語りの人

まきや 作

語りの人

語りの人

 幾重に重なり、整えられた紙の束。

 紙の上に印字された文字たちは、ところどころ、使い込まれたトナーのせいで、黒色が薄くかすれている。

 挿絵も図も何もない。そっけない文章の羅列が1ページ目から始まり、延々と続いていく。

 そこかしこに訂正の赤が書き込まれ、1行が根のように複雑に枝分かれしている。

 単語だけではない。文や段落、下手したら節までが、サインペンの四角で囲まれ、削除や移動の矢印が引かれている箇所も少なくなかった。

 普通の人が見れば、その落書きのような紙は汚らしく映り、まったく読めないだろう。

 文書を伝えるプロ(アナウンサー)がそれに、声を出してチャレンジしてみたとする。まず非常に追いづらい文章に手こずる。訂正の矢印を追いかけるせいで、視線が前後に揺さぶられるのだ。彼らでも途中でつかえるのは間違いない。なんとか読めたとしても、機械的に文字を音にできただけ。読んだ本人の頭にも、聞かされた方にも『意味』が入ってきていない。

 それほどこの紙の判読は、やっかいなものだった。

 しかし今、この原稿を両手でつかみ、食い入るように目を近づけている中年の男にとって、紙の上の様子は違って見えていた。

 両目がものすごい速さで、黒い文字をつかまえては離していく。いちど捕らえた文は即座に捨てていた。それで構わない。なぜなら一瞬で脳に文章が定着しているからだ。

 彼の見え方をイメージで説明すれば、読み終わった箇所は真っ白に塗りつぶされ、紙上から完全に消えている様にみえた。

 だが読み進むうちに、赤い修正のインクが飛び込んでくる。これがこの文章のやっかいな所だ。

 けれどこの特別な読み手にとって、訂正の二重線は何の邪魔にもならない。彼には赤い線が文字ではなく、生き物に見えた。黒い文字を喰って消滅させたり、別の形に吐き出して意味を作り変える役割の虫たち。彼はその結果だけを着実に読み取っていける。文章の訂正表記が彼の読み取るスピードの妨げになることは、全くなかった。

 では時々あらわれる、気まぐれな四角を見た時、彼は立ち止まるのだろうか。それは柵みたいに文や段落を、容赦なく囲んでいる。行き場を失った文字たちの気持ちを考えてみるといい。行き詰り、息詰まり、苦しそうだと彼は思う。文字たちは繋いでいた手を千切られ、意味は孤立し、窒息させられる寸前だった。そうした文字たちを救うジェットコースターのレールのような矢印が、彼には天から示される救いの道に見えた。移動先の文字と文字の間におさまって、文は再び息を吹き替えし、新たな意味を形成するのだ。

 この混み合った文章の引越し作業は、彼の意識下で行われる。そのため彼の視線の道に渋滞は存在しなかった。

 これらの説明は若干比喩的で、本当の見え方は彼にしか理解できない世界だ。

 けれど実際に、読み込みの前工程(まえこうてい)の作業が一瞬で処理される為、周囲のスタッフから見れば、このアナウンサーが原稿を読み終えるスピードは、速読の域に感じられた。

 そして彼が本当の力を発揮する舞台は、これからだった。


「こんばんは、夜7時のニュースです」

 最初の決まりとして、深々と挨拶するアナウンサーの男性。紺のパリッとしたスーツとダブルノットのネクタイが、少々堅苦しい。オールバックで乱れのない髪には、もう何十年も同じメーカーの整髪料が使われていた。

 見た目は若く見える。ただ彼の年齢は五十をとうに過ぎていた。生まれつきの白髪体質もあるけれど、ほとんど黒が混ざっていない銀髪は、彼がだいぶベテランである事を示していた。

 出演者側から見える大きなモニタに、視聴者に送られている電波と同じ映像が映っていた。アナウンサーの胸の辺りに白いテロップで『神浦(かみうら) (たけし)』と出ていた。

 男性はニュースの原稿を手元においたまま、視線を変えずに、最初のニュースを読み出した。


「あいかわらず、本番の時はまったく原稿を見ないんですね、(しん)さん」

 メイン照明の当たらないスタジオの壁際で、アナウンサーが語る様子を注視する二人組がいた。

 ひとりは腕組みをしている中年の男性で、恰幅が良く、ダブルのスーツがよく似合っていた。彼は問いかけにも、ずっと口を閉じていた。

 感嘆のつぶやきを漏らしたのはもう片方の、温かそうなハイネックのセーターを着た、髪の長い男性の方だった。

「それでいて全く口調によどみが無い。間違えることも、詰まることもゼロなんですから……信じられませんよ」

「ああ、それだけが神浦の取り柄だからな」

 スーツの男性は、ほとんど感情を表に出さずに答えた。口を動かすと同時に、絡んでいた腕を解いて、組み替えようとする。首からかけていたネームホルダーが腕の下から表に出て『プロデューサー』の文字があらわになった。

「それだけ、ですか……確かにベテランですけれど、他の方には無いすごい能力だとは思いませんか?」

 プロデューサーよりも明らかに若いアシスタントの彼は、上司の評価を聞いて食い下がった。

「そりゃあ、誰だって事前に10回も原稿を読み直す時間があれば、同じことができるかもしれません。でも神浦さん、渡された原稿に目を通すの、たった1度だけって聞きましたよ? どんなに急な差し替えが入っても瞬時に覚えて、対応しちゃうんでしょ? あの人しかできない事です。流石としか言いようが無いですよ」

