忘物帖

             
 俺には、妹がいた。名前は、夏夜(かよ)。
 夏に生まれたから夏夜。冬に生まれたから冬星(とうせい) と名付けられた俺とは対照的な名前。
 いつも俺の右側に居た。綺麗な眼をしていた。ずっと一緒だった。
 でも、死んでしまった。
 誰かに殺されたんだ。
 この村に来ると嫌でも思い出す、三年前の夏のことだ。

 遠くに鳴り響く蝉の声。むんむんと篭る熱気。暑さを知らない古びた振り子時計が、チクタク、チクタクと時を刻んでいる。
「…暑い…」
 屋内だというのにこの暑さは何事だろう。ふいに顔をあげて店内を見回す。並ぶ木製の本棚、そこに陳列されている本、本。しかし、それらは大体白く埃をかぶっている。
 俺は現在夏休みを利用して片田舎の実父の祖母の家に居候している。というか、いつも暇を見つければここにやってきている。理由は、出来るだけ家に居たくないからだ。祖母の家は小さな本屋を営んでいる。それも商店街ではなく、田圃道の続いた中にぽつんと立っている。元々の一軒家の一階部分を店にしたらしい。そして、今日は町内会の集まりだとか言って留守にした祖母の代わりに店番を任されている。といっても、金庫としての役割しか果たさないレジの横に座って自分のやるべきこと――勉強をしているだけだ。店内には、全く人の気配は無い。
 溜息をついて、机の上に広げた参考書に目を見やる。まだ、半分も終わっていない。
 俺は、高校三年生の受験生だ。夏を制するものは受験を制す。だったら実家に帰れと言われそうだが、それとこれは別問題だ。実家にいるよりここに居る方がよっぽど精神的にも楽だ。でも、此処の暑さは計算外だった。クーラーが作動している筈なのに、紙は汗で張り付くし、熱が部屋内に籠りっぱなしだ。こんな環境に置いてある本は大丈夫なのかと言いたくなる。
「…換気しよう」
 とりあえず、一度気分転換も兼ねてと立ち上がる。適当な突っ掛けを履いて、埃臭い店内に眉を潜める。その時、店の外から物音がしたと思うと半透明のガラス張りの店の入り口の向こう、人影見えた。
「冬!」
「……夏」
 ガラッと勢いよく開かれた戸の隙間から顔を出した少年の姿に俺は顔をしかめる。俺のことを冬(とう)と呼ぶ、少年の名前は、夏(なつ)だ。同時に室内に籠っているものとはまた違う外の熱気がむわっと入ってくる。駄目だ、換気なんて暑さでやられた頭の考えだった。
「久しぶり」
 そんな中、ひどく嬉しそうに笑って夏は言った。
「戸を閉めてくれ…暑い…」
 唸るように言うと夏は、ああごめんと軽く言って夏は戸を閉めた。
そして俺の右側にやって来て言う。
「来てたなら連絡してよね」
「ああ…悪かった…忘れてた」
 夏は、この村に住んでいる少年だ。俺は、こいつが少し苦手だ。けど、俺がこの村にやってくる時にはなんだかんだで一緒に過ごしている。夏は、俺がこちらに来ていると連絡しなかった事を少しふてくされているようだった。
「まあ冬はいつも忘れてるから良いけどね」
「人を物覚えが悪い奴みたいな…」
 だってそうでしょ、と言う声を聞きながら、店の奥へ戻る。
「で、お前は何しに来たんだ」
 夏に向き直り、やれやれと問いかける。さほど変わらない身長差。まだかろうじて俺の方が高い。確かこいつは俺より年下だ。
「うーん…暇つぶし?」
 冬はちょっと考えてから言った。
「…悪いけど、俺は今勉強があるから構ってやれないぞ」
「受験ってやつ?」
「そうだ」
 示すように先程までやりかけていた机の上の参考書に目をやりながら言う。
「ふーん…大学は…天文学部に行くの?」
「ああ」
「冬、昔から星好きだもんね」
 星。そう、俺は星が好きだ、たまらなく好きだ。物心ついた時からずっとそれだけは手放せなかった。
「…じゃあ今日の夜でいいからさ、星、見に行こうよ」
 何も知らない夏がそう言った。心臓がどきりとした。
 いつも星を見に行く場所――山の中にある高台にある神社。あそこから見る星空は、確かに俺が知っている中でずっと一番だ。それもあったから俺は、此処に来るのがいつも楽しみだったんだ。
 けど、あの場所で夏夜が死んだ。
「…あそこにはもう行きたくない」
「なんで」
「…」
「…あぁ…えっと…夏夜ちゃん、…」
 ―――まただ。
 その夏の、まるで夏夜の事を忘れているみたいな物言いに胸がざわめく。
 でもこれは今に始まったことじゃない。夏夜と夏と一緒に三人で遊んでいた記憶は俺にはある。三人ずっと一緒だった。だから、夏が夏夜のことを知らないなんてことは有り得ないんだ。けど、夏は夏夜が死んだあの日から、夏夜の死どころか存在そのものをすっかり忘れている。
