永久杞憂人

 最初におそれを抱いたのは、自分はまるでまだ子供のときだった。こんな庭園の静かな風景の中でもなかったし、6畳ほどしかない部屋の中の、パーソナルコンピューター以外、自分の物音さえ聞こえないという事情はなかった。こんな小さな、人ひとりがやっと入れるかプセルの中で、凍えながら自分の相方の幸福を望む事もなかった。
 自分はそのとき、子供だった。体もそうだったし、心もそうだった。まだ生まれた意味さえしらないときのことだ。あれは夏の中、さわやかな風がひさしぶりに吹いた小学生低学年の頃だ。その時母は、丁度肺炎をわずらっていた、自分はそれでも日々が退屈で、しかしその退屈を覆い隠すこともせず、しかし退屈が露呈したときの自分を恥じた、そうだ、自分は神話の中にあるように恥をいだいた。
 学校という箱の中にはいり、さらに小さな単位の小学校の教室という動物園にいれられた。大人たちは子供を監視した。完全な管理の理想をいだいていた。
 その中で自分は、カリカリと文字と数字を書いては頭を悩ませていた。問題は大変ではない、クイズと似通っていた。ともかく自分の悩ませていたのはその短絡的な不満や不安の事ではない、もっと大きな不安のほうだ。
 あれは今のような小さな箱に入っているときの事だ。教室よりは小さかったが漆喰に塗り固められた家屋の一室に、眠り続ける花嫁がいた。彼女はかつてどこかにトラブルをかかえて、生命維持装置にいれられていた。頭をよぎる番号、小学校に入る前に暗記した。1104235これは彼女の番号であり、クローンとしての彼女の番号だ。そのときから6年も昔、隣にいた母親が自分の手をひきながら彼女をゆびさし、つぶやいた。彼女は透明のカプセルにはいって、斜めにたてられたまま眠っていた。庭は広かったが、その部屋は閉鎖されていて、花嫁はその中で永遠にも近い眠りについていた。不治の病にかかっていた。母はそのときワンピースをきていて、色々な名前の知らない花をたばねた花束をその白い胸にかかえていた。
 「あなたのこれが将来のお嫁さんになる人よ」
 少子高齢化を進んでいた自分の生れた国は、新しい変化の流れを欲していた。それはきっと、別の可能性や変化の可能性だ。自分は箱のなかにはいり、いずれ自分に来る未来を夢想する。
 「このお嬢さんはね、とても昔に優秀な結果を残した女性の子孫なのよ」
 (へえ、そうなんだ、じゃあそれは約束された未来なんだ)
 「イアン、あなたはね、あなたもまた、私という優秀なバイオリストのクローンの母をもった、だからね、あなたも約束された未来のた目に生きるのよ」
 そう、いい名付けだ。ポピュリズムの台頭によって、問題はそそくさと解決させられる、多数の人間は意識や思考を迷う事がある、その迷いさえ、時に誰かに牙をむけ、不自由を強いる事にする、国はとうとう女性に対して強硬な手段にでた。クローン人間の誕生、そして多産の推奨である。優秀な女性は自ら名乗り出て、その子孫を残すべき、クローンの申請を自分から出した。
 自分はそのとき、教室の中で、子供ながらにおそれをいだいていた、シャープペンの先でかりかりと自分の指先、つめをなぞる、それで何か変化が起こらないかと望んでいた。けれど自分のたてる音に誰も気づくはずはない。なぜなら皆、箱の中に入れられていたからだ。疑問を持つことは許されない、疑問を持つことは、空気を読まない事だ。
 「ははははは」
 「ははははは」
 教室の正面、黒板の先で一人の大人は笑っていた。それにあわせて周囲もどよめき、笑い声をたてた。知るはずもない大人びた会話に、自分は違和感を覚えた。
 「実感のない事をしゃべっている、実感のない事じゃないか、その話は」
 いいや、実感はあったのだ。きっと自分の将来は約束されていて、法律によって規制されている、自分はお嫁を選べない、なぜなら自分もクローンだから。番号を付けて管理されて、管理された青春だけを許されている、いつかみた花嫁の小さな個室のように。
 「いいかい、君たちは、規範をまねるだけでいい、規範はこの教室にも一人いる、誰が規範かは話す事はできない、なぜなら彼はアンドロイドだ、アンドロイドにも人権がある時代なのだよ」
 「クローンはどうなのですか」
 小声でいった言葉に、先生が反応をした、というより反応をしなかった。反応を忘れた反応という形容がもっともふさわしいかと思われる。先生のスーツとゼブラ模様のネクタイは、仕事中とうとう一度も汚れる事はなかった。それは目を点にしてこちらをみていた、人工筋肉と人工関節のきしみが自分の耳の中で反響した。自分は口にした言葉をくやんだ、下手なことをすれば、電気のムチあとんでくる。だから私は一時の痛みをさけるために、ごまかしのしぐさを覚えた、しかしそれを生涯後悔する事になるのである。
 「くしゅん!!!」
 目論見通りだった、ロボットはバグをおこした。彼らはまだ“くしゃみ”を学習していない、学習していない事にムチを、懲罰を与える事はできない、なぜならアンドロイドは人間を尊重するものだからだ。

 ——それから10年後、今も自分は、冷凍カプセルの中で思考だけを生かす近未来的技術のおかげで、こうしてあれやこれやと考える事ができる。冷凍カプセルの維持費はバカにならない、けれどこれは国が決めた事だった。
 “クローンの片方が障害を抱えた場合、もう一方が障害をかかえていなくとも、経過を監視するため、一時の間冷凍カプセルにて、生態を保存する”
 おかげで、眠り続ける花嫁を待つ不幸をせおった自分は、こうして過去を遡り、不幸の原因を自分の中に見つけ出そうと、ああでもないこうでもないと考え続けなければいけなくなったのだ。

 西暦2301年、ヨーロッパのある国で、私やその仲間たちは同じ箱にいれられ、同じ指定された区域に生息して、時に人とかかわり、時に人とのかかわりを許されず、こんな名前でよばれていた。
 【デザイナーズクローン】

永久杞憂人

永久杞憂人

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-19

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