空(そら)

まきや 作

空(そら)
  1. 0. プロローグ
  2. 1. 誕生
  3. 2. ヒュー
  4. 3. 失敗
  5. 4. きっかけ
  6. 5. コッ・コ
  7. 6. 飼育員
  8. 7. 予感
  9. 8. 再開
  10. 9. ショー
  11. 10. シエル

0. プロローグ

 雨の降る晩だった。

 決して強くはないが、傘をささなければ濡れてしまう。その地に降っていたのは、そんな種類の雨だった。

 一台の車が、出来たばかりの水たまりを踏みつけて、道を走っていた。
 特徴もない銀色のセダン。四駆だったし、タイヤはそこそこのグレードの物を履いていたから、雨の中でも走りは安定していた。

 車内ではボリュームを抑えた優しいオルゴール調の音楽が流れていた。
 他に一定の間隔で、ゴムとガラスのこすれる音がする。雨滴を感知するワイパーが定期的に働き、フロントウィンドウの水滴を拭い去っていた。

「寒くないかい?」
 運転している細身の男性が、同乗している家族に尋ねた。
「だいじょうぶ」
 女の子の声が、男性のシートの後ろから返ってきた。

 男性は視線を動かし、バックミラーごしに、後部座席の様子を見た。車内は薄暗かったので、彼の目には最初、何も見えなかった。まもなくやってきた対向車が、すれ違いざまにフロントライトで、後部座席の様子をひと通り、照らし出した。

 彼の愛しい娘の小さな顔が、そして隣には妻の姿が見えた。

 暗い中でも娘は寝ておらず、なおかつ父の視線に気づき、小さく笑いかけてきた。クッション代わりに少女が抱いていた、大きなイルカのぬいぐるみ。その片方のヒレを手で持ち上げ、いたずらっぽく、挨拶するように振ってきた。父親も歯を見せた笑顔で答えた。

 娘の反対側の席には、優しい寝息をたてている妻がいた。ミラーの端に、妻の美しい寝顔が映っている。彼女の黒髪に、ときおり飛び込んでくるオレンジ色の街灯の光が反射していた。妻は眠りながらも本能的な動作で、その両の掌を、大きく膨らんだ自身のお腹に添えていた。それを見て、父親は自然と、愛おしさにあふれる、優しい笑顔になった。

 再び鳴るグッというゴムの擦れる音で、男性はふたたび視線と注意を、前方へと戻した。彼はさらに音楽のボリュームを落とし、暖房のダイアルをひと目盛りだけ動かした。

 今日は遅くなってしまった。彼は独り考えた。
 これから帰ろうとしている、彼と家族の住んでいる家は、海に近く、とても環境が良い場所だった。その代わり、近所には大きな病院がなかった。特に産婦人科などは、海沿いの道を通って、何キロも先の市の中心まで出なければならない。
 新しい家族を迎える為には、仕方のないことだ。それどころか、嬉しさの方が大きかったので、家族は誰も不平など口にしない。

 道が緩い登り坂に差しかかり、父親は少しだけアクセルを踏み込んだ。タイヤのトラクションが増し、車がカーブに吸い付いて綺麗に曲がっていく。

「あ、そうそう」
 娘が思い出したように言った。
「うちに着いたら、新しく買った歌を、聴かせてあげなきゃ」
 忘れないようにと、つぶやいたのだろう。その声に父は微笑んだ。

「明日にすれば。ママだって眠ってるんだ。赤ちゃんもきっと一緒だよ」
「嫌よ。きっと今日、聴きたいはずだもん」
「どんな歌を買ったんだい。タイトルを見せてよ」
 父親は明るく、質問した。

 娘は待ってましたとばかり、返事の代わりに、ガサガサとビニール袋を触る音を返した。やがてミラーの右半分に、何か赤い物が映ったのが、感覚でわかった。
 父親はもう一度バックミラーを見た。クレヨンで描かれた赤い花と、妖精の絵が見えた。

「可愛いね。ママと二人で選んだんだろ?」
「うん!」
 絵が引っ込んで、代わりに娘の心からの嬉しそうな声と、小さな笑顔が見えた。

 父親はさらに返事をしようと、口を開いた。


 ぱあっと、不自然なぐらい明るく、車内が光に照らし出された。
 ミラーに映る娘の顔から表情が消え失せ、目が見開かれていく。
 怪訝に思った父親は、すぐに異変に気づいた。

 父親の反応は早かった。ハンドルを握り直し、ミラーに注いでいた集中を、一瞬で前方へ引き戻す。
 だが反射神経とは別の次元で、その光景は、やけにゆっくりと、そして鮮明に動いていった。

 彼は声を出す事もできない。ただ傍観者のひとりとなり、起こる現実を見つめるしかできない。
 ワイパーがぎゅっと鳴り、扇型に、フロントガラスに垂れる雨滴全てを、拭き取っていく。

 次の瞬間、彼の目の高さに飛び込んできたのは、大型車の猛烈に輝く、フロントライトの光だった。

1. 誕生


 温かいものに満たされた袋に浮いて、くるくる回って、もじもじと動きながら。
 規則正しい、トクン、トクンと動く大きな波が、僕を安心させる。
 お腹の底がジンジンしてくると、ふわぁっと僕に元気が流れ込んでくる。

 柔らかな水の布団に包まれて、夢見て起きていつまでも、ずっと揺れる時間を過ごしていられたら、良かった。

 けれど、誰かがノックしたんだ。最初は優しい音で、徐々に強く、何回も。そのうち僕の身体がぐらぐらとゆすられて、全然寝ていられなくなった。部屋の隙間がきつくなってきた気がする。
 怖くなった僕は、小さな「手」とか「足」とかで、懸命に壁を押すんだけれど、動かしづらいし、ちょっと無理みたい。

 なんだか頭の方が冷たい感じがした。袋の水が減ってきたのかな? 思っているうちにも、どんどん身体が寒くなって、やがて温かい覆いが全部なくなった。水なしで袋の底に転がされていると。触れているお腹だけが温かい。トクンという波が直に身体に伝わってきた。

 また「うねうね」が強くなって、でも今度はねじるみたいに波打ってきた。ずるずると押され、身体が後ろに滑っていく。
 はじめての感覚にとても怖くなり、僕は手と足を(つっか)えさせて懸命に踏ん張った。何だか足と足がくっついて、うまく動かせない…僕は必死に抗った。

 イヤだ! イヤだ! もう少しここにいたい!

 いったんねじりの体操が収まった。壁も僕みたいに疲れたのかな…
 でもまたすぐに、動きが始まって、耐えて踏ん張って――その繰り返し。その運動は長い間、続いた。

 さすがの僕もヘトヘトだった。壁からくる波の周期も、どんどん不規則に、荒々しくなっていった。
 それより何だか、肩とか胸とかに、変な痛さを感じるようになってきた。身体もだるくて、奇妙なポカポカさが僕を包んでいく。
 それにつれて手足がうまく動かなくなってきた。

 いきなりジャンプしたみたいに袋がきゅっとすぼまって、僕の身体は一気に後ろに押し流された。頑張れる元気がもうないから、もう抵抗はしない。
 腰から足の先までが、とても冷たい水に触れた。初めての感覚に身震いしたけれど、もう怖さはなかった。

 水の中で、誰かが僕の「両足」をぐいっとつかんだ。今度は押す力に、引っ張る力が加わって、僕はどんどん、袋の出口に向けて、滑っていく。
 そこからは早かった。つるん、と音はしなかったけれど、一気に僕はその冷たい世界――これから生きていく海の水の中に、飛び出していった。

 上の方でパチパチと弾ける音や甲高い鳴き声がしていた。何だか明るくて楽しい音。

 生臭い僕の身体が水に洗われて、きれいになった。遠くの方で誰かが言った。さあ足を動かせ! 泳げ! その声を信じて言うと、僕は最初から泳げるはずだった。けれど水に流されてまもなく、僕の身体は顔を下にして沈んでいった。すぐに大きくて優しいものが支え、持ち上げてくれた。

 やがて僕の意識は、音のない世界の下に沈んでいった。

2. ヒュー

 僕はヒューという名前をつけられた。

 短くて、いい名前でしょう? 僕を呼ぶ時にママが出す、甲高い音なんだ。
 まだ大人にはなっていない。でも泳ぎは得意で、こうしてママにもついていけるし、ミルクだって逆さになっても飲めるんだ。