 その所為か夏夜がいなくなってから俺と夏の間には妙なギクシャクがあった。
「冬さ…前にも言ったけど…それって本当なの?」
「本当だよ…俺には妹がいたんだ…」
「そう言ってるのは冬だけだろ?」
 夏だけじゃない。この村の人全員――夏夜という人間が最初から世の中に居なかったみたいに世間から夏夜の存在が無くなっていた。誰もが夏夜?誰?お前は一人っ子だろう、と言った。俺の母親も。
「それでも…本当に居たんだ」
 夏の青黒いがこちらをじっと見つめている。俺は昔からこの目が苦手で、こいつのことが苦手なんだ。深い闇夜を映したようなこの目を見ているとなんだか悪寒がするような奇妙な気分になる。しかしその視線を外すことが出来なくて、じっと見つめたまま、屋外から聞こえる微かな蝉の声が耳につくと思い始めた頃――。
「…ごめん。別に冬を苛めたい訳じゃないんだ」
 夏が溜息をついて先に目を伏せた。外された視線に俺は内心ほっとする。
「…ただ冬と………きたくて、…」
 罰が悪そうに夏は何か小さく呟いたが、俺にはよく聞こえなかった。そして夏は、すぐにくるりと俺に背中を向けた。
「邪魔してごめんね。今日は帰るよ」
 ひらひらと振る細い手。夏の最低限の肉しかついていないその背中。首筋に覗く肌は病的に白い。そんな華奢な後ろ姿が少し寂しそうで俺はなんだか悪い事をしてしまった気分になる。
「…またな」
 中途半端に声を掛けてしまった。夏は聞いていたのかはわからないが気がついたらもう居なくなっていた。別に俺だってお前を責めたい訳じゃない。俺だって訳が分からないんだ。
「…夏夜…」
 何度も何度も考えた。自分の記憶が本当に正しいのか、正しくないのか。俺の頭がおかしいのか。でも、そうとは思えない程、夏夜という妹は俺の中にたくさん存在している。
それに夏夜の玩具や服…誰も気に留めなかったけど、夏夜が‘其処に居た’痕跡は確かに残っていた。
 夏夜の死体を一番最初に見つけたのは、俺だった。山の麓で見つけた。当時夏夜の死は地元の警察により事故として片付けられた。子供が一人で遊びに行って足を滑らせたのだろう、そういう事になった。死体は身元不明として処理された。それは、夏夜の存在が忘れられてしまったのもあるだろうが、夏夜の死体は…ぐちゃぐちゃだった…ようだ。当時の中学生の俺には刺激が強すぎたのか、あまりよく覚えられていない。そもそも、夏夜は一人で裏山に行くような奴じゃない。夏夜はいつも俺の傍にくっついていた。それこそ、裏山に行くなら俺と一緒じゃないと行かないだろう。
 俺は、大人達に言った。けどもちろん何一つ信じてもらえなくて、凄惨な死体を見て頭がおかしくなったんじゃないのかと言われた。
 あんまりに俺が言うので俺はその夏は家に戻されることになった。家に戻ると夏夜を忘れただけでいつも通りの母さんが居た。
「…考えても、どうしようもないんだよな」
 だって、俺の思考の中だけの話なのだから。年もこの思いに捕らわれたまま、いよいよ本当に頭がおかしいのかもしれない。幼少期に殴られすぎていかれてしまったのだろうか。片耳だけじゃなくて、頭も。そう思うと、口から自虐的な笑いが零れた。
 気が付けば、太陽が傾きかけていた。そろそろ、祖母が帰ってくる頃合いだろう。店仕舞いの準備をしないと。そう立ち上がった時、何処かで何かが落ちる音がした。
「…?」
 音がした方向に向かう。すると、爪先に何かが当たった。それを拾い上げる。
「…なんだこれ…」
 何処かの棚から本が落ちたのだろうか。手に取ってみるとひどく焼けただれたぼろぼろの本、本というよりは冊子。触れると水分の飛んだ紙と埃のざらりとした感触が気持ち悪い。表紙は、所々赤茶色に変色していてなんだか禍々しい。
「…わすれ…もの…ちょう?」
 それでもなんとか読める程度の文字を発見する。
 黒い紐で綴じられた右端の近く、消えかけてはいるが縦書きで『忘物帖』と書いてあると分かった。それ以外の文字は、表紙には見当たらない。
「…どの棚から落ちたんだろう」
 陳列されている本の隙間を探そうと売り物棚を見る。しかし、どの棚も相変わらず売れない本が隙間なく並べられている。
 それによく考えたら売り物にしてはぼろすぎる。いくらうちの本屋が小さく古いと言ってもこんな状態の本は売らないだろう。
「…」
 どうしようもなくなった俺は、その本を開いてみる。ぱり、とくっつきかけたページとページを丁重に開く。
 すると、中表紙にあたるようなページに文字があった。
「…えっと…」
 読めない。表紙のタイトルより劣化が激しく、読めない。それでもなんとか顔を近づけて、読めたのは以下の内容だった。

