼして、しゃがみ込んでしまいます。
そこからしばらくの間、旅人はこれまでのことを深く、深く、後悔し、一歩も動けなくなりました。
広場に一台のロボットが来ました。
ロボットの身体はどこも角張っていて、ぎこちない動きで、うぃーん、うぃーん、と音を鳴らしながら、広場の中心まで進みました。
悲しみ続ける旅人の姿を見て、ロボットは言いました。
「彼は悲しむ事ができるなんて、羨ましい。私にはすべての痛みがありません。機械でできた身体は壊れるけども、殴られても、蹴られても痛くありません。だから人のような痛みを感じることができません。それは心も同じです。私はそれを感じることができる彼が羨ましい」
ロボットは静かに、丁寧に言い終わると、旅人のそばに座ります。そして銀色のちいさな目で旅人を見続けました。
広場に大金持ちがやってきました。
金持ちは太った体に、とても高価な服を身につけ、綺麗な宝石が身体のそこかしこにあります。
のっし、のっし、と身体を揺らして広場の中心まで来ました。
そして、旅人を見続けるロボットの姿を見て金持ちは言いました。
「ロボットは悲しみがほしいのか、心の痛みがほしいのか。なんていいことだ。私は欲しい物はもう何もない。長年暮らしてきてわかった。すべてのものはお金で買える。だから、お金持ちの私にできないことが一つもないのだ。私は何か、手に入らないような大事な何かがほしい。けれども、その何かが全く分からない」
お金持ちはそう言うと、その場で膝をついて考え込んでしまいます。ほしい物は何なのか。お金でも手に入らない、大切で、身近な物。
広場に貧しい子がやってきました。
手足はひどく細く、粗末な布を身体にまきつけるようにしてきています。その服もいつも働く工場でのオイルに汚れ、ひどい匂いがします。
テクテク、少し小走りに広場の中心まで来ました。
そして、豪華な服を着たお金持ちを見て言います。
「お金持ちはとてもいい生活をしている。私が一日じゅう一生懸命働いても、十分なご飯を買うお金すらもらえないのに、お金持ちは何もしなくても、生きて、遊ぶのに十分なお金が手に入る。こんなの不公平だ」
貧しい子は、一息に言い終わると、ひどく怒った様子で、お金持ちをにらみつけました。
広場に悪い人がやってきました。
着ている服はありふれているけども、眼だけが不気味に光って、広場を見渡しています。
キョロキョロ、あたりを見回しながら広場の真ん中まで来ると、貧しい子を見て言います。
「貧しい子は豊かさと貧しさの差に怒っているんだろう。それでも心だけは俺よりきれいだ。俺はいつの間にか人を信じることができなくなった。だから人をだまし、悪いことばかりするようになってしまった。本当はちゃんと働いたお金で生きていきたい。俺にもそんな時代は確かにあったのに…」
そうやって、悪い人は、ひどく残念そうに言い終えると、目の輝きを少し和らげて、子供のほうを悔いるように見つめました。
広場に会社の人がやってきました。
綺麗なスーツを着こなしていて、背筋はピンと伸ばされ、身長は高く、丁寧にセットされた髪はツヤツヤしています。
スタスタ、まっすぐに広場の中央まで来ました。
そして、悪い人を見て言いました。
「この悪い人は自分の過去の行為を反省しているのですね。それでも、決まりに縛られず、人の気持ちを無視して、悪いことをするのはとても気分が良かったでしょう。私は会社の人になって一度も決まりから外れたことがありません。そして、いつも人の顔色を窺ってばかりで、いつの間にか自分というものをなくしてしまいました。悪くても自分というものを持っているということは素晴らしいことです」
そう丁寧に言い終わると、尊敬のまなざしで悪い人を見ました。
そうやって広場には多くの者がやってきました。
一人、また一人、と数を増やしていき、いつの間にか広場にはたくさんの感情であふれていました。
皆の顔にはいろんな感情が浮かんでいて、どうしようもない気持ちのやり場をやがて自分へと向け、長い間、動けませんでした。
ただ、一人の少女だけが、それをしませんでした。
