空(そら)

まきや 作

空(そら)
  1. 0. プロローグ
  2. 1. 誕生
  3. 2. ヒュー
  4. 3. 失敗
  5. 4. きっかけ
  6. 5. コッ・コ
  7. 6. 飼育員

0. プロローグ

 雨の降る晩だった。

 決して強くはないが、傘をささなければ濡れてしまう。その地に降っていたのは、そんな種類の雨だった。

 一台の車が、出来たばかりの水たまりを踏みつけて、道を走っていた。
 特徴もない銀色のセダン。四駆だったし、タイヤはそこそこのグレードの物を履いていたから、雨の中でも走りは安定していた。

 車内ではボリュームを抑えた優しいオルゴール調の音楽が流れていた。
 他に一定の間隔で、ゴムとガラスのこすれる音がする。雨滴を感知するワイパーが定期的に働き、フロントウィンドウの水滴を拭い去っていた。

「寒くないかい?」
 運転している細身の男性が、同乗している家族に尋ねた。
「だいじょうぶ」
 女の子の声が、男性のシートの後ろから返ってきた。

 男性は視線を動かし、バックミラーごしに、後部座席の様子を見た。車内は薄暗かったので、彼の目には最初、何も見えなかった。まもなくやってきた対向車が、すれ違いざまにフロントライトで、後部座席の様子をひと通り、照らし出した。

 彼の愛しい娘の小さな顔が、そして隣には妻の姿が見えた。

 暗い中でも娘は寝ておらず、なおかつ父の視線に気づき、小さく笑いかけてきた。クッション代わりに少女が抱いていた、大きなイルカのぬいぐるみ。その片方のヒレを手で持ち上げ、いたずらっぽく、挨拶するように振ってきた。父親も歯を見せた笑顔で答えた。

 娘の反対側の席には、優しい寝息をたてている妻がいた。ミラーの端に、妻の美しい寝顔が映っている。彼女の黒髪に、ときおり飛び込んでくるオレンジ色の街灯の光が反射していた。妻は眠りながらも本能的な動作で、その両の掌を、大きく膨らんだ自身のお腹に添えていた。それを見て、父親は自然と、愛おしさにあふれる、優しい笑顔になった。

 再び鳴るグッというゴムの擦れる音で、男性はふたたび視線と注意を、前方へと戻した。彼はさらに音楽のボリュームを落とし、暖房のダイアルをひと目盛りだけ動かした。

 今日は遅くなってしまった。彼は独り考えた。
 これから帰ろうとしている、彼と家族の住んでいる家は、海に近く、とても環境が良い場所だった。その代わり、近所には大きな病院がなかった。特に産婦人科などは、海沿いの道を通って、何キロも先の市の中心まで出なければならない。
 新しい家族を迎える為には、仕方のないことだ。それどころか、嬉しさの方が大きかったので、家族は誰も不平など口にしない。

 道が緩い登り坂に差しかかり、父親は少しだけアクセルを踏み込んだ。タイヤのトラクションが増し、車がカーブに吸い付いて綺麗に曲がっていく。

「あ、そうそう」
 娘が思い出したように言った。
「うちに着いたら、新しく買った歌を、聴かせてあげなきゃ」
 忘れないようにと、つぶやいたのだろう。その声に父は微笑んだ。

「明日にすれば。ママだって眠ってるんだ。赤ちゃんもきっと一緒だよ」
「嫌よ。きっと今日、聴きたいはずだもん」
「どんな歌を買ったんだい。タイトルを見せてよ」
 父親は明るく、質問した。

 娘は待ってましたとばかり、返事の代わりに、ガサガサとビニール袋を触る音を返した。やがてミラーの右半分に、何か赤い物が映ったのが、感覚でわかった。
 父親はもう一度バックミラーを見た。クレヨンで描かれた赤い花と、妖精の絵が見えた。

「可愛いね。ママと二人で選んだんだろ?」
「うん!」
 絵が引っ込んで、代わりに娘の心からの嬉しそうな声と、小さな笑顔が見えた。

 父親はさらに返事をしようと、口を開いた。


 ぱあっと、不自然なぐらい明るく、車内が光に照らし出された。
 ミラーに映る娘の顔から表情が消え失せ、目が見開かれていく。
 怪訝に思った父親は、すぐに異変に気づいた。

 父親の反応は早かった。ハンドルを握り直し、ミラーに注いでいた集中を、一瞬で前方へ引き戻す。
 だが反射神経とは別の次元で、その光景は、やけにゆっくりと、そして鮮明に動いていった。

 彼は声を出す事もできない。ただ傍観者のひとりとなり、起こる現実を見つめるしかできない。
 ワイパーがぎゅっと鳴り、扇型に、フロントガラスに垂れる雨滴全てを、拭き取っていく。

 次の瞬間、彼の目の高さに飛び込んできたのは、大型車の猛烈に輝く、フロントライトの光だった。

1. 誕生


 温かいものに満たされた袋に浮いて、くるくる回って、もじもじと動きながら。
 規則正しい、トクン、トクンと動く大きな波が、僕を安心させる。
 お腹の底がジンジンしてくると、ふわぁっと僕に元気が流れ込んでくる。