「だから、『それだけは』って言ったんだ。否定していないだろう」

 プロデューサーの感情が『平静』から『やや不機嫌』に、ひと目盛り出力が上がった気がする。少なくとも、そんな声になった。

「原稿渡して読ませている分には、あいつに敵うやつはいないだろうさ。意固地になって便利なもの(プロンプター)を使わないコダワリとか、自分で勝手に原稿を赤入れしちまうクセ(・・)があるにしてもだ。それがどれだけ危ない事か、誰にだってわかるよな? アナウンサーでそんな暴挙が許されるのは、(うち)には神浦ひとりしかいない。だがな、あいつは馬鹿なんだよ」

「馬鹿って……言い過ぎですよ、プロデューサー。同期なんでしょう?」

「フン……だから余計に苛つくんだよ。出世欲のない、クソ真面目な同期がいるとな」

プロデューサーは呆れ顔でうめいた。

「神浦は役職にまったく興味がない。あいつの年齢と実績なら、アナウンサー室の室長になってないとおかしいのに、だぞ?」

「プロデューサーから人事に神浦さんを推薦したんですか? それに本人の意思だって仰っしゃりますけど、あなた(・・・)が説得すれば良いじゃないですか。同期なんでしょう?」

「……推薦も説得もしたよ。あいつなんて答えたと思う?」

「想像もつきませんが」

「『俺は原稿がある限り、読み続けたい』だとさ。どんな役者だ! 呆れるだろ?」

「だったら、いっそのこと退社して、フリーにでもなれば良いのに……」

「そんな道を歩けるのは、容姿に恵まれて愛嬌がある者だけだ。人間的につまらない神浦にゃあ、無理に決まってる! 昔はあいつと夜中まで語り合ったもんだが、めっきり無愛想になりやがって……」

「ちょっと、声おおきい。神さんに聞こえます。言い過ぎですよ……」

 アシスタントは両手で、上司の非難を抑え込むような仕草をした。

 それでもプロデューサーの機嫌は戻らなかった。

「まったく……意地っ張りめ。推薦した俺のメンツも考えろってんだ」

 ぶつぶつとぼやく。

 上司の苛立ちの原因が他にもあるような気がしてならなかったが、アシスタントはそれ以上、口を挟むのを止めた。


「お疲れ様でした」

「っかれさまでした!」

 夜のニュースの撮影が終わり、スタッフたちは機材を撤収する準備を始めていた。

 神浦は立ち上がって、先程読んだ原稿の束を整え、机の下から出したフォルダに挟んだ。本番のセットを離れ、制作スタッフの何人かと最低限の挨拶を交わした。

 SOMYの業務用カメラに繋がっている、電源と通信ケーブルの蔦をまだぎ、今いる第3スタジオの重い防音ドアの前まで進んだ。出る前にもう一度現場に会釈して、彼は部屋の外に出た。

 寄り道は滅多にしない。現場の制作スタッフが行き交う廊下を、無言で進んで行く。すぐにスタジオとオフィスビルの連絡通路に差しかかる。そこを抜けて最初に見つかるエレベーターの前に来ると、彼は足を止めた。上の矢印の付いたボタンを押し込む。電子音が鳴った。それに乗って階を上がれば、アナウンス部のあるフロアまで着くのに、2分とかからなかった。

 数名の社員と共に、エレベーターに乗り込んだ。目的階を含めいくつかの行き先ランプが壁に点灯しているのが見えた。

 彼の降りる階が最も遅い到着になる。壁際に立つと、神浦は衣装のスーツのポケットから、スマートフォンを取り出した。

 電源を付けると液晶にスタートアップスクリーンが灯る。起動が終わって、しばらく待ってみたが、特に通知が表示される様子はなかった。

 予想通りだった。メッセンジャーを立ち上げて、妻の名前――プロフィールのアイコンは初期設定のまま――をタップする。

 彼が最後に送ったメッセージ。

『今日は22時に帰る』。一応、既読になっていたが、その後に返事の吹き出しは何も無かった。そうだろうと思っていた。

 これはただの定時連絡だ。返事を期待したわけでは無いから、問題はない。スクロールさせて見える履歴に、延々と自分からの送信だけが、崩れる事のないジェンガのように積上がっている。そう見える理由は、メッセージの長さが一緒だからか。時刻の数字だけが変わる、スタンプみたいなものだった。

 不意にスマホに写る文字がぼやけたような気がして、彼は画面から目を反らした。視線をガラス張りのエレベーターの壁から透ける街の遠景に移した。

 よくあることだった。疲れから来ているのだろう。親指と人さし指で、重い両目をしばらく押さえていた。

 そうするうちに箱が揺れて、女性のアナウンスが目的のフロアへの到着を知らせた。

 エレベーターを降りた彼は、ネームホルダーをセキュリティプレートにかざし、共用部のホールから同僚たちの集まるオフィスエリアに入った。

 テレビ局という職場であるから、その部屋は普通に機能していた。いつも誰かしらオフィスには人がいて、喋り声が響いていた。

 自分の席にたどり着くと、小脇に抱えていたフォルダを机の上に置いた。黒メッシュのオフィスチェアに腰掛け、再度スマホを取り出してみた。すると着信の緑サインが点いているのに気づいた。

