ビースト!(2)
第一章 発端
1
武志は最寄駅から幾つかの駅を挟んだ先の、真新しい私立高校に進学した。さすがに私立高校なだけに設備はある程度整っていて、学校の敷地も広かった。
武志は幼い頃から道場で剣道を極めてきた。彼の家が代々伝わる道場だからだ。 流派は新撰組の多くの隊士が使っていた天然理心流の派生である、無我理心流を使っている。 武志は自分の腕に絶対的な自信があった。高校も剣道が強い高校を選んだ。 私立鳩錦高等学校だ。 みんなはハト高と呼んでいる。不抜けた名前だと彼は思っている。
剣道の圧倒的な実力が認められての推薦入学。特待生として入学料、授業料などは全額免除。この上ない待遇だ。
だが、この日は武志にとって人生最悪の日となった。 剣道部に入部した初日、彼は防具を身に付け、お気に入りの竹刀を握った。 黒い竹刀だ。 それは黒竹(くろたけ)という珍しい竹でできていた。彼の母方の祖父が特別に作ってくれたのだ。 幼い頃から三重県に住んでいた祖父は、そこら一体の山々を知り尽くしていて、見つけた黒竹で可愛い孫のために竹刀を作ったのだ。長いこと使えるようにと、小学生には合わない長さだった。だが、今の彼にはぴったりの長さなのだ。 武志はこの黒い竹刀を溺愛していた。軽さ、丈夫さ、しなり具合も丁度良かった。だが、彼が大切に使っている理由はそれだけではなかった。彼がこの竹刀を貰った数ヶ月後、祖父が交通事故で他界してしまったのだ。つまり、この竹刀は祖父の遺品ということになる。だから武志はこの黒い竹刀への思いが特別強いのだ。 武志は感傷に浸りながら、その竹刀を愛でるように眺めた。
初日ということで、新入生は剣道部の二、三年と対戦することになったのだ。さすがに特待生とあって、先輩たちの目がギラギラ光っている。
剣道の公式の試合は三本勝負で、二本を先取した方が勝ちなのだが、今回は一本勝負という形となった。
新入生はランダムに一人ずつ先輩と対戦するのだが、武志はいきなり主将の剛力という男と戦うことになった。
武志は竹刀をそっと撫でた。
「おい、早く行けよ」
先輩に背中を押され、武志は進み出た(というより押し出された)。
「主将の剛力だ。よろしく」
武志は慌てて面を付けると頭を下げた。 「よろしくお願いします」
主将の剛力は、面を付けていても分かるほど厳つかった。オーラが他と違うのだ。肩幅が広く、豪腕といった感じがする。
(こいつが中学剣道の全国準優勝の左衛門三郎か。確かに背は高いが、パワーはそこまでなさそうだ。無我理心流の道場の跡継ぎらしいが、所詮は中学の剣道だ。俺が格の違いを見せつけてやる)
剛力は竹刀を構えた。武志もそれに習った。
二人の間に沈黙が流れた。
「始め」
審判の号令で試合が始まった。
先に動いたのは剛力だった。 彼は素早い動きで武志に近づくと、そのまま彼の頭に竹刀を振り下ろした。しかし、武志はギリギリのところで、勢い良く身を翻すと、正確に剛力の面に竹刀を叩きつけた。
「勝負あり!」
それはまさに下克上だった。一年でありながら、主将に格の違いをまざまざと見せつけたのだ。
剛力は呆気にとられている。
(本物だ。この瞬発力、凄まじい。これが左衛門三郎の実力か)
武志は礼をした。みんなの視線が彼に集中している。顧問までが呆気にとられて、口を半開きにしている。剛力は礼をするのも忘れた。頭の中で武志の動きを再生してみる。非の打ち所のない完璧な動きだった。そして、気に入らないことに自分よりも背が高く、爽やかな笑顔なのだった。
剛力はゆっくりと面を外した。 やはり顔も厳つかった。
「俺の負けだ」
彼はそう言って元の場所に戻った。すると、周りから一斉に歓喜とも怒号ともつかない声が湧き上がった。道場破りだ。いや、正確には道場ではないが。
「私が相手をしたい」
突如観衆の一人が手を挙げた。
凛と張った声が格技場に響きわたり、周りは静まり返った。 立ち上がったのは一人の女子部員だった。面を付けていて顔は伺いしれないが、身長は武志より頭一つ分低い。
彼女は武志の前に立つと腰を曲げた。彼も慌てて礼をした。
(この流れで俺の前に進み出るとは、いい度胸だ)
二人はお互いに竹刀を構えた。
「始め」
お互い相手の出方を伺っている。武志が右に動くと相手は向かって左に動く。竹刀の先はいつも彼に向けられている。
ここまではいつもの相手と一緒だ。普通の相手は大抵二種類に分けられる。相手が戦闘態勢に入る前に、勢い良く飛び込んでくるものと、じっくり相手の隙を探して切り込んでくるもの。 今回は後者だ。 こういう場合武志は心を無にして、ただ相手の出方を伺うことにしている。下手に動くとその隙を突かれるからだ。竹刀を持つ手首を柔らかくして、肩の力を抜く。
と、次の瞬間。
「メン!」
武志の顔面に真っ直ぐに竹刀が振りおろされた。だが、武志はそれを跳ね除けた。
(速いぞ!)
