「バケモノ山異聞 その1」(遭難は絶対するな、おま~ら)
≪バケモノ山≫
@1944年版 宮内敏雄著「奥多摩」より
『南秋川、上川乗から浅間尾根につき上げるタル沢の源流と、同じ南秋川の本宿に入る手前に山ノ神沢という沢のセリにバケモノ山がある。昔炭焼が旅人を斃してその財布を奪い、その屍骸を竃に投じて焼いたら、それから後はその地區で炭を焼くと、必ず恨めしそうな顔が現れたり、クドから窺くと、竃の炎が人の形になって燃上がったりするので、俚人は忌んで近づかぬ山なのである。
この山(山林)を持ち或は伐ったりすると、必ず一家のうちに死人を出すなどと俚老は謂い、一にイハイ山なぞとも呼んでいるのである。小河内村附近ではタタリヤマ、秩父の浦山方面でもイハイ山とこのような場所を呼んでいるが、土地に依ってはクセ山とかバチ山とか称し、全國的にこんな例は多いようである』
◇ ◇ ◇
…2017年。
「バケ山」は、ただの「禿げ山」に変わっていた。
痩せこけたスギやヒノキのツクツクと生えた、陰鬱な山頂はもうない。
その昔、旅人を殺め、金品を奪って炭焼き釜に押し込み、焼きつくして証拠隠滅を図った跡といわれる「くぼ地」も消えている。
…今ここに立つと、重機によって均されたあっけらかんと明るいピーク。
「バケモノ山」は見事にツルッパゲたのだ。
おれはもう、下るしかなかった。
せっかく松生山(まつばえやま)から足をのばしたのに。
…きのうの雷雨で、人気(ひとけ)のない山頂や登山道はところどころヌタ場になっている。
痩せ尾根はかなり荒れて崩れ、木の根がむき出しになってすべる。
両側に迫る深い谷。
バランスを保っていた植生が消え去った今、雨は容赦なく土壌を侵食する。
「バケモノ山」を所有する会社が、採石場拡大の目的で山頂の木々を伐採したためだ。
よく言われるが、生きている人間ほど恐ろしいものはないのだ。
…だが、魂魄この世に留まりて、成仏を拒むモノがいるとしたら?
それは恐ろしくはないのか?
不意に妙な思念が浮かぶ。
…目の先になにかが見えた。
高級そうな黒い本皮表紙の真新しい手帳だ。
だれかが、落としたまま下山したのだろうか?
手を伸ばして拾った。
パラパラめくると、びっしりと書きつけられた文字。
【頭がひどく痛い。手をやると右耳の後ろ。側頭部骨折だろうか。ふよふよと揺らぐ。声が出ない。力が入らない。だれか来て。だれか助けて】
◇ ◇ ◇
…ギョッとしてまわりを見回す。
遭難だ。
文面は明らかに助けを呼んでいる。
だが、見わたせど目をこらせど、踏み跡も滑落の跡もない。
おまけに、この手帳にただよう違和感。
汚れも傷みもない新品そのままだ。
まるでたった今、この場で買ったような…。
…目が、その先を読み進む。
【雷雨。光ったと思ったら、もう降りだした。すべる。さらに落ちる】
…やはり、滑落だ。
雷雨とはきのうの雨のことだろうか。
この急尾根で、例えば木の根につまづいて跳ねたとしたらどうだろう?
体は宙を滑空して、左右どちらかの谷底に落ちはしないか。
…「だれかいますか?おれは尾根にいます。聞こえたら、返事してください。声が出ないなら、手を叩くとかできますか?音を立ててください。場所を特定したいんです」
人道的に放ってはおけない。
声をかぎりに叫んでいた。
おれの声にあわてて飛び立つ鳥の羽音とさえずり。
それもすぐに消えた。
耳をすませ、体の動きを止めて気配を探っても、何の音もしない。
シンとした異世界のような、ちょっと湿気った独特の山の気。
…すでに物音を立てられる状況にはないのかもしれない。
頭を打ったようだから、もう、亡くなっているのだろうか?