『マコちゃんに連絡。今日は夕飯、食べるのかどうか』

 付箋のメモのような返信だった。

 なぜ自分で聞かないのだろう、とは思わなかった。予想の範囲内だったからだ。妻はすでに息子に一度聞いている。その結果、息子から何も返しが無くて、こちらに連絡が来たのだ。20年以上連れ添っている身内だ。それぐらいの想像はできた。

 背もたれに深く寄りかかり、連絡リストから息子の子供の頃の写真をタップして、通話を開始した。どうせ会話は無いだろうとわかっていたので、席は立たなかった。予想(・・)した通り、応答はなかった。もう一度だけ、同じ操作を繰り返した。

 そうして2度、着信の履歴を残す作業を終えてから、最後に妻へ『連絡なし』の結果を報告した。どうせそれもすぐに既読となり、その後、この会話の履歴ページは一切積み上がることがなく、明日を迎えるだろう。そんな予感は怖いぐらいに、いつも当たる。



 神浦がさまざまな事柄を高い確率で『予測』できるようになって、もう何年が経つのだろう。

 それは彼の特異な才能の開花の時期と、結びついているかもしれない。

 仕事に熟練したせいなのか、それとも生まれてからずっと隠れていた能力なのか。それは本人にもわからない。

 彼の前に出された文字は、読むという感覚を通り越して、注がれるように彼の脳に入り込んでくる。目で見て文字の形を読み取って頭の中で意味に変換して……という段階がなく、絵を見るように情報がフラットに入るものだから、何せ処理が速い。その結果、彼が読み込んだ文章は頭に容易に入り、理解でき、定着した記憶となった。

 またインプットのスピードが極端に速いせいで、誰よりも早く読み終わる分、意識を思考する方向に切り替える事ができた。

 その感覚を駆使することで、彼は家族や同僚、そして他人(ひと)の言葉や文字を見たり聞いたりした時、その先にある意図や行動が読めるようになっていた。

 彼はそれを予測と呼んでいた。

 それは社会における人付き合いには、非常に便利な能力である。ただその副作用として、会話がつまらないという感覚も生み出していた。

 考えてみれば理解できる。あなたが一を聞いて十を知る高僧のような人間になったとしたら、人に意図を聞く言葉が最低限で済むようになってしまう。急ぎの場合には便利だが、人生を豊かにする為に会話したい時だってあるだろう。

 アナウンサーはただでさえ喋らなくてはならない人間だ。だから普段の生活では言葉を発しない傾向があるという。彼はそれに輪をかけて喋らなくてもいい(・・・・・・・・)人間なのだ。仕事以外で寡黙になるのも、無理はなかった。

 悪いことに、それは彼と家族の関係にも影響していた。

 妻との倦怠感はますます加速し、ただでさえ家の中で出会わない息子とは、スマホ上でも会話が無くなっていた。

 この氷河期のような状態を好ましいとは思わない。

 では予測することをやめればいい。そう思うかも知れないが、神浦には葛藤があった。

 ひとつは自分が先を見通せない常人に退化(・・)する事への不安だ。あまりにもこの力に慣れすぎてしまったせいもあり、予測不可能な状況を抱える事に、潜在的な恐怖を感じるのだった。

