サークル・ゲーム Ⅱ【注】

璃玖

  1. 花模様【ふたりで】
  2. 花模様【隣り合わせ】
  3. 花明かり【昴流】
  4. 夏芽【昴流】
  5. 花笑み【陽輔】
  6. 花笑み【樹里】

花模様【ふたりで】

(しゅん)

「―晴親(はるちか)、俺の慶事用のネクタイ知らない?」

台所で洗い物をしていた背中に声を掛ける。
何気なく振り向いた晴親の視線が俺の全身を捉えて、途端に頬を赤く染めた。
「…何?」
別におかしな格好はしていないハズだけど。訝しむ俺に、彼は不本意そうな声で答えた。
「…いや、春ちゃんのそういう格好、何か久しぶりで」
「…」
何てカワイイ事を言うんだか…。俺は思わず視線を逸らそうとする晴親の顔に手を伸ばし、正面に据えてニヤリとする。
「惚れ直しちゃった?」「…馬鹿言えよ」

…あらま。
こういう時、以前の晴親だったら割と素直に答えてくれたんだけどなぁ
何というか最近、彼は若干ツンデレ気味だ。
…ま、俺にとっては大して問題じゃないけどね

「あと、俺は春ちゃんのネクタイの管理までしてないからね。そういう部分は独立独歩でしょ」
自分の顎に添えられていた俺の手を丁寧に払いのけ、晴親が素っ気なく続ける。
「ん~、そうだよねぇ」

勿論、それを承知の上で一応聞いてみたのだ。
何度かあった引越しの間に、きっと何処かにしまい込んでしまったのだろう。ここしばらく冠婚葬祭なんて無かったし。
ブツブツ言いながら自分の記憶の引き出しを整理し始めた俺に、晴親は遠慮がちに言葉を掛けてくる。

「別にそこまで気にしなくてもいいんじゃないの?仲間内だけのパーティーだって言ってたし…」
その言葉に少しだけ反発しそうな気持ちを抑えて、俺は笑って応じた。
「でも、こういう時は出来るだけちゃんとしたいんだ。
ちゃんとお祝いの気持ちを伝えるのに、格好は疎かに出来ないよ」

今回祝う相手は、晴親にとってはだいぶ砕けた間柄だろう。
でも、俺にとっては必ずしも同じ距離感ではない。いろいろと微妙な感情が絡んでいるのも、事実だ。

―と。
「…」
晴親が改めてじっと俺を見つめてきた。
何か含みを持たせて相手を見据えるのは、彼の常套手段とも言える。もっとも本人は無意識なのかも知れないが。
「…今度は、何?」
俺が再び向けた笑顔に、晴親も笑顔でサラリと答えてくれる。
「-そういうトコ、ホントカッコイイよね」

…さっきの反応から手の平を返すような素直さ。そんなの、反則だ
今度は俺の顔が熱くなる番だった。



【晴親】

葉月(はづき)ちゃんと小峰(こみね)が結婚すると言う報告を受けた。
僕はある程度分かっていた事だが、春は殊更に驚き、そしてとても喜んでいた。
「-へぇ、あの二人がねぇ!ホントに良かったねぇ」

初めは僕に対する当てつけかとも思った。
何しろ、彼女たちが距離を縮める要因を作ったのは僕だとも言える。(まぁ、春だってその一端を担っていると言えなくもない)
でもそういう邪推をしてしまうのは、僕自身が彼女に対していまだに若干の後ろめたさがあるからだと思う。
ほんの一瞬でも春に転嫁してしまった事を悔やんだ。

「…それでね、内輪でパーティーするんだってさ。
改めてハガキが来るらしいけど、俺には先に知らせてくれたよ。春ちゃんにも宜しくって」
「うん、そっか」

後日届いたハガキは、二人が入籍を済ませた報告とパーティーの日時が記載されたものだった。
同じハガキが僕と春宛てに二通届いていた所に、葉月ちゃんの気遣いが感じられる。きっと、春も同じことを考えたと思う。
「―こういう所、ホントに優しいよねぇ」
と、半ば独り言のように呟いたのを聞き逃さなかった。

「…ね、晴親」「ん?」
しばらくじっとハガキを見つめていた僕に、彼は躊躇いがちに声を掛けてきた。
「俺たちもさ、こういう事したかった?」
「…」

すぐには何と答えていいのか分からず、僕はただ彼の顔を見返す事しか出来なかった。
〝こういう〟イベントを、自分たちに置き換えて考える事など 僕は初めからしていなかったからだ。
今でも、僕たちの現状をみんなが祝福してくれている訳ではない。それは仕方のないことだ。
今更、その部分について悲観的に思うことも無いのだけれど。

そもそも、僕は元々誰かを想うと言う感情に乏しい人間だった。
そういう意味も含めて、僕は春よりも物事を淡白に捉えがちなのかも知れない。
―彼はきっと、みんなに認めて貰いたいのだろう。でも…

「―ちゃんと認めてくれる人は喜んでくれてるじゃない。それで充分だよ」

自分たちの価値観を押し付けて許される程、世界はまだ寛容じゃない。
ならばせめて、彼らに強要することはやめておこうと思う。余計な争いを生まなくて済む。
それでも、ほんの少しだけでも、僕らの気持ちを肯定してくれる人がいる。
それだけで充分、僕らは救われるんだ。

「―そうだね」

何より、僕には貴方が居てくれる。
後ろ指さされる事くらい、大した問題じゃないさ

それよりも今、重要な事は…
「…あ、俺 スーツなんて持ってたかなぁ」


【葉月】

「-あれ?わざわざ別で送るの?届け先同じなのに?」
パーティーの案内状(なんて大したモノじゃないけど)の宛名書きに勤しむ私を覗き込んで、彼は不思議そうに問いかけた。

ごく内輪で小規模で…とは言え、人数分の宛名を手書きするのは流石に骨が折れる。
最近めっきり文字を書かなくなったから、ペン先が何処かよたっておぼつかない。
切りよく『様』を書き終えた所で、彼を見上げて反論する。
「馬鹿ね。連名にしたら、どっちの名前を先にしたらいいか分かんないじゃない」
「…ん?まぁ、そっか…」
「パートナーだけど、きっとお互い独立してるハズだから」

自分で言いながら、胸に靄がかかったみたいな気持ちにはなる。
結局のところ、世間体みたいなものも考慮していることは否めない。
「―うん、なるほどね…」
彼も何となく腑に落ちていないようだったが、私は強引に話をまとめた。
「いいじゃない、ハガキいっぱいあるんだし」


「―でも、まさかあの二人がくっついてた、なんてなぁ」
「…一海(かずみ)くんは、初めに聞いた時どう思った?」
探るような上目遣いで彼を見つめる。同性から見て、彼らの姿はどう映るものなのか少しだけ興味があった。
「ん~…、まぁ、ビックリした…のかな?」
「何で疑問形なのよ」
彼は私のツッコミを受けて、決まり悪そうに鼻先をかいた。
「ビックリはしたんだけどさ、でも何て言うか…
ああ、やっぱりそうだったのか…って思う部分もあったんだよ」
「へぇ?」
それはまた、意外な答えだわ。
「別に俺自身は二人が一緒に居るトコ見た事無かったし、
晴親にしても春さんにしても、〝それっぽい〟雰囲気は全然無かったんだけどな。
話を聞いた時、何かすげぇしっくり来た…って言うか
何か、ようやく〝腑に落ちた〟気がしたんだ」

彼の答えは私の予想の斜め上をいくようなものだった。彼がそういう風に考えているとは思わなかった。
もっと一般的なつまらない答えが出てくることを想像していた私は、彼に申し訳ない気持ちになっていた。

それは特に、個人としての二人をよく知っていたからこその感情だった…と言えなくもない。
仮にそうだとして、彼は同性から見て感じるであろう『違和感』よりも
時間をかけて熟知していた晴親くんや早坂(はやさか)さんの人間性を重視した訳だ。

そして彼は、キラキラした笑顔を私に向けて言った。
「俺、二人のこと聞いて、すげぇ嬉しかったんだよ」
「…」

そういう事を何気なく口にしてしまう人。
彼には、裏も表もまるでないのだ。
ああ 何て眩しい人なんだろう

「…一海くんがそばにいてくれて良かった」
「…うん?」
晴親くんの事は今でも好きだし、早坂さんの事だって本当のところはきっと、嫌いじゃない。
けれど、私が選んだのは
「あたし、今すごく幸せよ」

少しだけ恥ずかしい気持ちを隠して私も負けないような笑顔を向けると、
彼は見る間に顔を真っ赤に染めた。


信吾(しんご)

「…うん、分かった。じゃぁ明日ね」
通話を終えて僕はひとつ息をつき、彼女が待つ店内の席に戻った。

最近よく来るようになったコーヒーショップ。大体、買い物だとか映画を観終えた後に利用している。
休日によく出掛けるようになったのは、ひとえに彼女のお陰だ。
「―ごめんね、お待たせ」
僕が声を掛けると、彼女はにっこりと笑って首を振った。
「いいえ」
少し赤みがかった茶色の前髪がサラリと揺れる。きれいな二重瞼の下から覗かせる瞳が、何かを問いたげに僕を見つめてきた。
きっと、今の電話の内容が気になっているのだろう。
でも、彼女からは切り出さない。僕が話し始めるのを待っているのだ。
「―小峰ね、結婚するんだって」
僕は出来るだけ簡素に伝えた。

さっきの通話で一海は、
『どうせ一緒に居るんだろうから、若松(わかまつ)にも伝えてやってくれ』と言っていた。
ヤツには僕のことを逐一報告しているから、休日の僕が誰と一緒に居るのかもお見通しな訳だ。
今週は久しぶりに彼女と休日が重なった。同じ『島』で働く以上、こういう事は滅多に起こらない。貴重な日曜日だ。

「おおお、ついにですか!」彼女は大仰に言って手を叩く。
「かしこまった式はしないけど、近いうちに内輪でパーティーするみたい。
改めて招待状渡すから、(かえで)にも伝えて欲しいって」
「そうですか…」

僕の言葉を聞きながら、
彼女が少しだけ視線を横に流したのが気になった。
「…どうしたの?」
「…あ、いえ。何気なく名前で呼ばれてしまったもので…」

彼女が気にしたのは、僕が無意識で発した部分だった。指摘されて改めて思い至り、慌てて謝罪する。
「―ああ、…ごめん」
「いえっ!信吾先輩が謝るところではないです!
ただどうしても、まだ慣れなくて」
そう言って照れ笑いする彼女を、女の子らしい…と思って見てしまう。
でも、彼女にとってその言葉は決して歓迎されるものではないだろう。
僕は言葉を飲み込んだ。

一緒に行動する時間が長くなるにつれて、僕は彼女の事を名前で呼ぶようになっていた。
初めのうち彼女は少し否定的だったけれど、
次第に受け入れてくれたように見えていたから、僕の方ではもはや何の躊躇いもなくなっていたのだ。
僕たちは、傍から見れば単なる恋人か友達同士に見えるだろう。
けれど本当のところ、割と複雑な関係性と距離感が保たれている。それは奇跡的なバランスだと言ってもいいのかも知れない。

「…やっぱり、苗字で呼んだ方がいいのかなぁ」
僕はコーヒーカップを手に取りながら、思わせぶりに聞いてみた。

楓は僕から外したままの視線を更に彷徨わせ、やがて恥ずかしそうに口を開く。
「…他の方にはあまり言いませんが、信吾先輩になら…
何と呼んで頂いても構いませんよ」
伏し目がちな視線がすごく綺麗だった。やっぱり、彼女は女性としてとても魅力的だ。
そういう彼女に、僕はどうしても羨望の眼差しを送ってしまう。

勿論それは、異性としてのものでは無かった。
「―光栄だなぁ。ありがとう」
敢えておどけるようにして、僕は笑った。


名前の呼び方ひとつでも、こんなに回りくどい思惑が付きまとう。
お互いが相手に対して悪い想いは抱いていないと言うか、むしろ特別な存在として好意的に受け止めているハズなのに
それ以上の関係に発展する事を望んでいない。これ以上、距離を詰めようとは思っていないのだ。
僕たちには
世間一般で言うような分かりやすい『ゴール』みたいなものは、無い。

ボンヤリと考え込んでいると、楓は仕切り直すように話題を元に戻した。
「…でも、
小峰先輩と彼女さん、けっこう長くおつき合いされていましたよね?」
「うん…、そうだね」
「確か、配達先の企業さんと合コンされたきっかけ、でしたっけ」
「ああ、そんな感じだったかなぁ。…ていうか、よく知ってるね?」
「そこはね、聞き出したんですよ。
おつき合い始まった頃、先輩すごい浮かれてましたもん。むしろ聞いてくれ!ってオーラ出まくりだったんですよね」
「あはは、そう言えばそうだったかも」

一海は嘘がつけない。大抵のことは顔に書いてある。
僕は敢えて根掘り葉掘り聞き出すことはしなかったが(向こうから勝手に喋ってくるし)、
彼女はそういう所をうまくつついていろいろと聞き出したみたいだ。
でも、秘密主義なのを無理矢理こじ開けた訳ではなく、開けっ広げな一海だったからこそそうしたんだろう。
ヤツもむしろいろいろ聞いて欲しかったに違いない。
楓は、そうやって他人の性質を見抜いて、相手に合わせたつき合い方をするのが上手い。

「…信吾先輩、また何か考え込んでらっしゃいますね?」
「…あ」
そして彼女は、僕の〝間〟を読むのもすごく上手い。
「…いや、大したことじゃないよ」
ただ僕は、一海みたいにお喋り好きじゃない。
「そうですか」彼女もちゃんと、その辺を理解してくれている。
だから彼女は、僕が話し始めるまで
じっと待っているのだ。

「―でも、お話はよく伺っていても自分、小峰先輩の彼女さんにお目にかかったことは無いんですよ」
楓はまた、仕切り直した。僕もそれに応える。
「そっかぁ…、まぁ僕も何度か挨拶したくらいだけど」
カフェの大きな窓から差し込む日差しが、だいぶ傾いてきた。少し眩しい。
日が落ちる前に、もう少し街を歩こうかな。

「二人揃ってお会い出来るのが、楽しみですね」
残っていたコーヒーを飲み干して、彼女が笑った。
「うん、そうだね」
僕も、笑って答えた。

花模様【隣り合わせ】

【春】

「わぁ、葉月!チョーキレイ!」
「かーわいい~」
「ホント、馬子にも衣裳だなぁ」

口々に発せられる歓喜の言葉を浴びて、葉月ちゃんはキラキラと輝いて見えた。
口ぶりからして、きっと彼女の職場の同僚たちだろう。

―今、声を掛けるのは 少しタイミングが悪そうだ
「ちょっと、最後のは聞き逃さないわよ」
パーティー用の少し軽めなドレスをまといつつも、口調はいつもの彼女だった。
相変わらずだなぁ…と苦笑いしながらも、俺は随分昔の〝恐怖心〟がよみがえった気がして、ぶるっと肩を震わせた。