『忘物帖

 忘れたいものを忘却できます。

 ・皆が忘れたい場合 二頁
 ・貴方が忘れたい場合 三頁』
 どうやらこの本の目次…?に当たる部分のようである。あとは消えかけていてよく読めない。手書きの黒で書かれた文字は消えかけているのもあるが薄気味悪い雰囲気がある。
 その次のページを捲る。けど、中身は、白紙。何も文字も図も見当たらないので、白紙だと思った。捲るたびに埃を舞わせながら最後までページを確認する。
 ざっと見ていく、何も書いていない。でも、あるページが目に留まった瞬間目を見開いた。
「…!?」
 驚いて手から本を落としてしまった。
 何もないと思って素通りしようとした本の後半。見開き一ページに渡り赤い文字で書かれていた、夏夜、という文字。
 心臓の音がうるさい。見開きに渡って書かれた文字の映像が頭に残ったままなんども蘇る。どす黒い赤色の、狂気の入った荒々しい文字、だった。
「…なんで夏夜の…名前が…」
 口の中がからからになる。夕暮れの日暮らしの声が頭に響いてくらくらする。意を決してもう一度本を拾い上げた。
「……」
 同じページを開くと脳内に残った先程の映像と同じものがあった。つまり、夏夜の名前があった。その荒々しい文字跡を指でなぞると一瞬背筋に悪寒が走ってなぞるのをやめた。
 忘物帖――。わすれものちょう。もう一度表紙を見て、そのタイトルを反芻する。皆が忘れたい場合…貴方が忘れたい場合…夏夜の名前。
「まさか、な」
 一瞬脳内によぎった一つの結論に馬鹿馬鹿しいとかぶりを振った。‘この本に夏夜の名前が書かれているから、皆夏夜のことを覚えていない’あまりにも安直すぎる結論だ。そんなオカルトじみた話信じられる訳がない。だいたいこんな古臭い本にそんな力がある訳ない。
 そう考えている矢先、裏口のドアが開く音が聞こえた。
「冬星ぃ、ちょっと手伝ってくれるー?」
 祖母が帰ったようだ。足音がこちらへと近づいてくる。
 俺は真っ先にこの本をどうしようかと思った。これが本物だとかそうじゃないとか関係なく、祖母に見られるのはなんとなく嫌だし、まずい気がする。特にあの夏夜の名前のページは誰も見ない方がいい気がする。
「今行く!」
 俺はとっさに忘物帖を随分やりかけたままにしていた参考書の下に挟み、祖母の元へと急いだ。


