冷祭

大枝 健志 作

輪花

彼は自分の中に眠るはずの彼「自身」をその目で確かめてみたくて、失くしていた心の在り処を探していたのかもしれない。いや、探していると言ったが誰もが持つはずの「心」という物の存在を信じてみたかったのかもしれない。
 その為には強く、大きく、到底人の手が及ばぬ確固たるものの中を漁り続ける様に生きるしか無かったのだろう
 それでも、彼の中からは湧き出るような感情の波はひとつも、訪れなかった。
 虚しい話かもしれないが彼はある日、風が吹いて生まれた湖畔の小さな波紋をいつまでも、いつまでも、大切そうに眺めていたんだよ。実に、大切そうにね。

「詩篇25-16」

 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
 
世界一位のベストセラー「聖書」に書かれたダビデの言葉を、彼女は指でなぞった。何百回となぞられたその行は、微かに印字が薄れ始めていた。彼女の指は白く美しくしなやかで、大切なものを掴ませたら簡単に逃げられてしまいそうな程に頼りない。

榊 輪花(りんか) 十七歳。



 群馬県T市で誕生。幼い頃に住んでいたアパートが火事になり、両親は焼死。以後、生前両親と親交のあったアパート向かいに住んでいた「榊」家の養子として育てられる。兄弟はなし。
 群馬県立矢立高校普通科に通う二年生。誕生日は四月二十六日。
 性格は極めて内向的で、どのグループにも属していない。一人で過ごす事を好み、他者との接触を意図的に避けているように思われる。
 髪の線は細いが、丁寧に手入れされている漆黒のロングヘアは遠目でも輪花のものだと分かる。
 身長165cm。体重は40kg台と推定。部活は美術部。ただ、放課後の様子からすると活動はしていないようだ。幽霊部員と思われる。
 キリスト教系の新興宗教に入信している家庭の一人っ子。
 切長の二重。細い鼻梁と薄い、橙色の唇。その容姿端麗な姿と細く長く伸びた脚に過ぎる人は皆、振り返る。
 しかしながら、処女と思われる。今まで彼氏の情報は無し。男友達の気配すら、なし。

「どうよ!?りんかちゃん最高じゃね!?」



 輪花と同じ学区域の青川工業高校の男子生徒達は輪花に関する情報を調べ回っていた。五月の放課後の教室。短く刈られた金髪頭の菅井すがい 学まなぶが興奮気味に輪花情報をまとめた輪花の盗撮写真付きのA4用紙を二人にジャン!と見せた。
 輪花の写真は放課後、横を向いてバスを待っている立ち姿だった。
 男二人がそれを取り合うように眺めている。

「あぁー!ヤリてぇー…りんかっ!りんかっ!りんかぁっ!マージ!ヤーリてぇー!」

 冬に怪我で野球部を引退した坊主頭の横田よこた 良太りょうたは牙を剥き出しにした猿のような表情でそう叫んだ。

「おまえカノジョいんじゃん!この子さぁ、俺マジ好きだわぁ。ガースー、これコピーしてよ。ヤベ、マジしこりたくなってきた!あああっ!」

 棘のような固めた頭で垂れ目の寺島てらしま 真一しんいちは若さ故に生まれる無謀な性欲を抑えきれず、そのA4用紙を股間に擦り付けた。
 菅井がその行為を止めに入る。

「ざけんなよ!マジきったねぇ!コピーしてやるから寺島チンコ出せよ。出して輪花ちゃんに見せて来いよ。ヤラセテクダサーイ!ってよぉ!」
「チンコ出して頼めばやらせてくれっかなぁ!?やっぱさぁ、これだけ綺麗でも所詮は女じゃん?チンコ見たら濡れんじゃね?すぐヤレっぺ」
「おめー馬鹿かよ!男がエロ本見るのとはワケが違うんだよ。女はそんな簡単に濡れねぇよ」