あの頃は、会う度に怒られてたっけ
ぼんやりと考えながら、その華やかな輪を遠巻きに眺めていた。


「―あ!春さんっ」
後ろから声を掛けられた。何処か懐かしささえ感じさせる、元気な郵便屋さんの声だ。
そしてもう一人の、本日の主役。
「小峰くん、結婚おめでとう。今日は招待してくれて、ありがとうね」

潮風が心地好い休日の昼下がり。簡単なお披露目会…なんて言ってたけど、来てみたら貸切の船上パーティーだった。
小規模なものとは言え、コレは割と頑張ったんじゃないかと思う。

「いやいやいや~!こちらこそ、ありがとうございます!
誰を置いても二人には来て欲しかったんで、嬉しいっスよ」
俺より数段明るい茶髪をガッチリと固め、真っ白なスーツに身を包む小峰くんは、いつもより大人っぽく見えた
(三十路のいい大人をつかまえて言う事ではないけれど)。
口を開くと途端に軽くなるのは仕方ないにしても、
それなりに格好がついているのは、実は本人が元々持っている資質なのかも知れない。

「スーツ、カッコイイじゃん。よく似合ってるよ」
「マジすか!春さんに言われると、めっちゃ嬉しいなぁ」

…まぁ、中身はいつも通りだけどね。
でも、彼の人柄に触れるとやっぱりホッとする。

そういえば…と彼は話を変えた。「チカは?」
「来てるよ。今、信吾くんたちと一緒に居る。落ち着いたら挨拶に行こうかって言ってたんだ。
大丈夫そうなら、今呼んでくるよ」
「ああ!いいっスよ。俺が行くんで」
そう言うと、小峰くんはフットワーク軽く動き出す。彼はホントに、いつ会っても気持ちが良い。

「そうだ、春さん」
ふと、思い出したように振り返った。
「何?」
すると、彼は少し照れくさそうに鼻先をかきながら続けた。
「…うちの嫁さんが春さんに挨拶したいって言ってたんで、行ってやってくれますか?」

まったく…「ごちそうさま」って感じだな。
心なしか誇らしげにそう言った彼を、俺は何処かで羨ましく思っていた。

「ああ、分かったよ」
ココには、あの揺れる水面に負けないくらい
キラキラと眩しく光るものしかない。
白く輝く彼らに、俺はほんの少しだけ嫉妬していた。


     ◆

華やかな取り巻きから一時的に離れたのを好機とみて、俺は彼女の方に歩み寄った。
「―あ、」
お互いの声がかぶってしまい、
その後お互いが出し掛けた言葉を引っ込めた。

不自然な沈黙が流れる。
「―…少しだけ、いいかな?」
気を取り直して、俺の方から声を掛ける。
「ええ」
彼女は少しだけ視線を下に向けて応えた。

海風が穏やかに流れる。東京湾でも割と潮のにおいが濃いんだな…
本当にいい天気だ。

「さっき、遠巻きに見てたでしょう」
彼女は悪戯っぽく笑った。「何だ、知ってたの…」俺は早々に観念して、素直に応じる。

「どう頑張っても、あのキラキラした中には割り込めないよ。声を掛けるタイミングを窺ってたんだ」
「そうなの?
あの女の子たち、早坂さんのことカッコイイ!って騒いでたのに」
「えええ」
「女の子にモテるなんて、珍しいことじゃないでしょうけどね」
「そんなことないよ…。呼んでくれたら、ちゃんと挨拶したのになぁ」
「何それ。何か下心ありそうねぇ」
「ま、まさか」
そこで、葉月ちゃんはこらえきれずに笑った。
「やぁね、冗談よ」

相変わらず、彼女の冗談はなかなかにきわどい。俺は大仰に肩を揺らして息を吐く。

「貴方が晴親くん一筋なのは、ちゃんと解ってるわ」
「…」

ふっと潮風が目にしみたような気がして、俺は顔を横に向けた。
必然的に彼女の方を向く形になって見上げると、葉月ちゃんはじっと俺を見つめていた。
その眼差しが何とも言えず柔らかくて、何処か慈愛に満ちているようで
途端に俺の心拍数が跳ね上がった。顔も熱い。

「いろいろあったのは確かだけど、今 私の理想の夫婦像は、貴方たちなんだからね」
「―えっ?」
「私…、貴方たちに負けないくらい、幸せになってやる」
「葉月ちゃん…」
彼女の強い視線は、相変わらずまっすぐに俺を捉えて離さない。
思えば、彼女はいつでもまっすぐに感情をぶつけてきた。
それはきっと、俺の向こうに居る晴親に向けての真剣さだったんじゃないかと思う。

誰よりも晴親の幸せを願っているから
晴親を幸せに出来るのは、自分じゃないと解ったから…

「―うん」
俺は改めて彼女を見つめ返し、頷いた。もう一度、潮風が二人の間を吹き抜ける。

「葉月ちゃん、結婚おめでとう」
俺が言いそびれていた大事な言葉を伝えると、彼女は何故だか一瞬だけ驚いた表情を見せた。
けれど、すぐにキラキラと眩しい笑顔になって
「ありがと。 早坂さん、…これからも宜しくね」
そう言って、白い手袋をした右手を差し出す。
何だか不思議なタイミングだったが、俺は彼女と力強く握手をした。

―煙たがられていた立ち位置から、
少しくらいは格上げして貰えたってことかな。


【信吾】

「そういえば、平良(たいら)さん来てくれたぞ」
名前を聞いて、僕は瞬間的に全身が強張るのを感じた。

「あ、俺まだ挨拶してない」
もちろん、来ていることは分かっていた。けれど。
「じゃぁ、みんなで一緒に行こうぜ。―なぁ、信吾?」
「…」
僕のぼんやりとした様子に気づき、隣に居た楓が僕の腕を小突いてきた。
「―え?」
我に返ると、晴親と一海も揃って僕を覗き込んでいる。
「何だよ、ボーッとして」
「…ああ、ゴメン」

船は招待客が揃ったところで出港した。20分くらい経っただろうか。
プログラム的には、まだ各々が歓談する時間のようだ。一海と奥さんの葉月さんは、あっちこっち飛び回って挨拶している。
僕らの所にも、先に二人揃って顔を見せてくれていた。

一海の交友関係で招待されているのだろうから、必然的に彼も呼ばれているのは解っていた。
彼は現在長崎に住んでいる。
もしかすると都合がつかない可能性もあるかな…なんて思っていたのも、事実。

―やっぱり、彼とはなるべく顔を合わせたくなかった。
あれから随分時間が経っているというのに。やっぱりまだ、怖い。

「…先輩?」
小さな声で楓が僕を呼んでいる。
振り向くと、彼女の心配そうな視線とぶつかった。
「ん?」
「―大丈夫ですか?」
「…」
彼女が何を案じているのかよく解っている。彼女だけが唯一、僕の事情を知っているから。
僕は、意識して明るい顔を作った。
「…大丈夫だよ」

僕らの前を歩く、晴親と一海の足取りは軽い。僕の答えを聞いても尚、楓は心配そうに僕を見ている。
僕は、言葉を繋げた。
「大丈夫。楓、一緒に居てくれるでしょ?」
少し悪戯っぽくおどけた僕を見て、彼女もようやく笑顔に戻る。
「…もちろんです」

力強い彼女の言葉に支えられ、僕はまた一歩、前に踏み出していく。


「平良さーん!」
一海の声に気づいて、彼は歓談の輪から抜け出る。

あれから、何年経ったかな…。彼は、まったくと言っていいほど変わっていなかった。
ただ、見慣れないスーツ姿に少しだけ違和感を覚えた。

「おう、探したぞお前ら」
一海、晴親と視線を移し、その後で僕と楓を見た。

「すみません、挨拶が遅くなっちゃって」
晴親の言葉に、彼は「堅っ苦しいなぁ」と軽く笑う。

視線が合わないのをいいことに、僕はその横顔を見つめた。
そっと、気づかれないように。
彼の視線が僕らに向いたのは、晴親と近況を報告し合った後だった。
「久しぶりだなぁ、若松。頑張ってるか?」
「―あ、はい!」
楓は瞬間的に背筋を伸ばして答えた。
彼女も彼には相当世話になっていたから、実際に顔を合わせれば職場での感覚に戻って当然だ。

余計な思惑があるのは、僕だけだから

「まぁ信吾がついてりゃ、俺の出る幕はねぇよな
―なぁ、信吾?」
―!「…いえ、そんな」
急に名前を呼ばれたことで、反射的に僕の鼓動が高まってしまう。
ああ こういうところは、あの頃と何も変わっていない


一海はまた他の輪に駆り出され、晴親は早坂さんの元に戻って行った。
僕は楓と二人で海風を浴びていた。船が出港した竹芝桟橋が再び見えてくる。そろそろ、宴もお開きだろう。

「―先輩、」
ふと、楓が僕を呼ぶ。その声が何処か強張って聞こえたかと思うと、
「…」
楓の視線の先に、彼が立っていた。
「悪い、若松。少しだけ信吾を貸してもらってもいいか?」
楓は黙って僕を見る。僕は迷いながらも、彼女に小さく頷いて応えた。
「…どうぞ」
彼女はそう言った後、彼に見えない角度で
僕の手をぎゅっと握った。


「元気でやってる?」
「…ええ、何とか」
「そっか」
「…平良さんは?どうですか、そっちの生活…」
「あーまぁ、ボチボチかねぇ。それなりにやれてる方だと思うけど」

そんな彼の答えを聞いて、僕は思わず笑ってしまった。
「…何?」
「ああ、すみません。何か…、珍しく頼りない答えだなって思って」
「…悪かったね。ぶっちゃけ、田舎はつまらんのだよ」
「平良さん、こっちでは遊びまくってましたもんね」
「―お前…、ちっと性格悪くなったんでない?」

不思議だ。こんな軽口を叩けることなんて、あの頃じゃ考えられなかった。
今は自然に、会話を楽しめる。

僕はきっと今でも彼が好きで、やっぱりまだ忘れたくないんだと思う。
ただ、それを認めてしまう事は
今現在の僕のことを否定してしまう行為のように考えていた。
けれど、反対側から見れば
僕はずっと『あの頃の僕』を拒み続けていたんだ。

あんなに必死になって彼を想っていた時間や、
どうにかして自分を正当化しようと苦悩していた時間。
僕は、彼との関係を無かったことにしたかったのではなくて
あの頃の必死な僕を、無かったことにしようとしていた。

そんなの何の意味も無いし、ただ悲しいだけだ。

彼を愛していた時間
自分の存在を受け入れられなかった時間
そんな時間だって、必死に生きていた足跡だ。
僕が、僕自身の足跡を消してしまったら
誰があの頃の僕を愛してあげられるというのだろう


「―信吾」
「はい?」
彼から僕の名前が発せられると、やっぱり僕の体は熱くなる。
「ありがとう」
「―…え?」
「今日、会えて良かったよ」
「…平良さん…」

彼が笑って、手を伸ばす。
その手は少しだけ躊躇った後、僕の肩をポンと叩いた。
「―お前らしく生きろよ」
僕は、その時の彼の笑顔を きっと生涯忘れない。

「じゃぁな。若松にも宜しく」
もう一度僕に向けられた彼の笑顔は、少しだけ含みを持たせたものだった。



【晴親】

平良さんに挨拶した後、小峰や信吾たちと別れた。
乗船してからずっと、春のことをほったらかしにしてしまった事に気づいた。
途端に僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、決して広い訳では無い船上を小走りで探し回る。

「あ!」居た。
端っこにひっそりと据えられた喫煙スペースで、ぼんやりと煙を吐き出している。

僕は何故か、すぐに声を掛けることが出来なかった。
やがて不自然に立ち尽くしている僕に気づき、先に声を発したのは春だった。

「あれ、見つかっちゃった」
特有の、少しだけ困ったような笑顔を見て、
僕の胸と下腹がきゅうっと締め付けられる。

―何だって、今更…


彼のことはもう、いやって程見ている。でもそう言えば、こうやって正面から彼の表情を窺うことは少なくなったかも知れない。
隣に並んで、同じ方を向いて笑い合うようになって、随分と経つのだ。

「…ちょっと待ってね」
言って、咥えていた煙草を消そうとする春を僕は思わず引き留めた。
「いいよ、急がないで」
僕とつき合う前に止めたとかいう話を何となく聞かされていたので、彼が喫煙する姿なんて見るとは思っていなかった。
何て言うか、新鮮で…
もうちょっと、見ていたかった。

「―隣、いい?」
僕が言うと、彼は少し怪訝な顔をして聞き返す。
「いいけど…、匂い大丈夫?」
「平気だよ。俺も昔は吸ってたし」
ちょうどそういうタイミングなのだろう、僕らの周囲には誰も居ない。
少し遠くから笑い声が聴こえた。

「へぇ、そうなの?初めて聞いたなぁ」
言葉の端で春の唇から漏れた煙が、船上の潮風と絡まって空に吸い込まれていく。
「もう、だいぶ前のことだからね」
春が座る備え付けの長椅子に並んで腰掛ける。
僕を取り囲む空気がふわりと変わり、並んだ肩のあたりがほんのり温かくなった。

煙草の匂いの中に、微かだけどちゃんと彼の匂いもする。
ああ 戻ってきた

「…春ちゃんこそ、もう止めたんじゃなかったの?」
責めるつもりではなかった。けれど、春はとても申し訳なさそうな顔をして答えた。
「ごめん。今でも外に出た時、たまに…」
「謝んないでよ。別に責めてる訳じゃないからさ。我慢しないでうちでも吸えばいいのに」
「いやいや」
最後の紫煙を吐き出して、彼が短くなった煙草をもみ消す。
「手持ち無沙汰な時にカッコ付けてるだけだから、別にいいんだ」
「何だよそれ、オッサンくさいなぁ」


外で対峙するより家で並んで過ごす時間の方が圧倒的に長くなった今では、
彼の弱い所だとかだらしない姿だとか、そういう部分も熟知して
むしろそっちの面しか見ていないような気がした。