 柔らかな水の布団に包まれて、夢見て起きていつまでも、ずっと揺れる時間を過ごしていられたら、良かった。

 けれど、誰かがノックしたんだ。最初は優しい音で、徐々に強く、何回も。そのうち僕の身体がぐらぐらとゆすられて、全然寝ていられなくなった。部屋の隙間がきつくなってきた気がする。
 怖くなった僕は、小さな「手」とか「足」とかで、懸命に壁を押すんだけれど、動かしづらいし、ちょっと無理みたい。

 なんだか頭の方が冷たい感じがした。袋の水が減ってきたのかな? 思っているうちにも、どんどん身体が寒くなって、やがて温かい覆いが全部なくなった。水なしで袋の底に転がされていると。触れているお腹だけが温かい。トクンという波が直に身体に伝わってきた。

 また「うねうね」が強くなって、でも今度はねじるみたいに波打ってきた。ずるずると押され、身体が後ろに滑っていく。
 はじめての感覚にとても怖くなり、僕は手と足を(つっか)えさせて懸命に踏ん張った。何だか足と足がくっついて、うまく動かせない…僕は必死に抗った。

 イヤだ! イヤだ! もう少しここにいたい!

 いったんねじりの体操が収まった。壁も僕みたいに疲れたのかな…
 でもまたすぐに、動きが始まって、耐えて踏ん張って――その繰り返し。その運動は長い間、続いた。

 さすがの僕もヘトヘトだった。壁からくる波の周期も、どんどん不規則に、荒々しくなっていった。
 それより何だか、肩とか胸とかに、変な痛さを感じるようになってきた。身体もだるくて、奇妙なポカポカさが僕を包んでいく。
 それにつれて手足がうまく動かなくなってきた。

 いきなりジャンプしたみたいに袋がきゅっとすぼまって、僕の身体は一気に後ろに押し流された。頑張れる元気がもうないから、もう抵抗はしない。
 腰から足の先までが、とても冷たい水に触れた。初めての感覚に身震いしたけれど、もう怖さはなかった。

 水の中で、誰かが僕の「両足」をぐいっとつかんだ。今度は押す力に、引っ張る力が加わって、僕はどんどん、袋の出口に向けて、滑っていく。
 そこからは早かった。つるん、と音はしなかったけれど、一気に僕はその冷たい世界――これから生きていく海の水の中に、飛び出していった。

 上の方でパチパチと弾ける音や甲高い鳴き声がしていた。何だか明るくて楽しい音。

 生臭い僕の身体が水に洗われて、きれいになった。遠くの方で誰かが言った。さあ足を動かせ! 泳げ! その声を信じて言うと、僕は最初から泳げるはずだった。けれど水に流されてまもなく、僕の身体は顔を下にして沈んでいった。すぐに大きくて優しいものが支え、持ち上げてくれた。

 やがて僕の意識は、音のない世界の下に沈んでいった。

2. ヒュー

 僕はヒューという名前をつけられた。

 短くて、いい名前でしょう? 僕を呼ぶ時にママが出す、甲高い音なんだ。
 まだ大人にはなっていない。でも泳ぎは得意で、こうしてママにもついていけるし、ミルクだって逆さになっても飲めるんだ。

 大人が相手をしてくれない時は、いつも友達の二人と泳ぎっ子して、遊んでいる。ママたち大人は「狭いんだから大人しくして」と言うけれど、()()は全然広いし退屈しない(いちど、ここより広い所を聞いてみたけれど、ママは答えてくれなかった)。

 僕が友達と「違う」って思うことがある。息がどうしても続かないんだ。だから潜りっ子をしても、早泳ぎ競争をしても、絶対に勝てない。それと右のヒレがうまく動かないから、ターンする時に動きが遅くなるんだ。別にゴハンを食べるのに困らないからいいんだけれど。

 疲れた時はママの上に乗せてもらって、息を吸わせてもらう。その時「お前は、ママのお腹の中が大好きだったから、なかなか出てこなくてね。それで他の子より上手になるのが遅いのよ」なんて言うんだ。何だか納得できないな。
 でも尻尾を動かすのはとても上手で、誰もが褒めてくれる。何だか尾が二本あるみたいだって。それに口笛の旨さは誰にも負けないよ。

 いつもは青い壁の中で暮らしているんだけれど、少し大きくなったある日、僕らは初めて大きな家に移された。そこは家族全員がいても、まだ競争できるコースが二本も取れる広さだった。それに潜れる深さも全然違う。ママが言っていた広い世界って、この場所に違いないと確信した。

 ここで僕は、仲間たちが見せた行動に目を丸くした。
 コースの端まで悠然と泳いだその大人が、とつぜん腰と尾を巧みにしならせ、猛スピードで中央まで駆け込んで――

 大ジャンプ!

