水素とヘリウム

水素とヘリウム

 連休前のせいか、ちょっと寄り道してみたくなった。
 僕の高校から駅までの帰り道は軽い下り坂になっていて、自転車に乗って帰るとかなりのスピードが出せる。よくテレビで再放送されるタイムトラベルもののアニメ映画で、自転車に乗った主人公が猛スピードで過去に飛ぶシーンがあったが、きっとあのシーンを思い起こしながら走るクラスメートとかいるんじゃないかな。途中の公園あたりで、いつもなら右に行くところを左に歩きながら思う。駅までの最短距離はもちろん右。地元は二駅先だから学校周辺の地理は不案内で、その無計画さが連休直前の帰路ならではの贅沢だと感じる。いざとなればスマホのマップを使えばいい。二年も通ってから、今更こういう冒険心に駆られるというのは自分でもちょっと意外だが、やっと心の余裕を持てたということでもあるらしい。内部進学でなく中学受験で入ってきて、四月は校舎の雰囲気や授業に慣れるのに精一杯で、とりあえず部活を写真部に決めて、そのあと五月にクラスでのレクリエーション旅行があって、つまりそんな調子で一年と一カ月が過ぎた。入学式や夏の学期明けによく行われる高校生デビューという名のバンジージャンプ的儀式は行わず、淡々と進級し、新しくクラスにも慣れて、そういう積み重ねを経ての冒険が、この寄り道。振り返って、つくづく自分が小市民的な高校生だと感じる。
左の道から続くのは住宅街だった。生垣からツツジが香り、夕日が葉を照らしている。知らない道を歩くという行為は感覚を鋭くさせるようで、横切っていく猫の影や後ろで聞こえるチャイム音、さらっとした風の感触が、空っぽなまま歩き続ける僕の内部に広がっていく。夕食の準備をしているのか、フライパンでグリルする音が後頭部から急に聞こえて、スマホの時計を確認する。僕の家の夕食はだいたい午後七時くらいだから、ちょっと早すぎる気がする。そんなに長く歩いただろうか。
 ふと振り返った先の空に、風船が数個、浮かんでいた。明日が祭日だからだろうか。どうも未知の場所では思考にいちいち留保がかかってしまうようだ。確認できる対象が欲しくて風船の色と数を数える。青がひとつ。赤が、みっつ。紫がひとつ。空の色で見えにくいが、橙色がふたつ。寄り道するなら、カメラを持ってくればよかった。肉眼で風船を追い続けるうちに、二つの単語が呼び起こされる。爆発と岸さん。
爆発。夕食時に母親が嬉々として語ったニュース。イベント用に使う風船のガスになんらかの原因で引火。ガス車ごと炎上したものの、運転席には誰もおらず、けが人なし。「近所なんだってさぁ」浮き立つ感情が語尾に現れていて、それって不謹慎だけど母親とか関係なくしょうがないことだよねって顔で「そうなんだ」と言う自分。それをもし高画質で記録して見返したら、どんな気分になるんだろう。GRという、ポケットに入るくらいコンパクトだけど映りがいいカメラを最近買ってもらったことから、そんなことを考えてしまう。やっぱりちょっと笑ってしまうんだろうな。僕の顔はちょっとばかし神のいたずらが効いていることは十分自覚していて、それを携帯でなく、部活での「作品」に必要と説得して買ってもらった高いカメラで真面目くさって自撮りするという状況は、なんだか現代アート作家みたい、と母親の親バカな発言をおそらく引き出すだろうし、それによってさらに自分が複雑な顔をすることが前もってわかってしまい、ちょっと笑うだろうと想像する。現に今ちょっとニヤついているのだ。
 岸さん。クラスメート。端正、という言葉が似合いそうな同級生。接点はない。
『あの子さぁ』と同じクラスの女子、萩本さんが切り出したのは昨日のこと。『岸ちゃん?』これも同じクラスの女子、山本さんがニヤッとして受け取る。どこかの国の言葉で、冷笑を青色で表現していたと思うけど、二人の唇には青色の絵の具がべったり塗りこめられているようで、僕はたとえばこの瞬間をモノクロで撮影して、デジタル加工で口元だけ青くパートカラーにできないかなぁとか思いながら窓の外を見る。『ヤバいんだよ、暗すぎ』『え、彩ちゃん、親友だったんじゃないの?』『相手はそう思ってるかもしれないけど、全然。てかさ、この前、脚、見せてもらったんだよ。ヤバかった。しかも風船になりたいとか言われたし。』その後の彼女たちの会話は他のクラスの雑音に紛れてしまったけれど、漏れ聞こえてきたレグカって単語が新鮮だったので家に帰って検索したら、状況が呑み込めてしまった。と同時に、本人がトイレに行く間を見計らって、重い内容を伝言ゲームみたいに話してしまう友情ってなんなのだろう。
 あの岸さんが話す相手を間違うという点に、僕は少々混乱を覚える。あの端正な後ろ姿が持つ安定感とは真逆の性質。
 僕は「萩本彩という人は岸さんにとって本当に友達?」と岸さんに聞いてみる場面を妄想しようとしたが、非現実的すぎてうまくいかなかった。
風船を見た僕はこのモヤモヤした感情を思い出し、再び妄想で解消を試みることにした。今度は自分が萩本彩になって、悩みを打ち明けられる場面を妄想してみる。場所の想像が乏しくて、いかにもドラマにありそうだが、屋上で会話があったようにイメージする。
——話って?
『うん、あのさ。変なこと言ってもいいかな』
——なーに、どしたー?
『私さ、風船になりたいんだ』
——風船……?
『脚、見てくれるかな』
 岸さんは立ったまま右のローファーを片手で足から引き抜く。次に黒いソックスも脱がす。白くて細い足首に輪っか状のみみず腫れ、その輪を垂直に縫合するような傷跡。
『この足の紐をちゃんと切れたら、風船になれると思うんだ』
 萩本さんは絶句したあと、何か適当な慰めの言葉でも言っただろうか? でも、もし仮に萩本彩が今の僕のように、風船についてちょっとばかしネットで調べていて、なにより岸さんを友人だと思っているなら、こんな言葉をかけてほしい、と妄想する。
——あのさぁ。北海道に風船を宇宙まで打ち上げて写真を撮ってる人がいるんだけど。知ってた?
『……知らない』
——いやマジで風船、すげーのよ。ちょうど人一人分くらいの風船だから、あれになりたいっていうの、私もわかる。でさ、その風船打ち上げなんだけど、ホームページでやり方とか公開してるわけ。岸さん、クラスは同じだけど選択科目理系じゃん? うち文系だから細かいところわかんないのよ。でもさ、宇宙撮影できるのってロマンじゃん? それでさ、どうかな?
『……どうって?』
——協力してくれないかな? 写真を撮る機材とかは、そうだな、写真部とかにお願いすればいけると思うから。
『そうなの?』
——彩ちゃんに任せなさい。私の魅力でイチコロですよ。で、その間に岸ちゃんと私は風船の素材とかを買い込んで、岸ちゃんの知能を使って試作品を飛ばす、とこまでやってみたいんだ!
『……ねぇ、なんでここまで言ってくれるの?』
——うーん、なんでだろうね。たぶんさ、脚のことってずっと岸ちゃんが抱えてた気持ちでしょ。それと同じくらいの熱をもった気持ちじゃないと、フェアじゃない気がしてさ、なんていうか、友達として? 正直、レグカ? がいいとか悪いとか、私にはわからない気がする。岸さん以外が悩んでいい内容なのかさえ、ちょっとわからないんだ、ごめんね。でも、風船をもし宇宙まで飛ばせたら、その具体的な事実が僕や君の認識を変えて、なにか窓を開けたような気分にさせてくれるかもしれない。そしたら僕たちは笑う時間が増えるような気がするんだ。いやぁ今回は高度何千メートルまで飛んだねぇとか、訳のわからない距離の単位を話題の足場にしてさ。それに岸さんが笑ってくれると助かるんだ。
『……助かる? なんで』
 それはさ、僕が端正かつ笑顔の人物写真を撮りたいからで…