 さらにもうひとつ。

 この予測の力を捨てる事が、彼の人生を支える「アナウンサー」という仕事、その根幹をなす「読む」という力に、少なからず影響を与える気がしてならなかった。

 もともと人付き合いも、後人を育てるのも、人を管理するのも得意ではない。

 彼が唯一、誇れる武器が折れてしまえば、彼はもうこの社会で戦えないだろう。

 そんな迷いは、彼をさらに憂鬱にし、職場での周囲との付き合いを、ますます薄っぺらなものにしていた。


 神浦はオフィスの柱に備えつけられ、正確に時を刻む電波時計を見た。彼の担当する収録はもう終わっていたし、後はもう自宅に帰るだけだった。

 この時間帯の電車の発車時刻は暗記している。だからそろそろオフィスを出て、エレベーターに乗っても良い頃合いだ。

 彼は机の下にしまっていたビジネスバッグを引っ張り出した。

「おっと、危ない」

 明日の仕事の資料を持って帰るのを忘れるところだった。

 残業で遅くなるのも、仕事を家に持ち込むのも妻が嫌がるので、夕食後に自分の部屋でこっそり目を通すつもりでいたのだ。

 神浦は袖机を開け、色分けされたいくつかの再生紙バインダーの中から、目的のひとつを選び取った。

 念のため机の上で表紙を開いて、放送日が書かれた付箋を頼りに、明日の仕事の資料を探してページをめくっていく――

 スッと、ひときわ耳障りな紙の擦れる音がした。

 神浦はチクリと感じた痛みに顔をしかめ、ぱっと右手を引いた。人さし指を見ると、腹の部分の柔らかい場所に、出来たばかりのごく細い傷が縦に走っていた。

 紙で指を切ってしまった。

 すぐに引っ込めたおかげで、血が大事な書類に付着した気配はなさそうだ。彼はひとまずほっとした。

 傷を確かめていると、予想したとおり、ぷくりと丸く赤い血玉が現れた。指をティッシュで軽く拭った。鋭利な切り傷ゆえに、拭き取った時に、出血はもう止まっていた。

 そんなひと騒動があったせいで、時計の針が思ったより進んでいたようだ。

 神浦は慌ててフォルダを閉じ、資料をカバンにしまいこんだ。共用のロッカーに早歩きで向かい、長いコートを着込んだ。

 バタバタと帰り支度をして、仕事場を出ていく。そのわずかな間に、彼はすっかり傷のことを気にしなくなっていた。


 鋭い紙で指を切ると、その瞬間は大抵ドキリとする。ただそんな焦りは、すぐに収まる。血が出る場合があっても、ほとんど無視していい類の傷だ。

 けれどその時、神浦は忘れていた。

 あまりにも鋭利な傷というものは、何故か忘れた頃に、痛みがジワジワとやってくるものだ……



 神浦はその晩、よく眠れなかった。

 何度も闇に起こされては頭を振り、思い出せない悪夢を振り返ろうとして、失敗した。

 なぜ今日に限り、こんなにも起きてしまうのだろう。違和感の正体がわからないまま目をつむり、寝返りをうつ。

 そして気づくと、そのまま朝をむかえてしまった。

 重い目を必死に開き、スタジオに足を運んだ。途端に照明の明るさに目がくらむ。

 しかしここに立ったからには、笑顔でプロの仕事をしなければならない。

 そこは長年の年季と身に染み付いた所作を持つアナウンサーだけあって、神浦は自らの存在をシャンとさせていった。

 スタッフが腰を低くしながら、セットの前に進み出てきた。神浦が初めて見るスーツ姿の中年が一緒だった。

「おはようございます! 本日の共演者、言語学者の国木田(くにきだ)先生です。皆さんよろしくお願い致します」

 あたりに歓迎の拍手が鳴り響いた。

「先生、わたくし本番組の司会を務めます、神浦と申します。本日はご解説よろしくお願いします」

 神浦も学者を笑顔で迎え、手を差し出した。気難しそうな髭の学者は少しだけ躊躇したが、手を握り返してきた。

 その時、神浦は右手に痺れるような違和感を感じた。何だろう? 原因を確かめようとしたが、学者が手を離したと同時に、その感覚はなくなっていた。

「まもなく本番でーす!」

 スタッフの指示で、数台のビデオカメラの視線が集中するデスクに、神浦と学者が座らされた。

 途端に2人の周囲をスタッフとメイクが取り囲んだ。特に初登場の学者には、ディレクターから念入りに段取りの説明がされていた。

 ベテラン司会者には、誰も人が付かなかった。余計な指示は、むしろ本番前の本人のペースメイクを邪魔する事になるのが、わかっている為だった。

 神浦はあらためて資料を広げ、今日になって新たに朱色の訂正が入った箇所を見返した。

 今回の仕事は生真面目な教育番組の司会である。時間は少し長めだが、イントロダクションと最後の締めを行うだけの、簡単な部類のものだった。

 先日まで、学者が喋るはずの学術テーマに「仮」の文字が付いていたが、今回の資料には印刷されていなかった。

 その内容は『人間に言葉はいらない。伝える必要もなく物事が実現する未来』。

 最後の「未来」の文字を見た時、神浦は目を瞬かせた。その2文字が振動するようにぶれて目に飛び込んで来たからだ。

 寝不足もあるかもしれないが、気になる現象だった。照明の角度の問題かもしれない。彼は立ち位置を少しだけ移動し、目をこすって再び原稿を見てみた。

 すると、どうしてか今度は黒いはずの2文字に色が付いていた。「未」が赤に、「来」が緑に見えたのだ。

「え?」

 神浦はいきなりの事態に、驚きを声に出してしまった。

 いちばん近くにいた若いスタッフが振り向いた。周囲をキョロキョロと見回し、最後に司会者に注目がいく。まさかこの人が? そんな事はありえなかった。スタッフは自分の悪い方の耳をぐっと引っ張って戒めた。

 その時、神浦は静かに目を閉じて考えていた。今日は精神も体も過敏すぎる。どこかが壊れているようだ。このまま変な調子を本番にまで、ひきずりたくない。とにかく始まるまで少しだけでも心を平静にして、目を休める事だ。それだけでぐっと良くなるはずだ。

 そんな神浦の脳裏に、奇妙な病気の話が思い浮かんだ。その病を患った者は、ある特定の物を見た時に、色が付いて見えるという。

 その知識は、だいぶ前に司会を務めていた別番組の特集コーナーの中で、情報として取り上げられた時の記憶からだった。

 アナウンサーにとって、目と声は大切な仕事道具だ。神浦は病的と言える程ストイックに、その二つをいたわっていた、

 しかし年々積み重なる加齢の事実がある。

 これがそんな病気の最初の兆候だとしても、おかしくはないかもしれない。緊張を超えて、神浦は嫌な気分に襲われた。

 大丈夫、まずは精神の問題だ。今は仕事だけを考えろ。彼は強く思い、覚悟を決めて目を開いた。

 ほっとして、神浦は胸をなでおろした。紙の上の文字は今、きちんと二文字とも黒く見えていた。

 収録が終わったら早速、医者の診察予約を忘れないように入れよう。そう心に刻み、彼は再び原稿に目を通し始めた。



「こんにちは。『ミライのミカタ』の時間がやってまいりました。司会の『神浦 武』です」

 番組が始まった。

 神浦の聞き取りやすい声が響く。彼の語りの上手さもあり、セットを囲むスタッフたちを、ほどよい緊張感が包んでいた。

「本日の講師の方を紹介致します。東西大学の名誉教授であり言語学者の『国木田 高良(たかよし)』先生です。先生、早速ですが本日のテーマ『言葉』について、御解説をお願い致します」

