野風 ―鏃の精霊―

現在、世界中で起こっている戦争。どうして人は戦争をするのか? 戦争を回避するにはどうしたらいいのか?
わからないなりに考えて書いた作品です。
むろん簡単に解決出来る問題ではありませんが、一人一人が考える材料になれば幸いです。

序文

 二千数百年前。日本はまだ倭国とさえ呼ばれていない、ただの辺境の島国だった。
 一万数千年続いた平等と平和と共生の縄文が終わりを迎えていた。
 縄文後期から千年の長きにわたる、寒冷化と食糧難の波。
 大陸から押し寄せる人々。新しい技術と文化。
 時代は格差と戦争と略奪が支配する、弥生の世へ移ろうとしている。
 これは、苦悩の中で縄文と弥生が混ざり合う頃の物語である。

手負いの獣

 色づき始めた林の間を縫って、秋の風が走り抜ける。こすれ合う枝葉がからからと乾いた音をたて、傾きかけた太陽が優しい光を大地に落とす。
 一人の少年が、狩人として大きな跳躍を見せようとしていた。
(いいか、心をからっぽにして、野風になれ!)
 いつもの父の言葉を思い起こしながら、コナは弓を引き絞った。そのかたわらでは矢が外れてもいいように、父のウルチが同じく弓をかまえて見守っている。
 狙いは野兎。三十歩先の下草の中で見え隠れしている。一歩二歩進んでは後ろ足で立ち上がり、辺りを見渡しながら、しきりに鼻をひくつかせる。その足元で音もなく折れしなる柔らかい草々たち。
 じりじりと両者の距離は伸び、冷静さを保ちつつもコナは内心焦りを感じ始めていた。引き絞ったままの腕が、だんだん重くなってくる。
(もう少し……、うぅ……)
 慌てちゃいけない。急ぎ過ぎたために何度も失敗しているじゃないか。好機が訪れるのを待つんだ。コナは自分に言い聞かせた。
 その刹那、突如吹いた強風で古枝が折れ、ひときわ大きな音が鳴った。長い耳がひらりと動き、下草の陰からその姿が躍り出る。
(今だ!)
 コナは矢を放った。
 きらめく黒曜石のやじりは、獲物を襲う鷹のように空を裂き、わき腹に命中した。野兎は苦しみから逃れようと反射的に暴れ、草やぶの中に転がり込んだ。
「よし!」
 ウルチは弓を捨てるとすばやく獲物に駆け寄った。万が一にも逃がさないようその毛深く太い腕で捕らえる。目じりの脇に刺青のある髭だらけの角ばった顔。そのいかつい顔に満面の笑みをたたえて、息子のもとに大股でゆっくりと戻った。
「よくやった! 上出来だ。……さあ、しっかり最後までやれよ」
 一転して大真面目な表情になり、ウルチは後ろ足をばたつかせている野兎をコナに差し出した。命の灯はまだ消えていない。
 コナは、うれしさのあまり小躍りしそうになるのをかろうじてこらえた。少しずつ大人になって、自分で狩りが出来るようになったことが、うれしくて仕方がなかった。抑えようにも抑えられない喜びが、湧き水のように全身からあふれ出てくる。だが、喜んでばかりはいられない。やらねばならない大切な仕事が待っている。
 ふうっと深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、弓をそっとかたわらに置くと、まだ息のある野兎を両の手でそっと受け取った。
 ふわっとした柔らさと温かさ、意外なほどずっしりとした重さが、手に乗る。
(……これが、みんなの糧になるんだ)
 コナは命の重さを感じ、自然と神妙な面持ちになった。歓喜の波が静かに引いていく。
 寒冷化のため、慢性的な食料不足が、何年も何年もコナやウルチが生まれるずっと前から続いている。そのために食料を求めて南下を繰り返し、この場所にたどり着いた部族の先祖たち。ただ食べ物を得て生きることが、とても大変なことだった。
 だから、たった一匹の小動物の大切さを、コナは良くわかっていた。
 左手でしっかりと両耳を持ち、しゃがみこんで右ひざで野兎の体を固定する。右手で腰から黒曜石の短刀を取り出すと、柔らかい毛をよけ首の血管をひと思いに切断した。深紅の滴りが地面に還っていく。新鮮な血の臭いが鼻腔の奥に届く。その様を二人は言葉なく見つめていた。
 大人の男ならば小動物の首くらいなら腕力でへし折るのが当たり前だが、十二歳のコナにはまだ無理だった。でも必要なのは、できるだけ速やかに苦しみを取り去ってあげること。やり方は問題ではない。それが命をささげてくれた相手へのせめてもの感謝と罪滅ぼしだった。
 最後に小さく身もだえて、野兎は完全に動かなくなった。
「あなたの命に感謝する。あなたの血肉に感謝する。この地にとどまることなく、神の地に還るように。たたることなく還るように」
 コナは小さな声で亡骸につぶやいて、それから少しのあいだ念を込めるように目を閉じる。傾きかけた日差しがコナの顔を温かく照らし出し、かすかに生え始めた口元の産毛が金色に輝いた。
「帰ろう。みな喜ぶぞ」
 目を開けたコナに、ウルチはそっと微笑みかけた。
「うん。セブとキボルに早く見せたい」
 コナは顔中をくちゃくちゃに崩した。早く幼い弟たちに獲物を見せたかった。目をきらきら輝かせて喜ぶ顔が浮かぶ。声より先にお腹がぐぅと鳴るかもしれない。
 獲物を素早く腰帯にくくりつけると、ウルチのあとを追って跳ねるように歩き出した。ここから部族の住む集落まではいくらもない。栗の実が茹で上がるくらいの間に着くだろう。麻で織りあげた着物の腰で、野兎がまるで生きているように踊った。

 やがて親子は、今時分は水の流れていない枯れ沢にぶつかった。水流が運んだ大小の岩が露出し、まるで石の川のように見える。二人は岩の上を歩き斜面を下った。
 しばし下っていくと、段々と地面がしっとりと濡れてきて、吹く風にも湿気が感じられるようになった。周囲には湿った場所を好む柳やはんの木などがちらほら生えている。岩には緑色の苔が生えている物が目立つようになり、うかつに乗るとつるりと足を滑らせてしまいそうだ。
 コナが次の足の置き場に迷っていると、ほら、と先を歩くウルチが手を差しのべた。
「いいってば。小さな子供じゃあるまいし」
 狩りだって出来る立派な大人なんだ! そんな思いが先にたって、コナはウルチの手を取らずに、もう一度視線を落とした。
 でも中々よい足場がない。
「無理するな」
 見かねてまたウルチが手を差し伸べる。
「わかったよ。もうっ!」
 コナが諦めて、ふてくされた顔で手を握ろうとすると、今度はウルチがすっと手をひっこめた。
「わっ⁉」
 空振りを食って危うく転びそうになったコナは、眉をよせて思いっきりしかめっ面になる。その顔を見て、ウルチは思わず吹き出さんばかりの勢いで笑いだした。父にしては珍しいひょうきんな笑顔とその大声を聞いて、ふてくされていたはずのコナもつられて笑い出す。二人の笑い声は、秋風に乗って林の中を飛んだ。

 二人がさらに道なき道を歩み進めると、立木がなくなり急に空が開けた。コナは狭苦しい巣穴から出た狸のように、ふうっと息を吐き出した。だが次の瞬間、目の前に広がった絶景に思わず息をのんだ。
神山(かみやま)が燃えてる…」
 遠く北西の方角に天高くそびえたつ美(うるわ)しき峰。朝、ここを通ったときには霧が濃くて見えなかったその堂々たる姿を、今は余すことなくさらしている。まるで偉大なる大地の精霊の化身ような巨大な山を、部族の者たちは畏敬を込めて〈神山〉と呼んでいた。薄っすら雪化粧した山頂付近は、秋の夕日を浴びて鮮やかな烏瓜(からすうり)色に輝いている。
「おお、初雪が降ったのか。里に雪が来るのもそう遠くはあるまい」
 山を仰ぎながら、ウルチは目を細めた。コナも横に並び、二人でしばしの間、胸に焼き付けようとするかのように、美しい景色を眺めた。揺るぎなき父の背中にも似た神山の姿が、コナは幼い時から大好きだった。

 穏やかなひとときが過ぎ、里へ向かう方向へとまた歩き始めた時、不意に姿を現した獣がいた。
 優しく緩やかに流れていた時がぴたりと止んだかに思える一瞬。ぴんと鋭い空気があたりに張り詰める。
 二人は咄嗟に身構えた。
 その鼻を吐き気がするほどの腐臭が襲う。
 もし親子が風下側にいたのなら、あるいは探し打ち猟ではなく、いつものような数人がかりの追い込み猟なら、同行する狩り犬のクロアシが、いち早く臭いに感づいたはずだった。――しかし、ここにクロアシはいない。徐々に強くなってきていた風音が邪魔をして、接近する気配さえもかき消され、その姿を目の当たりにするまで全くわからなかったのだ。
 コナは対峙した相手の首に、折れた矢が深々と突き刺さっているのを見た。傷口はべっとりと血と膿で汚れ、腐り始めている。
(手負いの猪!)
 それが唐突に現れた獣の正体だった。
 風下にいた猪は人の臭いに気づき、わざわざ近づいてきたのだ。気に入らぬものあれば突き飛ばしてやるとばかりに、盛んに太く短い首を振った。
 いくつも心臓が出来たかと思うほど、コナの体は激しく脈打った。猪の異様な容姿に気後れして、動くことはおろか考えることもままならない。
 相手は不意に動きを止め、鼻を突きあげひくひくと臭いを嗅いだ。
 次の瞬間、(見つけたぞ!)と言わんばかりに一度大きく鼻を鳴らし、コナに向かって弾かれたように突進してきた。
(ええっ!)
 弓を構える事も短刀を抜く余裕もない。だとすれば残る手段はただ一つ。逃げること。
 だが。
 頭ではわかっているのに体が少しも動かない。そうこうしている間にも猪は目の前に迫って来る。
「よけろ!」
 ウルチの叫びで硬直が解けた。
「うわあっ!」
 コナは悲鳴を上げてとっさに右横に飛び、かろうじて反射的に突進からのがれた。その反動で腰にくくった野兎が抜け落ちる。飛びのいて転んだ先に大きな石があり、右手を親指から強く打ち付けた。親指がちぎれたのではないかと思うほどの激しい痛みに、意識が飛びそうになるのを懸命におさえ、次の攻撃に備えてしゃにむに向き直った。
 行き過ぎた猪はくるりと半回転して向きを変え、再度コナに向かって踏み込もうと、前蹄で地面を蹴った。
「おぉうらっ!」
 その時、ウルチが獣のように言葉にならない大声で吠えた。同時に、激しく体を揺さぶって猪を挑発した。
 四肢を止め、うつろな目で、じろりと猪がウルチをにらみつけた。荒い息を鼻から吐き出し、怒りを露わにする。
「おい、どうした! こっちだ!」
 ウルチはさらに気を引こうと大声で叫び続けながら、油断なく弓に矢をつがえた。目は吸い付いた蛭のように決して相手から離れない。
 猪がウルチに突進し始めたのと、ウルチが弓を構えたのはほぼ同時だった。両者の距離はわずか十歩ほどしかない。
 ウルチは一瞬で狙いを定め矢を放った。
 どすっと鈍い音が響いて、黒曜石のやじりが急所の眉間を貫いた。それでも勢いは止まらず、がけを転がる岩のように猪は矢を突き立てたまま走り、ウルチに激突した。
 ウルチは猪もろとも地面に転がった。いや、彼にしてみれば、猪を受け止めつつも被害を最小限におさえるために、力を逃がしてわざと転がったに違いない。転がりざま猪の牙が左腕をかすめたが、転がった勢いですぐに起き上がり、腰の短刀を手に取る。全身の筋肉が、どんな動きにも対応出来るように柔らかく揺れている。
 しかし、横倒しになった猪が起き上がることはなかった。至近距離から放ったウルチの矢は猪に致命傷を与え、苦しめることなく命の炎を消し飛ばした。
「父さん!」
 しばし呆然としていたコナは、はっと我に返りウルチに駆け寄った。今頃になって急に体が震えだし、足が絡んでうまく走れない。恐怖が食べ過ぎて消化不良を起こした肉塊ように、腹に居座っている。
「大丈夫だ。大したことはない。それより、お前は?」
 ウルチは、自分のわずかに出血している左腕をちらりと確かめてから、コナを見た。
 コナはそう問われて、興奮して感じなかった右手の痛みが一気に噴き出した。自分が右手だけの生き物になったように、頭の中が痛みでいっぱいになる。
「動かしてみろ」
 言われるままに、じんじんと脈打つように痛む右手に視線を落とし、ゆっくり握ってみる。
「ぐっ!」
 親指に刃物を突き立てられたような激しい衝撃が走る。歯をくいしばって苦痛に耐えようとするも、ゆがんだ顔がなかなか元に戻らない。まるで丸石で叩き潰された胡桃の実になったようだ。つぶった目じりに涙がにじんだ。
「痛そうだな……」
 ウルチはしばし目線を漂わせるが、覚悟を決めたのかぐっと奥歯を噛むと、コナの頭に手を置いた。褒める時も教え諭す時も、事あるごとに頭をなでるのが、彼の癖だった。
「コナ。つらいとは思うが、集落に戻って長(おさ)に事情を説明して、皆にここに来るように伝えてくれ」
 ウルチは横たわった猪の亡骸に目を向け、ため息をつきながら言葉を続ける。
「打ち損じたのは、ヒボリ族かフシ族かわからんが。傷が腐って、その痛みが心を狂わせたんだろうな。かわいそうに。――行けそうか? 出来れば俺が行きたいが、やらなくちゃならないことがある。わかるな?」
 父は真剣な眼差しでまっすぐ息子を見つめた。一刻も早く始めなければならないこと。それは猪に宿っていた精霊にたたられぬよう射抜いた者が慰めること。さらに手負いの獣の場合、狩りの獲物とは違いその強い恨みがこの世に残らぬよう、部落をあげて数日をかけて行う特別な儀式が必要になるのだ。彼はその重要性を、狩りを見習い始めた時から日々聞かされ続けてきた。
 コナは黙って大きくうなずいた。
「よし、頼んだぞ」
 ウルチも大きくうなずき返した。
 右手の痛みを懸命に追い払うよう努めながら、コナはひとつ大きく深呼吸した。ありがたいことに、握ろうとしたことで生じた痛みが、少しずつ和らいでくる。
「長に伝えたら、傷の手当をしてもらえ。いいな?」
 再びコナがうなずき、痛めた右手をかばいながら走り始めた。少し走ってから、野兎がないことに気が付いて戻り、拾い上げる。視野に入ったウルチは地面に腰を下ろし、祈りの言葉をつむぎ始めていた。そのそばで薄紫色の紫苑(しおん)の花が、まるでウルチを手招きするかのように揺れている。見てはいけないものを見たような気がしてコナは空恐ろしくなった。

死の国送り

 秋のうららかな陽ざしが、森に囲まれた集落全体を優しく包み込んでいる。木漏れ日を映した大地に、アゲハ蝶のような細かな美しい模様が舞っている。
 部族の民は、手負いの猪を仕留めた翌日から三日をかけ、いたたまれない猪の精霊を慰め、《神の国》ではなく、《死の国》に送り出す儀式を行わなければならなかった。
《死の国送り》の儀式は、細い杉の丸太で組まれた祭壇の前で行われる。半日以上かけて作られた祭壇は、様々な木の枝や草木で染められた色とりどりの麻布でにぎやかに飾られていた。
 その中央には、丁寧に川で身を清められた手負いの猪が鎮座している。生きている時に恨みを呑んでいたその顔は、死が与えられたことによって、返って穏やかになったように見えた。
 その周りには、女衆によって丹精込めて作られた蒸した餅米や椎の実の団子や汁物、焼いた川魚や獣肉、芳しいガマズミの実の酒など、数多くの食べ物が捧げられていた。こんな折りでもなければなかなか目にすることのない貴重な品々だが、これらは猪と共に埋葬される。
 祭壇の右わきには、邪を払う力がある炎が威勢よく揺れている。これを絶やさず守るのは猪をしとめたウルチ重要な役目だった。この儀式は、主となる部分は呪術師のピリケが行うが、最終的に命を消し去ったウルチは、三日間、決して祭壇すなわち猪の精霊のそばを離れてはいけない。食事や睡眠はもちろん、排泄すらも近くで行わなければならないのだ。
「精霊よ。偉大で立派な猪の勇者よ。お前の雄姿を私は忘れないだろう。お前の残した子らも、この地で幸福に生きていよう。心配せずに死の国に行くがよい」
 ときおりたき火に薪をくべながら、彼はひたすらに祈り続けた。

 儀式の一日目は、呪術師が位の高い火の神に儀式の加護を祈り、それから祭壇の前で猪の精霊が寂しがらないように、部族全員で宴をもよおす。宴の席には出来る限りたくさんの料理を並べ、夜深くまで語らい、歌い、踊り、にぎやかに精霊を慰めるのだ。御馳走を前に子供たちははしゃぎそうになるが、大人にたしなめられて静かにしている。叱る大人たちの方も、どことなく嬉しそうに見えるが、仕方がないことだろう。普段はそれだけ食糧に飢えていたのだ。

 手負いの精霊を送り出す儀式を初めて経験するコナたち子供らに、儀式の合間を縫って、呪術師のピリケはその手順や意味などを丁寧に教え伝えた。
 齢五十とも六十とも思える老女ピリケは、目の下と顎に呪術師の刺青を刻み、首から儀式に使う獣の骨の首飾りをかけ、部族最年長の威厳を見せていた。多くの者が四十歳過ぎには亡くなる時世にあって、群を抜いて長生きだった。
 祭壇前での「語らい」がひと段落し、宴の席に着いたピリケのそばに、部族で一番小さな男の子、クサキナがちょこちょことやってきた。ピリケは彼をひょいと膝の上に座らせると、そばにあった餅団子を一つ取り、クサキナにやった。彼は小さな両手で団子を抱え込むとにこにこしながら、早速もぐもぐと夢中で食べ始めた。その様子をピリケは目を細めて愛おしそうに見つめる。
 しばらくして団子をぺろりと平らげたクサキナは、ピリケの胸飾りに興味を持ったらしく、かちゃかちゃといじり始めた。普段掛けている物と違うので、玉虫のように輝く瞳を松明の光りできらきらさせながら盛んに、
「ピッケばあ、これなあに? おっきいね」
 と質問してくる。
「これか? これはなあ、熊の牙じゃ。今日は死の国送りの儀式じゃから、特別じゃ。熊の強い精霊の力を借りて、あの猪の精霊を暴れないように諭すのじゃ。」
「ふうん。セイレイって、いっぱい、いっぱいいるんだね」
「草にも木にも獣にも虫にも、精霊は宿っておる。もちろんクサキナ、お前の体の中にもにもな」
「クッチャの中にも? チャッチャにもいる?」
 クサキナは自分のことをクッチャと呼ぶ。チャッチャは飼っている犬の名だ。
「ああ、いるとも。石にも、木にも、火にも、土にも、全ての物の中に精霊はおるぞ」
 深い皺の中に埋もれた顔が笑っている。
「とっとがね。チャッチャによく言ってるよ。よく働いてくれてありがとうって。かっかなんてさ。たき火の火に話しかけてたよ」
「うんうん。ねぎらってやれば精霊は応えてくれるからのう」
 ピリケは長く伸びた眉毛をつまみながらうなずき、右隣に座ったまま儀式の様子をつぶさに見ていたコナに視線を向け、さらに続ける。
「さてコナ、精霊が死ぬとどうなるかな」
「動物も草木も石も、神の国に帰っていく。それから……」
 少し考えてからコナは口を開いた。痛めた右手には、細く裂いた麻布が巻かれている。
 呪術師見習いのトケレベが治療してくれたのだ。麻布の下には、板取(いたどり)の葉をすり潰したものをよく塗り込んである。腫れや痛みに良く効くのだ。
 母親のシヤラはチチェ(竪穴式住居)で横になっていろと言うが、横になっていても痛いものは痛いし、それにコナは、これから部族の将来を担う一員として、《死の国送り》の儀式について知る機会を逃したくなかった。
「それから?」
「それから、またこの地に戻って来るのだと思う」
 コナは鈍い右手の痛みに耐えながら、ピリケの問に答えた。
「うむ、時がたって、精霊がまた戻りたいと思えば、だが」
 いつの間にか周りに集まった数人の子供たちを見渡してから、ピリケはしわだらけの節くれだった手で、クサキナの肩をぽんと優しく叩いた。
「ええか、そうして精霊は、何遍も何遍も生き変わり、死に変わりしておるのだよ。そのおかげで、みんな食べ物を食べられるわけだ。わかるかな」
「うん」
 クサキナは利発そうにうなずいた。
「だがのう、精霊も恨みを持ってしまうと、困ったものになってしまう。強い強い恨みを持ってしまった精霊はよ、たたりをまき散らし、災いを呼ぶのよ」
「ワザワイ?」
「病を運んだり、嵐を連れてきたりするんじゃ」
「ワザワイ。嫌だ」
「そう。んじゃからのう、うらみを宿した精霊は、もう決してこの地に戻って来ないように、《死の国》深くに送ってしまわなければならんのじゃ。ウルチがしとめた猪は、その悪しき精霊なんじゃよ。気の毒なことにな。その苦しみを終わらせるためにも、永い永い眠りについてもらわなくてはならん。ほんに気の毒でならんよ。さあて、もうひと踏ん張りするとしよう」
 そう言って、クサキナを膝から降ろすピリケ。水を一口だけ飲んでから祭壇の目の前に向かうその表情は、ひどく寂しそうだった。

 二日目には、前日の火の神に続き、木の実の神、大地の神、猟の神、水の神、獣の神など、十四の神に、手負いの猪が無事に死の国で穏やかな眠りにつけるよう願った。
 その後、一日目と同様に宴が饗され、歌や踊り、そして《語り》が行われる。《語り》とは、部族に伝わる伝説や戒めなどを、歌うような独特の調子で話す昔話のようなものだ。
《死の国送り》の際に行われる《語り》は必ず最後まで語られなければならない。そうでないと、続きが気になって、悪霊はまたこの地に舞い戻ることになると信じられている。
 月輪熊や狼や立派な雄鹿などの、位の高い精霊が淀みなく仕留めれた際には、《死の国送り》ではなく《神の国送り》の儀式が行われるが、その際には、逆にその獣がまたこの地に戻ってくるように、《語り》は途中で止められる。
《語り》の続きが知りたい獣たちは、また肉体を持ってこの地に帰ってくると信じられているのだ。
 そして最後の三日目には、精霊が去った猪の身体を、神山が良く臨める北の山の大地に葬り、《死の国送り》の儀式は終わる。

 儀式二日目の夜宴が開けた後にも、ウルチはたったひとり飽くことなく猪をなぐさめ、たたえる言葉を繰り返していた。
 ピリケの祈祷や語りの最中は、そのそばでつかの間の休息が得られるが、さすがに二昼夜も経つと声は懸巣のように枯れ、目は干し鱒のように乾いていた。
 ぱちっ。
 新しい薪に火が移り、辺りがほんの少し明るくなる。ウルチの、鹿の毛皮を着た背後からピリケが歩み寄ってくる。
「わしがやる。少し横になるのじゃ」
 見かねたピリケが声をかけた。
「いや、まだ大丈夫。あなたこそまだ休んでいるといい。何せ歳が歳なんだから、無理は禁物だ」
 言いながら、ウルチは生気のない顔で無理やり笑顔を作った。
「お主こそ無理をするでない。まだ明日があるのだから。元気なふりをしても疲れているのはお見通しだで」
 その手に乗るかとばかりに、ピリケは大真面目な顔で顎をなでた。
 ぱちっ。
 二人の会話を繋ぐように、燃え落ちる薪がはぜる。
「精霊と話せるおばばには、何でもお見通し、か」
 なおも微笑みながらウルチは言う。
「わしなら大丈夫。年寄りの眠りは短くともよいのじゃ」
 ピリケは古狸になって、ほとんど歯のなくなった口で、ケケケと笑った。
「わかった。では少しだけ休ませてもらおう。そこにある薪束が燃え切る頃に起こして欲しい」
 負けたと言わんばかりにウルチは表情を崩した。言うが早いか、その場に横になり、鹿皮をかぶって眠りに落ちた。
 その様子を見届けてから、祈り紐を手に、ピリケは猪の精霊に語り始めた。
「精霊よ。たいそう苦しい思いをしたろうが、決して意地腐れてはならぬぞ。その威厳ある姿から、お主の生きざまが見えるようじゃ……」
 こうして翌日まで、儀式は続くのだ。

たたられた父と子

 真っ赤な精霊蜻蛉(しょうじょうとんぼ)が無数に舞う秋晴れの中、三日間に及ぶ儀式が終わってチチェに戻ったウルチは、使い古された皮の靴のように、よれよれに疲れていた。
 長い時間、猪に語り掛けていたためか、口元にしびれを感じ、ろれつが回らないと訴えた。ウルチは倒れた松の木のように眠ったが、翌朝になっても疲れは取れず、口元のしびれも治っていなかった。
 一方、コナの右手の具合は回復に向かい、まだ力は入らなかったが、腫れはほとんど引いていた。
 それから数日してもウルチの具合はよくならなかった。むしろしびれは全身に広がり、高熱が出た。やがてしびれは激烈な痛みに変わり、状況は悪化するばかりだった。ピリケが病を退ける呪術をほどこし、蓬や蕺を煎じた薬を与えたが、ウルチは一向に回復する気配がなかった。
(ウルチは、手負いの猪の精霊にたたられた……)
 部族の者たちはささやきあい、気の毒がった。
 ピリケの指示で、ウルチは集落の北側の外れにあるチチェに移された。それは重い病人が出た時に使用されるチチェで、たたり病が広がることを警戒しての処置だった。
 ほとんど一日中うめき声をあげ、ウルチは苦しみに耐えていた。時おり痛みが弱まるのか、静かになる時があった。それが唯一の救いだった。
 近寄ってはならぬと厳しく言い渡されていたコナだったが、ある夜、闇にまぎれてウルチのいるチチェに忍び寄った。眠ろうにも気になって目が冴えてしまい、いてもたってもいられなかったからだ。
 りりりっ、りりりっ、りりりっ。
 ぎぃーっ、ぎぃーっ、ぎぃーっ。
 ついこの前まではうるさいほど鳴き競っていた興梠(こおろぎ)螽斯(きりぎりす)も、今はまばらに耳に届く程に減っていた。静かで厳しい冬が、野鼠に忍び寄る狐のように、いつのまにかすぐそこまで来ているのだ。
 ウルチは眠っているのか、チチェの中からは物音ひとつしなかった。内心、うめき声を覚悟していたコナは、闇に漂う静寂に拍子抜けした。
(えっ、まさか……)
 不意に、静寂の理由を想像して心臓が跳ね上がる。苦痛に歪んだウルチの死に顔が脳裏を横切る。急に寒気を感じて、ぶるっと震える。
 頭を振って不吉な想像を締め出すが、やはりおそろしくなって、無意味にチチェの周りをうろうろした。父親に話しかける勇気が、しぼんだり膨らんだりを繰り返した。
 やがてその気配を察したのか、中から声か聞こえてきた。
「しょこにいるのは誰だ? シヤラが?」
 ウルチの口は半分麻痺していて、ちゃんとした言葉が出ないようだ。彼は己の妻が来たのかと思ったらしい。きっとシヤラは、何度かここに来ていたに違いない。
 奇妙な父親の口調に動揺して、コナが返事を返せないでいると、
「さては、コナだだ。だめじゃだいか、ここへ来てば」
 ろれつがまわっていなくても、笑っていることが、コナにははっきりとわかった。チチェの中で小さな物音がする。ウルチがコナのいる方に這いずったらしい。
「だって、気になるじゃないか」
 コナは思わず返事をした。変な話し方でも父親と話が出来たことがとても嬉しかった。
「大丈夫なの、父さん。中に入ってもいい?」
「いや、  だべだ。中には、絶対に入るな」
 石斧をはね返す堅い樫の木のような口調に、コナはたじろいだ。少しくらいならいいじゃないか。小さな怒りが胸でぴくりと動く。
「具合が、良いとは言えだいが、心配ずるな」
「……」
 かすれた声で言われれば、かえって不安が募る。小さな怒りはすぐにつぶれて消えた。
「ぞれより、おばえの、手の具合はどうだ。ぼう、すっかり、良くなったが?」
「うん、まだ痛みはあるけど、腫れは引いたよ」
コナは確かめるように右手を軽く握った。紫色に変色していた親指の付け根は、すっかり元に戻っている。
「ぞうか。セブと、キボルば、どうしている? 変ばりだいが?」
「大丈夫だよ。姉さんが良く面倒を見てる」
「ぞうか、だら、安心だ」
 そう言った直後に、ウルチは体か痛むのか、獣じみたうめき声を上げ、大きな吐息をもらした。その後、激しい呼吸音がしばらく続き、やがて少しずつ小さくなった。
「父さん?」
 何も聞こえなくなったのが恐ろしくなって、コナはチチェの壁に近づいた。自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。
「ぼう、大丈夫だ。おさばった」
 小枝を編んで作った壁を通して聞こえてきたウルチの声は、一層弱々しくなった。
 不安に押しつぶされ、コナは何も言うことが出来なかった。ウルチも口を閉じ、二人の間にしばし沈黙が流れた。虫の声はもちろん、風の音さえ聞こえない。
 眼前に広がる夜空にひときわ大きな流れ星が、北の空から大地に向かって流れ落ちた。何かの終わりを告げるような光景に、コナはいっそう心配になった。
「父さん……」
「何だ。どうしだ?」
「父さんは、死なないよね?」
 こんなこと聞いてはいけないと思っていたのに、言葉が喉から滑り出ていた。
「父さんば、今、たたりと、戦っている。簡単にば、いかないが、そうそう、ばけるばけには、いかだいよ」
 強がったものの、ウルチは己の命の終わりを予期していたに違いない。
「でぼ、ぼしぼ、ぼしぼ、父さんに何が、あっでぼ、気に、病むだ。おばえの、せいでは、だいよ」
 父親の死を予感するコナの気持ちをあおるように、唐突にウルチが言った。
「……」
「良いか、長ぼ、いるし、おばばぼいる。ぼちろん、母さんぼいる。だから、心配だい」
「何でそんなことを言うの。やっぱり父さんは……」
 コナは、次に出かかった言葉を飲み込んだ。悲しみが真冬の冷気のように体を締め付けた。
「ばあ聞け。父さんだって、ばだ、諦めた、ばけじゃないと、言ったろう? 死力を、尽くして、戦うつぼりだ。ほんの、少しでぼ、活路が、あれば、諦 めだい。でぼ、それでぼ、逃げられない、ぼう、完全に、駄目だと、おぼったら、すっぱり、諦べる。それが、いさぎよい、生き方だ」
 長くしゃべったせいで、息が上がったようだ。懸命に呼吸を整えようとしているのがわかる。
「……」
「父さんば、自分の、ばくめを、じゅうぶんに、ばたしたんだ。とてぼ、ばん足だよ」
 苦しげな細い声とは裏腹に、ウルチの言霊は盛りの雄鹿のように力強かった。
(違う。違うよ……父さん)
 コナは、全てを拒絶するかのように口を閉ざした。胸の中で悲しみと怒りの獣が暴れ出し、抑え込むことが出来なかった。
(嫌だよ。嫌だよ。嫌だよ……父さん!)
 りりりっ、りりりっ。
 りりりっ、りりりっ。
「コナ」
 父はそんな息子の心を、言葉で背中からそっと抱きしめようとした。優しく、ゆっくり、そして暖かく。
「くでぐでぼ、おばえは、自分が、ばるいとは、おぼっては、いけだいぞ。父さんが、自分、の、ばくめを、ばたしたように、おばえぼ、自分、の、ばくめ、を、果たした、だけだ。父さん、の、子なら、ぼっと、ぶでをばれ。……ばかったな」
 りりりっ、りりりーっ。
 りーりりー。
 最後の力を出し切るように、興梠が弱々しく翅をこすった。

 それから数日した真夜中、たたりとの壮絶な戦いの後、ウルチは息を引き取った。
 手負いの猪をしとめた夜、空に浮かんでいた満月が、薄っぺらい新月になっていた。月明りのない闇夜空には、一段とまばゆい美しい星の瞬きがあった。
 死者の精霊を神の国に送り出す儀式の後、その亡骸は、丁寧に集落の中心にある墓地に葬られた。
 幸いなことに、たたりはウルチ以外には拡がらなかった。次にたたられるとしたら、コナだろうと思われたが、そのコナが何ともなかったので誰もがつめていた息を吐き出して、安堵の空気を吸った。
 それでも故人の亡骸は、普通に死んだ者よりも深く埋葬された。ピリケの固い言いつけで、直接亡骸に触れることは許されなかった。彼の私物もほとんどの物は埋めるか燃やすかして処分された。
 その儀式を、冬池の水面で凍り付いた落葉のように、じっと眺めるコナの姿があった。その表に悲しみはうかがえず、土に転がる蝉の抜け殻のように空っぽだった。
「そんなに思い詰めるものじゃないよ……」
 母親のシヤラですら、コナの心中に入り込む余地がなかった。シヤラは、連れ合いが亡くなり心の痛みを感じていたが、それより息子のコナの空虚なふるまいが心配でならなかった。
 部族の者は、口々にウルチが集落への猪の侵入を防いだとたたえたが、少しもなぐさめにはならなかった。
(父さんは、僕のせいで死んだ)
 やはりコナには、猪に襲われたときに自分を助けようとしたせいで、父親が背負うたたりを増やしてしまったように思えてならなかった。
 ウルチは次の族長になるだろうと誰もが思っていた。本人もそのつもりでいたことだろう。族長になって、まだまだ皆のために生きる心づもりだったに違いないのだ。父の無念を思うと、悔しさとふがいなさでコナの心はつぶれてしまいそうだった。
 嫌味ひとつ言わない部族の者たちが、将来の指導者を失い胸の中で落胆しているのは明らかだった。その事実がなおさらコナを苦しめた。

チャルペの教え

 それからひと月がたち、楢や楓の葉は黄や赤に染め上がり、早くも散り始めていた。冬に葉を落とさない杉や松などの木々でさえ、寒さに備えてかんぬきを閉ざしたかに見えた。
 ヤプカは一日かけて集めた木の実などを、皮袋に詰めて集落近くに戻ってきた。実りの季節のはずが、全くの期待外れで皮袋は半分も満たされておらず、とても軽かった。それとは逆に、ヤプカの胸は石を飲んだように重かった。これでは食料がちっとも足りない。
(また、ひもじい冬を過ごさなくちゃならない……)
 飢えて死人が出るに違いない。ヤプカは悔しさのあまり、爪が刺さるほど強く拳を握った。
 集落のすぐ外で、ヤプカは呆然と腰かけているコナに出会った。まるで死んで何日もたった狸の亡骸みたいに、薄っぺらでみじめな姿だった。
 ヤプカはそんなコナに怒りを覚え、眉を吊り上げた。
「こんなところで何してるの! まさか一日中そこで腰掛茸みたいに固まってたわけじゃないでしょうね!」
 想いに沈んでいたコナは、ヤプカが何を言ったかすぐに理解出来ないようだったが、少しして顔を赤くして奥歯を噛んだ。
「何とか言いなさいよ!」
 まさに朽木に生える腰掛茸みたいに黙っているコナに、怒りが一層つのった。
「よしなさい。ヤプカっ」
 一緒にいた母親のトケレベに止められ、ヤプカは仕方なしに牙を収めたが、まだぶつぶつ言っている。
 ヤプカは男勝りの女の子で、着物の柄も髪型も男っぽいものを好んだ。つい一年前までは良くコナと弓を持って出かけ、弓の腕を競い合った仲だった。コナが十歳になる頃までは、ふたりの弓の力量は並んでいたが、ここ一、二年で、ヤプカは大きく水をあけられてしまっていた。
 ふらふらと目の前を通っていくコナの背丈はヤプカよりこぶし一つ分は高かったし、腕も一回り太かった。ヤプカは男と女の体力の差を認めざるをえなかった。
 ウルチが死んでからというもの、何もしないことが多いコナを見て、男に生まれて、恵まれた体格を活かしていないことが許せなかった。
(いつまでもめそめそしてんじゃないよ!)
 胸の中で吐き捨てると、ヤプカは振り返りもせずにすたすたとその場を去った。

 集落に戻ると、父親のナシリがすでに狩りから戻っていた。
 ナシリはチチェのそばで、冬越えに備えよく肥えた鳥の羽毛をむしり、肉を解体する作業をしていた。
「やった! 山鳥が獲れたんだ!」
 ヤプカは突っ込みそうな勢いで、ナシリに走り寄った。
「おう、久しぶりにな。山の恵みが少ないせいか、今年も動物が少ないが、ようやくひとつ獲れたよ」
「これで今夜はごちそうだね!」
「うむ、と行きたいところだが、こいつはとっておこう。後のお楽しみだ」
 ナシリはつかのま手を休め、口元を緩めた。そしてまた目を落とし、黒曜石の短刀で山鳥の肉を薄くそいでいった。そいだ肉は、塩をして干して、保存食にするのだ。
「ちょっと残念。でもよかった」
 ヤプカは少しほっとした気持ちでチチェに帰った。
 地面をすねの高さほど掘った上に建てられたチチェは、杉や栗の木で出来ていた。五、六人が暮らせる大きさで、八本の柱で小枝を土台に萱で葺いた屋根を支えている。地べたの真ん中には小さな囲炉裏があって、屋根の一番奥の肩の部分には、その煙を逃がす小さな穴があけられている。
 栗、椎の実、葛の根、ヤプカは集めた食料を種類ごとに分けて保存した。
 その間、トケレベがまとわりついてくる小さな兄弟たちを相手にしながら、夕食を作った。
 夕食はヤプカのすぐ下の弟のウクスがやっとの思いで獲った数匹の泥鰌と、数日前にヤプカとトケレベが掘った山芋だ。今年は山芋もなかなか見つからない。やっと見つけた物も、小さな芋だった。
 調理の仕方は、丸ままの泥鰌と切った山芋を、素焼きの鍋で煮びたしにしただけの簡素なものだ。味付けは塩のみ。時にはきのこを入れて旨味を楽しむのだが、今夜は我慢だ。その貴重な少ない食事を、両親と弟二人、家族五人で分け合って食べた。
 一人分は片手に収まりそうな量で、一番下の弟のクサキナですら満腹になるものではなかった。
 しかし、ヤプカも弟たちも文句を言うことはない。食べ物があるだけでまだよかった。数年前には、何も食べられない日があったのだから。
 今年の冬もまた、それと同じ状態になりそうだと、皆が感じていた。
 鼠のようにカリカリと、大切にゆっくり食べても、少ない量の食事はすぐに終わり、ヤプカは黙って囲炉裏の火にあたっていた。森に囲まれたこの地では、ありがたいことに薪になる木だけは豊富にあるから、寒さに震えることはなかった。
「どれ、鼬踊りの話でもしようか」
 食事の片づけを終えたトケレベが、久しぶりに《語り》を始めた。部族の一員であるウルチが亡くなって、気持ちが滅入っていたのかもしれない。しばらくトケレベは《語り》をやめていた。
 まずトケレベが話したのは、動物が主人公のたわいのない《語り》だった。
 トケレベの唇からすべりでた《語り》は、まるで人の心臓の鼓動のような拍子を持っていた。
 次第に調子づいてきたトケレベは、拍子に合わせて体を前後に揺らしながら、久しぶりの《語り》を楽しんでいるようだった。
 続けて、部族に伝わる一番古いと言われる《語り》が始まる。
 かつて遥か北東の地に住んでいた部族の先祖が、次第に寒くなる気候を避けるために、南に移り住む様子を伝える《語り》だった。
 それは、先祖も今と同じように食料難に苦しんでいたことを示していた。同時に、その苦難の中でも脈々と生存し続けてきたという事実が、先祖が精霊と共に生きてきた正しさを、ヤプカたち子孫に伝えているように思われた。
 そのゆるやかな《語り》を聞いているうちに、クサキナはうとうとと眠ってしまった。
 トケレベは温かい鹿皮の敷物にクサキナを寝かせ、ヤプカとウクスのために《語り》を続けた。
 次の《語り》は、これもまた部族に伝わる先祖の話だった。部族の者なら誰でも知っている、みんなが好む《語り》だった。