 大人が相手をしてくれない時は、いつも友達の二人と泳ぎっ子して、遊んでいる。ママたち大人は「狭いんだから大人しくして」と言うけれど、()()は全然広いし退屈しない(いちど、ここより広い所を聞いてみたけれど、ママは答えてくれなかった)。

 僕が友達と「違う」って思うことがある。息がどうしても続かないんだ。だから潜りっ子をしても、早泳ぎ競争をしても、絶対に勝てない。それと右のヒレがうまく動かないから、ターンする時に動きが遅くなるんだ。別にゴハンを食べるのに困らないからいいんだけれど。

 疲れた時はママの上に乗せてもらって、息を吸わせてもらう。その時「お前は、ママのお腹の中が大好きだったから、なかなか出てこなくてね。それで他の子より上手になるのが遅いのよ」なんて言うんだ。何だか納得できないな。
 でも尻尾を動かすのはとても上手で、誰もが褒めてくれる。何だか尾が二本あるみたいだって。それに口笛の旨さは誰にも負けないよ。

 いつもは青い壁の中で暮らしているんだけれど、少し大きくなったある日、僕らは初めて大きな家に移された。そこは家族全員がいても、まだ競争できるコースが二本も取れる広さだった。それに潜れる深さも全然違う。ママが言っていた広い世界って、この場所に違いないと確信した。

 ここで僕は、仲間たちが見せた行動に目を丸くした。
 コースの端まで悠然と泳いだその大人が、とつぜん腰と尾を巧みにしならせ、猛スピードで中央まで駆け込んで――

 大ジャンプ!

 彼は弧を描いて、そのまま見事に水の中に戻ってきた。顔を出していた僕と子どもたちは、目を釘付けにして、次々と仲間たちの華麗な技を見ていた。飛び散る水流を避けもせず、顔に浴びながら。

 だからここの場所は、空がとても高くて、水の底が深いんだ! そして僕たちは飛べるんだ!
 生まれて初めて心からびっくりして、ドキドキして眠れない一日になった。

 次の日からすぐに、僕たちの遊びが「ジャンプごっこ」になったのは言うまでもないよね。
 器用な仲間のひとりなんかは数日で、水の上に飛び出せるようになっていた。

 僕? 僕は頑張ってもあんなスピードは出せないし、尾びれで水を蹴っても、オデコが水面に出るだけさ。
 でも「まだ」なだけだ。いつか上手になるって、ママが言ってた。その時が来るまで辛抱しなさい。
 だから諦めず、毎日家の端の方で練習を欠かさなかった。まさか大人たちがその様子を、つらそうな目をして見ていただなんて、僕はまったく知らなかった。

 皆はどうかわからないけど、僕の家には不思議な所があった。

 家の片方は青い壁なんだけれど、反対側の壁は透けていて、まるで広大な水がその先どこまでも、遠く続いているように見えた。
 僕は好奇心を刺激されて、その先に行こうとしてみた。けれど何回チャレンジしても、固くて見えない壁に阻まれてしまって、その度にオデコに痛い思いをさせられた(そこをぶつけるとママがカンカンに怒るので、黙っていた)。

 友達たちはとっくに興味をなくしていたその壁の先。そこにいつか行ってみようと思い、僕はずっと諦めなかった。

3. 失敗

 僕と仲間たちがもう少し大きくなったある日、僕たちの生活に大きな変化が起こった。

 例のあの「先」の世界に、たくさんの――本当にたくさんの――小さな生き物たちが訪れ始めたんだ。
 大人に聞いたり、仲間とコソコソ相談した内容をまとめると、結論はこんな風になった。

 ・あれは「人間」がたくさんいるだけで、悪いものじゃない
 ・噛まれたり、傷つけられたりしない
 ・噛んだり、傷つけたりしたら駄目
 ・「ショー」つまり、僕たちがどんなに偉いかを見に来てる
  だからいつも「パチパチ」が飛んでくる
 ・理由は良くわからないけれど、人は水をかぶるのが大好き
 ・透明でぶつかると痛いのが「ガラス」僕らの家は「プール」「ステージ」だって

 正直小さな生き物たちの事はよく知っているし、人間は仲間だって思ってる。いつも僕たちに美味しい餌をくれるし、壁の掃除だってしてくれる。たまに僕たちの遊びにも付き合ってくれたりもする。
 大人たちですら、小さな人間たちとうまくやっている。だって大人が開いた口に人間が入っても、食べたりしないんだもの。

 それから僕は、人間たちを観察するのが日課になった。

 プールの前にあるたくさんの段々(階段というらしい)には、ママやパパ(あんなに小さいのに!)、さらにもっと細かい子どもたちが、砂の粒みたいにギュウギュウに詰められている。
 よくあんなに小さいのに、子供を間違えたりしないなって、いつも感心する。どこもかしこも甲高いピーピーの連続音。これは彼らが喋っているらしい。

 人間のおチビたちがまた楽しい。僕がわざとガラスの前を通ると、たくさん張り付いている子供たちが、目を光らせてこっちを追いかけてくるんだ。また戻ってきたり、逆さになって泳いだり、その度にピーピーが鳴り止まないから、見ている仲間とお腹を抱えて笑っていた。悪い仲間は口から水をかけたりしてた! 怖いって泣いている子には、クルクル回って、少しだけ長くいてあげる事もある。
 そんな生活だから全然退屈しなかった。相変わらずジャンプは上達しなかったけれどね。

 残念だけれど、ショーが始まる時間になると、僕たち子供は追い出されてしまう。そうなると、しばらく狭くて壁だらけのプールで我慢しないといけない。けど次は誰がどんな泳ぎをするか、仲間と相談するのはとっても楽しかった。



「☆△@@ーーー!! □◆△2L☆☆@@!!」

 意味は分からなくても、僕たちはその音をきちんと記憶している。ショーの終わりだ。
 いつもみたいに、たくさんのパチパチが水の中まで聞こえてきた。

 大人たちが滑るように家に返ってきて、お互いに仕事終わりの挨拶を交わしている。
 片付けが終わると僕らが泳げる自由時間がやってくる。僕たち子供は待ちきれず、周回のスピードを上げる始めた。やがて人間が青いネットの垣根を取り去ると、僕たちはさっと放射状に散って、それぞれ広い世界に飛び出していった。

「いるいる!」
 案の定、ショー終わりのおチビさん達が大挙して、ガラスの前に残っていた。その後ろには大人たちもいる。今日もたくさん楽しめそうだ。

 僕たちはプールの大外を並んで周りながら、誰がいちばん最初に行くかを決める、簡単な勝負をしていた。
 その結果、僕は運悪くビリになってしまった。まあいいや、今日はあの子たちを飽きさせない、楽しい仕かけを考えたんだから。

 まもなく大きな歓声が聞こえてきた。一番手のヤツだ。つかみは上々だね。
 ひとりずつガラスの前を一往復。その分の楽しみを終わらせて、友達が周回の輪に戻ってきた。身体にタッチされ、次のひとりが、ガラスの前に出ていった。
 今日は何やったんだいって聞こうとしたけれど、最初に戻った友達の様子が変だった。あんなにたくさんのパチパチをもらったのに、得意げな風もせず、不服そうな声で鳴いていた。

 もうひとりも同じようだ。歓声をもらっていたのに、戻ってくる時の様子がおかしい。しきりに頭を振りながら、ふらふらとして、泳ぎにキレがなかった。
 誰も原因を教えてくれないので、僕は不審になり、最初のやる気を失っていた。出番を引き継いだけれど、不安で蛇行しながら、ガラスへとゆっくり近づいていった。

 とりあえず最初は無難に、背ビレを見せて泳いでみよう。それでガラスの半分まできたら、くるっと一回転して、相手の様子をみてやろう。
 そういう作戦で僕のショーはスタートした。

 少し遠目の距離から腰を振ってスピードをつけ、身体をくるりと横に倒す。背筋をぐっと伸ばして、自慢の黒い背びれと胸ビレを目立つように伸ばした。観客の前を通る時はなるべく動かず、優雅に滑るようにするといい。
 すぐに背中の方から、子供の歓声が聞こえてきた。
 これで僕の最初の緊張が解けた。ビクビクしすぎて、損した! いたずら好きの仲間に脅かされただけだったんだ。それではと、予定通りなめらかに、身体をくるりと回転させていく。
 流れていく景色の中で、左目の端から人間の顔がたくさん、視界に入っていく。見れば大人も笑っている。今回は僕が仲間内で一番じゃないかって思った。

