共食い(1)
割合残酷な内容に成っておりますが、基本的には人の根本的思考はどうなっているかがテーマとなっております。
包丁を的確な角度で皮膚に入れ込むと、人間の皮は綺麗に剥がす事が出来る。
今日持ち込まれた人物は恐らく10歳にも満たない女の子だった。私は涙する事も、或いは感情を殺す事も出来ず、彼女の身体を捌くのだ。私が決めた事なのだから。
ここ最近、また温度が下がってきている。氷河期時代に戻るのかも知れないと多くの人々が恐怖している。死が近くに在りすぎても、人は死の恐怖から逃げる事は出来ない、最も直接的な餓えの恐怖に勝てないのだ。
私は彼女の皮を綺麗に剥がし終えると、電動鋸で骨を切断していく。金属音に似た音が彼女の悲鳴にも聞こえる。痩せ過ぎの女の子。肋骨に付いた肉には脂身が全く無かった。私は丁寧に肉を包丁で削ぎ落とす。両手首、両足首から下を今度も電動鋸で切り落とす。また首から上は切り落とした上、毛を全て綺麗に剃り、ハンマーで粉々に叩き十分乾燥させた後、ホウレンソウ畑に肥料として蒔く。人間に見えてしまう部位は、処理をするしかない、またプリオン病等の感染を防止する意味も考えての処置。腹を割き、内臓を取り出しラップで密封し簡易冷蔵庫の中に入れ込む、常時気温が零下である為に、この3年程冷蔵庫の電源を入れていない。
煮えたぎる鍋に肉を放り込む。
きっと、外にはまた多くの人達が並んでいるのだろう。彼らは一様に呵責と餓えに苦しみながら、それでもこの肉を受取るしかないのだ。口にするしかないのだ。
この国以外に私と同様の職業が存在しているかは知らない。或いはこの国自体に他にも私同様の人間がいるかも解らない。少なくとも此処では私が居なければ成らない理由は存在する。
右耳に取り付けてある小型携帯機が私の骨を通じて鳴る。過去の遺物。私に繋ってくる電話の内容に良き内容は一つも存在しない。
「もしもし、41区32番の香と申します。先程主人が亡くなりました。主人より、私を貴方の所に渡す様に言われております。引き取りお願いします」
正確で、尚且つ綺麗な発音で発される日本語を聞きながら、私の胸はまた深く沈む。
「ありがとうございます。直ぐに引き取りに上がります」私は感情を交えないように対応する。恐らく以前は高い教育を受けた人間である事が解る。私の所に連絡を入れる多くの人間は以前社会的地位が高かった者が多い。彼らの多くは深く考える事に慣れており、また深く考えた後に冷静に判断を下す事が多い事と、また多くの悲惨な事例を見ている事が想像される。
始めに私が共食いを見たのは、まだ若干ながら食物が残っており、気温も一桁ではあるが0度以上有る頃だった。
まだ小さな男の子だった。恐らく強盗にあったと思われる母親らしき人物が彼の傍で倒れていた。或いは食べ物を目に付くように手にしていたのかもしれない。平和と混乱が入り混じる時代でも在った。
男の子は母親の胸に齧り付いていた。或いは母乳を欲していたのかも知れない。しかし口の周りには赤い血がべったりと付いていた。私は何を思ったのだろうか。大きなショックを受けた事に間違いは無い。しかしあの時の心情を今では思い浮かべる事が出来なく成ってしまっている。
私はKOYOTA後期Vプリアスを運転しながら必死で、何を思ったかを思い出そうとしていた。
全く音がしないこの車で、人通りの無い道を走る時が最も絶望感を感じてしまう。希望が消失している。まれに風力発電の音が遠くから獣の呻く様に聞こえる以外は全くの無音。何時からか音楽が消えてしまった。私が幼い頃には存在したラジオも、この車には無い。
結局私は、あの出来事に対する感情を思い出すことは出来なかった。