 昔、カノベの地に住まう男があった。
 男の名はチャルペといった。
 チャルペは賢く器用で 弓や矢をうまく作った。
 特にチャルペの作るやじりはするどく 真っ直ぐによく飛んだ。
 チャルペは熊でも鹿でもどんな獲物もよく獲った。
 チャルペは仕損じることなく、命の急所を射当てた。
 だからチャルペがしとめた獣は、苦しむことなく神の地へ行くことができた。
 そして獣の精霊はまたカノベの地に生まれることを望み、そうなった。
 よその地で死んだ精霊もまた カノベの地に生まれることを望み、そうなった。
 いつしかカノベの地は獣のあふれる豊かな地となった。
 ある日 カノベの地に使者が来た。
 使者は 我がアチュ族の住まう地は獣が減り 食べ物が不足していると言った。
 だから カノベの地をよこせと迫った。
 チャルペは それは出来ないと断った。
 しかしその代わりに やじりの作り方と 優れた狩りの仕方を教えた。
 アチュ族の使者はとても喜び 自分の生まれた地へ帰っていった。
 こうしてカノベの地の平和は守られた。
 長い年月がたち チャルペは死んでいった。
 生まれ変わったら やじりの精霊になり 部族の民を助けよう。
 チャルペはそう言って死んでいった。
 それから部族の男はみないっそう狩りがうまくなった。
 それは部族の男が作ったやじりに チャルペの精霊が宿っているからだ。
 いつしかカノベの地に住まう部族は タチュタ(やじり)族と呼ばれるようになった。

 ヤプカはこの何度も聞いた《語り》を、複雑な想いで受け止めた。その気持ちをまねるように囲炉裏の炎が揺れた。
(なぜ自分は男に生まれなかったのだろう……)
 そうすれば狩りをして大きな獲物をしとめることができたのに。今よりもっとみん役に
 立つことが出来たのに。ヤプカは悔しくてならなかった。
(やじりにチャルペの精霊が宿った)
 部族の男たちが、見事なやじりを作った時や狩りで獲物を苦しめないでしとめた時に言う言葉を、心の中でつぶやいてみた。その言葉を自らが実際につぶやくことはないだろうと、ヤプカは思った。成長すればヤプカ自身も語り手になるだろう。でもチャルペの《語り》を素直に話せるか、あまり自信がなかった。
 ヤプカは何だか居たたまれなくなってチチェを出た。どこへ行くと母に聞かれ、ちょうどなくなりかけていた薪を取りに行くと答えた。見慣れているはずの、母の痛々しいほどに細い体が、やけに目についた。
 ヤプカはすぐに薪を取らずに、ふらふらと集落を目的もなく歩いた。
「寒い……」
 思わぬ寒さにあたり、両腕で身を抱える。秋も深まった晩の冷気は、容赦なくヤプカの肌を刺した。
(毛皮を羽織ってくれば良かったかな)
 でも、今さら取りに戻るのもしゃくだった。仕方がない帰ろうかと思った時、人の話し声が聞こえてきた。思わず声の主を探す。
 新月の淡い月明りに、人影が動くのが見えた。興味をそそられてそっと近づくと、影が大人の男と子供であることがわかる。大人の方は左足を引きずって歩いている。シハンが、かつて狩りの際に負った傷で、ひどく足を引きずることは誰もが知っている。ヤプカは気配を消して耳を澄ませた。
「眠れないのか。無理もないかもしれんが」
 声を聞いて、男が族長のシハンであることを確信する。
「ごめんなさい」
 この声変わりしていない男子の声は、聞きなれたコナのものだ。
 シハンとコナは、つい今ここで偶然に出くわしたようだ。いけないことだと思いながらも、ヤプカは二人の会話につい聞き耳を立てた。
「謝ることはない。少し話をしてもよいか」
「は、はい」
 いつになく堅苦し口調で、コナは答えた。何となく後ろめたい気持ちが、コナの胸の奥に引っかかっているようだ。
「ここのところずっと狩りにも出ていないようだな」
 怒るふうでもなく、シハンはさらりと言った。
「……」
「まだ気持ちがおさまらないのか」
「なんて言ったらいいのか……」
「まあ、言いたくなければ無理に言うこともない」
 途中で言葉を詰まらせたコナから、シハンは目線を外した。
「……」
 咄嗟に何と答えてよいか、コナにはわからないようだ。ウルチが亡くなってから、心が空っぽになってしまったかのように、周りからは見えた。そんな姿が、ヤプカにとっては歯がゆく、詰めよってひっぱたいてやりたい思いで身をよじった。
「ウルチは大きな働きをして死んだのだ。満足だったに違いない。本人も死ぬ間際にそう言っていた。お前が責任を感じることはない。お前の事を気に病んでいたぞ。それではウルチの精霊が悲しむ」
 シハンのいつも穏やかな口調が、一段と優しみを帯びて聞こえる。
「わかってるけど、やっぱり僕のせいで父さんは深いたたりを受けたんじゃないかと思うんだ」
 暗くてよく見えないが、コナのうなだれている姿がヤプカにははっきり見える気がした。
「だから、そんなことはないと言っておろうに。わからない奴だな、お前は」
 困ったようにでもどこか滑稽な調子で、シハンはうなった。
「自分でも、自分の気持ちがわからないんだ」
「うむ。しかたあるまいか。時が経つのを待つほかあるまいな」
「ごめんなさい」
 コナの声は聞き取れないほど小さい。
「わしとてそれほど短気ではないよ。気長に待つさ。でも、中にはしびれを切らす者もおるかもしれんぞ。それは覚悟しておかなくてはならなんよ」
「はい」
 コナは夕方のヤプカの言葉を思い出したのか、素直にうなずいた。暗闇の中で、その表情はヤプカからはうかがえない。
 そこまで聞いて、ヤプカは静かにその場を離れた。
 コナが深く思い悩んでいることは分かったけれど、認めてあげることは出来そうもない。ずっと一緒に育ってきたのに、寛大になれない自分が腹立たしかった。集落を通り抜ける冷たい野風にも、すっかり冷えてしまった体とは対照的に、ヤプカの頭を冷やすことは出来なかった。

ヤプカの決意

 数日前に初霜がおりて、寒さに弱い犬鬼灯(いぬほおずき)や露草などの草々は、一気にしおれて枯れてしまった。寒さに強い烏の豌豆や仏の座などは、一度凍っても昼間になればまた元に戻って、何事もなかったかのように風になびいている。
 コナは弓を持って狩りをすることをせずに、楢の実を拾い集めたり、本格的な霜で駄目になる前に、小さな果実を採ることに専念していた。
 それは女衆や小さな子供のよくやる仕事だったが、コナはどうしても狩りをする気にならなかった。手負いの猪を仕留め、そのたたりで亡くなったウルチのことを考えると、狩りが恐ろしかった。
 本当は何もする気にならなかったが、さすがにそれが許される状況ではないことはコナにもよくわかっていた。せめて自分の食糧くらい確保しなければならない。重たい水甕を背負わされているような足取りで、よたよたと山野を歩いて回った。
その日、コナは夕方薄暗くなってから集落に帰った。
 浮かない気持ちで、頭を下げて顎あたりまでしかないチチェの低い入口をくぐった。顔を上げて、ちらっと囲炉裏端の奥の席を見る。そこはウルチがいつも陣取る場所だった。
 でもそこにウルチの姿はない。冷たい地面が横たわっているだけだ。わかっているはずなのに、入るとつい確かめてしまう。最近出来た、むなしい癖だった。その度に、木の棘が刺さったようにちくちくと胸が痛んだ。
(地べたも座る主を失ってさみしいのかな……)
 そんなことを考えながら、コナは囲炉裏端に腰かけた。
 囲炉裏には素焼きの器が置かれ、中の汁物が温かい湯気をあげていた。具は干した猪肉、乾燥させて保存していた百合の根の団子、同じく干して保存してあった青菜。味つけは干し肉に含まれていた塩と、ほんの少しの山椒。あまり山椒が多いと、小さなセブとキボルには辛くて食べられない。
 五人で食べるには少ない、ウルチなら一飲みにしそうな量だが、長く寒い不毛の冬を乗り切るためには、少しずつ食べるしかない。
 いつもじゃれ合ってばかりのセブとキボルも、食事だけは真剣に汁の一滴までなめるように口に運んだ。
「ヤプカがまだ戻らないのだけど、知らないかしら……」
 短い食事が済んだころ、ヤプカの母、トケレベが不意に訪れた。不安気に眉を寄せている。
「今日は一度も見かけていないけど……」
 あなたは? とばかりにシヤラはコナを見る。
「知らないよ。僕は北の山にいたけど見なった」
 素っ気なく、コナは答えた。
(ヤプカのことなんか、どうなったって知るもんか……) 
 そんな感情が静かに湧いてくる。
「そう……。じゃあ、ムラトウムのところかしら……」
 がっかりした様子で、トケレベはヤプカと同世代の女の子のいるチチェに向かった。
 その後、心配した何名かが加わってヤプカを探すも、集落の中にはいないことがわかった。
 それからしばらく待ったがヤプカは戻らず、部族中が騒然となった。
 男が狩りに出かけて戻らないことはそう珍しいことではない。獲物を追いかけているうちに夜になって、そのまま野営することはままあった。
 しかし、それがまだ十一歳の少女となると話は別だった。もしそれが男子のコナだったとしても、同じように心配されていただろう。狼や月輪熊などの恐ろしい獣もいる。どこかでけがをして動けなくなっているのかもしれない。
 心配した部族の男衆が、捜索に出かけることになった。月は満月に近かったが、あいにく分厚い雲が空一面を覆っていて、星の一つとして瞬かない夜だった。
 雨が降ってヤプカの体を冷やしてしまわないかという懸念もあったが、幸いまだ雨は降っていない。
「井守池は調べたか? 東の森はどうだ?」
「いや、だめだ。探したが見つからない。よし、では子供らが良く遊びにいく原っぱを探してみよう」
 男衆は犬を連れ、数組に分かれて松明を片手にヤプカを探し回る。しかし夜遅くなってもヤプカの行方は知れなかった。
 やがて懸念していた雨が降り始め、松明も役に立たなくなった。これ以上の捜索は難しかった。こちらがけがをする危険もある。
 部落の誰もがまんじりともせずに、各々のチチェで夜が明けるのを待った。
 コナは時々うとうとしながら、チチェの囲炉裏の前で、朝日が山肌を照らすのを待ちわびた。

(ヤプカがどうなってもいいなんて……)
 消えかけたたき火に薪をくべる度に、闇の中で必死にさまよっているヤプカの姿が頭にちらついた。ヤプカが寒い思いをしているのではないか、暖かい炎を目の前に、その炎のありがたさをかみしめた。
 朝日の最初の一差しが届く前、大人たちが捜索の打ち合わせをしているのをしり目に、薄暗い中をコナは一人でこっそり、ヤプカを探しに出た。幸いにも雨はすっかり止んでいる。
 コナには心当たりがあった。夕べたき火の前で、以前にヤプカと二人きりで西の山へ行ったのを思い出したのだ。
 そこで二人は大きな雄鹿を見た。今まで見たこともない大きな見事な鹿だった。
 西の山は近隣の部族、フシ族とヒボリ族との境目だから、無益な獲物の奪い合いを避けるために、コナたちタチュタ族の者が行くことは滅多になかった。
 大人たちもそこにヤプカはいないものだと、決め込んでしまっているようだ。もしかしたらヤプカはそこにいるかもしれない。薄い期待がコナをかりたてた。
 大人たちにこのことを告げなかったのは、ヤプカがそこにいる確信がなかったのと、かつて二人で西の山に行ったことを知られてしまうのが嫌だったからだ。怒られるのは願い下げだし、何よりヤプカとの二人だけの秘密にしておきたい想いが大きかった。

 陽がすっかり昇り、朝もやが消えるころ、コナはかつて大きな雄鹿に出会った場所にたどり着いた。集落の辺りにはない橅の木がちらほらと見られるので、そうとわかった。
「ヤプカ!」
 コナは、ここのところ出すことがなった大きな声で叫んだ。
耳を澄ますが、風に揺れる木々のざわめきが聞こえるだけで、返事はない。
「おい、ヤプカ!」
 また少し歩いては名を呼んだ。何度も繰り返すが返事はない。やはり思い違いだろうか。
諦めかけたとき、どこからか声が聞こえた気がした。立ち止まって耳を澄ましてみる。
「コナ、コナなの?」
 間違いない、ヤプカの小さな声が聞こえてくる。
「どこにいる!」
 コナは辺りを見回しながら、ヤプカの声をたよりに進んだ。ヤプカの声はだんだん大きくなるが姿は見えない。
「ここよ。地面の下!」
「地面?」
 コナは言われるままに地面を見た。数歩先に大人がすっぽり入れるくらいの穴があった。声はそこから聞こえてくるようだ。
 穴は自然に出来たものではなく、古いが、人が掘ったものだとコナにはすぐわかった。獲物を獲るために、これに似た落とし穴をみなで掘ったことがある。
 コナは注意しながら穴に駆け寄った。穴をのぞき込むと、ヤプカの下半身が崩れた土に埋まっているのがわかった。これでは身動きが取れない。
 ヤプカは土まみれの顔でコナを見上げていた。寒さと空腹のせいか元気はなかったが、意識はしっかりとしている。
「おい、大丈夫か!」
 コナは咄嗟に右手を差し出して、伸びた竹の子みたいに、穴から突き出されたヤプカの泥だらけの右手をつかんだ。
 穴は思った以上に深く、腹ばいになって手を伸ばさなければならなかった。コナは左手を穴の縁に置き、引上げようと腕立てのような恰好で渾身の力を込めた。
「もっとしっかり握って!」
 ヤプカは叫ぶように懇願した。手先が冷え切ったヤプカは、普段の半分も力が出ないようだ。
「そっちこそ力を入れろ!」
 コナも負けじと言い返す。
「あなたこそ男でしょ! しっかり引き上げてよ!」
「うるさい! わかってるよ!」
 二人は怒鳴り合いながらお互いに力を振り絞った。
 二人の力が合わさって、やっとのことでヤプカの体が頭ひとつ分持ち上がった。
「その木をつかめ!」
 コナが言うまでもなく、ヤプカはかろうじて自由になった左手で必死に、そばに生えていた細い木をつかんだ。その左手が決め手になって、ヤプカは這い上がることに成功した。
 コナもヤプカも息を弾ませながらその場に倒れ込んだ。
「思ったより力がないのね……。もっと楽に出られると思ったのに」
 少し落ち着くと、ヤプカは辛辣に不満を口にした。
「うるさい。折角助けてやったのに」
 コナは小さい声でそう言いながら腰を起こし、持ってきた皮袋から、右手をかばうように鹿皮の上着を取り出し、ヤプカに渡した。
「ごめん……。ありがとう」
 ヤプカは上着を受け取ると、思わぬコナの気づかいに頬を赤くした。
 コナは意味もなく一度立ち上がり、鼻をすすってから、ヤプカから少し離れた場所にまた腰を掛けた。それから、力いっぱいヤプカの手を掴んでいた自分の右手を、何度もさすった。右手は細かく震えている。
「右手、まだ治ってなかったの?」
 ヤプカは上着を羽織ると、コナのそばに座りなおした。
 そして喉の乾きをいやすために、腰に下げたひょうたんの水筒から、たっぷりと水を飲んだ。うまく水筒が取れなくて、一晩中、飲みたくても飲めなかったに違いない。乾いたからだに、すうっと水が吸い込まれていく音が聞こえるような気がした。
 コナは干し肉を持ってきたのを思い出し、ヤプカに渡してから、固く閉じた胡桃の実をこじ開けるようにしてしゃべり始めた。
「多分、もう治らないんじゃないかと思う。もうずいぶんたつのに、しびれがおさまらないし、力も出ないんだ」
「そう、なんだ……」
 ヤプカは口を半開きにしてつぶやいた。コナの右手はもうとっくに治ったと思っていただろうし、それどころか、もしかしたら怪我をしていたことすら半分忘れていたのかもしれない。
 今までコナにしてきた自分の言動を思い出したのか、ヤプカは力なくうつむいた。申し訳なくて、何か言おうにも、喉に言葉がつまって出てこない様子だ。
「それより何でこんなところまで来たんだ? まさか雄鹿を仕留めようなんて思ってないよな?」
 はるか遠くの鳥のさえずりしか耳に届かない、無風の静けさが耐えきれなくなり、コナが切り出した。
「うん。それはね」
 一転して不思議なほど素直な気持ちになって、ヤプカはゆっくりと話し始めた。
「ギチョみたいな子を、二度と出したくなかったから……」
「……」
 コナは首を傾けた。ヤプカが何を言いたいのか、にわかにわからなかった。
「一年前、母さんのお乳の出が悪くて、あの子に満足に飲ませることが出来なかっかたから」
 ギチョとは、一年前に亡くなった、ヤプカの妹の名だった。じっと前を見つめるヤプカの心は、一年前に戻ってしまったらしい。
「母さんは言わないけど、私にはわかってる。母さんは、自分の食べる分を減らして、私たち子どもに分けてくれた。そのせいで母さんのお乳は出なくなっちゃった。お母さんもギチョも骨みたいに痩せて……。ギチョが死んだのは、きっと私のせいなの」
 ヤプカは寒いのか、細い腕で己の痩せた体を抱いた。ここ数年来続く食料不足が、こんなかたちでも影を落としていた。
「あの時、自分が食べることばかり考えていて、ちっとも気が付かなかった。まさかあんなことになるなんて……。いえ、うそ、もしかしたら気が付いて いたのかもしれない。気が付かないふりをしてたのね。多分……。本当に私ってどうしようもない。今さら何を言っても仕方がないけどね」
 ヤプカは辛そうに微笑んだ。コナは、人は悲しくても笑うのだということを、いま学んだ。
「でもこれ以上そんなことが起きるのは我慢できない。また死人が出るのはもういや。だから、だからもっと沢山の食べ物を手に入れたかった。木の実や 山芋を手に入れるのも大切だけど、やっぱり大きな獣をしとめて、母さんや部族のみんなに、おなか一杯食べてもらいたかった」
 言い終わらぬ間に、ヤプカの顔がくしゃくしゃにゆがみ、両目から涙があふれ出た。
「でも、でもやはり駄目だった。無理をした挙句がこのざまだわ。前に見たあの大きな雄鹿が忘れられなかったから、ここまで来たのだけど。コナやみん なに迷惑をかけただけ。所詮無理だったの。私みたいな力のない女の子にはね」
 ヤプカはその場に崩れ落ちるのを必死にこらえ、涙があふれる目をコナに向けた。
「ちっともそんなことはないさ。君はとても良くやっているよ」
 コナの手が、かつてウルチがしたように、小さい子をなでるようにヤプカの頭上におりた。
「駄目なのは僕だよ。僕なんだ」
 コナはヤプカの頭上の左手をゆっくり下し、拳をぐっと握った。
「えっ……」
「僕のせいで父さんを死なせてしまった。みんなは気にするなと言うけど、僕を助けようとして、父さんは死んだようなものだ。その上、右手はこの有様だ」
 コナは、にらみつけるように右手を見つめた。
「僕だよ。本当に駄目な奴はね。僕なんだ……」
 胸の中で大きく育った悲しみは、ようやく産み月を迎えた胎児のように、大粒の涙となりコナから流れ出た。
「コナは、コナは悪くないよ」
 ヤプカは首を何度も何度も横に振った。その勢いで澄んだ透明な涙が頬を流れ、土埃ですすけた肌にすじを作った。
「ヤプカ、君こそ悪くない」
 コナは涙で震える声で繰り返した。
 やがて二人は誰にはばかることなく、大きな声で泣いた。静かな深い森の中に、獣のような泣き声が響いた。無数の木の葉の一枚一枚が、沢山の獣たちが、数え切れない小さな虫けらたちが、その声を抱きとめ悲しみを吸収した。
 ひとしきり泣いて、ため込んだ気持ちを吐き出すと、やがて自然と涙はおさまっていった。何も解決したわけではないのに、気持ちを分かり合える友がいるだけで、救われた気がした。
「でもコナ、さっきどうして右手で引っ張り上げようとしたの? 左手ならもっと楽だったんじゃない?」
 はれぼったい目をこすりこすり、不意にヤプカが言った。
「ん、何だよ急に。でも、そういえばそうだな。夢中だったから、馬鹿だな僕って」
 コナはぼりぼりと頭をかいた。
「ふふふっ」
 そのとぼけたコナのしぐさがおかしくて、ヤプカが笑った。
「へへっ」
 コナも急におかしくなって笑い出した。やはり人はおかしいときに笑った方がよいと、コナは思った。
         
 翌日からコナは、精霊が入れ替わったかのように食料集めに没頭した。
 獣が見逃した果実や山芋を探すために歩き回り、花が咲いた時に目印を付けておいた鬼百合の根を見付けようと、地面を這いつくばった。弓や投げ槍を使った猟はかなわなかったが、鳥や兎など小さな獣を獲るために、罠を仕掛けたりもした。
 コナは右手に力が入らないことを、母親のシヤラに打ち明けた。
 ヤプカにも口止めしなかったので、すぐに部族のみなに知れ渡った。ヤプカはおしゃべりで、男勝りでも、その点では確かに女だった。
 でもそのおかげで、コナはずいぶん気持ちが楽になった。もちろん誰もそんなコナを責めることはなかったし、変に同情する者もいなかった。部族の誰もが、他の者のために己の出来うる最大限のことをやろうと努める。得られる成果が多いか少ないかはそれぞれの力量で決まるが、その結果は問わない。厳しい生活だが、部族の者の生きる喜びと充実感は、とても高かった。
 今までは、父親を死に追いやってしまったのではないかという重荷と、右手をけがして役立たずになってしまったという深い傷が、二重でコナを苦しめていた。
(自分なんか、いない方がいいんじゃないか……)
 そこまで思い悩んでいた。しかしヤプカが行方不明になった一件で、彼女のつらい想いを知り、誰だって心に傷を持ちながらもそれと向き合って懸命に力を振り絞って生きていることが身にしみてわかった。
(自分だけがつらいだなんて、なんて馬鹿だったんだろう)
(僕にだって、きっと出来ることがあるはずだ)
 族長のシハンが言うように、自分の出来ることを一生懸命するだけだと、コナは自分に言い聞かせた。思い出すたびに恨みをのんだように怖い顔をしていたウルチが、今はかすかながら笑っているように感じられた。ウルチが安心して神の国に行けるように、しっかりと生きよう。

 ヤプカが罠穴に落ちた日から数日たった夕方、不意にシハンがコナの住むチチェを訪れた。
「すまぬが、お邪魔する」
 シハンは、チチェの狭い入口から身をかがめて入ってきた。
「これはこれは……」
 夜間にシハンが訪れることはまずない。不意な訪問に少し戸惑いを見せるシヤラだったが、ひとまずシハンを一番奥のかつてウルチが座っていた場所に導いた。
 導かれるままに囲炉裏の奥に腰かけたシハンは、火に手をかざした。それから近くで不思議そうに顔を見ていた一番小さなキボルを招き寄せた。無言でひょいと抱き抱え、あぐらをかいた膝の上にすわらせる。キボルはうれしそうに声をあげて笑った。
 シハンは、他の大人が忙しくしている昼間に、小さな子供のお守りをすることが珍しくない。部族のどの子も、みなよくなついている。
「こうしてキボルをだっこするのも好きだが、そのために来たのではない」
 膝から伝わる幼児のぬくもりと若草のような匂いが、シハンの胸を温かくした。
「コナに言っておきたいことがあって邪魔をした。とは言え、他の者に聞かれてこまることではないから、このままでかまわぬよ。むしろみなに聞いてもらった方が良いのだろうと思う。すまぬがみな腰かけてくれ」
「話って何?」
 首をかしげながら、コナは腰を下ろした。
「コナ、まずは右手を見せてみろ」
 コナは少し躊躇したが、素直に右手を出した。シハンはコナの右手をそっとつかみ、観察した。
「見た目は何ともないようだが。強く握ってみろ」
 コナは言われるままに、差し出されたシハンの大きな手を力いっぱい握った。
「それで精一杯か、もっと強く」
 コナは悔しくなって、これでもかと力を込めた。でもかつての半分も力は出なかった。
「もういい。すまなかった。痛まなかったか」
 シハンは両手で、コナの右手をそっとさすった。
「力を入れても、しびれてきて力がでないんだ」
「わかった。わかった」
 シハンはなかなか手をさするのをやめようとはしなかった。
「黙っていてごめんなさい……」
 コナは火を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「よいよい。気にせぬことだ」
 優しく言ったのち、しばらく沈黙してからようやくコナの手を放し、シハンがまた口を開いた。
「お前の手が悪いと聞いて、思い出したことがあってな。今夜はそれを伝えようと思ったのだ。何、とりたてて構えることではない。わしは男ゆえ《語り》はたしなまぬが、昔話をひとつ、な」
「昔話……」
「みなチャルペの《語り》は良く知っていようが、そのチャルペについて伝えたいことがある。コナはチャルペは好きか?」
「もちろん好きだよ。嫌いな者はいないと思う」
「そうだな。わしも好きだ」
 シハンは破顔した。
「実は、そのチャルペのことで、あまり知られていないことがある」
「知られていないこと?」
 コナはシハンの真意を測りかねていた。
「チャルペは生まれつき片腕だった」
「えっ⁉」
 コナは山鳥が不意打ちを食らったような顔をした。
「彼は生まれつき片腕だったらしいのだ」
 シハンは繰り返した。
「うそだ……」
 コナは思わずつぶやいた。
「うそではない。チャルペの《語り》の中でそれほど重要ではない事として、だんだん抜け落ちてしまったのではないかな」
 コナはシハンが何を言おうとしているのかつかみかね、黙ってしまった。
「そう深読みすることはない。今の話にそれほど深い意味があるわけではない。チャルペほどの者でも弱点があって、それでも大いなる仕事を成し遂げることが出来たと、そう言いたかった。むろん、お前にチャルペになれと言っているのではない。チャルペは彼に出来ることをやった。コナ、お前もどんな状態にしろ、お前の出来ることをやれ」
 難しい話に飽きて、もぞもぞと動くキボルの肩をさすってから、シハンは続ける。
「私の言うことがわかるか?」
「わかるような気がする」
 コナはじっとシハンの言葉をかみしめた。シハンは、コナをなぐさめ激励するためにわざわざ足を運んでくれたのだ。
「ありがとう。心配かけちゃったけど、もう大丈夫」
 コナはしっかりとシハンの目を見つめた。
 ちろちろと燃える炎の薄明りに浮かぶシハンの横顔は、満足気に微笑んだ。
 それにしてもチャルペが片腕だったなんて。コナは再度驚きを噛みしめた。片腕で猟をし、やじりを作る男の姿が頭の中に浮かんで消えなかった。

野風

 部族の者たちが予想した通り、秋に採集した木の実や山芋などの山の幸は、決して多くなかった。それでも、必死になって先祖から受け継いだ知識と経験を駆使したからこそ、少ないなりに成果を得られたのも間違いのない事実だった。
 幸運にも冬の間は、糧となる山の実りが少ない割に、思ったより多くの獣たちを獲ることができた。中でも、陣取った射手の元に獲物を追いこんでいく、待ち伏せ猟がうまくいった。少し足に障害があるクシャが、射手として大活躍した。彼は走ることはかなわないが、弓が得意なタチュタ族にあって、技量は群を抜いていた。
 そうやって、寒い厳しい冬を無難に乗り切ることが出来た。部族みなの力で冬を越え、飢えで死ぬ者を一人も出さずに、うららかな春を迎える喜びはとても大きかった。
 野山での採集にしろ猟にしろ、タチュタ族の力が存分に発揮されたと、誇ってよい冬越えだった。
 春には春で、木や草の芽など季節の山菜をお腹いっぱい食べた。あまりにも食べ過ぎて、お腹が緩くなる者もいたが、それも楽しい春のお決まりの笑い話になった。部族の民は久しぶりに満ち足りた生活を送ることができた。
 春の終わりにひとつずつ、悲しいことと嬉しいことがあった。呪術師ピリケが息を引き取った。それが悲しい出来事だった。ピリケは何本か残っていた歯の痛みが年々悪化し、ついに食物が喉を通らなくなり、衰弱して神の国に返っていった。次の呪術師には、ヤプカの母のトケレベが選ばれた。
 喜ばしい出来事は、シハンの息子アットイと妻のイカラカラの間に、二人目の子供が生まれたことだ。イカラカラの乳の出も良く、子供はすくすくと育っている。数年ぶりの子供の誕生に、部落中が喜びにわいた。
 夏が近づくと、川魚や沢蟹などの川の幸を食べる回数が増えた。小さな畑では、陸稲や豆類、荏胡麻など様々な作物を育てた。もちろん部族の女衆は、山に野に食料集めにも出かけた。
 その女衆の中に、相変わらず弓を背負うヤプカの姿があった。だが、もう無理に大きな獲物を捕ろうという気持ちはなかった。時として、(きじ)や狸などに出会あうことがあるから、それらをしとめるために、弓を持つのをやめられなかった。
一方コナは、ウルチの死と己の左手の自由を失った痛手からすっかり立ち直り、自分に出来ることを懸命にこなしていた。木の実などの山の幸を採集すること。畑仕事をすること。それから生活に必要な色々な物を作ることなどだ。それらは主に女衆がする仕事だったが、コナは女たちに交じって働いた。最初は少し恥ずかしかったが、じきにそんなことは考えなくなった。
 それよりも、シハンにチャルペが片腕だったと聞かされた日から、コナはずっと考えていた。
(チャルペはどうやって片手で狩りをしたんだろう?)
(出来るならまた弓を使いたい)
 チャルペは生まれつき片腕だったと、シハンは言っていた。もしそれが、片腕が完全に無かったのだとしたら、一体どうやって? 足を使ったのだろうか、それとも口か……。まさかいくらなんでも口で弓は引けないだろう。だとすると片手で操れる特別な弓を作って狩りをしたのだろうか。
全くわからない。
 しかし、ひとつはっきりしていることがある。
(僕には不自由とはいえ、まだ両手がそろっている)
 色々試してみよう。
(ほんの少しでも活路があれば諦めない。もう完全に駄目だと思ったらすっぱり諦める。それがいさぎよい生き方だ)
 胸の中に父の声が力強く蘇える。
 矢を射るとき、矢羽の付いた矢柄の尻を、親指と人差し指で強くはさむ。その状態のまま、さらに弓弦を引き絞らなければならないのだ。親指が不自由になったコナにはそれが不可能だった。
 まずコナは、親指を使わないで中指と人差し指だけで矢をはさんでみた。しかしその二本では力が入らず、結局は人差し指の上から親指の力を加えねばならず、結果はかわらなかった。
 次にコナは、力が入らない右手でも射れる矢を作ろうとした。矢柄の尻に窪みを付けたり、さんざん苦労して穴を開けて紐を通してみたりしたが、はやりうまくいかなかった。悔しくて夜も眠れなかった。
 ある日、コナは集めてきた胡桃や栃の実を割って中身を出す作業をしていた。最初は不自由な右手で丸石を持って実を叩き潰していたが、しばらくすると疲れてきて丸石を左手に持ち替えた。左手は利き手ではないのでやりにくかったが、少なくとも力はあるししびれもない。
コナはふと気が付いた。
(そうだ。右がだめなら左でやればいいじゃないか……)
 早速コナは右手で弓を構えて、左手で矢をつがえて立木に向かって放った。
 シュッ。
 力ない音をたてて矢は飛んだ。飛んだというよりは、落ちたに近い。
 矢を拾い、もう一度やってみる。
(やっぱりだ!)
 右肘をしっかり前に伸ばして突っ張って、親指の付け根よりやや手のひらに近い位置で弓を支えれば、親指の力をほとんど使わないで射ることが出来る!
 当然利き腕ではないからまだうまくいかないが、鍛練すればなんとかなるかもしれない。コナはかすかに見えた明かりをがっちりとつかんだ。

 その日は朝から、初夏のむしむしとした雨が大地を濡らしていた。集落の片隅には蛍袋が群生し、可憐な薄紫色の花が雨露に打たれ揺れている。
 雨足は出歩くには強すぎ、女衆は食料を集めに行くのを諦め、集落で保存食をつくったり、毛皮をなめしたりするのに精を出していた。
 チチェの中は暗いので、屋外の簡素な雨よけ小屋での作業となった。獣脂を使った灯りもあるが、それほど明るくないのだ。
 ヤプカは、冬に獲った鹿の皮で袋を作った。今まで使っていた皮袋はひどく擦り切れてしまって、繕うのも限界だった。
「どう? こんな感じでいいのかなあ」
 ヤプカは苦心して作った皮袋を、新しく呪術師になった母のトケレベに見せた。
「あら、良く出来てるじゃない。じきに私よりも上手になるね」
 トケレベは作業の手を休めて、嬉しそうに微笑んだ。新しく目の下と顎に入れた呪術師の刺青が、誇らしげだ。
「そう? 何だか不格好に見えるけど、でもよく見ると悪くないかもね」
 ヤプカはまんざらでもないように、皮袋に付いた麻の糸くずをつまみ取った。彼女は、こうして穏やかに過ごすひと時がたまらなく好きだった。冬から春にかけておなかが満たされているから、なおさら幸福だった。トケレベも以前に比べれば随分と肉が付いてきたように見える。ずっとこの幸せが続けばいいのにと思わずにはいられなかった。
「ふうっ」
 ひとつ大きく息を吐いてから、立ち上がって伸びあがり、縫い仕事で固まった体をほぐした。
「しかし、よく降るねぇ。男衆は大丈夫かなぁ」
 二、三歩進んで、屋根越しにヤプカは空を見上げた。部族の男衆は晴天だった前日から、数匹の犬を伴って狩りに出かけて留守だった。
「きっと、この雨じゃ狩りは無理だね。朝からどこかで雨宿りしてるんじゃない」
 男衆は慌てて建てた仮小屋で、恨めしそうに天をにらんでいるに違いない。
 ふと視線を移したヤプカの視界の隅に、コナが映った。コナは男衆と共に狩りに出かけずに、集落にいた。狩りに出て、待ち伏せ猟の獲物を追い立てる役をになうことも出来たが、それは好まないようだ。
 コナは自分のチチェの脇にある雨よけ小屋で、何やら作業をしている。やじりを作っているようだ。食糧採集に出かけられない時には、こうしてやじりを作っている姿をよく見る。
 不自由な右手を補うために、はだしになって足を上手く使っている。春にはまだ納得がいかずにいらだっている様子だったが、今は器用に作れるようになったようだ。自分では猟に出なくても、他の男たちのためにやじりを作っているのだと、コナはみなに言う。
 慢性的な食料不足が軽減され、集落に実に穏やかな時間が流れているように思われた。