――冬兄ちゃん。
 懐かしい夏夜の声が遠くで俺を呼んでいた。
 夏夜。夏夜。お前は俺の中に確かにいるんだよ。

 じっとりと汗ばむ感覚にはっと目が覚めた。所々染みのある見慣れない天井に自分が今何処にいるのかを把握する。

 夏夜だ。夏夜の夢を見た。

 でもどうしてお前の顔が上手く思い出せないんだろう。

 俺とは全く似ていない夏夜の顔。
 俺と夏夜は父親が違うし、母親も違う。
 俺の両親は両方とも遠く昔に事故で死んだ。俺だけが生き残った。あまりよく知らないし、覚えても無い。けど、星を教えてくれたのはその父さんと母さんだと思う。
 そして、俺は実母の妹に当たる人物に引き取られた。それが今の母親の綾子だ。俺を引き取った時、綾子には夫が居た。丁度子供が居なかった夫婦の元に俺は歓迎されて迎え入れて貰った。初めは幸せだった。けど、ある日綾子の浮気がばれた。一人じゃない、何人も綾子は男と関係を持っていた。綾子は俺がストレスで、と言い訳をした。怒り狂った義父は、家を出て行って、その後は行方が分からなくなった。
 それから、綾子は家事を放棄し、街を徘徊しては日毎に家に違う男を連れ込むようになった。俺のことなんか見向きもしなくなった。しかし、今思えばただ放置されていただけなんて随分マシだ。
 夏夜が来てから綾子は俺を虐待するようになったからだ。
 夏夜は綾子が何処かで作ってきた子供だ。逆にあの人は夏夜のことは溺愛していた。俺と違って血の繋がった実子だからというのもあるだろう、が、綾子は今や何処にいるのかも分からない夏夜の父親に首ったけだったからその子と思うと愛しかったのだろう。だから、綾子が夏夜を知らない、って言った時が一番訳がわからなかったんだ。
 でも、夏夜はそのまま綾子のお気に入りであれば良いのに俺に手を上げる綾子に向かっていつも反抗してくれた。夏夜は優しい子だった。それでも綾子は俺に手を上げていた。痛いに決まっている、俺が一体何をしたっていうんだ。
 その所為か俺の右耳は気が付けば聞こえなくなっていた。
 日常生活に支障はない。聞く方向を選ぶことはあるが、周りの人にも言わなきゃ分からない程普通に過ごしている。
 しかし、幼い頃からの夢だった宇宙飛行士になることが叶わないと知ったのはいつの事だったろうか。大きくなったら宇宙飛行士になる、それは数少ない実親との記憶にある、約束だった。
 俺の現実は荒んでいる。今は綾子には力で押さえつけられるようなことは無くなったが、相変わらず俺に関心は無く外で遊びまくっている。その癖に俺が家に帰らなければ寂しい寂しいと猫撫で声で電話してくる。そんな状況を見かねた実父の祖母が連絡をくれてから定期的に俺はこの村に来るようになった。祖母はこちらに住んでもいいと言っているが、頭のおかしい綾子は俺を離してくれない。
 溜息をつき、祖母が俺に割り当ててくれている部屋の隅に置いた参考書に目をやる。正確には昨日そこに咄嗟に重ねた忘物帖に。
 静かに体を起こす。右耳が聴こえない、ああ、ここはなんてひどい現実だ。
 じゃあ夏夜が居るのは現実か、非現実か。
 やはりあそこへ行けば何か分かるだろうか。
 ずっと行くのが嫌だった、大好きだった場所。嫌だったんだ、もしそこへ行って何かがわかるのが。でも、昨日忘物帖を見つけてからおかしな胸騒ぎが止まらなくて落ち着かない。もう俺はあそこに行く以外どうしようもないような、そんな意識がつきまとっている。
やっぱり行こう。思い立ったら直ぐに行動しよう。
木造の部屋に不釣り合いなデジタル時計を見ると一七時を指していた。そこで始めて早朝に祖母の畑の手伝いをして正午に帰ってきてからずっと眠ってしまっていたことに気が付く。
俺はそそくさと準備をして、忘物帖を手に取ると、少し出掛けてくると台所に立つ祖母に向かって声を掛けて家を後にした。