今から引き取りに行き、戻るには恐らく2時間程ですむであろう。2時間後には肉の臭みも消えているはずだ。何時もの様にホウレン草を合わせ、塩で味付けをすれば、今日の夕方には配布も可能であろう。私は今日の予定を考える。絶望で車を何処かにぶつけない様に、未来を思う。決して明るい未来ではないけれど、予定を考える内は死から逃げる事が出来る。
大きな家であった。塀に囲まれた家が荒れていないのを久しく見ていなかった為に、私はこれからの事を思うと、また胸が苦しく成った。
インターホンを押すべきか私は迷った。何故なら庭には、恐らく私に電話をかけてきた婦人と、その隣に横たわる死体があったからだ。しかし婦人の目はどこにも向いていない。
本当は全てを放棄して戻りたかった。使命感。私はこの良く解らない使命感だけによって突き動かされている。
肉を配る時、皆私の目を見ない。罪悪感なのか、或いは軽蔑なのか、私に対して誰一人意見すら交わさない。私は悪魔にでも成った気がする。彼らは私に魂を渡しているのだろうか。
私は仕方なくインターホンを鳴らした。驚いたことに、何処からか犬が咆える声がする。婦人が始めて私の方を見る。私は軽く会釈すると、婦人は耐え切れずと言う風情で顔を背け、涙を隠した。私は居た堪れない状況に、暗い空を眺めた。一体私たち人間はこれから何所へ向かうべきなのか。
暫くして婦人は、私の所に来て簡単な挨拶を行った。とても儀礼的であったが、大抵皆同じような物で私としても習慣的に言葉が出る。
但し、私は小さな失敗を犯してしまった。結局それは私を苦しめるだけであったのだが。
「珍しいですね、犬を飼われているなんて」私としても別に深い意味等無かった。実際犬は一時重要な食料として殆どが姿を消してしまっている。多くの犬は人間に馴れ過ぎていた。人々が近づくと、思いっきり尻尾を振り、鎖を外されても何ら疑問を持つこと無く付いて行く。
私の言葉を聞いた途端、婦人の顔に恐怖が走ったのを私は見逃すことが出来なかった。私にそんな意図は無いのだが、死体を漁る人間を一体誰が信用するだろう、また私も皆そのように思っている事を知っているはずにも関わらず、そんな世間話をしてしまった事に深い後悔をした。
「ええ、主人が好きでずっと飼ってるんです」婦人は恐怖を隠し、また儀礼的に回答した。私はさっさと受け取るべき物を受け取り戻る事だけを考えた。
「すいません、そうしましたら引き取らさせて頂きます。またこれはつまらない物ですが、一応謝礼としてお渡しいたします」
私は小さな瓶に入った砂糖を渡した。婦人は不思議そうに砂糖を見て、“わぁ”と小さく呟いた。この時代では身近な人間の死を一瞬忘れられる程の価値が、この小さな砂糖にはある。
私は渡す物を渡すと、もう言葉は発せず遺体の傍に行き、おんぶする。40手前ぐらいだろうか、割合肉付きも良い、遺体自体には何ら異常な所は見られず、恐らく心筋梗塞か脳溢血であると思われる。婦人は私を目で追い、また遺体に目を向けるが何も言葉は発さなかった。
私が遺体を車に載せると、婦人の嗚咽が後ろから聞こえたが、振り向くことも無く私は出発した。
一体、私に何が言えるだろうか、私は今からこの遺体を捌き、多くの人間がこの遺体を食するのだから。婦人も十分それを理解している。私に発するべき言葉など何も無いのだ。
もう6年に成る。この6年間で私は一体何人の人間を捌いただろうか。一人、一人の顔は思い浮かべることも出来ない。
私は完全に自分を削っている事を自覚している。鉛筆をくるくると回して削るように、私は自分を削っている。いずれそれは芯に達するであろう。
悪と言う概念が私を襲うこともしばしばある、私はただそれを静かに受け入れる事しか出来ない。エゴと呼べるかもしれないが、私には私の信念がある。それでも私は受け入れるしかない。