 しかし異変は突然に訪れた。
 最初に異変に気が付いたのは、男衆と狩りに行かなかった子育て中の母犬だった。
 母犬はいきなり吠え始めた。時おり、部落に動物たちが近づくことがある。そんな時、犬たちはやかましく、でもどこか義務的に吠えた。
 しかし今回は様子が違っていた。母犬はしつこくに狂ったように吠え続ける。
 騒がしい犬の動きで、女衆の一人が侵入者に気が付いて声をあげた。
「狼だわ!」
 この一声で屋外にいた全員が、何が起こったかを理解した。叫んだ女の視線の先には、大人の半分はありそうな大きな狼がいた。たった一匹だったが、集落を脅かすのに十分な威力がありそうだ。
 雨をものともせず、狼は集落全体を眺めていた。が、どこか様子がおかしい。せわしなく頭を動かし、口からよだれを垂らし、低いうなり声をあげている。そもそも群れを好むはずの狼が、一匹でいるのは変だ。
 ヤプカは目ざとく、背に傷があるのに気が付いた。どのようにしてその傷が出来たのかわからないが、背中から腰にかけて大きく皮がめくれ肉が見えている。狼は手負いに間違いなかった。狂気をはらんでいたのは、そのためだったのだ。
(また手負い……)
 ヤプカはウルチの死を思い出した。恐れと不安が胸を押しつぶそうと襲ってくる。
 狼を見るなり、壁のない雨よけ小屋にいた者は、あわてて安全なチチェに逃げ込んだ。
 別のチチェで小さな子供たちの遊び相手をしていたシハンは、騒ぎを聞きつけ逆に中から飛び出してきた。瞬時に状況を理解し、つられて一緒に出てきた子供たちを、またチチェに押し戻す。
(何やってるの!)
 ヤプカの目に、雨の中、たまたま外に出て遊んでいた弟のクサキナが飛び込んできた。すでにこれ以上ないくらいに暴れていた心臓が、動揺でさらに跳ね上がる。でも放っておくことなどできるはずがない。ヤプカはクサキナを助けようと、後先考えずに走り出した。
 そのヤプカの動きが襲来者の目を引いた。狼はヤプカとその弟を獲物に定め、最初はゆっくりとしかし次第に早く走り、直ぐそばで止まった。
 ヤプカは無事に弟を抱きかかえたものの、チチェの方へ戻ることは出来なかった。狼が行く手を阻むかのように立ちふさがり、うなり声をあげている。むやみに走り出せば、攻撃の隙を与えてしまう。
 ヤプカの全身から脂汗が噴き出した。絶対に守り抜きたい一心で、クサキナをぎゅっと強く抱きしめる。
「こっちだ!」
 その時、雨音を追い越して、大きな叫び声が集落にこだました。ヤプカと狼が声の主を目で探す。
「こっちに来い! 俺が相手をするぞ!」
 それは、紛れもなくコナの声だった。
(えっ? いつのまにそんな所に行ったの……?)
 ヤプカは混乱した。コナはついさっきまでいたチチェのそばから、かけ離れた場所にいたのだ。
「何やってるの? どうするつもり!」
 ヤプカは思わず叫んだ。狼の注意がまたヤプカに戻る。
「ヤプカ、黙って!」
 コナはさらに声を大きくして吠えた。かつてウルチがしたように足を地面に打ち鳴らしながら、油断なく弓を構えた。雨水で、すでに足元はぐしゃぐしゃだった。
(その手じゃ、弓は使えないんでしょう!)
 ヤプカは思わず叫びそうになるのをかろうじてこらえた。同時にコナの弓を構える姿に違和感を覚え、もう一度コナをよく見る。コナは弓を右手に持ち、左手で矢をつがえていたのだ。右利きのコナなら、逆に構えるはずだ。
「さあ来い!」
 コナは再度怒鳴り、襲来者の気を引くのに成功した。狼は鼻づらにしわを皺寄せ、奇妙に頭を振りながら、コナに向かって殺到した。
 ぎりぎりまで引き寄せるためか、躊躇しているのか、コナはなかなか矢を放たない。
(お願い! 早く打って!)
 ヤプカは心の中で必死に叫んだ。狼はコナまで十歩足らずの距離に迫っている。
「打て!」
 ヤプカの代わりに叫んだのは、弓と矢を引っ張り出し、ようやくチチェから飛び出してきたシハンだった。
 そのシハンの声が届いたのか、次の瞬間、コナは矢を放った。
 矢はひどくゆっくりとした速度に感じられたが、異様な存在感で空中を飛び、吸い込まれるように、突進してくる狼の眉間に突き刺さった。
 狼は、初めから額に角のある生き物のように、矢を突き立てたまま走り、徐々に速度をゆるめた。そしてコナのすぐそばを通り過ぎ、どさりと横に倒れた。その姿にコナは不思議な既視感を覚えた。ウルチが手負いの猪を仕留めた時の記憶が脳裏によみがえる。
「コナ!」
 恐怖と緊張で麻痺していた聴覚が戻り、ヤプカの耳に激しい雨音が飛び込んでくる。目に流れ込む雨をぬぐい、倒れた狼に注意をはらいながら、ヤプカはクサキナを抱きかかえたままコナに駆け寄ろうとした。激しい鼓動はおさまる気配がなく、足はまだがくがくと震えていてうまく進めない。
 シハンも悪い足を引きずるようにして、小走りでコナの元にやってきた。
「大丈夫⁉」
 やっとの思いでそばに来たヤプカは、何と言ってよいか咄嗟に言葉が出ず、それだけ言うのが精いっぱいだった。
「僕がしとめたんだね……」
 降り続く雨を受けながら、他人事のようにコナがつぶやいた。
「うむ、間違いなく、お前がしとめたのだよ。コナ」
 シハンが驚きを隠せない様子で、興奮気味に言った。それからすぐ近くの雨よけ小屋に、コナとクサキナを抱えたヤプカを導いた。
「今、左手で射ったの?」
 雨よけ小屋にもぐり込むと、鼓動がちょっとずつ静まるのを感じながら、ヤプカは尋ねた。
「うん、左だった。ずっと鍛錬していたんだ。うまくいくかどうかわからなかったから、秘密でね」
「でも、本当にしとめたんだ……」
 自分でも信じられないのか、コナは己の両手と地面に横たわる狼を交互にみつめた。
「チャルペの精霊が宿ったのよ……」
 ヤプカは頭に浮かんだ言葉を呆然とつぶやいた。そうとしか思えなかった。それから慌てて付け加える。
「もちろんコナの鍛錬の成果だと思うけど、何だか、何だか不思議な感じだった。矢が、やじりが自分で飛んで行ったように見えたわ」
「そう、だね……。僕も不思議な感じがした。自分が自分じゃないような気がしたよ」
 コナの様子がとても落ち着いているように、ヤプカには見えた。
「良くしとめたな」
 黙って二人の会話を聞いていたシハンが口を開き、さらに続ける。
「こっそり何かしているのはわかっていたが、左打ちを鍛錬していたのだな」
「うん、試しに左手でやってみたら、弓を持つ右手は思ったほどしびれなくて、これなら何とかなるんじゃないかと思って。まさか、こんなにうまくいく とは思わなかった。きっとまぐれに違いない。でも、でももしかしたら本当にチャルペの精霊が宿ったのかもしれない……」
 照れから驚きへ、コナの表情は複雑に変化した。
「うむ、それはいずれわかることだ。みんなを守りたいという強い気持ちが、お前を導いたのだろう」
 シハンは数回、小刻みにうなずいた。
「はい」
「でもコナ、なんであんな所にいたの? チチェのすぐそばにいたはずじゃあ……」
 ヤプカが不思議そうに問う。
「とっさに、誰もいない所に狼をひきつけなきゃ……って、思ったからなんだ。手負いの気の毒な狼を、早く楽にしてあげたいとも思ったしね」
「でも、かなり距離があったわよ。あんなちょっとの間に、しかも私も、多分、狼もそれに気が付かなかった」
「そう? 自分ではよくわからなかった。気が付いたら、体が動いてた」
 コナは少し、首を傾げた。
「それは多分、野風になったのだろう」
 シハンが重々しく言った。
「野風に⁉」
 コナは目を丸くした。それは父のウルチにさんざん言われていた言葉だ。
「そもそも野風になるとは、木や草や石や水や多くの精霊と一体になることだ。野風になれば、人の気配は消え、人は木々や石のように自然霊そのものになる。チャルペが猟に長けていたのは、野風になり、獣に気づかれずにすぐそばまで接近することが出来たからだ。チャルペはほとんど手が届く距離まで、獲物に近づけたという」
「僕は野風になったのか……」
 コナは独り言のようにつぶやいた。
「チャルペの精霊を内に宿し、野風になることを部族の男は望む。なかなかになれるものではないがな。わしなど、その入り口さえ見えなかったよ」
 大して悔しくもなさそうに、シハンは両の眉をひょいと上げた。
「僕が、その入り口に一歩踏み込んだということ?」
「ああ、そういうことだ」
「もちろん嬉しいんだけど、とてつもなく大きな森に迷い込んだような気がするよ」
 不安げな複雑な笑みを見せるコナが、少しだけ遠い存在になってしまったように、ヤプカには思えてならなかった。数年前までは弓の腕を競い合っていたのに。
「それより、一刻も早く手負いの精霊を慰める儀式をしなくてはならん。わかるなコナ? 我々はもう一人も仲間を失いたくはないのだよ」
「良く分かっているよ。すぐに儀式の準備を始めよう。でも安心して。父さんのように僕は死なない。理由はないけど、そう感じるんだ」
 コナの自信に満ちた言葉に、ヤプカとシハンは黙ってうなずいた。ヤプカもそう感じていたからだ。シハンも同じ気持ちに違いない。
「それにしても、おかしなことばかり起こる。ウルチの時だけならまだしも、手負いが現れるのはこれで二回目だ。それに今思えばヤプカが落ちたという罠穴も気になる。おそらくはヒボリ族かフシ族の罠だと思うがな……」
 シハンは、小屋の外に倒れている狼の無残な姿を眺めながらつぶやいた。勢いの衰えない雨の中、死骸は、不吉の化身のようにどす黒く濡れていた。

ヒボリ族

 かすかに明るさが残る宵の口。ころころと軽やかな青蛙の鳴き声が響いている。春から初夏にかけての繁殖の山場を越え、出遅れた真夏の数匹が鳴き急ぐ。
 ――ここは、コナのいるタチュタ族の集落から西に下ること半日、ヒボリ族の集落。
 族長デムシンは、高床式の大きな建物の一番奥に陣取り、手にした鉄剣を眺めていた。
 目の前には四、五人の男が車座に座り、黙したまま彼の言葉を待っている。
 鉄剣に映るその面は、細い眉、一重の切れ長の目、薄い唇、髭は濃くはない。タチュタ族の太い眉、二重の目、厚い唇、強い髭と比べ、デムシンはそのどれもが正反対の顔つきをしている。
 デムシンが手に持つ鉄剣は、西の大陸から彼の祖父がこの辺境の島国に渡ってくる際に持ってきた代物だ。鉄剣は非常に珍しく、ヒボリ族はもちろん、ここら一帯のどの部族にも持つ者はいない。
 剣その物に善意も悪意もない。ただの金属の塊りに過ぎない。しかし、敵の剣を弾き返して操者の命を守り、時には相手を葬ってもきた。そう知れば、有難さの奥に底知れぬ恐ろしさを抱かせずにおかない。
 祖父のコグドクは祖国の敗戦により、西の大陸から海を渡り逃れるようにしてやってきた。からくも数名の仲間と共に九州にたどり着いたコグドクだったが、彼らを受け入れる部族はすぐには現れなかった。彼らの方も、奴隷のように低く扱わることを嫌い、自分たちの価値を認めてくれる居場所を求め、流れ流れて神山を近くに臨むこの土地にやってきた。最終的に彼らを受け入れたのは、水稲の技術など様々な新しい技術を欲していたヒボリ族だったのだ。ヒボリ族にも代々伝わる水稲の技術はあったが、コグドクたちが持っていた目新しい優れた技に魅力を感じたに違いない。
 それでもヒボリ族に信用され、重用されるようになるには血を吐くような苦労があったと聞く。見慣れぬ大陸民族の容姿や、つたない言葉で差別されることもあった。既に何世代か前から続いている、近隣部族との血で血を洗う辛い戦いに真っ先に駆り出されたこともある。幼心に聞いた祖父の苦い思い出話が今でも忘れられない。
 しかし父のピリョムの時代には、時の族長の娘との婚姻を許されるほど重く見られる存在になった。デムシンは元からのヒボリ族の女と、大陸系のピリョムとの間に生まれた混血なのだ。やがてデムシンが物心つく頃に、父は族長となった。
 それから二十年の時が流れ、今はデムシンが族長としてヒボリ族をまとめている。デムシンが祖父と共にやって来た仲間の子孫を重用するのは、当然の成り行きだった。
 デムシンは傍らに鉄剣を置き、ゆっくりと口を開いた。
「徴兵をしなくてはならん。さて、どこから獲るか?」
 痛烈な内容が、眉ひとつ動かさずこともなげに口から滑りでる。
「タチュタ族か、オタイ族しかありません」
 すぐ隣に座る男、ムヒョルが緊張した面持ちで答える。彼もまた、デムシンと似通った容姿をしている。
「オタイ族は数年前に徴兵したはずだ」
「あと数名ならば無理をすれば……」
 すっと投げかけられたデムシンの視線を避け、ムヒョルは目を伏せた。
「あまり年寄りやら、子供では話にならんぞ。即戦力にならんとだめだ」
 デムシンは即答する。
「は。ではタチュタ族しかありません。小さな取るに足らない一族だし、ずっと前のことですが、はやり病が出たこともあったので、今まで放っておいたのですが」
「何人獲れる?」
「行ってみないとわかりませんが、精々五、六かと……」
「ふむ。少ないな。だがまあ仕方あるまい。フシ族の連中も我々もかなり疲弊している。そろそろ決着をつけねばならん。今は少しでも兵が欲しい」
 デムシンは、薄い髭の生えた口元を撫でた。まるで子供らが、遊びで川魚を獲る相談でもしているようなもの言いだ。
「わかりました。で、誰を行かせますか?」
 ムヒョルの隣に座るクンチョグが言う。
「お主が行け」
 デムシンが、末席に座る男に向かって顎をしゃくる。
「承知しました。明日の朝、早速」
 額に傷のある髭の濃い、この場でひとりだけ顔つきが違う男が答える。
「では急ぎ準備せよ。人選はお主に任せる。必要なだけ連れて行け」
「わかりました。皆が寝入ってしまう前に人選しなければならんので、この場はこれにて失礼を」
 男は礼をすると、黙ってチチェを出て行く。
「あの者で大丈夫でしょうか?」
 しばらく青蛙の声に身を任せてから、ムヒョルはおもむろに恐る恐る言った。
「何?」
 今までとは違う、剣呑な怒気をはらんだ声でつぶやき、デムシンは目を細めた。己の考えを否定されることが、彼には我慢ならない。
「大丈夫か、とはどういう意味だ。奴には無理だと?」
「いえ、そうではありませんが……」
 小さな声。堅い表情。決して意志身体共に弱くは見えないムヒュルだが、委縮しているのは明白だ。デムシンに逆らって、苦役を与えられたり、勝てる見込みのない戦に出されたり、むごい罰を受けた者は一人や二人ではない。
「カキバを信用できんというのか」
「いえ、そういう訳ではありませんが……」
「奴とて、ここに来てもう十年になるはずだ。最初は多少問題もあったが、よくやっている。有能な者には働いてもらわんと困る」
 デムシンはいくらか声色を下げた。
「はっ」
 ムヒュルは素早く低頭する。
「心配なら、誰か見張り役を伴わせよ。なんならお主が行けばよい」
「わかりました。私の組の者を数人行かせます」
「好きにしろ」
 デムシンは、傍らにあるよく研ぎ込まれた鉄剣をおもむろに再度手に取った。
 刹那、車座の中心へ向かって刃を振りかざした。その場に緊張感が走る。光る切先を見つめながら、その場にいる男たちに向かって大声を張り上げた。
「いいか、西国では弱い部族が淘汰され、大きな部族が幅を利かせている。いつまでも小さな部族のままでは、やがて奴らにとって食われてしまう。我々 が生き残るためには、有能な者は誰でも使わなくてはならんのだ」
「は」
「我々の先祖たちが、苦労して手に入れ守って来たこの土地を、決して失うわけにはいかん。心得ておけ」
 デムシンの頭の中にあるのは、このヒボリ族の地を守り、大きくしていくことだけなのだ。それだけが、彼の正義であり生きる目的だった。正確には、彼だけではなく、この国全体が統一に向けて突き進んでいる混乱の時代だった。

 ――その翌日。タチュタ族の集落。
 夏の盛りの容赦のない日差しが、チチェの外にいるヤプカの肌をじりじりと焦がしていた。朝霧がもたらす涼しさは、太陽が昇るにつれ徐々に消え、蝉が耳うるさく鳴き始める頃には、その気配さえなかった。午後になれば風が吹くのが常だが、今日に限ってまだ空気はよどんだまま動こうとしない。
 部族の者は、それぞれが思い思いのことをして集落で過ごしていた。朝のまだ涼しいあいだに野良仕事に出かけた者も、全員が戻っている。男衆の多くは、夕方まで休むことに決め込んで、手で蚊をはらいながら日陰で寝そべっている。
 働き者の女衆は、チチェから出たり入ったりしながら、着物を編む麻の繊維にかびが生えないように虫干ししたり、土器を作ったり、仕事をこなしている。
 夜の明けきる前に出かけたコナだけが、まだ狩りから戻っていない。それはいつものことなので、誰も気にしていなかった。
 手負いの狼をしとめてから一年余りが過ぎた今、着実に腕を磨いたコナに、弓でかなう者はひとりもいなくなった。きっと今頃、山中で野風になって、暑さを避けて休んでいる獣を探し出し、相手が気付く間もなく、見事に仕留めていることだろう。コナのやじりを作る精度も、獲物に忍び寄る術も、左構えで矢を射る技も、全てが群を抜いていた。
(チャルペの再来かもしれない)
 そう言う者もいたが、コナは困ったように首を横に振って、みなの役に立ちたいだけだと、寒さも暑さも気にかけず、ひたむきに狩りを続けた。

 太陽が天の中心に差し掛かる頃。不気味に見え隠れしていた不吉な影の本体が、いよいよ姿を現そうとしていた。
「長、武装した男たちがこっちにやって来ます!」
 いち早く気が付いたクシャが、悪い足を少し引きずりながら、困惑した様子で息を切らせて報告に来た。
「武装した男だと? どこの者だ? どれくらいの人数だ?」
 チチェの陰で涼んでいたシハンは、首を傾けて立て続けに問を発する。
「額のあの刺青は、ヒボリ族だ。数は十五人くらい。どうします?」
 確かにほとんどの男の額には、特徴的な楔形の刺青が見える。クシャは額の汗をぬぐうことも忘れ、不安気な顔でシハンの言葉を待った。
「まずは様子を見よう。くれぐれも下手なことはするでない」
 嫌な予感にざわめく心を落ち着かせようとするように、シハンはゆっくりと立ち上がった。
 やがて木々の間から武装した集団が現れ、うかがいも立てずにずかずかと集落に入って来た。男たちは手に持った石斧や弓や槍を、これ見よがしに見せびらかすように歩いている。時々他部族の者が訪れることはあったが、このような物騒な連中は初めてだった。
 警戒して、犬たちがけたたましく吠えた。叱りつけられて渋々黙るものの、不服そうに低く唸っている。
 ヤプカは男たちの中に、見慣れない顔つきの者が数名混じっていることに気が付いた。男のはずなのに髭が薄く、彫が浅くのっぺりとした顔をしている。目がつり上がっていてどこか冷酷な雰囲気をにじませている。話に聞く、西の大陸の者たちだろうか。
 訪問者に気が付いたタチュタ族の男衆の多くは、歩くシハンの後に集まって来た。女衆は隠れるべきかどうか判断出来ずに、手近にいるもの同士で固まって成り行きを見守っている。
「隠れてなさい!」
「いや! ここにいる! 私はもう子供じゃない!」
 ヤプカは母親のトケレベにチチェの中に押しやられそうになるが、その場にとどまって他の女衆と行動を共にした。逃げ隠れするのは嫌だとヤプカは思った。
「待たれよ。物騒な格好をして何用だ。まずは使者を立てるのが礼儀ではないか」
 シハンは強い表情で、男たちの前に立ちふさがった。
「これはこれは、失礼した。私はヒボリ族のカキバと申す者。この度は、タチュタ族に願いがあって足を運んだ」
 先頭にいるカキバと名乗った男の容姿は、タチュタ族にいてもおかしくないような見慣れたものだった。楔形の刺青のある額から鼻筋に抜ける大きな傷が目を引く。いかにも戦いの経験を積んできた強者らしく見え、毒蛇すら逃げそうなほど、醜く恐ろしかった。事実、外に居残った数名の子供たちは、母 親の後ろに隠れてしまった。カキバの胸元にある鹿角の首飾りが、大の男が下げるには稚拙で不釣り合いだと、ヤプカは思った。
 ヤプカは強がった手前、小さな子供のように隠れるわけにもいかず、意地を張ってその場に踏みとどまった。しかし、その胸はどくどくと脈打ち、全身が心臓になったような気がした。
「願いか。良かろう。用向きを伺おうではないか。まずは我がチチェにて喉など湿し、旅の疲れを癒すが良かろう。……おい、連れの方々にもふるまって差しあげろ」
 シハンは落ち着き払った調子で、息子のアットイに指示を出す。アットイはうなずいて慌てて駆け出そうとした。
「いや、その必要はない。用向きは難しいことではない。ここで構わん」
 カキバは毅然として片手をあげ、動きを制した。
「……。ずいぶんと急ぐのだな。カキバとやら」
「俺はまどろっこしいことは好かん。用向きを申し上げるが、よろしいか?」
 シハンの後ろにいるタチュタ族の男衆を油断なく観察しつつ、カキバは言った。
「客人をもてなすのが部族の習わしだが、そこまで言うのなら仕方があるまい。用向きを申すが良かろう」
 シハンは内心の怒りを抑えるように少しのあいだ眼を閉じてから、静かにうなずいた。
「では申し上げる。今、我々の領地はフシ族に再三の侵略を受けている。これまでその猛攻をしのいできたが、兵力の消耗が著しい。よって、我が領地に住むお主らタチュタ族にも兵を出してもらいたい。人選は今から俺がする」
 有無を言わせぬ強い物腰でカキバは言い、眉間にしわを寄せた。ヤプカには、そのしわの上を走る傷が、一瞬百足が這っているかのように見え、不気味だった。
「何だと? 兵を出せと言うのか」
 ぴくりと、シハンの頬がひきつった。彼にも全く想像出来ない申し出だったようだ。
「ふっ、何を聞いていた。もう一度言わせる気か?」
 カキバはつかのま馬鹿にしたように薄笑いを浮かべてから、刺すようにシハンをにらみつける。
「断ると言ったら? そもそも我々は、お主らヒボリ族に属してなどおらん。時折、薬草と塩を交換しに行くだけではないか。フシ族との争いに巻き込むのはよしてもらおう。己の喧嘩は己でけりをつけよ!」
 シハンは同族の者には決して見せない強い調子で言い放った。体が一回り大きくなったように感じられる。
「断ることは出来ない。無理やりにでも連れて行く。多少手荒になってもな」
 そんなシハンの意志を歯牙にもかけず、カキバは威圧するように腰の石斧に手をかける素振りをした。カキバの周りにいたヒボリ族の者たちも、手にした武器を持ち換えたり、石斧の柄を手のひらに打ち付けたりして威嚇する。
「馬鹿な……」
 シハンはヒボリ族の強引さにたじろぎ、うなった。
「では、いいな。さっそく兵を選ぶ。男はそこに並べ。赤子以外は子供も年寄りも全員だ!」
 カキバは、満足気に吠えた。
「冗談じゃない。そんなことに従えるか!」
 カキバにつめよろうと、若いアットイが躍り出た。怒りで声が裏返っている。
 その動きに反応して、カキバの直ぐ横に控えていたヒボリ族の男が二人、槍を構えて数歩前に飛び出した。
「やめろ。言うこと聞け、愚か者」
 槍の男たちを見て、シハンがアットイを制する。シハンは、同族の者が傷つくのを避けたいのだ。
「くそっ!」
 ヤプカの父のナシリに腕をつかまれ、アットイは渋々引き下がった。体がくやしさで震えている。
「そうしてもらえると助かる。ここで新しい兵の数を減らしたくはないからな」
 カキバは皮肉を込めてせせら笑った。
 タチュタ族の男衆は、老いも若きも憤りを懸命にこらえ、言われるままに一か所に集まった。女衆は、危害を加えられることはなさそうだと判断して、その場にとどまることにしたようだ。誰が連れて行かれるのか、気になって離れられないに違いない。
 ヤプカは父のナシリはもちろん、誰が選ばれても耐えられそうもなかった。本当は飛び出して行ってヒボリ族の無法者たちを殴りつけたいくらいだったが、恐ろしさで身体が小刻みに震えて行動に移すことは到底出来なかった。意気地のない自分に腹が立った。
「男は十二人だな。よし、お前とお前はどけ」
 タチュタ族の胸の内を無視して、カキバは淡々と指を差し、兵に不向きな者をはじいていく。まずは年端もいかない子供が三人、カパルミ、キボル、チェレシが外された。
「それから、老いぼれもいらん」
 シハンをはじめ戦闘にも労働にも耐えられそうもない年寄りが、四人はじき出される。
「お前もいらない。足が悪いようだ」
 カギバはまだ老いてはいないが、足をわずかに引きずるクシャを目ざとく見つけ、指さした。
「そんなことない。俺も連れていけ!」
 役立たずのように扱われたことが許せずに、クシャは勢い込んで一歩前に踏み出した。
「いや、この男は戦いの役には立たん。まともに走れない」
 横から慌ててシハンが出る。これ以上男を取られてはたまらない。
 シハンを無視して何も答えず、しばしクシャを値踏みしてから、
「気が変わった。この男も連れて行く。もし戦いの役にたたなければ、別のことをしてもらう」
 カキバは、こともなげに言った。
「望む所だ!」
 クシャは言い放ち、カキバをにらみつけた。
「馬鹿者が……」
 小声でつぶやき、シハンは忌々し気に唇を引き結んだ。
「よし、ではこの五人をもらい受ける」
 カキバは冷徹に言い放った。この男には、暖かい人間の血が流れているだろうかと、ヤプカは疑った。
「待って! 盛りの男衆をそんなに連れて行かれたら、私たちは生きていけない!」
 ずっと耐えて黙っていた女たちが、ついに口々に悲鳴に似た声を上げた。
「父さんを連れて行かないで! まだ小さい子供だっているのよ!」
 ヤプカの胸を縛っていた恐怖の縄を、怒りの衝動が引きちぎり、喉から声がほとばしった。一家の中心であり、指導者の次世代をしょって立つナシリを奪われたら、部族の生活が成り立たないではないか。
「長、こんな奴に従うことはない!」
 我慢ならぬとばかりにナシリも声を荒げる。
「言ったはずだ。断ることは許されない。残った者は精々頑張ることだ。もし戦いが終われば戻って来られるだろう。命があればだがな」
 不気味な真顔でカキバは言った。
「そんな……」
 部族の者たちは、ある者は深く首をうなだれ、またある者は怒りで震えながらカキバをにらんだ。武装した多数の男たちを前に、成す術がなかった。
「おい、そこの者!」
 刹那、カキバが突如として大声を上げた。その場にいた皆が驚いて声の主に注目する。カキバの視線は、ヤプカに向けられていた。
「えっ、なに⁉」
 睨まれているのが自分だとわかり、ヤプカは硬直した。おさまりかけていた恐怖心がまた一気に噴き出す。
「お前はなぜさっき並ばなかった? 男だろうが!」
 カキバは一見男のような服装と髪型をしたヤプカを少年だと思ったらしい。今頃になってヤプカの存在に気が付いたようだ。
「その者は男ではない!」
「女です!」
 シハンとトケレベが慌てて叫んだ。ナシリは驚いて駆け出して、ヤプカを背の後ろにかばった。この上さらに男と間違われてヤプカまで連れて行かれたらたまらない。
「うそを言うな。こっちにこい」
 カキバは、言いながら自身もつかつかと歩いてヤプカに対面した。
 恐ろしさのあまりヤプカの膝ががくがくと震えた。目を合わすことさえ出来ない。自分のことを情けないと思う余裕すらなかった。
「なるほど確かに女のようだ」
 上から下まで観察し、体つきや女だけしか付けない耳飾りなどでそう判断したらしい。
「ナシリ、早く連れて行け」
 シハンは唖然として立ち尽くすヤプカを見て、連れて行くようナシリを促した。ナシリは慌ててヤプカを抱きかかえるようにして連れて行こうとした。
「いや、待て。この女も連れて行く」
 思いもしないカキバの言葉に、部族全員が凍り付いた。
「なぜだ? 女に用はないはずだ!」
 シハンが面食らって声を大きくした。
「そんなことはない。働かせるために女をもらい受けることも珍しくない。それに、いま子供でも女はいずれ子を産む」
 まじめ腐った表情でカキバが応じる。
「娘を連れて行かないで!」
 トケレベがカキバの足元にすがり付こうとかけよった。その表は恐怖と動揺で激しく歪んでいる。
「いや、もう決めたことだ。諦めろ」
 カキバは、数歩下がってトケレベを退けた。
「ああっ! ヤプカまで連れていかれてしまう!」
 トケレベは、半狂乱になってその場にへたり込んでしまった。
「この野郎!」
 ついに怒りをおさえきれずにナシリがカキバに飛びかかろうとするが、かたわらの男に槍の柄でわき腹を突かれ、乱暴に地面にねじ伏せられた。顔を大地に押し付けられ、唇が切れて血が流れた。
(私も連れて行かれる……)
 ヤプカはあまりの衝撃に呆然とした。立ち尽くしたまま動くことすら出来ない。なぜこんなことになったのか、まったくわからなかった。
 カキバは、トケレベにもナシリにも一切見向きもせず、無感情に続ける。
「ではすぐに準備をしろ。持っていく武器はまとめて預かる。準備が出来たら出発だ」
 この言葉ですべてが決し、もはや何も言うことは許されなかった。
(コナ。助けて! いいえ、やっぱり駄目! もしいるなら隠れていて! お願い! 出て来ないで!)
 ヤプカの心は激しく乱れていた。

奇襲

 ろくに準備する間も、別れを言う猶予も与えられず、カキバ率いるヒボリ族とタチュタ族の六名は、ヒボリ族の集落に向かって出発した。
 大地に泣き崩れる女衆や、訳もわからず恐怖で呆然とする子供たちに見送られ、連れて行かれるヤプカたちは身を裂かれる思いだった。
 ヒボリ族の集落は、タチュタ族の集落から南西に半日歩いたところにある。ぐずぐずしていたら日暮れまでにたどり着けない。
 人の往来が少ないこの辺りには、立派な道はない。人ひとりやっと通れるような筋が、一本すうっと森の中に伸びている。筋道は、尾根をまたぎ谷を縫い、下り勾配で続いている。道の両側には深い森が広がり、遠くを見通すことはかなわない。朴の木、榎、紅葉、楢、樫。無数の木々の隙間を抜けて吹き抜ける風は、汗を流して歩き続けるヤプカたちに涼を運んだ。
 明るいうちに到着したいと見え、カキバはほとんど休むことなく歩みを進めた。足取りの重いタチュタ族を無理やりに急がせる。一度だけ、小さな沢で休息を許した。ヒボリ族もタチュタ族も、沢の水を飲み、持参していた保存食を少し腹に落とした。タチュタ族が逃げないよう、ヒボリ族がぐるっと囲んで座っている。
 見知らぬ男たちに囲まれたままヤプカが不安な気持ちで休息をとっていると、話し声が耳に届いてくる。
「近くに、狼らしい足跡が複数あります」
 用足しに行った際にでも見たのだろう、カキバの隣に座ったヒボリ族の男が声を潜めて切りだした。
「ああ、わかっている」
 干し肉を乱暴にかじりながら、カキバが面倒くさそうに応じる。
「どうします?」
「どうしますも何もない。狩りの最中だったらいつものように退治するところだが、今はそれどころではあるまい?」
 カキバはかすかにいら立ちをにじませる。
「はっ。わかりました」
 男は出した手をひっぱたかれたみたいに、直ちに引っ込んだ。
 ヒボリ族の者たちから見えないように目を伏せて、ヤプカはわずかに顔をしかめた。ヒボリ族が狼を退治している。去年の夏に手負いの狼が集落を襲う原因を作ったのは、ヒボリ族に違いない。狩場を荒らす狼が厄介なのはわかるが、退治するなんて。そんな行為をヤプカは許すことが出来なかった。ヒボリ族に対する嫌悪感がさらに募った。
 休息を早々に切り上げ、再出発した一行は、最近、山崩れがあったのか、大きな木が生えていない、土が露出した場所に差しかかった。幅は差し渡し五十歩くらいありそうだ。表土が流された地面には、草がまばらに生え、腰丈の灌木がちらほらうかがえる。倒れて流された大木が何本か見え、山崩れの力を見せつけていた。
 崩れた場所に踏み込んだヤプカの鼻に、露出した地面から土の臭いが届く。周囲を見回すと、大きな立ち木がないため遮る物がなく、空が大きく開け明るくなる。何かに見られている気がして、ヤプカは何となく落ち着かない気持ちになった。
「いやな感じだ……」
 カキバも同様に身を隠す物がないことに不安を感じたのか、小声でつぶやいてからきょろきょろと周囲を見回した。
 ほどなく全員が山崩れした場所に踏み込み、その姿が周囲の山から丸見えになった。
「があぁっ!」
 突然、最後尾にいたヒボリ族の一人が後ろから背中を矢で射ぬかれ、のけぞるように倒れた。
「奇襲だあぁ!」
 そばにいたヒボリ族数名が同時に声を上げた。武器に手をかけ、二の矢、三の矢がないか振り返って後方を見る。
「あわてるなぁ! 前の森に走れ!」
 すかさずカキバが冷静に指示するが、混乱に陥った男たちはばらばらに動いている。それでも何人かが前方の森に逃げ込もうとすると、今度は前から矢が撃ち込まれた。
「ま、前にもいる!」
 一番前にいた男が叫ぶ。前に走るのを諦めて、全員が姿勢を低くして、斜面の下にある山崩れで横倒しになった赤松の大木まで走って、必死に身を隠す。背中を射られた男も仲間に引きずられてやっとのことで倒木まで到達する。矢はまだ刺さったままで、低く唸り声を上げている。
「いったい、何だっていうんだ⁉ ヤプカ、頭を下げていろ!」
 訳もわからず這いつくばりながら、いまいましげにナシリがわめいた。言われるまでもなく、ヤプカはかがみこみ必死で身を守っている。こんなところで命を失うなんて真っ平ごめんだ。
「わからんのか! 奇襲だ! お前の仲間が来たのではないのか? とにかく姿勢を低くしていろ!」
 カキバがナシリのそばに来て怒鳴った。没収されて武器を持たないタチュタ族は、言われるままに身をかがめているしかなかった。
「敵はどこにいる!」
「わかりません。草木が邪魔で姿が見えません!」
 カキバの怒号に応え、身を屈めたままヒボリ族のトマルオルが叫ぶ。
「うわっ!」
 また後方から矢が飛んできて、ヒボリ族の一人が肩に矢を受けた。
「くそっ! このままではやられるぞ!」
 言いながら、トマルオルは矢を受けた仲間を素早く助けに行く。
「コナよ。きっとコナが来たのよ」
 仲間だけに聞こえる声で、ヤプカは嬉しそうにささやいた。だが、折角徴兵から逃れたコナが捕まってしまうかもしれないと思い直す。それに部族に残っているのは年寄り子供ばかりで、まともに戦えるのは精々コナひとりだということに気が付き、なおさら動揺する。
 それにタチュタ族にしては戦い方が汚い。狩りの獲物を相手にしても正々堂々と挑むタチュタ族が、このような奇襲をしかけるだろうか。ヒボリ族の卑劣な徴兵に憤りを感じていたにしても、納得のいかない戦い方だ。むしろシハンなら、先方の族長に使者を送り、真っ向から抗議するに違いなかった。
「おあっ!」
 タチュタ族のクシャが左腕に矢を受けて、その場に倒れ込んだ。幸い矢は腕をかすめただけで刺さりはしなかったが、傷を押さえた指の隙間から血が流れ出ている。目の前を飛び交う矢を目の当たりにして、ヒボリ族だけが狙われていると思っていたタチュタ族に動揺が走った。
「大丈夫か!」
 心配する仲間の問には答えず、口をぐっと引き締め痛みに耐えるクシャ。地面を這うようにナシリがそばにねじり寄って行く。ナシリの後からクシャに近づこうとしたヤプカだったが、脇をひゅっと矢がかすめて行き、恐怖で身体が固まってしまう。
「俺たちにも武器をくれ!」
 自分たちも狙われていると悟ったナシリが、血相を変えて叫んだ。
「駄目だ! 武器は渡せない! 奴らはどうやらタチュタ族の追手ではないらしいがな。もしかしたら敵はフシ族かもしれない。だが解せない。なぜこんなところに奴らがいる!」
 フシ族はもう十年も前からヒボリ族が戦っている相手だ。ヒボリ族が兵を欲しているのは、フシ族と戦っているからに他ならない。カキバはぎりぎりと歯を鳴らし、続けざまに言葉を吐く。
「ひるむな! 矢が飛んでくる方向を見極め、こちらからも矢を放て!」
 ヒボリ族の者たちは必死に反撃するが、でたらめに矢を放っても当たるはずがない。
「ぐえっっ!」
 ヤプカの数歩先で、ヒボリ族の男が頭を射られ、突っ伏した。男は矢を頭に突き立てたまま、あろうことか一度むっくりと立ち上がった。頭から血を噴き上げながら振り返ってヤプカを見て、助けを求めて手を伸ばし、また倒れて動かなくなった。
「いやあぁ!」
 ヤプカは目を見開いてその様子に食い入った。頭が麻痺してきて、何も考えることが出来なくなった。
 だが、それを最後に、間もなく攻撃はぴたりとやんだ。しばらく全員が身動き一つせずに姿勢を下げ続けた。油断させて、出てきた所をまた狙い撃ちするつもりかもしれない。恐ろしさのあまり激しく震えるヤプカの背中を、冷や汗が這いまわる虫のように流れた。
 どれくらい待ったろうか。業を煮やしてカキバが動いた。
「おかしい。なぜ奴らは攻撃を止めた? よし、ボツ、誰が二人を連れて後ろの様子を見てこい。トマルオルも二人連れて前を見て来い。いいか、少しでも攻撃されたらすぐにここに戻れ、わかったな?」
 ボツとトマルオルは緊張した面持ちでうなずくと、それぞれ部下二人を連れて矢が飛んできた方に向かって行った。
 ヤプカは震えを止めようと、目を閉じて深呼吸を繰り返した。目をつぶっていれば、すくそばに転がっている死体を見ないで済む。誰が敵なのかよくわからないが、もう来るなと心から願った。
 しばらくすると、トマルオルが先に戻った。
「前には誰もいません」
 続いてボツが戻って告げる。
「けがをした者がひとり取り残されていました。それ以外は誰もいません」
「そうか、優勢だったのになぜだ……。で、そのけが人はどこだ?」
 カキバは、ボツの後方を見やった。
「今、ここに引っ張って来ます。ああ、来ました」
 ボツの視線の先には、部下二人に半ば担がれるようにして連れてこられる男がいた。男は右足を引きずりながら、観念した様子でカキバの前にやってきた。男の服の裾から伸びたむき出しの右太ももには、止血するために葉が付いたままのあけび蔓が巻き付けられている。その手当のおかげか、出血はほとんど止まっているようだ。まだ血の乾かぬ傷が生々しい。
「お前はフシ族の者だな。置いて行かれたのか?」
 カキバは身を乗り出して聞いた。
「その通りだ……。頼む。殺さないでくれ」
 立っているのが辛いらしく、フシ族の男は座り込んで懇願した。
「いいだろう。その代わり、俺の問に答えろ。素直に答えれば、命は助ける」
「わかったよ。何でも答える」
 男は小刻みに何度かうなずいた。
「なぜ我々がここにいることがわかった?」
「たまたまだよ。偶然にお前たちヒボリ族を見付けたから、後を付けたんだ」
「たまたまだと?」
 カキバは、疑いの目で刺すように男を見る。
「嘘じゃない。俺たちは数日前に狩りに出たんだが、目ぼしい獲物がなくて、ついこんな遠くまで来ちまった。いつもならここまでは来ないんだがな」
「ふんっ、狩りをしていたら、偶然に俺たちを見かけて、獲物が動物から我々に変わったわけか」
 カキバは鼻を鳴らした。
「そういうことだ……。お前たちが何のためにうろうろしているのか、様子が知りたくてしばらく付けていたんだが、タチュタ族から人を取るためだったとはな。このまま黙ってヒボリ族の兵が増えるのを見ている手はないと思って、奇襲をしかけたってわけだ」
「俺としたことが油断したな……。しかしなぜ急に逃げた? それになぜおまえはけがをしている? こちらの矢がたまたま当たったのか? そうは思えんが」
 カキバはじれったそうにたたみかけた。
「そうか、やはりあいつはお前たちヒボリ族の者ではないんだな?」
 フシ族の男は首をかしげた。
「あいつとは誰だ。説明しろ」
「俺たちがお前たちを攻撃していると、急に後ろから矢を射られたんだ」
「後ろからだと?」
 カキバは思わず聞き返した。
「そう。後ろからだ。そいつがいる場所は正確にはわからなかったが、ちょうどお前たちが俺たちの奇襲で慌てたように、俺たちも慌てた。奇襲したはずの俺たちが、逆に奇襲されたんだからな」
「人数はどれくらいだ?」
「人数? 俺たちのか? それとも俺たちを襲った者ののか?」
「両方だ」
「俺たちは十一人。襲ってきたのは多分、ひとりだ……」
「ひとり? たったひとりの攻撃で、お前たちは逃げたのか?」
 カキバは首をひねった。
「最初はひとりだとは思わなかったよ。真っ先にやられたのは……、俺だ。俺は太ももを射られたが、何だかわけがわからなかった。わけがわからないうちにもう二人、多分、二人が射られた。良くはわからないが、逃げることが出来たところをみると、その二人は軽症だったようだ」
「それから?」
 焦れた様子でカキバはせっついた。
「むろん俺たちは大慌てで、反転してそいつに反撃した。でもどこから射ているのかはっきりわからんから、やみくもに射るばかりでな。そのうちもう一人がやられて、やむなく逃げることにしたんだ。もっとも、俺はこの有様。助けてもらおうにも、ひとりで少し離れた場所にいたから、それもかなわなかったさ。――すまんが水をくれ。喉がからからだ」
 自分がどうやら殺されないらしいと思ったか、男は大胆になってきた。
「でもどうして相手がひとりだとわかった? 見たのか?」
 カキバは水の入った革袋を渡した。
 男は水を一口うまそうに飲んで、また話しを続ける。
「ああ、仲間が逃げてしばらくたつと、やつが現われた。まあ木陰からちらりと見えただけだがな。何せこっちも見つかるわけにゃいかないから、じっと隠れていたわけだしな」
「それで」
「そう、そいつは多分、子供だった。と思う。小柄な男なのかもしれないが、多分間違いない」
「子供、だと?」
「子供であの弓の腕前は見事だ。考えすぎかもしれんが、あいつはわざと殺さないように射っていたんじゃないかな。おそらく一発も外していないのに、死人がいないなんてな。だとすると恐ろしいほどの腕だ。そうだ。それに気配だ。やつには気配がまるでない」
「……」
 カキバは不信の目で男を見つめたが、口では何も言わなかった。
(弓の名手の子供! 今度こそコナだわ!)
 すぐそばで話を聞いていたヤプカは、胸の内で思いを膨らませた。なんて危険なことをと思うものの、助けに来てくれた嬉しさの方が先に立った。ナシリをはじめ他のタチュタ族の者たちも、内心そう思っていたに違いない。目配せして、気がつかれないようにお互いに小さくうなずきあっている。
 しばらくじっと考えている様子だったが、カキバはやがて列を整えるように言い、奇襲で犠牲になった二人の亡骸と、けがをした捕虜一人を伴って、ゆっくりと歩き始めた。再度の奇襲にそなえて周囲に注意を向け、警戒を怠らずに進んだ。
 その後は変わったことは何も起きずに、一行はヒボリ族の集落へたどり着いた。大幅に遅くなり、辺りはすっかり夜になっていた。

