夢魔
幻想系小説です。縦書きでお読みください。
とある満月の宵、天空の頂にあった月の色が次第に濃くなってきた。森に差し込む月の光りが血の混じったような不気味な色に変わっていく。
月の光に乗って、女が一人森の中に降り立った。
長い髪を微風に漂わせ、茶色のドレスの女は枯葉の上をすべるように進んでいく。ウサギがなにごとかと穴から顔をだすと、女がきりっと振り返り、底知れぬ穴のような目をウサギに向けた。その瞬間、ウサギは痙攣を引き起こして死んだ。女の目はチョコレート色であった。
女が通り過ぎると、緊張を解いた木々がざわざわと動き、死んだウサギの周りに、ネズミやキツネが集まってきた。いつもだとお腹を満たすものに過ぎないウサギの死体は、動物たちによって穴の中に埋められ、女が二度と来ないように祈るばかりであった。
女は瞬きもせず、長いドレスの裾を翻して町に向かって進んでいく。裾から覗くはだしの小さな白い足は、月の光を透き通し、枯葉の上に影さえ落とさない。
森を出た女は、野原の草の上を漂い、町の一角に入っていった。
女は御影石の塀に囲まれた家の前で立ち止まると、夜空を見上げた。赤みのかかった月の光が女の白い顔を照らしだし、女の顔は燃えるような色に変わった。
女は頑丈に閂のかけられた栗の木でできたくぐり戸を見た。閂は音も無く抜け落ち、戸がするすると開いた。女は腰をかがめると、玉砂利の敷かれた玄関前に降り立った。
明かりの無い玄関の石段を一段一段、今度は踏みしめるようにしっかりと上り、ひっそりと眠るドアの前にたたずんだ。
女は戸に綿のように柔らかく身を寄せた。ドアノッカーの真鍮のライオンが、驚いて、かたっと震えた。女は扉に頬ずりを繰り返すと、長い指で男の顔に触れるように柔らかく扉をなぜた。女は鍵穴に顔を寄せると、小さな口から真っ赤な細い舌をすべりこませ、かの笑い声ほどの音とともに錠をはずした。女が始めて喜びの表情を見せた。これから、歓喜の食事が待っているという表情であった。
女は扉を小さく開けると、するりと中に滑り込んだ。玄関に通ずる廊下に、鼻をかすめて森の匂いが入り込んだ。月の明かりも一条の線となって廊下の床を切り裂いた。
女は長いドレスの裾を両手で少しばかりつまみ上げ、一つの部屋の前を通り過ぎた。部屋の中では年配の男と女が子どものころの夢に寝返りをうつ。
女はミルクの香りがする小さな部屋の前に立った。茶色の目が期待に震え、喜びの表情を押さえきれない。女は扉を開けることもせずに、せっかちに壁を通り抜け、中に入った。
ミルクの匂いでむせてしまった女は立ち止まると息を整えた。クリーム色に塗られた小さな部屋に二つの安らかな寝息が聞こえている。
おもちゃのような木製のベットが二つ、その上でふんわりと雲につつまれるように寝ている兄妹が、長いまつげを閉じ合わせて楽しい夢を見ている。桃のようなすべすべの肌は闇の静けさの中で、柔らかい光に包まれている。
チョコレート色の目の女は、気を取り直して、男の子のベッドの脇に立った。
女の目が男の子の小さな唇に注がれ、しばらくの沈黙がその場を支配した。あまりの静けさに、昼に迷い込んでいた花アブが窓のカーテンの中から這い出してきた。女は花アブに眼を向けた。このような大事な晩餐に余計なものは絶対入るまいぞ、といわんがばかりに、女の目は花アブを射抜いた。花アブはあっけなく最後を迎えた。
女は右手を闇の中に掲げると、そこから、銀紙でつつまれたチョコレートをとりだした。銀紙ををはがすと、男の子の軽く握られたかわいらしい手の中に、チョコレートを置いた。男の子は何も知らずに夢の中でえくぼを寄せている。
女が茶色の目を男の子の手の中のチョコレートに向けると、チョコレートはじわじわと溶け始めた。
チョコレートはかわいらしい男の子の指にからみつき浸み込み、やがて、男の子の手はチョコレートに覆われた。青いパジャマの中の腕にも、胸にも、チョコレートはしみこんでいく。男の子の赤い唇がふーっとため息をもらした。
女はそのかわいらしさにたまらなくなり、薄いガラスの置物に触れるように、細心の注意をこめて男の子の髪の毛を愛撫した。
チョコレートは男の子の首を覆い、口も鼻も目も耳もチョコレートが浸み込んでいった。男の子の夢の中もチョコレートで埋もれ、世界で一番甘いチョコレートを食べている。
隣のベッドの上では、女の子が兄に訪れた不思議な変化も知らずに、夢の中で猫たちと戯れていた。