自らがどのように思うにしても、最終的には私は完全な悪にすら成り得ると言う事を、或いは時代が更に進み、今よりも食物を獲得する事が困難に成った場合、仮説として私は人間を狩ることが出来る様にも思える。人間を完全に物として扱う事が出来ると思う。
家に戻ると。鍋の水は約残り半分と成っていた。表面には油が浮いている。肉を箸で刺すと、殆ど抵抗も無く穴が空く。肉とスープを別々に取り分ける。スープには更に少々の塩を加える。肉はそのまま盛る。白菜を和えた物を肉の隣に並べて完成となる。
元々が何であったかは見た目では完全に解らない。
この状態迄来ると私は、既に全くと言って良いほど良心の呵責を受けない。完全な料理として肉を見る。
私は味見も兼ねて肉を食す。むしろ貪るに近い。恐らく肩に近い部分を私は皿に取り手で齧り付く。
人は食べる為に生きている事を本当に実感する。食べなければ死ぬのだ。そして私には死ねない理由がある。
私はシャッターを開く。予想通り多くの人々が列を作っている。またいつも通り誰も私の目を見ない。私は渡された皿に肉を置く。スープを注ぎ、野菜を添える。週に3日だけの営業、しかし私は何かを得るわけでは決して無い。ただ私は罪悪感を皆に分けているだけなのかも知れない。
許しを得たがっているのかも知れない。
約20人程に配ると、既に鍋は底を尽いていた。店仕舞。まだ多くの人間が並んでいたが、私は何も言わずにシャッターを閉める。誰も言葉を発さない。
誰かの犠牲が無ければ、多くの人間が犠牲に成る。誰もが理解している。不満等言えるわけも無い。
椅子取りゲームなのだ。終わりは必ず来る。肉を得られなかった人は何を思うのだろうか。何故これ程少ないのだと憤るのか、或いは少ない事に関して安心するのであろうか、餓えている胃袋と脳は矛盾しながらも、最終的に胃に従う事しかない事を理解しているのだろうか。
椅子は空いていなかった。貪欲な者しか椅子に座る事は出来ない。
世界に物は溢れていた。車も家も、便利な電化製品も全て在った。ただ食物のみが無いのだ。そして豊かな世界はあっという間に崩れ落ちた。誰もが餓えている世界が存在するだけだ。
私は疲れていた。頭の中に注射針で空気をいっぱい詰め込まれたような不快感が常にある。両手で顔を覆うと嗚咽が漏れた。私は心のままに任せていた。嗚咽は止まらない。疲労は私を確実に追い詰めている。もしも疲労が目に見えるのならば凶暴な猛獣であろう。鋭い牙と鋭い爪を持ち常に私を狙う一匹の猛獣であろう。
肉体的疲労等大した事は無い事を私は知っている。本当の疲労は人間を殺すのだ。ゆっくりと爪で傷つけ、常に緊張を解かせないように牙を私の目の前にちらつかせながら臭い息を吐く。
何故に喰いちぎらない。私は猛獣に対して懇願すらする。一思いに殺して貰いたいと願う。
椅子に座り私は嗚咽したまま、今日も眠れぬ夜を過ごすのだ。少しずつ磨耗されながら。
思い出したくない過去を私は又振り返る。
16年前に生を享けた真美の顔が私を責める。真美の母親は出産と同時に無くなった。偶然知り合った男女が恋に落ち、そして真美を授けて亡くなった。彼女は幸せだったと今なら思える。
私は一人で地獄を進んだのだから。
16年前確かに時代は平和に回っていた、しかし至る所で地獄への道標は立っていたのだ。私は全くそれに気付くことが出来なかった。ただ残された真美を幸せにする為にどのように生きるかを考えていた。真美は私の全てであり、私の全ては真美に捧げる為だけに存在していた。
真美が1歳に成った時、夏が消失した。寒い冬が来て、やや肌寒い春に成り、そしてまた寒い冬が来た。テレビでも多くの学者や、専門家が色々な風に分析していたが結局何ら対策は打てなかった。
南の大国では緑が段々と消失し北の大陸では南に移動しながら内戦が勃発した。西の大陸では他の国へ攻め入り、僅か1年で余りにも愚かなほど人々は破滅へ向かった。