 回転が終わろうとしていたその時、僕は喜んでいる子どもたちの顔と顔の間に、まったく違う物をみてびっくりした。

 女の子だった。その子は他の誰ともまったく違う表情をしていた。
 僕は仲間から、人間の雄雌(おすめす)の見分け方を聞いていたし、人が楽しい時にするのは「パチパチ」と「笑顔」だって事も知っていた。

 だからわかった。女の子はまったく笑っていないって。

 僕たちは偉くって、強くって、格好いい。大人になったら人間を「笑顔」にする為に、ここで頑張っていると思っていた。
 なのにあんな顔をする人間を見てしまった。まだ子供の僕には、そんな心の準備が出来ていなかった。

 そうだ、まだ子供だから、未熟だから駄目なんだ。

 往復の半分を終えた僕は、さっそく奥の手を出すことにした。すぐに探査(クリック)音を出して、すばやく目的の物を探し出す。それはプールに浮かんだいくつかの赤いボールから垂れ下がっている、ロープだった。正確にその紐を歯でくわえると、それをぐいっと引っ張った。そうすれば、ボールが水中に連なって動く様子を、子どもたちに見せてあげられる。まもなく視界全部が、笑顔で埋まるだろう。

 けれど現実はそれを許してくれなかった。僕は二つの失敗を犯していたんだ。
 ひとつは、紐を取るのに夢中になって、息継ぎするのを忘れていた事。もうひとつは、そもそも今の僕が友達みたいに、機敏で正確に泳げない身体だって事。
 いきなり息が苦しくなって、呼吸をしようと水上に急いだ時にはもう遅かった。乱れた水流のせいで、ロープは僕の柔らかい体に、螺旋状に絡んできていた。
 溺れてしまうと焦った僕は、弱い助け声をあげた。

 異常を感じた仲間たちが、必死に水上ジャンプを繰り返した。おかげですぐに人間たちがプールに飛び込んできて――情けないけど――助けてくれた。二人の人間に挟まれて、僕は小さな家へと引っ張られて行った。その時に横目で見ていたけれど、ガラス越しの子供達の様子はわからなかった。


 ママには散々怒られた。

 その晩、僕は友人たちにガラスの前で何があったかを訊いてみた。そうしたら二人とも「大人が持つ四角い箱の強烈な光で、目がくらんだ」という同じ答えだった。
 僕は笑われるのを承知で、自分の体験を話してみた。そうしたら顔を見合わせた仲間に、本気で感覚器官(オデコ)の心配をされてしまった。
 馬鹿だな、人間の子供なんて、どれも同じにしか見えないよ。
 だから僕はそれ以上、何も言わなかった。

 僕は水面にプカプカ浮かびながら、ずっと考え続けた。水上に映るゆらゆら揺れる丸い月。丸い顔の子どもたち。赤いボール。
 あの子を笑顔にできなかった悔しさとか、未熟な自分への情けなさ。そんなもやもやした想いもあった。
 けれど、もっとすごく深い所で気づいた不思議なことが、心から離れなかった。

 どうしてか僕は、女の子のあの顔に、出会ったことがある気がしたんだ。

4. きっかけ

 それからしばらく、僕にあの大きなプールで泳げるチャンスは来なかった。
 それどころか、ひとりだけのプールに閉じ込められてしまった。いつもは優しい人間たちだったけれど、さすがに僕の行動に怒ったんだろうなって思った。
 でもときどき来てくれては、頭を撫でてくれたりした。本当は心配してくれてると気づいてからは、僕もあんなイタズラはやめようって思った――しばらくはね。

 僕が練習できないあいだ、友達たちはどんどん成長して、技を覚えていった。
 いちばん上手にできる一匹は、大人たちのショーに少しだけ出て、人間たちにジャンプをお披露目したんだ。
 ますます開く友達との差。面白くないな…青いネットの後ろで、弧を描く仲間たちの妙技をただ眺める毎日は、本当に退屈だった。

 そんな僕を見かねてか、人間たちは粋な計らいをしてくれた。
 僕の部屋の、青い壁のひとつに穴をあけて、道を作ってくれたんだ(最初から穴が開いていたのかもしれない。だって何となく壁が薄い気がしていたから)
 たぶん、お腹を見せて退屈さをアピールし続けたのが、効いたんだと思う。

 そのトンネルを泳いでいくと、先にはまた小部屋があった。角がない丸い部屋で、いままでの所よりも狭く感じた。だけどそこには、前の住処にはない仕掛けがしてあった。

 ガラスの壁だ! 僕は嬉しくなってケラケラ笑い、水面から飛び出そうになった。

 壁の外は暗くて、最初は良く見えなかった。けれどその暗闇から、ときどき大人や子どもたちが来て、僕を指差し、笑い、そして去っていく。あの大きなガラスの外と比べたら、ここに来る人間なんて数える程しかない。しかも天井までガラスがあるから、僕も人もお互いに音が全然聞こえないみたいだ

 それでも良かった。退屈がなくなるんなら大歓迎だ。この場所を独り占めできて、人間は僕()()を見ている。こんなに楽しい所はない!

 こうしてこの遊び場での僕の毎日が始まった。

 本当はジャンプの練習への未練を捨てていたわけじゃない。でもこの狭い場所では、とうてい叶わない。だから僕は違うことを頑張った。
 僕にはいろいろな遊びのアイディアがある。閉じ込められて暇だからといって、ただ浮かんでいたわけじゃない。この柔らかい頭の中で、たくさん研究していたんだ。

 口から小粒の泡を出しながら、ヒレをなるべく立てて、クルクル回って泳ぐ。そうすると水の玉が身体にまきついて、模様みたいに見えるって知ってる?
 水面に浮かんでる時に、いきなり力を抜く。するとゆっくりと周りながら底に向かって落ちていくんだ。水底ギリギリまで沈んで、子どもたちをできるだけ心配させたら、一気にバネを使って猛スピードで泳ぎ去る。復活した僕を、彼らが笑顔とパチパチで迎えてくれた。

 こうして毎日、技を考え、披露していくうちに、気づいた。何だか最初の時より、僕を見に来る人たちが増えている気がした。
 気のせいじゃない。だってガラスの前に張り付いている、子供と子供の隙間が少なくなってる。そして背後に立っている大人たちのも。

 僕は得意になった。ここはいい。僕だけの場所、僕だけのお客さん。いらっしゃいませ。ここに来れば、毎日違うものが見れますよ!



 その日はいつもより人が少なかった。
 まだ朝だったし、前の日が特に混んでいたりすると、翌日にそういう時がある。

 昨日張り切ったせいもあって、今日は練習を休む日にしていた。
 仲間たちも同じ気分らしく、水音は聞こえない。もうひとつのプールでゆったりと、大人しくしているようだった。

 浮かんでは沈みを繰り返して、肌に流れる水の感触に身体を預ける。こうしていると、耳がとても良く通り、いろいろな音が僕の柔らかい頭に入ってきた。
 繰り返し弾ける泡たち、仲間の歯のカチカチ、つながっているどこかのプールで聞こえる、リズミカルなこする音の繰り返し――これは人間が棒で掃除してくれてる時に聞こえる。そして硬くて規則的なコツ、コツというとっても小さな音。

 くるりと上半身を回転させて、頭をガラスの方に傾けた。いつの間にかそこに、影がひとつあった。
 人だ。一人だけ。とても小さい。頭にフワフワな赤い物をかぶって――人間は寒がりだから――赤い「服」を着ていた。
 プールの向こう側の床に座り、気だるそうに寄りかかりながら、細くて小さな指をガラスにあて、リズムを刻んでいた。

 コツ、コツ。

 僕は驚いた勢いでもう一回転してしまった。あの女の子じゃないか!
 そして今日もぜんぜん、笑顔じゃない。

 その子は、こんなに大きい僕が動いているのに、気にもしていないようだった。ごはんを食べれるとは思えないぐらい、小さな口。それを少し動かしながら、ひとり喋っているように見えた。
 いったんプールの端までいき、そこからゆっくりと、お腹を見せながら、通過してみる。ごく自然に、相手を見ていない様子で。
 駄目。僕の白い肌にも反応なし。
 僕にだって少しは誇りがある。ちょっと脅かしてみようと思い、奥からスピードをつけて、ガラスに向かってぐんと迫った。急旋回して水面までターン。これでどう?
 そこで女の子が、やっと顔をあげた。やったと思ったけれど、違う。彼女の興味は頭のフワフワの事だったみたいだ。