スマホを取り出す。
指が動きかけて止まった。
ガセだったら?
愉快犯は嗤いころげ、おれはピエロにかわり、救助隊は無駄足を踏むのだ。
…考えれば、状況も不自然すぎる。
まわりのどこにも人影どころか、何の痕跡もない。
足跡はどう見てもおれのだけだ。
怪しげなネタっぽい手帳は、傷やシワのひとつすらない本当のまっさら。
持ち主は雷雨にあったらしいのに、ひとしずくの雨粒も泥汚れもないのだ。
表紙の銀色の2017の文字が、曇り空の山中でもあざやかにキラめく。
◇ ◇ ◇
…捨てて行こう。
かかわらないことだ。
それでも未練がましく、書かれた文字を追ってしまう。
【頭が割れるようだ。日が傾いてぬれた体が冷えてきた。だれも通らない。いや、通りすぎて行く。気付かないのか?避けているのか?夜に入って体が熱っぽい。せめて水だけでも分けてくれ】
…深刻な文面だ。
これが現実の状況だとしたら、本人の心中は察するに余りある。
【ハエがたくさんまつわりついてくる。あちこちにある擦り傷、切り傷をなめまわす。落ちてからどれだけ時間がたったのだろう?夜が明けたのだ。2日めの陽に照らされて、水、水が飲みたい。沢音を頼りに這いずる。めまい。ひどいめまいだ。頭も砕けるように痛い。わずか1メーター進むのにすら、数時間かかっている気がする。夢かうつつか月が出ている。もう、夜半か。水を。沢はまだか?】
…本人は沢近くに落ちたようだが、ほとんど身動きならないらしい。
これが現実なら、左右どちらかの谷底にいるということだ。
もう一度、声をかけてみる。
「声がでますか?音を立ててください。救助したいんです。頼むから」
やはり返事はなかった。
…おれはこのまま下山すべきだろう。
たとえ、この手帳が遭難者の救助要請だったとしても、場所を特定できない限り救出は不可能だからだ。
ここは「バケ山」の登山道の中でも、初心者は下山するなと言われるくらいの難所だ。
人助けとしても、やみくもにこの痩せ尾根を降りるわけにはいかない。
ボサボサとした植生にかくれた谷は急峻で、しかも深いのだ。
ヘタをしたら、おれも転げ落ちて二重遭難になる。
【夜がやっと明けてくる。荷物も装備もどこへ落ちたのだろう。肝心のスマホもポケットから消えている。身近には何もない。水が飲みたい。その一心でひと晩かけて這いずったのだ。もう少し、もう少しだ。めまいで方角もわからない。沢音だけがたよりだ。指になにかが触れる。パシャという音。指を口に突っ込む。水だ。グルグルまわる風景の中で力を振り絞る。唇が水面に落ちた。鼻に入るのも構わずそのまま吸い上げる。生き返った。命の水だ】
…良かった。
一晩かかって少なくとも沢水は得たようだ。
なんだかホッとする。
今は夏場だ。
高い気温に助けられて、水さえあれば食わずとも、10日以上命を長らえた例がある。
◇ ◇ ◇
【また、登山者が来る。足音が近づいて通り過ぎる。なぜ気付かないのか?見捨てないでくれ。行かないで。すいぶん人が通る。笑っている人もいるのに、だれも手を差しのべない。どうしてそんなに楽しそうに人を見捨てられる?ここにいる。ここにいるんだよ。結局、日が暮れても通り過ぎるだけの人たち。ひどすぎる。ここの登山者はメクラばかりだ】
…悲痛な内容に心が痛む。
だが、これはおそらく彼の幻覚・幻聴なのだ。
この人がたぶん落ちたであろう谷底を、ハイカーや登山者たちがそうそう通るはずはない。
【夜明けと同時に、あれだけの人たちがパッタリと通らない。頭を右に傾けなければ、めまいは弱いことを覚えた。コツがわかるとめまいがおさまってくる。痛む頭をできるだけそっと動かせば、あたりの風景もなんとか認知できる。だが、ここがどこかはわからない。沢と木々の緑。青い夏空だけ。陽ざし照らされて暑い。突然の尿意。やっとの思いで這って、沢から離れる。立ち上がれない。ボトムからモノだけ出して放尿する】