だからこそ、久しぶりに見た『外向きの』彼が、何だか眩しく映るのかも知れない。

そうだ。そう言えば、彼はこういう人だったっけ

もちろん、表向きの格好いい彼に強く惹かれたことは事実だけど
愛おしいと思うようになったのは、彼のいろんな面を見られるようになってからだ。
その頃から、僕は
彼には僕が必要で、僕以外にはこの『役目』は務まらないと思うようになった。
(自惚れと思われるだろうから、誰にも言わないけれど)
彼だって、きっと似たようなことを考えているハズだ。

「―ね、一本ちょうだい?」
「え、…大丈夫?」
「大丈夫だよ。俺もカッコつけたいの」

僕の言葉に春は苦笑して、ジャケットの内ポケットから箱とライターを取り出した。
海風に背を向けるようにして、僕は貰った煙草に火をつける。何年ぶりだろう。
少しだけ怖くて煙をあまり深く吸い込めなかったのは、内緒だ。

今度は海風に向かってゆっくりと煙を吐き出し、僕は彼の肩にそっと寄り掛かった。
「―いいパーティーだったよね。小峰と葉月ちゃん、すごくいい表情(カオ)してた」
「…うん」
彼の肩の高さはちょうどいい。僕は無理なく寄り掛かれる。
「二人も、他のみんなも、幸せになれるよね」
「うん」

少しして彼は僕の指から煙草を引き抜くと、静かにもみ消した。
「晴親」 「ん?」

確かめるように、慈しむように、彼は僕の名前を口にする。
僕は、その呼びかけに身を委ねるようにして、返事をする。
今までも これからもずっと、変わらない。

「俺たちも、でしょ」
彼は言うと、優しくついばむように唇を重ねた。
お互いの唇が、ほんの少しだけ煙たい感じがした。

船は静かに、港に戻って来ていた。



◆◆

花明かり【昴流】

今年の運動会には、父兄参加型の種目もあるらしい。
配られたプリントを読んでいたら、少し意地の悪いクラスメイトが僕の肩を小突いて言った。
「スバルんち、誰が出んの?」
コイツが何を言いたいのか解っているので、僕は敢えて何でもない風で答えた。
「―そりゃ、お母さんでしょ」
僕らの様子を、先生が何処かハラハラしたような顔をして見ていた。

大丈夫だって。
こんな解りやすい喧嘩、僕は買う気もしないから。

でも、授業でも自分の生まれた時の事を調べる時間があったりしたから、最近は純粋に疑問を持つようになった。
―僕のお父さんのこと
お母さんは、僕に何も言わない。
だから僕も、詳しい事は何も聞かない。



家に帰ってきたら、電話が鳴っていた。慌てて靴を脱いで部屋に上がる。
「――はい、香村(こうむら)です」
「―ああ、昴流(スバル)? 俺オレ」
通話口の向こう側からの声でちゃんと誰だか判っている。けど、
「―〝俺〟じゃ分かりません」
「あれ、分かんないの?俺だよ、オレ!」
「…もう一回同じ事したら切るからね、チカ?」

家の電話に出る時は、ちゃんと相手の名前を確認して‥と言う『お約束』があるからわざとやっている。
流行りのサギの、ヘタなものまねみたいだ。
「―何だよ、こういうのは日頃の訓練が大事だぞ?」
「おじいちゃんじゃないんだから、声聴いたら解るよ。あと、ちゃんと僕のこと〝昴流〟って呼んでるし」
「―あはは、そう言えばそうだ。
ハイ正解、晴親さんでしたー。やっぱり昴流はしっかりしてるなぁ」
「…ありがと」

晴親は、お母さんの友達。今は『パートナー』と一緒に暮らしている。
たまに遊びに来てくれたり、電話をくれたりするうちに
僕にとっても友達(と言うより親友、かな?)になった。

「お母さんは?」チカの質問に、僕は時計を見て答えた。
「まだ帰ってきてないよ。―あと二時間くらいかな」
「そっか。ちゃんとカギ閉めとけよ」
「うん、大丈夫」
家に入ったら、まずは必ず鍵を閉めてる。自分の行動を思い返して、もう一度心の中で「大丈夫」と確認した。
「よしよし。―で、用件。週末そっちに行くからお母さんに伝えといて」
「わぁ、マジ?」
「マジ。どっか行きたいトコ考えといてよ。お母さんがお休みじゃなかったら、また男三人で遊ぼうぜ」
「やった!帰ったら聞いとくね」
「宜しくなー」
やったね。今週末は忙しくなる。
僕は、電話の横に掛けてあるカレンダーに丸印を付けた。

「―あ、ねぇチカ」「ん?」
「今、春ちゃんは?」
「春ちゃんはまだ外でお仕事中。俺も独りで留守番してるの」
じゃ、向こうの部屋に聴こえてるのは‥テレビの音だけか。
―なら、いいや。今なら聞けそうだ。
「チカに、聞きたい事があるんだけど」
「うん、何?」
僕はひと呼吸置いて、思い切って言ってみる。

「―僕の‥お父さんのこと」
「―…ああ」チカの反応は何とも言えない曖昧なもので、僕は察した。
―やっぱり、聞いちゃいけなかったかな‥
僕もチカも少しの間沈黙した。
遠くのテレビの音が急に大きくなったような気がして、この話題はもうやめようと思った頃、
「‥あのな、昴流」チカの声が聞こえた。

「はい」
「俺は昴流の親友だけど、お母さんとも友達だ。
昴流の気持ちにも応えてあげたいけど、お母さんの気持ちも大事にしてあげたい」
言いたい事は、よく解る。
「…うん」
「この話は、まず昴流とお母さんで話をしなきゃいけない。
俺が抜け駆けして勝手に話すことは、何て言うか‥フェアじゃないと思うんだ。
それに俺は外側からしか事情を知らないから、間違ったことを教える可能性もあるし‥」
「―…うん」
チカの言葉はゆっくり丁寧で、僕を諭すようでもあった。(『さとす』って意味が合ってるか分からないけど)

「お母さんも、話すきっかけを探してるかも知れない。
昴流がちゃんと聞いてくれるかどうか、きっとお母さんも不安なんだと思うんだ。
だから俺は、そのきっかけを昴流が作ってあげてもいいんじゃないかと思う。
―その時、お母さんがどういう風に昴流に話してくれるかは‥
俺には解らないけど…」
「…」
「―力になってやれなくて、ゴメンな」
「ううん、そんな事ないよ!」
僕は頑張って明るい声を出して言った。勿論、チカが意地悪してそんなこと言ってるんじゃないって解ってる。
僕だって、お母さんを差し置いて簡単に聞いていい話じゃないって思ってる。

僕の明るい声を聞いて、チカも合わせて元気な声で言ってくれた。
「―そっか。じゃぁ、とりあえず週末な」
「うん。楽しみに待ってる!」



晩ごはんの時、お母さんに話をしようか迷ったけど
やっぱり出来なかった。

「―どうしたの?」お母さんが箸を止めて、僕に笑いかける。
「‥ううん、何でもない」僕は、お母さんから目をそらした。
もしかしたら、お母さんなら僕の考えてる事が分かるかな‥とちょっと期待したけど。僕は敢えて別な話題に切り替える。
「―あのさ、今度の運動会なんだけど」
「うん?」
「チカと春ちゃんも、誘っていい?」
僕が言うとお母さんは少し考えてから、
「‥二人がいいって言ってくれたら、ね」と答えた。
「じゃ、今度会う時に聞いてみよっと」
ホッとしてお味噌汁を飲もうとした僕に、お母さんがもう一言付け加える。
「それから、『晴親さん』でしょ。呼び捨てしないの」
「…はぁい」
何度か注意されている事だ。
でも、チカは『チカ』でいいって言ってるんだけど。

お母さんはチカに対して、何となく春ちゃんよりも気を遣っているように見える。
チカの方は普通なんだけどな‥
もしかしたら、僕には分からない大人の事情かも知れない。
多分、これは僕が聞いちゃいけないヤツだと思う。

「―週末、何処に行こうかなぁ」
まぁいいや。いろいろ考える事はあるんだ。
少しずつ解決させよう。

     ◆

ホントは少しだけ、春ちゃんが僕のお父さんなんじゃないかって思っていた。
ハッキリとした記憶が残っている訳ではないけれど、手を繋いでくれた時の感触とか、匂いとかを何となく知っている気がした。
それから、お母さんと並んで話している時の姿を見て、何だかとても懐かしい気持ちになる。
僕はこの景色を随分前から見てきたんじゃないか‥って思うようになっていた。
勿論、春ちゃん本人に聞いたことは無いし、これからも聞けるとは思わない。


土曜日、僕は朝ごはんの後でベランダに出て、二人が来るのを待っていた。
そよそよと吹いてくる風が気持ちいい。
夜中に降った雨の粒がまだあちこちの葉っぱの上に残っていて、それが太陽を反射してきらきら光っている。
今日は、いい天気だ。

「昴流ー。ちょっと手伝ってー」
部屋の中から声が聞こえる。
僕が渋々戻ろうとした時、向こうからチカが手を振りながら歩いて来るのが見えた。隣に春ちゃんも居る。
「オッス、昴流」
「チカ、春ちゃん、おはよー」
僕も手を振り返して応える。いつでも、初めに声を掛けてくれるのはチカの方。
―でも、先に目が合うのは 春ちゃんの方。
春ちゃんは、僕がじっと見ているのに気付いて笑いかけてくれた。
「昴流!」
ヤバい。お母さんが爆発する前に、僕は急いで部屋へ戻った。


結局、男三人で手伝って三日分の洗濯物をベランダに干した。
本当は、平日の間の洗濯は僕の仕事だ。今週は後半に雨の日が続いたから、あっという間にため込んでしまった。

うちは二人暮らしで、お母さんはお仕事で忙しいから、家の事は出来るだけ僕が担当しなきゃいけない。
解ってはいるけど、時々すべてが面倒になってしまう事がある。
そういう時、僕は『ボイコット』して学校の友達と遊びに行ってしまったり、ずっとゲームをやってしまったりする。
どうしてだろう。時々、お母さんを困らせたくなってしまうんだ。
でも、そういう時に限って お母さんは何も言わない。何も言わない代わりに、少しだけ悲しそうな顔をする。
そんなお母さんを見て、僕もやっぱり悲しくなって、いつもの僕に戻る。
それの繰り返し。『反抗期』とかって言うものなのかな、なんて考えたりもする。


今日は久々にいい天気だから、たくさんの洗濯物も帰ってくるまでにはカラカラに乾いちゃうな。
そよ風に並んで揺れる僕とお母さんのTシャツを眺めていると、後ろからチカに抱きかかえられた。
「うわっ!」
「何だ、考え事か?」
「‥ううん、違うよぉ」あまり心配を掛けないように、僕は少しだけ嘘をつく。
「そっか」チカはきっと、僕の嘘に気付いていると思う。でも、何も言わない。
僕がちょっと元気が無い時、チカは必ずこうやって僕をぎゅっと抱きしめてくれる。
そういう時は親友って言うより、お兄ちゃんみたいだ。背中がすごくあったかくて安心する。
「今日、何処に行くか決めた?」頭の上の方からチカの声がした。
「うん!」
そうだ、今日はみんなとお出掛け出来る。元気にならない訳がない。



僕たちが家を出たのは、予定より少し遅い時間だった。
「―東京駅からバスに乗換えればいいのよね、昴流?」
「うん。それが一番楽だと思うよ」
「結局、何処に行くって?」
チカが途端に興味深々な顔をして僕を見た。
「晴海に行くの」
「晴海‥?」チカは首を傾げて考える。お母さんと並んで前を歩いていた春ちゃんが振り返った。
「あ、そうか。バスイベントか」
「当ったりー。さすが春ちゃん」
「そっかぁ、そういや昴流はバスっ子だったっけ」

『はたらくくるま』を初めに教えてくれたのは春ちゃんだ。
特にバスに興味を持った僕に、バスの日の事やイベントの事とかも教えてくれた。
去年は台風が来て中止になってしまったから、今年はどうしても行きたかった。

「―でも‥ホントにバスだけなのよね‥晴親くん、退屈しない?」
「いや、全然?俺は基本的に乗り物全般好きだし」
「そう。ならいいけど‥あんた達、ホントに趣味が合ってていいわね」
「あはは。冴子(さえこ)はこの辺、あんまり興味無いもんなぁ」
「私は基本的にインドア派なの」
「えー。でも俺『スバル』って名前聞いた時、冴子さん相当クルマ好きかって思った」
「そこから由来してるんじゃないの。…って言うかフツウ、初めにそっちを連想する?」
「‥まぁ、俺、何は無くともエンジン乗っかってるモノが好きだからね」

僕は、大人たちの会話を黙って聞いて楽しんでいる。
昔はどうだったのか知らないけど、今の三人はすごく仲良しだ。

まるで、家族みたいに。


会場にはもうそこそこ人が集まっていて、イベントは割と盛り上がっていた。
「よーし、スバル、行くぞ!」
春ちゃんが僕の手を取って走り出す。
「うんっ!」引っ張られて、僕も走り出す。
「…子どもが二人」後ろでチカとお母さんが苦笑して見ている。
僕は、こうやって4人で居られる時間が一番楽しいんだ。


     ◆

「ねぇ、冴子さん」「‥なぁに?」
「世田谷ってさ、住みやすい?」
「そうね、割とのんびりしてるし、生活環境も悪くないと思うけど‥どうして?」
「うん、…俺たち引っ越すかもしれないから」

「そっかぁ。
うん、いいじゃない。素敵な街よ」
「うん。‥でもあの、俺たち、近くに住むことになっちゃうけど‥いい?」
「何言ってるのよ、大歓迎だわ。昴流も喜ぶわよ」
「―冴子さん自身は‥嫌じゃないの?」

「私‥本当に貴方には感謝してるの。勿論、春ちゃんにも感謝してる。
…確かに、二人に会うと辛かった頃を思い出す事もあったけど…
今は、貴方たちがそばに居てくれて、すごく心強いのよ」
「…」
「彼のパートナーが、貴方で良かった」
「‥冴子さん…」

「私は、昴流が居てくれたお陰でココまで来られたの。それだけでもう充分よ。
晴親くん… 今度は貴方たちが、幸せになりなさい」
「―…ありがとう」

「‥あ、それとね」「はい?」
「安心なさいな。―世田谷区って、割と広いから」

     ◆

僕が春ちゃんと見て回っている間、チカはお母さんと何か話していたみたいだった。
何だか二人とも楽しそうだったので安心した。何を話していたかは判らないけど、きっと悪い話じゃないハズだ。



帰り道は、4人で並んで歩いた。僕らの後ろには、長くなった影が伸びている。
春ちゃんはイベントの間も帰り道でも、ずっと僕と手を繋いでくれていた。
やっぱり、僕はこの手の感じをずっと前から知っている。
‥でも、あまり気にしない事にした。
本当は、『本当のこと』なんて別にどうでもいい。
今の僕にはお母さんが居て、チカが居て、春ちゃんが居てくれる事が、一番『大事なこと』だから。