 横田が煙草に火を点けながら寺島の頭を引っ叩いた。放課後の教室に赤ラークの煙が舞う。
 菅井が、呟く。

「てかさ、何で彼氏いないんだろな。レズ?」

 横田と寺島が絶句し、横田がうなだれる。

「それは…えーっ、いや、勘弁してよぉ…お付き合いは望みなし系?てか、やっぱ宗教絡みじゃね?不純異性行為はいけませんってさ、たまにババア共がキャンディ配ってんじゃん」
「あれ宗教なん?」
「知らね。同じようなもんだろ。けどさぁ!あぁ、りんかっ!」

 A4用紙を机の上に置き、寺島が退屈そうに顎に手をついて外を眺めた。不良ばかりの青川で放課後、真面目に部活動を行なっているのはラグビー部だけだった。
 茶色い巨大スクリーンの片隅で、水色の駒だけが右に左に忙しなく動いている。
 監督のホイッスルは壊れているのか、時折人の奇声のような音を立てて鳴り響いていた。その音が途切れると、寺島が呟いた。



「まぁ、どちみち…ヤレりゃいいんだろ?りんかをり・ん・か・ん・。なんてなぁ!」

 横田と菅井が咄嗟に目を合わせる。その様子に異変を感じた寺島が二人に目を向ける。三人の目が合った。しかし、出すべき言葉が出しにくい事だと悟り、誰も言葉を発しようとしない。
 奇声のようなホイッスルの音だけが三人の間に割って入ってくる。沈黙がしばらく続き、横田の指先から灰が落ち、制服のズボンを汚した。寺島が何かに気付いたように、顔を一瞬引きつらせた。

「え、おまえら…マジ?」

 二人はその言葉にどう返事をして良いか困っている様子だが、言いたい事は互いに理解していた。菅井が金髪頭を掻きながら呟く。

「ちょっと言わせてもらっていい?思いつきじゃないんだよ?計画っての?練ってたんだよね」

 その隣で、横田が何かを思いついた顔をした。寺島の目は横田の目元や口元では無く、無数に浮き作られた顔面のニキビ痕を捉えた。

「あのさぁ…タッチー先輩いんじゃん?ダブりの。」

 あぁ、あいつ。と二人は特に興味なさげな返事をした。

「タッチーさ、普段クソ使えねーけど免許と車、持ってんだよね。しかもさ、ステップワゴン」

 菅井が何かに納得した様子で頷く。

「ワゴンか…それならな。タッチーどうすんの?」
「え?最後で良くね?バレたら主犯て事にしようぜ」

 横田と菅井は「ぎゃはは!」と手を叩いて笑い声を上げた。寺島は戸惑いの色を顔に滲ませる。

「えー?ヤバくね?流石に引くんだけど」

 横田が床に落とした煙草を上履きで踏み消し、寺島を睨みつける。

「はぁ?何なん?オメーはノるの?ノらねーの?」
「いや…横チン、ちょっと…流石にそういうのマズイって…」
「つまんねー!マジ寺島つまんねー。あーあ!ここで漢見せねぇなら一生チンコ擦ってろよ!クソ童貞がカッコつけてんじゃねーよ!童貞がカッコつけるとかマジ、ダセーんだよ!」

 菅井も横田に便乗する。

「てかさぁ、何のために住所まで調べたん?オメーに話さなきゃ良かった。あー!バッカみてぇ。普段からヤリテェヤリテェって言ってっからさぁ、友を想って矢立の生徒会の奴フルボッコにして調べ上げたんだぜ!?俺の努力~!無駄の極み~!テメェ俺の努力返せるんか?なぁ?くさくさチンポ君?」