 彼は弧を描いて、そのまま見事に水の中に戻ってきた。顔を出していた僕と子どもたちは、目を釘付けにして、次々と仲間たちの華麗な技を見ていた。飛び散る水流を避けもせず、顔に浴びながら。

 だからここの場所は、空がとても高くて、水の底が深いんだ! そして僕たちは飛べるんだ!
 生まれて初めて心からびっくりして、ドキドキして眠れない一日になった。

 次の日からすぐに、僕たちの遊びが「ジャンプごっこ」になったのは言うまでもないよね。
 器用な仲間のひとりなんかは数日で、水の上に飛び出せるようになっていた。

 僕? 僕は頑張ってもあんなスピードは出せないし、尾びれで水を蹴っても、オデコが水面に出るだけさ。
 でも「まだ」なだけだ。いつか上手になるって、ママが言ってた。その時が来るまで辛抱しなさい。
 だから諦めず、毎日家の端の方で練習を欠かさなかった。まさか大人たちがその様子を、つらそうな目をして見ていただなんて、僕はまったく知らなかった。

 皆はどうかわからないけど、僕の家には不思議な所があった。

 家の片方は青い壁なんだけれど、反対側の壁は透けていて、まるで広大な水がその先どこまでも、遠く続いているように見えた。
 僕は好奇心を刺激されて、その先に行こうとしてみた。けれど何回チャレンジしても、固くて見えない壁に阻まれてしまって、その度にオデコに痛い思いをさせられた(そこをぶつけるとママがカンカンに怒るので、黙っていた)。

 友達たちはとっくに興味をなくしていたその壁の先。そこにいつか行ってみようと思い、僕はずっと諦めなかった。

3. 失敗

 僕と仲間たちがもう少し大きくなったある日、僕たちの生活に大きな変化が起こった。

 例のあの「先」の世界に、たくさんの――本当にたくさんの――小さな生き物たちが訪れ始めたんだ。
 大人に聞いたり、仲間とコソコソ相談した内容をまとめると、結論はこんな風になった。

 ・あれは「人間」がたくさんいるだけで、悪いものじゃない
 ・噛まれたり、傷つけられたりしない
 ・噛んだり、傷つけたりしたら駄目
 ・「ショー」つまり、僕たちがどんなに偉いかを見に来てる
  だからいつも「パチパチ」が飛んでくる
 ・理由は良くわからないけれど、人は水をかぶるのが大好き
 ・透明でぶつかると痛いのが「ガラス」僕らの家は「プール」「ステージ」だって

 正直小さな生き物たちの事はよく知っているし、人間は仲間だって思ってる。いつも僕たちに美味しい餌をくれるし、壁の掃除だってしてくれる。たまに僕たちの遊びにも付き合ってくれたりもする。
 大人たちですら、小さな人間たちとうまくやっている。だって大人が開いた口に人間が入っても、食べたりしないんだもの。

 それから僕は、人間たちを観察するのが日課になった。

 プールの前にあるたくさんの段々(階段というらしい)には、ママやパパ(あんなに小さいのに!)、さらにもっと細かい子どもたちが、砂の粒みたいにギュウギュウに詰められている。
 よくあんなに小さいのに、子供を間違えたりしないなって、いつも感心する。どこもかしこも甲高いピーピーの連続音。これは彼らが喋っているらしい。

 人間のおチビたちがまた楽しい。僕がわざとガラスの前を通ると、たくさん張り付いている子供たちが、目を光らせてこっちを追いかけてくるんだ。また戻ってきたり、逆さになって泳いだり、その度にピーピーが鳴り止まないから、見ている仲間とお腹を抱えて笑っていた。悪い仲間は口から水をかけたりしてた! 怖いって泣いている子には、クルクル回って、少しだけ長くいてあげる事もある。
 そんな生活だから全然退屈しなかった。相変わらずジャンプは上達しなかったけれどね。

 残念だけれど、ショーが始まる時間になると、僕たち子供は追い出されてしまう。そうなると、しばらく狭くて壁だらけのプールで我慢しないといけない。けど次は誰がどんな泳ぎをするか、仲間と相談するのはとっても楽しかった。



「☆△@@ーーー!! □◆△2L☆☆@@!!」

 意味は分からなくても、僕たちはその音をきちんと記憶している。ショーの終わりだ。
 いつもみたいに、たくさんのパチパチが水の中まで聞こえてきた。

 大人たちが滑るように家に返ってきて、お互いに仕事終わりの挨拶を交わしている。
 片付けが終わると僕らが泳げる自由時間がやってくる。僕たち子供は待ちきれず、周回のスピードを上げる始めた。やがて人間が青いネットの垣根を取り去ると、僕たちはさっと放射状に散って、それぞれ広い世界に飛び出していった。

「いるいる!」
 案の定、ショー終わりのおチビさん達が大挙して、ガラスの前に残っていた。その後ろには大人たちもいる。今日もたくさん楽しめそうだ。

 僕たちはプールの大外を並んで周りながら、誰がいちばん最初に行くかを決める、簡単な勝負をしていた。
 その結果、僕は運悪くビリになってしまった。まあいいや、今日はあの子たちを飽きさせない、楽しい仕かけを考えたんだから。

 まもなく大きな歓声が聞こえてきた。一番手のヤツだ。つかみは上々だね。
 ひとりずつガラスの前を一往復。その分の楽しみを終わらせて、友達が周回の輪に戻ってきた。身体にタッチされ、次のひとりが、ガラスの前に出ていった。
 今日は何やったんだいって聞こうとしたけれど、最初に戻った友達の様子が変だった。あんなにたくさんのパチパチをもらったのに、得意げな風もせず、不服そうな声で鳴いていた。