 僕は完全に自信を失っていた。もう外の世界が見えない、青い壁の部屋に戻ろうと、通り道の位置を探る音を頭から出した。

 いきなり女の子に動きがあった。指の動きをやめ、こっちを見ている。それだけじゃなくて、ちゃんと首を動かして泳ぐ僕を追いかけていた。
 さすがに笑ってはいない。けれど初めて見せるその子の表情に、僕はドキドキした。
 でもなぜ? あまりにも日常の事なので、何もしていないのにと思っていた。そうじゃない。僕はもう一度その「きっかけ」を試してみた。

 コツコツ

 少し早めのリズムでしっかりと、硬い音が帰ってきた。スゴイや! この女の子、僕の音が分かるんだ!
 興味津々の僕は、ゆっくりと降りていって、口がガラスに付くギリギリの所まで、その子に近寄ってみた。
 長い前髪に隠れて見えなかったその子の目が、初めて見えた。黒くて丸い、綺麗な瞳が二つ。僕が大好きなボールにそっくりだった。
 少女は何か言いたげに口を動かすけれど、僕にはわからない。
 ごめん、コツコツしかわからないんだよと、言うつもりで、音を返した。
 女の子は少し考えると、顔をあげて近づけた口をゆっくり動かしながら、ガラスを叩いた。

 コッ・コ

 そして自分に向けて指をさした。
 最初の音は少し強く、次の音は触れるぐらいに弱く。何か伝えたかったのだろうけれど、読み取れたのはそこまでだった。

 女の子が急に振り向いた。黒い大きな靴が二つ近づいてくる。大人だった。二人は何か強く言いあっているようだ。
 僕がもういちどプールを一周して戻ってきた時、その子は後からきた大人に抱きかかえられ、歩み去るところだった。

 暗がりに消える彼女は、少し寂しそうな顔をしていた。

5. コッ・コ

 いつも挨拶がそれから始まったので、僕はこの女の子を「コッコ」と呼ぶことにした。

 そしてこの出会いと発見は、僕の新しい楽しみになった。
 コッコは毎日ではないけれど、同じ時間に僕を訪ねに来る。いつも最初に会ったのと同じ場所に座って、僕を待っていた。

 コッコはいつも表情を変えないけれど、とても知りたがりだった。
 だからまず最初に、僕は自分の名前を教えてあげた。壁の向こうで、人間の彼女が僕の出す音を、どれだけ理解したかはわからない。けれどその音を受け取ったコッコの目は、これまでにないぐらい、興奮して輝いていた。

 最初は互いの名前を「発音」し、挨拶するだけで時間は終わっていた。けれどやがてお互いに、それぞれ持ち寄った音を交換しあうようになった。
 僕は仲間と交換する時に出す音で、コッコに聞こえそうな音を選んで、届けてあげた。
 楽しい/遊ぼう/つまらない/危険/集まれ。時には身体も使って、その意味を教えてあげた。いろいろな人間に試してみても無視されるのに、彼女だけはそのリズムを理解して、返してくれる。だから僕も自分を伝えるの夢中になった。

 僕もコッコからは素晴らしいものを受け取った。それは人の奏でる「(うた)」だった。

 僕らも詩を持っているけれど、遠くにいるたくさんの仲間たちに聞かせる為に歌う。
 コッコは詩を、僕に聞かせる為に歌ってくれる。額を水槽の壁につけて口を動かし始めると、とても心地よい波が、身体を通じて頭に伝わってくる。
 冷たい水の中にいるのに、温かさと柔らかいものに包まれて、とても懐かしい気分にさせられた。だから僕はお腹を見せて、精いっぱい気持ちよさを伝えて返す。

 コッコと逢えるのは本当に少しの時間だけ。必ず最後に大人が来て、彼女を連れて行ってしまう。
 別れの時の、コッコの暗い表情を見るたびに、僕はいつも辛い気持ちになった。

 僕はどうしても、少女に笑顔を送りたかった。
 それでずっと考えていたあるものを練習して、コッコに見せることにした。



 その日も少女はやって来た。

 お決まりの挨拶、そして今日はコッコの詩を最初に聞かせてもらった。
 それまで不安だった気持ちを、彼女の詩が洗い流してくれた。僕はちゃんとできるって。

 歌い終わったコッコが、額をそっと水槽から離した。小さく深呼吸をして、僕を見つめる。
 僕は今までにない言葉の音波を、壁に向かって送った。コッコが初めてのリズムに戸惑いながら、ガラスを細やかにノックした。

 たくさんの息を吸い込んだ僕は、プールの底近くに潜り、身体を固定した。水流が落ち着くのを待ってから口をすぼめて、空気の塊を瞬時に押し出した。
 最初は球体の空気の塊だった。もういちど軽く吹いてやると、それが潰れた小山のようになり、中央にぽっかりと穴があいた。残されたリング状の空気は、外へ外へと回りだし、やがて水中を漂う輪ができあがった。

 泡の指輪(バブル・リング)

 内側から外側へ。循環する空気の輪は、綺麗で安定した形を保ち続けた。そして水面近くまで広がりながら昇り、やがて消えた。

 コッコは広げた手でガラスをつかみ、その一瞬に目を見開いていた。

 まだ終わらなかった。続けてひとつリングを作った。間をあけず、さらにもうひとつ。すると先にできた輪に吸い寄せられて、次のリングが中をくぐり抜けていった。
 調子にのった僕は、たくさんの輪を作って、それを鼻で回したり、輪に触って分割して遊んでみた。すごい。何でもできる気がした。
 最後に残ったリングを口の中に入れて、演技を終えた。

 やった、成功だ! 僕は朗らかな気分で感情が高まって、クルクルと周り始めた。
 水面近くまできて、やっと観客を忘れていた事に気づいた。急停止して、今度はゆっくりと降りてガラスに近づいていく。

 コッコは無表情のまま固まっていた。ぺたんとお尻をついて、たまにする瞬き以外の反応がない。

 むかし失敗した時の、あの嫌な思い出が頭をよぎった。これで駄目なら、僕の引き出しには何も入っていない。
 その時、僕の喉に何かがせり上がってきた。それはいきなり来て止められなかった。

 ポコン。

 僕の口から出てきたのは、さっき飲み込んだ輪が分割して出来た、三つの赤ちゃんリングだった。

 それを見たコッコが、いきなり笑いだした。
 さっきまでの雰囲気とぜんぜん違う、本当に心からの笑顔だった。

 この子がこんな明るい顔を作れるなんて。
 聞こえないはずのコッコの笑い声がガラスを通り抜けて、水の中まで聞こえる気がした。

 どうしてか、この女の子が気になって、こうして一緒にいるようになった。
 説明はできないけれど、やっぱり僕は、この子の笑顔を知っている気がするんだ。

 コッコはすぐにいつもの彼女に戻った。そして今日もさよならの時間がやってきた。
 大人の影が見える前に、コッコはあわててガラスのすぐ近くに来た。そして小さな口を開いて息を吹きかけると、曇ったガラスを指でなぞった。
 ちょっと考える仕草をして、あわててそれを掌で消し、新しく何かを書き直した。それが終わったと同時に、コッコは抱き上げられ行ってしまった。

 さっきまで少女がいた場所の正面に降りる。僕には人の書いた物は分からないけれど、記憶はいい。
 だから彼女が残したそれを、ずっと大切に、覚えている事にした。


 う・と・が・り・あ

6. 飼育員

 ダイキは迷っていた。

 彼はこの水族館の中でもっとも若く、悩める飼育員のひとりだ。

 開館前からプールサイドで大きな長靴を履き掃除していた。デッキブラシに寄りかかりながら、ダイキは痛む腰を手の甲で叩いた。
 肉体的な悩みなら、全然良い。この広いプールを掃除するのは慣れてるし、腰痛だって休み明けの今だけで、すぐに治る。若いんだし。

 けれど我が子のように可愛い、バンドウイルカたちの問題となると別だ。
 ダイキ風に言わせてもらうと、あいつらは頭が良くて、スマートで、シャイで、イカしてる。最高だって叫びながら、双眼鏡で観察しているだけなら、実に楽だ。
 でもそれを仕事にしてしまうと、とたんに重労働が待っている。