少しだけ残ったモヤモヤは
いつかお母さんが話してくれる時まで、僕の中にしまっておこう


「‥あ、ねぇ、二人とも」
僕は両隣の春ちゃんとチカを交互に見た。「んー?」「どした?」

「今度さ、僕の学校運動会があるんだけど…二人とも、観に来てくれない?
‥参加して欲しい競技もあるんだよ!」

夏芽【昴流】

-Darf ich dich lieben?-

彼はその時だけ、母国の言葉を使った。
英語を聞き取るのもままならない僕の耳には、初めほとんど何を言っているのか判らなかった。
微かに憶えのある『Liebe』と言う響きに引っ掛かり、
ようやくそれが愛の告白なのではないか…と気づいたのは

彼が母国に帰らなければならないほんの数日前のことだった。

     ◆

高校二年の夏休み。そろそろ先のことを考え始めなければいけない頃合い。
周囲では既に志望校の検討をつけている話を聞く。
進学校の端くれであるうちの校内では、就職を希望する奴はほんの一握りみたいだ。
でも僕には、まだまだたくさんの迷いがあった。

迷っているうちにいろんなものを見ておこうと思い、
この夏休みにいくつかの大学のオープンキャンパスを覗いてみることにした。
彼に出逢ったのは、その中のひとつに参加していた時。
本当に、偶然だった。



「―わぁっ!」
じわりと暑い中に、一瞬強い風が吹く。
僕が手にしていた校内図のプリントが、校舎三階の窓から外へ飛び出してしまうと言うキセキのような不運をもたらした。

「ああ…」
窓から少し身を乗り出して追ってみたものの、それは結局ヒラヒラと僕の手の届かない所まで舞い踊って行ってしまう。
中庭にもサークルか何かの展示ブースが並んでいて、各所で人混みが出来ている。
プリントはその人混みの隙間を縫って、一人の手元に舞い降りていた。

「…」
彼と僕との間には、割と距離があったと思う。けれど、彼は迷いなく僕を見つけ出した。
「あ」
目が合った。「もしかして、コレ?」と言うように、彼はプリントを指し示す。
うんうん、と頷いて「そっちに行きます!」とゼスチャーで必死に伝えた(実際伝わったかどうかは分からない)。
それまで従っていた人の流れに逆らい、急いで階段を駆け降りる。

プリントは校内に入る前に、諸々の要項と一式で配られたものだ。
…別に、新しいものを貰えば済む話なんだけど。それでも拾って貰ったものは、受け取りに行かない訳には、いかないよな…。


校舎を出て、さっきの彼を探しながら中庭の方に向かった。
窓から俯瞰して見ていた光景よりも、人が多いように感じられる。
目線が同じになってしまうと、周囲より少し背の低い僕はあっという間に飲み込まれてしまう。

―と
「 hi!」
ポン、と後ろから肩を叩かれた。

「―あ、…!」
振り返って確認する。遠くから見た段階で気づいてはいたものの、目の前に対峙して改めて認識した。
僕とは逆に、周囲の人ごみに飲み込まれないで済む程の長身。そもそもの身体の造りが、日本人とはやっぱり違うのかな…。
ブラウンの巻き毛に、深くて濃い蒼色の瞳。何と言うか…非日常的な色味だ。
思わず凝視してしまい、なかなか言葉が出てこなかった。情けないけれど、異国の人と言うだけで僕は相当に委縮している。
まず、何語で何て言ったらいいんだろう?(あと、この中でよく僕のこと見つけ出せたな…)

なんてごちゃごちゃと考え込む僕に意外にも彼は、流暢な日本語で話し掛けてくれた。
「コレ、君が落としたんだろ?」
「…あ、ハイ」
拍子抜けして、改めて日本語で彼に謝意を表した。
「どうもありがとうございます」
そう言って頭を下げ、もう一度顔を上げると、彼と視線がぶつかる。
「…あの…?」
僕が怪訝な表情をしたので、彼は苦笑交じりに答えた。
「ああ、いや。日本の人って、随分と丁寧なんだなぁと思って」
彼の言葉は遠回しな皮肉にも聞こえた。何でもかんでも、むやみに頭を下げるもんじゃないのかも知れない。
特に外国の人から見たら、割と奇妙な行動なのかも。
彼はすぐさま、僕の感情を読み取ったかのように続けた。
「悪い意味で言ったんじゃないよ。純粋に礼儀正しいなって。
―日本の人って言うより、君が特にそうなのかな」
「…いえ、そんなこと無いと思いますけど」

何だろう、からかわれてるのかな…
どうにも居心地の悪さを感じる。僕はもう一度お辞儀をして、早々にその場を去ろうとした。のだが、
「―待ってよ。君も、見学に来たんだろ?一人?」
「ええ、そうですけど…」
「俺も一人で来てるんだけど、心細くてさ。良かったら、一緒に回らない?」
そう言ってきた彼の様子は、少しも心細そうには見えなかったが。
…体のいいナンパみたいだな。僕は彼に気づかれないように笑った。


僕は初対面でいきなり誰かと打ち解けられるほど器用じゃない。こういう時も、出来れば一人で行動する方が好きだ。
けれどその時は、彼を拒むことが出来なかった
と言うより、不思議と拒む気持ちにならなかったのだ。
「…いいよ」
気が付いたら、そう答えていた。

再び校舎内に向かって歩き出す傍らで、彼は右手を僕に差し出しながら自己紹介してくれた。
「俺、エーリヒ。エーリヒ・オストヴァルト。君は?」
体全体から想像に易い、その大きな手の平を握り返して僕も名乗った。
「香村昴流。…スバルです」
「スバルかぁ。いい名前だね」
社交辞令まできれいにトレースされた日本語だな…なんて思ってしまう僕は、
もしかしたら、異国の彼に対して少し卑屈になっているのだろうか。

     ◆

エーリヒはドイツのギムナジウムを卒業後、日本に来ることを目指しているらしい。
こっちの大学で勉強したい…と言うよりは日本の生活や文化に浸ってみたい気持ちが強いみたいで、
どちらかと言えば古風で頑固な彼の両親とは、今も意見が対立しているようだ。

彼の日本へのこだわりは、彼の一番の理解者である叔母さん(浦和在住らしい)の影響が強いらしく、
何処か擦れたような日本語も彼女から教わったという。日本留学の話も、元は彼女からそそのかされたらしい。
今回は試しに…と言う事で夏休みを利用して、しばらく滞在すると言う。
滞在中に回れるだけ東京を見て歩きたいらしいが、自らの仕事で多忙な叔母さんは平日に彼の相手が出来ないそうだ。

僕は思い切って、都合が合う限りで良ければ自分が案内しようかと告げた。
すると彼はものすごく喜んで、宜しく頼むと答えてくれた。
僕は僕で、期せずして海外の友達が出来るかも知れない…と、喜んでいた。
単調な夏休みを吹っ飛ばしてくれるような、そんな刺激を期待してもいた。
エーリヒには申し訳ないと思いながら、僕は相当にミーハーになっていたのだ。

「スバルもいろいろ忙しいだろうから、一日でも二日でも構わないよ」
「全然、忙しくなんかないよ。
…僕も誰かと遊びに行きたいなって思ってたし、ちょうど良かったんだ」
「ホントに?なら、嬉しいなぁ」
そんな、背伸びするような嘘をほんの少しついてまで
僕は、彼ともっと関わりたいと思っていた。

     ◆

別の日、また違うオープンキャンパスに参加した後でエーリヒと待ち合わせた。
渋谷や池袋を見て回る予定だった。

「スバルは、どうして進学を目指しているの?」
何気なく聞かれたものの、今の僕には明確に答えられる程の理由が無かった。
「…うーん…、ホントの事言うと、ちょっと迷ってるんだよね」
「ふぅん…?就職するかもってこと?」
「ん…、まぁそういうことになるのかな…」
「へぇ。どんな仕事がしたいの?」
「えっと、…」
エーリヒが矢継ぎ早に繰り出す質問に、僕は次第にしどろもどろになった。
それは、僕の中で実は何も固まっていないことをあからさまにするのに充分だった。

言葉に詰まる僕を見て、エーリヒが少しだけ眉尻を下げて笑いかける。
「いきなり不躾な質問だったね。ごめんよ、スバル。」
その情けないような彼の表情が、僕の気持ちをほんの少し歪ませた。
「…ううん、気にしないで」

確かに僕は、学校の友達と比べても将来の展望が今一つ見えていない。
大学に進学するにしても、何か勉強したいものがある訳でもない。
かと言って就職すると決めてしまう程、目標がある訳でもなかった。

でも、まだ二年生だから―。
考える時間はまだあるんだから―。
思えば、そういう部分に随分と逃げている気がする。
エーリヒの言葉に、それを嫌でも思い知らされた。

「…まぁ、俺だって別に、強く何かを目指して日本に来たい訳じゃない。動機はいたって不純なものさ」
「そう言えば、エーリヒの目標も聞いたこと無かったね。…動機は不純なの?」
別に忘れていた訳でも興味が無かった訳でもない。
そう言ったごくプライベートな質問をいきなりしてもいいものか悩んで、結局聞けずにいたのだ。
流れに乗って問い返した僕を、彼はしたり顔で見下ろしてきた。

「もちろん、我がオタクライフを謳歌したいんだよ」

…なるほどね。確かに、大人たちにはしかめっ面される動機だ。
けれど、皮肉なことに『不純な動機』がある方が、よりエネルギッシュに戦える。きっと。
何より、そういう強くてしたたかな気持ちは、僕にはあまり見当たらないものだ。

僕は17歳。エーリヒはもうすぐ19歳になる。
たった二年の差で、そんなにしっかりと自分が持てるようになるのだろうか。


「―昴流、久実(くみ)ちゃんが来てるわよ」
僕が部屋で勉強をしていると、母さんが呼びに来た。
「え?」
アイツとは約束してないハズだけど…

今日は午後からエーリヒを秋葉原に連れて行く予定だった。その前に課題を済ませてしまおうと思っている所だ。
「よぉ、香村」
如月(きさらぎ) 久実は中学の頃のクラスメイトだ。通う高校は違うけれど、近所に住んでいるので何のかんのと理由をつけて今でもうちに遊びに来る。
玄関先で待ち構えていた彼女は、既に暑くなった外から来たせいで少し汗をかいていた。
麦わら帽子にヒラヒラのワンピース、サンダル。
恰好だけは流行りの女の子のスタイルっぽいけど、コイツの本性を僕は熟知している。
どれだけ露出多めにされても、まったく惑わされる事はない。

「如月…今日、別に約束してなかったよな?」
僕は極めて不愛想に応じた。
彼女に限らず、予告もなしに僕の時間に割り込んで来られるのは好きじゃない。
「あはは、ゴメンゴメン。昨日連絡しようと思ってたんだけどさ」
彼女の悪びれない態度も少し気に食わない。でも、コイツは元々こういう奴だ。
「今日、何か予定あるの?」
如月はそんな僕の気持ちなどお構いなしに続けた。僕は苛立つ気持ちを隠しもせずに答えてやる。
「あるよ。だから今日は如月の相手していられない」
「わ、つめた!アイスでもおごってやろうと思ってるのにー」
「いいよ別に。それより今日はもう帰れ」
「ひっどいなぁ」

僕たちの会話が聞こえてしまったようで、背後から母さんが口を出してきた。
「昴流!そういう言い方はないでしょ」
「…」

「何よ、久実ちゃんも連れて行ってあげればいいじゃない」
「―母さんっ!」
「何なに?何処に行くの?」
母さんの言葉に、如月が俄然食いついてくる。ああ、面倒なことになった…
エーリヒのことは、出来れば如月には話したくなかったのに。

「実はね、…」
僕が黙っていると、母さんが全部喋ってしまいそうだ。僕は慌てて制した。
「いいよ、僕が説明するから!母さんは早く支度して!午後から仕事でしょ」
ハイハイ…と返事する母さんを奥へ追いやって、僕は大きなため息をつく。

「…友達と一緒に、アキバに行くんだ…」
諦めて、必要最低限のことだけ告げた。
「へぇ?彼女?」
「違う!男だよ」
「ふぅん…」
如月が何処か含みを持たせた反応をする。
「何だよ。文句あるのか?」
「別にぃ。ただ意外だっただけ。香村って、そういう風につるむ友達居ないと思ってた」
「…。お前、やっぱり失礼な奴だな」
「やっぱりって何よ。
…いやそうじゃなくて。香村の方が意図的にみんなから一線引いてたような、そんな感じがしててさ」
「…」

それは、図星だ。自慢じゃないけど友達は結構多い方だと思う。
けれど、その誰とも必要以上に関わろうと思ったことは無かった。

確かに…エーリヒだけは、僕は自分から関わろうとしている。

「まぁいいや。その友達ってのも気になるし、あたしも行こっと」
「おい!勝手に決めるなよ!」
「何でよー。男二人で歩くより、華があっていいでしょ?」
「要らないよ、そんなの。…それに、向こうの意思も確認してないだろ」
「じゃ、確認してよ。連絡先知ってるんでしょ?」
「…う……」

そこでやり込められてしまい、僕は仕方なくエーリヒに連絡を入れた。
少し経って彼から返ってきた答えは『Sure!(もちろん!)』。
彼に快諾されたのなら、もはや断る理由が無い。僕は渋々ながら、如月を連れて出掛けることにした。

別に、彼女のことが嫌いなんじゃない
でも、何て言うのか…
僕は エーリヒと彼女を会わせたくなかった。
僕は…、エーリヒとは 二人で会いたかったんだ。



秋葉原で合流し、三人で街を見て回った。
見慣れない外国の人に多少は緊張でもするのかと思えば、如月はまったく臆することなくあっという間に打ち解けた。
エーリヒの方も如月をさり気なく気遣い、彼女を『女性』として扱っているのがよく解った。
彼の振る舞いはとてもスマートでかっこいい。彼女を邪険に扱っていた自分が恥ずかしくなった。


夕方。初めに合流した秋葉原の駅で解散し、エーリヒは滞在先の浦和に戻るため、僕たちとは反対方向の電車に乗って行った。
「今日はとっても楽しかったよ。クミ、また会おうね」
「わぁ、嬉し~!絶対約束だよー!」
エーリヒはいつも通りのキレイでスマートな社交辞令と笑顔で、如月と握手をする。
如月もいつも通り、テンションマックスでエーリヒに応える。
僕には何だか、それが面白くない。

「―スバル」駅に着く直前、一瞬だけ如月の目を盗んで
エーリヒは僕のことを呼んだ。囁くような声を受け、瞬間的に心臓が跳ね上がる。
「…後でね」
「…え?」
彼はそれだけ言うとクスリと笑って、改札に向かって行ってしまった。


心残りを感じながら、自宅付近まで戻って来ていた。
さっきのエーリヒの言葉が気になって仕方ない。僕は、如月に気づかれないようにそっとため息をついた。

「じゃぁね」
如月の家は、僕の住むアパートから2、3ブロックしか離れていない。
この距離のせいで、長い休みともなればほとんど毎日のようにうちに顔を出しに来るのだ。
「次来る時は、ちゃんと連絡しろよ」
つっかけサンダルで来られてしまうくらいの距離だから、わざわざ連絡なんてする必要が無いと思っているのだろう。
でも、僕にはその緩さが我慢ならなかった。

如月は何故かふっと寂しそうな表情を作り、すぐにまた笑って答えた。
「ふふ、どうしようかなぁ」
「おい、何だよそれ…」

今の何だよ。何で、そんな表情(カオ)をした?