 柄にもなく宇宙を語る萩本彩は途中で意識から消え去り、変わった顔の造形をした僕が、接点のない女子クラスメート相手に謎の計画を持ち掛けている。非現実性を再度確認したところで、僕はこの妄想をやめた。思った以上に無力だと自覚し、もはや風船のなくなった藍色の空を見上げつつ、大きく息を吐いた。
 吐き切ったところで、ぐっと下を向いて深く吸い込んでみる。性懲りもなく僕はまた妄想を始めていた。たとえば、この肺が空気から水素とヘリウムを生成できたらどうだろう? 僕の体がゴムのように伸縮するなら? 僕の体はふわと浮き上がり、少しずつ加速。体はどんどん膨らみ、二層の雲の隙間を突き抜けて宇宙へと達する。大気圧がほぼなくなって僕の体は最大限に膨張し、爆散する。僕の体を構成していたものがすべて壊れる。僕の弱さ、彼女の弱さ、悪意、そういったものすべてが爆発に巻き込まれて消滅する。もしそんなことが起きたら? たとえば岸さんはちょっと生きやすくなった世界の原因を気にかけてくれて、この爆弾の正体をネットで検索し、僕の名前を認識してくれたり、するだろうか。
 淡い感覚は突如、消え去った。僕の体はゴムではない。肺は破裂する前に痛みの信号を脳に送る。咳き込んだ口から二酸化炭素が漏れ出す。駅への道をスマートフォンで検索すると、15分程度で到着するルートが表示された。

水素とヘリウム

水素とヘリウム

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-14

Public Domain
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