追跡者

 時間を少しさかのぼる。
 外敵に狙われにくい夜に食べ物を探す獣たちは、昼間はほとんど動かない。暑い夏ともなればなおさらだ。鳥だけは夜目が利かないから昼間に活動するが、それも多くは朝間の涼しいうちに限られる。狩りに出かけても獲物と鉢合わせするのはまれで、たいていはその痕跡を見つけて追いかけることになる。
 その日のコナは、獲物の痕跡を見つけることがなかなかできなかった。散々歩いて回っても、鼠一匹いなかった。クロアシを連れて来ていれば見つけられたかもしれない。だが犬がいると下手に邪魔をされて獲物を逃がしてしまうことも珍しくない。だから、一緒に行きたがるクロアシを無理やりに置いて来ることが多かった。
 最後の頼みで、普段はあまり行かない森の中の小さな沼に足を延ばしてみる。水際に、獲物の足跡が残っていることがあるからだ。
(しめた!)
 ありがたいことに、水際にくっきりと数個、狸の足跡が残っていた。まだ新しい。おそらく昨夜か今朝、水を飲みに来たのだろう。コナには、きょろきょろと辺りを警戒しながら水を飲む姿が見えるようだった。
 足跡の向きで、どちらに進んだかは容易にわかった。足跡が見えなくなってからが、腕の見せ所だ。神経を集中して獲物の跡を追った。
 地面の上の落葉のへこみ方や生えた草の折れ方で、慎重に行先を読む。しゃがみ込んで狸が進んだであろう方向を見通すと、わずかに踏み固められた獣道が、一本伸びているのがわかる。何度も通るうちに出来た獣道だ。獣だって楽なところを通りたいから、慣れた道を行くのだ。
 コナは自信たっぷりな足取りで、そっと獣道を歩いた。しばらく進むと、獣道が途切れた。時をかけてじっくり辺りを見回すが、それでもわからずに、ちょっと考えて左前にあるやぶを観察する。最近ことさら父親のウルチに似てきた顔が、思わずほころんだ。草苺や藤蔓で出来たやぶの中に、狸が何度も通るうちに出来た小さな抜け穴があった。
 人が通れる大きさの穴ではないから、やぶを迂回して出口を探す。出口は簡単に見つけることが出来た。さあこれからが難しい。コナは余計なことを考えるのをやめ、体の力を抜いて野風に乗って、移動を開始した。

 今でこそ苦も無く野風になれるが、集落を襲った手負いの狼を葬った後に、初めて意識して野風になろうとした時には、まったくうまくいかなかった。自分の気配を消すことができず、獲物に逃げられてしまうのだ。
「狩りをしようと思わないで、何も考えずに岩にでも腰かけてみることだ」
 シハンの助言を聞いて、まずは一か所でじっと座って、まるで木か石にでもなったかのようにふるまった。
 狩りをする気はないから、気持ちは落ち着いていて気負いがなかった。木のようになると言っても微動だにしないわけではなく、首を動かしたり、頭をかいたり自然な動きは無理にとめなかった。
 すると、思いもよらなかった不思議なことが起こった。蝶が腕にとまったり、小鳥がすぐそばで食べ物をついばんだりし始めたのだ。まるで、最初からコナなどいないように。
 面白くなって、試しにゆっくり立ち上がってみたり歩いたりしてみたが、やはり動物たちはコナが見えていないか、まったく気にしていないようだった。それは不思議な感覚だったが、とても満たされた気分だった。
 その感覚をつかんでからは、野風になることはさほど難しくなかった。心を空っぽにすれば、どんなに大胆に動いても、相手に気が付かれることはなかった。注意しなければならないのは、殺気立ったり、変に気負ったりしないことだ。雑念が湧くと呪術が解けたように相手に存在を悟られてしまう。

 そうやってコナは、鉢合わせしても逃げられないように野風になって、狸の痕跡を探した。やぶの出口付近を見回すと、居場所はすぐに見つけることができた。こん盛りと小山になった地面に巣穴の入口があったのだ。
 しばし観察していると、巣の中には育ち盛りの子供が数頭いて、出たり入ったりしては無邪気に兄弟同士で遊んでいる。時折心配げに親が顔だして、巣に引っ張りこもうとしていた。人の存在に気が付いている様子はないが、やはり子供が巣の外に出ているのは落ち着かないらしい。
 十歩ほどの距離から矢をつがえてその様子を見ていたコナは、不意に弓を降ろし、狸を仕留めるのをやめてしまった。かつてのウルチと自分を狸の親子と重ねてしまい、子から親を奪うのも、親から子を奪うのも気が引けたのだ。気が付かれないよう、そっとその場を離れる。
 今日の獲物を諦めたものの、どこか晴れやかな気持ちで帰途につくと、期せずして小綬鶏(こじゅけい)の雄が姿を現した。コナはありがたく命を頂くと、小綬鶏の精霊に感謝を捧げた。

 そしてコナは、狩りから集落に帰ってきた。いつものように、正面からではなく横面から集落に足を踏み入れようとすると、集落の中心辺りで部族の男衆が並んでいるのが見えた。その周りには、武装した見慣れない男たちが何名か見える。
 反射的に危険を察知したコナは、その場に素早くかがんだ。緊張が走り胸の鼓動が速くなるが、物音をたてるようなへまは決してしない。近くのチチェの蔭から様子を観察すると、武装した男たちは全部で十五人近くはいそうだ。耳をすますが、遠く過ぎる上に蝉の鳴き声がうるさくて、話し声は聞こえない。
(よしっ)
 コナはすっと息を吸い、その場に吹く野風に同調するかのように、ふわりと移動した。音はもちろん、気配さえ消えていた。距離が半分ほどになるまで近づくと、声はよく聞き取れた。再び物陰に潜み、話に耳を傾ける。聞こえてくる話から、どうやらヒボリ族が、タチュタ族の男を兵として連れて行こうとしていることが察せられた。
 動揺したコナには、どう行動すればよいか咄嗟に判断が出来なかった。声を上げて飛び出してもさすがに多勢に無勢だ。すぐに取り押さえられ、彼自身も連れて行かれるに違いない。
(野風になって一人ずつ片付けるか?)
 いや、あれだけ一か所にまとまっていては、いくらなんでも気が付かれずに全員を射るのは不可能だ。それに獣ならともかく、人間を射るなんてとても気が進まない。
 しかし、ヤプカまでもが連れて行かれることがわかったとき、コナは心を決めた。この場では子供や女衆がいて分が悪い。彼らが移動し始めたら、道すがらで何とか助けよう。
 準備を済ませたヒボリ族の男たちと、選ばれたタチュタ族の者たちが出発したのを見るや、コナは急いで自分のチチェに戻り、念のために矢を補充して水と携帯食も補給する。言えば止められるに違いないから、黙って行こうと決めた。でも母親のシヤラが心配するといけないと思ったので、一度は帰って来たことがわかるように、獲った小綬鶏をそっと涼しい場所に置いてチチェを出た。
 出たところでクロアシに出くわしたが、いつもと雰囲気が違うことを感じ取ったのか、穏やかに尾っぽを振るだけで騒ぎはしない。付いて来ないように身振りで制して、急いで集落を出る。
 ヒボリ族の移動速度は思ったより早く、コナは差を付けられた。追いつこうと歩みを速める。やがて前方に人の気配を感じ、速度を保ちながらも気が付かれないように進んだ。
 相手が見え隠れすると、何かおかしいと気が付く。前にいるのは、先ほど集落にやって来たヒボリ族ではないようだ。彼らは十人ちょっといるだろうか。戦のための武装はしておらず、狩りをする時の恰好をしているように見える。どうやら、こっそりヒボリ族を尾行しているようだ。コナは新たに現れた男たちに気づかれないように、そっと後を付いて行った。
 しばらくすると数名が道からそれ、道なき道を進んで行くのが見えた。コナはそのまま人数の多い方を追い続けた。ヒボリ族が休憩をとると、男らも同じように休息をとった。歩く速度が上がると、男らも速度を速めた。
 男たちの動きに変化があったのは、ヒボリ族が山崩れを起こした場所に近づいたときだった。彼らは、迷うことなくヒボリ族に奇襲をかけたのだ。おそらくこの場を奇襲地点に決めていたのだろう。
 コナは薄々予期していたものの、動揺した。ヒボリ族の者たちが射られ、やがてタチュタ族が攻撃されるに至り、覚悟を決め、弓を握り背後から彼らに接近した。仲間が傷つくのを黙って見ているわけにはいかない。
 目的は彼らを殺すことではない。ここから立ち退いてもらえればよかった。コナは狩りと変わらないと自分に言い聞かせ、周囲の風と一体になって、さらに男たちに近づいた。かなりの近距離まで迫ると、楢の大木の陰に隠れて弓を構えた。
 最初のひとりは、太ももを狙って矢を放った。獣に比べれば人を射るのは簡単だった。動きがとても鈍く思えた。しかし人を傷つけるのはやはり後味が悪い。
 小さな悲鳴を上げて相手が倒れるのを見て、足にけがをしてここに居座られても厄介だと思い直し、次からは肩や腕をかすめるように狙った。四人目の腕に軽症を負わせたところで、彼らは撤退を決断したようだ。怪我を負った者をかばいながら、山の中に消えて行った。彼らを見送ったコナは、知らず知らずのうちに入っていた力を抜いた。人間を射る罪悪感がざわざわと胸の奥で騒いでいる。
 しばらくしてヒボリ族とタチュタ族が動き出すと、コナはまた尾行を再開した。さて、どうやってヤプカたちを助けようか。今と同じように攻撃しても、もしタチュタ族の仲間を盾にされたら厄介だ。助けるつもりで来たものの、コナに良い考えは浮かんでいなかった。

 昼間の暑さは空に帰り、夏の夜は代わりに涼しさを連れて来た。
 半日の望まぬ旅を終え、ようやくヒボリ族の集落に着いたヤプカをはじめタチュタ族の者たちは、空腹と心労と疲労でふらふらしていた。それでも交易のために訪れたことがあるナシリとスンを除いて、初めてヒボリ族の集落を訪れた面々は、恐れと好奇心の入り混じった目で辺りを見渡さずにはいられなかった。
 だが夜の闇は、新参者の好奇心を満たすだけの情報を与えてはくれない。外敵を防ぐために設けられたのであろう濠を渡ると、人の背丈の倍以上の高さの堅牢な柵が設けられている。柵には門があり、その両側にかがり火が焚かれている。
カキバの顔が火に照らされると、重たい丸太の門が開く。
 集落の中に入っても、所々にかがり火が申し訳程度にあるだけで、暗いことに違いはない。闇間に見えるのは、チチェの陰影と、そのチチェの入口から見え隠れする囲炉裏の炎だけ。聞こえてくるのは、ちょろちょろと水が流れる音と青蛙の合唱、興梠、きりぎりすや馬追いなど虫の鳴き声、そしてヒボリ族が交わす夕食後の語らい。辺りからは、どこか生臭いような水の臭いがしていたが、チチェの中から漂うたき火の煙と夕食の残り香が、それを打ち消していた。
「お前たちはここにいろ」
 タチュタ族が連れてこられたのは、壁も満足にない朽ちかけたチチェだった。脱走を警戒してか、ヒボリ族の武装した男二人が、見張りとして付いている。逃げたところで、柵を越えられるはずがないのだが。
 それでもタチュタ族はひとまずほっとしたようで、思い思いの場所に腰かけ、わずかに残った水や携帯食を喉に流し込んだ。
「疲れたろう。ヤプカ」
 見張りを気にして、ナシリが小声でささやいた。
「ちょっとね。でもいつも歩いているから平気」
 ヤプカは父を安心させようと思ったか、にっこりと笑った。だがその面に浮かぶ不安の陰は色濃かった。何より、頭に矢を射られ目の前で死んだ男の顔が、ちらついて離れないに違いなかった。思い出すのか、時々、手をぎゅっと握って震えを押さえているように見えた。
 ほどなくして、すっかり冷めてしまっているが、食事が運ばれて来た。川魚とえごまの葉の汁物だった。反発したい気持ちと死んだ男の顔を追い出すように頭を振ってから、ヤプカは全て平らげた。他の者も渋々といった様子で、食事を腹に流し込んだ。それは量、質ともに文句のない上等な食事だった。少なくともヒボリ族には、ヤプカたちを飢え死にさせたり、痩せ衰えさせたりする気はないようだ。
 全員の食事が終わると、見張りをしていた二人の男が、空になった器を手にこの場を離れて行った。ヤプカたちは、どうする? とばかりにお互い目を合わせたが、誰も何もできずに静かに座っているしかなかった。
 さては逃げられるはずがないと高をくくったなと、なめられたものだと、みなが思い始めた頃、
「ナシリ、ヤプカ」
 ほったて小屋の後ろから、若い男の声がする。声に気づいた六人が同時に振り返ると、小さな草やぶの中に何者かの顔がうっすら浮かんでいた。
「コナ!」
 ヤプカは小声で叫んだ。この前の冬から春にかけて声変わりしたコナの声は、最初はおかしく感じたが、ここ数カ月ですっかり耳になじんでいた。
「おい、何しに来た!」
 ナシリが声を殺して叫んだ。
「何をって。助けに来たに決まってるだろ」
 ひょうひょうとコナが言い。やぶの中から身を乗り出した。
「昼間、フシ族を攻撃したのはやっぱりお前だな?」
「フシ族なのかあいつらは。あのままほっといたらみんながやられそうだったから、ついやってしまった。まずかったかな?」
「まずかったかなって、お前な……」
 ナシリはあきれ顔でうなった。
「見つかってたらどうするつもりだったの⁉」
 ヤプカは目立たないようにそっとコナに近寄った。嬉しさと不安の入り混じった表情が浮かんでいる。
「でも、うまくいっただろう? みんな助かったし。クシャ、大丈夫? やられたようだけど」
「心配ない。かすり傷だよ」
 クシャが喜びを含んだ声で言い、麻布の巻かれた腕を軽く叩いた。
「良かった。元気そうだな」
「元気そうだなって……。おまえ、ここに来てどうする気だ?」
「決まってる。みんなで逃げるんだ」
 ナシリの問に答え、こともなげにコナは言ってのけた。
「馬鹿を言え。そんな簡単にいくもんか。もしここからうまく逃げたって、また集落まで捕まえに来るぞ」
 ナシリは、思わず唾が飛ぶほど大きくなった声を、慌てて自分の片手でふさいだ。
「じゃあどうすればいいんだ」
 口をとがらせ、コナは小さな子供のようにふてくされた。
「お前の気持ちはうれしいが、諦めるしかないだろう。少なくとも今は。そのうち何かいい考えが浮かぶかもしれん」
「そんな……」
 コナの胸にいら立ちがこみあげる。助けに来たのに怒られるとは納得がいかない。
「お前は見つからないうちに早く立ち去れ、どこかに隠れて朝を待つんだ。朝になったら集落に戻って、みんな無事だと伝えろ」
「この先どうするんだ。まさか、本当に兵になる気じゃ」
 コナは危険なほどの大声で反論した。
「しっ! 声がでかい! 昼間の奇襲を忘れたか。兵なんぞになりたくはないが、必要なら戦うしかあるまい。殺されたくなかったらな……」
 ナシリが、あく抜き前の栃の実をかじりでもしたかのように、苦々し気に口元をねじった。戦うしかないと聞いて、黙って話を聞いていた他の者もがっくりと首をうなだれた。誰だって殺すのも殺されるのも嫌なのだ。
「さあ、早く行け。いつ見張りが戻ってくるかもしれん。お前まで捕まることはない」
 もう話は終わりだとばかりに、ナシリはコナの体をやぶの方に押した。コナが何か反論しかけたその時、
「そうはいかんな」
 突然、低い男の声が不気味に響いた。
 タチュタ族の全員がいっせいに声の方へ向き直る。すぐ隣のチチェの陰に、数人の武装した男が立っていた。声の主は、おそらくカキバだろう。かすかな月明りに、鋭い槍先が輝いている。
「逃げて!」
 慌てたヤプカが反射的に必死で叫ぶ。
しかし周囲には他にも伏兵がいた。幾本もの矢が、コナはもちろんタチュタ族の全員に睨みを利かせ、誰一人動くことが出来なかった。
「やはり現れたな。もう逃げられんぞ」
 コナの出現を予見していたのか、カキバが含み笑いをした。
「畜生……」
 ヒボリ族の兵に武器を取り上げられながら、コナはうなった。見張りの男がこの場を離れたのは、隙を見せ、コナをおびき出すための罠だったのだ。
「誰だか知らんが、きっと来るだろうと思った」
 両側から押さえつけられたコナに、カキバが近づく。
「くそっ……」
 コナはじたばたともがくが、二人の大柄な男に無理やり座らされてしまった。新たに松明を手にした男がやって来て、コナの姿を照らし出す。
「お前が昼間、フシ族に奇襲をかけたのだな?」
 カキバが初めて捕まえた珍しい獣でも見るように、コナに見入った。
「こいつはまだ子供だ。集落に戻してやってくれ!」
 横合いからナシリが懸命に口を挟む。
「黙っていろ! こいつと話している」
 カキバは声で殴りつける。
 ナシリは、気迫に負けて何も言い返せない。悔しそうに歯ぎしりをした。
「もう一度聞く。お前がフシ族に奇襲をかけたのだな?」
 向き直って、カキバが質問を重ねる。
「そうだ」
 渋々、コナが口を開いた。
「ずいぶんと若いな。いや、幼いと言うべきか」
 コナの顔に成人を示す刺青がないとわかると、少し馬鹿にしたようにカキバは薄く笑った。
「もう子供じゃない」
 コナは、仁王立ちするカキバの顔をにらみ上げた。カキバはコナより拳でふたつ分以上は背が高い。
「確かに、弓の腕前は並みではないようだ」
 カキバは、傷跡のある眉間にしわを寄せ、もう一度じっくりとコナを眺めた。
「カキバ」
 その時、カキバの後ろからもう一人男が現れた。着き従う兵が持つ松明に照らし出された顔は、ヤプカが昼間出会った数名の者たちに似て、顎が細く、鋭い切れ長の目をしている。年齢は亡くなったウルチくらいだろうか。
 カキバはすっと一歩下がり、男に場所を譲った。
「その者が、奇襲からお前を助けたという、弓の名手とやらか?」
「はい。その様です。にわかには信じられませんが」
「名を何という」
 男は明らかな作り笑顔でコナに問う。近くで初めて見る異質な顔立ちに驚いて、コナはしばし目を離せなかった。
「……」
 コナが怒りと戸惑いで返事を拒んでいると、
「素直に答えろ。族長のデムシン様だ」
 カキバの声に応えて、コナの腕をねじ上げていた兵が、さらに力を込めた。改めて両脇の兵の顔を観察すると、松明に浮かぶ容姿は見慣れた同族にもいそうな顔つきだ。カキバという男といい、ヒボリ族の全員が異質な顔をしているわけではないようだ。
「うっ……。コナ、タチュタ族のコナ」
 コナは新たに現れた男、デムシンを挑むように見つめた。
「まあよい。あまり手荒にするな」
 デムシンは片手を振って、痛めつけるのをやめさせた。
「カキバ、せっかく来てくれたのだ。そのコナとやらを、少し幼いが、そのまま兵にするがよかろう」
 凛とした高い声で、平然とデムシンは告げた。
「ふざけるな! 俺は兵になんかならないぞ!」
 暴れようとするコナの前に、デムシンはしゃがみ込んだ。
「そういきりたつな。悪いようにはせん。いずれここに来て良かったと思うようになる」
 自信たっぷりのデムシンに、コナはさらなる怒りと恐怖を感じていた。
すっと立ち上がって、コナだけでなくタチュタ族の全員に向けて、デムシンは言葉をつなぐ。
「ここはよい土地だ。だからフシ族はこの地を欲しがるのだ」
 松明の灯りに揺らめくタチュタ族の顔は、どれも困惑している。デムシンが何を言いたいのかつかめなかった。その様子を見て、デムシンはさらに続ける。
「お前は知らなかろうから教えてやるが、フシ族との闘いはもう十年も前から続いているのだ。今は暗くてよく見えんが、ここいら一帯には水田に向いた平らな土地が拡がっている。むろん水も豊富だ。奴らの狙いはこの豊かな平地なのだ」
 平地のそばには大きな川が流れ、氾濫する度に、豊かな土壌を上流から運んでくる。
「平地だと? それが俺たちと何の関わりがある?」
 黙って聞いていたナシリが、思わず口を挟む。
「わからんか。フシ族がこの地を我々から奪い治めるようになったら、お前たちタチュタ族だって今のままではいられんぞ。侵略され、良いようにされる。奴らがあんな不便な山奥を欲しがるとも思えんが、働き手は欲しがるだろう。田を維持するにも戦をするにも、人手がいるからな」
 何も言わないのはタチュタ族が話を理解したからだと思ったのか、デムシンは機嫌を良くした。
「少なくとも、我々ならお前たちがあの山奥で暮らすことをとがめはしない。時おり、兵を出してくれさえすればな。確かに戦いは命がけだが、ここは豊かだ。空腹を抱えて眠れぬ夜を過ごすこともない」
(ふざけるな! 無理強いしていることに変わりはないじゃないか!)
 コナはデムシンの勝手な言い分に怒りを感じたが、かろうじて声を飲み込んだ。他のタチュタ族の者たちも、強い顔をして必死に耐えている。
「この平地を、我々の領地を守ることが、お前たち自身を守ることにつながるのだ。わかったかコナとやら」
 一瞬、獲物を見つけた鷹のようにデムシンの目が鋭く光った。
 怒りを押しのけるようにして、鼠か兎にでもなったかのように、コナの胸に標的にされた獲物の恐怖が拡がった。
「そのフシ族との闘いが、今重要な局面を迎えている。奴らも長い闘いで疲れている。早く決着を付けたいと思っているだろう。我々も早く終わらせたいんだよ」
 一転してどこか甘えたような口調で、デムシンは薄気味悪く微笑んだ。
「……」
 コナは、デムシンのころころ変わる表情に戸惑った。
「では頼んだぞ。コナ」
 デムシンは何も言い返さないコナが納得したと思ったのか、くるりと背を向けてその場を離れた。少し歩くと振り返り、思いついたように付け加える。
「あさっての夜明けに、フシ族に奇襲をかける。今日の奇襲の雪辱戦だ。明日の昼には出発することになる。タチュタ族の者は連れて行かんが、コナ、お前だけは特別に連れて行ってやる。よく休んでおけよ。――準備してやれカキバ」
「はっ!」
 間髪を入れずカキバは応じた。カキバにとって、デムシンは絶対の存在のようだ。
 その夜は、他のタチュタ族の者たちとは引き離され、見張りの付いたチチェでコナはひとり横になった。ひとり離されたのは、ヒボリ族がコナを特別な人間だと認めたからに違いない。コナは明日、自分だけが戦に連れて行かれることに困惑していた。
(俺は、タチュタ族は、どうなってしまうのだろう?)
 夜が明ければ戦いが待っている。コナは、昼間にフシ族の者を射た後味の悪さを思い出した。
(また人を射らなくちゃいけないのか……)
 生まれてから今まで、命を支える糧として獣たちを狩ってきた。それは純粋に食糧にするためであって、領地を得たり守ったりするためではない。それに、糧となってくれた獣たちに対する感謝の念だって忘れたことはない。
(いったい何のために戦うんだ……)
 腹を膨らますために、消化の悪い山菜を無理やり大量に飲み下した夜みたいに、むかむかして眠れそうもなかった。

アツ砦の戦い

 朝、カキバにチチェから引き出されたコナは見張り櫓の上に登らされ、ヒボリ族の集落全体の姿を初めて目の当たりにした。
 集落を囲うように設けられていると思っていた柵は、北東の川淵に始まり、瘤のように膨らんで南を守り、北西で川にぶつかって終わっている。北側はほぼ真っすぐに伸びた川が天然の濠となり、外敵の侵入を拒んでいる。
(うわっ……)
 コナは北側に広がる水田に心を奪われた。夏には珍しく、霧のない朝だった。それとも平地では、霧の出ている朝の方が珍しいのだろうか。
 ヒボリ族を始め平地に住む一族のほとんどが、幾世代も前から水田を作り米を栽培していることは聞き及んでいる。だがこうして実際に水田という人が作り出した壮大な風景を目の当たりにするのは初めてだった。彼が慣れ親しんでいる陸稲とは、規模も技術も全くかけ離れている。
 すぐ手前には小さな水路が流れ、その向こうには朝露でうっすらと濡れた稲の輝く水田が、低い山が始まる手前まで続いている。その水田と山の間には、とてつもなく大きな川が流れている。そして低い山の遥か遠くに、黒々と神山がそびえていた。
 カキバが、おもむろに神山の麓を指さした。
「ここから北に半日行ったあの辺りに、フシ族の砦がある。我々はアツ砦と呼んでいる。知らんだろうが、元々はアツ族の集落だった所だ。明日あそこを落としに行く」
 なだらかな神山の懐には鬱蒼とした森が広がっている。緑に覆い隠され、人が暮らしている痕跡は見えない。カキバが太陽を仰いだかのように眩しそうに一点を凝視している。そこにアツ砦があるのだろうか。
 コナは、カキバの話を上の空でほとんど聞いていなかった。
(ここから見える神山も、水田も、なんだか悔しいけど水田も、すごく美しいな……)
 話し終えたカキバに後ろから、もう降りろ!と小突かれたが、景色に見とれてしまったコナは、無理やり手を引かれるまでずっとその風景を眺めていた。

 櫓から降り、カキバのチチュに通されたコナを待っていたのは、質素だが温かい食事だった。囲炉裏には小さな火がつけられ、素焼きの土鍋に湯が沸いていた。他に人がいない様子を見ると、カキバが一人で住んでいるらしい。
「そこに座れ」
 相も変わらず、ごつごつの石つぶてのようにカキバはぶっきらぼうだ。
「早くしろ」
 仕方なく、カキバからなるべく離れた位置に腰かける。
「食べながら聞け」
 カキバは朝食の入った木の器をコナに差し出した。受け取らずにいると、無造作に目の前に置いた。刳り抜きの器には、米飯と煮含めた鮒などの雑魚が乱雑に盛られている。濃い緑色の物は見たことのない種類の海藻らしい。
 昨日の昼から簡単な携帯食を食べただけで、コナはろくなものを食べていない。水もほとんど飲んでいない。食べ物を目の前にして急に腹が鳴り、渇いているはずの口に唾が湧く。
「長が言った通り、今日の昼前には戦に出かける。出発すれば余計な間はないから、今のうちに必要なことを教えてやる」
 返事をしないコナを無視して、カキバは蒸した米を口運びながら話を続けた。
「アツ砦に奇襲を仕掛けるのは夜明け前だ。それまでに砦のそばにたどり着き、仮眠をとって夜明けを待つ。それまでの道中、俺と一緒に行動しろ。現地についたらまた指示する」
 戦に長ける多くの者がそうだが、カキバも早食いの方らしい。あっという間に器を平らげると、器をとんと音をたててかたわらに置いた。
 そのうまそうにほおばる様子を、あっけにとられながら見ていたコナも空腹に耐えられなくなり、ようやく器に手を伸ばし食べ始める。初めて食べる粒の大きい変わった米。水稲だった。山で栽培している陸稲より香りは薄いが、ふっくらと柔らかく粘りがあり美味しかった。煮含めた塩味の雑魚も、海藻の出汁がよく利いている。一度食べ始めたら悔しさも遠慮もなくなり、コナは目の前にある食事を敵であるかのように噛み砕いた。
「さっき見せたようにアツ砦は、我がヒボリ族と敵のフシ族の領地の境目にあって、そこを奪い合って今は戦っている。もっと前には、アツ族より北側のラムキリク族の集落もヒボリ族の領地だったが、フシ族の奴らに落とされてしまった。そもそも、前触れもなくラムキリクを奪われたのが、この長い戦の始まりだ。最後にはそこも取り戻したいが、まずはアツ砦を取り返さなくてはならん」
 そこまで言うと、カキバは土器の白湯を杓子で掬って器に注ぎ入れ、こびりついた米粒を箸でこそぐとやおら一気に飲み下した。
「そのアツ砦ともうひとつのラムキリクの地を取り返せば、戦いは終わるのか?」
 食べものが腹に満ちて来ると気持ちが大きくなるのだろう。コナは思わずカキバに口を開いた。
「……。さあな。少なくとも今ほど激しくはなくなるだろうよ。フシ族を滅ぼしてしまえば終わるかもしれんが、そこまでやるのは難しいだろう。となれば、やつらはまたアツ砦を取り返そうとするかもしれん」

 食べ終えた器と箸を部屋の隅に片付け、戻って来ると消えそうな囲炉裏の火を燃え差しの棒でいじりながら、カキバは答えた。
「そもそも、なぜ戦うんだ? フシ族はそんなに平地が欲しいのか?」
 昨夜、デムシンの説明を聞きはしたが、ヒボリ族が命をかけてまで平地を欲しがる理由がいまひとつわからなかった。
「お前も見ただろう。これからは、山奥にへばり付いて焼き畑をして陸稲を作る時代じゃない。広大な水田でたくさん米を作るんだ。豊かな実りがあれば、我々は飢えなくても済む。それには、平らな土地と豊富な水が必要だ」
 コナはカキバの言う水稲のお米を食べながら、黙って聞いた。確かにうまいにはうまいが、殺し合いをするほどの物だとは思えない。理由を聞かれたら困るが、己の言うことが正しいのだと、カキバが無理やりに自分に言い聞かせているように、コナには思えた。
「わかったな。質問は終わりだ。さっさと食え」
 カキバは怒ったように言い、乱暴に強い髭をなでた。
(何だかいつも怒ってるな、この男は)
 コナは半ばあきれてカキバを眺めながら、迫ってくる戦いの足音から耳をふさぎ、食べられる時に食べておこうと無理やり無心になろうと努めた。

 予定より早く昼を待たずして、ヒボリ族の男たちはアツ砦を目指して出発した。
 あまりないことらしいが、指揮は族長のデムシンがとる。五十人近い軍勢だ。ヒボリ族の兵は全部で八十人程度。万一の敵の襲来に備えて、ナシリたちタチュタ族も加えて三十人の兵を残した。鉄剣を手に自らが指揮をとるからには、デムシンはアツ砦の争奪戦に決着を付ける気でいるようだ。軍勢の士気も自然と上がる。
 コナはカキバが率いる組に入れられ、馬鹿なことはするなと念を押された上で、弓を返された。タチュタ族の仲間が人質にとられている状況では、歯向かうことは出来ない。重い足取りでカキバの後ろを付いて行った。集落を囲う大げさな丸太の柵が、馬鹿馬鹿しく見えて仕方がなかった。
 平地を過ぎ森に入ると、比較的緩やかな登り坂が続く。快晴ではないが、晴天の中、歩き続ける。直射日光の当たらない森の中は比較的涼しいが、それでも暑さは厳しい。各自腰につるした水筒が、どんどん軽くなっていく。休憩はしないものの、沢にぶつかる度に水を補給しながら進む。はらってもはらっても顔の前で飛び回る蚊やぶゆが、うるさくてかなわない。
 半分ほどまで道を進んだ頃、やや開けた場所でデムシンは休息をとるよう指示した。それぞれ思い思いに日陰に腰を掛け、吹き抜ける風で汗を乾かす。
他の者から少し離れた場所に、コナは腰かけた。これから始まる戦のことを考えると、嫌でたまらなかった。いきなり最前線に出されることはないだろうが、戦では何が起こるかわからならい。まあいい。最悪はまた殺さずに傷を負わせる程度で抑えればいい。コナは無理やり自分に言い聞かせた。
「おい、見ろよ」
「おお、でかいな!」
 コナはひと際大きく聞こえてきた会話に反応し、その者たちの視線の先を目で追った。休息中の軍勢の前に胸を張って堂々と現れたのは、赤や青や紫と色彩鮮やかな雄の雉だった。
 雄の雉には外敵が近づくと、つがいの雌や雛を守るために、注意を引こうと自分が目立つ行動をとる習性がある。きっと近くに雌か雛がいるはずだ。
会話を聞いていた別の兵が不意に弓を引き、雄雉に向かって矢を放った。矢は大きくそれて地面に突き立った。
「ハハハッ、下手くそが」
 見ていた兵たちが失笑する。
「俺に任せろ」
 また別の者が弓を構え、こちらの気を引こうと躍起になっている雄雉に矢を放った。矢は今度は真っすぐ獲物に向かって飛び、翼に当たった。
「よし! 当たったぞ!」
 射者は興奮して叫んだ。
「逃げるぞ!」
 当たりはしたものの致命傷には至らず、ばたばたと翼をゆすぶって雄雉は慌てて逃げていく。射止めた男は、逃がしてなるものかとすぐさま追いかける。
「もうやめろ。遊んでいる暇はない。出発だ!」
 追跡しようとする兵をデムシンが止めた。声には有無を言わせぬ冷徹な強さがあった。
 追いかけていた兵は残念そうに何度も振り返りながら戻って来た。雄雉はいずれ出血多量か獣に襲われるかして死ぬだろう。人間のように仲間が手当てしてくれはしない。
「しとめないのか?」
 唐突に、コナがデムシンに向かって声を張った。
「何だ。何が言いたい?」
 歩き出そうとしたデムシンは、ぴたりと止まり振り返った。
「あのままじゃ精霊が怒ってたたられる。とどめを刺さなくちゃだめだ!」
 中途半端なことをしてはかわいそうだと思い、コナは憤慨した。遊び半分で矢を放ったことも、弱い雉とはいえ危険な手負いにすることも許せない。
「何だと? お前に指図されるいわれはない」
 デムシンの目に今までなかった凶暴な鈍い光が浮かんだ。周囲をこれまでなかった緊張が包む。
「たたられたら、酷い災いに苦しむことになるぞ。それでもいいのか?」
 コナは声を震わせ、真剣に訴えた。精霊にたたられる恐ろしさは誰よりもよく知っている。
 しかしもう遅い。もたついているうちに雉は草陰にまぎれて見えなくなってしまった。
「ふっ、たたられるだってよ」
「ワザワイだなんて古臭い」
 デムシンの怒りに身を固め様子をうかがっていた兵たちは、一転して口々にコナを小馬鹿にして、体を揺らせてせせら笑った。ヒボリ族の者たちは、たたりを恐れていないようだ。
(そうか。そういうことだったのか……)
 不遜に笑うヒボリ族の姿を見て、コナの胸裏に、手負いの猪と狼の哀れな痛々しい姿がはっきりと浮き上がった。獣を手負いにしたのは、彼らに違いなかった。
(父さんはこいつらのせいで……)
 のど元を締め付ける悲しみと、それを上回る黒々とした怒りが、重なり合ってじわじわと襲ってくる。苦しみの果てに死んだウルチの顔が蘇る。やがて憤りは耐えがたいほどに膨れ上がった。
「くそっ、お前らのせいでぇ!」
 彼は衝動的にデムシンに向かって走った。脳天を突き破るほどに怒りは激しかったが、手に持った弓を使うことは出来なかった。弓は命の糧となる獲物を狩るための道具であり決して人の命を殺めるための物ではない。それがタチュタ族の考え方であり誇りだった。その誇りを汚すことだけは絶対にしたくなかった。
 誰もが虚をつかれた格好にはなったが、コナとデムシンの間には武器を携えた何人もの兵がいる。デムシンに迫れる可能性は無いに等しい。殺されはせぬものの、コナは過酷な罰を覚悟しなくてはなるまい。
 だが意外にも、コナが手荒くねじ伏せられる前に、後ろから素早くはがい締めにした者がいる。カキバだ。カキバがコナの胸と喉の間辺りを力任せに締め、動きを封じてしまった。
「放せ!」
「やめておけ。いまお前に怪我をされたら面倒だ」
 真っ赤な顔でうなったコナの耳元で、カキバは囁いた。
「うるさい!」
 それでもコナは執拗にもがき暴れた。死んでいったウルチの無念を思うと怒りが収まらない。
「どうしてもやるなら、俺を倒してからにしろ。この距離ではお前の自慢の弓も役に立たんぞ!」
 それでもまだ抵抗するコナに、ついにカキバも額の傷の横に何本も青筋を立てて怒鳴った。
「他にもタチュタ族の者がいることを忘れるなよ。お前の出方いかんで扱い方も変わるのだぞ!」
「くそがっ!」
 コナは悔しげに叫んで、暴れるのをやめた。力が抜け怒りが無力感に変わっていく。
「笑われてそんなに悔しいか? 何を怒っているのか知らんが、気は済んだか?」
 コナが取り乱しことで、デムシンは己の優位を感じたのか、落ち着きを取り戻したかに見える。
 もうよいと判断したか、カキバは力を抜いてコナを解放した。
 その時、草陰から、射られて傷ついた雄雉がばたばたと出てきた。全員の視線がいっせいに集中する。カキバもデムシンも例外ではない。
 次の瞬間、コナは素早く弓を構え矢を放った。
 跳ね走る野兎のような早業に、そばにいたカキバにも止めるいとまはなかった。
 矢は違うことなく雄雉の頭部を捕らえた。雄雉はほんの一瞬羽をばたつかせたが、すぐに動かなくなりぱたりとその場に倒れた。
 その人間離れした妙技に、ヒボリ族の兵たちは唖然とした。手に持ちかけた荷物を思わず落とした者もいる。
 もし族長が狙われていたら……。そう思う者もいたに違いない。
「見事!」
 静まり返った重い空気を裂いて、デムシンが賛美の声を上げた。
「良いものを見せてもらった。お前の腕前がこれで証だてられたわけだ」
 弓の妙技への驚きと、良い射手を得た喜びで、デムシンは嬉々として笑った。
「そのためにやったわけではない。楽にしてやりたかっただけだ」
 構えた弓をおろして、むっつりとコナは答えた。弓をおろしたことで、その場の張り詰めた空気が一気にゆるむのがわかる。もしデムシンを射れは仲間のタチュタ族がどうなるのか、それがわからないほどコナは馬鹿ではない。意図したわけではないが、弓を放ったことで怒りが幾分か収まっていた。
「おい、こっちに来い」
 デムシンは首から下げていた翡翠の勾玉の首飾りを外し、草のまばらに生えた地面に放った。深い緑色の勾玉は、夏の尖った日光を浴びて鈍く輝いている。
「受け取れ、褒美だ。戦でもその腕前を発揮せよ」
 デムシンは満足げに頬をゆるめた。
「だが……」
 今笑っていた顔が、突然変化した。肉食獣のような険しい表情でコナにずかずかと歩み寄り、胸ぐらをつかんで地面に引き倒した。あまりに不意な出来事に、抵抗することが出来ない。
「俺がもうやめろと言ったのに、お前は矢を放った。命令に従わない者には罰を与える」
 デムシンは狂ったような形相で、コナの顔を乱暴に何度も地面に押し付けた。あまりのしつこさに、土まみれになったコナの顔が苦痛に歪む。
「わかったな!」
 気が済んだのか、ようやくデムシンは手を放して立ち上がった。
「今回はこれで見逃してやる。だが今度従わなかったら相応の罰を受けることになる」
 返事もせず、褒美の勾玉も拾わないコナの態度が、一段と怒気をあおる。
「褒美を拾え、命令だ!」
 コナは地面に膝を着いたまま、反発するようにデムシンをにらみつけた。頬が擦り切れ血がにじんでいる。土を噛んだ歯がじゃりじゃりと音をたてた。
「拾え!」
 不意に横合いから、カキバが指図する。
 今度はカキバをにらんで、コナは殴るように勾玉を拾った。悔しくてならず、砕けるほど強く勾玉を握りしめる。
「カキバ、ちゃんとしつけておけ」
 デムシンはコナを見下ろしながら踵を返した。
「はっ……+」
 カキバは感情を消した表情で従順に頭を下げた。コナにはカキバが何を思っているのか見当がつかなかった。
「出発だ。日暮れまでに目的地に着くぞ」
 デムシンは何事もなかったかのように穏やかに歩き出した。とばっちりを受けたくない兵たちは、すごすごとデムシンに付き従った。
「罰を受けたくなかったら、しっかり首から下げておけ。翡翠だ。めったに頂ける代物じゃない。よほどお前のことが気に入ったらしい」
 それでも動かずにいると、カキバはコナの手から勾玉の首飾りを奪い取り、強引にコナの首に下げた。
「重ねて言うが、抵抗はもちろん、反抗的な態度もやめろ。お前も含めタチュタ族が傷つくだけだ」
 カキバは落ちているコナの弓を拾って渡し、急いで自分の荷物のある場所に戻っていった。
 コナはヒボリ族とタチュタ族の考え方の違いに戸惑った。精霊を大切にしないやり方を許すことが出来ない。それに加え、デムシンの言動にも馴染むことが出来なかった。これからあんな奴の下で働かなくてならないのかと思うと、逃げ出したくてたまらなかった。
コナは渋々と歩き出す間際に、置き去りにされた雄雉の亡骸を見やって、
(送ってやれなくてごめん……)
 胸の中でつぶやいた。精霊を最後まで弔ってやれないことが悔しかった。
 それになによりもまして、父ウルチの死にヒボリ族が関わっていたことへの怒りが、一皮めくった心の中で溶岩のようにごぼごぼと沸き上がっていた。己の中に初めて現れた憎しみの感情をどう扱ったらよいのか、コナにはわからなかった。