彼女の言葉より、そっちが気になった。僕がもう一言言ってやろうとした時、
「今日は邪魔してごめんね」
彼女の方が先に振り返って、言った。

僕は、何だか
僕一人がすごく悪者になったような気がして、いたたまれなくなった。


自宅に帰ると、少しひんやりとした空気が渦巻いていた。…まさか、エアコンかけっぱなしだったかな…?
僕は急いで室内へ駆け込み確認したが、それぞれの部屋のエアコンはきちんと止まっていた。
それを確認した途端、あたりがもわっとした空気に包まれた。改めて、冷房のスイッチを入れる。

自分の部屋に入る頃、着信に気が付いた。エーリヒだ。慌てて応答する。
「エーリヒ?」
『―ああ、スバル…今、少し平気?』
「うん、大丈夫」
通話口からの声は直接聴くより何だか柔らかくて、僕は少し戸惑っていた。
僕を気遣ってくれているような錯覚さえ覚えてしまう。
以前、彼は僕のことを丁寧だなんて言ってたけど、実際は彼の方がずっと真摯で丁寧だ。
今日は特に、それがよく解った。

『今日はどうもありがとう。すごく楽しかったよ。クミにも感謝してる』
「突然変なの連れて行っちゃってゴメンね…。うるさかったでしょ?嫌にならなかった?」
『いや、全然!
―でもこちらこそ、何だか邪魔しちゃって悪かったかな…って思うんだけど』
「―え?」
『…彼女は、君の恋人なんじゃないの?』
「えええっ!違うよ!」

エーリヒから告げられた話は、僕がまったく想像していなかった類のものだった。
―まぁでも、普通に考えたらそういう思いに至るのも無理はないか…。
『あ、そうなんだ?』
彼は何となく拍子抜けしたような声を出した。
「断じて違うから!
だから、エーリヒが邪魔だったりする、なんて絶対にないからね!」
僕は思わず必死になって弁解する。
エーリヒは、そんな僕をすべてひっくるめてなだめるように笑っていた。
『ははは、分かったわかった』

そしてさっきとは裏腹に、エーリヒは何かに躊躇うように沈黙した。
『ねぇスバル…今、家に居るの?』
「うん? そうだけど…」
僕が答えると、通話口の向こうですっと息をするのが聴こえた。
『これから… そっちに行っちゃ、駄目かな?』
「…え?」

僕は思わず時計を確認した。母さんが帰ってくるまで、あと二時間くらいある。

いや…、別に母さんが居たって問題は無いし。
「それは構わないけど…遠いんじゃない? 僕も何処かまで出ようか」
『いや、いいよ。コレは俺のわがままだから…。最寄り駅教えてくれる?』
僕は彼に最寄り駅と経路を説明した。彼は不要だと言っていたけど、僕は駅まで迎えに行くことにした。
『じゃぁ…、30分くらいで着けると思うから』

…ん?30分?
浦和からならそんな時間で来られる訳がない。
…さっきの彼は、一体何処に帰って行ったのだろう。


うちからの最寄り駅は、ごく小さな駅だ。二両編成の小さな電車で短い区間を往復している。
それでも地元住民にとっては大事な『足』で、朝や夕方は割とラッシュになる。
電車が到着すると、結構な人が吐き出された。帰宅ラッシュの時間だ。

その中に、頭一つ飛び抜けた姿を見つける。
「―エーリヒ!」
思わず、呼んだ。僕の声に気づいた彼が、嬉しそうに微笑み駆け寄って来る。
何だか、大きな犬みたいで可愛いと思ってしまった。
「スバル、来てくれてありがとう」
「迷わなかった?」
「んー、三軒茶屋で少し。この辺は来たこと無いから、ココから一人だったらもっと迷ったかもね。
やっぱり迎えに来て貰えて助かったよ」
「でしょ?」
つい、得意気に応えてしまった。
僕が独断でやった事だったし、彼の機嫌を損ねてしまわないか少しだけ不安だった。だから、彼の言葉が純粋に嬉しかった。

「…どうせだから、少し外で話そうか。家の人、心配しないかな?」
「ああ、まだ仕事から帰って来てないし、平気だよ」
「そう…」

僕らは駅の近くにある公園に立ち寄った。昼間は結構賑やかな所だけど、薄暗くなった児童公園はしんとして、少し物悲しい。
エーリヒが物珍しそうにブランコに腰掛けたので、僕も隣に座って小さく漕ぎ出した。

「ドイツにも、こういう公園ってあるの?」
「あるよもちろん。でも、俺が知ってるのはもっとアスレチックな遊具が多かったな」
無性に、彼の母国の話が聞きたくなった。
彼の母国のことを、もっと知りたいと思った。
彼のことを、もっと知りたいと思った。

「今日さ、あんまりスバルと話してなかったな…って思って」
「え…もしかして、それでわざわざ来てくれたの?」
「…うん。ゴメン、大したことじゃなくて。
…あの後帰る気が起こらなくて、実はずっと山手線でグルグル回ってたんだ」

エーリヒの話は、さっきの僕の疑問をきれいに解消してくれた。
彼の行動がまた可愛く思えて、僕は笑ってしまう。
「あはは、何それ楽しそう」
エーリヒは照れくさそうに頬を指でかきながら、悔し紛れのように切り返してきた。
「…じゃぁ、次は一緒にやろう」

ひとしきり笑った後で、僕は告げた。
「―ホント言うと…僕ももっと話したかったんだ」
「…そうなの?」「うん」

何処か、心がふわふわと浮ついている。この気持ちって、一体何なんだろうな。
知らない間に、僕の内側がすごく熱くなっていることに気が付いた。

辺りは少しずつ暗くなってきていて、ちょっと離れるとお互いの顔さえ見えにくい。
僕が今、どんな顔をして話をしているのか
そして、彼がどんな顔をして聞いているのか、まるで分からない。

「そんなこと言われたら…、あらぬ期待をしてしまうよ」
「…え?」
ただでも
僕を見つめる、エーリヒの視線には気づいている。

「…スバルは」
「-ん?」
「今、誰か… 好きな人、いる?」
「…」
彼の質問に、僕はまた何て答えたらいいのか分からなかった。
初めて逢った時から、エーリヒは僕に随分たくさんの質問を投げかけてくる。
でも、僕はまだどれもまともに答える事が出来ていない。

「…分からない」
ようやく、そう口にした。
「『好き』って言うのが、どういう事なのか…分からないんだ」

僕の答えは、きっと彼が待っていたものとは違うものだと思う。
あまりの不甲斐なさに、いい加減腹立たしい気持ちにもなっているかも知れない。
けれど、彼は僕から視線を外し
あまり抑揚のない声で一言だけ吐き出した。
「…。そっか」

ふわりと空気が動いたかと思うと、僕は彼の大きな体に包まれていた。「―?」
彼はいつの間にか、僕が座るブランコの前まで来て
跪くようにして僕を抱きしめていた。

「…エーリヒ…?」
僕の周りが、彼の匂いでいっぱいになる。
さっき以上にふわふわとした気持ちになって、全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。
エーリヒは何も言わず、ただ僕を抱きしめる。
僕も特に抗うこともせず、しばらくじっと彼に身を委ねていた。
コレが何を意味しているのか、解らない訳じゃなかった。

やがて、彼は僕の耳元に唇を寄せ、ポツリと呟く。
「― Darf ich dich lieben?」

それは、今まで彼の口から聞いた事が無かった…多分、ドイツ語。
「…え?」
問い返しても、彼はもう同じ言葉を聞かせてはくれなかった。
相手の表情が見えるギリギリの距離で、少し寂しそうな笑顔を僕に見せただけだ。

その表情が、何故かさっき見た如月のものと重なる。

「―そろそろ、帰ろっか」
そう言って、彼は僕を解放した。途端に、うっすらと冷たい夜気が僕の周囲を支配する。

「いろいろ付き合ってくれてありがとう、スバル」
エーリヒはそう言って、僕に何気なく別れを告げた。

それから、彼がドイツに帰る日まで 彼からは何の連絡も来なかった。

     ◆

「…あれ、スバル?」

扉を開けてくれたのは春ちゃんだった。その時、僕はどんな顔をしていただろう。
「…春ちゃん」
次の瞬間、危うく泣いてしまう所だった。
情けない。でも何だかもう、僕の中でいろんなものがぐちゃぐちゃに絡み合っていて、独りではどうすることも出来ないでいた。
きっと、春ちゃんにはその様子が窺えたのだろう。
「おいで」
何も聞かず、笑顔で僕を迎え入れてくれた。


部屋の中は、とてもいい匂いがしていた。そろそろ晩ごはんの時間かな…
タイミングがいいと言うか悪いと言うか、僕は途端に申し訳ない気持ちになった。
「チカは?」
「今日は遅番なんだ。10時前には帰ってくると思うよ」
「ふぅん…そっか」
僕はいつも通り、リビングルームへ通される。低い音量でFMが流れていた。


別に、チカの方に会いたかったとか、そういう事ではないんだけど
春ちゃんと二人きりだと言う状況を思うと、何となく緊張してしまう。
僕はずっと、春ちゃんには聞けていない事があるから
何処かでチカよりも気を遣っている部分があるのかも知れない。

「ごはん食べて行く?」
「…うん」
何気なくされた会話。でもきっと、春ちゃんには全部解っている。
「後で、お母さんには俺から連絡しておくけど…いい?」
「ん…、ありがと」
僕は子供の頃みたいに、春ちゃんのやさしさに甘える事にした。

エーリヒと別れた後、家に帰りたくなくてそのまま電車に乗り込んでしまった。
母さんの友達であり、僕の親友でもあるチカと春ちゃんは、僕らの住む世田谷区に引っ越してきていた。
件の路面電車に乗って二駅ほどの距離に住んでいるので、何かあると、僕は昔よりも気軽にこの家に来られてしまう。
思えば、母さんや(母さんの実家の)愛媛のじいちゃんより、この二人と一緒に居る時間の方が長いような気がする。
友達感覚だからだろうか。
血が繋がっていない二人の方が、何でも包み隠さず話をする事が出来た。

そう言えば、春ちゃんは母さんの幼なじみでもあるんだよな…。
キッチンに立つ春ちゃんを眺めながら、ぼんやりと考えていると
「はい、これ運んで」
湯気の立つごはんとお味噌汁が手渡された。
「…はぁい」
春ちゃんは、この家の中で僕をお客扱いしない。食卓の準備なんか、ガンガン手伝わされる。
むしろ、だからこそ居心地がいいんだと思う。

こういう時の春ちゃんに、僕は今でも『父親っぽさ』を感じている。

リビングのテーブルに美しい食卓が出来上がった。相変わらず、春ちゃんは料理が上手い。
僕はさっきまですっかり忘れていた食欲を思い出し、はやる気持ちを抑えながら
「いただきます」
と、丁寧に両手を合わせた。
「はい、どうぞ」
春ちゃんはそう答えて、手酌でビールを注ぎ、口をつける。
昨日まで詰めていた仕事が無事に終わったらしい。「晴親には悪いけど」と、一足早く晩酌を始めた。
「はー、煮物美味しい~。春ちゃんはホントに料理が上手いねぇ」
「ほぼ毎日作っていれば、嫌でもそれなりに上手くなるよ」
「ふーん、そういうもんなの?」
「そういうもんだよ」
僕の前に置かれた煮物の皿に、春ちゃんの箸が伸びてきた。一口食べてから「うん、ちゃんと味染みてるね」と頷いていた。


「ねぇ、春ちゃん」
「んー?」
口にする事が少し躊躇われたけれど、思い切って聞いてみる。
「…チカと春ちゃんは、どっちが先に好きになったの?」
「―…ん?」
今更、まさかそんな事を聞かれるとは思っていなかったかな。
春ちゃんは、意外そうな表情を僕に向けた。

「…そうだなぁ。
俺の印象が正しければ…、同時期だったんじゃないかな」
「そうなの?」
驚く僕を見て、春ちゃんはニヤリと笑った。
「確認したことは無いけどね」

「…春ちゃんは、元々男の人が好きだったの?」
「いや…俺は、性別を問わず他人(ヒト)を好きになる」
「え」

春ちゃんからこういう話を聞くこと自体、初めてだった。
春ちゃんは、噛んで含めるような言葉を選んで続ける。
「俺は、晴親が男だったから好きになったんじゃなくて…
好きになった晴親が、たまたま男だった…って言う感じ。
もし彼が女の子だったとしても、俺は彼を好きになっていたと思うよ」


僕が次の言葉を探している間に、玄関で声がした。
「ただいま~」
チカが、リビングに顔を出して声を掛ける。
「おかえり」「おかえりなさい」
僕の姿を見つけて、嬉しそうに笑いかけてくれた。
「あれ、やっぱりスバルかぁ。飯食いに来たの?」
「うん、ちょっとね」
「そっかぁ。俺も早く飯食おっと。あー腹減った~」

チカが手を洗いに洗面所に向かう間、春ちゃんがいそいそとごはんの支度を始める。
完全に夫婦の画だ。紆余曲折、二人の間でいろんなせめぎ合いの時間を越えて、今があるんだろうな。
きっと、二人にしか解らない感情がお互いを繋いでいるんだろう。

そういうのって、何だかすごく羨ましい。

     ◆

エーリヒから連絡が来たのは、それから二週間ほど経ってからだった。

「―これから、成田に向かうよ」
いきなり、そんな話だった。
「え?!」
「午後の便で、ドイツに帰るんだ」
「ちょっと待って、何で、そんな…」

急な話…と言おうと思って言葉に詰まる。急な話に感じられるのは、僕が彼から何も聞かされていなかったせいだ。
彼はもしかしたら、僕に何も伝えないまま日本を発つつもりだったのかも知れない。
僕の中が、一気にいろんな感情でいっぱいになる。