 食べさせて、掃除して、体調の管理も欠かさない。まあ、それでも飼育員なら幸せだろう。けれど市営の施設ともなると、それだけとはいかない。
 俺の大事な仕事――悩みの素――が、もうひとつ重くのしかかる。教育という名の子育てだ。
 地方務めなのは覚悟でこの世界に入ったけれど、まさか子供もいない俺が、そんな悩みに晒されるなんて、思わなかった。
 先輩飼育員が言った。「お前は甘い」んだって。

 ダイキは後ろから大きいものにドンと突っつかれた。プールから顔を出す、やんちゃな子供イルカたち。オヤツが欲しいと言ってるのか、遊んで欲しいのか。

 彼は少し前から、研究機関付きの飼育員に、空きを求めたくなる気持ちと戦っていた。
 俺はこいつらに芸を仕込まなきゃならない。それが普通の飼育とイルカの飼育の違いだ。自然のイルカは芸なんてしない。いや正確に言うと、芸と同じ行動はする。だから人間はそれを利用して、芸に仕立てる事ができる。
 それは見事な技術であり、体系であり、飼育員の醍醐味でもある。
 ただそこに「いつでも」や「どこでも」の条件を付けると、途端にハードルが上がる。おまけに「どのイルカでも」を加えないといけない。
 仕込む対象が人で「歩く」「走る」「喋る」が芸になるのだったら、教えるのは簡単だと思うだろう。けれど――変な例えだけど――ヤクザな人に金を払って「走れ」と言って、彼は動くだろうか?
 イルカに極道のプライドや落とし前はないが、機嫌はある。体調もそうだ。ましてや子供たちは尚更きまぐれなんだ。

 ダイキは用具置き場の赤いボールを二つ、プールに投げてやった。子供たちはすぐに追いかけて泳ぎ出す。

 もうこの子らにも、芸の初歩を教えている。手間はかかるし、気まぐれな所はあるけれど、覚えは良かった。
 問題は一番小さな子供の「シエル」だった。

 イルカのお産は軽いと言われていたが、シエルの生は難産で始まった。ダイキはその場に立ち会った「産婆」のひとりだ。
 プールの中で、懸命に尻尾をつかんで彼を引き出した記憶は、いまでも鮮明だった。
 シエルは無事に生まれた。けれど出てくるまでに、少し時間がかかり過ぎた。
 大きな問題は心臓だった。通常の個体よりも血液を循環させる力が弱かった。過度の運動は心臓を肥大化させるという診断がでた。
 のちに判明したのだが、右の胸ビレにも多少の運動障害があり、中速以上の泳ぎに支障が出ていた。

 もちろん水族館(ここ)は、身体の具合が悪かったり、もともと不具合がある動物たちを、ムチ打って働かせるような施設ではない。
 けれどダイキの心には、わだかまりがある。
 一番好奇心があって、真面目で、素直なのはシエルだ。同情心なのかもしれないけれど、彼はそれをよく知っていた。
 だから何とかして、ここで他のイルカのように過ごさせてやりたい。そう思って館長に頼み込み、無理のない範囲で訓練を行ってきた。

 だが所長室に呼び出された今日、言い渡されたのは、シエルの移動予定の話だった。
 所長は先輩飼育員とダイキに伝えた。
 シエルは当館には向かないし、自然の中でも生きられない。イルカの生態研究を行っている、もっと小さな施設があるので、そこで一生を過ごしたらどうだろう?
 自分もそこへ行きます、と言いかけたダイキを先輩が止めた。先輩職員は「考えをまとめておきます」とだけ答えた。部屋を後にしても、先輩はダイキに何も言わなかった。

 どちらが幸せかなんて、分かっている。けれど、子供のように世話を焼いてきたシエルを、里親に手放す感覚が、生まれて初めてダイキの心を重りで縛り付けていた。

 あるか分からない解決策。ダイキはそれを探し続けていたが、少なくともプールの底には落ちていなかった。



 開館したばかりの平日の水族館は、まだ閑散としていた。
 これから時計が回るにつれて、お客がじわじわと増え、人の流れができ始める。
 私服に着替えたダイキは、水族館の目玉のひとつである、ニ階分の高さのある吹き抜けの水槽の前を歩いていた。

 朝の仕事をやり終えたのち、ダイキが日課にしているのは、こうして館内を歩いて回ることだ。
 普段から裏方に専念している、ダイキのような立場にいる人間には、客の気づきが判りづらい。
 動物たちの水槽には、つい見落としがちになる死角があったりする。館内からガラスを通して見る視点は様々だ。男性、女性、大人、幼児、老人。その誰もが快適に過ごせる空間を提案するのも、飼育員の仕事だった。
 まあ、堅苦しい話を抜きにすれば、ちょっとした散歩と朝のゴミ拾いだ。

 回転するイワシの渦を見上げながら、ダイキは次のエリアに続く通路を歩いていった。
 ノコギイエイとアオウミガメのトンネルを抜けると、その先のドルフィンエリアにたどり着く。
 そこでショーステージの手前を左に曲がると、控えのイルカたちの様子を観覧できる、円形の小さな部屋がある。シエルを含めた子供イルカたちは、普段はここのプールで生活していた。
 ショーで集まる大人数に比べたら、この部屋はいつも全然人がいない。小さな子供たちがイルカに夢中になっている間、大人たちがほっとひと息つく、そんな場所だ。その為に中央には背もたれのあるソファを置いてあった。

 しかし今日、ダイキがその部屋を訪れた時、青いソファには誰も座っていなかった。
 そして二つあるガラスの一面に、朝だと言うのに人だかりが出来ていた。
 ダイキが観察してみると、一番前にたくさんの子供。そして後ろに壁を作る大人たちが列をなしている。肩車をしている親子もいた。

「なんだ?」
 ダイキは焦った。好奇心よりも、イルカたちに何かあったのかと心配になった。
 私服であることを利用して、大人たちの列に肩を入れさせてもらう。あまり高くない背を懸命に伸ばして、その理由を探した。

 そしてダイキは三回、驚くことになった。

渦輪(ボルテックス・リング)…」
 水槽の前の観客たちは、一匹のバンドウイルカが繰り出す水の手品に、すっかり魅せられていた。次々と飛び出す大小のリングが、つながったり千切れたりしながら、自由自在に水中を飛び回っていた。その舞台で生き生きと楽しそうに遊ぶイルカが、何とシエルだった。

 ダイキは胸が震えた。そんな遊びをするハクジラの話は聞いたことがあったが、まさかこの場所で、俺の子供が見せてくれるなんて…

 そして最後にダイキの注目は、ガラスの前に座る赤い帽子の少女に移った。
 その子は一番前でしゃがんでいて見えづらく、誰も気にしていなかった。けれど彼は気づいた。なんと指示を出しているのはその子だ!
 その証拠に、少女が指でガラスを叩く仕草と、シエルがリングを吐き出すタイミングが、完璧に同調していた。

 自分が最もシエルをよく理解している。そんな信念のもと世話をしてきたダイキだが、いまは鼻っ面を尾びれで引っ叩かれた気分だった。
 目が冷めた。シエルはまだやれる。こんな素晴らしい特技を、ただの遊びで終わらせるもんか!

 踵を返して、館長のいる中央オフィスに走り出そうとした時、ダイキは飼育員の(さが)でふと考えた。これが習性だったとしても、何がきっかけだったんだろう。教える者として、それを知る必要がある。
 彼は水槽に戻り、人混みの中から再び少女を探し出した。その横に膝をついて、声をかける。
「お嬢ちゃん…」

 肩に触れようとしたダイキの前に、黒いニット帽をかぶる男性がすっと割って入った。男は座っている少女をそっと抱えあげ、ダイキを見つめながら訊いた。
「何か?」
 少女は男の首に手を回し、こちらを探るように見ている。

 ダイキは思った。この二人のアーモンド型の目は、親子のようにそっくりだと。

7. 予感

「あーかね、ちゃん」

 声が先にして、後から軽いノックの音が部屋の中に響いた。
 妙に明るくて、ノリの良い声。

「はい、どうぞ」
 か細い声で、少女の返事があった。声は病室のベッドから少し離れた、作業机の前から聞こえた。

 間もなく扉が開き、小柄な女性の看護師が入室してきた。
 看護師は扉を閉めるや否や、ウキウキしたステップで、少女のいる机の前に近づいてくる。

「また何か描いているのかな? あ、やっぱり」

 赤毛の看護師は少し無遠慮に、茜と呼ばれた女の子の手元を覗き込んだ。

 茜は特に嫌な顔もしなかった。
 少しの時間の付き合いだけれど、大人びた少女の感性は、この看護師の開放的な物言いや態度の裏に、特に悪気が無いことを見抜いていた。

 看護師は色鉛筆で描かれた青い動物の絵に、感動した様子で手を合わせた。

「可愛らしいイルカね。前に見せてくれた子? 名前は確か――」
「シエルっていうんです。この前、飼育員さんに名前、教えてもらいました。この子は生まれつき…」

 看護師はただ黙って茜の話にうなずいていた。そしてイルカについて説明を続ける少女を見つめる。
ふうんと、心の中で感心した。この少女はこんなに熱心に、話すことができる子なんだ。そして、本人は気づいていないかもしれないけれど、輝きの中でときおり見せる笑顔が、とても素敵。


