卵と蛇

すごろく 作

 その卵は宝石だった。比喩ではない。事実、それは宝石だった。
 滑らかな感触をした純白の殻、その完璧なまでに整えられた楕円形の造形がなんと美しいことか。きっとその中にある卵黄は黄金に輝き、透き通った卵白に包まれているのだろう。しかし、私がそれを見ることはない。こんな美しい神の創造物を壊す資格など、私にはなかった。いや、この世のどんな人間、生命、存在にさえその資格はないに違いない。
 私は何枚か重ねた清潔なハンカチの上に、高価な工芸品を置くかのように、その卵をそっと慎重な手つきで乗せ、じっくりと嘗め回すように眺めた。
 やはり見れば見るほど美しい姿だった。この美しさには、きっとこの世のどんな美術作品も叶うまい。こんな完璧かつ無敵の存在は他にないのだから。
 私は恍惚とした心境で、しばらく卵をじっと鑑賞していたが、ふとある欲求が湧いてきた。
 それはこの卵の完全なる今の姿を、写真に撮って残しておきたいという、至極単純で凡庸なものだ。
 部屋を見回してみる。写真を撮れそうなのは、手元のスマホのカメラ機能くらいしかない。こんなものではダメだ。スマホのカメラ機能如きでは、この卵の美しさを写し取ることはできない。
 確か、一週間前に買ったばかりの最新モデルの高性能カメラがあったはずだ。私はまだ卵を眺め続けていたいという名残惜しさを感じつつも立ち上がり、乱雑にモノを突っ込んでいる押し入れからカメラを探した。
 比較的最近に買ったもののためか、それは案外早く見つかった。
 ちゃんと動くか動作を確認し、よし、これであの卵の美しさを写真に収めることができるぞ、と思わず口元に笑みをこぼしながら卵の方へ振り返ったとき、私の心臓は一瞬止まった。いや、止まったように感じた。それほどの衝撃が私に訪れた。緩んでいた口が瞬時に引き締まり、そして茫然と開いていくのを感じた。
 そこには一匹の蛇がいた。鱗は山奥の岩のような重い色で、胴体は小学校の運動会の綱引きの綱のような、太く長い蛇だった。
 蛇がいつそこに出現したのかわからない。あんなに大きな図体だというのに、這いずる音の一つもまったく聞こえなかった。
 蛇は長い胴体をくねらせながら、私を見ていた。蛇の目は濁った薄緑色で、爬虫類特有の感情の欠片もない光をそこに宿していた。
 私はまさしく蛇に睨まれた蛙というように、固まってその場から動けなかった。
 私が頭を混乱させている間も、蛇はゆっくりと音を立てずに這い、卵のそばへと近づいていった。
「おい、やめろ」
 そこでようやく声が出た。震えて上擦っている、弱々しい声だったが。
 しかし、蛇は私の虫の息のような声などお構いなしで、卵へと接近した。
 そしてついに卵のところに到達すると、大きく口を開け、一瞬血のように赤黒い舌を覗かせたかと思うと、次の瞬間、ばくっと卵をその口の中に閉じ込めた。私が「あ」とか「え」とかそんな間抜けな声を上げる暇すら与えなかった。
 蛇はぐっぐっと喉をポンプのような要領で動かして、卵を丸呑みにしていく。
 私は唖然として腰が抜けてしまい、へたり込んだ。
 蛇は最終的に卵を自身の身体に収め、胴体の真ん中あたりをぷっくり膨らませると、満足そうに首を上下に動かした。
 私の頭の中には依然混乱があって、驚きがあって、悲しみがあって、他にも多種多様な感情が入り乱れていたけれど、その蛇の満足そうな様子を見た瞬間、ロケットのように一気にある一つの感情が突出した。
 ――それは怒りだった。今まで感じたこともないような、腹のあたりに本当に火でもぶち込まれたかのような熱く焼けるような怒り。
 気づいたときには、私は台所からよく研いだ切れ味の良い包丁を一本手に持ち、何の躊躇もなく、満腹で動きが鈍間になった蛇の膨らんだ腹目がけてその包丁を振り下ろした。
 包丁はまるですり抜けるかのように蛇の腹を貫通した。私は包丁を蛇から抜いて、もう一度蛇の腹に振り下ろした。何度も何度も、それを繰り返した。
 蛇は動かなかった。何度も刺しているというのに、血も流れなかった。それだけではなく、蛇が呑み込んだはずの、卵の残骸が何も出てこないのだ。殻も卵黄も卵白も。私は辛抱堪らず蛇の腹を引き裂いて、胃袋の中を確認しようとした。――できなかった。
 蛇には胃袋がなかった。それどころか、内臓と呼べそうなもの自体が何もなかった。もちろん卵もなかった。蛇の皮だけがあった。――正確には、蛇の皮と眼球が。蛇の薄緑色の目は依然として見開かれていて、そこには相も変わらず感情のない光を宿っていた。
 私は発狂してしまいそうな衝動に駆られて、その蛇の目をえぐり出した。左右両方とも。いとも簡単に二つの蛇の眼球は私の手のひらの上に落ちた。
 蛇の眼球は、ビー玉だった。何の変哲もない、薄緑色のビー玉。その表面には、痩せこけて薄汚い、乞食のような私の姿が映っていた。
 私の指の合間から、蛇の目だった二つのビー玉はするりと転げ落ちた。
 私は膝をつき、わけもわからず泣いた。それは卵の喪失感に対してでも、蛇が皮とビー玉だけだったことに対してでもなかった。本当にわけがわからなかった。わけがわからなくても、涙は勝手に私の目元からぼろぼろと滴り落ちた。
 その一滴が床に転がるビー玉の一つに落ち、それをほのかに濡らした。まるで本物の眼球のようだと、滲んだ視界とぼんやりした思考の中で思った。

卵と蛇

卵と蛇

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-05-12

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