「何も言わなくてゴメン。
スバルには本当に良くして貰った。すごく楽しかったよ、ありがとう―
どうしても、それだけ伝えたかったんだ」
「…」

それ以上大した話も無く、通話を終えた。
僕は少しの間、茫然と立ち尽くしていた。
このままエーリヒと別れてしまっては
きっと何も言えないまま、二度と会えなくなってしまう。
そんなの、嫌だ
彼が僕に投げかけてきた様々な質問に、僕はまだひとつも答えていないのだ。
このまま、何も言わずにいたら駄目だ

―だとすれば
僕が取るべき行動は、ひとつ。


間に合うかどうかは分からない。彼は午後の便、と言っただけだ。一番早いものだったら、それこそ追いつけるハズがなかった。
それでも、ただ手をこまねいているよりはよっぽどマシだ。

―僕たちに、ほんの少しでも 縁があるのなら―

あの夜、春ちゃんは最後にこっそり伝えてくれた。
「人との出会いは、必ず『縁』に導かれている。どんな困難な状況だったとしても、縁があれば必ず逢える。
そういう相手が目の前に現れたら、きっとスバルにも解るよ」

エーリヒがその相手なのかは解らない。
けれど、きっと僕たちの間には『縁』がある
根拠は無いけど、何故か確信していた。



「―! エーリヒ!!」
搭乗手続きを済ませる中に、頭一つ飛び出た姿を見つけた。
僕は思わず名前を呼ぶ。その声に気づいた彼が、僕を見つめる。
驚いた様子は無い。多分、僕が来ることを予測していたんだろう。

「…やっぱり、来てくれたね」
「そりゃ、来るよ…、だって…」
電車を降りて、走り回って彼の姿を探し続けた。まだ息が整わない。
立ち止まると、一気に汗が吹き出した。
「僕に会いたかったから…、連絡くれたんでしょ?」
「あはは、スバルってばすごい自信」
エーリヒはまんざらでもなさそうな顔をして、笑った。

「―ねぇ、あの時の君の言葉…」
「ん?」
「…あれ、ドイツ語だったろう?」

―Darf ich dich lieben?-
『君を愛してもいいですか?』
彼の言葉を、僕はそう解釈した。

「エーリヒは、…僕のことが好き、なの?」
僕がまだ息を切らせながら聞くと、エーリヒは少しの間視線を宙に向け
「―うん」
やがて、ハッキリと頷いた。でも、僕を見ていなかった。

「僕だって、エーリヒが好きだよ。もっとずっと一緒に居たいと思ってる」
「本当にそう思う?
ただ、今までの雰囲気に流されてるだけじゃない?」
「…」
瞬時に否定出来ない自分が居る。ほらやっぱり、とでも言いたげなエーリヒが
今度はいつの間にか、じっとこちらを見据えていた。
ここでひるんではいけない。僕は、僕の今の気持ちを彼に伝える為に来たんだ。
それが、たとえ彼が望まない答えだったとしても
僕にはこうすることでしか、彼へ誠意を届けられない。

「―僕の『好き』が、君と同じものかどうかは…分からない」

ざわざわとするロビーに、出発を告げるアナウンスが響いている。
急がなければ―
僕は、焦っていた。
「…自分の気持ちをちゃんと理解する為には、きっともっと時間をかけて、
自分のことも君のことも知らなきゃいけないんだと思う。

僕は、もっと君のことが知りたい」
「…」

「だから…
…僕は、高校を卒業したら、ドイツに行くよ」

「―…え?」
エーリヒは、心底驚いた顔をした。でも、もっと驚いたのは僕自身だ。
直前まで、自分がこんな事を言い出すとは思っていなかった。

「君が僕の居る国のことをたくさん知っているのに
僕は君が生まれた国のことを何も知らないって解った。何て言うか…、それが悔しいなって思って。
だから、君が日本に来ている間、僕はドイツで君の国のことを知りたい」
「スバル…」
「もっといろんなものを見て、自分の気持ちを確かめたいんだ。
その後でもしまた会えたら…きっと、僕らには『縁』があるって事だと思う」
「…えん?」
「〝Karma〟…かな」
「…ふぅん、なるほど…」

意表をつかれたような様子で僕の話を聞いていたエーリヒが、興味深そうに頷く。
そして、何処か挑むような視線をよこして言った。
「じゃ、その時まで、俺はスバルを好きでいてもいい…ってことだね?」
「―うん」

僕は、今自分が口にしていることが随分と大それた事だったんじゃないか…と思い至り、
急に恥ずかしい気持ちに襲われた。
それを知ってか知らずか、エーリヒは優しく笑って右手を差し出した。
「…ありがとう」
僕は、その手に応えようと素直に自分の右手を差し出す。

―と、

「―スバルは本当に、〝お行儀がいい〟ね」
「―!!」
今度の彼の言葉には、明らかな皮肉が込められていた。
言葉の端を聞き終わる前に、僕はエーリヒにキスされていた。

まるで衛星放送みたいな地味な時差があって、僕はようやく状況を理解する。
「エー…、」
「 Ich liebe dich, Subaru」
エーリヒの台詞は僕にもすぐに理解出来た。
順番が入れ替わっているだけで、それぞれの単語はあの時に聞いたものだ。
だからこそ、あの時の彼の言葉とは違う気持ちが込められている事もよく解っている。

「…また、会えるといいね」


     ◆

彼との出逢いは、僕に今までに無かった気持ちをもたらした。

後々考えてみれば、エーリヒのことをよく知りたいからドイツに行きたいだとか
随分と子どもっぽいことを口走ったんじゃないかと思う。
けれど、これで僕の卒業後の目標は決まった。
なるほど。大人を納得させられるようなご立派な動機より、よっぽどエネルギーが湧いてくる。

あとは、そこに向かって進んでいくだけだ。

この先、僕らが再会出来るかどうかは解らない。
たとえ再会出来たとしても、その時僕らの気持ちが変わっていない保証は何処にも無い。

けれど、いつか僕らはまた会える
根拠のない自信に突き動かされて、僕は今も
その日に向かって生きている。



「昴流ー。久実ちゃんよー」

如月は相変わらず、予告なくうちに来ることが多い。
「…まったく…」
でも、僕はそれが以前ほど嫌ではなくなっていた。

「よっ、スバル。来ちゃった」
そしていつの間にか、コイツは僕を名前で呼ぶようになったけれど
僕は特に何も言わなかった。

「-んで?今日は何の用だ、久実?」
〝仕返し〟に、僕も彼女を名前で呼んでやることにしたからだ。

「英語の課題が難しくてさぁ、教えてくんない?アンタ得意でしょ」
「僕が英語得意だなんていつ言ったよ?」
「えー?だって、エーリヒとあんなに仲良かったじゃん」
「バカだな、エーリヒはドイツ人だぞ。しかも日本語で喋ってただろ」
「まぁそこはそれ。万国の公用語はまず英語でしょ」

まったく、全然議論になってない。
不毛な言い合いをしてるより、とっとと課題を見てやった方が早そうだ。
僕は諦めて、彼女を部屋に上げることにする。
「…後でアイス奢れよ」
「承知!」

…まぁ、こういうのも そんなに悪くはない…のかな。


◆◆

花笑み【陽輔】

「…泣いてるの?」

背後から聴こえた声は、俺の何を見てそう思ったのだろう。
夕焼けに染まるさざ波から、視線を彼女の方へ向けた。
ショートヘアが良く似合う、少し気の強そうな顔をした女の子だ。
「…別に、泣いてやしないさ」
ホントに、何処を見て彼女はそんな事を言ったのだろうか。
「ふぅん…そぉ」
彼女の返事は素っ気なく、聞いてきた割には俺のことなど興味無さそうな雰囲気だ。
だったら何で話しかけてきたんだか
年甲斐もなく苛立ちを感じた。それに気づいて、更に自己嫌悪を引き起こす。
そんな俺のことなどお構いなしに、彼女は歩み寄って俺の隣に並んだ。
「えっと…、ようすけさん。ってどういう字?」
さっきの顔合わせでサラッと自己紹介しただけだが、彼女は俺の名前を憶えていた。
あの二家族の中で、彼女と俺の距離ほど遠い間柄は無いのではないか。

ああ、結局俺はなんでこんな所に居るんだろう。
それにしてもこの子…ほぼ初対面のくせに随分馴れ馴れしい。

「―太陽の『陽』に、…松坂大輔の『輔』」
渋々ながら俺が説明すると、彼女は首をかしげた。
「…まつざか?」
「知らないのか?」
「んー、どっかで聞いたことあるような…」
些細なところで、ジェネレーションギャップというものを感じる歳になったな。
「プロ野球選手だよ。横浜高校卒、西武からメジャーに行った投手」
「ああ、分かった!」
彼女は思い出せないモヤモヤが解消された様子で、嬉しそうに頷いた。

そう言えば、彼と同年代は『松坂世代』なんて呼ばれてた。…兄貴もよく言われてたっけな。

「…んで、陽輔(ようすけ)さんはいつまでこっちに居られるの?」
俺がぼんやりと考える間に、彼女はコロリと話題を変えた。
「…日曜の最終便で帰る予定だけど」
不本意ながらも答えると
「じゃぁ、あと二日かぁ」
彼女は視線を少しだけ海の方へ彷徨わせた後、俺を見上げた。

「陽輔さん、明日一日、あたしにつき合ってくれない?」
「…はぁ?」
「母さん達は道後に行くみたいだからさ。
…もし、陽輔さんも温泉に行きたかったら、諦めるけど」
「お前は、」
無意識に呼びかけて気づいた。俺はこの子の名前を憶えていない。
「…一緒に行かないのか?」
俺の様子を、彼女は特に気にする風でもなく答えた。

「行かないよぉ。別に行こうと思えばいつでも行けるし。
…それに明日は、そういう気分じゃないんだよね」

後の言葉がやけに俺の胸に引っ掛かる。
…まぁ俺も、一日中お袋や兄貴たちと顔を合わせていなきゃならないのもしんどい。彼女の申し出を受けることにした。
「―…いいよ。付き合ってやる」
「わぁ、やった!」
彼女の黒髪は海風に柔らかくなびき、笑顔は夕陽によく映えた。

「じゃぁ、また明日ね」
「ん…」
クルリと回れ右して帰ろうとした彼女が、ふと思い出したようにもう一度俺を見て言った。「―陽輔さん、」
「ん?」
「あたし、樹里(じゅり)
「…あ、…うん」
彼女…樹里は笑って、帰って行った。
子どもだと思って軽く見ていた彼女にうまく丸め込まれてしまったような気がして、俺の心境は何とも複雑だった。

     ◆

二つ年上の兄、晴親が何年振りかで実家に帰ってきた。
高校卒業後、親父と大喧嘩して東京へ出て行く形になった経緯もあって、その後も数えるくらいしか帰ってきていない。
(しかもお袋に促されなければろくに連絡も寄越さない有様だ)
そんな兄貴が自ら帰ると言ってきたと、お袋は泣いて喜んでいた。
久々に帰宅した兄貴は、傍らに誰か知らない男を連れていた。
友達じゃない。それは、一目見てハッキリと解った。

正直なところ、俺は今でも事情がよく飲み込めていない気がする。
『そういう類』の話を知らない訳じゃない。けれど、こんなに身近な存在から聞かされるとは、思ってもみなかった。

「―結婚出来る訳じゃないけど、…彼と、一緒に生きていきたいと思っている」
何と言うか、安っぽいドラマでも観ているような台詞だった。

言わずもがな、親父は顔を真っ赤にして今にも二人を怒鳴りつけそうだった。
一方でお袋は、初めこそ驚いた顔をしていたが
次第に目をキラキラ輝かせながら兄貴たちの話を聞いていた。
彼らの一途な想いに胸を打たれたのだろう。

…ああ、負けたな
親父は頑固で昔気質な部分があるものの、我が家で権限を持っているのはお袋の方だ。
最終的にお袋が承諾すれば、それがこの家の『総意』ってことになる。

俺自身も、大学進学の時に家を出ていた。就職を機に地元に帰っては来たが、今でも市内の安アパートで気ままに暮らしている。
この日は兄貴が大事な話をしに帰ってくるから…と、お袋に呼び戻されていたのだ。
別に、今更兄貴が何を言い出そうが俺にはまったく関係ない。
もう、いい大人だ。どうでも好きにすればいいと思っていた。―はずなんだが。

当日、兄貴とその『恋人』だと言う相手と顔を合わせた途端、何故か無性に腹が立った。

「―…で? どっちが『女の子』な訳?」
そんな風に話し掛けるつもりは無かった、はずなのに。
下卑た俺の言葉を受けて
早坂と名乗った彼は、何処か俺を憐れむように微笑んだだけだった。


翌日、揃って朝食をとっている所へ、花純(かすみ)さんと樹里が来た。
兄貴とお袋、早坂さんとお袋さん、そして俺と言う微妙な雰囲気の食卓に、花純さんの明るい声は救いだった。
「おはよう。…あらぁ今ご飯? ちょっと早かったかいね」

花純さんは、兄貴のお相手・早坂さんの姉であり、樹里の母親だ。
話好きで世話好きで開けっ広げな人柄の彼女は、物静かな(早坂さんの)お袋さんよりも、うちのお袋と気が合ったようだ。
今日の予定もほとんど彼女の提案で進んでいる。
…まぁ、実の息子が男と生涯を共にするなんて言い出したら、明るく受け止めることはまず難しいだろう。
お袋さんの中で、いろんな葛藤があって当然だ。
花純さんの方もそれを理解した上で、自分が中心になってこの場を取り持っているのだと思う。

…ますます、俺と彼女たちの距離を感じる。
俺と彼女たちは、こうして知り合う必要があったのだろうか。

「―陽輔くん」
思考を渦巻かせながら漬物を噛み砕く俺に、突如声が掛かった。花純さんが、こちらを見ていた。
「…っ、はい!」
むせかえりそうになるのを必死でこらえ、お茶を一口含む。
それに気づいたのか、傍らで樹里が笑いをこらえていた。
「樹里がわがまま言ったみたいで、ごめんなさいねぇ。今日は一日任せちゃって平気? こんな子どもだけど」
「母さん~、あたしそんなに子どもじゃないよ」
母親の言葉に、今度は頬を膨らませて文句を言う。
そういう、コロコロと表情を変えられるあたりが子どもだと言うんだよ。俺は思っていたが、もちろん口には出さない。