 もうひとりも同じようだ。歓声をもらっていたのに、戻ってくる時の様子がおかしい。しきりに頭を振りながら、ふらふらとして、泳ぎにキレがなかった。
 誰も原因を教えてくれないので、僕は不審になり、最初のやる気を失っていた。出番を引き継いだけれど、不安で蛇行しながら、ガラスへとゆっくり近づいていった。

 とりあえず最初は無難に、背ビレを見せて泳いでみよう。それでガラスの半分まできたら、くるっと一回転して、相手の様子をみてやろう。
 そういう作戦で僕のショーはスタートした。

 少し遠目の距離から腰を振ってスピードをつけ、身体をくるりと横に倒す。背筋をぐっと伸ばして、自慢の黒い背びれと胸ビレを目立つように伸ばした。観客の前を通る時はなるべく動かず、優雅に滑るようにするといい。
 すぐに背中の方から、子供の歓声が聞こえてきた。
 これで僕の最初の緊張が解けた。ビクビクしすぎて、損した! いたずら好きの仲間に脅かされただけだったんだ。それではと、予定通りなめらかに、身体をくるりと回転させていく。
 流れていく景色の中で、左目の端から人間の顔がたくさん、視界に入っていく。見れば大人も笑っている。今回は僕が仲間内で一番じゃないかって思った。

 回転が終わろうとしていたその時、僕は喜んでいる子どもたちの顔と顔の間に、まったく違う物をみてびっくりした。

 女の子だった。その子は他の誰ともまったく違う表情をしていた。
 僕は仲間から、人間の雄雌(おすめす)の見分け方を聞いていたし、人が楽しい時にするのは「パチパチ」と「笑顔」だって事も知っていた。

 だからわかった。女の子はまったく笑っていないって。

 僕たちは偉くって、強くって、格好いい。大人になったら人間を「笑顔」にする為に、ここで頑張っていると思っていた。
 なのにあんな顔をする人間を見てしまった。まだ子供の僕には、そんな心の準備が出来ていなかった。

 そうだ、まだ子供だから、未熟だから駄目なんだ。

 往復の半分を終えた僕は、さっそく奥の手を出すことにした。すぐに探査(クリック)音を出して、すばやく目的の物を探し出す。それはプールに浮かんだいくつかの赤いボールから垂れ下がっている、ロープだった。正確にその紐を歯でくわえると、それをぐいっと引っ張った。そうすれば、ボールが水中に連なって動く様子を、子どもたちに見せてあげられる。まもなく視界全部が、笑顔で埋まるだろう。

 けれど現実はそれを許してくれなかった。僕は二つの失敗を犯していたんだ。
 ひとつは、紐を取るのに夢中になって、息継ぎするのを忘れていた事。もうひとつは、そもそも今の僕が友達みたいに、機敏で正確に泳げない身体だって事。
 いきなり息が苦しくなって、呼吸をしようと水上に急いだ時にはもう遅かった。乱れた水流のせいで、ロープは僕の柔らかい体に、螺旋状に絡んできていた。
 溺れてしまうと焦った僕は、弱い助け声をあげた。

 異常を感じた仲間たちが、必死に水上ジャンプを繰り返した。おかげですぐに人間たちがプールに飛び込んできて――情けないけど――助けてくれた。二人の人間に挟まれて、僕は小さな家へと引っ張られて行った。その時に横目で見ていたけれど、ガラス越しの子供達の様子はわからなかった。


 ママには散々怒られた。

 その晩、僕は友人たちにガラスの前で何があったかを訊いてみた。そうしたら二人とも「大人が持つ四角い箱の強烈な光で、目がくらんだ」という同じ答えだった。
 僕は笑われるのを承知で、自分の体験を話してみた。そうしたら顔を見合わせた仲間に、本気で感覚器官(オデコ)の心配をされてしまった。
 馬鹿だな、人間の子供なんて、どれも同じにしか見えないよ。
 だから僕はそれ以上、何も言わなかった。

 僕は水面にプカプカ浮かびながら、ずっと考え続けた。水上に映るゆらゆら揺れる丸い月。丸い顔の子どもたち。赤いボール。
 あの子を笑顔にできなかった悔しさとか、未熟な自分への情けなさ。そんなもやもやした想いもあった。
 けれど、もっとすごく深い所で気づいた不思議なことが、心から離れなかった。

 どうしてか僕は、女の子のあの顔に、出会ったことがある気がしたんだ。

4. きっかけ

 それからしばらく、僕にあの大きなプールで泳げるチャンスは来なかった。
 それどころか、ひとりだけのプールに閉じ込められてしまった。いつもは優しい人間たちだったけれど、さすがに僕の行動に怒ったんだろうなって思った。
 でもときどき来てくれては、頭を撫でてくれたりした。本当は心配してくれてると気づいてからは、僕もあんなイタズラはやめようって思った――しばらくはね。

 僕が練習できないあいだ、友達たちはどんどん成長して、技を覚えていった。
 いちばん上手にできる一匹は、大人たちのショーに少しだけ出て、人間たちにジャンプをお披露目したんだ。
 ますます開く友達との差。面白くないな…青いネットの後ろで、弧を描く仲間たちの妙技をただ眺める毎日は、本当に退屈だった。