 夕日が森の陰に隠れるころ、フシ族の砦まであと少しの距離で、デムシンは隊列に止まるよう号令をだした。
取り囲む森は深く、遠くを見通すことは出来ない。日が暮れてからなら少々煮炊きの火を使用しても、フシ族に気付かれる懸念はないだろう。それでもデムシンは、用心深く大きな音をたてることを厳しく制限した。
 兵たちには食事を終えると、興奮する気持ちをおさえ翌朝の戦いに備えて早々と眠りについた。もちろん、見張りをたてることを怠らない。
 他の者から少し離れた大きな樫の木のそばで、コナは横になった。誰の視界にも入らないところに行きたかったが、それは無理だろう。カキバの眼が光っているて、近くに戻されるに決まっている。
 柔らかそうな草や落葉を集めて寝床を作ったが、それでもでこぼこしていて体が痛い。痛みと不安がまとわりつき、いつまでたっても眠ることが出来ず、悶々と虫の鳴き声や風の音に耳を傾けていた。二日前までは生まれ育った集落で何事もない平穏な日々を送っていたのに、今はこうして見知らぬ森で眠れぬ夜を過ごしている。目を開けると、木々の枝を縫って星々の瞬きが目に落ちてくる。その星たちの様子は、タチュタ族の集落で見ていたものと少しも変わらない。
(母さんや弟たちはどうしてるだろう。ヤプカやナシリたちは大丈夫だろうか)
 タチュタ族のみなのことが次々と胸裏に浮かぶ。鼻の奥がツンとして、目に涙がにじんだ。
(父さん、どうしたらいいんだろう)
 コナは、ウルチが死ななければならなくなった原因が、ヒボリ族にあったという事実を知ってしまった。その恨みとやるせなさは耐えがたく、彼を闇へと引きずり込もうとしている。
 恨みを晴らすためにデムシンやカキバを殺せばいいのだろうか。しかしそんなことが許されるはずがない。弓の技を身に付けたのは、人を殺めるためではない。生かすためだ。でも心の中に渦巻く恨みの念は消えることがなく、むしろどんどん育っている。
 いっそ怒りに身をゆだねて、暴れてやろうか。うまく距離をとって野風に乗れば、少なくともデムシンとカキバ、それともう数人くらいなら仕留められるだろう。だが殺気をまとった邪な心で、うまく野風に乗れるだろうか。雑念を消して、無心にならなければならないのに。
 それにもしうまくいったとしてもいずれ捕まって、己の命はもちろん、人質になっているヤプカたちの命だって保障できないではないか。
(やっぱり駄目だ。俺には何も出来ない……)
 コナは、大きく息を吐き出してから横を向き膝を抱えた。コナの心は、ウルチが死んだ直後に沈んだ、迷いの暗黒の中にもう一度落ちようとしていた。
(ほんの少しでも活路があれば諦めない。もう完全に駄目だと思ったらすっぱり諦める。それがいさぎよい生き方だ)
 沈んだコナの心の奥に、温かな朝日が射すようにウルチの声が響く。
(そうだ……。あの困難な状態から、俺は立ち上がったじゃないか)
 おぼつかない弓の左打ちを習得し、皆の役に立つ境地までたどり着いたことは、彼の大きな自信になっていた。
 コナは、窮屈に固めていた手足を思いきり開いた。
(まだ諦めるな。殺しなどしなくても、きっと何とかなる)
 コナは自分に強く言い聞かせた。
 知らず知らずに、もてあそぶ手が、つい胸元にある冷たい物に触れた。昼間、デムシンから無理やりに与えられた翡翠の勾玉だった。勾玉はタチュタ族も身に着けるが、それは鹿角や普通の石で作った物で、翡翠は初めて見た。昼光を受けて輝く様は見事で、美しくないと言えば嘘になる。しかしデムシンが持っていた物だと思うと、首から汚物を下げている気がして、不快だった。
(こんな物、要らないのに……)
 思わず勾玉から手を離した。投げ捨てたい衝動をこらえ、代わりに不自由な右手をぎゅっと強く握った。じんわりと伝わる痛みとしびれが、不思議と心地よかった。
 その痛みを感じているうちに少し気持ちが落ち着いて、長距離を歩いた疲れも手伝ってか、コナはいつしか眠りの世界に落ちて行った。

「起きろ、いつまで寝てる」
 カキバに家畜のように蹴飛ばされ、コナは目を覚ました。手荒いやり方に文句のひとつも言ってやろうかと思ったが、敵が近いことを思い出し言葉を飲み下した。
 立ち上がって痛む節々を伸ばす。まだ夜明けまでは遠く視界は灰色の闇に沈んでいる。目が慣れてから注意して回りを観察すると、ほとんどの者は起きて、火を使わずに簡単な腹ごしらえをしていた。みな淡々と静かに行動し、昨夜までとはまるで違うぴりぴりとした戦いの緊張が伝わってくる。コナも乱暴に手渡された食事を無理やり喉に押し込んだ。食べているうちに気持ちが張り詰めてきて、味どころか食感さえわからなかった。
「者ども、戦いの時がきた」
 軽い食事が終わると、デムシンは押し殺した声で、周囲に集まった男たちに言った。暗い中で表情は見えないが、うわずった口調が内面の興奮をうかがわせた。
「戦いの手筈は夕べ説明した通りだ。ムヒュル、念のため確認だ」
「はっ!」
 ムヒュルはデムシンの後を継いで話し始める。
「いいか、俺たちは三つの組に分かれて砦を攻める。一つは族長が、ひとつはカキバが、そしてもうひとつの組は俺が指揮をとる」
 周りにいる男たちを、ムヒュルはぐるりと見渡した。
「まずは、俺の組が最初に出て、敵の見張り櫓を押さえる。出来れば気が付かれないように制圧したいが、無理なら力づくでやる」
 ムヒュルは狂気はらんだ言を吐き、さらに続ける。
「見張り櫓を押さえたら、カキバの組が気付かれぬように敵の中心に乗り込み、長を捕らえる。生け捕りが無理なら、殺してしまっても構わぬ」
 闇の中、ムヒュルの目が飢えた狼のように凶暴に瞬いた
「櫓を押さえる前にもし敵に感づかれたら、三組とも一気に突っ込んで、とにかく長を落とせ。うまくすればそれで敵は戦意を失う」
 言い終えたムヒュルは、デムシンの方を見てうなずく。
 デムシンは鞘から鉄剣を抜き放った。
「いいか。とにかく何が何でも砦を落とす。やつらはおとといの奇襲の直ぐあとに、まさか攻撃はないと高をくくっているはずだ。十分に勝機はある。油断するなよ。よし始めろ!」
 デムシンが高々と掲げた鉄剣が、闇の中、さらに黒い影となって存在を主張し、兵たちを鼓舞する。まずはムヒュルの組が、見張り櫓を制圧するために先陣を切って出発した。砦まではまだ声が届かないだけの距離はある。辺りはまだ薄暗い。少し間を開けて、カキバとデムシンの組も出発した。
 闇に紛れて、ムヒュル率いる十二人は見張り櫓に忍び寄った。そもそも見張りをするために設置された櫓だ。昼間なら見つからぬはずがない。でも闇の中なら、しくじらなければ気づかれずにすむ。
 見張り櫓まであと少しの距離で止まり、ムヒュルは様子をうかがう。櫓の上は上空にある月の動く音がきこえそうなほど静まり返っていて、敵に気づかれた気配はない。ムヒュルは申し合わせた通り、身軽なタラとクンチョグに身振りで合図をし櫓に向かわせた。
 間髪を入れず、二人は緊張した様子で櫓に向かう。息をする音さえ消し、獲物を狙う肉食獣さながらに草木をかき分けながら、慎重に長い時をかけて進む。
 やっとのことで敵に発見されずに見張り櫓にたどりつた二人は、ただちに背丈の十倍はあろうかという丸太で組んだ櫓に、躊躇なくとっついた。腰には、ずっと戦いを共にしてきたずっしりと重い石斧がある。櫓の上には何人の見張りがいるだろうか。おそらくは二人、運が良ければ一人。
 組んだ丸太のきしむ音に注意しながら、タラを先頭にゆっくりと櫓に上っていく。櫓の上まで登ったタラが、目だけを覗かせて床板の上を確認すると、男が二人いる。ひとりは座ったまま、もつひとりは横になって眠っているのが、薄闇の中かすかに見える。タラは細心の注意をはらって、床の上に這い上がった。出来れば同時に二人を屠りたい。騒がれたら面倒だ。タラはクンチョグが上がるのを待った。
 クンチョグが丸太をまたごうとした時、ひと際大きくみしみしと丸太が鳴った。タラの目は、座った敵の瞼が開き、白目が月光に反射するのを見逃さなかった。間髪を入れず、無言のまま石斧を男の脳天に叩き込んだ。がつっと鈍い音がして、石斧が頭にめり込む。
 物音で、もう一人の見張りが目を覚ましたのと、クンチョグが床に飛び降りたのは同時だった。タラは石斧を必死に男の頭から外そうとするが、食い込んでいて簡単には抜けない。肩を踏みつけてようやく引き抜くと、深く空いた穴から血が噴き出し、石斧も手も血まみれになった。ふり返ると、クンチョグと見張りの男がつかみ合って格闘している。
 男はクンチョグの右手首を必死につかみ、石斧から逃れようとしている。大声を出される前に倒したい。クンチョグは力任せに、相手を櫓から突き落とした。
「ぬあぁー!」
 見張りの男は、転落しながら悲鳴を上げた。怪鳥のような声は、薄っすらと明け始めた砦に響き渡った。落ちた男は、櫓下まで来ていたムヒュルの槍であっさりとどめを刺された。
 男の悲鳴を聞きつけたカキバの組は、打合せ通り一気に行動に移った。敵があれだけの大声を聞き逃すはずはない。敵が事態を把握する前に、デムシンとカキバの両組とも、出来るだけ深く砦に食い込んでおきたい。実際には、族長のデムシンを最前線に出すことは出来ないので、カキバの組の後ろにデムシンの組が付いて来る形になる。
 カキバの組は肉食獣さながらに音を出さぬように注意をはらいながらも、迅速に移動した。コナももはや嫌だなどと言ってはいられず、カキバの組の一員として後ろから付き従った。武器はほとんどの者が、弓を手に持ち腰に石斧を下げている。槍を得意とする者は弓の代わりに槍を携えている。
 戦いは、四、五名で一組になって行う。敵を見付けると、見つからないよう距離を保ったまま弓で射る。弓で怪我をおわせてから、集団で近づいて石斧で確実に頭部を狙いしとめるのだ。特に森の中では理にかなったやり方だ。
 砦にあるチチェ群が木々の蔭に見え隠れする距離まで来ると、カキバは、組を三つに分け、四人一組でチチェに近づくように小声で指示を出した。
 カキバはコナと共にその場に残り、明け始めた薄明りの中、小高くなっている場所に陣取った。そこからなら、木々の隙間から三つに分けた組の様子が少しはうかがえる。
 やはり、見張りの男の悲鳴がフシ族の目を覚まさせ、戦闘態勢に入らせてしまったらしい。チチェの方から、人の動く気配が感じられる。敵も数名で行動し、同じようにこちらを片付ける気だと思った方がいい。敵も味方も、撹乱されて一人になったら危険だ。
 カキバとコナは、周囲に気を配りながら戦況を見守った。だが少し時間がたつと戦いの場は先に移り、ほとんど状況がわからなくなった。
「いいか、絶対に動くなよ」
 心配になったのかカキバが、コナに言い含め戦いの様子を見に向かう。
 コナはしゃがみ込んで気配を消して前方をうかがった。狩りの時にも緊張するが、戦はその比ではない。狩っているつもりが、いつのまにか狩られる側になっているかもしれないのだ。今こうしている間にも同じ戦場で殺し合いが行われていると思うと、本能的に手足が震えるてくる。
 非道なことばかりする彼らを仲間と呼ぶには強い抵抗があるが、それでもカキバを含めヒボリ族の者が死ぬのは忍びない。まだ一日二日しか経たないのにそう感じ始めている自分に驚き、複雑な想いがした。多分本当は、敵でも味方でも誰かが死ぬのを見たくはないのだ。
 そこま思い至って、コナは次々に湧いてくる雑念を懸命に頭から追い出した。今はそれどころではない。戦いに集中しなければならない。油断すれば死ぬのは自分だ。
 少し開けたところで、カキバが敵と出くわすのが見えた。驚いたことに敵はコナとあまり変わらないくらいの少年ではないか。まさかあんな少年がこの砦にいようとは思ってもいなかった。コナの鼓動が自分のことのように高鳴った。弓を持つ手に力が入る。
(逃げろ!)
 コナは、思わず立ち上がって胸の中で敵の少年に向かって叫んだ。敵だろうと何だろうと、自分と同じ年頃の少年に死んでほしくなかった。己も闘いの渦中にいる自覚が、瞬時に消し飛んだ。
 カキバと向き合った少年は、明らかに動揺した様子で、ぴたっと動きを止めた。攻撃すべきか、逃げるべきなのか迷っているようだ。カキバが一歩踏み出すと、逃げきれないと判断したのだろう、少年は弾けたようにカキバに飛びかかった。まるで兎が狼に立ち向かうように。
 身を引いてカキバがひょいと足を出すと、少年はその足につまずいて四つん這いに転んだ。はた目にも、二人の力の差は明らかだった。カキバは右手で石斧を構えなおし、四つん這いの少年に後ろから馬乗りになった。
(やられる!)
 コナはカキバの石斧が少年の後頭部に振り下ろされるのを、目を見開いたまま待った。しかしカキバは石斧を振り下ろさなかった。戦場においてはずいぶんと長い間、カキバは少年に馬乗りになったままじっと考えているようだった。
 やがてカキバは少年を開放した。少年は振り返り、訳がわからず恐怖でおびえた顔でカキバを見つめている。
 コナには聞き取れなかったが、カキバは少年に向かって口を開いた。少しの間、驚いたように動けないでいる少年に対して、カキバがまた少し何か言うと、少年は獣の牙から逃れた小動物のように、一目散に砦の中心の方に走って行った。コナには子細はよくわからなかったが、カキバが少年を見逃してやったのは確かだった。あの冷酷なカキバが少年とはいえ敵を逃がしたのはなぜだろう。少年が殺されなくてほっとしたが、コナの頭は混乱した。いつの間にか、全身から汗が噴き出している。
 その時、コナの周囲への注意力はまったくと言っていいほど働いていなかった。立ち上がったままの無防備な姿は周りから丸見えだった。がさがさと近くのやぶが揺れた音で、コナは自分が危険な戦場にいることを思い出した。
 コナが身構える間もなく、石斧を手にした男が飛び出して来る。瞳孔が開ききった目を血走らせ、狂気に身を任せている。
「ぬわああぁー!」
 叫び声と共に力任せに振り下ろされる石斧を、コナは咄嗟に身をよじって避けた。いくらコナでも、矢筒に入っている矢を一瞬にして射ることは出来ない。続けざまに繰り出される二撃目を、今度は横に転がってかわす。ぶんっ、という石斧が空を切る音が耳元で鳴った。しかし、逃げられるのはそこまで、大地に尻もちをつき、やぶを背負いもう後がない。攻撃者も必死と見え、絶好の機会を逃さずにとどめの一撃を加えるべく石斧を振りかざした。
 コナが反射的に弓で受けようと構えた刹那、猪のように何者かが突っ込んできた。
 呆然とするコナの前に現れたのはカキバだった。カキバは体当たりして敵を突き飛ばすと、一切無駄のない動きで無言のまま、獣のような獰猛さでこめかみに石斧の一撃を食らわせた。傷からはごぼっと血があふれだし、何度か痙攣した後に敵は動かなくなった。
「死にたくなければ戦え!」
 へたり込んだコナの首根っこをつかみ、カキバは怒鳴った。返り血を浴びた顔が、怒りと興奮で震えている。目の前で繰り広げられた惨劇に怖気づいたコナは、何も言い返すことが出来ずに、阿呆のように何度も口をぱくぱくとさせた。

 完全に陽が登る前に、砦の戦いは意外なほどあっさりと終結を迎えた。勝者はデムシン率いるヒボリ族だった。フシ族の者たちの多くは、戦意を失い武器を捨て投降した。しつこく抵抗する者だけが、矢を射られ石斧や槍で葬られた。
 アツ砦にいたフシ族二十数名の内、死亡した者は五名、怪我人は七名だった。ヒボリ族にほとんど被害はない。フシ族には最初からそれほど強い戦意はなかったのだ。
 ここ数年でヒボリ族は四度アツ砦を攻めたが、毎回うまくいかなかった。それは単純に砦にいるフシ族の人数が非常に多かったからだ。五十人を下回ったことはない。この戦いでフシ族の戦意が薄かったのは、二十人という少数では攻められれば守り切れない。そんな弱気があったからなのかもしれない。
 投降したフシ族は両手を縛りあげられ、一か所に集められた。拘束され不自由な状態で砦の長がデムシンの前に引き出された。森の木々の間からさす黄色い朝日が、三十代半ばの痩身だが筋骨逞しい男を照らした。髭面の奥にある目は堅く閉じられている。
「顔を上げろ、お主が長だな?」
 デムシンは立ったまま、砦の長を見下ろした。
「そうだ」
 うなだれていた砦の長は、頭を持ち上げ目を開けた。
「名を言え」
 静かな中にも、戦いの興奮を宿したままデムシンは言った。
「テムルイ」
 長がそう名乗ると、ぴくっと、カキバが僅かに動いた。その視線がテムルイの上に留まる。
 すぐ隣にいたコナは、カキバの微妙な反応を見逃さなかった。しかし、それがどんな意味を持つのかまではわからない。
「俺はヒボリ族の族長、デムシンだ」
「族長みずからのお出ましか……」
 テムルイは改めて、デムシンを凝視した。疲れたように潤んだ黒目がちな両眼は、何の感情も示してはいなかった。
「もろいな。ここには何度か来たが、これほど手薄だとは思いもしなかった。何故だ? フシ族に何かあったのか?」
 デムシンはわずかに眉を寄せた。自分にわからないことがあるのが許せないのだろう。
「話すことはない。早く殺せ」
 テムルイの返答はにべもない。
「まあそう慌てるな。むろん、砦の長であるお主を生かしておくことは出来ないが、素直にしていれば、礼をもって葬ろう」
「ふっ、まあ、よかろう。楽に死にたいとは思わぬが、フシ族に義理立てするいわれもない」
 死人にじみた無表情が緩み、テムルイは苦笑した。
「そう言うからには、フシ族の生まれではないのだな?」
「その通り。俺はアツ族の生まれだ」
 声の調子を一段上げて、心なしか誇らしげにテムルイは胸を張った。それからさらに言葉を続ける。
「十年以上前に、お前たちヒボリ族が我がアツ族に徴兵に来た時も、その数年後に、フシ族に制圧された時も、俺はここにいた。その後、フシ族にとり込まれ兵としていくつもの戦に連れて行かれたが、ついこの前、砦を守る長として、またこの地に戻って来ることが出来たのだ」
 十数年前、つい先日タチュタ族にしたように、ヒボリ族が領地内に住むアツ族に徴兵を行った。半数の男が徴兵されたが、テムルイは運よく逃れることができた。フシ族との防衛線であるこの地を守らせるために、ヒボリ族は盛りの男の全てを徴兵することは出来なかったのだ。この時、事実上アツ族は消滅し、アツ族の集落はアツ砦として残ることになった。
 だがその数年後に、テムルイたちの戦いの甲斐もなく、アツ族はフシ族に攻められ、ヒボリ族の領地だった一帯は、フシ族の領地になってしまったのだ。そして捕虜となったテムルイはフシ族の兵として戦うことを強要され、各地の戦いを生き残り、つい最近故郷のアツの地に戻され、砦を守る長となっていた。それは単なる砦と化したかつてのアツ族の集落に戻っただけのことで、故郷に帰った感慨などかけらもなかっただろう。
 この話を聞けば、彼らに戦意がなかったのもうなずける。生まれながらのフシ族でなければ、命を張ってフシ族の砦を守る意志があるはずがない。おそらくはアツ砦を守っていた二十数名の内、アツ族出身の者が数名はいるのではないだろうか。
「そうか。では、元々ヒボリ族の領地に生まれ育った人間だということだな」
「お主たちはそう思っているようだが、俺たちアツ族はヒボリ族の手下ではない。アツ族はアツ族だ」
 大きな部族が、小さな力のない部族を力でねじ伏せただけではないか。テムルイの顔がにわかに怒りに歪んだかに見えた。だがそれは胸に居座る冷気に触れ、すぐに冷えてしまったようだ。
「では改めて聞くが、どうして砦はこんなに手薄なのだ?」
「簡単だ。しばらく前から西に住むカタカ族がちょっかいを出してきたせいで、そちらの守りを固めなければならなかったからだ。今までお前たちに知られなくて幸いだったが、これで秘密ではなくなった」
 フシ族が治める土地は、南と東にヒボリ族、北は神山をはさんでヅカル族、西はカタカ族に囲まれている。神山をはさんでいるために往来が困難で、北のヅカル族とは敵対も友好もない。西のカタカ族とは友好な関係を保っていると聞いていたが、どうやらそうでもないらしい。
「なるほど、それでここの守りに人を割けなくなったということか」
 納得して独りつぶやき、デムシンは薄く笑った。
「ここをこれだけ手薄にするところを見ると、カタカ族との闘いは相当厳しいのだな」
 フシ族の力が削がれるのが嬉しいに違いない。薄笑いが深く不気味な笑みに転じる。
「おそらくはな。俺自身は実際にカタカ族と当たっていないし、それにフシ族のやつらはよそ者だった俺に本当のことは言わんよ」
「元は同じ領地に住んだよしみだ。他に知っていることがあったら教えろ」
 数歩テムルイに歩み寄るデムシン。蛇のように目を光らせて、貪欲に迫る。今後のフシ族との戦いに有利な情報を引き出したいのだ。
「いや、他に言うことはない」
 テムルイの愛想のない返答にがっかりした様子だが、ゆっくりと息を吸ってから気落ちせずにデムシンは続ける。
「ふむ、では最後に聞こう。お前を殺すのが惜しくなった。優秀な部下はいくらでも欲しい。その気があれば共にフシ族と戦わんか?」
 デムシンは大真面目だった。色々と情報を持っているテムルイのことを、人ではなく、有用な道具と判断したらしい。
「はっ、冗談じゃない! アツ族に生まれたはずが、お前たちヒボリ族のとばっちりを受けてフシ族と戦い、今度はフシ族に捕らわれヒボリ族と戦う。そしてまた、フシ族と戦えと言うのか! もうこりごりだ。さっさと殺してくれ。アツの地で死ねれば本望だ」
 テムルイは鼻で笑ったが、少しも崩れていない顔が、腹の底で暴れ回る怒りを映していた。
「よかろう。では死ぬがいい」
 デムシンはあっさりと引き下がった。自分に従わない者は必要ない。それが彼の哲学なのだろう。
「ただ……」
 いくぶん躊躇してから、捕らえられて初めてテムルイが自ら口を開いた。顎の筋肉が小さく盛り上がるのがわかる。ぐっと奥歯を噛みしめたのだ。
「何だ」
「ひとつ。頼みがある」
 静かに、神妙な面持ちでテムルイは言った。
「言ってみろ」
 急激にテムルイに興味を失い、デムシンはあさっての方を見ている。
「この戦いで投降した者、生き残った者を寛大に迎えて欲しい」
 テムルイは澄んだ目で、デムシンを見つめた。
「言うまでもない。貴重な兵を無駄にする気はない」
 向き直って、デムシンは請け負った。あくまでも、彼にとって人間は道具でしかないのだ。
「……」
 返答を聞き、無表情な仮面の下で、テムルイの心が激しくのたうつのをコナは見た気がした。仲間がここで生き残っても、次の戦いですぐに死ぬかもしれないのだから、虚しさを感じずにはいられないのだろう。もし自分がテムルイの立場だったらどうするだろう。いつか同じ状況に置かれるかもしれないと思うと、身体が巨大な野獣に踏みつぶされているようにみしみしときしんだ。
「族長」
 突然、終始黙っていたカキバが、話を割っておもむろに切り出した。いつもの仏頂面がさらにひどくなっている。
「何だ」
 面倒くさそうにデムシンが答える。
「この者と少し話をさせてもらいたい。出来れば二人きりで……」
 カキバにしては珍しく、年老いた硬い雄鹿の肉でも食ったみたいに歯切れが悪い。
「まあ、いいだろう。元アツ族同士、最後に話すがいい」
 ひょいと両眉を上げてデムシンがその場から少し離れると、周りにいた者も習って距離をおいた。
(えっ、元アツ族同士? 生まれながらのヒボリ族ではないのか……)
 そう聞いて、コナはカキバが何を話そうとしているのか気になって仕方がなかったが、自分だけが残ることも出来ずに仕方なく他の者に従った。
「テムルイ。俺を覚えていないか」
 みなが十分な距離をとると、カキバはテムルイに歩み寄り、立ち尽くしたまま小さな声で言った。
「……さあな」
 テムルイは座ったまま首だけひねり、傷のあるカキバの顔をじっくりと眺めた。だが何も心当たりはないようだ。
「俺の名はカキバだ」
「カキバ……。おお、思い出した。ずいぶん……、すいぶん立派になったから、わからなかった」
 今度はゆっくりと体ごと向き直り、テムルイは再度、変わり果てたカキバの顔を凝視した。テムルイが覚えている、まだ初々しかったカキバの痕跡は何も残っていない。醜い痛々しい眉間の傷跡が彼の苦労を物語っている。
「確か、ハガチの息子だったな?」
 テムルイは記憶の底から引っ張り出した、カキバの父の名を口にした。
「そうだ。俺は十年前に、ヒボリ族に連れ去られた者のひとりだ。覚えているか?」
「もちろん、もちろん覚えている。そうか、生きていたのか。カキバ……」
 生霊にでも会ったかのように、テムルイはわずかに震えている。
「アツ族の衆はどうなった? 親父は、俺の家族は、みな無事なのか?」
 胸の内を噴出させ、カキバの口から滝のように問が流れ出た。
「生きている者も少なくないが、みなばらばらにされて、誰がどこにいるのか正確には俺にもわからん。ハガチは、最初のフシ族との闘いで死んだよ。俺の目の前でな。だからよく覚えている。母親の名前は何と言った? 確か兄弟もいたな」
 怒りも悲しみも超越した淡々とした調子で、テムルイは話した。
「母の名はサミ。弟がいたが、もう死んだ。それはわかっている」
 カキバはおそらくは無意識に胸元をまさぐって、鹿角の首飾りを強く握った。
「サミ、そうだったな。サミは、何度か見た覚えがあるが、ここ数年は見ていない。生きているといいが、わからん」
「そうか……」
 サミは生きていれば四十歳はとうに過ぎている。死んでいてもおかしくない年齢だ。
「カキバ、お前と一緒に奴ら、ヒボリ族に連れて行かれた、ほかの者はどうしている? 全部で確か、十人くらいだったか……」
 テムルイは顎でデムシンたちの方を示してから、昔の記憶を辿って遠い目をした。
「ああ、半分は死んだよ。ほとんどは戦死だが、病気で死んだ者もいる」
 死んでいった者の顔をひとりひとり思い出すように、カキバは目をつぶった。
「似たようなものということだな」
 二人の間に沈黙が落ちる。
「本当にいいのか。このまま死んでも」
 沈黙を静かに突き破り、カキバは問いかけた。
「いいんだ。もう十分に生きた。それに、あちらこちら連れまわされ、戦わされるのは、もうんざりだ」
 テムルイは、ほとんどわからないくらい小さく首をふって、諦めと満足の入り混じった複雑な感情をにじませた。
「そうか……」
「お前はどうなんだ。まだやれそうか?」
 いたわりと優しさを含んだテムルイの目線が、カキバを包んだ。尽きようとする自分の運命とカキバの未来を重ねているのかもしれない。
「さあ、な……」
 カキバは目をそらし、まだ夜露の乾かない濡れた地面を見つめた。
「わからんか。ならばまだ生きるといい」
 テムルイは自分の息子を見るような温かい表情をした。そしてひとつ深呼吸をして、言葉を継ぐ。
「まだ何か他に聞きたいことがあるか?」
「いや、もうない。お主は?」
 顔を上げて答えたカキバは、テムルイに同じ問を発した。
「ない」
 テムルイのきっぱりとした返答を聞き、カキバは立ち上がって元いた場所にもどった。その顔は、無理やり感情を消そうとするかのように薄っぺらだった。
「もうよいな。では、ムヒュル。こやつの首をはねよ」
 今後のことを部下に指示しながら待っていたデムシンは、他の者と共にゆっくりとテムルイに近づき顎をしゃくった。
 ムヒュルがゆっくりと歩み寄って行く。と、それを阻止する者がいる。カキバだ。
「待て、ムヒュル。  族長、俺にやらせてくれ」
「……いいだろう。これを使え」
 少し考えてから、デムシンは愛用している祖父から引き継いだ鉄剣をカキバに渡した。カキバは重たそうに鉄剣を両手で受け取った。まるで大きなつららを手にとって、その冷たさに耐えかねたように、何度も何度も握りなおした。
「ここで良いのか?」
 カキバは、捕虜のいる方をちらりと見て、デムシンに確認した。ここで首をはねれば、捕虜を刺激することになるだろう。
 そばで二人の会話を聞いていたコナは驚きを隠せなかった。なぜカキバは処刑を買って出たのだろう。テムルイとは元アツ族同士の知り合いではないのか? 普通なら止めに入るべきじゃないか。もう戦いは決したのにどうして死ななきゃならない。拳を握りしめ、自分が割って入りたい思いをコナは必死でおさえた。
「そこで構わん。良い見せしめになるだろう」
「わかった」
 短く答えると、カキバは手伝おうと歩み寄ってきた男たちを手で制し、テムルイを膝間づかせた。
 テムルイは、カキバがうちやすいよう潔く頭を垂れた。
「最後にひとつ頼みがある」
 首をはねる直前、カキバにしか聞こえぬ声でテムルイがささやく。カキバは黙ったまま手を止め、テムルイの逞しい首筋から視線を引きはがした。
「あの中に、俺の息子がいる。一番若いのがそうだ。名はルスイペだ」
「……ルスイペ。いい名だ」
 テムルイは捕虜のいる方を見た。その中に、立ち上がってこちらを向く少年がいる。戦闘中にカキバが見逃してやった少年だ。少年は目をそらそうにもそらせないのか、震えながら食い入るようにテムルイとカキバを見ていた。
「面倒をみてやってくれ。同族の者に委ねられれば本望だ」
 穏やかなテムルイの微笑みに絡み取られたかのように、カキバは動かない。
「承知」
 絞り出すように短く答えると、カキバは重たい鉄剣を振り上げ、思い切りテムルイの首に打ち下した。鈍い音が響いて首の骨が砕けた。切るというより叩き折る鉄剣の威力は、テムルイを苦痛なく葬った。
 捕虜の群れの中からいくつもの声が沸き上がった。ひと際大きな若い悲鳴が響いた時、カキバの顔がかすかに歪んだ。
 悲鳴を上げたのがテムルイの息子だと知るはずもないコナだったが、カキバの仮面の下にある本当の顔が、たまらず現れてしまったようにコナには思えた。見ているのがつらくなり、コナは目をきつく閉じて天を仰いだ。声にならない叫び声が体を突き破って弾け飛んでいった。
 ややあってコナがそっと目を開けると、カキバが片膝を着き、わずかな間、テムルイのむくろに語り掛けている姿が見えた。小声で聞こえなかったが、精霊に語り掛けているのではないかとコナは思った。処刑した瞬間の悲痛な顔。精霊に対する行い。本当はカキバだって処刑などしたくなかったのだと確信した。
(なのにどうして……)
 そうか、多分、カキバも同じ自分と気持ちなのだ。だったら旧知である己の手で……、そう思ったに違いない。カキバの悲しみを思い余計に切なくなり、コナの怒りを出し尽くした胸を虚脱感が満たした。