そして束の間の平穏が訪れた。多分皆疲労していたのだろう。テレビでは国営放送のみが食料危機を日々訴えている以外には、暴動、政治、戦争、宗教の何ら放送は無かった。まるで世界が終わっているかのようにも思える日々だった。
そんなある日に、私は幼い子供が、襲われて死んだ母親を食しているのを目撃したのだ。私の人差し指を5本の小さな手で握り締める真美がいた。
9月なのに気温は4℃とあまりにも寒い昼時だった。賢い子供だった。僅か2歳で多くの言葉を発することが出来、人の感情を上手く読む事が出来る子供だった。時代が彼女をそうさせたのか、皮肉なことに職も無い私と24時間常に一緒に居ることで成熟が早まったのか解らないが、彼女はこんな時代にすくすくと成長した。
「お父さんお腹減ってない?」
私が小さい頃より彼女に問いかける言葉は、いつの間にか私に問いかけられる言葉と成った。私は本当に身を削っていた。血を売り、僅かな食物を手に入れる事を繰り返していた。体重は直ぐに落ち、顔色は悪く、鏡を見るたびに自分の姿が死人の様に思えた。
或いは彼女は私の変化に対してこの口癖を覚えたのかもしれない。真美は私の全てだった。私は真美の為に生きている。
何より、真美は私の救いなのだ。柔らかな頬も、小さな手も、細い髪の毛も全てが奇跡の様に私は感じた。生かされている。確かに私は彼女に生かされていたのだ。
猛獣は私を眠らせてはくれない。記憶は延々と私を襲う。
真美が3歳に成った年、どんなに押し込めても押し込め切れない記憶。割れない風船の様に強い弾力で存在する。
私の頭痛はますます酷くなる。頭の中で風船は膨らむ。誰かが見えない針で空気を送り込む。脳は圧縮され悲鳴を上げる。
時が経てば経つほど、記憶は鮮明に、或いは書き換えられて行く。時のみが唯一の癒しで在るはずなのに、私はまだ苦しめられている。
何処かに存在する私の核が粉々になるまできっと続くのだ。嗚咽は止まらない。人を喰らい生き続ける私の存在意義は私を苦しめるだけだ。
今なら私は神をも食すだろう。
空気の抜けるような咳が続く。手で触ればはっきりと解るほどの高温。風邪であろう。薬も、栄養のある食べ物も無い。
当然医者など望めるべきも無く私は途方にくれるだけだ。
「お父さん、悲しい顔はしないで、何も悲しくないでしょう。真美は元気だよ」3歳の子供に慰められる父親。声は震え、言葉と言葉の間に咳が挟まれる。
私はほうれん草を粉ミルクで煮込んだスープを真美に与える。
「美味しいねお父さん。お父さんのスープは美味しいね。お父さんも食べようね。真美と一緒に食べようね」
私は卵が欲しい。米が欲しい。薬が欲しい。少しで良いので滋養のある肉が欲しかった。小さな手でほんの少ししか食べる物の無い状態で真美の病状がよく成るとは思えない。この時期、真美だけではなく急激な空気の乾燥と劣悪な環境により強い菌が発生し多くの人間が風邪にかかっていた。また同時に多くの人間が命を落としていた。
命を失う者は老人と子供だった。もともと予防接種も何も受けていない為、真美には風邪だとしても、私からすれば末期の癌と代わらぬほど恐ろしい病気であった。
常日頃からまともな栄養も取れない彼女には余りにも強い菌なのだ。何故私にではなく彼女に菌は行くのだ。私は自らの抗菌体を憎しみすらした。
何故真美に。何度も繰り返される悲鳴。
「お父さん」日々弱くなる呼びかけ。「なんだい?真美」何度も強く聞き返す私。真美の生命がすこしづつ漏れているような気がする。そしてそれを打ち消す為の悲痛な顔が私の日常の顔に成ってしまった。
「お父さん、お願い悲しい顔はしないでね。真美はお父さんの顔が悲しいと真美も悲しいの。お父さん」