 そんな僕を見かねてか、人間たちは粋な計らいをしてくれた。
 僕の部屋の、青い壁のひとつに穴をあけて、道を作ってくれたんだ(最初から穴が開いていたのかもしれない。だって何となく壁が薄い気がしていたから)
 たぶん、お腹を見せて退屈さをアピールし続けたのが、効いたんだと思う。

 そのトンネルを泳いでいくと、先にはまた小部屋があった。角がない丸い部屋で、いままでの所よりも狭く感じた。だけどそこには、前の住処にはない仕掛けがしてあった。

 ガラスの壁だ! 僕は嬉しくなってケラケラ笑い、水面から飛び出そうになった。

 壁の外は暗くて、最初は良く見えなかった。けれどその暗闇から、ときどき大人や子どもたちが来て、僕を指差し、笑い、そして去っていく。あの大きなガラスの外と比べたら、ここに来る人間なんて数える程しかない。しかも天井までガラスがあるから、僕も人もお互いに音が全然聞こえないみたいだ

 それでも良かった。退屈がなくなるんなら大歓迎だ。この場所を独り占めできて、人間は僕()()を見ている。こんなに楽しい所はない!

 こうしてこの遊び場での僕の毎日が始まった。

 本当はジャンプの練習への未練を捨てていたわけじゃない。でもこの狭い場所では、とうてい叶わない。だから僕は違うことを頑張った。
 僕にはいろいろな遊びのアイディアがある。閉じ込められて暇だからといって、ただ浮かんでいたわけじゃない。この柔らかい頭の中で、たくさん研究していたんだ。

 口から小粒の泡を出しながら、ヒレをなるべく立てて、クルクル回って泳ぐ。そうすると水の玉が身体にまきついて、模様みたいに見えるって知ってる?
 水面に浮かんでる時に、いきなり力を抜く。するとゆっくりと周りながら底に向かって落ちていくんだ。水底ギリギリまで沈んで、子どもたちをできるだけ心配させたら、一気にバネを使って猛スピードで泳ぎ去る。復活した僕を、彼らが笑顔とパチパチで迎えてくれた。

 こうして毎日、技を考え、披露していくうちに、気づいた。何だか最初の時より、僕を見に来る人たちが増えている気がした。
 気のせいじゃない。だってガラスの前に張り付いている、子供と子供の隙間が少なくなってる。そして背後に立っている大人たちのも。

 僕は得意になった。ここはいい。僕だけの場所、僕だけのお客さん。いらっしゃいませ。ここに来れば、毎日違うものが見れますよ!



 その日はいつもより人が少なかった。
 まだ朝だったし、前の日が特に混んでいたりすると、翌日にそういう時がある。

 昨日張り切ったせいもあって、今日は練習を休む日にしていた。
 仲間たちも同じ気分らしく、水音は聞こえない。もうひとつのプールでゆったりと、大人しくしているようだった。

 浮かんでは沈みを繰り返して、肌に流れる水の感触に身体を預ける。こうしていると、耳がとても良く通り、いろいろな音が僕の柔らかい頭に入ってきた。
 繰り返し弾ける泡たち、仲間の歯のカチカチ、つながっているどこかのプールで聞こえる、リズミカルなこする音の繰り返し――これは人間が棒で掃除してくれてる時に聞こえる。そして硬くて規則的なコツ、コツというとっても小さな音。

 くるりと上半身を回転させて、頭をガラスの方に傾けた。いつの間にかそこに、影がひとつあった。
 人だ。一人だけ。とても小さい。頭にフワフワな赤い物をかぶって――人間は寒がりだから――赤い「服」を着ていた。
 プールの向こう側の床に座り、気だるそうに寄りかかりながら、細くて小さな指をガラスにあて、リズムを刻んでいた。

 コツ、コツ。

 僕は驚いた勢いでもう一回転してしまった。あの女の子じゃないか!
 そして今日もぜんぜん、笑顔じゃない。

 その子は、こんなに大きい僕が動いているのに、気にもしていないようだった。ごはんを食べれるとは思えないぐらい、小さな口。それを少し動かしながら、ひとり喋っているように見えた。
 いったんプールの端までいき、そこからゆっくりと、お腹を見せながら、通過してみる。ごく自然に、相手を見ていない様子で。
 駄目。僕の白い肌にも反応なし。
 僕にだって少しは誇りがある。ちょっと脅かしてみようと思い、奥からスピードをつけて、ガラスに向かってぐんと迫った。急旋回して水面までターン。これでどう?
 そこで女の子が、やっと顔をあげた。やったと思ったけれど、違う。彼女の興味は頭のフワフワの事だったみたいだ。

 僕は完全に自信を失っていた。もう外の世界が見えない、青い壁の部屋に戻ろうと、通り道の位置を探る音を頭から出した。

 いきなり女の子に動きがあった。指の動きをやめ、こっちを見ている。それだけじゃなくて、ちゃんと首を動かして泳ぐ僕を追いかけていた。
 さすがに笑ってはいない。けれど初めて見せるその子の表情に、僕はドキドキした。
 でもなぜ? あまりにも日常の事なので、何もしていないのにと思っていた。そうじゃない。僕はもう一度その「きっかけ」を試してみた。