「ふむ……昨今、企業の(ロボティック)(プロセス)(オートメーション)活用によるヒト作業の自動化が、急速に進んでおります。そしてAIの台頭……これらが労働における単純作業を無くし、人はより高度な『考えること』だけに集中できるであろう、そう言われております……」

 彼は喋りだすと止まらないタイプのようだ。抑揚のない口調で自らの主張を繰り出している。

 神浦は気付かれないよう、欠伸を噛み殺した。この番組の収録には慣れきっていたので、どうしても気が緩んでくる。学者の声が遠くから聞こえるような気がした。

「……2045年に起こると言われているシンギュラリティ。これはAIが人の頭脳を超えると言われている、ひとつの時代の転換点です。そして更なる未来、そこには何がおこるでしょうか? 私の考えでは、言葉は不要になるかもしれません。なぜなら進歩した電子の脳は、我々を理解する事ができます。彼らは人を理解し、観察し、そして『考えている事を考える』でしょう。そうすると、どうなると思いますか?」

「……どうなるのでしょうか? 教えてください、先生」

 神浦は返事をしながらも、ぼんやりとして、意識がそこにない状態だった。口が勝手に原稿を読んでいるような感覚だ。周りは誰も気づいていない。

「『予知』ですよ。
彼らは人間の考えていること、したいこと、喋りたいことをの先読みをします。それが進むとどうなるか? 人間はやりたいことを言葉にしなくとも、AIに提案されるんです。人類は否定か肯定の意思を伝えるだけで、良くなるのです。それが押し進められてくると――個人がパーソナルな人工知能を持つようになれば――いずれ会話という古いプロトコルは、AI同士の共通インターフェースによって代替され、人間に言葉はいらなくなるでしょうね」

「なるほど、言葉のない世界が来ると考えられるわけですね。それでは私たちアナウンサーは、失業してしまいますね……」

「同情します。しかしパラダイムシフトは時に大量の失職者を生むものです。それは止められない流れであり……」

 神浦は流し聞きながら――内容は覚えていたが――ゆっくりと原稿のページをめくった。

 紙片をめくり終えた時、彼は右指の先に針を刺したような、鈍い痛みを感じた。何だろう。いぶかしんでいる間にも、その痛みはだんだんと、確実なものになってきた。

 その疼きは、きのう切った人さし指の先端から来るものだった。ズキッ、ズキッと心臓の鼓動に合わせて、それは繰り返しやってくる。

 なぜいまさら? 神浦は戸惑った。

 そして最初は指にあった痛みが、だんだんと手首にまで移動してきた。あっという間にそれは血管を通して腕から肘、肩を通り、こめかみにまで登ってきた。

 本番中に変な顔を見せてはまずいと思い、彼は顔を下向きに傾けた。

 やがて痛みの波長が速く、小刻みになってきた。あの時はただの軽い切り傷だったはずだ。今のは普通の痛みじゃない。雑菌でも入ったのだろうか。

 何とかしないと! 神浦に与えられた手段は少なかった。せめてもの抵抗で、彼は覚えていた原稿の文字をさらに読んで、意識を苦痛から遠ざけようとした。けれどそこへ、切り裂かれたような、ひときわ鋭い痛みが走った。視界がぐっと狭まり、彼は顔をしかめていた。

 その時だった。

 彼の目に写っていた原稿の文字の、その上に被さるように、もやっとした赤い物が現れた。それは紙の上で形を整え、2本の赤い訂正線になった。

 ちょうど「次の未来」と書かれた字のあたりだった。一度読んだ内容を確実に覚えていたので、神浦は断言できた。そんな訂正など無かったはずだと。

 幻覚を見ているのだろうか。2本の斜線はヘビのように、ニョロニョロと動いていた。そして「未来」という文字の上で止まった。赤線たちは鎌首に似た線の片側の端を持ち上げ、お互いに顔を見合わせて、相談しているようだった。

 やがて同意に至ったのだろう。2本がこくりと同時にうなずいた。いきなり紙の上で小さくジャンプした赤線が「次」という文字を食べ始めた。

 『虫』たちの勢いは凄まじかった。最初のは「次」、相方は「の」と、2本の線は次々と交互に、文字を呑み込んでいった。それらが通った跡には何も残らず、1行、また1行と文字が減っていく。

 ついには段落ごと、文章は赤い訂正線たちの餌食になってしまった。

 想像外の出来事に声も出ないでいた神浦は、再びその紙面に起こった事態に目を大きく開いた。

 今度は消えたはずの紙の上に、うっすらと文字が現れ始めたのだ。

 混乱する神浦をよそに、文字にだんだんと輪郭ができ、形が作られていった。そしてその線の内側を色が塗りつぶ(フィル・イン)していった。

 最初に読み取れたのは「春」。その言葉には薄いピンク――桜の色がついていた。春の文字に次いで、続きのひらがなが読み取れた。「って」とあり、さらに文が次々と姿をあらわす。