 誰もいない夕暮れ道を一人歩くのは、いつ振りだろうか。目の前に広がる田圃道からは涼しげな虫の声がするし、昼間のような暑さは無く、木々を揺らす風はどちらかといえば気持ちがいい。黄色のような赤色のようなどっちともつかない空を見ていると、ふいに夏の瞳を思い出した。
 昨日責めるように追い返してしまった夏。どうせあの場所へ行くなら誘うべきだっただろうか。そう考えて、途中で夏の連絡先を知らないと気がついた。いや、来る時に連絡してと家の住所を教えてもらった覚えはあるが、それしかわからない。そもそも夏は現代っ子に珍しく携帯を持っていない。あいつに会おうとする時、俺はいつもどうしてるんだっけ? だいたいいつも俺が行く前に夏はやってくる気がする。
「あれ…」
そう考えているうちに、目の先のこの村唯一のバス停のベンチに人影が見えた。
「夏…?」
 近づいていくとどうやら夏だった。ベンチの上に座り、寝ている。
こんな夕暮れにこいつはこんな所で何をやっているんだ。
「…冬?」
 どうやら夏は目を覚ましてしまったようだ。
「何してるのこんな所で」
「それはこっちの台詞だ」
 寝惚け眼の夏がこちらを見上げる。
「僕は…昼寝。冬は?」
 こんな夕方にこんな所で昼寝する奴がいるのか、と言いたくなるのをやめて別の言葉を口にした。
「昨日はごめん、折角誘ってくれたのに」
「…」
 前髪で隠れた夏の表情はよく見えない。
「それで…今からあそこに行こうと思うんだけど、一緒に行かないか?」
「!?急にどうしたの?」
 夏が珍しく驚いた様子で立ち上がる。
そこで、俺は夏にあの手帖のことを話すかどうか迷った。けれど、俺以外の客観的な意見が欲しい。俺は実際に懐からあの手帖を出しながら、夏に忘物帖のことを話した。夏は、ずっと横で黙って聞いていた。
「…どう思う?」
「うん……そんなものが、あったんだね」
 夏はなんだか上の空だった。また非現実的な話だから当然か。
「とりあえず、僕も行くよ」
「ありがとう」
 そう言って、俺達は歩き出した。
 山の中、高い所にある神社へと続く道は、一応道というものはあるものの人の手が長く入っておらず、ほぼ野道だ。その上、急斜面が多く足を滑らせればひとたまりも無いだろう。慣れればどうってことはないが。俺は、懐中電灯で先を照らす夏の後ろを歩く。二人無言で歩いていた。
「夏、気を付けろよ」
「え、…うん」
 途中それくらいの会話をしたくらいだ。
 そうして、辿り着いた目的地の神社。神社といっても、古びた祠と鳥居があるだけだが。辺りはすっかり薄暗く、時間的には丁度良い。俺は、空を見上げた。
「綺麗だね」
 俺の右側で夏が呟いた。
 久々に見た星空だった。やっぱり此処の星空が一番だ。何よりも何よりも綺麗だ。暗い夜の闇の中、瞬く粒の数々。清々しい程にはっきり見える夏の大三角形。銀砂を散りばめたような天の川。その宙は、どこまでも続いていて終わりが見えない。だから、俺は見に行きたかったんだ。昔からあの宙の終わりを突き止めに行きたかった。宇宙に行ってみたかった。なのに、どうしてそれが叶わなくなったんだ。
 急にもう痛くもない右耳が痛むような気がした。
 この右耳のせいだ。じゃあこの耳は、誰がこうしたんだ。綾子だ。
 綾子が俺に手を上げるようになったのはいつからだ? 誰が来てからだ?
「冬」
 ふと夏が、こちらを見つめていた。その夜空と同じ色の瞳にきらきら星が反射する様は、まるで瞳の中の小宇宙。
 そういえば、夏夜も同じ綺麗な目をしていた。どうして、今迄気付かなかったんだろう? 
 夏の小宇宙の中に流れ星が一筋流れた。これ以上見ていてはいけない。けれど、俺はその宇宙に飲み込まれてしまう。もう闇から目が離せない。心臓の鼓動がうるさくて、自分自身が分からなくなるような気分。ぐちゃぐちゃとして思考がまとまらない。
「ねえ、思い出しちゃったの? 冬兄ちゃん」
 そして、夏が寂しそうに笑った途端。急にざわざわとしていた胸が静かになって、意識がひどく研ぎ澄まされた。真っ白に綺麗になった、脳裏にひとつの事実が浮かぶ。