 コツコツ

 少し早めのリズムでしっかりと、硬い音が帰ってきた。スゴイや! この女の子、僕の音が分かるんだ!
 興味津々の僕は、ゆっくりと降りていって、口がガラスに付くギリギリの所まで、その子に近寄ってみた。
 長い前髪に隠れて見えなかったその子の目が、初めて見えた。黒くて丸い、綺麗な瞳が二つ。僕が大好きなボールにそっくりだった。
 少女は何か言いたげに口を動かすけれど、僕にはわからない。
 ごめん、コツコツしかわからないんだよと、言うつもりで、音を返した。
 女の子は少し考えると、顔をあげて近づけた口をゆっくり動かしながら、ガラスを叩いた。

 コッ・コ

 そして自分に向けて指をさした。
 最初の音は少し強く、次の音は触れるぐらいに弱く。何か伝えたかったのだろうけれど、読み取れたのはそこまでだった。

 女の子が急に振り向いた。黒い大きな靴が二つ近づいてくる。大人だった。二人は何か強く言いあっているようだ。
 僕がもういちどプールを一周して戻ってきた時、その子は後からきた大人に抱きかかえられ、歩み去るところだった。

 暗がりに消える彼女は、少し寂しそうな顔をしていた。

5. コッ・コ

 いつも挨拶がそれから始まったので、僕はこの女の子を「コッコ」と呼ぶことにした。

 そしてこの出会いと発見は、僕の新しい楽しみになった。
 コッコは毎日ではないけれど、同じ時間に僕を訪ねに来る。いつも最初に会ったのと同じ場所に座って、僕を待っていた。

 コッコはいつも表情を変えないけれど、とても知りたがりだった。
 だからまず最初に、僕は自分の名前を教えてあげた。壁の向こうで、人間の彼女が僕の出す音を、どれだけ理解したかはわからない。けれどその音を受け取ったコッコの目は、これまでにないぐらい、興奮して輝いていた。

 最初は互いの名前を「発音」し、挨拶するだけで時間は終わっていた。けれどやがてお互いに、それぞれ持ち寄った音を交換しあうようになった。
 僕は仲間と交換する時に出す音で、コッコに聞こえそうな音を選んで、届けてあげた。
 楽しい/遊ぼう/つまらない/危険/集まれ。時には身体も使って、その意味を教えてあげた。いろいろな人間に試してみても無視されるのに、彼女だけはそのリズムを理解して、返してくれる。だから僕も自分を伝えるの夢中になった。

 僕もコッコからは素晴らしいものを受け取った。それは人の奏でる「(うた)」だった。

 僕らも詩を持っているけれど、遠くにいるたくさんの仲間たちに聞かせる為に歌う。
 コッコは詩を、僕に聞かせる為に歌ってくれる。額を水槽の壁につけて口を動かし始めると、とても心地よい波が、身体を通じて頭に伝わってくる。
 冷たい水の中にいるのに、温かさと柔らかいものに包まれて、とても懐かしい気分にさせられた。だから僕はお腹を見せて、精いっぱい気持ちよさを伝えて返す。

 コッコと逢えるのは本当に少しの時間だけ。必ず最後に大人が来て、彼女を連れて行ってしまう。
 別れの時の、コッコの暗い表情を見るたびに、僕はいつも辛い気持ちになった。

 僕はどうしても、少女に笑顔を送りたかった。
 それでずっと考えていたあるものを練習して、コッコに見せることにした。



 その日も少女はやって来た。

 お決まりの挨拶、そして今日はコッコの詩を最初に聞かせてもらった。
 それまで不安だった気持ちを、彼女の詩が洗い流してくれた。僕はちゃんとできるって。

 歌い終わったコッコが、額をそっと水槽から離した。小さく深呼吸をして、僕を見つめる。
 僕は今までにない言葉の音波を、壁に向かって送った。コッコが初めてのリズムに戸惑いながら、ガラスを細やかにノックした。

 たくさんの息を吸い込んだ僕は、プールの底近くに潜り、身体を固定した。水流が落ち着くのを待ってから口をすぼめて、空気の塊を瞬時に押し出した。
 最初は球体の空気の塊だった。もういちど軽く吹いてやると、それが潰れた小山のようになり、中央にぽっかりと穴があいた。残されたリング状の空気は、外へ外へと回りだし、やがて水中を漂う輪ができあがった。

 泡の指輪(バブル・リング)

 内側から外側へ。循環する空気の輪は、綺麗で安定した形を保ち続けた。そして水面近くまで広がりながら昇り、やがて消えた。

 コッコは広げた手でガラスをつかみ、その一瞬に目を見開いていた。

 まだ終わらなかった。続けてひとつリングを作った。間をあけず、さらにもうひとつ。すると先にできた輪に吸い寄せられて、次のリングが中をくぐり抜けていった。
 調子にのった僕は、たくさんの輪を作って、それを鼻で回したり、輪に触って分割して遊んでみた。すごい。何でもできる気がした。
 最後に残ったリングを口の中に入れて、演技を終えた。

 やった、成功だ! 僕は朗らかな気分で感情が高まって、クルクルと周り始めた。
 水面近くまできて、やっと観客を忘れていた事に気づいた。急停止して、今度はゆっくりと降りてガラスに近づいていく。

 コッコは無表情のまま固まっていた。ぺたんとお尻をついて、たまにする瞬き以外の反応がない。

 むかし失敗した時の、あの嫌な思い出が頭をよぎった。これで駄目なら、僕の引き出しには何も入っていない。
 その時、僕の喉に何かがせり上がってきた。それはいきなり来て止められなかった。