 次の行にはオレンジ色で「夏」。次いで朱色の「秋」。そして輪郭の縁取り以外、色の付いていない白い「冬」。

 まるで詩のように、ぽん、ぽんと行間を広く開けて置かれたその配置に、何か意味があるのだろうか。

 神浦は最初、戸惑い以外の感情がわかなかった。

 やがて、頭の中でその文字を反芻していった時、彼は遥か昔に記憶の中で聞いていた、そのフレーズを思い出した。

「春って――」

 彼の耳に声が聞こえてきた。

(はる)って、たのしいね。だってきれいなお(はな)(むし)たちが、ぼくらをむかえてくれるから」

 それは自分の声だった。

(なつ)って、うれしいね。だって――」

 空気が、何か懐かしい澄んだ空気が、神浦の坊主頭の脇を通り抜けていった。そこには風があった。そしてもうその場所は、見慣れたスタジオではなかった。

 彼の目の前から、照明やスタッフたちの姿は消え失せていた。そこにあるのは、彼が子供の頃に出会っていた心象風景だった。

 小学校の教室。

 木の机が規則正しく並んでいた。周りには自分と同じ、半袖のシャツを着て短パンを履いた子どもたちが、椅子に座っていた。

 行儀よく教科書を広げている女の子、後ろの席とちょっかいを出し合い、クスクスと笑っている男の子たち。

 少し開いた窓ガラスから見える景色で気づいた。校庭と大きな樫の1本木のシルエット。覚えている。これは自分の母校だ。

 神浦は子供たちの中で、ひとり立って腕をピンと伸ばし、その先に教科書を広げていた。

 そうだ、自分は教科書を読んでいる最中だ。先生に指されたから。その詩は有名でもなんでもなく、そもそも誰が書いたものかなんて、覚えてもいなかった。

 彼はさらに続きを読み始めた。

(あき)って――」

 楽しかった。その頃の神浦は、想像するのが好きな子供だったので、たくさんの本を読んだ。口を開いて、声に出して。

 忘れてしまっていた事があった。この頃の彼の目は今と違い特別だった。文字を見るとそこに色が付いているように見えたのだ。

 何故だかなんて、わからない。両親、先生、同級生。誰かに伝えたかも知れないけれど、真面目に答えをもらった思い出はひとつもない。

 理解されなくても良かった。関係なしに、とにかく読むことが幸せだった。色は彼の想像を助け、たくさんの気持ち良さをくれた。

 だからたくさん読んで、先生や両親に感心された。

 書くことも好きだった。神浦が鉛筆を滑らせるたび、クレヨンで描いたように原稿用紙に色が付いていった。

 綺麗に塗れたと思った作文は、決まって花丸をもらえた。

 なんて楽しい子供時代だったのだろう。彼は忘れていた温かい気持ちを取り戻し、幸せを覚えた。



 ぱっと照明が落ちて、あたりが先程より、暗くなった。

 そこには、斜めの光が差し込んでいた。そこは学校で、大きな校舎の北の方、つまり裏側だった。普段は光があたらず、中年の用務員ぐらいしか来ない場所だ。

 校舎のガラスの奥から漏れてくる弱々しい光は、秋の西陽だった。

 神浦はそこに立っていた。先程よりも背がだいぶ伸びていて、黒い学生服を着ていた。

 ひとりでは無かった。彼の目の前に人影があった。長い紺のスカートを履いている女子だ。黒髪でおかっぱ。ハッキリとした目の持ち主で人形のように可愛いらしいその子は、神浦のよく知る同級生だった。

「神浦、用事って何?」

 ちょっとキツそうな性格を示唆する口調が、神浦の焦りの心音をさらに早めた。彼は指をきつく握りしめた。手の中にあるのは1枚の紙片だった。

「あ、うん……」

 神浦はどもって、生唾を飲み込もうとした。けれど心音が激しすぎて、喉がすぼまり、その動作すら出来なかった。

 相手の疑惑の目が強まるのをより意識しながら、彼は固まっていた指を一本ずつ動かし、紙片を開いた。細かい文字で、びっしりとつづってあったのは、神浦自身が考えた告白の言葉だった。彼にしか見えない文字の色は、興奮で真っ赤に染まっていた。

「ふ、ふ、ふだんから……あ、あの……」

 ちらちらと下を見るが、震えてしまい、神浦にはどうしても文字が読み取れなかった。その苛立ちでさらに、声はどんどん裏返っていく。心をこめて書いた時は鮮やかだった色が、紙の上でどんどんくすんでいき、灰色に見えてきた。