【そういえば、体のあちこちをごく小さな小枝で、そっとつつかれている気がする。子供をからかうみたいに。目を向けると服の裂けめの肩や腕、腿やすね・足首がところどころ、みっしりと白い。しかも蠢く。ポロポロと落ちる。凝視してゾッとした。ウジ、ウジ、ウジ、ウジ。無数のウジ虫だ。膿の出ているすり傷・切り傷にハエが卵をうみつけたのだ。気温でそれが孵って、人間をエサに丸々と肥えている】
…ため息をついて、しばし文字から目をそらす。
まちがっても遭難などしてはいけない。
最悪の場合、緩慢な死まで、これ以上の極限状態が続くのだ。
【声を立てたい。この状況を知らせたい。だが、叫ぼうとすると全身に力が入るせいか、頭が砕けそうだ。血圧が上がるせいだろうか、めまいがよみがえって倍加する。だめだ、気付いてくれ、だれか、だれか】
…最悪の状況だ。
装備や食べ物をも失ってしまったらしいから、体力は時間経過とともに衰えていく。
本人もそれを認識しているのだろうか。
めまいがするのを騙し騙し、これを書いているのだとしたら、ひょっとしたら遺書のつもりなのか?
◇ ◇ ◇
【ウジに食われながら、ゆるゆると時間がたっていく。心底気色悪いが、ウジはマゴットテラピーに使えると聞く。壊死して膿だらけの患部をウジの分泌液で洗浄しつつ、あらたな肉芽をうながすのだ。だが、それは無菌培養したウジ虫の話だ。こんなわけのわからないハエのウジで、効果はあるのだろうか?感染症は…寄生虫はいないのだろうか?怖い】
…壮絶な内容になってきた。
それでも医療としてはマイナーだが、実際にウジ虫療法はある。
ヒロズキンバエという特別のハエを使った方法で、立派に抗生物質の代わりになるのだ。
だが、本人が心配しているとおり、雑菌だらけの野生のハエで悪影響はないのだろうか?
【さっきから無性に腹が痛む。沢水を無造作に飲んだせいだろう。冷や汗と寒気。熱っぽい身体が思うようにならない。猛烈な便意。ベルトをはずそうともがく。めまい。耐えろ、ちくしょう。脱ぎたい。脱がねば。必死で肛門を閉めるも、尻のあたりがすでに暖かい。待て、まだ脱いでいない。ダメだ。あたりにただよう便臭。臭い、臭い。それが猛烈に広がる。脱糞と放屁の音が止めようにもとまらない。こんなに大量の水溶便が腹の中にあるとは。クソの垂れ流しだ。ボトムを通してクソの海だ。ボケ老人並みの醜態にプライドが粉砕される。もう、どうにでもなれ】
【どこかでワ~ンという甲高いうなり。目を開けると、またもや陽が高い。眠ったのか、気を失っていたのか?今日で何日めだろう。少し身動きする。ブワワ~ンという聞いたこともない爆音とともに、視界が真っ黒になった。びっくりして、頭を振ってしまう。猛烈な目まいと痛み。体のすべての動きを止めて耐える。しばらくして、やっと目が開けられる。顔にまつわる黒いものの間から自分を見てギョッとした。手で触れると、頭、顔、手足、体に隙間なくまとわりついた蠢くもの。黒っぽく光りながら盛り上がり、ウワ~ンと羽音を立ててはビッシリと覆いつくす。ハエだ。銀バエだ。とてつもない数。クソまみれの下半身だけじゃない。口や目にもまつわり侵入してくる勢いだ】
【そういえばかゆい。水便が1日たって乾いたせいか。股や尻、腿のあたりが猛烈にかゆい。塩分や老廃物にかぶれたのだろう。たえられない。意を決して水辺に向かって這う。ワワワワ~ンと舞い上がったハエの集団が、執拗に追いすがって集(たか)る。はたから見たら「バケモノ山」の化け物そのままだろう】
…最悪だ。
遭難はこうして人間の尊厳をも奪ってゆくのだ。
◇ ◇ ◇
【水辺に這う。少しづつだが水辺水辺。あまりに痛むので触れてみると、右側頭部は水頭症のようにはれあがっている。内出血のせいだ。こんな状態でも人は生きるのか】