「わかってるよ真美。真美大好きだよ。真美は元気に成るからね。美味しいご飯を食べようね真美。待っててね。直ぐ直るから」
“こく”“こく”と何度もうなずく真美。それでも必死で笑顔で居ようとする真美。私は涙が溢れないように、言葉が震えないように。出来る限り笑顔でいれるように全てのエネルギーを奮い起こす。
私は栄養のある食べ物を探しに外に出る。
「お父さん早く帰って来てね」「もちろんだよ、直ぐに帰ってくるよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ここ数日の儀式。直ぐには帰れない。食べ物などもうどこにも売っていないのだ。カラスさえ餓え死ぬ街。
私は外に出ても何のあても無かった。誰もが食に餓えている。数少ない友人を頼りに幽霊のように街を彷徨う。少しの米、一つの卵で良い。栄養の有る物を彼女に食べさせる為なら、私は全ての血を売ってしまっても構わない。
私の頭の中では、何故か母親から血をすする子供の映像が延々と流れていた。
無意識に。しかし確実な形と成り、私は一つの結論に辿り着くのだ。喉がなる。緊張に心臓が震える。
街には私の様な幽霊は数多く存在した。老若男女の幽霊。
その日、私は幸運にも少しの米を手に入れる事が出来た為、家に戻った。真美におかゆを作りながら、私の心中は既にある決断を下していた。
私は興奮していた。その日は真美の調子も良さそうに見えた。
翌日、私は朝早くに家を出た。真美の寝顔を私は見ずに出かけた。正直に言えば真美の顔を見る事が出来なかったのかも知れない。
全ての細胞が心臓に成っているかのようだった。血管が破れるのではないかと思う程、私は緊張していた。真美の顔を思い浮かべようとするが、真美の悲しむ顔しか思い浮かばない。私は間違っている。私は間違っているが、自覚している。私に必要なのは覚悟だ。覚悟と決意。
意味の無い言葉が何度も頭の中で浮かんでは消えて行く。叫んでしまいそうだった。何故か周囲が気に成って仕方が無い。息苦しかった。呼吸を忘れていた。体中に冷たい汗がまとわりつき、獣の様な体臭が鼻に付く。
私は獣に成るのだ。そして肉を喰らうのだ。私は獣が子供の為に肉を求めて走る草原を思い浮かべた。獲物を狙い、静かに攻撃の機を狙う獣達を私は思い浮かべた。
法律は死んだのだ。私を苦しめるのは一体何なのか。良心なのだろうか、街には腐臭を放つ死体がいくつもある。何れは誰もがその一つに数えられるのを待つだけなのだ。成らば、私が少し時期を早めてあげるだけだ。
違う。私は何度も自分の中に正当性を産もうと試みは失敗を繰り返す。理由は要らない。真美に滋養のある肉を、ただそれだけを素直に求めれば良い。新鮮な肝臓と油の乗ったバラ肉。
日々弱る真美に必要なのは栄養だけなのだ。私はしっかりと研いだ包丁を右手に持つ。周囲の人々は隠すことを諦めた、あからさまに気付いている包丁に対して何ら驚きもしない、誰もそんな事はどうでもよいかのようだ。私は幽霊であり、彼らも幽霊である。
私は周囲を見渡す。幽霊を見渡す。驚愕も恐怖も、逃走の兆しすら見えない。私は一人の男に歩みよる。幾つ位だろうか、恐らくは30歳前後。身長は私とさほど変わらないように思える。恐らく175cm程度、目は既に死んでいた。私はゆっくりと歩み寄る。
彼はそこで初めて私を認識し、そして包丁に目をやる。
「俺を食べますか。あんたは俺を食べますか」
死んだ目の男は私に問いかける。私の全身からまた汗が噴出す。獣臭さがまた蘇る。私は涙と鼻水が一緒に出ては震える。
「貴方を食べます。私は娘の為に貴方を食べます」語尾は底なしの沼に消えるかのように震え、嗚咽に変わる。
死んだ男の目に命が宿ったかのように私はその一瞬感じた。