 やがて一言も声が出なくなった彼の前で、その子は別の女子に呼ばれてしまった。別れの挨拶もなく、彼女は無言のまま去っていった。

 悔しかった。振られる以前に、文字にした想いが届かなかった事に涙した。

 その日の夜になって、意気消沈から少し回復した神浦が、家で小説を手に取って読もうとした時、初めて気づいた。自分の目に写る文字から、黒以外の色が無くなっていた。

 神浦は思い出した。これが神浦が文字から色を失ったきっかけだ。それから数十年、再び彼が紙面に色を見る事は無かった。

 彼はそれ以降、夢や想いをこめる文章の創造を捨ててしまった。

 けれど文字を追うことは、彼の生きがいだった。だから、ただひたすらに、誰かが書いた文字を追いかけ、読む事に熱中した。


 その成果は彼の就職面接の時に、最も発揮されたかもしれない。


「123番、神浦 武です」

 リクルートスーツ姿の神浦が、手にしたアナウンサーのテスト用原稿を持ち、読み始めた。

 静かな会場に驚きの波紋が広がり、途端に試験会場がざわついた。

 両隣りにいるライバルたちが、神浦と同じグループに選ばれた事を呪って、嘆きの祈りを捧げていた。

 人材不調にウンザリしていた面接官たちの寝ぼけた眼が、驚きに変わっていった。

 彼らはお互いに顔を見合わせ、手元に用意されていた神浦の履歴書のコピーを、真剣にチェックし始めた。

 神浦が最後の一文を読み終えた時、場が許せば拍手が起きていたかもしれない。

 それぐらい、ただの原稿の朗読が、独裁者の演説のごとく、人の心に楔を打ち込んだのだ。

 彼は朗読をそこまでの高みに押し上げる事に成功したと、心から思った。



 海鳥の声、行き交う水上バスから聞こえる機械的なディーゼルエンジンの音。

 海の公園のベンチに、男女が座っていた。

 男は神浦だった。彼はおもむろに立ち上がると、女性に向き直った。ひと呼吸の間を取るあいだに、ごくりと唾を飲み込んだ。意を決してひざまずくと、彼は頭の中で完璧に覚え、何度も練習した愛の言葉を唱えだした。

「――だから僕は君を間違いなく、幸せにする」

 暗記した内容の最後の一文までを言い終えた後で、沈黙が訪れた。正直、彼の愛の言葉はどこか堅苦しく、平凡なものだった。

 それもそのはずで、その一節はどこかの雑誌から借りてきたものである。けれど彼が声に出した事で、普通の男の語りよりかは遥かに立派な台詞に聞こえたに違いない。

 そうしてコートの右ポケットから結婚指輪を取り出す。彼は無言で指輪を差し出し、顔は地面を見たまま、契約への同意を求めた。

 女はふぅと溜息をついた。彼女はいろいろな意味で、神浦の性格を知りつくしていた。

「何よそれ。プロポーズにまで、誰かが用意した原稿が必要なの? ほんと、あなたらしい……。でもいいわ。面倒くさいから、結婚してあげる」



 それを聞いて神浦が顔をあげると、夜の公園よりもさらに場が暗くなり、回り込むようにやってきた一筋のスポットライトが、彼を照らし出した。

 髪を整髪料で完璧に整えていて、服装は正装の燕尾服だった。近くにタキシードを着た若者――長男と、ウェディングドレスの新婦が立っているのが見えた。

 そこは結婚式の会場で、まさに新郎の父の謝辞が行われる直前だった。

 神浦が語り出すと、すぐに会場の全員が新郎の父に注目した。落ち着いた声、年季が入ってより円熟味をました言葉回しが、列席者たちを惹きつけて離さない。

 彼がマイクを離すと、大きな拍手が会場を包んだ。父としてひとつの大役を終えた彼は、会場の反応に満足そうな笑顔を見せる。

 けれど拍手の中に、ひそひそと交わされる一部の参加者の雑音が、混じって聞こえてきた。

「さすがプロよね……」「でも何だかつまらないというか、例文どおりというか……」「もう少し暖かさが欲しいわ」

 勝手なことを言いやがって! 神浦は心ない言葉に傷つき、苦々しい表情になった。

 俺は書いてある文章を間違いなく、正確に伝える職業に就いている人間だ。何も間違った事などしていない。

 それに受け取る側のすべての反応なんて拾える訳がないんだ!



「……です。つまりシンギュラリティの達成後、AIは人間から言葉を奪う段階を経て、さらに完成すると言って良いでしょう。然るに……」

 滑りおちてきた神浦の意識が、一瞬スタジオに戻った。彼はすぐに半分傾いていた顔を持ち上げた。

 長広舌の学者はまだ、したり顔で自らの理論を喋り続けていた。

 職業病で有事にはすぐTVの絵を気にしてしまう彼は、真っ先に現在の映像に学者しか映っていない事をモニタで確認した。そうして、あわててポケットのハンカチを取り出し、浮き上がった額の汗を拭いた。

 本番中に幻聴や幻覚を見るなんて、いよいよどうかしている。彼はまだ痛みが残る頭を振って、意識をハッキリさせようとした。

 ともかく長話の学者の口が閉じる前に、自分を取り戻さなければならない。

 全身に力を入れて、神浦はあらためて原稿を見直した。大丈夫だ、いま文字は消えていない。

 どうせこの1枚は学者の喋るであろうトピックが、つらつらと書いてあるだけだ。彼はさっさとページをめくった。

 そして、そこに書かれている言葉を見て、絶句した。

 『本日はお忙しいなか、妻の明菜と、息子の誠の葬儀にご会葬くださり、ありがとうございます――』

 番組の原稿ではない。それは弔文だった。しかも自分の家族の為に弔意を表す言葉が書き連ねてあった。

 驚いて椅子の背に後退った時、ズキッとした痛みを感じて、神浦は首に手を当てた。ゴワゴワした堅く分厚いものが巻かれていた。それはムチウチで頚椎を損傷した時に付ける医療用のカラーだ。

 髪の毛に違和感を感じて額を触ると、白髪の間に包帯が巻かれているのが分かった。

 まただ! 周りを見回すと、そこは新たな世界で、黒服を着た参列者たちが、彼を取り囲んでいた。妻の家族や親戚、誠の友人たちの姿もあった。女性の列席者はハンカチを目に添え、嗚咽していた。