【水の反射が見える。もうすぐだ。沢音も高い。ゆっくりと頭痛とめまいにたえながら、体の向きを変える。周りの状況をよく見て、浅い水辺を確認する。下半身から水につける。ああ、心地よい。流れが体を冷やしながら、汚物を洗浄してくれる。気温の高い夏で本当に良かった。銀バエがなごりおしそうに飛びまわるが、大半は消え去っている】
【寒気。冷えすぎてはいけない。太陽光に熱せられた河原に這いあがる。力尽きて脱力する。便臭もおおかた消え、腹が温められていく。とろとろと眠ったようだ。夢の中では、すでに家に帰っていた。おふくろが夜食を持ってくる。好物のドライカレーとポタージュ。うまい。ホメると『あったり前でしょ』と、いつもの返事。愉快に笑って目が覚めた。腹がへっている。のども渇いている。少し上流に必死に這って、水を口にした】
…この人には母親がいるのだ。
親子間も良好なようだ。
帰りが遅ければ、警察や消防に届を出すのでは?
いや、彼はもう、救助されている可能性もある。
この手帳はその時に落ち、だれも気付かずに置き去られたのかも。
…だが、そうだとしても、この真新しさはなんなのだ?
その不自然さが、無性におれの神経にさわるのだ。
◇ ◇ ◇
【だれか来る。近づいてくる。必死に目をこらすと、なんとおふくろ。救助隊らしきオレンジの制服の人もいる。良かった!助かった。『あの子の好きな焼き鳥、ここに置きますね。あとで食べにくるでしょう』。『そうしてあげて下さい』。話し声が聞こえる。え?ちがうだろ。ここにいるんだよ。持ってきてよ。歩けないんだよ。行かないで。ここ、ここだよ。死に物狂いで這い寄ろうとする刹那、すべてが消えた。幻覚だ。願望が幻聴をともなって、目や耳をまどわせたのだ。だれもいない。なにもない。空腹で胃が痛い。遠い雷鳴に緊張する。また、雷雨が来るようだ】
【あたりがにわかに陰り、風が湿る。雨が来た。大粒の激しい雨。たちまち濡れそぼる。川原から立木の茂みへと這う。だめだ。1メートルの段差がこえられない。たたきつける雨足になすすべもない。下痢。体が冷えたのだ。腹には内容物がないはずなのに水溶便がほとばしる。みじめさに泣けてくる。だれも助けに来てくれない】
【雨に打たれたまま日が暮れた。夜半にやんだが寒い。胃痛と腹痛に加えて吐き気。頭も砕けそうだ。早く、早く夜が明けてくれ。何度かヘリの音が近づいては消える。どうせ幻聴だ。こんな夜中に、だれが捜索などするものか】
◇ ◇ ◇
【まわりが薄明るくなってくる。手近にある草を口に押しこむ。自分の胃酸で胃に穴が開きそうだ。葉は青汁のようにひたすら苦い。飲み込んでしばらくして、突然、吐いた。草の繊維は消化できないのだ。瞼が重い。体力の衰弱を感じる。もう、このまま、家に帰り着くことはないのかも。いや、そんなはずはない。だれかきてくれ。頼む】
【陽が高くなると、また銀バエが集まってくる。追おうとした手に、なにか異物を感じる。いや、腕や首筋、顔、胴体や足にすら…。這いずって傷だらけのひじやひざにも情け容赦なく張り付いている。戦慄する。ヒルだ、吸血ビルだ。でかい。丸々して6センチはある。手の届く限りのヤツをむしりとって、石の上で叩きつぶす。頭に響いて死ぬほどつらいが、恐怖で頓着しない。吸血口が肌にちぎれて残るだろうが、気にしてはいられない。山ダニやツツガムシにやられてはいないだろうか?これらはイヌに吸着して、都会にも持ち込まれる。イヌ畜生は山に入れてはいけないのだ】
【吸い口の流血が止まらない。体内に注入されたヒルの溶血液のせいだ。登山用の速乾性シャツが血だらけだ。なにかに突き動かされて、ヌルリとした血液を自分の口に運ぶ。かすかにピリッとする鉄分の味が微妙に美味い。通常なら考えられないが、体力を温存しようとする本能のせいだろう。血まみれのシャツにもむしゃぶりついてしまった。自分の血で自分を養う。まるでタコだ。手足を食いつくすという、飢餓状態のタコになった気分だ。助けて。お願いです。だれか、だれか】
…この人は助かったのだろうか?