 看護師が、茜という女の子を知ったのは、一ヶ月前のことだった。
 少女は、両脚に負った傷が原因の、歩行に関する障害を診る為に、ここに通院してきた。
 初めて医師と共に少女と会った時、その幼い子を見て、看護師はとても驚いた。何にも興味が持てず疲れ切った顔、とでも表せばいいだろうか。とても年齢相応の表情をしていなかった。肉体でなく、精神の病を患っての診察かと、一瞬勘違いした程だ。

 よくよく事情を聞いてみて、看護師は言葉を失った。

 車の事故。
 母と弟の喪失という大きなショックが、身体よりも魂を、暗い闇の中に閉じ込めてしまったのだ。

 だが何度か通って来るうちに、少女の表情に変化が見え始めた。

 何だろう…楽しみ? 希望? 同情?
 看護師には読み取れない何かの兆候が、少女の心の中に確実に見られた。
 茜の無反応だった瞳に光が戻り、父や医師の言葉に反応するようになっていた。
 光から闇、そして闇から光へ。人の心というのは、こんなに劇的に変化するものかと、看護師は再び驚かされた。

 しかも茜の父親から聞かされた理由。
 それは水族館で一匹のイルカと会うようになったからだ、という。

 少しでも医療にたずさわる身としては、はいそうですかと、鵜呑みにできる話ではなかった。

 けれどこうして今、目の前で生き生きとしている茜の顔を見、声を聞いていると、胸が温かい気持ちで満たされ、理由はどうでも良くなってくる。
 何がきっかけであってもいい。この子の中にある、もともとの力が叶えた奇跡なんだ。信じたって良いんじゃないかな。

 何度か少女に会ううちに、看護師はそう思うようになっていた。

「それでね、望月さん。この子はちゃんと芸ができて、見てあげる人がいないと、水族館に居られないんですって。だから飼育員の人に、協力してって、お願いされたの。」
「…それで茜ちゃんは夢中なんだ。優しいね」
 看護師の声は独り言だったので、茜には聞こえていなかった。

「だから決めたの。足の手術、怖いけれどやってみるって。そうしたらパパに連れて行ってもらえなくても、私だけでシエルに会いに行けるもの」
「本当に、よく決心してくれたね。お父さんも喜んでるよ」
「うん」
 茜はにこやかにうなずいた。その顔に以前のような暗い面影は、微塵もなかった。

「将来、茜ちゃんは飼育員さんになりたいのかな?」
 看護師はこの子の未来が楽しみで、聴かずにはいられなかった。

「ううん、私は花屋さんになりたい。自分でお店をやるの」
「そっか…いい夢ね」
「あ、パパが戻ってきた、かも」
 茜の視線が、個室の扉にはめ込まれたガラスごしに映る、黒い人影をとらえた。

「じゃあ、迎えに行ってあげようか」
 看護師はベッドの脇から、折り畳まれた車椅子を出し、茜の座る椅子の前において準備した。
 茜は手だけの力で、器用に椅子に移り座った。

 看護師が後ろに伸びるハンドルをつかみ、茜の乗る車椅子を扉の前へと進めていく。

「…それは…本当…」
「ええ…実は」
 近づくに連れて、廊下で喋る大人の男性の声が聞こえてくる。
 ひとりではない。誰かが父親と、扉のすぐとなりで、立ち話をしているようだった。

「お父さん、ちょっと驚かせちゃおうか?」
 看護師が茜の耳元で、イタズラっぽく囁いた。
 茜はつられて笑いそうになり、口を押さえた。首を縦に振って同意を示す。

 音を立てないように近づいていくうちに、外からの声が鮮明に聞こえてくるようになった。

「娘がこの時期になって、手術に応じてくれて本当に助かりました」
「では術後の経過次第では、一ヶ月も経たないうちに、転院できるかもしれませんね」
「ええ」
「娘さんは…納得されているのですか? その…【水族館のイルカ】との事を…」
「…正直まだ、話はできていません。手術を受ける事と、私たちがここを去ることは、直接結びついていませんので…」
「そうですか。でも寂しいでしょうね」
「隠すつもりはないのですが…
 ははっ、子供が大きくなるのは嬉しいのですが、納得するように物事を説明するのが、だんだんと難しくなってきています。父親失格ですね」

 バンと、前置きなしに扉が開いた。
 驚いたのは父親だけではなかった。医師も看護師も、居合わせた大人全員が、その場に硬直していた。

 扉を開けたのは部屋の中にいた茜だった。
 勢い余って車椅子から落ち、床に手をついて前のめりになっていたが、顔だけは父親の方を向いていた。

 娘のそのあまりにも切ない表情に、父親は思わず言葉を失った。

 そのまなこに浮かぶのは、かつて茜を支配していた心の闇の片鱗ではなく――ただただ深い、悲しみだけだった。

8. 再開

 コッコへのお返しは、想像以上に色々な人の目に止まったみたいだ。
 ガラスの壁の前は、今日も明日も明後日も、いつも人がたくさんいるようになった。誰もが僕を見に来ている。子供も大人も。
 いつも通り楽しかった。何か変な物(たぶん人間の言葉だ)が、壁にペタペタと貼られて、ちょっと見通しが悪くなったのは別にして。

 前にも増して、僕に餌をくれる人間が、声をかけてくれうようになったのも、嬉しかった。
 仲間の妬みはなかったかって? そりゃあ、少しは変な声も出されたけれど、すぐにこの技を教えてくれって、せがまれた。
 隠すつもりはないから、僕は惜しみなくコツを教えてあげた。でも輪を自在に操れるのは、大人を含めても、僕だけだった。

 すぐにもっとスゴイことが起きた。
 あの大きなプール。ついに僕があそこに戻る時が来た!
 出番は少し、大人たちのジャンプの合間にやる小さなショーで、相手は子供たちだ。大きなプールは前面すべての壁が透けている。呼ばれた僕はいちばん前まで出ていって、いつもみたいに泡のリングで遊んでみせた。その時には人間の合図で、泡を出したり食べたりできるようになっていた。
 時間は短いけれど、より大きなパチパチと笑い声が水の中でも聞こえるので、とても気持ちが良かった。
 本当はジャンプも見せたかった(これでも練習しているんだから)。でもまた勝手なことをやって、閉じ込められたら困る。大人になって、そこは我慢した。

 コッコも、僕のことをちゃんと見ていてくれた。でもその時間は変わって、ショーの間だけになった。彼女はいちばん前の椅子に座っていた。ガラス越しに見える彼女は、少し遠くなったけれど、いつもと変わらず笑顔でいてくれた。だから僕も頑張れた。
 残念なのはあの詩が聞けなくなったこと。疲れた時にあの波があると、とても癒やされるんだけれどな。今でも寂しい時は、あの温かい感触を思い出して眠っている。


 すっかりショーに出るのがあたり前になった毎日。けれど、良い悪い関係なしに、変化は突然やってくるんだ。
 いつものように時間になり、笛で呼び出された僕は、大きなプールを一周してから、観客の前でお辞儀をした。そして頭をあげた時、すぐに気づいた。
 コッコがいない。

 昨日も、おとといも。それがついには一週間になった。あの子と出会ってから、会えない時間がこんなに続いたのは初めてだった。
 二回目の笛の音がすると、僕は気を取りなおして、いつもショーをこなす。そしてさようならの挨拶をする。最後にもういちど見ても、やはり彼女はいない。

 小さな不安が積み重なったせいか、僕はショーの間、演技に集中できなくなってきた。そして得意だったあのきれいなリングが、うまく作れないようになってしまった。
 気を使ったのだろう。人間たちは、それから僕をショーに出さないようにした。さらにあの小さなプールのガラスを、青い壁でふさいでしまった。

 いったん外に出て人に喜ばれることを覚えた子イルカにとって、退屈な生活は罰に近かった。けれど、どうせコッコはそこにいない。あの子に見せるために、僕はこれを始めたんだから、もうどうでもいい。僕はどんどんと暗い気分で、滅入るようになった。人間たちの心配も気にせず、日中も浮いているだけの時間が多くなった。


 どれくらい経ったか、数えるのも忘れていたある日、とつぜん壁の幕が取り払われた。
 僕はあまり反応をみせず、ただ外を眺めた。何も変わらずあっちは暗かった。またガラスの向こうに人が来る。芸をするのが億劫だなと思っていたら、案の定、誰かがやってきた。

 最初に、僕の世話をしてくれる人の脚が見えた。帽子を被っている。彼が誘うように手を降ると、背後から不思議なものがやってきた。
 それは人がいつも座っている椅子に似ていた。けれど大きな丸い輪が付いていて、車みたいにスルスルと滑ってくる。照明の外からやってきた椅子の上に、最初に小さな靴が見えた。それが白い足になって、やがて手が見えて――

 コッコ?