嵐の逃走

 カキバはまたあの夢を見ていた。
 生まれ育ったアツ族の集落。カキバの体は幾分小さく、十数年前の姿に戻っている。あともう一度脱皮をすれば、立派な羽根が生え成虫になる蝗を思わせる。
 秋の西日が、屋外に腰掛けるカキバを照らし、全身をだいだい色に染めている。両目の横あたりが、ひりひりと痛む感覚がある。
 そうだ。数日前に成人の儀式を済ませ、周辺部族共通の両目じり脇に大人の男の印である刺青を入れたのだった。目を落とすと、左手には黒曜石の破片を持っている。右手に持っている硬い石でその黒曜石を小刻みに欠き割りながら、小刀を作っているのだ。
 となりを見ると、弟のイヤイケレがはやり腰掛けて鹿角の首飾りを作るのに夢中になっている。イヤイケレは体格のよいカキバとは対照的に、病気がちで痩せていて、黙っていれば女の子と間違われそうな容姿をしている。
 大人になる前に死んでしまうに違いない。そうささやかれていたイヤイケレを見るたびに、カキバの胸に、彼がここまで無事に生きたことを神に感謝する気持ちと、彼に対するいとおしさが湧きあがる。続けて、このまま死なないで欲しいという願いと、俺が守らなければという強い思いが頭をもたげてくる。過酷な環境の中でイヤイケレの様な虚弱な者が生き残るのは、それほど難しいことなのだ。
「兄ちゃん、これどうかな?」
 イヤイケレは、どうやら完成したらしい鹿角の首飾りを差し出した。
 カキバはそれを無言で受け取った。首飾りは指ほどの大きさに切り落とした鹿角の先端に小さな穴を開け、その穴に鹿革の紐を通しただけの簡素なものだった。ひいきめに見てもよい出来栄えとは言い難く、切った断面も穴の形も歪んでいて、不格好な代物だった。
「ちょっとかっこ悪いけど、兄ちゃんにあげようと思って」
 少し照れながら、でも断られるはずがないという、優しい兄に対する信頼感から来る笑顔でカキバを見つめる。
 カキバは静かにうなずくと、黙って首飾りをかけた。兄が優しく頬をゆるめると、弟はさらに笑みを深くした。二人の心の中を穏やかで暖かいものが満たしていく。両親と弟と四人。生きていくのは大変だが、とても幸せで充実した毎日だった。できるならばこの生活がずっと続いて欲しいと心から願った。
 だが……、そう思ったのも束の間。
(うわぁっ)
 すうっと落ちていく感覚があり、カキバは胸裏で悲鳴を上げた。見渡すと周囲は闇に転じ、となりにいたはずのイヤイケレの笑顔は跡かたもなく消えてなくなっている。ついさっきまでの幸せが、深い穴に落ちたかのように目の前からかき消え、恐怖と悪い予感が俊敏なかまきりのように一気に襲いかかってくる。
 悪い予感は的中した。
 不意に周囲が明るくなると、カキバの眼前にまだ二十代の若き日のデムシンがいるではないか。カキバはヒボリ族に徴兵された十数年前の瞬間に戻っていた。デムシンはそのためにアツ族の集落にやって来たのだ。
 カキバを含め十数名は、今まさに連れ去られようとしていた。呆然と黙って兄が連れて行かれる様子を見ていたイヤイケレが、引き立てられる間際になって、唐突に前を通過するデムシンの足元にすがりついた。
「兄さんを連れて行かないで!」
「うるさい!」
 うっとうしそうに乱暴に蹴飛ばすデムシン。
 やせ細ったイヤイケレは、簡単に突き飛ばされてしまう。それでも起き上がってしがみつこうとすると、今度は周囲の兵が引き倒しにかかる。
「やめろ!」
 黙って連行されていたカキバが、見ていられなくなって助けに行こうとするも、そばにいた兵にこれもまた取り押さえられてしまう。イヤイケレほど簡単には封じられないが、鍛え上げられた大人の男には敵わない。
「兄さん!」
 その様を見て、地面にひざまずいたまま叫ぶイヤイケレ。
「必ず戻るから待っていろ!」
 取り押さえられながら、カキバが悲痛に怒鳴り返す。
「きっとだよ! またみんなで一緒に暮すんだ!」
 イヤイケレは涙声でまた叫んだ。
「ああ、約束する」
 ともにねじ伏せられたまま兄弟は悲痛に会話をする。その様子を冷徹に見ているデムシンがいる。カキバの胸中に言いようのない怒りと悔しさが突きあげる。
「絶対ここに戻ってやる」
 カキバは誰にも聞こえないほどの小声で、だが己の魂の内部に刻みつけるように激しくつぶやいた。
 そのカキバの思いに水を差すように、また体が落ちて行く感覚がやってくる。今度は悲鳴を上げなかったが、落ちながら体がぐるぐると回り始めると、言いようのない恐怖が襲い思わず目を閉じてしまう。やっと回転が止まり瞼を開けると、目の前が眩しい光で満たされる。あまりの光の強さに目がくらんで何も見えない。
 強い日差しに目が慣れると、ようやくカキバは自分がしゃがみ込んでいることに気が付いた。ここは、子供のころから何度も通っている、外の森からアツ族の集落に入っていく道だ。
 カキバは成長して大人になっているが、眉間にまだ傷はない。ヒボリ族に徴兵された数年後、フシ族との闘いの直前に、生まれ育ったアツ族の集落に立ち寄ることを許された時のことだと、頭が無意識に理解している。
 立ち上がって集落に入るが、まったく人影がない。不安を感じながら人の姿を求めて集落を歩き回る。
 すると墓地に一人、母親のサミがいる。サミは両ひざを着いて地面にひれ伏し、髪は乱れひどく元気がない。もしかしたら母親がいるのは、弟の墓前ではないのか。
「イヤイケレは死んでしまった。食べる物がなくて……」
 土盛りの前でサミは力なくささやいた。やはりここはイヤイケレの墓なのだ。カキバは突きつけられた弟の死に呆然とするばかりだ。あれほど戻ると約束したのに、その前に彼は死んでしまった。悔しさと悲しみで血の気が引いて、思わず体がふらつく。
「もう少し早く戻れば間に合ったろうに。働き盛りのお前たちがいなくなったせいで、食べ物を集めることだってろくに出来やしないじゃないか」
 カキバの気持ちを察することが出来ないのか、母は立て続けに彼を責めた。言い募るうちに口調が激しくなる。
「カキバ! どうしてもっと早く帰らなかった!」
 しまいにはにじり寄ってカキバにしがみついた。怒りと悲しみが、固まった血のりのようにべったりと顔に貼り付いている。
(仕方ないじゃないか! 俺だって生きるのに精いっぱいだったんだ!)
 そう叫ぼうとしたが、全く声が出てこない。喉をかきむしってもがいていると、またもや、闇の中を落ちていく感覚が全身を襲う。落下感のあまりの長さに、このまま死の国に落ちてしまうのではないかと錯覚する。
「わああっー!」
 死の恐怖に囚われ、声の出なかった口から一転して破裂したかのように長い絶叫がほとばしる。それでも落下は止まらず、意識が遠のいていく。
 だが気を失う寸前に、急に落下感は立ち消えた。
「ううっ」
 カキバは両足の下に地面を感じ、知らぬ間に閉じていた目を開いた。無防備に大地に立ち尽くす己を見出す。手にはいつの間にか使い慣れた石斧を握りしめている。
 ちょっとの間どこにいるのかわからず、周囲を見回す。同時に、思いもしない怒号が耳を打った。反射的に身構える。
 こともあろうかカキバは、男たちの罵声や悲鳴の響き渡る戦場に放り出されていた。
 ラムキリク族の集落。フシ族に奪われたラムキリク族の集落を取り戻すための戦い。カキバはその戦場に舞い戻っていた。
 あちらでもこちらでも武装した男たちが石斧を振りかざし、凄まじい殺し合いを繰り広げている。横たわる死体も一つや二つではない。ここは殺すか殺されるかの恐ろしい修羅場だった。
(くそっ! こんなところで死んでたまるか!)
 カキバは瞬時に戦闘態勢に入り、必死になって向かってくる敵をかわし、石斧を振り回した。
「死ねぇ!」
 突然に死角から黒曜石の槍を持った男に襲われて、カキバはすんでのところで、後ろに反って切先をよける。
「ぬあぁっ!」
 しかし、下からすくい上げられた槍を完全にかわすことが出来ず、刃先が眉間をえぐった。噴き出した血が視界をふさぎ、目がほとんど見えなくなる。次から次へ襲ってくる槍を避けるため、目に入った血をはらいながら、カキバはぶざまに這って逃げ回らなければならなかった。
(絶対に生き残って、アツの集落に帰るんだ! イヤイケレは死んじまったが、約束したんだ!)
 十年以上たった今でも、弟と交わした約束は樹皮に熊が残した爪痕のように、胸の奥に深く刻まれて消えることはなかった。
 しかし先日、フツ族に占領され変わり果てたアツの故郷を目の当たりにし、宿願を打ち砕かれたたカキバの心にはある変化が生まれつつあった。

 アツ砦の戦いから早くも十日が経とうとしていた。
 凱旋したヒボリ族の軍勢は、一夜の大掛かりな酒宴をはっただけで、翌日からはまたいつもの生活に戻った。彼らは職業軍人ではない。戦がないときは普通の民なのだ。
 戦で働く時間を奪われた分を取り戻すために、いやでも働かなければならなかった。水田での作業をはじめ、畑での野菜栽培や山での採取など、やらなければならないことは沢山あった。稲は穂を出し始め、うれしいながらもなおさら気が急いた。
 アツ砦から戻った後、コナはカキバと同じチチェで寝食を共にすることを強要された。カキバと過ごすのを、戦に行く前ほど嫌とは思わなかったが、タチュタ族と話す機会がないのはつらかった。
 カキバは、アツ砦から連れ帰ったテムルイの息子にも、コナ同様に一緒にいることを強いた。少年はコナに、自身のことを《アツ族のルスイペ》と名乗った。
 ルスイぺは、カキバとどう接したらよいか、迷っているようだった。一方で、己の命を助けてくれたカキバ、もう一方で砦の長だった父親を処刑したカキバ。処刑したといっても、苦しまぬように命を絶ってくれたことを十分にわかっているだろう。カキバが、自分の父親であるテムルイと同じアツ族の生まれであることも、もう承知しているはずだ。
 ルスイぺは、カキバに何かを問われればきちんと答えもしたし、指示をされれば文句を言わず従った。しかし自分から口を開くことはなかった。カキバも同じように必要なこと以外は、一切無駄口を利かなかった。三人で過ごしていると、気が付くと沈黙が続いている。息苦しくなって、ここの生活にもカキバにも慣れ始めていたコナが、口を開くことが多くなった。だからといって耳に心地よい世間話をする気にもなれず、コナは挑発的な質問を繰り返した。不可解なカキバという存在を知りたいという思いもあった。
 ある日の夕食の後、カキバは呆然と考え事をしながら出来の悪い鹿角の首飾りをもてあそんでいた。息苦しい沈黙が、コナとカキバ、ルスイペの三人にまとわりついている。
「俺たちはどうして戦わなくちゃならない?」
 不意にコナがカキバに怒ったように問いかけた。
「決まっている。生きるためだ」
「フシ族との戦いをやめることは出来ないのか?」
「出来るはずがない」
「奪われた土地を奪い返す、と言うけど、本当にそれが目的なのか? 最後には敵の土地を奪いとって、自分たちの領地を拡げたいだけじゃないのか?」
「そんなことはない」
「もし争いを止めることが出来ても、東西南北、どの方角にもフシ族を攻めているというカタカ族みたいなのがいっぱいいる。だったらまた別の戦いに巻き込まれるだけじゃないか?」
「さあな」
「タチュタ族は多くは望まない。みながお腹を満たして平和に暮らせればいいんだ。でももし自然がそれを許さないなら、その自然の掟に従うしかないじゃないか」
「……」
 カキバはコナの問に曖昧に答えるだけで、まともに返事をしない。徐々に目つきが鋭くなり、いらだちが積み重なっていくのがわかる。
「アツ砦でルスイペを助けたのはどうしてだ?」
 怒ったってかまうもんか。コナも意地になってやめられない。
「うるさい!」
「本当は戦いなんてしたくないんだろう?」
 ついに何も答えなくなったカキバに、コナは興奮してたたみかける。
「俺はあんたみたいにはならない。どうしたらいいかわからないけど、絶対に仲間を連れてここから出てやるっ! いざとなったら、デムシンとあんたを殺してでもな!」
 そう言い放ったコナに、カキバは詰めよって胸ぐらをつかんだ。怒りのせいかたき火の照り返しか、顔面が真っ赤に染まっている。
「黙れ! そんな出来もしないことは二度と言うな! 今度言ったら口がきけないようにしてやる!」
「いや黙るのはあんたの方だ! 教えてやる。俺の父さんはお前らヒボリ族が手負いにした猪にたたられて死んだんだ! あんたたちに復讐する理由はあるんだ。覚えておけ!」
 コナは胸に巣食う憎しみの念を、ここぞとばかりにぶちまけた。本心を言えば、カキバのことを憎むことが出来なくなってきていたのだが、それを正直に伝えるほど素直にはなれない。
「何を馬鹿な! 嘘をつくな!」
 カキバはコナから手を離すとたじろいだ様子で後ずさり、怒りを抱えたままの表情で立ち去ってしまった。
 またある朝には、コナがうなされて叫び声を上げているカキバを無理やり起こして、大丈夫かと問うと、いらいらとして無言でまたもやチチュを出て行ってしまった。出会って日は浅いが、最近のカキバの様子がおかしいことはコナにも感じ取れた。だがその理由までは、わかるはずがない。
 出ていくカキバを見送って、コナは打ち解け始めたルスイペと顔を見合わせた。
(なんだろうね。あの態度は……)
 そう、ルスイぺの目が言っている。数日間一緒に過ごして、ルスイペが物静かで、おとなしい性格であることがわかった。人一倍優しく、とても争いごとに向いているとは思えない。集落で、農作業をしている方がいいだろうと、コナは思った。

 タッコテは焦げ付かないよう、節くれだった樹のような手指を動かし、木べらで大きな土鍋の底を撫でていた。黄檗と山桃の樹皮をとろ火で煎じているのだ。慣れてしまえばどうということはないが、鼻につく臭いがチチェに充満している。先日のアツ砦の戦で傷を負った者のために、傷が腐らないように塗り薬が必要だった。戦から十日を経て、傷を負った者は順調に全快に向かっている。傷が比較的重かった者にあと数日も処置を施せば、もう心配はないだろう。
 デムシンの指示を受けてということもあるが、戦の後に薬が必要になるのは当たり前と心得ている。フシ族との戦が本格化してから、幾度となく繰り返されていることだ。
 タチュタ族が来た翌日に、クシャが矢傷を見せに来た。その時に使ったのもこれと同じ薬だ。べっとりと糊状になるまで煮詰めた塗り薬を傷に塗ると、治りが早いのだ。
 ヒボリ族に連れて来られて内なる精霊が参っているようで、軽い腹痛を訴えたヤプカも一度来ている。彼女にはまた別の薬湯を与えた。その後に来ないところをみると、腹痛は治まったのだろう。
 タッコテは、疲れた右手から左手に木べらを持ち替えて、絶え間なくゆっくりと薬液を欠き回した。若いころにそんなことはなかったが、近ごろはちょっと作業を続けただけで手の節々が痛んで仕方がない。歳は取りたくないものだと、つくづく思う。
 ヒボリ族の薬師である彼女の本当の名は、タッコテではない。海の向こうの大陸で生まれた彼女には、ツリムという名があった。母の後を継いで薬師になってから、いつのまにかタッコテという通り名で呼ばれるようになった。タッコテという通り名には、「草木の精霊の力を借りて病や傷を癒す者」という意味があった。今では自分がツリムという名だったことすら忘れかけている。
 囲炉裏から上がる煙で目がしょぼつく。タッコテは皺深い顔に沈んだ、切れ長で一重まぶたの目をぎゅっとつむって、痛みが引くのを待った。痛みが去ると、しばし目をしばたかせ、濃くなってきた薬液が焦げ付かぬよう、慌てて鍋の中身をかき回した。
 いつしか無意識で木べらを操りながら、タッコテは物思いにふけっていた。随分と歳をとったせいか、ここのところよく昔のことを思い出す。
 彼女が持っている一番古い記憶は、舟の上を飛ぶ矢と怒号だ。それは、彼女が一族と共に大陸から命からがら逃げだしたときのものだ。
 あの時、とても幼かったため周りに誰がいたのか、よく覚えてはいない。数名の大人の中に己の父と母がいたのだけははっきりと覚えている。母は震える手で、タッコテをしっかり抱きかかえていてくれた。その恐怖を今も忘れることが出来ない。
 海を渡ってこの国に渡って来てからのことは、断片的にではあるが、ある程度筋の通った記憶として頭に残っている。長い月日歩き回り、受け入れてくれる部族を探したこと。その長旅に耐えられずに死んでいった仲間のこと。
 今こうして薬を煮詰めていると、思い出さずにはいられないことがある。それは、ヒボリ族にどうにか落ち着くことが出来た直後だったと思う。集落そばの林の中で、大陸にもあったものと全く同じ甘野老を、母が見つけたのだ。その白く可憐な花を目に故郷を懐かしんだか、母が突っ伏して泣いた。おそらく亡き祖国を想っていたのだろう。その姿を四十年たった今でも忘れることが出来ない。
 デムシンの祖父のコグドクも、拙いこの島国の言葉と大陸語を駆使して、己の息子のやはり幼かったピリヨムやタッコテに、祖国での戦いの話や逃避行のこと、またはこの国に渡って来てからの苦労話をしてくれた。
 中でも印象に残っているのは、コグドクが仕えていた王が持っていた鉄剣を、戦に敗れ彼が死ぬ間際に授けられたという話だ。鉄剣は祖国でもとても珍しく、王だとてそう易々と所有出来る物ではないと、嬉々として語っていたのを覚えている。思えば、話していて嬉しそうに見えたのは、この鉄剣のことだけだったように思う。コグドクのひび割れた唇から洩れる昔話は、そのほとんどが辛いものだった。子供らにそんな話をしたのは、祖国のことや辛かった出来事を覚えていて欲しかったからに違いない。
 苦労をしたのはコグドクだけではない。ピリヨムもタッコテ自身も、元からのヒボリ族の者たちに少なからず虐げられた経験を持っている。しかしピリヨムは父譲りの手腕で、タッコテは母から習った大陸の薬草の技で、己が生きる場所を作っていった。
 そのことを現族長のデムシンもよく知っている。彼の生まれる頃には、もういじめられたり虐げられたりすることはほとんどなくなっていたが、祖父や父の苦労談を彼もいやというほど聞かされて育ったのだ。
 デムシンの苦労は、周りから他部族が攻めて来る頻度が激増したことにある。コグドクたちがもたらした新しい技術が、元々営まれていたヒボリ族の水稲の技を格段に高めたのだが、そのおかげでヒボリ族の集落は、周囲にはない豊かな実りの地となった。そんな豊かな土地と技術は、周囲の部族から羨望の眼差しで見られるようなった。
 ピリヨムが病死してデムシンが族長になる少し前から、フシ族やカタカ族の襲来が始まった。彼がヒボリ族を守るために必死に戦ってきたことはわかっている。彼のおかげでヒボリ族が維持されていることは確かだ。領地内の言わば帰属する他部族からの強引な徴兵も行ってきたが、それも仕方のないことかもしれない。そうしなけれ、一族を守れなかったのだ。他部族に乗っ取られたら、祖父や父が祖国で経験したような悲惨な目にあうことは確実だった。デムシンはどうしてもそれを避けたかったに違いない。
 タッコテにはその気持ちがわからないでもない。争いがいいこととは思わないが、平和を維持するために仕方がないではないか。そのおかげで、こうして生きながらえてきのだから。
 タッコテは大土鍋の中で揺れている木の皮を見ながら、海を越えてからの四十年という長い時を想った。
 その想いを打ち破るように、不意にカキバが現れた。別段騒がしい訪れではなく、むしろ静かで忍び寄る獣のような訪問だったが、タッコテの驚きは大きかった。それだけ彼女の物思いは深かったのだ。
「おや、珍しい」
 内心の驚きを感じさせない落ち着いた口調で、タッコテは突然の訪問者を招き入れた。
 カキバはヒボリ族に徴兵されてまだ間もない頃、戦の訓練の時によく怪我を負った。そんな彼にタッコテはかいがいしく治療をしていた。母親代わりというには歳を取り過ぎているが、カキバはそれに似た感覚を持ったのかもしれない。彼女は人の気持ちをよく察し解きほぐす術を心得ていた。荒んでいたカキバの心を落ち着かせ、ヒボリ族に馴染ませたのは彼女だった。
 カキバはそんなタッコテに心を開いていた。ヒボリ族に連れてこられてから最初に心を開いた人物だし、おそらくアツ族以外の人間で真に彼が心を開いたのは彼女だけなのかもしれない。
「まあ、腰掛けなされ」
 タッコテの言葉に淀みはなく、大陸の訛りはない。デムシンの祖父コグドクは最後までこの島国の言葉をうまく操れなかったが、その息子のピリヨムやタッコテは、小さい頃からここの言葉をつかっているから流暢に話すことが出来た。むしろ今となっては、大陸語を話すことの方が難しい。
 カキバは黙ったまま何も言わずに腰かける。
「忙しそうだな」
 ぼそりと、そう言ったっきり何も話さないカキバ。彼はいつもそうだ。特に自分から話すようなことはない。でも何か胸にわだかまっていることがあるとやって来る。弟が死んだとわかった時も、アツの集落がフシ族に落ちた時もそうだった。
 カキバは不機嫌だった。ただ黙っているだけだが、タッコテにはわかっていた。
「どこか悪いところでもあるのか?」
 そうではあるまいとわかっていながら、タッコテはちらりと目を向ける。薬師の元を訪れた者には、まずはそう問いかける他あるまい。
「いや、そういうわけじゃない……」
 ぶすりと応じるカキバは、話し手の方を見もしない。
「昔は戦の度に怪我をしておったが、ここのところご無沙汰だな。それだけお主は強いということじゃな」
「運がよかっただけだ。またいつ世話になるかわからん」
 会話が続かず、また沈黙が落ちる。タッコテは煮詰めている薬草の大土鍋からその煮汁をひとすくいして器に注ぎ、そばにあった水で薄めてカキバに渡した。傷に効く薬草の煎じ汁はこうして飲んでもよいのだ。ただ苦味が強いため、それほどがぶがぶ飲める代物ではない。
 カキバは差し出された薬草茶を受け取り、一気に飲み干した。眉間から鼻、口元にかけて大きく皺をよせる。飲み干した碗を乱暴に地面に置いた。
 むっつりとしたままで、カキバには一向に話を始める気配はなく、しばし時が流れる。胸裏で、やれやれ世話がかかると思いながら、取り返したアツの地の様子はどうだったのかとタッコテは問いかけた。
「……、もう知っているだろう?」
 たじろいだ様子で、カキバは答える。彼の胸にいま詰まっているものは、恐らくはそこいらあたりのことだろうと察していたが、図星のようだ。
「まあ、何となくは。でも詳しくは知らんよ」
「俺の知る昔の面影はない」
 微動だにせず答える彼の目の玉だけが、ぎょろぎょろと落ち着きなく数度転がった。
「知己の者はいなかったのか?」
「いたにはいたが、処刑されちまった」
「まさか全員か?」
「いや、処刑されたのはテムルイという砦の長だ。その者の息子は連れ帰った。誰が母かは知らんが、その子はまあ、アツ族と言えなくもないとは思う。……俺が調べた限り、他に元のアツ族の者はいなかった。フシ族か、あまり聞いた事もない遠くの部族ばかりだ」
「そうか……。だがひとりでもアツ族の血筋がいてよかったではないか」
「たった一人ではどうにもならん」
 投げやりにつぶやくカキバに何も返してやれず、タッコテは、しばらく薬草を作る作業に徹した。カキバがアツの地を取り戻すために懸命に戦ってきたことは、タッコテもよく知っている。その目的を失った今、彼が何を心の支えにしたらいいのか。彼女にもよくわからない。
「俺は間違っていたのだろうか……」
 唐突にカキバの口から、内側から無理やり押し出されたように言葉がこぼれ出た。
「急に何だな。……お主の何が間違っていたと言うのだ?」
「ばば」
「何じゃ」
 タッコテは薬草を煮詰める手を止め、怖い顔にならないように注意しながらカキバを仰ぎ見た。
「ばばは、昔言ったな。奪われたアツの地を取り返して、もういちどアツ族を甦らせればいいと」
「ああ、言った」
 その昔、アツの地がフシ族に奪われた際、動揺し落ち込むカキバに、タッコテはそう言ったのだ。弟のイヤイケレが病死したとわかった時にも、約束を守ってアツの地に帰る努力をしろと言ったことを覚えている。それは、カキバを慰め、生きる目的を与えてあげたかったからだ。むろんそれは嘘ではないが、彼に対し、ただヒボリ族で成り上がれと言ってもその気になる相手ではないことはわかっていた。簡単にアツ族が再興するはずがないと思っていたが、彼を元気づける言葉がそれ以外に見つからなかったのだ。
「その願いは、ついえてしまった。もはや叶うことはない」
「そう決め込むこともなかろう……」
 吐き捨てるように言うカキバを慰めようと、タッコテは声に情を込めた。
「いや、アツの地は死に。住まう人は失われた。もう元には戻らない」
「……」
 そう断言されては、かけてやる言葉もない。二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。ぶくぶくと薬草が煮詰まる音だけが場を虚しく震わせている。
「何のために……」
 聞き取れないほど小声でカキバはつぶやいた。
「俺は何のために、戦ってきたんだ……」
 声量を徐々に大きくしながら、カキバはタッコテの皺の中に埋まった細い目をにらむように見た。
「嫌でたまらん殺しもやった。俺自身があれほど憎んでいた徴兵もした。それもこれもアツの地を、アツ族をもう一度もとに戻したかったからじゃないか!」
 しゃべるうちにこらえきれない感情が爆発する。しまいには雷がおちたように怒鳴っていた。呼吸が嵐のように荒い。息が落ち着いてくると、やや声を落としてさらに続ける。
「いつの間にかどれが本当の己なのかわかなくなるほどに、がむしゃらにやった……。最近じゃ、殺すことも虐げることにも慣れちまって、ほとんど胸の痛みを感じなくなってたが」
 カキバはもぎ取るようにタッコテから目をそらし、悔しそうに握りこぶしをこれでもかと握りしめた。
「カキバよ」
 タッコテは静かにカキバを見つめながら言った。
「お主は、ヒボリ族を、デムシンを憎んでいるのか?」
「わからん! 族長のやり方が気に入らないのは確かだが、そうしなくちゃならなかったのはわかる。責めても仕方がないじゃないか? 違うか?」
 カキバは、また語気を強める。
 その吐露に対して、タッコテは何も言ってやることが出来なかった。アツ族再興のために努力せよと言った自分を、カキバが責めているわけではないのはわかる。彼が何か答えを求めてここに顔を出したことも察しがつく。だが、そう簡単に慰めてあげられるほど、彼の置かれた状況は生易しくはない。下手をすれば、心を病んで廃人になってしまうかもしれないのだ。
「俺はどうしたらいいんだ? 教えてくれ……」
 一転して力を落とし、カキバは虫のようにささやいた。
「わしにはわからん。だが、お主もわしも、ここで生きていく他あるまい」
「……」
 どう答えたらよいのかわからないのだろう。カキバは肯定も否定もしないで、長い時間考え込んでしまった。薬草が煮詰まる音と、カキバの息遣いだけが小さく響いている。
 タッコテは、頃合いよしとみて、立ち上がって土鍋を囲炉裏から降ろした。余熱で焦げないよう薬をしばらくかき回し続ける。
「タチュタ族の者たちは息災かえ?」
 薬が十分に冷えるまで世話をしてから、タッコテはまた腰を下ろし、思い出したように言った。
「えっ、ああ、多分、大丈夫だと思う」
 また少したじろいで、つっかえつっかえ答えるカキバ。先ほどまでの荒々しさは、嘘のように消えている。むろん、怒りや戸惑いがなくなったわけではないだろう。考えることに疲れてしまったかのように見える。
「ならよいが、まだここに来て日も浅い。気にしてやるといい。我々は生き残るために戦い続けなくてはならん。彼らはそのためにも必要なのだ。彼らにとっては辛いことだが、せめて少しでも安寧に暮らせるようにしてやりたいではないか」
「ああ」
 短く静かにそっけなく、カキバは答える。
「あの娘、確かヤプカと言ったか」
「ああ? ヤプカがどうした?」
「お主は男ゆえ、気が付いていないかもしれんが、いくら同族とは言え、男衆の中に女がひとりというのもどうじゃな」
「あいつはまだ子供だぞ?」
 カキバは眉根をかすかに寄せる。
「いやいや、子供なもんか。ここでの暮らしに慣れとらんから、もしかしたらまだ一族の者と一緒にいたいと思っているかもしれんが、もしあの子が望むならここへ連れて来い。わしもいろいろと手伝ってくれる者が欲しいと思っていたところだ」
「……わかった。聞いてみよう」
 少しの間、目線を躍らせてから、カキバは立ち上がってタッコテの元を去っていった。タッコテは、見えなくなったカキバの背を、立ち直ってくれるように願いながら胸裏でいつまでも追いかけていた。

 群れ飛び山のねぐらへと帰っていく烏の鳴き声を聞きながら、思わずヤプカは立ち止まった。ヒボリ族の集落から見える西の低い山の稜線が、不気味なほど鮮やかな茜色に塗りこめられている。タチュタ族の地からも、何度か似たような色合いの夕日を眺めたことがある。目の前に広がる開けた視界全体が血で染まったように見え、この世界が死の国に変貌していくような恐ろしい錯覚がヤプカを掴んでいた。慣れない場所で生活している影響だろう。今までそんな風に感じたことはなかったのに、常に気持ちが沈んでいて、つい悪い方に物事を考えてしまう。
(山にいるタチュタ族のみなはどうしているのだろうか……)
 狩りを行う男衆のほとんどを徴兵されてしまい、困っている姿が目に浮かぶ。シハンら歳を取った者や、幼い弟たちが弓を手に頑張っているとは思うが、成果は期待出来ない。
 女たちは、椎の木の枝先に着いた未熟な実を眺め、最初のひとつが落ちるのを心待ちにしているに違いない。じきにまた冬がやってくる。このままでは、飢えと寒さでまた多くの者が死んでいくかもしれない。
(出来るものならすぐに帰りたい……)
 また去年のように一族みなで力を尽くして、よい春を迎えたい。
(でも、とても叶いそうもない)
 諦めが足元から蔓植物のように伸び絡まり、ヤプカの体を動かなくしている。
(わたしたちは、このままずっとここで暮らすことになるんだ。一生……)
 それはもう変えようのない事のように思えた。
 ヤプカは気がつけば吸ったまま止めていた息を大きく吐き出した。今度は息を吸いこもうとするが、胸が重いもので押しつぶされてでもいるかのように、不安でうまく吸うことが出来なかった。それでも何度か小さく数回息を飲み込み、無理に気を取り直して小走りに自分たちのチチェに向かった。
 与えられた仕事を終えた男衆は今、疲れた体に鞭打って、戦に備えて厳しい訓練をしている。彼女はひとり先に帰って、食事の支度をするのが日課になっていた。今しがたも、味付けに欠かせないどんぐりで作った味噌が足りないと気が付き、ヒボリ族の女衆が沢山の食事を作っているチチェに分けてもらいに行った帰りだった。
「あっ」
 もう少しでチチェに戻るというところで、ばったりとカキバに出くわした。どうやら一旦先に来て留守と知り、出直そうとしていた様だ。
「何かとりにいっていたのか」
 ヤプカの手元をちらりと見て、カキバがぼそりとつぶやいた。
 タチュタ族の集落で傍若無人に振舞っていたことが頭をよぎり、ヤプカはつい身を硬くする。彼が時々タチュタ族の様子を見に来て、ナシリと話をしているのは知っている。タチュタ族の世話をする役目を与えられているのだろうと思う。
 今までは、ちらちらとこちらを気にしている様子はあるものの、ヤプカとここまで接近することはなかった。思い違いかもしれないが、なぜだか自分のことを意識しているようだ。
「えっ……」
 こちらに来てからは、彼がむやみに怒鳴ったり威張ったりすることはないことはわかっていたが、返事をしようにも、怖さが先に立ってうまく言葉が出ない。
「男衆はどうした? まだ戻らんのか?」
 怒っていないことはわかるが、感情を読みづらい顔で、カキバは問う。
「戦の訓練に……」
 ヤプカは両の手で抱えていた味噌の入った器を、ぎゅっと握った。内心、訓練に参加するように言ったのはカキバ自身じゃないかと眉をひそめる。
「ああ、そうだったな」
 ばつが悪そうに視線を下に落としたが、すぐさま顔を上げると真っ直ぐヤプカを見つめた。
「みな、怪我などしてないか? クシャの傷はどうだ?」
「みんな大丈夫。おじさんの傷ももうほとんどふさがって、昨日から一緒に訓練してる」
 ぶっきら棒だが、静かなカキバの顔を見ているうちに、少しずつ緊張がほどけてくる。この人、普段はこんなに穏やかなんだと、ヤプカは意外に思った。
「お前は元気か?」
 そう言ってから、
「無理やり連れて来た俺が言うのも変だがな……」
 くすりとも笑わず、真面目な顔で付け加える。
「だ、大丈夫……」
 ヤプカはどう答えたらよいのか戸惑った。こう率直に問いかけられたら、とても嫌味を言えなくなった。
「腹はもう痛まないのだな?」
「お腹? あ、あぁ……」
 数日前に軽い腹痛でタッコテという薬師の元を訪れたことを思い出した。カキバはそのことを言っているようだ。
「もう大丈夫。薬を飲んだら治ったみたい」
 ヤプカは彼がどうやら本気で自分を心配しているとわかり、多少引きつってしまったが笑顔で答えることが出来た。
 カキバはうなずいて、少し迷ったように黙ってから、また口を開く。
「お前が望むなら、タッコテの所に行ってもよいのだぞ」
「へ?」
(だからもうお腹は痛くないのに……)
「いやそうじゃない。男だけの中に居づらかったら、タッコテの所で寝泊まりしろと言ってるんだ。タッコテも手伝いが欲しいと言ってる」
 ヤプカの胸中の疑問を読んだようで、カキバはわずかに照れたように語尾を濁らせながら言う。
 そうか、自分に気を使ってくれているのだ。カキバの言いたいことは理解した。ヤプカは瞬時に何と答えてよいかわからずに、黙ってしまった。確かに女が一人で、不自由を感じないわけではない。でも、少なくとも今はまだタチュタ族のみんなから離れたくない気持ちの方が大きい。
「少し考えてもいい?」
 恐る恐る本心を明かす。
「ああ、嫌なら今のままでもかまわんし、もっと慣れてからでもいい」
 カキバは軽く手を上げた。また気づまりな沈黙がやってくる。
「何かあったら遠慮せずに言ってこい。また来る」
 そう言ってカキバは、居心地が悪そうに行ってしまう。
 ヤプカは複雑な思いでカキバを見送った。
(変なの? ずいぶん感じが変わったみたい……。まるで……)
「……牙の折れた狼」
 そうつぶやく。
 そもそも彼女はカキバと知り合って間もない。変わったといったところで、最初に会ったあのタチュタ族の集落での徴兵の時の印象しかないのだから。もしかしたら今のが本当の彼の姿で、あの時がおかしかったのかもしれない。ヤプカはカキバのことをどう評価したらいいのか考えあぐねてしまった。
「ふうぅ」
 大きなため息をついて、カキバと接した緊張を吐き出し、ヤプカはチチェに入って行った。腹をすかせて戻る男衆のために、夕食を作らなければならないのだ。いつまでももたもたはしていられなかった。

 さらに日が過ぎて、コナたちタチュタ族がヒボリ族の集落に連れてこられてから、半月が経とうとしていた。稲穂がわずかに頭を下げ、夏の渡り鳥たちも徐々に旅立っていき、少しずつその数を減らしている。秋の羽音が風に乗って、遠くの北の山々から聞こえ始めているのだ。
 コナはまだ薄暗いうちに目覚めた。肌寒さを感じながらチチェの外に腰かけて、水田越しに低い山の稜線から昇る太陽をじっと眺めていた。風で揺れる稲穂の隙間から見える水面に、かすかに朝日が当たり、きらきらと輝いている。
 ふり返って西の方角を仰ぐと、こんもりと盛り上がった山の向こうに、濃い灰色の雲がべったりと這っている。雨が近づいているのだ。
 コナ以外のタチュタ族の者たちに、最初は逃亡しないように付けられていた見張りも、今はいない。しかし信用されていないが故に、自由に集落の外に出るのは許されていなかった。もっとも、昼間は水田仕事にこき使われ、日が傾いてからも兵士としての訓練が毎日のようにある。自由などありはしなかった。
 タチュタ族はその日も、やはり朝から水田で働いていた。溜めた水が漏れないように、畔に開いた穴をふさいでまわった。土竜(もぐら)などの動物や水流によって、畔にはしょっちゅう穴が開くのだ。穂が膨らみ出したばかりのこの時期には、水田にはまだまだ沢山の水を溜めておく必要があった。
 コナとルスイぺは、カキバに付きしたがって、水田を見て回ったり、時には自ら水田に入ってひえやおもだかなどの雑草を抜いたりした。
 ヒボリ族の者たちも、泥だらけになってよく働いている。これだけの水田を持っていても、休みなく働かなくては、食べていけないことに変わりはないようだ。それにしてもよくこれだけのものを作ったものだ。ヒボリ族の行いは好きになれないが、この水田だけはたしかに驚くべきものだとコナは思った。その情熱と努力に感心する。
 水田の用水路で、水の流れを調整するために固い木べらで水床をさらっていると、
「おい、お前、右手の使い方が変だぞ。怪我をしてるのか?」
 カキバがコナのぎこちない右手使いに気付き、眉をひそめながら珍しく声を掛けた。
「ずっと前に痛めて、うまく使えなくなった」
 作業の手を休めず、コナはぶっきらぼうに答えた。弓は左手で上手に扱えるが、それ以外のことを全部左手で出来るほどまだ鍛練を積んではいない。痛いのは承知で右手を使うことも珍しくはなかった。
「それでよく弓が射れるな」
「右がだめになったから、左で射るようになったんだ」
 コナは水床にある邪魔な石を右手で取り除いて、水路の外に出した。
「なるほど、それで左打ちなのか。なぜ言わなかった?」
 そのコナの動きを観察するように見ながら、カキバは言った。
「聞かれなかったからさ。それとも、言っていたら山に帰してくれたのか?」
 今度は作業の手を止め、カキバを見返した。
「まさか。ほれ、作業を続けろ」
 そっけなくカキバは目をそらした。
(それだけかよ!)
 と言う代りに、コナは冗談交じりに舌を出して眉間にしわを寄せた。そばで見ていたルスイペが、おかしそうに笑ったのが嬉しかった。父のテムルイを失った悲しみが、少しずつ薄れているようだ。同じ傷を持つ者として、コナにはスルイペのことが気にかかってならなかった。