 ポコン。

 僕の口から出てきたのは、さっき飲み込んだ輪が分割して出来た、三つの赤ちゃんリングだった。

 それを見たコッコが、いきなり笑いだした。
 さっきまでの雰囲気とぜんぜん違う、本当に心からの笑顔だった。

 この子がこんな明るい顔を作れるなんて。
 聞こえないはずのコッコの笑い声がガラスを通り抜けて、水の中まで聞こえる気がした。

 どうしてか、この女の子が気になって、こうして一緒にいるようになった。
 説明はできないけれど、やっぱり僕は、この子の笑顔を知っている気がするんだ。

 コッコはすぐにいつもの彼女に戻った。そして今日もさよならの時間がやってきた。
 大人の影が見える前に、コッコはあわててガラスのすぐ近くに来た。そして小さな口を開いて息を吹きかけると、曇ったガラスを指でなぞった。
 ちょっと考える仕草をして、あわててそれを掌で消し、新しく何かを書き直した。それが終わったと同時に、コッコは抱き上げられ行ってしまった。

 さっきまで少女がいた場所の正面に降りる。僕には人の書いた物は分からないけれど、記憶はいい。
 だから彼女が残したそれを、ずっと大切に、覚えている事にした。


 う・と・が・り・あ

6. 飼育員

 ダイキは迷っていた。

 彼はこの水族館の中でもっとも若く、悩める飼育員のひとりだ。

 開館前からプールサイドで大きな長靴を履き掃除していた。デッキブラシに寄りかかりながら、ダイキは痛む腰を手の甲で叩いた。
 肉体的な悩みなら、全然良い。この広いプールを掃除するのは慣れてるし、腰痛だって休み明けの今だけで、すぐに治る。若いんだし。

 けれど我が子のように可愛い、バンドウイルカたちの問題となると別だ。
 ダイキ風に言わせてもらうと、あいつらは頭が良くて、スマートで、シャイで、イカしてる。最高だって叫びながら、双眼鏡で観察しているだけなら、実に楽だ。
 でもそれを仕事にしてしまうと、とたんに重労働が待っている。

 食べさせて、掃除して、体調の管理も欠かさない。まあ、それでも飼育員なら幸せだろう。けれど市営の施設ともなると、それだけとはいかない。
 俺の大事な仕事――悩みの素――が、もうひとつ重くのしかかる。教育という名の子育てだ。
 地方務めなのは覚悟でこの世界に入ったけれど、まさか子供もいない俺が、そんな悩みに晒されるなんて、思わなかった。
 先輩飼育員が言った。「お前は甘い」んだって。

 ダイキは後ろから大きいものにドンと突っつかれた。プールから顔を出す、やんちゃな子供イルカたち。オヤツが欲しいと言ってるのか、遊んで欲しいのか。

 彼は少し前から、研究機関付きの飼育員に、空きを求めたくなる気持ちと戦っていた。
 俺はこいつらに芸を仕込まなきゃならない。それが普通の飼育とイルカの飼育の違いだ。自然のイルカは芸なんてしない。いや正確に言うと、芸と同じ行動はする。だから人間はそれを利用して、芸に仕立てる事ができる。
 それは見事な技術であり、体系であり、飼育員の醍醐味でもある。
 ただそこに「いつでも」や「どこでも」の条件を付けると、途端にハードルが上がる。おまけに「どのイルカでも」を加えないといけない。
 仕込む対象が人で「歩く」「走る」「喋る」が芸になるのだったら、教えるのは簡単だと思うだろう。けれど――変な例えだけど――ヤクザな人に金を払って「走れ」と言って、彼は動くだろうか?
 イルカに極道のプライドや落とし前はないが、機嫌はある。体調もそうだ。ましてや子供たちは尚更きまぐれなんだ。

 ダイキは用具置き場の赤いボールを二つ、プールに投げてやった。子供たちはすぐに追いかけて泳ぎ出す。

 もうこの子らにも、芸の初歩を教えている。手間はかかるし、気まぐれな所はあるけれど、覚えは良かった。
 問題は一番小さな子供の「シエル」だった。

 イルカのお産は軽いと言われていたが、シエルの生は難産で始まった。ダイキはその場に立ち会った「産婆」のひとりだ。
 プールの中で、懸命に尻尾をつかんで彼を引き出した記憶は、いまでも鮮明だった。
 シエルは無事に生まれた。けれど出てくるまでに、少し時間がかかり過ぎた。
 大きな問題は心臓だった。通常の個体よりも血液を循環させる力が弱かった。過度の運動は心臓を肥大化させるという診断がでた。
 のちに判明したのだが、右の胸ビレにも多少の運動障害があり、中速以上の泳ぎに支障が出ていた。

 もちろん水族館(ここ)は、身体の具合が悪かったり、もともと不具合がある動物たちを、ムチ打って働かせるような施設ではない。
 けれどダイキの心には、わだかまりがある。
 一番好奇心があって、真面目で、素直なのはシエルだ。同情心なのかもしれないけれど、彼はそれをよく知っていた。
 だから何とかして、ここで他のイルカのように過ごさせてやりたい。そう思って館長に頼み込み、無理のない範囲で訓練を行ってきた。