その少女は悲しみの旅人がくる前、そのずっと、もっと、前から広場に一人でいました。
長い間、少女は座り、黙って広場を見渡していました。
増えるごとに狭くなる広場を黙って見ていました。
どれくらいたったのでしょうか。不意に、彼女はそばにいた会社の人に声をかけました。
「ねぇ、それじゃ、君はこれから悪い人になったらいいわ」
尊敬のまなざしで悪人を見ていた会社の人は驚いて答えます。
「そんなことができるはずがないでしょう。私には守るべきものがたくさんあるのです」
そう言って、また悪人を見ようとしましたが、少女の声がそれを制止しました。
「だから、悪い人の世界へ行って、悪い人として、悪いことをすればいいじゃない。その世界では君は君じゃなく、悪い人になるのだから、君の守りたいものに迷惑はかけないよ」
そう言って少女は会社の人に淡々と告げると、急に興味をなくしたように、会社の人の前から去って行きました。
しばらくの間、会社の人は少女の言ったことを理解できませんでしたが、急に嬉しそうな顔になり、綺麗なスーツの上着を脱ぎ捨て、走り出します。途中、いろいろな人にぶつかりましたが、誰にも一言も謝りもせず、一目散に広場の外に走って行ってしまいました。
少女は次に悪い人に話しかけました。
「君はあの貧しい子供の働く工場へ行けばいいわ。あの工場は誰でも働けるよ。そこでなら君のしたい生活もできるよ」
悪い人もまた、数秒わけがわからず、空を見つめていましたが、急に瞳に強い輝きが戻り、急いで広場の外へ向かいます。
少女はそんな悪い人を見届けてから、次に貧しい子供に話しかけました。
「そうだね、君はお金持ちから、ありとあらゆる物をもらえばいいわ。そうすればこれから君は一生、お金に困らず暮らせるから」
少女に語りかけられた貧しい子供は、お金持ちのほうを見て「いいの?」と聞きます。すぐそばで会話を聞いていたお金持ちは、貧しい子供に一枚の紙を渡し、言いました。
「これはとても大切な紙で、これがあれば私のお金を好きにできるだろう。持って行きなさい」
貧しい子供は、黙って紙を受け取り、大事そうに抱きます。そして、お金持ちを少し見た後、何も言わず、まっすぐに広場の外に向かいました。
続けて、少女はお金持ちに告げました。
「君がほしい物は目に見えないものね。だけど、きっともう、その答えを君は知っているはずよ。そして君は、それをもう持っているわ。あとは自分の中にあるその答えを見つけ出すだけなの」
そう言って、少女はお金持ちの傍を離れようとしましたが、お金持ちが引きとめました。
「そうは言っても、わからないのだ。どうすればそれが見つかるのだろうか、どうしてそれを私が持っていると、君はいうのだろうか」
お金持ちは必死に少女に聞きました。それに対して、少女は淡々と、
「それは自分で見つけなければ意味がないわ。ただ、今の君は、もう、すべてを持っているわけじゃないから、今は私の言った意味がわからなくても、いつかわかる時が来るから、信じて行ってみてほしい」
と、お金持ちに言い聞かせました。
お金持ちはしばらく、迷う素振りを見せましたが、立ち上がり、ゆっくりと広場の外に消えて行きました。
それから少女はロボットの近くまで歩いて行くと、ゆっくり語りかけました。
「君は旅に出るといいよ。西には何でも一つだけ願いを叶えてくれるという魔女がいるらしいから、そこへ向かうといいよ。君の探す物がきっと見つかるから」
少女はそれだけ言うと、ロボットの元を離れて行ってしまいます。
ロボットはしばらくの間動きませんでしたが、しばらくして、ゆっくりと体の向きを変え、うぃーん、うぃーん、と広場の外を目指して進み始めました。
そうやって少女は、一人、また一人、と広場にいる皆に話しかけます。
話しかけられた者はみな、喜んだり、茫然としたり、迷ったり、驚いたり、悲しんだりしながらも、最後には広場の外へ自分の足で向かいました。
どれくらいの時間がたったのでしょうか。
最後に広場に残ったのは少女と旅人でした。
「――最初から、見つけなければよかった」
ビクリと旅人は顔をあげ、少女を見ます。声をかけたのは少女でした。