 そこに座っている女の子は、僕の知っている少女じゃなかった。違う。()()()()()少女だ。昔に見た、暗い顔をして深い海の中に心を沈めていた頃の。
 帽子をかぶっていたので、陰になって余計に目が見えなかった。

 コッコ!

 僕は不安になって、彼女の名前を音で呼んでみた――何もない。
 出会った頃に教えた音をいくつも出す。強く、低く――無反応。
 最後に見せたリング。

 少女は僕たちが遊びで使うゴムのおもちゃのように、まったく動かなかった。

 こんな時、人だったらどんな音を出すだろう。たぶん同じだ。僕はイルカで、そして鳴き声が出なかった。
 コッコが来ないことも嫌だけれど、暗い顔でここにいる彼女を見るのは、もっと嫌いだった。
 人間は悪いものじゃないと、僕は言った。訂正するよ。僕は人が、コッコが好きなんだ。

 悲しみのあまり、僕は助けを呼ぶ時に似た、鳴き声を出していた。

 近くのプールで、大きな水音と振動が響きはじめた。僕の声に驚いて、心配した友達や大人たちが、騒ぎ始めたようだ。
 外にいる帽子の世話人が、あわてて胸から何かを取り出して、喋り始めた。水の上からも人の足音がして、周囲が慌ただしくなる。

 大人の手が見えて、少女の乗った椅子が、来たときと同じように後ろに滑っていく。
 最後に見えたコッコの小さな手は、ギュッと握りしめられて、小さく震えていた。


「落ち着いて良かったですね、ダイキさん」
 若いアルバイトの飼育員が、流れ落ちる汗を拭った。
「興奮したアイツらを見るの、初めてっす」
「シエルが【呼んだ】んだ。あんなに反応するとは思わなかった」
「え?」
「いや、なんでもない」
 再び水槽のガラスをブルーシートで隠し終えたダイキも、帽子を脱いで、タオルで汗を吹いた。

 落ち込んだシエルにあの娘を見せようと提案したのは、ダイキだった。一般人を巻き込む事に、館長は渋っていたが、ショー再開の為と説明して何とか納得してもらった。
 彼なりにシエルの調子を心配して、何とか考えた策だったのだが――ダイキは少し後悔した。
 イルカは賢い。シエルは特に。
 あいつにはきちんと見えていた。少女が普通の状態じゃないと感じ取っていた。元気にさせるどころか、逆効果だったかもしれない。

「ダイキさん」
 少女を車に乗せた父親が、戻ってきて声をかけた。
「申し訳ありませんでした。お嬢さんに、怖い思いをさせたかもしれません」
 父親は首を振った。
「そんな事はありませんよ。娘は入院している間、看護師に良くイルカの話をしていたようですから。最後に少しでも見れて良かったでしょう。」
「なら良いのですが」
 父の言葉尻に反応して、ダイキは無念そうに訊いた。
「あの…先日のお話なのですが、ご出発の時期は決まったのでしょうか」
「本日のもうひとつの話題はその事でした。手術が成功して、こうして出歩ける許可を頂きましたから、再来週にはここを発とうと思っています」
「再来週ですか…」
「向こうに良い転院先を見つけましたし、私の仕事場も近いので、家族には良い環境です。そうですね、良い水族館も見つけられるでしょう」
 最後は冗談っぽく言った。

「ダイキさんには感謝していますよ。ここにはたまたま娘の願いで来ただけなんですがね。イルカを見せ続ける事が心の治療になるなんて、私には思いもよらなかった」
 父親は困ったように笑った。
「おかげで娘が笑うようになりました…そう、この土地は私にとっても辛いのです。二年前の事故を思い出してしまう。特に娘は…茜はそれから、泣きつくして、笑顔を忘れていましたから」
 時計をみた父親が荷物を背負い直した。
「すみません、娘を待たしているもので…ではこれで」

 父親の言葉を黙って聞いていたダイキが帽子を取り、ばっと頭を下げた。
「あの! 差し出がましいお願いなのですが…最後に、シエルの出るショーを、お嬢さんに見て頂けないでしょうか? もちろんご本人が嫌でなければの話です」
 事情がわからず聞いていたアルバイトも、あわてて先輩に続き、お辞儀をする。
 父親は困惑したようだったが、最後に笑って答えた。
「そうですね、娘に聞いてみます。では失礼します」

 少女の父親が去った館内で、ダイキは飼育員として、シエルの親として、自分のできる役割を黙って考えていた。

9. ショー

 水族館の食堂のテレビが、その日の天気は晴から雨になると伝えていた。

 ダイキの心配をよそに、お昼の最初のショーは予定通り行われるという放送が流れた。
 父娘(おやこ)の来る時間からすると、出番は午後ニ回目のショーになりそうだ。お客さんには申し訳ないが、シエルのミニ・ショーはサプライズ扱いで、一度きりのプログラムを組ませてもらった(女性飼育員と交わした、明日の昼をおごる取引の成果だ)。チャンスは一度きりとダイキは考えていた。

 映画のような豪勢なオープニングテーマが聞こえてくる。ダイキのいる場所から観客席を見ると、お客の入りは上々だった。彼はシエルの様子を見にステージの袖を離れた。

 シエルはいつもと変わらない様子で、悠々とプールを泳いでいた。
 ダイキはこの一週間、シエルに付きっきりで技を教えていた。子イルカは飽きるのも早く、すぐにイタズラや別の遊びをする。けれどシエルは集中して練習をこなしてくれた。
 プールに手を入れると、シエルが顔を出し、伸ばしたダイキの手に鼻を擦り寄せてきた。
 このショーの意味をお前に教えることは出来ないけれど、大丈夫。俺に任せておけと拳に心を込め、ダイキはタッチを返してやった。

 そんなダイキの自信とは裏腹に、天候が一気に変わり始めた。
 いやな西風が吹き始めて、流れの早い灰色の雲が空の青さを隠し始めた。

「っくしょー、次まであと少しなんですけどねえ。これ、行けますかね」
 バイト君が天を見上げて、落ち着かない様子でつぶやいた。
「大丈夫」
 ダイキは空を見ず、帽子のつばの下で、まっすぐにステージを見つめていた。
 やがて無情の一滴が落ちてきた。水面に小さな輪が浮かび始める。それはひとつ、ふたつと、やがて数えることが出来なくなっていく。
 バイトスタッフたちが、急ぎ集められ、客席の椅子をタオルで拭き始めた。
 これ以上強くならないことを祈るしかない。ダイキはテレビの占いを信じる人間ではなかったが、今日ばかりは自分の星座が上位であることを祈った。

 まもなく招待客の到着を知らせる内線が鳴った。
 ダイキがサービスセンターまで出迎えると、父親が傘をさして待っていた。娘は車椅子だったが、大きなタオルを持っているだけで、レインコートは着ていなかった(年頃の女の子らしく、雨具をつけた格好が気に入らないらしい)。
 ダイキは父親の表情で、言いたいことの八割が分かった。来てみましたけれど、この天気で大丈夫でしょうか?
「ご案内します」
 多少強引に、若い飼育員は彼らをステージの一番前まで案内した。そこにはダイキの指示で、車椅子用のスペースとビニールを被せた椅子を確保しておいた。

 風が強くなったせいで、雨滴が地面にあたる音が増えてきた。すり鉢状のステージを見あげていくと、レインコートの客以外は殆どおらず、傘を畳んで帰る客の背中が見えた。
 娘の父は頑張って傘を両手で支えていたが、表情が険しくなっていた。娘はタオルを頭からかぶり、表情が読み取れない。膝下が濡れるのも構わず、ただじっと開演を待っているようだった。