「…夏夜…」
 俺には、弟がいた。名前は、夏夜。
 夏に生まれたから夏夜。冬に生まれたから冬星と名付けられた俺と対照的な名前。
 いつも俺の右側に居た。綺麗な眼をしていた。ずっと一緒だった。
 でも、死んでしまった。

 俺が殺したんだ。

「っうあ…」
 今、自分の身に何が起きてるのかわからない、わからない。けど、頭の中の記憶が凄まじい速さで書き換えられていく。
 夏夜は夏だった。俺には妹じゃなくて、弟がいた。夏が夏夜だった。
「冬、夏夜は僕だよ。よく女みたいな名前って言われてたけど、妹じゃない」
「でも…夏夜は…三年前に死んで…」
 そもそも、夏夜は三年前に死んだ。その記憶は変わっていない。この下の麓、転げ落ちて死んだ。すると、途端に夏が声をあげて笑った。
「そうだよ、僕は三年前に死んだ。冬が、殺したんじゃないか。星を見に行った帰りに、冬が僕の背中を押したんだよ」
 夏の表情は、見えない。
 ああ、そうだ、三年前――二人で星を見た帰り、前を歩く夏夜の背を俺が押したんだ。
 瞬間の出来心じゃない。ある日俺の目の前に現れた忘物帖を手にして、前もって計画していたことだった。
 忘物帖。単純に言えば「名前を書けばその人とその人に関連する記憶を忘れられる」手帖だ。それは必要としている人の元に現れ、知らずのうちに消えていく。忘物帖には規則がある。まず、記入者だけが誰かのことを忘れたい場合はその人の名前を書けばいいだけだ。しかし、こちらの場合で忘物帖を使用する人はごく稀だ。忘物帖は、世の中の全てからその人を忘れさせることが出来るというものだ。忘却したい人を記入者の手で消して――殺して、その血でその者の名前を書くことが条件だ。そうすれば、その者に関連する全てのものはその者のことを忘れる。忘物帖はあくまで忘却させることしか出来ない為、対象者のしたこと、居た跡は残るが、この方法を取れば、概ねその人の存在をこの世から無かったことに出来るに等しい。そう言って、俺に忘物帖を渡した『少女』は言っていた。
「冬はどうして‘忘却’が上手くいかなかったんだろうね。妹が居た、なんて微妙な記憶の改竄は起きてるみたいだったけど」
 忘却の対象は、忘物帖の記入者も含む。忘物帖を使用した記入者は、忘物帖の存在、それを使用したことも忘れる。基本的に例外は無い。確かそのようなこともあの「少女」が言っていた。しかし、俺はそれが何処か上手くいかなかったらしい。
 混沌としていた頭が整理されていくうちに、自分の中のある恐怖が大きくなっていくのを感じた。
 だって、夏夜、お前は死んでいるんだろ?
「じゃあ此処にいるお前は……なんだ?」
「…」
 俺はそれが一番、よくわからなくて怖い。お前を殺したこと、それは間違いなく悪いことだ。
「僕は、まあ幽霊、みたいなものじゃないかな。物には触れられるし、動物に憑依したりも出来るんだけど…ただ冬がこの村に来ている時しか僕は出てこれないというか…」
 夏は、案外淡々と答えた。
「…それで、冬の体を貸して欲しいんだ。僕には…ひとつやらなきゃいけないことがあるから…」
 俺のことを恨んでいるんだろうな。
 俺は、本当は夏夜が生まれてから夏夜のことが羨ましかったし妬ましかった。俺がこんな目にあっているには夏夜が悪い訳じゃないとはちゃんと分かっていたから、夏夜には普通に接していたし、仲良くしてた。夏夜も自分に懐いてくれているのも知っていた。でも、夏夜のことが妬ましかった…。夏夜がいなければ、俺は耳も聞こえなくならずに済んだかも知れないのに…。俺だって母さんに愛されていたかもしれないのに…。胸にじわじわと募っていた闇黒い重いは俺に忘物帖を使わせるには十分だった。
「……僕の体はほら、ぐちゃぐちゃになっちゃったから」
 そう言った夏夜の姿に重なって、違う姿がフラッシュバックする。
 …急斜面を転げた傷だらけの夏夜の死体、手も足も歪な方向に曲がっていて、血塗れの…。
「っ…!」
 急に頭痛に襲われて立っていられなくなる。頭を押さえて蹲る。
「冬! 大丈夫!?」
 夏夜が駆け寄ってくる。
 一番思い出したくなかった記憶。
 夏夜の死体の前、吐きながら俺は夏夜の名前を手帖に書いた。もう引き返せないとか後悔じゃなくて、とにかく俺はその夏夜の姿を、一番忘れてしまいたかったんだ。どうしてこんなことをしてしまったんだろう、夏夜は悪くないって知ってたじゃないか。それに結局夏夜がいなくなった所で綾子の態度も変わっていなかったんだな。俺は本当に愚かなんだ。
 背中に触れた夏夜の手は冷たかった。その冷たさが一層真実を突きつける。
 目の前がぐるぐるして気持ち悪い。嫌だ、もうあの光景は…嫌だ…。俺の不満足な体で良いならあげる。むしろ、それで罪滅ぼしになるなら…。
「夏夜、…ごめ…んな」
 耐えられなくなった俺はそのまま、夏夜の腕の中に意識を落とした。