 しかし、寺島は二人に何を言われても気乗りしなかった。

「いやぁ、マジやめとくわ。俺には無理だわ。趣味じゃねぇし…興奮出来ねぇって」
「テメーの趣味なんか知らねーよ。俺らはヤっから。輪花の生マンコ観て写メ撮ってくっからよ。ガースー、帰ろうぜ」
「ヨコ、マック寄ってく?」
「それよかラーメン食いてーんですけど。タッチーん家、寄ってみるか」
「ついでにPSのソフト、パクってくんべ」
「分かりゃしねーんべ。馬鹿だし。あ、じゃあな、童貞くん。君は一生シゴいていたまえ!」
「おう!頑張ってチンポ擦ってさ、チンポに火を点けてくれ!童貞希望の灯火を!じゃあな。おまえにコピーは渡しません!ぎゃははは!」
「ええ…マジかよ…」

 横田と菅井が欲しかったのは寺島という仲間ではない。罪を犯す為の動機を突き動かす「勇気」だった。
 菅井が寺島を振り返ると、冷たい目で告げた。

「バラしたらテメー、分かってんだろ?」
「分かってるよ…分かったよ…」
「じゃあな。童貞マン」

 彼らの躍った声が廊下に響き、やがて消えた頃に寺島は溜息を漏らした。
 
「ローマ人への手紙6-23」

 罪から来る報酬は死です。
 しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。

 5月の放課後。ほんの束の間、西陽に照らされた歩道のオレンジと紫のコントラストが微かに夏を感じさせた。輪花は遠くからバスが来る音をやや尖った耳で感じ取ると、そっと聖書を閉じた。
 山に囲まれた地方都市特有の風景は斜陽が遮られ、紫に染まる。輪花は一瞬顔を上げ、馴染みの景色をその目で捉える。辿り着いたバスの熱気が眼前を掠める。
 輪花は「青い。」と心の中で呟いた。
 
輪花はバスに乗り込もうとするが前に並んでいた老婆は足腰が悪いのか、足を上げ下げしつつ中々バスに上手く乗り込めずに苦難している。ステップに近い障がい者用のマークがついた席に座る中年のサラリーマンがその姿に侮蔑の目を向け、如何にも迷惑そうに顔を顰めて見せた。
 輪花は老婆越しにそのサラリーマンをじっと睨む。その視線に気付くと、サラリーマンは慌てた様子で目を伏せた。
 老婆は輪花に振り返ると「ごめんなさいね」と弱った声で謝る。
 輪花が真顔のまま「いいえ…」と答えると、老婆はステップを上がり切った所で輪花を見つめたまま止まってしまった。老婆の右目は斜視だった。そして左眼は酷く濁っている。
 すると、老婆が突然輪花の腕を掴んだ。老婆とは思えない程に、力強い。
 老婆は微笑みながらも、口を震わせながら言葉を発した。

「あなた…あの…あなたは…。ね?そう…よね…?」
「バス発車します。お掴まり下さい。バス発車します。ドア、閉まります。」
 
バスは老婆を急かすように発車した。輪花は老婆の言っている意味が全く分からず、面識も無かった為、老婆の腕を振り払い、離れた場所の吊革に掴まった。それでも老婆はステップの近くから微笑みながら輪花を眺めていた。
 まるで忘れ物を探しているうちに、そのまま何を探していたのかさえ忘れてしまった人のような顔をして。
 老婆の存在を意図的に搔き消し、輪花は悲しそうな表情で袖を捲る。貼られていたテープを剥がすと、ゆっくりと息を吐きながら二の腕を見つめた。
 傷が治り掛けている。
 生々しい痛みを覚えているうちに、消えぬうちに、輪花はまた「それ」が欲しくなる。
 乗り込んでから三つ目のバス停で老婆は降りた。ふと、車窓に目を向けると斜視の老婆と合わぬはずの目が合った。小さく、微かに手を振っているのが見えた。震えているようにも見えた。しかし、嬉しそうに笑っていた。
 その歯の抜けた口元は永遠に続く闇のようで、老婆の服の色は鮮やか過ぎる紫色だった。

冷祭

冷祭

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更新日
登録日 2019-05-15

CC BY-NC-ND
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