田園風景

すごろく

 バスに揺られていると、自分が「何か」をどこかに忘れてきたことを思い出すような気がする。それはさっきまでバスを待っていたバス停だったり、自宅だったり、実家だったり、職場だったり、母校だったり、産婦人科の病院だったり、母の子宮の中だったりする。
 しかし、その肝心の忘れてきた「何か」を思い出せなくて、なんだかもどかしくなる。けれど、バスのゆったりとした振動とエンジン音に包まれると、そのもどかしさもなぜだか心地よくなってきて、うつらうつらと意識が半分夢の世界へと入っていく。
 そして目的のバス停に到着する頃には、はっと目が醒める。
 私にとってのバスは、どこか懐かしい使い古されたゆりかごの香りがした。
 その日も私はバスに乗って、夢見心地に浸っていた。
 ふと車窓を眺めたとき、私は人生で初めて不可思議なものを見た。
 車窓の先には、雄大な田園風景が広がっていた。どこまでも田畑で、遠くにうっすらと霧のような山が見えた。近代的な建物は見渡す限りどこにもなくて、少し離れたところに木製の小屋が一軒建っていることだけは辛うじてわかった。空は不気味なほど真っ青で、雲一つなく、太陽の光が燦々と大地に降り注いでいた。人は誰も見当たらなかった。
 私はその風景に目が釘付けになる。動いているバスに乗っているはずなのに、その車窓に映り込む風景は静止している。まるで一枚の田園風景の写真をそのまま車窓に貼りつけているようだった。――いや、写真にしてはあまりにも鮮明過ぎたが。
 私はこの田園風景に対して何の見覚えもなかった。子どもの頃からの記憶を必死にひっくり返してみるけれど、該当しそうな風景の記憶は出てこない。
 その田園風景は私にとって存在し得ないもので、しかし現にそこに存在していた。
 私は夢中といっていいほど、その静止された世界を一心に見つめた。
 何が私にそうさせたのかわからない。ただ忘れた「何か」を探すような気持ちがあった。それは例えるなら、暑くなってきた頃のエアコンのリモコンとか、気に入らなかった眼鏡とか、読みかけたまま放り出した本とか、友達に返し忘れた漫画とか、色褪せたアルバムとか――そんな忘れがちでありふれた「何か」。
 私は車窓に貼りつき、田園風景を隈なく観察して、自分のどこかに忘れてしまった「何か」を、なくてもそこまで問題のない何かを、今なら見つけられるのではないかと探していた。
 数分くらい経った頃だろうか。ずっと代わり映えしなかった田園風景に変化があった。
 田園の中に、何人かの人が現れた。男も女もいるようだったけれど、全員背丈が低く子どものように見え、皆一様に走っているようだった。追いかけっこをしている――という風でもなかった。その人たちの足取りはなんだか覚束なく、まるで何かから逃げ延びようとしているようだった。
 するとその人たちの後方から、その人たちのスピードとは比較にならないほど速いスピードで、明らかに人間ではないそれなりの大きさの動物が現れたのが目視できた。
 鹿だ、とすぐにわかった。
 鹿が子どものように見える人々を追いかけていた。
 鹿は一人の人に追いつくと、その人の腕を噛み千切った。一瞬のことで、どんな風にやったのかはわからなかった。右腕を噛み千切られた人はばったり倒れて動かくなった。鹿は足を止めない。また一人に追いついて、今度は左足を噛み千切った。噛み千切られた人は、先ほどの人と同じく倒れて動かなくなった。そして鹿はまた別の一人に追いつき――。
 そうやって鹿は田園風景の中に現れたすべての人たちの身体の一部を食い千切って、人々が完全に動かなくなってから、その歩みをようやく止めた。
 鹿は偶然なのか意図的なのか、田園の中心に立っていた。口元は赤かった。
 すっと鹿は私を見た、気がした。こんな遠目からでは鹿がどこを向いているのかわかりもしないはずなのに、それでも私は、今鹿は私を見ている、そして私は鹿と目が合っている、という何の根拠もない、しかし確固たる確信があった。
 その瞬間、私は知った。あの鹿は私だった。紛れもなく私だった。そして鹿は隠し持っていた。口の中に、鼻の穴の中に、目の奥に、耳の穴の中に、尻の穴の中に、全身の毛穴に、ありとあらゆるところに隠していたのだ。私が忘れてきた「何か」を。
 私は思わず車窓に手をついて、「待ってくれ」と叫ぼうとした。だが声を出そうとした瞬間、バスの停車音がはっきりと耳に届いてしまった。
 気づけば車窓の先には、もう田園風景はなかった。見慣れた近代的な建物とコンクリートが立ち並ぶ世界があった。
「お客さん、終点ですよ」
 面倒くさそうに、バスの運転手がそう呼びかける声が聞こえた。
「は、はい」と私は少し慌ててこけそうになりながら、バスを下車した。
 バスは私を下ろすと、もう用済みとばかりに走り去っていった。
 私は辺りを見回した。やはり見慣れた風景だった。田園などどこにもなかった。私は駆けた。バスが通っただろう道のりを。しかしバスに乗ったバス停にまで戻ってきても、道中には田園の「で」の字も見つけることができなかった。
 私は荒い息を吐きながら、バス停のベンチに腰掛け、あの田園がどこだったのか、海馬をぐちゃぐちゃに掻きまわして一心不乱に思い出そうとした。しかし、やはり該当しそうな記憶はさっぱりなかった。あの私だった鹿のことも思い出そうとしてみたけれど、鹿だったかどうかも、なんだか怪しいような気がした。
 とりあえず、またバスが来るのを待っていた。

田園風景

田園風景

  • 小説
  • 掌編
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