 ダイキは腕時計をチラリと見た。開始のアナウンスの時間が迫っている。
 自分のセッティングの時間を考えると、そろそろバックステージに戻らないといけない。二人に断りを入れると、彼は客席の前の通路を走った。

「ダイキさん、早く!」
 裏に入ると同時に、衣装を用意していたスタッフが、着替えを持って飛び出してきた。
 ダイキは防水のジャージを脱ぎ捨て、衣装のズボンに片足を突っ込んだ。

 その時、柱のスピーカーから放送が鳴り始めた。
「本日はお足元の悪いなか、市営水族館にお越しいただき、まことにありがとうございます。ここで皆様にお知らせがございます」
 ダイキの背中に嫌なものが走った。
「本日の午後に予定しておりました、イルカのダイナミック・ジャンプショーですが、天候不順の為、本日の残りのショーについては、全て中止とさせて頂く事になりました。ご来場中の皆様には大変――」

 ズボンがずり落ちた。
 終わった。
 彼女に振られた大学のあの日に匹敵するぐらい、ダイキの人生の中でも最悪な瞬間だった。
 この一週間の間の俺とシエルの努力、あの父娘の時間。そいつらが泡みたいに弾けて消えていく。過去の時間だけじゃない。俺は最も大事なシエルと少女の、これからの思い出も奪ってしまったんだ。ダイキの足は力をなくし、膝から地面に崩れた。

 ブーイングこそ起きなかったものの、観客たちの不満の声は止まなかった。ポンチョの客たちも顔を見合わせ、重い腰をあげて去ろうとしていた。

 突然、甲高いハウリング音が響いた。館内放送ではなかった。一本の拡声器ごしの女性の声が、その場全員の注意をステージの中央に集めた。
「イルカショーの中断、誠に申しわけございませんでした」
 いつの間にかあらわれた一人の女性スタッフが、深々と頭を下げていた。ダイキは目を見張った。あの女性飼育員だ。
「すでにご案内したとおり、通常のプログラムによるショーはお楽しみ頂けません。しかしながら、どうしてもここで、お見せしたいものがございます」
 息継ぎの間に、女性はダイキのいるバックステージに振り向き、すばやく右手を回した。「続けて」の合図だった。
「それは、可愛い小さなイルカ、一匹だけの短いミニ・ショーです。生まれつき、少しだけ皆と違う身体で生まれた為に、ひっそりとステージの隣で暮らしてきた男の子です」

 ダイキが立ち上がった。頭に血が回り、目に光が戻ってきた。彼はすぐに残りの衣装を着込み始めた。
 客席を見ると、全員がその場に立ち止まって、中央に注目していた。

 放送は続いた。
「彼はまだ大人ではありません。けれどもコツコツと練習して、素晴らしい技を手に入れました。ご存知の方もいるかもしれません。それは【バブルリング】です」
 驚きの声、そしてひとつ、ふたつと拍手が始まった。知っているものは大きな音で、知らないものはこれから起きる何かへの期待感で。やがてそれは大きな「パチパチ」の波になった。

 着替えの終わったダイキが走った。シエルとショーステージを遮る青いネットにたどり着くと、懸命に網を巻取っていった。

「でも彼はまだ、ジャンプにチャレンジしたことがありません。身体の中にある大きなブレーキが、激しい運動の邪魔をしているのです。でも今日は――今日だけは、彼は飛びます。彼に生きがいを与えてくれた、ひとりの女の子の為に。本当に短いショーです。けれど皆さん。見てあげて下さい…バンドウイルカの…」
 彼女は両手を天に向かって指差した。
「シエルです!!」

 すべての網が引っ張り上げられた。シエルとステージを遮るものは、もう何もなかった。ダイキは広いプールの中央を指さして、大声で叫んだ。

 「ゴー! シエル、ゴー!!!」

 同時に吹き鳴らしたダイキの笛の音が、ステージから灰色の空に昇るまで、ずっとずっと鳴り響いていた。

10. シエル

 僕は飛んだ。
 
 着水はまだまだ下手だった。でもジャンプの高さは良かったはず。だって階段に座るお客さんの顔が、ちゃんと上から下まで見えたから。
 そして――もしかしたらと思っていたものも。

 コッコ。

 赤い帽子は被っていなかった。でも彼女だった。
 よく見ると頭から下まで、ずぶ濡れになっていた。コッコもやっぱり他の人間みたいに、水をかぶるのが好きなのかな。
 だって外は雨が降っているけれど、水避けの透明な幕を持っていないみたいだし。

 でもおかげで、彼女の姿がよく見えたんだ。それがうれしかった。このショーでいちばんの元気をもらった。
 コッコは本当に素敵な笑顔で笑っていた。目の下にたくさんの水たまりを作って。

 じゃあ僕からのお返しをするね。
 次にジャンプした時に僕の鳴き声を聞いてね。僕らの言葉でいうよ。
 ありがとうって。



「最後にお礼を言わせて下さい。これで二度目になりますが」
 娘の父は満面の笑みで、ダイキに握手を求めてきた。ダイキは照れながらも、その手に力をこめて応えた。
「それに娘のわがままを聞いてもらって申し訳ありません。最後にどうしても、シエル君に会っていきたいそうで」
「本当にここからで、よろしいのですか? 何なら直接プールサイドからでも、いいんですが…」

 少女はその会話を聞いていた。大人たちに向かってかぶりを振った。
 彼女はあの時と同じように、赤い帽子をかぶり、ガラスの前に座っている。掌を水槽につけて、じっとシエルを眺めていた。
 少女が口を開いた。
「私、あなたにたくさんの勇気と幸せをもらった。けれど返せるものはこれしかない。ママのお腹にいた、大事な弟に聞かせていた歌なの。受け取って」

 彼女は額をガラスにつけて、歌いだした。
 かすかで、空気を震わせるには弱いと感じるぐらいの音。なのにその声を受け取っている向こう側のシエルが、とてもリラックスした気分で漂っている。
 初めて体験するダイキには、不思議な現象だった。

「ところで最初に聞こうと思っていたですが、なぜ彼はシエルという名前なのですか?」
 唐突な父親の質問に驚いたダイキは、少女とイルカの邪魔をしないよう、耳元で答えをささやいた。。
 父親は目を見開いた。そしてしばらく考え込んでしまった。やがて彼はダイキに向かって、耳打ちを返した。
「ほ、本当ですか!?」
 今度はダイキが黙りこむ番だった。彼は考え、悩んだ末に父親に、視線を送った。父親は意図を察し、無言で首を縦に振った。

 歌い終わった少女は、祈りを終えた後のように、恍惚とした表情で、静かな余韻を味わっていた。
 ダイキはゆっくりと少女の横に座り込むと、耳もとで静かに「そのこと」を語った。

 それを聞いて少女は振り向き、ダイキを、そして父を見つめた。再び向き直って、何ごともなく泳ぐシエルに視線を注ぐ。
 彼女は胸に手をあて、うつむいた。記憶がひとつひとつ、蘇ってくる。どれもが愛しい記憶だった。少女の目は潤み、涙がこぼれ落ちていった。心が静まるまで泣いて、少女はようやく顔をあげた。
「もういいかな?」
 父が訪ねた。少女はひとつだけと、ジェスチャーをして、ガラスに顔を近づけた。
 息をはいてガラスを曇らせ、そこに文字を書く。消して、また書き直した。シエルが間近に来て、その様子をずっと眺めていた。

 少女は様々な願いをこめて、ガラスのすぐ向こうにいるシエルに額をあわせ、最後の挨拶をした。

  さようなら、私のかわいい(シエル)

 やがて父に抱きかかえられた少女は、出口に向かう通路へと消えていった。


 二人を見送ると、ダイキはかがみこみ、少女がいた場所に書かれた文字を見た。少し考えて、理解した。

 ら・そ

 シエルはその文字の前で、ゆったりとした水槽の流れに身をまかせ、いつまでも漂っていた。


空(そら) おわり

空(そら)

空(そら)

ある水族館に生まれた小さなイルカの男の子。彼が求めるのは、人間の笑顔―― 生まれつきハンデを背負ったイルカと、一人の少女の出逢い、そしてやってくる結末。 これは少女とイルカが織りなす、結びつきの物語。 (全11話)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-05-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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