「そうですか、俺を食べますか。あんたは凄いよ。俺には無理だ、俺には守る者が居ない、例え思い浮かんでも実行にはうつれない。全然構わない。俺を食べて下さい。生きて下さい、娘さんと出来える限り生きてくれ。俺はもう駄目だ、本当にただ死に場所を探しているだけの毎日だ、自殺も出来ず、ただ、ぶらつき頭が狂うか、或いは餓死するを考える日々。俺にはもう何も無い、絶望すらも無い。あんたは俺を喰うなら、俺は一番良い死に場所を見つけた事になる。お願いだ、痛くないようにしっかりと殺してくれ。ここは人目につくからあんたの都合の良い場所に移ろう。そこで俺をしっかりと一瞬で殺してくれ。感謝するよ、俺はついてる、最後の最後に本当についてる、あんたとあんたの娘の未来の一部に成れるのなら、こんな世界に生まれて来た意味があるって事だ」
一息に言葉を吐き出すと、男は短く震えた。私にはもうよく解らなく成っていた。何が解らないかのかさえも解らない。但し私の意志は全くぶれていなかった。真美に必要な物は相変わらずハッキリとしているからなのだろうか。
私は男の前で何度も首を縦に振るだけであった。壊れたおもちゃのように私は言葉を無くし、首の関節が可笑しくなったかのように何度も、何度も頭を縦に振る。
「あっちへ」震える声で私は男に死角に成ろうである、路地裏を指差した。男は何もかも悟っているような目で路地裏をほんの少し眺めた後、素直に足を歩めた。
「大丈夫、後悔も躊躇も要らない。俺はただ自分が最後にどこで死ぬのかを確認しただけなのだから。虚勢でも何でもないよ。本当だよ。俺は久々にちょっと興奮すらしている。まともな死に方が出来るからだ。無駄死にじゃない。意味のある死だ。そうだろ。あんたは俺を食べる。そしてあんたらの血と肉になる。良いじゃないか。こんな時代だ、ある意味最高の死に方だよ」
男は饒舌だった。でも確かに私を元気付ける気持ちが見えた。男の言葉には、むしろ私が男を殺さない事を恐れているようにすら感じた。
私達は路地裏に立つと無言で向かい合った。包丁はまるで右手の一部になったかのように強く握られ、切っ先は震えていた。男は包丁にまるで気付いていないかのように一度も目を包丁に向ける事は無かった。無言状態が暫く続くと男は言った。
「あんたはきっとこれから何度もこうやって躊躇しながらも、人間を食べて行く事になるだろう」
まるで預言者の様に男は言うと、包丁の前に進み出た、そして私の震える右手を両手で握り、心臓と思える場所へ誘った。
「さあ、後は衝けば良い、大丈夫、きっと全て上手く行く」男は全てを悟っている様にも見えたし、ほっとしているようにも見えた。男は確かに望んでいた。
私は包丁がぶれない様に目を落とし、腰をしっかりと落として唯、前に突っ込んだ。包丁は何の抵抗も感じなかった。骨等に当たった感覚も無く、豚肉に包丁を入れたかのうようにすっと男に吸い込まれた。
もう柄迄届いていたが、私は何度も、何度も押し込んだ。男はふっと息を吐き出しだけで、一言も発する事は無かった。私は何時の間にか男と一緒に倒れ込んでいた。右手は包丁と接着剤か何かで強く引っ付けられていたように離れず、私はどうにか包丁を引き抜いた。以前映画で見た、噴水の様に血が飛び出すかと思ったが、そんな事も無く、ただ砂浜に海水がしみこむように、男の服に血がゆっくりと広がって行くだけだった。男は絶命しているように見えた。風景が消えて、私はどこか静かな場所で男と二人で佇んでいるように感じた。
私は心の中で何度も真美を呼んだ。“真美”“真美”
真美が私を冷静にした。私は直ぐに男を腹を割く事にした。何度も何度も私は想像していた。それでも想像と現実の差は余りにも大きかった。腹を割くと血生臭さと、糞尿の臭いが強烈に私を襲った。恐らく大腸を一緒に裂いてしまい、溜まった糞尿が溢れ出たのだろう。