そういうところが、可愛いとも思った。
俺はふと、その感情に違和感を覚えた。

「―大丈夫ですよ。
むしろ俺の方が、樹里ちゃんに街を案内して貰いたかったんで」
出来るだけ笑顔で言うと、花純さんは何かに気づいたように少しだけ表情を変え
樹里の方へ視線を向けた。…何だろう? 俺の言い方がまずかったかな…
「良かったわね、樹里。しっかり案内したんさい」
「言われなくても、分かってますよぉだ」
―いや、違う。〝巻き込まれた〟だけか。
恐らく、思春期の娘が色めき立つのを母親がからかっている…そんな構図だ。
何だか眩しいような母娘の会話。

「何、お前一緒に行かないの?」
隣に座って食事をしていた兄貴が小声で話し掛けてくる。俺は目を合わせずに答えた。
「ああ。別にそこまでついて行く必要もないだろ」
「…まぁ、そうだけど」
もう少し話を続けたかったのかも知れないが、兄貴はそこで言葉を切った。

言いたいことがあるなら、全部言えばいいのに
俺もまた、静かにわき出した苛立ちを抑え込む。

全部晒さないのは、俺も同じだ

     ◆

早坂さんが仙台に挨拶に来た後で、お袋が「向こう様にも一度ご挨拶に伺わなきゃね」と言い出した。
「ちゃんと挨拶に来てくれたのだから…」とお袋に説き伏せられる形で渋々納得した親父の方は、
さすがにまだ相手の実家へまで行く気にはなれなかったようだ。
「仕事もあるから」とか何とか大義を持ち出して、事もあろうに、俺に同行の話を振ってきた。
「俺だって、仕事あるんだけど…?」
「ちゃんと週末のお休みに合わせるから。たまには一緒に出掛けましょうよ」
お袋はおっとりしたお嬢様だけど、言い出したら聞かない人だ。
俺自身もここの所は仕事にかこつけて実家(いえ)に帰っていなかった負い目もあり、結局は折れることになった。

幸か不幸か、仕事のスケジュールの調整がうまいこと取れてしまい、
どうせだからとたまっていた有休を使って、少し長めに時間を空けてお袋の行脚につき合うことにした。
…やっぱり、こうなるんだな…
俺は、いつまでも脱ぎ捨てきれない『孝行息子』の自分と
さっさと脱ぎ捨てて出て行った兄貴の存在を恨めしく思った。



確かに、こんな機会でもなければココへは来なかっただろう。
連れられて来てみると、そこは穏やかな田舎町と言った風情。早坂さんの実家は、そんな場所にあった。
花純さん達はもう少し市街の方に住んでいるそうで、二年前にお祖母さんが亡くなった後、実家にはお袋さん独りで暮らしているらしい。
「うちにおいでって、主人も言ってるんだけどねぇ…聞かないのよ」花純さんはそう言って苦笑いしていた。

早坂家から少し歩くと海が望める。その場所から、フェリーの定期便が出ているそうだ。
普段見慣れた外海と違い、内海はほとんど波が立たない。目を凝らせばいくつか浮かぶ島も見えて、そこにも人が住んでいる。
更に先には本州の陸地が待ち構える。ともすれば、湖なんかと勘違いしてしまいそうな雰囲気だ。

「やっぱり、内海じゃ物足りない?」
いつの間にか、樹里が追いついて来ていた。
朝食の後、どうにもいたたまれなくなって一人で先に家を出た。もう少ししたら戻るつもりだったのだが。
「―ああ、ごめんな。置いて来ちまって」
曲がりなりにも、今日の約束の相手だ。ほったらかしにしてしまった事をまず詫びた。
「ううん、気にしないで」
樹里はそう言ったが、少し寂しそうな顔をした。
気づいてしまった俺の胸が、罪悪感に締め付けられる。無意識に彼女の方へ伸ばし掛けた手を、慌てて引っ込めた。

「…物足りない訳じゃないけど、やっぱり海って感じはしないよな」
俺は自分の行動をごまかすように、彼女からの初めの問いかけに答える。
「いいなぁ。ひろーい太平洋、観てみたい」
彼女の言葉は何だか思わせぶりで、まるで誘導されるみたいで悔しかったが
「…だったら、仙台に遊びに来ればいいんじゃないか」
俺はそう答えるしかなかった。彼女は、それをしっかり想定していたのだろう。満足げに笑って見せる。
「ホント?」
だから、俺はちょっとだけ意地悪を言ってやった。
「お母さんがいいって言ったらな」
「あ、もーっ!陽輔さんまで子ども扱い!」
「だって子どもじゃんか」
「あたし、もうすぐ18になるのよ。子どもなんかじゃないわ」
「俺から見たら、まだまだ子どもだよ」
「そういう言い方、マジでオジサンっぽい」
「何とでも言え。どうせもう30だ」

そこで樹里が、ふと上目遣いで俺を見つめた。
「…ふーん、30かぁ…」 ―…なんだよ
その眼が俺の心の中を見透かすようで、言葉に詰まる。

…たかが18の娘が…、
何なんだよ…

俺はわざとらしく彼女から視線をそらした。
「―で、とりあえず、今日は何処に連れてってくれるんだ?」
すると、彼女はこう切り返してくる。
「じゃぁとりあえず…陽輔さんは、何処に行きたい?」


彼女は、とうに気づいていたのだろう
俺が考えていることや、俺の気持ちに
恐らく、
俺たちは同じようなことを思い、感じている
恐らく、 俺たちは似ているのだ。



「…別にね、何処でも良かったの。あの場所にさえ居なければ」
甲板で海風に当たりながら、彼女は話し始めた。
少しだけ市内を見て回った後、「フェリーに乗りたい」と言う俺の要望を聞いて貰い、一番近い島に渡ってみることにした。
特に目指すものがある訳ではない。島に着いたら『こっち側』からの景色を見て、また船に乗って帰るだけのつもりだ。

そう。俺も、何処でも良かった
あの場所にさえ居なければ。

「でも、お前…、樹里が望んでお母さんについて来たんだろ?」
咄嗟にまた『お前』呼ばわりしてしまい、慌てて訂正した。
考えてみれば、ほぼ初対面の相手に対して不躾なのは、俺の方かも知れない。
「うん。だって、顔を見なきゃ見ないで、それはやっぱり気になるじゃない」
彼女の話はとても断片的だったが、俺にはよく伝わっていた。
「大好きな『叔父さん』の恋人、だもんな」
「…」
樹里は黙って俯き、唇をかむ。俺は、彼女が泣き出してしまうのではないかと思った。
これ以上何か言うのは、小さな胸に出来た傷を広げるだけだ。
いっそ見なかったことにして、強引にでも塞いでしまった方がいいのではないか…

迷った挙句、俺が話題を変えようと口を開きかけた時
「―お兄ちゃんはね、」

彼女に先を越された。
「…うん」俺は、黙って話を聞くことにする。

「春叔父さんは、『おじさん』って感じじゃなかった。今でもそう。
あたしはずっと『お兄ちゃん』って呼んでた」

船から眺める景色は、比較的ゆっくりと流れる。でも少しずつ確実に、目的の島が大きく近づいてくる。
「うちはね、弟がいるの。中学三年。あたしなんかより図体も態度もデカいくせに、まだまだ〝子どもぶってる〟わけ」
「きょうだいの下の方なんて、何処も同じようなもんだよなぁ」
同じ『弟』である自分を顧みて、苦笑する。
それを聞いた樹里が「あ、ごめん」と謝るので、「事実だから気にすんな」と言ってやった。

「あたしの方はさ、『お姉ちゃんなんだから』って言葉でいろんな事を片付けられちゃうの。嫌んなっちゃうのよ。
―でも、ホントに腹が立つのは」
「…」
俺には、彼女が何を言うのか手に取るように解る。

「周囲の期待に応えようと必死に『いい子』やってる、自分なの」
置かれた立場は言わば逆だが、『期待』や『強要』に抗えない性質は同じものだった。
合わせ鏡みたいに、彼女の中に俺の姿が連なって見える。

「…お兄ちゃんだけが、あたしを『あたし』として接してくれた。
辛い時とか悲しい時とか気づいてくれて、さり気なくフォローしてくれるのよ。
優しくて、カッコ良くて…大好きだった

お兄ちゃんが東京に行って、それから結婚するって聞いた時…
でもあたしは、あんまりショックを受けなかったの。
その時は気づいてなかったけど、今考えてみると…『もしかしたら、駄目になるかも知れない』って思ってたのかも知れない。
…って言うか、そう願ってたのかも」

樹里は、走る船が生み出した波紋を見つめたまま話し続ける。
「…結果的に、お兄ちゃんたちは離婚した」
もう俺は、彼女が自分の胸の傷から膿を出し切るのを見届けるしかなかった。

「その時、また…あたしの所に帰ってきてくれたって思ったの。
バカみたいね、まだまだ子どもなのに
『今度は、あたしにもチャンスがあるかも知れない』…なんて
そもそもそんな事、あるはずないのに」

彼女は俺から一番遠い場所へ視線を移し、自分の表情を隠した。
海風が、まるで彼女を味方するように黒髪を揺らす。

「―晴親さんは、いい人よ。お兄ちゃんが一人増えたみたいだと思った。
…でも、…あの人は、春叔父さんの恋人なの。
それを考えると、やっぱり…『大人しく笑顔で』受け入れられない」
手すりをつかむ樹里の手は震えていた。
俺の手を重ねるとピクリと反応して一瞬だけ拒んだように見えたが、払いのけたりすることはなかった。
彼女の手は、指先まですっかり冷え切っていた。


「…何で…、男の人、なのよ…」
これがきっと、彼女の中の最後の膿だ。
俺は何も言うことが出来ず、黙ったまま彼女の手を握った。
手の甲へ、ポタリと涙の粒が落ちる。

フェリーが、島に到着した。

     ◆

「ねぇ、陽輔さん」「ん?」
「陽輔さんはお兄さんのこと、好きでしょう」
「…え?」

どういう意味だろう。

「どうして、そう思う?」
彼女は笑って、「何となく」と答えた。

「何となく、陽輔さんが『いい子』でいるのは、
晴親さんの為なのかな…って思ったの」


渡って来てはみたものの、二人とも目的も見識もないので
周辺をぐるりと歩いてみた後は結局、元来た乗り場で帰りの便を待つことにした。
…俺たちは、一体何をしてるんだろう
帰ったら、彼女は今日の事を母親に何て報告するつもりなんだろうか…なんて
割とどうでもいいことが気になった。


待合用のベンチを見つけて腰掛ける。切符売り場の奥に一人居るくらいで、あとは人の影が見当たらない。
寂しいけれど、今はその静けさが有難かった。
それから俺は少し時間をかけて、彼女から投げられた言葉を噛み締める。
「…案外、当たってるかもな」「え?」
「さっきの話。俺は兄貴の為に、いまだに『いい子』やってんのかも」
「ふぅん、そっかぁ」
相変わらず、話を振ってくるくせに俺の回答には興味が無いようだ。
こういう意識や反応のズレも、ジェネレーションギャップの一端なんじゃないだろうか。


確かに俺は小さい頃、兄貴の背中を追っかけてばかりいた。
その頃はまだ、手を差し伸べてくれる距離に居てくれた。優しい兄貴だった。
俺はあの頃、兄貴みたいになりたいと思っていた。
やれば何でも平均以上に出来て、人好きする性格で友達もそれなりにいて、学校でも決して問題を起こしたりしない
いわゆる優等生だった兄貴が変わっていったのは、高校に入ってからだったろうか。
いや、もしかすると
もっと前の時期から、兄貴の中で小さな変化は生じていたのかも知れない。
むしろ自らで変わっていかなければ、彼の方こそ
ずっと『いい子』として『期待』と『強要』を背負って行かねばならなかった。
それまでの兄貴は、間違いなく『いい子』だったから。

彼は、永劫にも続きそうなプレッシャーを断ち切り、自分らしくあろうとしただけだ。
選択するかどうかは本人次第で
単に俺は、それを選んでいなかっただけのことだ。

「―晴親さんは優しいけど、ホントはすごく強い人。でも陽輔さんは、『ホントに』優しい人…だよね」
「―」

何を言い出すかと思えば…
彼女の言葉が突き刺さるように俺の元へ届き
冷静に構えようと思えば思うほど、俺の身体の中が熱くなった。
自分の意思を無視して涙腺が決壊しそうになるのを、必死でこらえる。
彼女に悟られないように、視線をそらした。
さっき、彼女がしたみたいに。


それは認めたくなくて、ずっと気づかないふりをしてきたものだ
他の誰に指摘されても、笑って流すことが出来ていたものだ
なのに
何故 彼女に対しては、こうも無防備に晒してしまうのか

「優しい人だから、今のバランスを壊したくないのね。自分が頑張れば、みんな幸せでいられると思ってる。
でも…、誰も貴方にそれを強制している訳じゃないよ」

選んでいるのは、自分自身
でも 
『頑張る自分』でいることは本当に、みんなの 自分の幸せ?
みんなの幸せを思える人は
どうして『自分自身』だけ、ないがしろにしてしまうのかしら

『優しい』って言われれば聞こえがいいけれど
本当は、それは『弱さ』と言った方が正しい
俺は、兄貴みたいに強くはなれなかったのだ。

     ◆

帰りのフェリーは定刻通りに俺たちを迎えに来た。
「―あたしね」
今度は島を背にして、元居た場所へと向かう。来た道を戻るだけ。
ホントに、俺たちは今日、何がしたかったのかな…
「…何?」
樹里が少し躊躇っているような気がして、俺は先を促した。
何だか照れくさそうに微笑んで、彼女が言った。

「…陽輔さんに『お前』って呼ばれるの、嫌じゃないよ」
「…」
ああ、また この娘は…
俺は微かな動揺を悟られないように、視線を海へ投げた。所詮、無駄な足掻きだが。
「…俺、口も柄も悪いんだ」
「あ、ちょっと照れてる?かーわいい」
「オッサンをからかうんじゃないよ」
図星をつかれた悔し紛れに、きれいに流れる黒髪をくしゃくしゃにしてやった。

こんな事しか出来ない俺の方が、よっぽど子どもじゃないか
「あはは」
さっきの涙などどこ吹く風、と言うような彼女の振る舞いがいじらしく
同時に愛おしく感じた。

自分の気持ちを、本当はとっくに確信している。

「―陽輔さんって、今恋人いるの?」
「…いないよ。一年くらい前に別れた。がむしゃらに仕事ばっかしてたら、フラれたよ」
「あ~あ」
子ども相手に何しっかり答えてるんだ…
なんて、そんな事はもう欠片も考えていなかった。
俺の気持ちに、多分彼女も気づいている。