女はチョコレートが浸み込んだ男の子のパジャマの胸のボタンをはずした。小さな胸もチョコレートに変わっている。パジャマの上着を脱がし、ズボンも脱がし、下にはいていたかわいらしいパンツもそうっと脱がした。男の子の股間から天井に向かって突き出されたかわいらしいちいさな一物もチョコレートになって起立していた。
女はしばらくチョコレートの塊をながめていたが、窓のほうに手を差し伸べると、カーテンが音もなくするすると開いた。ガラス窓から赤っぽい月の光が室内に差し込み、ベッドの上のチョコレートと化した男の子の目が開いた。
女は窓に近寄ると、木々の葉の騒ぎ声や虫たちのだましあいの会話に聞き耳を立てた。やがて女の口から冷たい息が吐き出され、窓ガラスはこらえきれずに震えだし、細かい蒸気となって空のかなたに消えていった。
森や野原のざわめきは一段と大きく部屋の中に入ってくると、二人の女に姿を変えた。女たちは皆一様に、長い髪をなびかせ、茶色の長いドレスを着て、茶色の目をもっていた。
二人の女たちは茶色の目を部屋にいた女に向けると、お互いうなずきあった。
三人の女たちはするするとベッドの周りに集まると、白いシーツの上のチョコレートの塊を見下ろした。
先の女が男の子の上にかがみこむと、細い小さな人差し指に手を伸ばし、ぽきっと折ると大きく広がった口に押し込んだ。口の中で指は解け、チョコレートが閉じられた口角に少しばかり滲み出した。もう一人の女が、男の子の鼻を欠いて口に入れた。最後の一人は、股間から起立する小さな棒を引き抜くと口にくわえた。
最初のチョコレートの味見を終えた女たちは、思い思いに、男の子を食べ始めた。一人の女が折った右手を持って舞い始めた。もう一人の女は左足を折り、最後の女は小さな耳を削り落とした。女たちはチョコレートで口の周りを茶色くして、小さな部屋の中をはしゃぎまわった。部屋のクリーム色の壁はチョコレートでよごれた女たちの手の跡でいっぱいになった。
三人の女はまたベッドの周りに集まると、いっせいに手を伸ばして、上を向いて目を動かしている男の子の頭をもぎとり、一人の女が頭上に掲げた。チョコレートの顔が驚いたように窓を見た。
女たちの無言の合図とともに、女の手が男の子の頭を床に落とした。男の子の目が見開かれ、床に落ちた。頭は音も無く粉々に砕け、女たちの長いドレスの裾に飛び散った。
女たちは床に座ると、茶色のマニュキアで染めた指を伸ばして、転がっている目玉をつまむと口の中に押し込んだ。目玉を拾い損ねた一人の女は残念がり、ベッドに残っていた胴体にむしゃぶりついた。やがてチョコレートは跡形も無く女たちに食べられてしまった。
一日の食事を終えた三人の女は白い顔にチョコレートのしみをつけ、ベッドによりかかって、茶色の目を閉じた。しばらくの間、チョコレートの余韻を楽しんだ。
やがて二人の女が立ち上がると、隣のベッドの女の子を見た。
先にいた女がうなずくと、二人の女は、誰もいなくなった男の子のベッドのシーツのしわを伸ばすと、静かに窓から出て行った。
森の木のざわめきがよみがえった。残った女は窓に息を吹きかけた。霧となっていたガラスが窓にもどり、外の音は低くなった。カーテンも閉められ、再び子どもたちの部屋に暗闇が訪れた。
女は女の子の眠るベッドの脇に腰掛けた。何も知らないおかっぱ頭の小いちゃな女の子が夢の中で微笑んだ。夢の中はお菓子でいっぱいである。
女は紅く柔らかい女の子のほほに白い唇をよせた。女の子の夢はチョコレートを食べている夢に変わった。茶色の目の女の口から赤い細い舌が出され、女の子の閉じあわされた唇から中にするすると入っていった。その瞬間に女の子はこの世で一番甘いおいしいチョコレートを食べている夢を見た。この味は忘れることはないだろう。
女は舌を引き上げると、満足げにうなずいた。
女の子は茶色の目を持った女を産む運命を背負った。女はドレスの裾を持ち上げ、宙に浮くと、ミルクの匂いのする部屋からすーっと出ていった。
女は親たちの眠る部屋の前を通り過ぎ、再び玄関から外にでた。
外では、天空に大きな紅い月がこの家を照らしている。
女は赤い舌を鍵穴に差し込み、再び錠をおろすと、静かに石段を下り、塀の外にでた。女は茶色の目を月にむけ、髪をなびかせて、枯葉の上をすべるように森に戻った。紅く染まった森の中で、女は月の光に捉えられ、枯葉のざわめきとともに空へ消えていった。
夢魔