更に血は何度も掌を固めては、更に新しい血で覆い、硬い手袋を装着しているかのうように自由を無くした。
それでも肝臓を捜し当て、私は持ってきた袋に入れ込む、次に肋にある肉を削ぎ落とす。私は一度も男の顔を見る事は出来なかった。これは作業なのだ。何度も、何度も私はそう心で繰り貸しながら作業を続けた。
肉と、肝臓で袋は既にパンパンに膨らんでいた。私は包丁を持ち、肉の詰まった袋を持つと家路を戻った。
この辺の記憶が定かではない。私は男に手を合わせる事も、また周囲に居た人間が自分をどのように見ているかすら全く記憶に無いのだ。そう私は感謝すらしていないかった。
“真美”私は心の中で何度も真美を呼んだ。呼び続けていた。真美に食べ物を、そして風邪等すぐ治るのだ。真美に栄養を。
私は走った。家に着くと、鍵穴に鍵を入れ込むことに随分苦労した事を記憶している。むしろ私の記憶はここからひどく鮮明で、その空気の流れや、周囲の細かな音等が完全に頭の中に思い浮かぶ事が出来る。
どうにか扉を開くと、私は真美にただいまも言わず、直ぐに台所に立った。いつもの習慣で手を洗うと流れる水が真っ赤に染まった。私はそれが何故かをその時よく把握出来ていなかった。汚れが酷いとしか認識せず、私は手を洗った。そして直ぐに鍋に水を入れ、沸かし、袋から肉と肝臓を取り出し、これもしっかりと水洗いをした。今も、あの頃も水だけは水道が途切れる事無く出てくる。ここ最近は温度が更に低くなった所為なのか、まれに水道が凍り、水が出にくい事もあるが、不思議と完全に止まる事は無い。
洗い流したあと、私は良く解らないのだが、肝臓を生で齧った。臭みも無く、それは驚く程美味しかった。体中に久しく入って来なかった滋養が本当に吸収するかのように体内に注がれていく感じだった。知らない内に私はその美味しさなのか、喜びなのか、或いは悲しみなのか解らないが涙を流していた。
私は泣きながら、肝臓を炒めた。真美に生物は行けないと何故か強く思い、肝臓を炒めた。沸いた鍋には肉を放り込み、先に炒め終わった肝臓を磨り潰し、ペースト状にした物を真美の所に持っていった。
「真美、ご飯だよ。風邪が直ぐ治るご飯だよ」私はやはり涙したまま、真美の傍へ歩み寄った。真美からは何の返事も無かった。予想出来ていたのかも知れない、或いは昨日から本当は気付いていたのかも知れない。今でもその感情をどのように表現すれば良いのか解らない。真美は布団の上で、既に死んでいた。私は涙したまま、何度も真美にご飯だよと呼びかけていた。涙は尽きる事無く流れ続けていた。
“真美”“真美”嗚咽だった。絶望の中、絶望の深さに更に絶望し、私は嗚咽をもらしていた。真美の笑顔、真美の声が何度も頭の中で延々とフラッシュバックし、手に持ったペースト状の肝臓が小刻みに震えていた。
なぁ、真美お父さん、真美にご飯作ったんだよ。真美、これさえ食べれば直ぐに風邪が治るんだよ。真美、なぁ真美。
私は小さな真美を抱く。軽い真美。真美は冷たく、真美は糞尿を垂れ流していた。真美の香りが邪魔されたような気がして、私は真美を風呂場に連れて行き、ゆっくりと真美を洗った。洗った真美は生きているかのようだった、しかし、腕も足も曲がらず、寝転がっていた状態のままの真美は二度と目を開く事は無かった。
何度も何度も繰り返す記憶。私の記憶は毎晩私を磨り減らす。疲労と言う名の猛獣が何度も私に対して爪を突き立てるのだ。
私は真美が居なくなってから、あの男の言うとおり、幾人も食した。私は真美をお腹を満たす事が出来なかった代わりに誰かのお腹を満たす事しか出来なくなった。存在意義が自分のアイデンティティと重なったのだろう。
共食い(1)
全部で5編考えており、これは第1編に成ります。
出来ましたらご感想お聞かせお願い申し上げます。