だから、こんな事を言い出すんだ。
「…あのね。
あと、二年待ってて」
「…は?」
「二年経ってあたしが大人になったら、
そんで…その時陽輔さんがまだ独りで寂しい思いをしてたら
あたし、陽輔さんに告白するよ」

「……ほぉ」 そうきたか。
「どうせ今言っても、まだ子どもだからって相手にしないでしょ」
「んー…、」

俺は少しだけ考えるふりをした。
本当のところ、答えはとうに決まっている。
今ここで彼女に何か言われても、二年後に言われたとしても
俺が彼女に言いたいことは変わらないはずだ。
けれど
彼女がそう言うのなら、俺は黙って従おう。

これはもちろん、『俺自身』が望んでしている選択だ。


俺はもう一度彼女の髪に触れる。今度は優しく撫でて、軽く唇を寄せた。

細い肩が驚いたように揺れた。目が合うと、彼女は耳まで赤くなっている。

「〝樹里〟がそう言うんなら、俺も待つことにする。〝お前〟が大人になった時に、ちゃんと聞いてやるよ」
シャンプーの香りに紛れて届いた汗のにおいに、まだまだ子どもっぽさを感じるけれど
二年なんてきっと、あっという間だよ。

「…陽輔さん、キザ!」
「うるさい!お前に合わせてやったんだよ!」

…まぁ、お互いまだまだ子どもだから、
今こうなってしまうのは仕方ない。

花笑み【樹里】

見知らぬ道を、今 私は必死になって歩いている
大好きな 貴方に逢うために


「―やぁ、待ってたよ」
恐るおそるインターホンを鳴らしたら、ほんの数秒と待たずにドアが開いた。
懐かしい顔にようやくたどり着けて、私は心底ホッとした。
「遅くなってごめんね…お兄ちゃん」
「謝るのはこっちの方。やっぱり、迎えに行けば良かったかな」

『お兄ちゃん』は、少し困ったような表情をした。でもコレは、彼独特の笑顔だ。
あたし…、いや私は、お兄ちゃんのそういう笑顔が大好きだった。
「いいの。一人で歩かないと、道覚えらんないから」
少し強がりな部分も否定しないが、コレは本当のことだ。
誰かに連れられて歩いても、都会の道なんか一向に覚えられやしない。何にも無くて見晴らしが良かった田舎道とは全然違う。
「疲れただろ。さ、入って」
お兄ちゃんが玄関のドアを大きく開けて、私を招き入れてくれる。
「お邪魔しまーす」
何だかお姫様にでもなったような気分で、私は靴を脱いで『お城』へ入る。

きれいな廊下。ちゃんと掃除してるんだなぁ…なんて変な感心をしてしまう。
部屋の中は、ふんわりといい香りがした。
大好きなお兄ちゃん〝たち〟のお城。興味津々にあちこち見回していた私に向かって、お兄ちゃんはふと言った。

「…二年ですっかり大人になったね、樹里」
私は、今まさに発揮されている
自分の行動の子どもっぽさが恥ずかしくなった。



高校を卒業した私は、地元を離れて東京に来た。我ながら頑張って、何とか都内の大学に通えることになったのだ。
学校の最寄り駅の沿線にある、学生向けのアパートも見つかった。
田舎に住んでいた頃よりも格段に移動距離は長くなったけれど、毎日いろんな景色が見られる生活はそれなりに楽しい。
時間が空けば、新しく出来た友達と知らない街に出向いてみたり、独りでふらりと知らない電車に乗ってみたりして、
なるべく『東京』に詳しくなろうとしていた。
―彼に、教えてあげられるように


『19時台の新幹線に乗る予定。到着は21時前後かな』
夕方、そんな内容のメッセージが届いた。とりあえず、良かった。私は胸をなでおろす。

最近忙しいって言ってたから、予定変更になって来られない…なんて言われやしないかと心配していたのだ。
思わず口元が緩みそうになるのをグッとこらえて、お兄ちゃんを呼んだ。
「陽輔さん、9時頃には大宮に着くみたい」
リビングで洗濯物をたたんでいたお兄ちゃんが、顔を上げた。
「そう。じゃぁ、晴親と大して時間変わらないね」
「あら、そう?」
「帰り道で駅まで迎えに行ってもらおうか」
そう言うと、テーブルの上に放りっぱなしのスマホに手を伸ばす。
晴親さんに連絡してくれるのか

何と言うか、その何気なさがくすぐったい
そして何処か、もどかしさを感じた。

少し前までは、私は『春叔父さん』の姪っ子だっただけだし
陽輔さんは、晴親さんの弟なのだ。

「…どうせなら、四人でグループ作っちゃえば楽なんじゃない?」
私は何気なく、もどかしさを解消させる為の提案をしてみた。
うん、そうだねぇ…とお兄ちゃんも笑う。けれど、
「まぁ、二人がいいって言えば、いいんじゃないかな」
結局は、少しだけ歯切れの悪い答えが返ってきた。



晴親さんと二人で生活を始めて、お兄ちゃんは自宅で仕事をするようにしたらしい。
…って言う事は、お兄ちゃんの方が『奥さん』的な役割なのかしら?
そう考えると、私が知っていたお兄ちゃんとは別の一面を見ているような気がしてくる。
嫌だという訳ではないけれど、何処かにまだ違和感が残る。
嫌だという訳ではないけれど…
今ココで一緒に居るのは、『大好きだったお兄ちゃん』とはもう、違うんだ。


茹で上がったジャガイモをゴロゴロとボウルにあけ、立ち上る湯気をかき分けながら潰し始めた。
「あつつ…」私が声を上げると、お兄ちゃんが不安そうに覗き込んできた。
「大丈夫? 無理しなくていいからね」
「平気平気」
余計な心配をかけないように、私は余裕の表情を作ってみせる。
…でもせめて、マッシャーでもあれば嬉しかったなぁ。

私が熱々ポテトと格闘している背中越しで、お兄ちゃんは手際良く他のメニューの下ごしらえをする。
泊まらせてもらうのだから、晩ごはんくらいは作らなきゃ…なんて意気込んできたんだけど、これではまったく敵わない。
「…お兄ちゃんって、料理得意だったんだね」
ため息まじりで言ったのが伝わってしまったのか、私の背後で苦笑する様子が窺えた。
「別に得意な訳じゃないよ。
こっちに出て来てからは自炊せざるを得なかったから、必然的に慣れただけ」
「ふうん…」

確かに、昔から何でもそつなくこなす印象があった。
勉強もよく見てもらったし、父さんも母さんも苦手だったから、逆上がりなんかも教えてもらったっけ。
何でも出来て、大人でカッコ良くて優しくて。
考えてみると、私はお兄ちゃんのそういう『判りやすい』部分だけをみて憧れていたような気がする。

「頑張ればあたしも、お兄ちゃんみたいになれるかな…」
「樹里は器用だからねぇ。すぐに、俺より旨いもの作れるようになるよ」
聴こえないような小さな声で呟いても、ちゃんと拾ってくれる。やっぱり、そういう所は変わらないな。

でもごめん。あたしが言いたかったのは、それとはちょっと違うの。

―彼は、もっと的確に答えてくれた
あたしの言いたいことを、ちゃんと解ってくれていた。
彼とお兄ちゃんとの違いは、きっとそこなんだと思う。

「晴親さんは幸せ者だねぇ。
カッコ良くて優しくて、しかも料理の上手いお兄ちゃんがそばにいてくれて」
おどけた調子で私が言うと、お兄ちゃんは照れもせずに返してきた。
「逆だよ。カッコ良くて優しくて、
俺の作った料理を美味しそうに食べてくれる晴親が居てくれるからこそ、俺も幸せでいられるんだ」
「…うわぁ何それ、無敵じゃん」
そういう事を割とあっさりと言ってしまえる人だったんだなぁ。
聞いてる方としても、それだけきっぱり言われてしまうと、いっそ清々しい。
よかったね、お兄ちゃん。今は、素直にそう思える。

「二人共、幸せなんだね」
背中越しだったけど、私が言ったら お兄ちゃんが振り返ったような気配がした。
「―うん」
答えはやっぱり、揺るがない。

「―あたし、ずっとお兄ちゃんのこと 好きだったの」

私は、長い間心に留めていたものを解放することにした。今ならきっと言える気がするし、きっと今じゃなきゃ言えない。
「…知ってるよ?小さい頃はよく言ってくれてたじゃん」
「違うの!…いや、違う訳じゃないけど」

確かに、小さい頃は「お兄ちゃんのお嫁さんになる!」って公言していた。
もちろん、今まで想い続けた気持ちは、その頃の延長線上にあるけれど。
「あたし…お兄ちゃんが上京した時も、結婚した時も
いつかきっと、また帰って来てくれるって思ってた」
「…うん」
「別に、あたしのものだとか、そういう風に思ってた訳じゃないけど…
でも何て言うか…お兄ちゃんは
お兄ちゃんだけは、あたしの事ちゃんと解ってくれてるって思ってたんだ」
「…そこはちょっと、自信ないけどなぁ」
グラグラ煮える鍋の様子を見ながら、お兄ちゃんは苦笑いする。
「いいのよ。あたしが勝手に思ってただけなんだから。
だからこそ、お兄ちゃんの事解ってあげられるのは、あたしだけ…なんて思ってた。
よく考えると、ちょっとコワイよね」
「そんな事ないよ」

心の奥底から言葉を引っ張り出している間に、ボウルの中のジャガイモ達がきれいにならされて、サラダになるのを待っていた。
私の話が終わったら、お兄ちゃんが仕上げてくれる。

「でも、そうじゃないってよく解ったの。
お兄ちゃんの事ちゃんと見てたのは、あたしじゃなかった」
「…樹里」
「―あたしの事をちゃんと見てくれたのも…」
ふと顔を上げると、いつの間にかお兄ちゃんが私の隣に居た。
昔から変わらない、優しい笑顔で。
ただ、微かに寂しそうにも見えるのは…私の思い上がりのせいだろうか。
「…そっか」
その相槌が、今漂っている二人分の感情をすべて包み込むようでもあった。
私の全身が、じんわりと痺れる。

「お兄ちゃんのこと、ホントにずっと好きだったのよ。
―でも、今 ようやく諦められた」
そう言った後、視界がぼやけてヤバいと思ったけど
私が泣き出してしまう前に、お兄ちゃんがかばうようにして抱きしめてくれた。
「樹里。…話してくれて、ありがとう」

ああ ホントに
春叔父さんは優しいよね。

     ◆

食卓がすっかり整って、二人してテレビを観ていた。
大して面白くもない特番ばかりだったので、お兄ちゃんが録りためていたと言う深夜ドラマを観せてもらった。

「…この人が行ってるお店って、実際にあるの?」
「あるみたいだよ。番組の最後でお店紹介してるし」
「へぇ~。よく観て覚えておこっと」
実際の都内の情報だと言われると、俄然、真剣に観てしまう。私は身を乗り出すようにして、画面を見つめた。
「場所を覚えておいて、陽輔くんと一緒に行くんでしょ?」
私の背中越しに、お兄ちゃんが悪戯っぽく言う。
勿論そのつもりなんだけど、そんなに簡単に言い当てられてしまうとだいぶ恥ずかしい。
何でもかんでも、彼に関連付けてしまうのだ。
―そういう所、あたしってまだまだ子どもなんだなぁ。

…なんてやり取りをしている間に玄関のドアを開ける音がして、続けて声が聞こえる。
「―ただいまぁ」晴親さんが帰ってきた。

その隣に居るはずの存在を思い、私の胸が急激に波打つ。

そりゃついさっきまでずっと、考えていたけれど
昨日だって電話もしたし、さっきもラインでやり取りしたけど

「二人とも、お待たせー。
遅くなってゴメンね。合流するのにちょっと手間取っちゃってさ」
「おかえり、晴親。陽輔くん、お疲れ様」
「お邪魔します。…どうもお久しぶりです、早坂さん」

出迎えに行ったお兄ちゃんとの会話を聞きながら、私は席を立つタイミングを見失い
そわそわと逸る気持ちを持て余す。
それぞれが顔を合わせるのも二年ぶりだから、お互いの会話がぎこちないのも手に取るように解る。
でも私はもっと どうしようもなく、緊張していた。


「あ、居たいた。樹里ちゃん、いらっしゃい」
先にリビングに顔を見せた晴親さんが、私に笑いかけてくれる。
「おかえりなさい、晴親さん。お邪魔してます」
呼吸を整えて、私も笑顔で応じた。
「わー、何かすっかり大人の女性だねぇ」
「いえいえ、そんな!」
何気ない言葉を真に受けて、私の顔が熱くなる。晴親さんが「ほら、陽輔」と、
まだ廊下でお兄ちゃんと話していた彼を招き寄せたので、追い打ちをかけるような緊張が私を襲った。


彼とは、ほぼ毎日話をしてるのに
お互いの近況なんて、きっとお互いの親たちよりも詳しく把握してるのに

ただ、会えると言うだけで こんなにも胸が苦しくなる
彼への気持ちは、出逢ったあの時よりも
確実に強く、大きなものになっていたのだ。


「…」
「―よぉ、お待たせ」

ようやく顔を見せた彼は、あの頃と大して変わっていなかった。
二年も経ったからと言って、オジサンっぽくなっている事もなかった。
「…うん」
何と言って答えたらいいか分からず、私はただ頷くことしか出来なかった。
お兄ちゃんや、さっき晴親さんにしたみたいな笑顔には、きっとなっていなかったと思う。

少しだけ、髪が短くなったかな
仕事帰りだと言うからスーツ姿なのかと思っていたけれど、割とラフな格好をしている。
初めて逢った時と、同じような印象…
でも、やっぱり違う。


私を見た彼は、少し照れくさそうにしながらも
ちゃんと 嬉しそうに笑ってくれた。



◆◆◆

サークル・ゲーム Ⅱ【注】

ひとつの世界に生活するキャラクター達の、それぞれの恋愛・友愛模様を少しずつ視点をずらして綴ったもの。
個人的にはこういう手法が割と好きです。
当初の文章より大幅に削っておりますが、性的描写等でご不快に思われる事がありましたら大変申し訳ありません。
一部実際の企業名・地名、ドイツ語などを使用しておりますが、多少聞きかじった程度の知識で脚色しております。実際の事情とは異なるものであります事、何卒ご承知おきとご容赦くださいませ。

サークル・ゲーム Ⅱ【注】

※一部BL要素、若干の性的描写を含む作品になります。閲覧の際はご注意ください※ 前項の後日談的、それぞれの『好き』にまつわる連鎖物語。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-05-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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