 朝コナが思った通り、太陽が南の空に昇る前に急に激しい雨が降り始めた。同時に風も強くなり水田での作業は難しくなった。徐々に膨らみつつある稲穂が、水を含んでさらに重くなり、首の座らない赤ん坊の頭のように危なっかしく揺れ、今にもぽきりと折れてしまいそうだ。
 タチュタ族は、与えられたチチェに戻ることを許され、コナはタチュタ族と一緒にいるように指示を受けた。カキバは暴風雨に備えて仕事があると、ルスイペを連れてそそくさと行ってしまった。コナはカキバと離れることを残念に思っている自分に戸惑った。嫌いなはずなのに、気になるのはなぜだろう?
 夕方には、コナが今まで経験したことがないほどの大嵐となった。この季節になると毎年のように嵐は来るが、今回は特別に大きい。
 ひどい土砂降りで、もうずいぶん前から、チチェの屋根からはぽたぽたと雨漏りが始まっている。そもそもが、そういった豪雨に耐えられるようにきっちりと立ててあるはずだが、この嵐には通用しないようだ。地べたの低い場所にはすぐに水がたまった。やがて床は完全に水浸しになった。コナたちは、仕方なしに薪や土瓶の上に腰かけた。
 雨だけでなく風も容赦なく吹き付けた。チチェの柱はぐらぐらと揺れ、隙間風と言うにはあまりにも強い生ぬるい風が、小さな隙間から吹き込んでは、ひゅうひゅうと恐ろしい音をたてた。
 タチュタ族は、なるべく一か所に集まって、肩を寄せ合って嵐が過ぎるのを待った。体が雨漏り水で濡れて冷えないように、頭から毛皮の敷物をかぶった。
(カキバとルスイぺは大丈夫だろうか……)
 まさかもう外にはいないだろう。チチェに戻っただろうか。ルスイペはともかく、憎いはずのカキバのことまでも、コナは気がかりでならなかった。
 辺りがすっかり夜の闇に覆われたころ、嵐はまだまだ勢いを増した。雨は凄まじい轟音を響かせ地面を叩く。もしコナが滝を目にしたことがあったとしたら、滝つぼに落ちたのかと錯覚したかもしれない。ひと際強い突風で屋根の換気穴付近が吹き飛んだ。屋根を伝ってそこここからか侵入した水が、床を川のように流れた。外の様子が気になったが、雨水がしみてずぶ濡れになった毛皮をかぶって、ひたすら固まって耐えるしかなかった。
(山にいるタチュタ族のみんなはどうしてるだろう? 母さんは、弟たちは大丈夫だろうか?)
 盛りの男衆のいない状態では、心細いに違いない。コナには残された部族の者たちが気がかりで仕方がなかった。ヤプカが、クシャが、アットイが、はやり残された家族を心配する言葉を口にしたが、誰にも気休め以外の返事をすることが出来なかった。
 明け方近くになってから、一度ぴたりと暴風雨が止んだ。恐る恐る数名が様子を見に外に出ると、雲の切れ間から星が見えた。しかしそれは束の間の出来ごとで、また雨と風がひどくなった。その後、風は力を落としたものの、雨の勢いは止まらなかった。大地が全て水に飲み込まれ、陸地がなくなってしまうのではないかと思うほどだった。恐怖と濡れた衣服の冷たさで、皆、震えが止まらなかった。
 雲に隠れて見えないものの陽は昇り朝が訪れ、そろそろ昼になろうかという頃、少しずつゆっくりと嵐は去っていった。時折まだ雨音が響く中、疲れと安堵から、七人は一塊で座ったまま眠ってしまった。
 ほんのしばらく眠ってから外に出ると、集落がとんでもないことになっていた。
 目に映る多くのチチェは半壊し、屋根が完全になくなってしまっているものもある。水田に近い低い場所に建っているいくつかは、まだ水に浸かっている。コナたちがいたチチェはまだかなりましな方だったようだ。
 昨日までとうとうと穏やかな流れを見せていた大川からは、ごうごうと恐ろしい轟音が振動と共に伝わり、荒れ狂う激流が川岸を削っていく。流れが変わって水に襲われやしないか、不安がよぎる。
 コナが近くにいた女衆に尋ねると、けが人や体調を崩す者が多く出ているとのことだった。水田の様子を見に行って、水に流されたのか、帰ってこない者も数名いるらしい。
 中でも極めつけは、水田の被害だった。稲は、風でひっかき回されあらゆる方向に無残に倒れ、まだ引いていない水に穂が浸ってしまっている。ながいこと水に浸かったままでいたら駄目になってしまう。それよりひどいのは、土手や水路がこととく破壊されてしまっていたことだ。一番川に近かった水田は、完全に土砂に覆いつくされ、もう水田ですらなかった。注いだ情熱と努力が無になってしまった。どこからどう手を付けたらよいかわからない状態だった。
 ヒボリ族の落胆は非常に激しかった。水位を上げ、渦を巻いて流れる茶色く濁った川を横目に、水田のあちこちで、がっくりと膝を付く者がいた。苦労して収穫まであとひと月までこぎつけたのに、収穫は絶望的だった。水田を元の姿に戻すために、どれだけの労力と時がかかるのだろう。
 コナは気になって周囲を探してみたが、カキバとルスイぺの姿が見えない。デムシンの住む集落の中心辺りにいるのだろうか。二人が足を取られ、川に沈んでいく姿が目に浮かび、全身の血が足の裏から大地に流れ出ていく思いがする。しかし、そればかり考えているわけにもいかない。思わず閉じてしまっていた目を開ける。自分のことも、タチュタ族のことも考えなくてならない。
「ここから逃げよう……」
 落胆するヒボリ族を尻目に、そう最初に言ったのは誰だっただろう。ここにいる全員の頭に浮かんだのは、やはりタチュタ族の集落は大丈夫だろうかという思いだった。大きな川のない山中だから、川の氾濫はないだろうが、風によるチチェの倒壊や山崩れは十分に考えられる。
 コナの腹には、ヒボリ族に対する恨み憎しみが太い根を張っていたが、この期に及んでそれを頑なに主張するほど子供ではなかった。うまく逃げ切れば、別の機会でも恨みを晴らすことは出来るかもしれない。
 幸いなことにコナたち七人にけがはない。ヒボリ族は被害の確認に奔走していて、タチュタ族にかまっている暇はなさそうだ。少し落ち着いてくれば、当然、タチュタ族の様子を見に来るだろうし、この機に乗じて逃走するのではないかと疑うだろう。「今」が最大の好機だと誰もが思った。
 もしかしたら、タチュタ族が逃げたことに気が付いても、また集落まで連れ戻しにやってくる余裕はないかもしれない。あれだけの大被害を受けたからには、少なくともしばらくは来ないに違いない。
 だが逃げるとしても、昼間は無理だ。すぐに見つかってしまう。夜か明け方がいい。脱出した後のことを考えると、早朝に逃げた方が明るくてその後の行動がしやすいだろう。一方、夜に脱出すれば暗くて歩きにくいが、うまくいけば翌朝まで気が付かれないかもしれない。幸い満月に近い月が上がるから、晴れていれば夜でもなんとか行動できる。コナたちは決意を固めた。
 今夜、脱出しよう、と。

 タチュタ族は自分たちが逃げようとしていることを悟られないように、あてがわれていたチチェを修復して、逃げる気持ちがないことを示すふりをした。夕方には食事を分けてもらいに、別のチチェに行ったりもした。
 ヒボリ族は相当に参っているらしく、その日の午後になってもタチュタ族に何か指示を出す余裕はなかった。やはりまずは寝泊りるすチチェの修繕に力を注ぐことに決めたようで、夜になっても月明りを頼りに屋根の穴を塞いだり水をかき出したり、ばたばたと復旧作業を続けている。
 夜が更け、どうにかこうにかチチェの中に眠るだけの場所を確保すると、ヒボリ族の者たちは疲れ果てて眠りについた。念のためにそれからしばらく待って、コナたち七人は夜行性の虫みたいにもぞもぞと動き出した。彼らも泥のように疲れていたが、今を逃すことは出来ない。コナを含め全員が武器を持っていない。追手がかかった時には無防備になるが、代わりに身軽に歩けるだろう。
 運よく雲はほとんどなく、月明りが足元を照らしてくれた。無事に集落を抜け出し、やぶを這うように息をつめて移動し、やや開けた場所にたどり着いたところで、ほっとして休息をとった。
 嵐のなごりと思われる湿った夜風があったが、しつこくまとわりつく蚊を吹き飛ばすほど強くはなかった。蚊に刺された個所を引っ掻きながら、誰一人話すことなく休めた。
 普段なら水の流れのないはずの山の斜面に、大雨の影響でちょろちょろと小川のように濁った水が流れていて、滑らないように歩いてきたために、余計に疲れがひどい。
 その時、誰もが懸念し、一番恐れていたことが起こった。
 さっきまでいたヒボリ族の集落の方から、不意に五、六名の男が現れたのだ。月明りだけでは、男たちが誰なのかわからない。
「待て。慌てるな。捕まえに来たんじゃない」
 色めきだって立ち上がろうとするタチュタ族を、一番前にいる男が手で制した。その声の主がカキバであることは、コナにはすぐにわかった。
「では何しに来た? まさかここで俺たちを殺す気か?」
 ナシリは他の者たちを守ろうと、決死の表情で前に進み出た。武器がない以上、身体を盾にするしかない。
「ナシリ、話を聞こう。わけがありそうだよ」
 敵意のないカキバの様子を見て取って、コナが割って入る。カキバがただの乱暴者ではないことは、コナにはもう十分にわかっている。
「わかった。聞くだけ聞こう。だが、武器を手元から離してもらおう」
 コナの意味ありげなもの言いに、渋々、ナシリは従う。
「わかった。――おい」
 カキバは他の仲間と共に、持っていた武器を少し離れた場所にある岩の上に置いて戻って来た。少なくともこれで急に襲われる心配はない。
「いいだろう。どうして我々を追って来たか言ってみろ」
 ナシリはまた小さな岩の上に座りなおしたが、その目は油断なくカキバたちを捉えている。
「信じられんかもしれんが、俺も逃げてきたのだ。仲間と一緒に」
 無防備に立ち尽くしたまま、カキバは告げた。
「嘘をつくな! そんなことがあるか!」
 散々痛い目にあわされたクシャが、憎しみのこもった声で吠えた。
「カキバ、ちゃんと話して。みんなにわかるように」
 コナはクシャを抑えるように半ば強引に割って入る。のらりくらりと自分の考えを言うのを避けていたカキバが、何を言うか聞きたかった。
「わかった。もしかしたら追手がかかるかもしれんから、それほどゆっくりはしていられないが、そうも言っていられないようだな」
 カキバはいきりたった相手の様子を見て、素早くうなずいた。
「それこそ信じてもらえんだろうが、俺は戦うのが心底いやになったんだ」
「何……」
 ナシリが疑わし気に片方の眉を上げた。
「俺はアツ族の生まれだ。十数年前にヒボリ族に徴兵されて、ヒボリ族のために戦うことになった。今のお前たちのようにな。腕のアツ族の刺青を見せたいところだが、この暗闇ではよく見えまい」
 カキバは左の二の腕にそっと触れた。
「そうか。お前はアツ族の生まれだったのか……」
 クシャは驚きの声を上げた。アツ砦で戦ったコナだけがそのことを知っていたが、ナシリたちにゆっくりと話している間がなかったのだ。だが本当は、もし機会があったとしても話さなかったかもしれない。そのことは、自分から話してはいけないような気がしていたのだ。
「ヒボリ族に連れて来られたばかりの頃は、訳もわからずがむしゃらに戦った。フシ族との戦が終われば、アツの集落に帰れると思っていたんだ。だが、 それは甘かった。その三年後に故郷のアツ族の集落はフシ族に奪われてしまったから」
「ふむ。ヒボリ族がアツ族から徴兵したことも、その後にアツ族の地がフシ族に奪われたこともむろん知っている。お前は、十数年前にヒボリ族に連れて行かれた者の一人なんだな?」
 だいぶ落ち着いてきたナシリが、問を発した。
「そうだ」
 重々しく、カキバはうなずいた。
「俺たちタチュタ族とアツ族は、元々交流も多く仲が良かった。お互いの伝染病やら戦やらで、もう長い間付き合いがなかったがな」
 誰に返事を求めるでもなくナシリが言った。
(知らなかった……)
 細かなことを気にしている余裕はないから口に出しては何も言わなかったが、コナは内心でつぶやいた。ヤプカも知らなかったようで、眉根を寄せている。
 ナシリにうなずきかけてから、カキバが続ける。
「俺はずっと、フシ族からアツ族の地を取り返すために戦って来た。生き別れた家族や同族とまた元の生活を取り戻すために」
 カキバは目を閉じたまま言い、やがてまた目を開けた。
「知っての通り、先日念願かなってアツ砦を落とした。まあ薄々わかっていたが、俺の家族も仲間ももうとっくに消えてしまったようだ。淡い期待は完全に吹き飛んだよ」
「……」
 カキバを気の毒に思ったのか、これから自分たちを待ち受けている同じ未来を悲観したのか、誰も言葉を返すことができなかった。
「俺に残っているのは、この体と、共に連れてこられ一緒に生きてきたアツ族の仲間だけだ」
 コナには、闇の中、カキバの後ろにいる男たちが誇らしげに胸を張ったように見えた。よくカキバと行動を共にしていたボツとトマルオルの姿がかすかに見える。
「ルスイペは一緒にいるの?」
 コナは聞かずにはいられなかった。
「ここにいる。安心して」
 一番後ろにいたルスイペは、コナに気にかけてもらったことが嬉しかったようで、即座に答えた。
「良かった」
 安堵で眉尻を下げたコナにうなずきかけてから、カキバは急いで話を続ける。
「そういう訳で、これ以上ヒボリ族と共に戦う意味が俺たちにはなくなった。とは言うものの、逃げたくともそう簡単に逃げられるとは思えなかった」
 カキバは大きく呼吸をした。
「そんな折のこの嵐だ。この機会を逃したらもう逃げられない気がしてな。時を同じくしてお主らタチュタ族がいたことも、精霊の助けだと思わずにはいられなかった。虫のいい話だとは思うが、俺と仲間を一緒に連れて行ってくれ」
 カキバは言い終えると口をきつく結んだ。
「うむ。お前の言いたいことはわかった。でも俺たちと一緒に逃げてどうするつもりだ? またヒボリ族に連れ戻されるだけじゃないのか? 正直、我々は昨日の嵐でタチュタ族がどうなったか心配で、思わず逃げて来たようなものだ。先々どうしたらよいかなど、考えてはいない」
 ナシリは右手で顎の髭をなでた。
「俺には、考えがある。だが、ここで言うには場所も間も悪い。無事にタチュタ族の集落まで行ってからあらためて」
 カキバは意味深に目を輝かせた。何かよい考えを持っているのだろうか。
「コナ、どう思う? 正直、俺には信用していいかわからない。お前はずっとこの男と一緒にいたはずだな?」
 ナシリは、思案顔で横にいるコナを見た。
「俺は、信用していいと思う。少なくともカキバがアツ族なのは間違いないようだし、戦の時に後ろにいるルスイペの命を奪わずに助けたのもカキバだ」
 コナはきっぱりと言った。ルスイペを助けたり、テムルイと話したがったり、カキバの奇妙な振舞いの理由が少しわかった気がした。
「子細はわからないが、お前の考えはわかった。すぐに追手がかかるかもしれない。実は俺も追手が気がかりで仕方がなかった。ともかく出発しよう。話は無事に着いてからだ」
 ナシリの言葉を最後に、コナたちタチュタ族七人と元アツ族の六人、総勢十三人は、タチュタ族の集落に向かって慌ただしく再出発した。カキバが、取り上げられていた武器を苦労して持って来てくれたのはありがたかった。これでもし追手が来ても、闇雲に逃げ回ることはない。タチュタ族の誰もが、カキバの話を噛みしめながらの逃走となった。
 道のりの半分まで来ると、半ばぬかるんだ足元が少しずつ登り傾斜になり、辺りは深い森になった。暗くてよくわからないが、ぼうっと浮かぶ木々の影は乱れているように感じられる。嵐の影響で、枝が折れちぎれ、垂れさがったりしているのだろう。進む獣たちが通るような細道にも、落ち枝が多く見られ、時折道を遮るように太い枯れ木が横たわっている。またいたる所に水たまりがあり、斜面からちょろちょろと流れる濁り水も、頻繁にまたいで越えなくてはならなかった。
 集落までもう少しの所で、一行は止まることを余儀なくされた。いつもなら、くるぶしまで浸かれば簡単に渡れる浅い沢が、嵐の影響で深さも幅も何倍にもなって勢いよく流れている。とても歩いて渡ることは出来そうもない。
「少し上流まで行けば、大きな岩がある。そこに橋をかければ渡れるかもしれない」
 ナシリの言葉に従って、上流に向かって歩き出す。ほどなく大きな岩が現れた。
「何とか渡れそうだな。木を倒して簡単な橋を作ろう」
 対岸にある岩にこちら側から木を立てかければ、渡ることが出来そうだ。辺りは森で、木には事欠かない。男たちは月明りを頼りに、必死になって手ごろな木を倒した。石斧を使い暗がりで木を倒すのは思った以上に困難で、たった三本のふくらはぎ程度の木を倒すのにかなりの時間がかかってしまった。安定するように三本の木を蔓でくくって繋げ、対岸の岩に立てかけ終えた頃には、辺りは白み始め、夜が終わろうとしていた。
「よし、これで大丈夫だろう。コナ、お前から渡れ。それからヤプカだ」
 ナシリの指示でコナが、そして次にヤプカが対岸に渡ることになった。コナは座った状態でお尻を滑らせるようにして丸太の橋を渡った。不安定な丸太橋のすぐ下には、落ちれば無事では済まない急流が口を開けている。冷や汗をかきながら川を渡ったコナに続き、ヤプカも橋にとりついた。
 丸太の橋を渡るヤプカ、その様子をかたずをのんで見守る男たち。その両者が、ほぼ同時に沢を流れる水の変化に気が付いた。流れる水量が急激に減ってきたのだ。ヤプカが渡り終えるころには、ちょろちょろと濁り水が流れるだけで、川とさえ呼べない状態になった。
「どういうことだ?」
 ナシリが首を斜めに傾けた。水の流れる音がほとんどなくなったために、話し声がやけに大きく感じられる。
「おそらく、上流で何かが川をせき止めたのだろう。水田の水路が詰まって水が流れなくなることは珍しくない」
 カキバは表情を曇らせ上流を見た。
「渡っても大丈夫か?」
 クシャが心配そうに言う。
「大丈夫だと思うが、さっさと渡った方がいいだろう。いつ決壊して大量の水が押し寄せるかわからない」
 問に答えながら、カキバは早く男たちを渡らせようと手招きして促した。上流の方向は静まり返っていて、危険な兆候は見られない。それでも急ぐに越したことはない。コナとヤプカは、不安気に対岸からその様子を見ていた。
 だが男たちは沢を渡ることが出来なかった。
 突然、朝もやを縫って、後方から矢が射かけられたからだ。岩に当たった矢じりが、粉々に飛び散る。
「来たようだな……」
 カキバは落ち着いていた。射られた矢が、威嚇であると確信しているようだった。ヒボリ族の考えは手に取るようにわかるらしい。むろん、相手がヒボリ族以外の者であることなどあり得ない。
「慌てるな。逃げなければ射られることはない」
 思わず走り出そうとするナシリやクシャたちを止めて、カキバは矢が飛んできた方向へ向き直った。
「追いついたぞ。カキバ。いったいどうしたと言うのだ。説明しろ!」
 それは、まぎれもなく高くよく通るデムシンの声だった。デムシンは三十歩ほど離れた木々の中にいた。その周囲には、二十人を超える武装した男たちが見え隠れしている。これほど近くまで来ていたのに気が付かなったとは、川を渡ることに集中し過ぎてしまったらしい。
「まさかあんたが直々に追って来るとは思わなかった!」
 カキバは大声で怒鳴った。
「言いたいことがあるのなら何でも言ってみろ。聞いてやるぞ!」
 嵐の後始末。休めないままの追跡劇。デムシンの疲れは色濃い。声にいら立ちがにじんでいる。
「言いたいことなどない。俺の思うようにしただけのことだ!」
 冷たく、カキバは言い返した。もはや支配者に対する敬意は微塵もない。
「とにかくここに来い。ゆっくり話そうじゃないか」
 デムシンはいくぶん声を落として、猫なで声を出した。顔には薄気味悪い微笑みさえ浮かんでいる。
「いや、その必要はない。アツ族がなくなったからには、俺も仲間も、もうヒボリ族と共にいる意味がない。わかったらさっさと立ち去るがいい」
 聞く耳持たぬとばかりにカキバは素っ気ない。
「何を言う。馬鹿もほどほどにしておけ。俺を怒らせるな」
 微笑は一瞬で消え、本性をさらけ出して脅しに転じる。
「物分かりが悪いな。俺たちがお前に従っていたのは、またアツ族を復活させたいと願っていたからだ。もう戻る気はない。さっさと帰れ!」
 油断なく構えながらも、カキバには脅しに動じる様子は皆無だ。
「何だと? 今なら罪は問わん。タチュタ族の者どもを捕らえてこっちへ戻れ!」
 デムシンの顔つきが変わり、怒りが体からほとばしっている。
「いや、もうお前の言いなりにはならんよ」
 カキバには、激流にも流されない岩のような意志が感じられる。
「こんなことをしてどうなる? 何が気に入らない?」
「さあな。お前の知ったことではない」
 うんざりしたように、カキバは言った。
「俺にはさっぱりわからん。戦がいやになったのか? それとも、嵐で壊された水田を見てやる気をなくしたのか? 確かに今回の嵐には痛手を食ったが、それほど珍しいことではあるまい? 時を掛ければ元に戻せるだろう。なぜ今更アツ族などにこだわる? このまま残れば、いずれは族長にだってなれるかもしれんぞ。カキバ」
「戦いが嫌になったと言ったところで、お前にはわからんだろうよ」
 己の論理を振りかざしたデムシンの言い分は、カキバに届かなかった。同時に長年デムシンのやり方を見てきたカキバにも、己の考えが相手に伝わるとは思えなかったようだ。その言葉には、深い哀れみがにじんでいた。
「強い者が勝つ。最後に残った者が正しいのだ。違うのか? 負ければ全てを奪われ、殺される。もし殺されなくても、虐げられ、屈辱に身を震わせながら隅っこで生きなければならんのだぞ? 我々は勝って、勝ち続けるしかないのだ!」
 逆にデムシンには、勝つか負けるか以外の価値観が理解出来なかった。敗者であった祖父の呪詛の言と、苦労の末に族長に登りつめ勝者となった父の姿。その双方を糧に育ったデムシンには、無理のないことだったのかもしれない。
「話しても無駄なようだ。やはりお前には何を言っても通じない」
 カキバは、相手に聞こえないのを知った上で、小さくどこか寂しそうにつぶやいた。
(どうしたらいいんだ……)
 流れの止まった川の向こうで二人のやり取りを聞きながら、コナは思った。このままでは捕まってまた戦いの中へもどされる。それが嫌ならここで戦って逃げるしかない。でもここで戦えば人を殺すことになるだろう。間接的にとは言え、ヒボリ族に父を殺された憎しみは、痛みを伴うほど強く全身で脈打っている。でも、自分の想いだけで恨みをはらせば、あいつらと同じではないか。それに、自分はともかく仲間だって死ぬかもしれないのだ。アツ砦の戦いで見た、血まみれの死体を忘れることが出来ない。
「コナ、ここは俺たちに任せて逃げろ。何とか切り抜けて追いつく」
 突然、カキバは振り返り、敵に聞こえない小声で言った。
「⁉」
 コナはもちろんタチュタ族の者たちはちょっとの間、何も答えることが出来なかった。じれったくなり、カキバは繰り返す。
「早くしろ! 逃げろと言っているんだ」
「そうだ。コナ、ヤプカを連れて逃げろ!」
 コナとヤプカ、二人だけを逃がそうとしていると理解したナシリが、慌てて追従する。
「違う! タチュタ族全員で逃げるんだ。ここは俺たちに任せろ!」
 怒ったようにカキバが小さく体を震わせる。カギバとその一族六名がタチュタ族を逃がすために戦おうと言うのだ。
「だめだ。自分たちだけで逃げるわけにはいかない!」
 ナシリが喧嘩腰で唾を飛ばす。
「言い争っている暇はない。今なら簡単に沢を渡れる。さっさと行け!」
 ヒボリ族を監視するようににらみながら、時折ナシリやコナをちらりと見つつ、カキバは矢継ぎ早に続ける。
「いいかよく聞いてくれ、もしも我々がタチュタ族の集落まで辿り着けなかったら、出来るだけ早く集落を離れるんだ。もちろん部族全員でだ。こやつらがすぐに集落に行けぬよう、命をかけて追い払う!」
 カキバは敵から見えないように、腰の石斧を取った。それを見聞きしていたアツ族の仲間たちもそれにならった。
「ふざけるな! 置いていけるはずがない!」
 ナシリはつい声を大きくした。
 それを無視してカキバはさらに言葉を継ぐ。
「集落に着いたら、みなを説き伏せて北東へ向かえ、俺たちのはるか先祖がかつて住んでいた場所だ。ここにいてもいずれは誰かがまたやってきて、戦いに巻き込まれる。相手がヒボリ族か、フシ族か、カタカ族かに、変わるだけのことだ」
「何だって、北東……?」
 コナもナシリもカキバが何を言っているか咄嗟に理解出来なかった。
「もっとゆっくり話したかったが、その暇はない。もし生き残ったら、そして許されるなら、俺も一緒に北東に向かう」
 カキバはナシリを、そしてコナをじっと見つめた。
「いつまでごちゃごちゃ話しているっ! 戻る決心はついたのか。それともここで死ぬかっ!」
 怒りが頂点に達したデムシンが、凶暴に叫んだ。
「どちらもごめんだ。戦って生きる!」
 カキバは数名の仲間と共に、鼻にしわを寄せ、獣じみた形相で石斧を振りかざして走り出した。
「左右に分かれろ! やつらに沢を渡らせるな! ルスイペ、俺から離れるな! それが駄目なら遠くに隠れていろ!」
 走りながら仲間に指示を与える。
「遠慮はいらん! 歯向かう者は殺せ!」
 その様子を見たデムシンは、何のためらいもなく振り上げた腕を打ち下した。もう片方の手に握られた先祖伝来の鉄剣が、禍々しく輝いている。
 カキバは前から飛んでくる矢を避けながら、斜面を横切り立木を縫うように敵に向かって走った。ムヒュルを筆頭にこちらに倍する数の兵が向こうから走って来る。
「愚かな奴だ。黙って族長に従っていればもっと偉くなれたものを! お前がいなくなった方が俺にはありがたいがな!」
 走りながら、ムヒュルは叩きつけるように叫んだ。ムヒュルたちが近づくと、同士討ちを嫌って敵の矢が飛んでこなくなる。
「どちらが愚かかわかったものではないわ!」
 ムヒュルは、カキバから十分距離をとって得意の槍をかまえた。つい昨日まで味方だったカキバが、石斧を使わせたら並ぶ者はいない実力の持ち主であることは、誰もがよく知っている。しかし、ムヒュルの槍の腕前も引けを取るものではない。
 カキバは右手で石斧を持ち、腰を落として油断なく身構えている。長い柄のついた槍の方が有利なのは承知している。うかうかと攻撃を仕掛けると返り討ちをくらってしまう。
「さっきまでの威勢はどうした? おじけついたか?」
馬鹿にした口調で、カキバは挑発を試みる。怒りにまかせて向かってくれば、受け流して攻撃に転じることが可能だ。
「その手には乗らんぞ」
 冷静にムヒュルはにやりと笑った。
「では、仕方がない」
 言い終わるより早く、カキバはムヒュルの左側に回り込んで届かない距離だと知った上で、軽く石斧を打ちこんだ。
 驚いてムヒュルが反射的に突き出した槍は、空を切った。
 打ちこんだそのままの勢いで、カキバは立木がやや密生している場所に移動していく。槍を振り回せない込み合ったところに引き込めば、石斧が有利になる。カキバを無視してタチュタ族の追跡に向かわれたらという懸念もあったが、ムヒュルはカキバを追いかけてくる。この機会に、カキバを無き者にしようと思っているに違いない。
 ムヒュルは槍を振り回すのを諦め、小さい動作で突きを繰り出してカキバを攻撃してくる。カキバは必死になって、力より速さを重視した鋭い突きをかわした。一度、二度、かわすことができずに、カキバの腕と脇腹を槍がかすめる。
 まずいことに自分が戦いやすい場所に移動したつもりが、大木とやぶに囲まれた位置に追い込まれる形になってしまった。焦りに歪むカキバの頬から幾筋もの汗が流れおちた。
 次の瞬間ムヒュルは、速度はやや遅いが力のこもった必殺の突きを放った。槍は逃げ場のないカキバの腹に向かって一直線に伸びていく。
刺さる!
 そう見えた刹那。カキバは体をひねって、槍の切っ先を紙一重でよけた。標的を失った切っ先は、すぐ後ろの大木に深々と刺さっていた。
 カキバは予期していたかのように疾風のごとく動き、左手で柄をつかみ、腕と脇で槍を固定した。そして間髪をいれずに右手の石斧をムヒュルに向かって突き出した。
 ムヒュルは迷わずに槍の柄から手を放し、後ろに跳びすさった。カキバが前に踏みこむ素振りをすると、諦めたのかさらに遠くまで下がっていく。
 それを見届けてから、カキバは、
「むんっ!」
 とばかりに石斧で槍の柄を打った。それから石斧を股にはさみ両手を自由にして、傷ついた柄を両腕の力でへし折った。これでもう槍は使えない。
 しかし、安心するのはまだ早かった。左前方から、新手の敵が飛びかかってきたのだ。
 カキバは咄嗟に、右手に持っていた折れた槍の柄を敵に向かって突き出し、その勢いで攻撃を避けて前に倒れ込んだ。細い立木をよけるように転がって、敵の方へ向き直る。同時に落ちているはずの己の石斧を目で探す。
 そのカキバの視界に飛び込んできたのは、尻もちをついた敵の姿だった。敵の胸には、カキバが突き出した槍の柄が、深く突き刺さっていた。口からは鮮血が吹き出している。これだけの深手を負えば、幾ばくもなく苦しまずに絶命するだろう。
 それでもカキバは油断なく石斧を拾い、敵に歩み寄った。
「すまんな。手を抜く余裕はなかった」
 倒れた敵は、幾度となく肩を並べてフシ族と戦ったクンチョグだった。ほんの一瞬だけ悲痛に顔を歪め、カキバは振り返って走り出した。
「さあ、邪魔する奴は誰だ。死にたくなかったら大人しく帰れ!」
 カキバはタチュタ族の者たちを追いかける敵を探した。逃げ足の速いムヒュルは、もう見える所にはいない。
 カキバの仲間とデムシンの部下も激しく戦った。人数の差は明らかなのに、戦いは均衡していた。生き残ろうとする想いが、アツ族の戦士の方が何枚も上手だった。その様子を見て、デムシンは冷静に新たに数名を投入した。
「くそっ! これまでか……」
 新たに駆け寄って来る敵を見て、カキバはうなった。これ以上に敵が増えたら、いくらなんでも抑えられない。
 それでもしばらくは持ちこたえたが、カキバの懸念通り、大勢の敵に取り囲まれ、ボツが頭を割られて地に伏した。十年間、共に戦ってきた仲間だった。
「やりやがったな!」
 怒鳴りながらがむしゃらに石斧を振り回すが、追い詰められ一か所に集まったカキバたちはさらにじりじりと下がり、最初にいた流れの止まった沢の付近まで押し戻された。新たな敵に前からねじり寄られ、後はコナたちを追って逃げ出すしかない。後ろにも何人か敵が見えるから、逃げるのだって簡単ではない。
 しかし、カキバたちはその場に踏みとどまった。
 ここで死ぬ運命だと覚悟を決めたか、カキバはほんの一瞬だけ目をつぶった。懐かしい家族や死んでいった仲間のことを思い出しているに違いない。
「せめてコナたちだけでも……」
 逃げたはずのコナたちの様子が気になるのだろう、改めて後ろを振り仰ごうとすると、
「⁉」
 期せずして眼前を後ろから矢が横切った。
 矢は、新たに戦いに加わったヒボリ族の兵の足を貫いた。
 驚いて矢が放たれた場所を探すと、弓を構えたコナがいる。コナのそばにはナシリやヤプカも見える。
「まだいたのか! さっさと逃げろと言ったのに!」
 カキバは愕然として叫んだ。だがコナはカキバの声を聞くより先に、次の矢を放っていた。矢はまたもやヒボリ族の兵の足を捕らえた。兵は走って来た勢いのままぶっ倒れた。
「俺たちも戦う!」
 ナシリが、アットイが、走り寄って戦いに加わった。コナ同様に、クシャが遠くから弓で敵を射た。コナに劣らぬほど、弓の腕は確かだった。健気にヤプカまでもが矢を放っている。
「だから逃げろと言うのに! 畜生め! こうなったらやるしかねえか!」
 険しい顔が一転してほどけ不敵な笑みが蘇える。カキバは勢いを取り戻して敵に飛びかかった。
 まだまだ人数に差はあったが、コナとクシャの弓の威力は絶大だった。足の悪いクシャは、同じ場所に陣取り狙い撃ちしている。コナは風のように動き、十分に接近してから敵を射た。二人が狙っているのは、急所を外した足や肩だ。死ぬことはなかったが、もう戦うことは出来ない。
「あれが野風か! さすがチャルペの一族!」
 すでに血でべっとりと汚れた石斧で敵をひとり葬ってから、カキバは思わずうなった。コナたちのおかげで形勢を持ち直したものの、まだ油断は許されない。敵は次から次へと襲ってくる。
「ぐあぁっ!」
 頼みのクシャが肩を射られた。同じ場所にいたのがあだになった。足を引きずりながら逃げまどうが、最後は数名に取り囲まれ、槍でとどめをさされた。
「クシャ!」
 助けようにも、目の前の敵の相手をするのが精一杯で、コナにもナシリにも、どうすることも出来なかった。ここまでヒボリ族に連れ去られてから一人の犠牲者も出していなかったタチュタ族に、初めての死者が出た。
「糞ったれ! やりやがったな!」
 今まで感じたことのない、父親を殺されたと知った時以上の激烈な怒りが、コナの胸を焼いた。凶暴な獣が体の中を駆け回っているようだ。目の前にいる敵に怒りの矛先を向け弓を引きしぼる。
「殺さないでくれ!」
 敵の恐怖におびえる顔を見て、すんでの所で狙いを変え太ももを射た。かすかに残った理性が、殺意を抑え込んでくれた。だがいつまで抑え込めるかまったく自信がない。怒りにのまれ無心になって野風に乗ることなど、もはや不可能だ。
「そこまでだ! こいつの命が惜しかったらな!」
 突如として大声で叫んだのは、デムシンだった。いつの間にか大勢が戦っている外を回り込み、デムシンはヤプカを後ろから羽交い絞めにして人質に取っていた。その手には冷たく光る鉄剣が握られている。
 ヤプカは邪魔になってはいけないと思ったか、沢の大岩に隠れるようにして矢を放っていたはず。前方の戦いに集中するあまり後ろがおろそかになっていたのだ。
「卑怯だぞ!」
 一番近くにいたカキバが、石斧を構えたまま歯ぎしりをした。
「黙れ! こいつを殺されたくなかったら武器を捨てろ。仲間にもそう言え!」
 ヤプカが捕まったことに気が付かずに、まだ戦っている者もいる。
「もういい加減そんなことはやめてくれ! もう兵を引いて帰るんだ。頼む」
 祈りにも似た悲痛な叫びが、苦痛に歪んだ口から押し出される。
「私のことは気にしないで戦って!」
 デムシンの左手で首元を締め上げられたまま、ヤプカは絶叫した。
「うるさい!」
 デムシンは鉄剣を握った拳で、ヤプカの頭を殴った。
 声を殺し、苦痛に悶えるヤプカ。
「やめろ! 手荒なまねはするな!」
 カキバはなすすべなく棒立ちになった。
「だったらさっさと武器を捨てろ!」
 デムシンはさらに強くヤプカを締め上げた。ヤプカはデムシンの手を必死に引きはがそうとするが、まったくゆるむ気配はなかった。
「くそっ、わかった……」
 カキバは拳を強く握ったあとに、こと切れた野兎のように力なくうな垂れた。諦めて仲間に武器を捨てるよう指示を出そうとした時、後ろから強烈な殺気を感じ、思わず振り返る。
 その視線の先に、異常な殺気をまとったコナの姿がある。コナは弓を構え、デムシンを狙っている。デムシンを殺したいという邪念を抱いているせいで、気配を消すことはとっくに出来なくなっていた。
「やめろ!」
 カキバが言い終わる前に、コナは矢を放っていた。矢には殺気がこもり、一直線でデムシンに向かっている。カキバと同時にコナの存在に気が付いていたデムシンは、ヤプカを持ち上げて盾にしようとした。このままでは矢はデムシンではなくヤプカに当たってしまう。
 コナとデムシンを結ぶほぼ直線上にいたカキバは、捨てようとしていた石斧で咄嗟に飛んで来た矢を叩き落とした。
「何をする!」
 驚いてコナは叫んだ。
「お前は人を殺してはいかん! 俺のようになるな!」
 カキバは鬼のような形相で怒鳴った。
 それからカキバは、何を思ったか目を細め首をわずかに傾け、黙り込んだ。
「でも!」
 コナが食い下がろうとするが、慌ててカキバが遮る。
「時間がない! 黙って俺に任せろ!」
 その時、遠くからかすかに雷鳴のような音が聞こえてきた。一瞬遅れて地面から振動が伝わって来る。
「何だ、これは……?」
 デムシンもその音に気付き、カキバとコナに注意を払いながら周囲を見回した。
「おい、この音が何かわかるか? 崩れ水の音だよ。じき、お前がいる所に押し寄せる。さあ、どうする?」
 デムシンに向き直り、カキバはしてやったりとばかりに不敵に笑った。
「何⁉」
 驚いたデムシンは乾いた沢の上流に視線を投げた。そうしているうちにも、音は爆発的に大きくなってくる。
 デムシンが目を離した瞬間を、カキバは見逃さなかった。
「コナ、逃げろ!」
 そう叫びながら、カキバは兎さながらに跳ねるように走った。一気にデムシンとの間合いを詰つめ、飛びかかる。
「おのれ!」
 カキバはヤプカを真ん中に挟む格好でデムシンをしっかりとつかんだ。その左手は鉄剣を持ったデムシンの右手を押さえている。
「何をする。どけ!」
「駄目だ! お前は俺と一緒に死ね!」
 カキバは走って来た勢いでデムシンとヤプカをぐいぐいと、丸太の橋が架かるそばまで押し動かした。
 凄まじい轟音は間近まで迫り、三人の目は水流の先端を捕らえた。
「俺の勝ちだ。デムシン」
 カキバはつぶやくと、片手でヤプカをしっかり抱きしめ、もう片手でデムシンだけを突き飛ばした。棒立ちになっていたデムシンは、足元を支点に後ろに倒れた。その目は大きく開かれ、瞳には泡立つ水しぶきが映っている。
 瞬きも出来ないほんのわずかの間だけ逡巡してから、カキバはヤプカを抱いたまま振り返り、崩れ水から逃げるように出来る限り遠くへ飛んだ。
 次の瞬間、水流が三人を飲み込んだ。凄まじい水の塊が、岩を押し流しながら下流に向かって落ちて行く。沢の幅はここに来た時の数倍に膨れ上がり、周囲に生えていた低木をなぎ倒した。
 三人の様子を遠巻きに見ていた者たちは、タチュタ族もヒボリ族もアツ族もみな戦いをやめ、目を見開いて立ち尽くした。
「ヤプカ! カキバ!」
 叫ぶコナの声は、雷鳴に似た流水音にかき消された。コナは急流に走り寄って二人を探そうとした。しかしナシリが引き止め、行かせてはくれなかった。誰もが、デムシンはもちろん、カキバとヤプカの死を確信していた。他の者たちが流れに巻き込まれなかったことが奇跡だった。
「おい、まだ戦うのか? お主らの族長はおそらく助かってはいまい」
 ついさっきまで戦っていたムヒュルに、ナシリは言葉を投げかけた。ヤプカの犠牲を必死でこらえているのが、その悲痛な表情から伝わってくる。
「何てことだ……」
 族長のデムシンを失ったヒボリ族の者たちは、明らかに動転していた。じっとしていても始まらないと思ったのか、ムヒュルの指示で一か所に集まりごそごそと話し合いを始める。数名の者が沢を渡って戦っていたので、戻るに戻れなくなって右往左往している。
 そうしている間に激琉の勢いは徐々に弱くなり、ほどなくして流れは最初にここに来た時と同じくらいに戻っていった。
「カキバか!」
 タチュタ族の中で唯一沢を渡って戦っていたアットイが、流れが弱まった沢辺に人が横たわっているのを見出した。反対岸にいる全員が、会話をやめてアットイの動きを目で追う。アットイの姿は見えるが、人が倒れている様子は対岸からではよく見えないのだ。
「カキバなのか! ヤプカはいないか!」
 娘のことが心配で、なりふり構わずナシリが川岸に走り寄った。コナも他の者たちも後を追う。
 アットイは、足を沢に突っ込んだまま四つん這いで倒れている男に近づいた。それは紛れもなくカキバだった。
「大丈夫か!」
 駆け寄るアットイを、カキバは大きく肩で息をしながら見上げた。その腹の下には、ヤプカがしっかりと抱きかかえられていた。
「ヤプカを頼む……」
 カキバはアットイにヤプカを渡すと、その場に倒れ込んだ。
「うぅ、んん……」
 アットイは、受け取ったヤプカがかすかに呻き声をあげるのを聞いた。
「カキバもヤプカも生きているぞ!」
 アットイは対岸にいる仲間に向かって歓喜の叫び声をあげた。ナシリもコナもカキバの仲間も、喜びに沸いた。
 アットイに体をゆすぶられ、ヤプカは意識を取り戻した。ごほごほと咳をしてから、呆然と近くの岩に腰を降ろした。露出している頬や腕に痣や小さな擦り傷があるが、大きなけがはしていないようだ。カキバがしっかりと抱きかかえ、ヤプカを守ったのだ。
 一方カキバは、意識はしっかりしているようだが、様子がおかしい。腹部を片手で押さえたまま、起き上がることが出来ない。倒れた姿勢で横を向き、苦しそうに血を吐いた。よくよく見ると、腕や足にも沢山の傷がある。崩れ水に巻き込まれた際に、あちこちを打ち付け、内臓にも損傷を受けたようだ。
タチュタ族の者たちは、アツ族と共に丸太の橋を作り直し、対岸に渡った。一度作った丸太三本の橋が、横に飛ばされただけで残っていたので、意外に楽に沢を渡ることが出来た。
「腹の中をやられた。俺は助からん。早く集落に行こう。タチュタ族のみなに話したいことがある」
 橋を渡り駆け寄って来たコナに、血の気の引いた顔でカキバは言った。
「ここでゆっくり休もう。カキバ」
 コナは泣きだしそうになるのを懸命にこらえた。
「いや駄目だ。足の骨は折れていないようだ。支えてもらえば何とか歩ける」
 カキバは苦しそうにゆっくりと体を起こし、アツ族の仲間の力を借りて立ち上がった。そしてほとんど引きずられるようにして歩き出した。
 タチュタ族の者たちも、命を落としたクシャの亡骸を背負い、カキバたちに続いて歩き始めた。コナも渋々それに従って歩くしかなかった。精神的な衝撃からはまだ立ち直ってはいないが、ヤプカもなんとか歩くことが出来た。
 ヒボリ族の男たちは、命を拾ったカキバとヤプカを横目で見ながら、しつこくデムシンを探していたが、やがて諦めたらしく、ムヒュルの指示で帰途へついた。沢を渡っていた数名も丸太の橋を使って対岸に移り、後を追うだろう。
 コナは立ち去り際、デムシンから与えられた翡翠の勾玉を沢に投げ捨てた。勾玉は水に飲まれ見えなくなった。死んだデムシンの手に戻るとは思えなかったが、そのまま身に着けている気はなかった。