いや、助かっていて欲しい。
おれはなにもできないが、心から祈る気分だ。
◇ ◇ ◇
【尻に違和感。ケツ、ケツの穴だ。なんだろう。無性にむずかゆい。肛門を締めると、なにか自分の意思で動くモノが抵抗して悶える。ヒル?ヒルだろうか?ケツの穴まで吸われているとは…。肌が粟粒立つ。頭を動かさないように、慎重に尻を探る。蠢いている。やはりヒルか?ちょっとパニックになって、つかんで引っ張る。意外な弾力。にゅるにゅると肛門から引きだされる感覚。ゾッとした。長い。コレは長いのだ。ハリガネムシ?ハリガネムシだろうか?カマキリその他の昆虫に寄生し、成虫になると腹を破って出るというアレ?ブルッと全身がふるえる。恐ろしいのは人間にも寄生するという都市伝説があることだ】
【乾ききった口が生唾を飲み込む。意を決して、つかんでいる指先を見る。白い。ミミズのように蠢く。黒くて動きには弾性がないというハリガネムシではないようだ。イヌ畜生のゲロによくいる回虫に似ているが、もっと太くて長い。沢水に卵があり、胃を通過したあとに孵ったのだろうか?気色悪くて茂みのほうに振り飛ばす。瞬間、力が入り、激しい頭痛とめまい。たえきれず突っ伏した】
【ウゾウゾと肛門の入り口で気配。次々と這いだしてきている気がする。キモい。ボトムを脱ぎたい。股や腿のあたりでモゾモゾと、変に冷たくのたうっているからだ。めまいが起きないように、慎重に横座りになる。そっとそっと、少しづつ下着ごとズリ下ろす。それでも頭は割れるようだ、目的のために歯を食いしばる。やっと尻が抜けた】
【仰向けになり、しばし頭痛とめまいをやり過ごす。ハアハアと息が荒い。ケツからは争うように、長い虫がのたうちながら絶え間なく誕生している。どれくらいの数だろう?体表面はウジやヒルに食われ、体内では回虫が成長しているのだ。人間はこうして弱って行くのか。空しく悲しい。そして悔しい悔しい。もう涙すらでない】
【尻が丸出しだ。間抜けな姿に違いないが、ボトムをはき直す気にはなれない。回虫はあたりをおおい尽くす勢いで生まれ続けているからだ。自分の滑稽さに嗤えた。ただの回虫製造機だ。だが、なぜ、こんな目にあうのだろう?いったい、自分がなにをしたというのだ?浅間尾根から下った、たかだか600メートルちょいのバケモノ山。夏の低標高をかんがみて通気性の良いものを選び、水も豊富に持った。登山マップも読み込み、電池や予備食料まで用意した結果がこれ。理不尽すぎる。木々を伐採すると、下山道はこれほどまでにに荒れるのだ。頭を打って動けないまま、最初は虫、次は動物に食い荒らされるのだろう。恨めしい、恨めしい、恨めしい。心底、恨めしいよぉぉ、おまえぇ】
◇ ◇ ◇
…え?
文体が、ニュアンスが、いきなり変わった気がする。
【おれがなにをした?あ?おまえだよ、おまえ。恨めしい…。怨念。悪因縁。なんとでも言え。おまえに纏いつく禍つモノが見えないのか?メクラ!】
…????
