十八本の煙

十八本の煙

煙草なんか試さなきゃよかった。
部屋を右往左往しながら、こぼれていく灰のことを考えた。

 少し前に流行った歌を、なぜ私は急に再現したくなったのだろう。その歌は、部屋を出ていった恋人の残した銘柄を吸って失恋に浸るという内容なのだけれど、私に恋人がいたのはずいぶん昔、のような気がする。たしか高校三年生のときに失恋、というよりも自然消滅しただけなのだけれど、当時の彼は順法精神の高い同級生で、アメリカン・スピリットにも私にも手をださなかったから、歌のような恋をしていたとは言いがたい。そもそも私たちは付き合っていたのだろうか。正直なところ、今でもちょっと自信がない。一応告白されてそれを承諾したのだから形式的には付き合ったのだけれど、ときどき学校の帰り道をともにし、夏休みに一緒に花火を見て、冬にチョコレートを贈ったもののホワイトデーには連絡が途絶えていた関係を、堂々と「私たちは付き合っていたのです」と言えるのかどうか。LINEのやりとりで宿題やら先生の悪口やら修学旅行のあれこれやら受験する大学やらを話し合って、お互いに夢を頭に詰め込めるだけ詰め込んでいた時間は、果たして明るくキャンパスを闊歩しているような連中が話している「恋愛」と同じなのだろうか。答えは風の中、という具合。
 風。ではなく灰。そう、アメリカン・スピリットの灰の話だった。そういうわけで、重なる部分は少ないけれども歌詞のヒロインみたいなことをやってみたい、という謎の衝動に突き動かされて、私は夜中のコンビニに、吸ったこともない「煙草」というものを買いに出かけた。
 店に入ると、レジ奥にずらりと並んだ煙草。銘柄はよくわからないから直感で決める。
「インディアンの絵のやつ、ください」
「アメリカン・スピリットですね」
 アメリカ人の魂という名前の商品に驚きつつ、
「ライターも、ください」と伝える。
「そこにあります」
 左手の下あたりに置いてある百円ライターをじっくり眺める機会をもらった私は、これ、ネオン管に似ているなと思いながら千円をカウンターに置いた。
 ビニール袋をもらったのにすぐに出口のゴミ箱に捨ててしまって、ジャージのポケットにライターと煙草を入れて歩く。おっさんっぽい、実に。でもこの時の私はとても浮かれた気分だった。コスメや服をはじめて自分で選んだときの感覚。加えて煙草というアイテムの持つちょっとした背徳感。季節は五月に入ったせいでけだるい暑さが夜にも少し残りはじめている。個人的に、この季節の暗闇のほうが冬の夜より怖いと思っているのだが、今夜は煙草のおかけで上機嫌。スキップしたいような気分だけれど、気分なだけで実際はクロックスでとぼとぼ歩く。

 記念すべき一本目は反対側に火を着けてしまって捨てた。
 火を付けること自体は、問題なくできる。小学生のころに道端に捨てられたライターを拾って遊ぶおちゃめな男子が、クラスメイト全員に点け方を教授してくれたのだった。拾ったライターは火力最大にすると高い確率で通常より縦長の赤い炎になるという無駄知識とともに、私は操作方法を把握した。
「たぶん、火の中に空気を、送り込む機構が、壊れているから、かな」
 独り言とともに、ジッ、ジッ、ジッと音を立てて点火する。壊れたライターを「火炎放射器」と呼んでいたその男子は実は勉強もできたから、理科のガスバーナー実験のときにでも気づいただろう。
「私は今気づいたよ」
 部屋のなかでは躊躇なく呟いてしまうから困る。それにしても、だ。『同級生だった女子が十数年後、狭い居間の卓袱台の前に座り、自分の教えた手順を守ってライターに点火する』という未来は彼にも
「予想外の展開!」
と映画風に言ってみると結構あぶない人の感じが出た。
 左手に持った炎の先を、右手につまんだ細い筒状の物体の、
「葉の見えるほうに」
近づけると、煙草の先からジリッと音を立てそうな赤い光が付いた。左親指の力を抜いてゆっくりライターの卓袱台に置く。
 右手のこれを今から、吸う、のか。一秒ほど躊躇ののち、煙が鼻のあたりまで漂って来、これは生理的に無理だと即座に判断した自分を褒めたいと思ったのはコンマ数秒の間だけだった。
 灰が床に落ちる。
「あっ、あっ」
 応急処置のつもりで煙草の先を真上に向けたら煙が目に入って指先が震えてしまい、逆効果だった。すぐに立ち上がったが意外と洗面所とかに行けばいいって思いつかないものですね。でも急なことだったから仕方ありませんよ。そして冒頭の有様に至る。
木目調のフローリングには横幅約十センチごとに細い溝が拵えてあり、その溝に入りこんだ灰はおそらく完全には取り除けない。煙草一本分の灰が部屋のすべての動線上に散らばった後、無力感で胸が一杯になった私はその細かく散っていったものたちを想い、大地の方向、つまり床に向かって呟いた。
「これからずっと一緒だね」

 惨劇の原因となった歌にはプロモーションビデオがついている。とりあえず見えるところだけ拭いてから卓袱台にタブレットを置き、動画サイトでPVを確認してみた。たしかこのPVの主人公も部屋で煙草を吸っていたはず。まあ、当然だけれど、PVの子は私よりずっと賢かった。紅茶の入ったコップで吸った煙草を始末していた。なんとなくオシャレさが加わった敗北感。
 残り十八本のアメリカン・スピリットは、なんとなく捨てるのも勿体ない気がしてその夜のうちに使うことにした。ベランダに出る。やっぱり初夏の夜の気配は苦手だ。じわっとした何かが夜の闇から出てきそうなので、近頃は洗濯の回数が減っている。ちょっと厚めの紙でできた箱から取り出した煙草を、火力を最大にしたライターで着火し、その燃える様子をただ見つめる、だけ。正しく吸えなかったけれど、こんな都会の暗闇でスキップの気分を引き出してくれたアメリカン・スピリット。ベランダで一本ずつ煙にして、夜空に送り出す。

十八本の煙

十八本の煙

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-14

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