タチュタ族の決断

 シヤラやトケレベたちタチュタ族の数名の女衆は、水がある程度引いた今朝から、倒れたり流されたりした作物を元に戻そうと悪戦苦闘していた。
 一昨日の嵐の被害で、タチュタ族の畑はめちゃめちゃになっていたのだ。森の一部を焼いて作った畑で、周りは鬱蒼とした木々に囲まれている。森の中だけに日当たりはさほど良くない上に、面積だってヒボリ族の水田と比べれば取るに足らない規模だが、それなりの実りをもたらしてくれるはずだった。
 しかし穂を垂らし始めた陸稲も、糸を採るための麻も、実の完熟を待つ荏胡麻も、どれもみな強風でかき回され、無残に根元から倒れている。
 ヤプカたちが連れ去られてからひと月半。ため込んでいた食糧のおかげで飢えることはなかったが、迫りくる冬を思うと働き手の男衆を多く取られたことは、命に関わるほどの痛手だった。それでも残された者たちは生き残るために働くしかなかった。
「ふうっ……」
 トケレベは、重苦しい虚しさを身にまとい、意味がないのではないかという感情と戦いながら、懸命に倒れた陸稲を起こし続けた。ヒボリ族による徴兵、そして嵐、どの女衆の顔もすすけたように暗く沈んでいる。二重の苦しみが気力を奪っていた。
 そばで寝そべっていた、ヤプカがいなくなってから元気のない老犬のチャッチャが、小さく吠えながらにわかに起き上がり、森の方に駆けていく。何か獣でもいたのだろうか。
 しばらくしてから不意に、風で揺れる木々のざわめきを縫って、女の声が聞こえた気がして、トケレベは森の方を見やった。
「母さん!」
 空耳ではない。これはヤプカの声に違いない。その姿も森の木々の隙間から見え隠れしている。彼女は理解した。チャッチャはヤプカの存在に気が付いて駆けていったのだ。
「ヤプカ!」
 トケレベは持っていた木ベラを放り出して、ヤプカの方に駆け出した。足がもつれて転んでも、目はヤプカから離れない。
「コナ! コナ!」
 ヤプカの後ろから歩いてくる息子に気が付いたシヤラも、狂おしく叫んだ。他の女たちも口々に連れ去られた者の名を呼び、姿を求めながら駆け出している。
 ヤプカとトケレベは、しっかりと抱き合い、顔を見合わせた。涙と泥で汚れたトケレベの顔をヤプカの手がぬぐった。ヤプカの頬にも涙が流れている。二人の足元で、チャッチャが尾っぽを振り振り駆け回った。
「どうして戻れたの? まさか逃げて来たのかい……」
「うん、逃げて来ちゃった」
 泣いたままヤプカは笑ったが、その笑顔には色濃い疲れがこびりついていた。
「どうしよう! すぐに、追手が来る!」
 トケレベは急に不安になったのか、思わず周りの森を見回した。
「いや、大丈夫だと思う」
 シヤラとひとしきり再開を喜びあったコナが、ヤプカの代わりに答える。
「それより、クシャの精霊を迎えにいかなくちゃならない。水汲み場に寝かせてある。ここまで運びたかったけど、みんな疲れ切っている。助けてやってほしい」
 その一言で察した女衆が、血相を変えて二、三人水汲み場の方に駆け出そうとした。
 しかしその女衆たちは、出鼻をくじかれぴたりと動きを止めた。頬が恐怖で引きつっている。森の奥からひん死のカキバを引きずるようにして、男たちがやって来るのが目に入ったのだ。カキバはタチュタ族の男たちを無理やりに連れて行った張本人なのだ。見慣れない者の出現に警戒したチャッチャが、思わず大きく吠える。
「心配いらないよ。もう敵ではないから」
 周囲の緊張を感じ取ったコナが、慌てて言った。ヤプカがチャッチャをなだめようと、身をかがめて頭をなでる。
「誰か急いで族長に知らせて欲しい。すぐに話をしなくちゃ。カキバには、もうあまり間がないかもしれない……」
 どうしたらよいか迷っていた女衆も、わからないながらもカキバの様子を見て状況を察し、水汲み場と集落の二手に分かれ動き出した。

 複雑な表情の女たちと共に帰還した者たちは、すぐさまカキバを伴いシハンの元を訪れた。一晩中歩き通し、闘いであちこち傷ついた身体が痛んだが、それどころではない。
「長。今戻りました。何はともあれ、カキバの話を聞いて欲しい。彼にはおそらく、それほど時が残されていない……」
 ナシリがシハンに頭を下げ、カキバの方に視線を投げた。
「どうしたと言うのだ……。子細がありそうだな」
 シハンはぐったりとしたカキバを見た。タチュタ族の男たちを連れ去ったカキバがこのような姿でやって来るとは、予想だに出来なかったに違いない。
 同じアツ族の仲間によって献身的に、半ば担がれるようにやって来たカキバは、雨よけ小屋に運ばれた。幸い雨よけ小屋は嵐の被害を免れていた。屋根のあるチチェへと思ったが、カキバが沢山人が集まれる場所を望んだのだ。厚く敷き重ねた皮の上に横になっていたが、シハンの声を聞き身を起こそうとして、苦悶に顔をゆがめた。
「無理をすることはない。そのまま話すといい」
 立っていたシハンは、悪い足をかばうようにそばにそっと腰を下ろした。
「ではこのままで失礼する。改めて名乗らせてもらう。カキバ、アツ族のカキバだ」
 カキバは苦しそうにかすれた声を絞り出した。
「アツ族……」
 シハンは眉をひそめ、カキバの次の言葉を待った。
「ここに戻って来るまでのことは、俺が説明しよう。任せておけ」
 苦しそうなカキバを見かねて、ナシリが語り始める。
 ナシリはヒボリ族に連れて行かれてからのいきさつを、簡単にしかし的確に話して聞かせた。シハンは、時折うなったり、深くうなずいたりしながら話を聞いた。
 カキバとシハンの周りには、いつの間にかタチュタ族のほぼ全員が集まっていた。みなが、年端のいかないクサキナでさえ、何も言わずに必死に耳を傾けた。ただならぬ空気を読んだのか、犬たちも大人しく腰を下ろしている。
 クシャがどう死んだかが告げられると、場は悲しみに包まれた。家族は必死に涙をこらえている。ナシリの話を遮らないようにと思っているようだ。
「うむ、事情はわかった……」
 シハンはしばし考えに沈んでから、おもむろに口を開いた。白髪の混じるあごひげをなでながら、さらに続ける。
「みなでここへ戻ったのは良いし、正しいと思うが、これからどうしたらよいのか……」
「長(おさ)」
 カキバが苦しそうに、仲間に支えられながら身を起こした。
 シハンは返事をする代わりに、カキバの目をじっと見つめた。
「謝って許されるとは思わないが、まずはここにいるみなに謝りたい。俺が男たちを連れ去ったことを許して欲しい。すまなかった……」
 カキバは深くうなだれた。
「お主にはお主の事情があったのであろう。それにお主は、命を張ってみなのために戦って、しまいにはヤプカを助けてくれたと言う。許すも許さないもない」
「すまない……」
 カキバは、ほっとしたように穏やかに微笑んだ。
「アツ族のカキバ、お主に聞きたい。何か考えがあるのか? だからヒボリ族から離れる気になったのだろう? お主の話したいこととはそのことか?」
 恐ろしいほど真剣な表情でシハンはたずねた。
「その通りだ。ナシリたちには話したのだが、改めてきちんと話そう。族長だけでなく、みなにも聞いて欲しい」
 頭の中で考えをまとめているのか、カキバは少し間をおいてから新たに口を開いた。
「あなた方はここから移動して、新たな住処を探すべきだと俺は思っていた。ここから北東の地に向かうべきだ」
「ここから移り住めと言うのか?」
 みなの言葉を代弁するようにシハンは問うた。
「ここにいても、またいずれはヒボリ族がくる。仮にフシ族がヒボリ族を破れば、今度はフシ族が来るだろう。彼らは、人の物を奪い、侵略することしか考えていない」
 腹が痛むのか、カキバは苦しげに顔をしかめた。
「でも、北東の地に向かうのは難しくないかな。寒さの厳しい生きにくいところだ」
 シハンは眉根を寄せ、思わずうなった。
「むろん承知の上だ。俺たちの遠い先祖は、寒さと食料難から逃れるためにここに移り住んだのだ。それを伝える《語り》はいくらもある。タチュタ族にもそのたぐいの《語り》はあるだろう?」
「それはそうだが、どうして今さら北東の地へ戻らなければならないんだ」
 しばし口をつぐんでいたナシリだったが、こらえきれなくなって話に割って入った。
「そこに賭ける価値があると思うからだ。北東の地には、少ないが未だに住む者たちがいるようだし、だとすればその者たちに出来て我々に出来ぬ言われはない。それに、タチュタ族の者は狩りの技術に長けている。食糧は獣だけではないが、北の長い冬を越えるには狩りの技に頼るところが大きい」
「うむ……」
 シハンはまたひとつうなり声を発した。
「長」
 終始黙っていたコナが、急に動いた。
「俺は少しだったけれどフシ族と戦った。そこで、人と人が殺し合うのを見た。俺も殺されそうになった。怒りのせいで、さっきはもう少しで人を殺すところだった……。あんなことはもういやだ。ここにいる小さな子たちに、そんな恐ろしい悲しい想いをさせたくない」
 大人びた口調で言う。誰もがたった半月で大きく成長したコナに驚いているのか、探るように黙って聞いている。
「では、コナは移り住むことに異存はないんだな」
 シハンはコナを子ども扱いせずに、考えを聞いた。
 コナは少しの間黙り込んでから、口を開いた。
「ちょっと待って。よくわからないんだ。戦いは嫌だけど、ここから出ていくのも何か違うような気がする。出来るならヒボリ族とフシ族の争いをやめさせられればいいのだけど……」
「いや、その気持ちもわからなくはないが、それは無理というものだ。戦を簡単にやめさせられるならどんなに楽か。お前は甘いのだ」
 カキバは手厳しく言った。
「簡単にとは言っていないよ!」
 相手がひん死のカキバとわかっていても、コナは興奮を止められなかった。
「領地の奪い合いもそうだが、互いに多くを殺し過ぎている。その憎しみに飲み込まれ、彼らは追い立てられるように戦っているのだ。その意味が今のお前ならわかるはずだ」
「だからって……」
 ついさっきの戦いで、憎しみに駆られコナがデムシンを殺そうとしたことを言っているのはわかる。痛いところを指摘されひるむも、何とか言い返そうとする。
「まあ、落ち着けコナ」
 シハンがコナを手で制し、目でカキバを促す。
「人を連れ去りに来たと思えば、今度はみなでここを離れよと言う。そんな俺を恨むかもしれんが、よく考えて欲しい。十年以上前に俺がかつて属していたアツ族は、今はもうなくなってしまった。ここに数名の仲間はいるが、根無し草で、族と言えるかさえ自信がない。もしこのままここにいれば、タチュタ族も同じように消滅することになるだろう」
「待って欲しい。お主の言い分もわかるけれど、戦から逃れる何か良い手はないのだろうか」
 横合いからアットイが口をはさむ。
「良い手があるのなら。こっちが伺いたい」
 カキバはわずかに語気を強めた。生気があれば怒鳴っていたかもしれない。
「ヒボリ族やフシ族を説き伏せて、戦をやめさせることは出来んか……」
 シハンが困った顔でうつむいた。
「失礼ながら、それはあなたやコナでなくても誰でも考えること。伺うが、具体的に戦をやめさせる策がおありか?」
「誠意をもって話せば何とかならんか……」
 カキバの厳しい問いかけに、シハンさえ的確に答えられない。
「彼らにとって重要なのは、敵を倒し、自分たちの支配下に置くことだ。そのために小さな部族を潰すことなど屁とも思っていない。何を言っても相手にされまい」
「……」
 シハンにもその他の誰にも、何も答えられない。
「俺は十年間ヒボリ族と共に生きて、確信している。死んだ族長のデムシンは、フシ族がカタカ族に戦をしかけられて弱っていることを知って、今がフシ族を滅ぼす好機だと言ったのだ。これでフシ族と戦わなくて済むとは決して言わなかった」
 痛みに耐えながら、カキバは懸命に話を続ける。
「ひとつの戦いが終わっても、彼らはまた戦いを求めると言うのだな」
 と、シハン。
「その通りだ。言っておくが、そう考えているのはヒボリ族だけではない。フシ族もカタカ族も全部だ」
 もう少しとばかりにカキバはたたみかた。
「カキバ。お主の言うことがわからないわけではない。遥か西に住む氏族たちが、ことごとく大きな水田を作り、それを維持してさらに大きくするために良い土地と労力を欲していると聞いている。それは何も今に始まったことではない。おそらく何世代も何十世代も前から徐々に進んできたのだろう」
 シハンは、かつて交易のために他の部族を行ったり来たりしていたと聞く。その時に沢山の情報を見聞きしていたのだろう。山にかじり付き、陸稲を栽培している自分たちがもやは時代遅れなのは、コナにもわかなないわけではなかった。タチュタ族は古い古いチャルペの時代の生き残りなのだ。
「しかし仮に、仮にだ。北東に移動したとして、戦から逃れられるのか?」
 ナシリは胸に湧いた疑問をカキバにぶつけた。
「約束はできない。だが、先祖が捨てて出てきた北東の地は、人のとても少ない場所だと聞いている。ヒボリ族で過ごした十年、西から来てまた西に帰る旅人は沢山いたが、北東から来てまた北東に帰った者にはお目にかかったことがない。まれに北から来た者がいても彼らは移住者で、北に帰る気はなさそうだった」
「うむ、つまりは、ここに残って早かれ遅かれ戦に巻き込まれ散り散りになるか、食糧難に直面するが、移住して今のまま大地と共に生きるか、どちらかを選ばなければならないということだな」
 シハンは静かにゆっくりと、みなに問いかけるように言った。
「その通り」
 カキバは少しほっとしたようにうなずいた。
「俺は戦いを放棄して逃げるような気がして嫌だな」
 アットイがぼそりと言う。
 カキバがその気持ちを察してか、言葉を続ける。
「俺はこの間、アツ砦を攻め落とした。その時、かつてアツ族として共に過ごしたテムルイという男と再会した。アツ砦の長になっていたよ。彼は、フシ族として七年間戦ったのだ。いつかは戦いが終わり、もとのアツ族として生きられる日を夢見ていたに違いない。しかし彼は、生き延びることよりも、砦の長としてヒボリ族に処刑されることを選んだ。結局戦いは戦いしか生まないことが身に染みてわかったのだろう。俺はこの手で彼を処刑したが、その彼の気持ちが今は痛いほどよくわかる」
 カキバは何度も小刻みに息をしてから、苦しそうにまた話を再開する。カキバの後ろで涙をこらえ、必死に体を支えるアツ族の男たちの姿が、その場にいる全員の胸を刺した。
「それに、多くの者が勘違いしているようだから言うが、我々は逃げるのではない。食糧の少ない北の大地で自然と真っ向から向き合って、活路を見出そうと言うのだ。貪欲に宝を奪い合う群れから離れて、ひとり厳しく生きようとする一匹狼をどうして卑怯だと言うのだ?」
「一匹狼か……」
 アットイは、考え込んで黙ってしまった。
「それに、我々はヒボリ族が持っていた水田の技を知っている。その水稲の種籾も手土産代わりに持参した」
 カキバの隣にいたボツが大きくうなずいて、小さな皮袋を掲げて見せた。きっとその中に水稲の種籾が入っているのだろう。
「わかった。ここから移り住むことに依存はない」
 長い沈黙の後、重々しくシハンは言った。これでタチュタ族が移住することが濃厚となった。族長の判断は非常に重んじられる。騒ぎ出す者はいないが、みな黙り込みこれからどうなるのだろうかと思案にふけった。
 カキバの話を最後まで聞いて、完全に納得した訳ではないものの、やはり北の地へ移り住むことが正しい選択なのだと、コナは思い始めていた。ここで今まで通り一族で平和に暮らせたらどんなにいいだろう。でも、それはもう叶わぬことなのだと悟らざるを得なかった。
(ほんの少しでも活路があれば諦めない。もう完全に駄目だと思ったらすっぱり諦める。それがいさぎよい生き方だ)
 また、ウルチの言葉が蘇える。
(そうだね。父さん……)
 コナは少しのあいだ目を閉じ、深呼吸して目を開いた。
「カキバには確かに悪いところもあったけど、それはアツ族を元に戻したい一心でやってしまったことだと思う。でも本当に一生懸命がんばったけど、それは叶わなかった。カキバはその想いをすっぱり諦めて、今度は違うやり方で皆で穏やかな暮らしをしたいのだと思う。だから俺たちもここでの暮らしを捨てて、生きるために前に進まなくちゃいけないんだよ。きっと」
 コナはその場を支配していた沈黙をそっと包み込むように言った。その主張は、皆の心の中に染みわたっていくように感じられた。
「そうだな。コナの言う通りだ。それぞれに言いたいことはあろうが、カキバの言うことが正しいように、わしにも思える。細かなところで話し合いは必要だが、思い切って移り住むことを考えてみてはどうだろう」
 周囲に集まった者たちを、シハンはくるりと見回した。
「よかった。そうして欲しい。タチュタ族が生き残るにはそれしかない」
 血の気が引いた真っ白な顔で、カキバが絞り出すように声を出した。その口元は、弱々しいものの満足気に微笑んでいる。
「ただし、わしは、ここから動かんよ。おそらく、年をとった者はみな、な」
 シハンはすぐ隣に座る自分と同じほど年を重ねた女の肩にそっと手を乗せた。シハンの妻だった。
「一族がばらばらになるなんて私は嫌だよ。移り住むのは仕方がないとしても、みんな一緒でなくちゃ」
 女衆の一人が口火を切ると、喧々諤々、しばし話が続いた。誰もが思いがけず湧いて出た話に、戸惑いおののいている。
「族長」
 しばらくして静かだが強い口調で、ナシリがみなの会話をさえぎった。ナシリが言いたいことは皆わかっていた。カキバの最後がいよいよ近いことが察せられたからだ。
「カキバ、助言をありがとう。どうなるかはわからないが、感謝する」
 カキバに近づき、耳元でシハンが静かに礼を述べた。
「せめてもの罪滅ぼしだ」
 そうカキバはささやいて、苦しそうに今度はかなり多くの血を吐いた。もう話すことも困難だった。今まで気力だけで話していたのだろう。
「我々は失礼しよう。仲間と過ごすがよかろう」
 シハンがアツ族の者たちだけを残して去ろうと、皆を促す。しかしカキバがそれを止める。
「そこにいてくれ。コナとヤプカに話がしたい」
 うつろな目でカキバはコナとヤプカを探した。もうあまり目も見えていなようだ。
 コナとヤプカはカキバのそばにそっと駆け寄った。コナの胸は悲しみで張り裂けそうだった。
「ヤプカ、そこにいるのか?」
「ここにいるよ」
 ヤプカはカキバの手を取って両手で握った。泣き声こそ出さないものの、ヤプカの目は既に真っ赤だった。
「ごめんなさい。私のせいでこんなことに……」
 ヤプカはコナほど長い間、カキバと接してはいない。にも関わらず、カキバはデムシンからヤプカを助けるために命を捧げたのだ。どうしてそこまで献身的に助けてくれたのかわからなかったが、命を掛けたという事実は、ヤプカを申しわけない気持ちにさせるには十分だった。
「お前に謝りたいことがある」
 唐突にカキバはささやいた。声は小さく今にも消えてなくなりそうだ。
「何?」
 ヤプカとコナは一言も聞き逃すまいと、カキバの口元に耳を寄せた。血の臭いが胸に入りこんでくる。
「俺がここに来た時、女のお前を連れて行ったのには訳がある」
「……」
 カキバが何を言おうとしているのか、コナにはわからなかった。もちろんヤプカにもわからないようで、次の言葉を黙って待っている。
「俺の弟、イヤイケレに、お前が似ていたからなのだ」
「お、弟?」
 ヤプカは、思ってもいないカキバの言葉に驚いた様子で聞き返した。
「そうだ。俺には五つ下の弟がいた。アツ族から徴兵された時に生き別れになった。その数年後に、まだフシ族にアツの集落が取られる前に、一度だけ戻ったことがあったが、その時にはもうあいつ、イヤイケレは飢えと病で死んでしまっていた。女のお前には失礼だが、お前はイヤイケレに似ている。だから、あの時ついお前を男だと思ってしまったようだ」
 力を振り絞るようにカキバは途切れ途切れに語った。
「ヤプカは男っぽいから、間違えても仕方がないと思うよ」
 コナは目に涙を浮かべながら、和ませようと冗談を言った。カキバの死を悲しみだけ終わらせたくはない。
 最初コナが何を言っているかわからないようだったが、意図を理解して、カキバはうっすらと笑った。
「それで……、ここに置いて行ったら、あいつと同じようにお前が死んでしまうような気がして、連れて行くことにしたんだ」
「だから私のことをあんなに……」
 見る見るうちにヤプカの目には涙が浮かび、あふれこぼれ落ちた。両手で顔を覆い、はばからず泣いた。
 カキバは気だるそうな緩慢な動きで己の首元に手を伸ばした。片時も離さなかった鹿角の首飾りを、外そうとしていると察したコナが、そっと手助けする。
「ヤプカ。これを受け取ってくれ、弟が作って俺にくれた物だ。お前に持っていて欲しい……。迷惑か?」
 ヤプカはおもむろに顔を上げ、差し出された首飾りを見つめた。ちょっとのあいだ戸惑うように黙り込んでから、やがて無理に笑顔を作って首を横に大きく振り、静かにそれを受け取り強く握りしめた。思いのこもった品物を受け取るには相応の覚悟が必要なのだろう。コナにもその気持ちがわかる気がした。
「すまぬ……、俺と弟の分も、生きてくれ。俺がこうなったことも気に病むことはない。お前を助けることが出来て、救えなかった弟をやっと救えたような心地がする。本当にありがとう。それにな、本当のことを言えば、お前を崩れ水から助けるとき、一瞬迷ったんだ。あの時お前だけ突き飛ばしていれば、お前は溺れかけずに済んだはずだ。でも、な。一瞬、俺も生きたい、生きたいって思って、二人で生き残る方に賭けちまった。結局はこうなってしまったが、出来るものならお前たちと新しい大地で生きてみたかった……。怖い思いをさせてしまってすまなかったな」
 カキバの言葉に、ヤプカはこらえきれずに再び大声で泣いた。小さな子どものように苦しげに何度も細かく息を吸う。しゃべることが出来ず、ただ何度もうなずいた。
「ルスイペ。いるか?」
 カキバはほとんど聞こえないほどの声でささやいた。
 ルスイペは顔を上げ、カキバの足元から顔のそばににじり寄って肩にそっと触れた。
「ここにいるよ。何?」
「親父さんを助けられなくてすまなかったな。許してくれ」
 カキバの言葉にルスイペは何度もうなずいて、その場に泣き崩れた。
「お前は穏やかに、タチュタ族と共に生きろ」
「わかった。心配しないで」
 震える声で、ルスイペは答えた。
 カキバの胸の内の悲しみに触れ、一同は彼の優しさを理解することが出来た。しばし、鼻をすする音だけが聞こえ、誰も口をきけなかった。
 沈黙を裂いたのは、コナだった。
「ひとつ聞かせて。なぜヒボリ族から抜け出す気になったんだ? 一時に色々な条件がそろったのは確かだと思うけど、何だかそれだけじゃ物足りないよ」
 涙を必死に抑えながら、コナは聞いた。それだけは、どうしても聞いておきたかった。
「そうだな。俺が迷いを吹っ切ることができたのは、コナ、お前の存在があったからだ」
 カキバの声はさらに小さくなり、聞き取るのがやっとだった。
「俺の存在?」
 コナは思わず問い返した。
「お前は、アツ族という我らの名に聞き覚えはないか?」
「何って、カキバが生まれ育った氏族だろう?」
 カキバは、今さら何を言うのだろう。もうまともに考えることが出来ないのだろうか。
「ふふ、それは間違いない。やはりお前たち若い者は知らされていないようだ。大人たちはわかっていると思うがな」
 カキバは痛々しく少し微笑んだ。
「知らされていない? 何を?」
 コナとヤプカはカキバとシハンを交互に見た。シハンは黙ったままで何も言わない。
「我らは昔、アツ族ではなく、アチュ族と呼ばれていたのだ」
「ん? えっ!」
「まさか」
 コナとヤプカは驚いた。アチュ族。それはチャルペの《語り》に伝わる住処を横取りしようと来訪した使者の一族の名だったはず。それがカキバたちアツ族の先祖だったのだ。

 ある日 カノベの地に使者が来た。
 使者は 我がアチュ族の住まう地は獣が減り 食べ物が不足していると言った。
 だから カノベの地をよこせと迫った。
 チャルペは それは出来ないと断った。
 しかしその代わりに やじりの作り方と 優れた狩りの仕方を教えた。
 アチュ族の使者はとても喜び 自分の生まれた地へ帰っていった。
 こうしてカノベの地の平和は守られた。

「気が付いたか。お前たちの祖先のチャルペは、狩りの方法とやじりの作り方を教えてくれた偉大なる友人だ。タチュタ族とアツ族はずっと昔からつながりが深いのだ。我らの《語り》ではその後兄弟族の契りを交わしたという。ただお互いに疫病が蔓延したこともあってある時からタチュタ族からの使者が来なくなり、疎遠になってしまっていたがな。そのことが引っかかっていて、大人たちは若い者に話しづらかったのではないかな」
 大人たちはばつが悪そうに下を向いたり視線を逸らしたりした。
「知らなかったよ。そんなことがあったなんて……」
 コナは驚くほかなかった。
「だから俺たち一族にも、タチュタ族ほどではないが、チャルペの精霊が宿っている。お前の片手が不自由だと知った時は、まるでチャルペのようだとも思ったよ」
 チャルペの時代から長い時を経て交流もすっかりなくなり、教えはかなり薄まってしまったが、アツ族にもタチュタ族のそれとは違うがチャルペの教えの一片が残り、《語り》がカキバまで伝わっていた。皮肉なことに、本家のタチュタ族からは欠落しかかったチャルペが片手であることや、その後兄弟族になったことなどがアツ族にはきちんと伝わっていたようだ。
「チャルペの教えを忠実に守って来たタチュタ族、特にお前の考え方や行動を見ているうちに、俺の心が動いてしまったのは確かだ。いや、ここに兵を集めに来たとき、そしてお前が現れた時から、俺は何かが起こる期待をしていたのかもしれない。砦で変わり果てた故郷の姿を見た後、弟のことや、俺が連れてこられた時のこと、多くの者を殺したり、殺されそうになったりしたこと、そんなことをいろいろと考えた。俺は一体何がしたかったのかと、思い悩んだよ。ヒボリ族を出たのは、そうして出した結論だ」
 呼吸が苦しいのか、カキバはしばらく静かに息を整えるように黙った。
「しかし、残念だが、ばらばらになって、アツ族はもう滅んだも同じだ。多くの罪を背負った我々だが、いずれ、もしよければ、タチュタ族として受け入れてもらえないかだろうか……。むろん、断られても仕方がないが」
「お主の仲間については、本人たちが望むようにするから心配はいらぬ。ここに暮らすも、我々と北の地に行くも、ヒボリ族に戻るもな」
 かろうじてカキバの小さな声を聞き取ったようで、シハンはカキバに聞こえるように、大きな声でゆっくりと言った。
 しばらくその言葉を噛みしめ、カキバは目に涙を浮かべ、シハンを見つめた。
「もう苦しむことはない。言い残したことがないのなら、楽にしてやろう。どうする?」
 シハンは悲しみをこらえ、カキバを見つめ返した。ひと思いに命を絶ってあげる方がよいと思ったようだ。
「大丈夫だ。もうそれほど苦しくはない。迷惑でなければ、もうしばらく、こうしていたい」
 アツ族の仲間がカキバの周りを取り囲み、ルスイペもその足元に膝間づいた。カキバは一緒に生きてきたアツ族の仲間たちをひとりひとり見つめ、小さくその名をつぶやいた。長年連れ添ったアツ族の仲間に、もう言葉はいらなかった。
 あちこちから、嗚咽だけが大きく響いた。
 不意にカキバが「コナ」と呼んだ。慌ててコナが耳を口元に寄せる。
「何? カキバ……」
 コナの声は震え、その頬には涙が伝っていた。
「コナ、約束してくれ」
 カキバの顔からさらに血の気が引いていく。最期の時がもうそこまで迫っていた。
「何があっても、人を殺めては駄目だ。俺は何人もの人を殺した。そのことを悔やまぬ夜はなかった。お前までその苦しみを背負うことはない。約束しろ」
 カキバは死が目前に迫った者とは思えぬ強い眼差しで、一瞬コナを凝視した。
「でも、相手を殺さなければどうしようもない時だってあるじゃないか。死にたくなければ戦えと言ったのはカキバじゃないか……」
 アツ砦での戦いで、コナを助けるためにカキバが人を殺した時の恐ろしい形相を、なかなか忘れられそうにない。
「それでもやはり駄目だ。殺さないで済む方法をどうにか考えるんだ。偉大なチャルペの様にな。それがお前の役目だ。わかったな?」
 囁くように小さくとも、その言葉には、有無を言わせぬ強引さがあった。
「わかったよ。約束する」
 コナは乱暴に涙をぬぐい、戸惑いながらも真っ直ぐにカキバを見返した。
「よし、いい子だ。三人ともいい子だ」
 カキバの表情は苦しみから解放され、とても穏やかだった。

 やがて視線は、空中の一点を見つめたまま動かなくなった。

「カキバ……」
 アツ族の仲間のひとりが必死で涙をこらえながら、震える手でカキバの両目を閉じてやった。そして静かに嗚咽を上げ、すすり泣いた。コナもヤプカもその場にいたタチュタ族の者たちも、ルスイペもアツ族の者たちも、みな声を合わせるように泣き、ずっとずっと長いあいだ止まることはなかった。

 翌日、カキバとクシャ、それからボツの葬儀が行われた。タチュタ族を救った男たちに最大限の礼を込めた厳かな儀式となった。カキバもクシャも、もちろんボツも、タチュタ族の《語り》に残る、英雄の一人になるに違いなかった。
 葬儀が終わった後、何度も話し合い、正式に移住することで全員の考えが一致した。
 最後まで議論されたのは、残されるシハンたち年寄りに申し訳ないという意見だった。見守り役を残し最後の一人まで全員を見取ってから、後で合流することで決着がついた。
 何年かして、見守り役が移住した地にたどり着けるように、移動先が決まったら、誰かが戻ってきて、その場所を知らせることにした。大変な手間ではあったが、タチュタ族らしい考え方だった。
 移動するのは、十九名。足の悪いシハンを始め、年を重ねた六名はここに残ることになった。その見守り役として比較的若い三名が選ばれた。しばらくはヒボリ族が来ることもないと思われる。もし来たとしても、年寄りしかいないとわかれば、すんなり帰っていくかもしれない。ヒボリ族の出方によっては、今の集落から少し離れた場所で隠れるように生活することも視野に入れている。
 シハンが残る以上、タチュタ族の新しい族長を決めなくてはならない。新しい族長は、誰の反対もなくナシリとなった。
 アツ族の者たちも、タチュタ族の移住に同行することが決まった。カキバの遺志を継ぐことが彼らの望みだった。

 未知の地への旅立ちを翌日に控え、コナとヤプカは集落にほど近い、小さなころによく二人で遊んだ場所へ行った。
 そこには、樹齢百年とも云われるたぶの木の大木が生えている。
「昔、ここで弓の腕を競い合ったっけ」
 コナは矢を射る真似をしながら、たぶの木に歩み寄った。コナの両目じりの脇には、成人を示す刺青が新たに刻まれている。旅立ちを前に、成人の儀式を済ませたのだ。ヤプカには、急激に大人になったコナが眩しかった。
「そう、そこのたぶの木にどっちが早く当てられるかってね」
 ヤプカは懐かしそうに幹に触れた。胸元でカキバにもらった鹿角の首飾りが揺れる。
「深く刺さって取れなくなったタチュタ(やじり)があったな」
「まだあるかな……」
 ヤプカは記憶をたどって、やじりを探した。胸程の高さに小さな突起がある。
「ああ、まだ残っている! 子供のころとはいえ、ずいぶんたぶの木に申し訳ないことをしたものね!」
 少し興奮して、ヤプカは半ば樹皮に埋まったやじりに愛おしそうに触れた。
「そうだね。あの頃はどう頑張っても引き抜けなかったけど、今なら取れるかもな」
 コナは、やじりに手を伸ばして引っこ抜こうとした。
「待って、そのままにしておきましょうよ。私たちがここで生きた証を何か残しておきたい」
 ヤプカはコナの手に自分の手を重ね、そっと木から離した。
「わかった。そうだね」
 コナは素直に手をおろした。
「これから私たちはどこに向かうの?」
 唐突に、ヤプカは切り出した。
「言っただろう? 北東に向かうって」
 少し驚いたように、コナはヤプカに向き直った。
「そうね。それはわかっている。私が聞きたいのは、これからどうなるのかってことね。多分」
 ヤプカは子供が初めて見た虫に触れる時のように、不安な気持ちになった。
「ああ、正直どうなるのか、俺にもよくわからないよ。きっとナシリにも、カキバが生きていたとしても、わからないと思う」
「ええ、きっと、そうよね」
 ヤプカはにわかに吹いた強い風から体を守るように、己の腕で体を包んだ。
「でもここに残って、また戦に巻き込まれて、殺したり、殺されたりするのはまっぴらごめんだよ」
 コナは、カキバと最後に交わした約束を思い出したようだ。
「それはよくわかる。でもご先祖様が逃げてきた厳しい北の大地で、私たちは生きていけるかしら? もしかしたら、また誰かに襲われるかもしれないし」
 なおさら不安が増して、泣き出しそうな顔でヤプカはつぶやいた。
「ヤプカ、何度も言うけど、それはわからない。どうなるかは、精霊が決めることだよ。俺たちは、諦めないで行けるところまでいくだけだ」
 ヤプカは隣に立つコナの横顔にじっと見入った。その横顔にウルチとカキバ、そしてチャルペの影が重なって見えた。それは力強い男の顔だった。

野風 ―鏃の精霊―

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野風 ―鏃の精霊―

「野風になれ!」父の言葉を胸に、縄文と弥生の狭間を生き抜く少年の物語。 飢餓・愛する者の死・他部族との争い。偉大な祖先チャルペとは? そして野風とは? 人は争うことなく生きていけないのか? 苦難の末、少年が出した答えとは!?

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-05-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序文
  2. 手負いの獣
  3. 死の国送り
  4. たたられた父と子
  5. チャルペの教え
  6. ヤプカの決意
  7. 野風
  8. ヒボリ族
  9. 奇襲
  10. 追跡者
  11. アツ砦の戦い
  12. 嵐の逃走
  13. タチュタ族の決断