スッと湿った冷気が走る。
【妬ましい。妬ましいんだよ、おまえが】
…文面は、恨めしい、妬ましい、おまえ、を連呼している。
おぞましいなにかが、ジリジリと這い寄る気がする。
おまえとは誰のことだろう?
いや、他にはいないはずだ。
おれだ。
きっとおれだ。
文字が勝手に目に入る。
【やっと気付いたか。おまえをどうしてくれようか】
…瞬間、背筋をぶちのめすような戦慄。
無意識に力いっぱい、手帳をにぎりしめていた。
たちまち、黒革表紙はゆがみひしゃげ、ページの数枚がめくれあがる。
禍つモノを思い切り、谷底めがけて叩き捨てる。
…それは抵抗なく手を離れ、ごく普通にまっしぐらに落ちて行った。
いまこそよみがえる。
この手帳を見出す直前に感じた、あの妙な思念。
…『魂魄この世に留まりて、成仏を拒むモノがいるとしたら?
それは恐ろしくはないのか?』
…これだ。
これこそが、おれ自身から発せられた警告だったのだ。
だが、あわてるな。
気を引き締める。
禍々しい邪念がおれを恫喝するなら、ヤツの望みはおれの遭難だ。
ふざけるな。
神経を張りめぐらせて慎重に、しかも素早く足場の悪い急尾根を下山する。
最初の勘の警告どおり、ここに長居は無用だったのだ。
◇ ◇ ◇
…痩せ尾根地帯を通りすぎる。
あいかわらず急傾斜だが、いちばんの難所はすでにぬけた。
だが、油断はしていない。
『あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る事に候』
高名の木のぼりの一節が浮かぶ。
…枝にすがり、幹にしがみつき、ザレやヌタ場、枯れ葉だまりをやりすごす。
かなり下ったのがわかる。
やがて木間隠れに、登山道のど真ん中をまたぐ、赤い稲荷鳥居が見えてくる。
ここを過ぎれば人家の裏にたどりつくのだ。
…人気(ひとけ)のない、シンとした少し重い山気。
曇り空なら大抵こんなものだ。
小ぶりな社を左に見て、そこはかとなく緊張がゆるむ。
まわりにも、自分にも、行く手にも、なにも異変はない。
振り返っても、追い迫るモノはない。
息を整えた。
◇ ◇ ◇
…しかし、いったいなんだったのだろう?
彼はとっくに亡くなっていて、無念の想いがあの黒手帳にやどったのだろうか。
夏場の縦走のために、服装や所持品にも気を配ったようだから、あのメモにあるような悲惨な状況に陥ったのは、本当に不本意だっただろう。
心残りなのはわかる。
だが、本来なら、彼は「バケモノ山」を所有する会社にこそ祟るべきではないのか?
山頂の木々の伐採により、もともと狭く急峻だった尾根道はこれほどまでに荒れ果てたのだ。
無関係のおれ。
たまさか通りかかっただけの登山者に【おまえをどうしてくれようか】とは、あまりに理不尽すぎる。
…それでも、まぁ、結局、なにごともなかったのだ。
おれは無傷で、痩せ尾根から滑落することもなく、今、こうして無事でいる。
眼下には集落の赤いトタン屋根も見えている。
ま、悪い夢でも見たのだと思おう。
…いや…。
めぐらした目に、なにか見える。
ゾワリとした寒気。
脳内でおぞましいなにかが高笑いする。
ゴクリとのどが鳴る。
ヌメヌメとうねるなにかが、行く手をさえぎるように登山道を向かってくる。
黒光りするソレ。
思わず、後じさりした。
…まっさら。
真新しいソレ。
傷の一つ、汚れひとつ、しわの跡すらないソレが、ジリジリとおれに向かっで這いあがってくる。
怨念はおれを捕えて放さない。
おれはどうなる?
おれは…。
……………。
ああああああああああああああああああっ!
つんざくような狂気じみた悲鳴が、あたりの木立にこだました。
つづく
「バケモノ山異聞 その1」(遭難は絶対するな、おま~ら)