 自分の手が、意識しないうちに折り畳んだ紙をさらに広げていた。中を見る為ではなく、あくまで形だけの動作だった。原稿(・・)に目を落とさず、彼は静かに語りだした。

「故人は……妻は世話好きで、人の輪に入るのを好む人間でした。そして……私の自慢の息子は、新しく配属された部署で、次の仕事をとても楽しみにしていました」

 口がそこに書いてある文章をなめらかに読み上げていく。とても鮮明に、間違えることなく、いたましいという感傷をこめて。

「交通事故というアクシデントが、すべてを奪ってしまいました。そして悲しいことに、私を残して二人は逝ってしまいました」

 子供から老人まで、嗚咽する声がいくつも響いた。

 素晴らしい! この場にあった最高の語りと迫真の演技だ! 内なる声が彼を称賛する。現にその場に彼を非難する者など、ひとりもいないではないか――

 やめてくれ!

 神浦の意識は、声のない叫び声をあげていた。

 私はこんな言葉なぞ、読みたくない! こんな誰が書いたかわからない文章なんて……こんな誰が決めたかわからない未来なんて、知りたくも、認めたくもない!

 神浦は立ち上がり、思わず掌でセットのテーブルを叩いた。


 バンという音が、天井の高いスタジオに響き渡った。

 ディレクターやアシスタント、カメラ、照明、その他のスタッフ。全員の表情が硬直していた。すべての人間が神浦の事を見つめていた。

 一番あっけにとられていたのは、隣りにいる学者だった。彼はあんぐりと口を開け、顔を引きつらせていた。

「間違っています……。私はそんな『ミライ』を予測したくありません!」

 彼は持っていた原稿の束を、ばっと空中に投げ捨てた。白い紙が紙吹雪のように宙に散らばった。

 神浦は両手を机の上に置き、そこにいる局の社員や外注ではない誰かに向けて、喋りだした。

「私はずっと、人に言葉を伝える仕事をしてきました。その内容は完全で、完璧であればあるほどいい――そう信じて、何十年間も自分の仕事を誇ってきました。けれど私は言葉を発する度に心を捨てていた気がします。書く言葉も読む言葉も、人の作った意思を借りるようになっていた……そうして、いつしか私の心自体が、借り物になってしまっていたんです」

 彼は自然と湧き上がる衝動で握った右手を、じっと見つめていた。

「皆さん、下手でも、つかえてもいい、少しづつ考えて編みあげたボロボロの布切れでもいいです。機械なんかに任せないで、あなたの心の言葉を伝えてください。そうすればきっと、相手の事が今よりも分かるから」

 言葉は誰にでもなく、自分に聞かせているような気がした。

 1枚だけ、投げ捨てた原稿の紙が、彼の前の机に戻って落ちてきた。それは最後の余り紙で、何も書かれていなかった。けれど神浦だけには自分が言うべき言葉が、そこに鮮やかな色で見えた気がした。

 彼の表情が緩んだ。背を伸ばし、ネクタイを直して直立し、目はカメラのレンズを超えて、遠くの壁を見た。

 いつしか指の痛みはおさまっていた。

「私は本日をもって、アナウンサーの仕事を引退します。これまで支えて頂いたすべての視聴者の方々、スタッフの皆さま、ありがとうございました。これからの私は、言葉に意思をのせて、大事な人に伝えていこうと思います」

 彼は会釈すると、誰もが言葉を失って静まり返るスタジオを、ひとり歩いて去っていった。



 スタジオの映像と音声を管理する、ガラス張りのコントロール・ルームの中でも、静けさが継続していた。

 プロデューサーのアシスタントは、座っていた椅子の上でようやく、忘れていた息を取り戻した。付けていたヘッドセットをゆっくりと外し、不安のこもった目で隣に立つ上司を見上げた。

 静けさを破って、遅いけれど確実な拍手の音が響いた。プロデューサーが立ったまま、手を打ち鳴らしていた。

「どうしましょう、プロデューサー。番組に穴があいちゃいますよ。それにあの学者先生にどう説明したらいいか……」

 アシスタントは正直に不安を打ち明けた。同じ職場の人間なら、誰もが彼に理解と同情の念を送るだろう。

「放っておけ、俺の責任で何とかする」

 プロデューサーはぴしゃりと遮った。

「神浦の奴め……最後に思い切ってあいつらしい事、言いやがった」

 硬直が溶けて右往左往し始めるスタッフの様子を、ガラス越しに他人事のように見つめながら、アシスタントがつぶやいた。

「神さん……どこに行ったんですかね? 家族の所でしょうか?」

「かもな。あいつが何を伝えたかったのか、俺にはわからん。感謝なのか、もしかしたら家族にとって、最悪の言葉かもしれない。けれど奴はこの年になって初めて、赤ん坊みたいに純粋な気持ちで、自分の言葉を喋ろうとしてるんだろうな。さあ、とりあえず今夜行く店の予約をしてくれないか。あいつとまた、夜を明かして呑まにゃならん。お前も来るだろう?」

 プロデューサーは満足そうに笑った。



(語りの人  おわり)

語りの人

語りの人

珍しい仕事×現代ファンタジー。シリアスです。未来を予測する天才アナウンサー。彼の葛藤から始まる、現在、過去・未来を紡ぐ物語。

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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-05-12

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