 だが所長室に呼び出された今日、言い渡されたのは、シエルの移動予定の話だった。
 所長は先輩飼育員とダイキに伝えた。
 シエルは当館には向かないし、自然の中でも生きられない。イルカの生態研究を行っている、もっと小さな施設があるので、そこで一生を過ごしたらどうだろう?
 自分もそこへ行きます、と言いかけたダイキを先輩が止めた。先輩職員は「考えをまとめておきます」とだけ答えた。部屋を後にしても、先輩はダイキに何も言わなかった。

 どちらが幸せかなんて、分かっている。けれど、子供のように世話を焼いてきたシエルを、里親に手放す感覚が、生まれて初めてダイキの心を重りで縛り付けていた。

 あるか分からない解決策。ダイキはそれを探し続けていたが、少なくともプールの底には落ちていなかった。



 開館したばかりの平日の水族館は、まだ閑散としていた。
 これから時計が回るにつれて、お客がじわじわと増え、人の流れができ始める。
 私服に着替えたダイキは、水族館の目玉のひとつである、ニ階分の高さのある吹き抜けの水槽の前を歩いていた。

 朝の仕事をやり終えたのち、ダイキが日課にしているのは、こうして館内を歩いて回ることだ。
 普段から裏方に専念している、ダイキのような立場にいる人間には、客の気づきが判りづらい。
 動物たちの水槽には、つい見落としがちになる死角があったりする。館内からガラスを通して見る視点は様々だ。男性、女性、大人、幼児、老人。その誰もが快適に過ごせる空間を提案するのも、飼育員の仕事だった。
 まあ、堅苦しい話を抜きにすれば、ちょっとした散歩と朝のゴミ拾いだ。

 回転するイワシの渦を見上げながら、ダイキは次のエリアに続く通路を歩いていった。
 ノコギイエイとアオウミガメのトンネルを抜けると、その先のドルフィンエリアにたどり着く。
 そこでショーステージの手前を左に曲がると、控えのイルカたちの様子を観覧できる、円形の小さな部屋がある。シエルを含めた子供イルカたちは、普段はここのプールで生活していた。
 ショーで集まる大人数に比べたら、この部屋はいつも全然人がいない。小さな子供たちがイルカに夢中になっている間、大人たちがほっとひと息つく、そんな場所だ。その為に中央には背もたれのあるソファを置いてあった。

 しかし今日、ダイキがその部屋を訪れた時、青いソファには誰も座っていなかった。
 そして二つあるガラスの一面に、朝だと言うのに人だかりが出来ていた。
 ダイキが観察してみると、一番前にたくさんの子供。そして後ろに壁を作る大人たちが列をなしている。肩車をしている親子もいた。

「なんだ?」
 ダイキは焦った。好奇心よりも、イルカたちに何かあったのかと心配になった。
 私服であることを利用して、大人たちの列に肩を入れさせてもらう。あまり高くない背を懸命に伸ばして、その理由を探した。

 そしてダイキは三回、驚くことになった。

渦輪(ボルテックス・リング)…」
 水槽の前の観客たちは、一匹のバンドウイルカが繰り出す水の手品に、すっかり魅せられていた。次々と飛び出す大小のリングが、つながったり千切れたりしながら、自由自在に水中を飛び回っていた。その舞台で生き生きと楽しそうに遊ぶイルカが、何とシエルだった。

 ダイキは胸が震えた。そんな遊びをするハクジラの話は聞いたことがあったが、まさかこの場所で、俺の子供が見せてくれるなんて…

 そして最後にダイキの注目は、ガラスの前に座る赤い帽子の少女に移った。
 その子は一番前でしゃがんでいて見えづらく、誰も気にしていなかった。けれど彼は気づいた。なんと指示を出しているのはその子だ!
 その証拠に、少女が指でガラスを叩く仕草と、シエルがリングを吐き出すタイミングが、完璧に同調していた。

 自分が最もシエルをよく理解している。そんな信念のもと世話をしてきたダイキだが、いまは鼻っ面を尾びれで引っ叩かれた気分だった。
 目が冷めた。シエルはまだやれる。こんな素晴らしい特技を、ただの遊びで終わらせるもんか!

 踵を返して、館長のいる中央オフィスに走り出そうとした時、ダイキは飼育員の(さが)でふと考えた。これが習性だったとしても、何がきっかけだったんだろう。教える者として、それを知る必要がある。
 彼は水槽に戻り、人混みの中から再び少女を探し出した。その横に膝をついて、声をかける。
「お嬢ちゃん…」

 肩に触れようとしたダイキの前に、黒いニット帽をかぶる男性がすっと割って入った。男は座っている少女をそっと抱えあげ、ダイキを見つめながら訊いた。
「何か?」
 少女は男の首に手を回し、こちらを探るように見ている。

 ダイキは思った。この二人のアーモンド型の目は、親子のようにそっくりだと。

空(そら)

空(そら)

ある水族館に生まれた小さなイルカの男の子。彼が求めるのは、人間の笑顔―― 生まれつきハンデを背負ったイルカと、一人の少女の出逢い、そしてやってくる結末。 これは少女とイルカが織りなす、結びつきの物語。 (全11話)

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更新日
登録日 2019-05-14

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