武志は相手の圧倒的な速さに驚いた。並大抵のスピードではない。久々の強敵に、彼は武者震いした。
だが彼の動体視力、反射神経、瞬発力は枠に収まらないぐらい優れたものだった。
次の攻撃は竹刀を使わず体でよけた。 そして先ほどと同じように、視界の端で対象を捉え、手にした竹刀を振り下ろした。 まさにその時だった、彼女が急に視界から姿を消したのは。
武志の頭の中は真っ白になった。だが、考える間もなく竹刀を振り下ろしていた。案の定それは空を切っただけだった。気が付けば強烈な突きをお見舞いされていた。
武志は考える間もなく崩れ落ちた。
「勝負あり!」
(横を取られただと?こんな屈辱は初めてだ。いや、それ以上にこんな動き初めて見た)
周りから歓声が沸き起こる。彼女は礼をすると面を取った。武志は彼女の顔を見て、本日二度目のショックを受けた。
美人だったのだ。
整ったアーチ型の眉。高すぎず低すぎない鼻。シルクのように透き通った肌。笑みを湛えた唇。そして、二重の大きな瞳。まるで作り物のように、全ての顔のパーツのバランスが整っていた。
「桜田、見事だった」
顧問の吉村は彼女の功績を称えた。
「左衛門三郎もなかなか良かったぞ。剛力に勝つなんて、素晴らしい腕前だ」
だが、武志は何も嬉しくなかった。彼にとってここにいる全員に勝って当然だったからだ。名の知れた由緒正しき道場の跡取り息子として、ここに汚点を残すことになってしまった。
彼は何も言わず、誰にともなく礼をすると、逃げるように格技場を後にした。
2
次の日、教室になぜか例の女がいた。
「アイツ、何故ここに?」
武志が呟くと、後ろの席に座っていた獅子頭大吾が馴れ馴れしく話しかけてきた。
「どうした、ブシ?」
彼の下の名前は「武志」と書いて「タケシ」と読むのだが、獅子頭はそれを面白がって、彼のことを「ブシ」と呼ぶのだ。紛らわしい名前をつけられて、彼はそのことを少々気にしている。
獅子頭は武志のクラスメイトで、アームレスリング同好会のマッチョな部員だ。この前知り合ったばかりだというのに、やたら馴れ馴れしい。
「あ、女子に見とれてたんだな?」
獅子頭はニヤニヤしながら、取り巻きの中央に位置する女子を指さした。
「あいつは桜田美香。美人だな」
「転校生か?」
「何言ってんだ。最初からいたじゃないか」
自己紹介のときに、無意識のうちに寝てしまっていたらしい。その辺りの記憶が全くない。
「剣道部だったかな。相当強いらしい」
「ああ。半端じゃない」
「そうか。お前も剣道部だったな。名前にピッタリだ。あはは」
武志は獅子頭を睨んだ。気の弱い奴は怯んで大人しくなるのだが、獅子頭は動じなかった。
「いやあ、それにしても凄いよな」
「何が」
「彼女、このハト校に推薦入学したんだけどさ、奨学金制度で入学金も授業料も全額免除なんだってさ。羨ましいよな。俺なんか貧乏学生だからアルバイト生活だぜ」
(彼女も俺と同じ境遇だったのか)
武志は親近感を覚えた。
「ところでブシ、前から気になってたんだけどさ、その格好何?コスプレ?」
獅子頭は物珍しそうに武志の服の袖を摘んだ。 武志だけはこの学校で唯一和服だった。だが、驚くほどとてもよく似合っているのは、彼の発するオーラが普通の人と違うからだろう。彼は基本的に何を着ても似合ってしまうのだ。ただ、誰も武志が和服か胴着以外のものを着ている姿を見たことがない。もちろん、体操服も除外する。
「似合ってるか?」
「いや、そういう問題じゃないと思うが」
運のいいことにこのハト校は、服装が特に指定されていなかった。創始者が「できるだけ自由な学校にしたい」と、多くの校則を取り払ったのだ。全体的に見ても厳しい規制はなく自由だった。その分偏差値が高く、不良を受け付けない。制服もあるにはあるが、大切な式の時以外は基本的に身に付けなくてもいいのだ。ちなみにこのクラスの全員が私服だった。彼がこの学校を選んだ理由の一つでもある。
「そういうお前だって、いつもジャージだな」
武志に指摘され、獅子頭は肩をすくめた。
「これが一番動きやすいんだよ。ファッション性を抜きにして、伸縮性、通気性でこれに勝るものはない」
獅子頭は大きく胸を張った。すると、彼の胸筋が前に突き出した。驚くほど筋肉質だ。
「し、獅子頭。お前ボディビルダーか」
獅子頭はニッと笑い、グーサインを出した。
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