「…思い出さなければ、良かったのに」
 遠い意識の中で夏夜の声が聞こえていた。優しい声だった。
「冬、聞いていて」
 よく聞こえるよ、夏夜。お前の声は一番よく聞こえる。
「僕は冬のこと憎んでなんかない」
 俺は、お前を殺したんだぞ。それなのに、そんな事言ったって。
「でも冬はずっと優しかったじゃない。母さんが父さんを繋ぎ止めたくて作られたような僕にとっては、冬だけだったんだよ」
「僕は、冬の体を借りて、忘物帖を使う。母さんを殺して、忘れ物にする。僕の名前ももう一度書く」
 何を言ってるんだ…? 
「僕は冬にもう苦しんで生きてほしくないんだ。これで冬はもう母さんからも僕からも解放されるよ。忘物帖は、あくまで忘却しか出来ないから、…耳は…治せないけど……」
 待ってくれよ、夏夜。何言ってるんだ。
 俺は、後悔してるんだ。お前のことも憎んでない。
折角思い出したのに、ひどいことしてごめん、痛かったよな。忘れててごめん。だから、待ってくれ――


 ――真っ白い、見知らぬ天井だった。俺の顔を覗き込んだ看護師が大急ぎで病室を出て行った。此処は病院らしい。
 その後、白衣を着た医者がやってきて俺に説明してくれた。
 俺の自宅で一人の女性が死んでいたんだと。俺もその傍で腹に傷を負って倒れていたらしい。道理で体が痛む。女性の遺体は顔が分からないほどひどい状態で身元も不明。俺にも心当たりがない。
 高校三年生の夏休み、久しぶりに祖母の元へ行っていた。それで自宅へ帰ってきてからこうなったらしい。
 俺は一人暮らしだ。俺の両親は、両方とも幼い頃に交通事故で死んだ。俺も同じ車に乗っていたのに、一人だけ生き残ったんだ。
 右耳が聞こえない。確か、俺の右耳は、その事故の時に、聞こえなくなってしまった、んだった。
 日常生活に支障は無いが、聞く方向を選ぶことはある。友人の中には、気を使ってわざわざ俺と話す時には右側で話してくれる奴もいる。
「……」
 …どうしてだろう、涙が止まらない。いつも俺の右側に居たのは、誰だっけ。訳がわからないのに、悲しいんだ。
誰か、この涙の理由を教えてくれよ。

 窓に覗く夕暮れの空の中。ひとり、涙を流す。もうすぐ夜がやってくる。
 遠くで物悲しげに鳴くヒグラシの声が、夏の終わりを告げていた。

END

忘物帖

忘れている方が幸福
2016年1月

忘物帖

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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