「なんて、考えていますか、その大切な物を」
少女は黙り続けている旅人を無視して、言葉を続けました。
「最初から知らなければ、忘れることができれば、今みたいに悲しみに襲われることもなく、旅を続けられたでしょうね。あなたは、そう思いますか」
少女の声はとても冷たいように思えました。今までも感情のこもらない平坦な言葉でしゃべっていましたが、今まで以上に無機質です。
旅人は少女の声を聞いて震えました。
まさに、今、少女の語ったことは、旅人が考えないようにしながら、どうしても心の片隅から消せなかった言葉達です。
「――私は、そうは思わないの」
不意に、少女の声は柔らかくなりました。
「きっと今も、悲しみはあなたの心を掻き乱し、苦しめ、それは逃げても、逃げても、追ってくるでしょう。それでも、私は大切な物を忘れていいとは思いません。だって――」
「…大切な物だからこそ、忘れてはいけない…」
少女の言葉を遮り、旅人が言いました。震えているけども、しっかりとした声で旅人は続けます。
「本当に大切なものだから、それを知らなかった自分なんて在り得ない。俺は忘れたくない。けれど、今は悲しみに押しつぶされてしまいそうなんだ。一歩も動けそうにないんだ…俺は、俺はどうすればいいんだ」
旅人は絞り出すように声を出します。
「悲しいときには、悲しむしかありません」
少女はつらそうに言いました。本当に自分にできることはもう何もないのだ、と言うように。
はらり、と旅人の頬を涙が伝いました。
少女は言葉を続けます。
「ここは不幸の広場です。いろいろな前に進めなくなった人が訪れ、自分の不幸を持ち寄る場所です。それでも皆、最後には自分の道を再度見つけ、また歩き出します」
「それじゃ、俺にもそういう時が来るのだろうか、この悲しみが癒え、この感情を忘れ、進む時が来るのだろうか」
旅人は必死で少女に聞きました。旅人が感じる喪失感と悲しみは今も彼を不安にさせています。そして、何より、それを忘れてしまうことを旅人自身が一番恐れています。
「それは、来るかもしれませんし、来ないかもしれません」
少女は旅人に言い聞かせるように、それでもやさしく語りかけます。
「それでも私はこう思うのです。その悲しみは、忘れるためにあるのでなく、その悲しみごと抱えて、それでも、一歩、前に進める日が来ると」
旅人はとても不安でした。そんな自分が想像できないからです。今は二度とここから動けないような気さえしました。旅人は自信を失い、再び俯きます。
「どうすれば、そうなれるんだろうか…」
そう項垂れた旅人は少女に問いました。
「それは、とても簡単なことですよ」
言いながら、少女はゆっくりと旅人から離れ、広場の外に向かって歩き出します。
「あなたが、大切な物を失い」
旅人から遠ざかる、その後ろ姿はとても詩的で、足取りはとても軽やかです。
「それでもまだ、悲しみを感じて、生きているのは――」
少女は静かで、それでいて、よく通る声で旅人に言いました。
「――あなたが、その大切な物を忘れずにいるためだよ」
その声を聞いて、旅人が顔をあげたのと、振り向いた少女が広場から姿を消したのは、ほとんど同時でした。
旅人はしばらくその場から動きませんでした。
それでも、もう頬を伝う涙の跡は乾きかけていて、顔を上げ、広場の外を見据えています。そして、何かを考えるように、目を二、三度、瞬くと、その場で力強く立ち上がりました。
覚悟を決めたように、足を踏みしめ、広場の外を目指して一歩を踏み出します。
今でも、旅人の頭には少女の笑顔が何かの残滓のように頭に張り付いていました。
彼女の見せた最初で最後の笑顔。
それは、自分の失ったものにとてもそっくりな形をしていました。
不幸の集う広場
絵本の物語みたいなのを思いついて書いてみた。
「不幸自慢」を見ていて思いついた作品。
不幸なんて人それぞれで大きさもつらさも変わるんだぞ~ってことを伝えたかったけど。
途中から別の事もお話ししてますね。
つらい記憶、誰でも持っていて、忘れることができるから生きていけるんだけど、
忘れることがいい事とは、かぎらない。