紙の厚さのリア充
§ 一 §
「はい新居くん、お茶」
「す、すみません」
定時であがるはずのシオセさんが、残業に付き合ってくれている。明日提出しなければならない資料が、僕のせいで完成していないからだ。
「気にしなくていいよ。これが終わらないと、私も部長に叱られるし」
シオセさんはイヤな顔ひとつせず、僕の机に湯のみを置いてくれた。手伝ってもらう身のくせに、逆にこんな気づかいをうけるなんて。
「ありがとう、ござ、い……ま…………」
お礼の言葉すら語尾が口の中で溶けてしまう。情けない。あらゆる意味で自己嫌悪。
二人の頭上にだけ光る、オフィスフロアの蛍光灯。その下で背中合わせに座りながら、パチパチ、カチカチ、黙々と資料をまとめる。紙に書いた下書きをプレゼン用にデータ化するだけだから、ほとんど単純作業みたいなものだが、僕は期日までに終わらせることができなかった。
一方のシオセさんはどこまでも果てしなく優しい。頭を使わなくていいぶん会話ができるし、こういう作業の時間も好きだ、と慰めともとれる言葉を口にしながら、ものすごいスピードで紙の資料をデータ化していく。彼女の優しさが胸に痛く、自分との能力の差がその痛点にいっそう圧をかける。
マウスを操作しながらモニターに目を落としたままのシオセさんが、唐突に僕の名前を呼んだ。
「新居くん」
「は、はい」
「なあに、そんなに緊張しないでよ」
僕の背中から、シオセさんが髪をかきあげた空気のゆらぎが漂ってくる。香水かシャンプーか判別がつかないが、シオセさんらしい香りが鼻をくすぐって少し胸が高鳴る。
「退屈だから、何か話してくれない?」
「話ですか」
「うん。黙ってると眠くなっちゃう」
唐突な申し出に、作業する手が止まる。社内でまったく目立たず仕事もできない僕が、どんな話をしても面白くなりようがないのに。しかも話相手は僕の理想の上司であり、理想の女性――あの、シオセさんだ。自分の話など、間違ってもできない。
「それじゃ、不躾なこと聞いてもいいですか」
「ん、なに」
実のところ、彼女と二人きりで話すのは今夜が初めてだ。胸が詰まったような感覚。告白のように緊張する喉。
「えっと。シオセさんの、趣味、とか……」
「ええっ!?」
と高い声で驚いたシオセさんは、お見合いみたい、と吹き出した。
「趣味かあ。この会社に来て初めて聞かれたかも」
シオセさんは二年前に中途採用で入社した。初対面の印象は優しそうな女性、それもとびきり僕の好みのたたずまい。しばらくすると、物腰が柔らかく周囲を立てることを忘れない彼女の行くところ、どこも良い評判が立つようになり、あっという間に僕なんかには手の届かない存在になった。現在、彼女を中心とした新規プロジェクトが立ちあがっており、そのチームの末端に僕が影薄くぶらさがっている。
「……そうなんですか。シオセさんていつも楽しそうにお話しているイメージでした」
「よく見てるじゃない」
どきっ。まさか、遠巻きにいつも眺めていたことに気づかれていたのか――。急ピッチで言い訳のリストアップを開始したが、しかし、その準備の成果を試す機会は訪れなかった。
「“楽しそう”にお話しているだけだよ。仕事に関係ない話はしないもん」
シオセさんが、伸びをしながら椅子の背もたれに体を預ける音がした。自分の緊張が早とちりで済んだ安堵はほんの一瞬で、逆に彼女らしからぬ翳のかかった物言いは、あっという間に僕の胸を“意外”という名の絵の具で染色した。僕は、彼女を盗み見るように振り返る。ピンと伸びた背中の向こうで、どんな表情をしているのだろう。
シオセさんはまたキーボードを叩き始めた。
「趣味はね、料理」
「えっ!?」
「どうして驚くのよ。そんなに似合わない?」
「あ、いえそんな……」
正直、料理が“趣味”の女の人は苦手だ。以前付き合った女性がそのタイプで、彼女に、家事で料理はしたくない、と言われてぎょっとした嫌な思い出がある。
「冗談だって。料理なんてめったにしないよ」
僕は、自分でもよくわからないくらい、ホッとした。しかしそれもつかの間、シオセさんはもっと大きな爆弾を投げつけてきた。
「部長にこのあいだ、お見合いを勧められてさ」
「はぁ……、えっ、そうなんですか?」
憧れの人というだけなのに、お見合いの先にある結末を想像して血の気が引く。次いでおこがましさに気づいて顔が赤くなった。瞬時に変化した自分の顔面はなかなかに器用だ、と両手に汗をかきつつ変なところで感心してしまう。その原因を作ったシオセさんは、作業を止めない。
「あれ、思ったよりリアクションが薄いね。もっと驚いてよ」
シオセさんは、手際良くグラフの画像を縮小して、見栄えのよい場所に配置している。
「いえ、驚いてます、かなり」
と僕は体ごとシオセさんのほうに向く。
「そう? お見合いって、会う前に履歴書みたいなものを書いてお互いに交換するんだよ。知ってた?」
いえ、と答えた僕は、シオセさんのそれなら、ぜひとも読んでみたい、と胸の底で思った。
「正直、まったく気のりしなくてさ。友だちに『趣味の欄になんて書いたら嫌われるかな』って相談したら、『飲酒って書け』って。面白いからそう書いてみたんだ」
「シオセさん、飲めましたっけ」
「ううん、ドのつく下戸」
「ですよね。――で、あの、結果は」
「相手が戦意喪失したらしい。部長にそれとなく慰められたよ」
「……ですよね」
「あら、新居くんもそんな反応なの? 男ってめんどくさいなぁ」
「あ……すみません」
キュッ、と心が縮みあがる。何気ない一言なのはわかっているのに、真に受ける悲しさ。いや、きっと違う。憧れの想い人で、しかも今までまったく手の届かない距離にいた人が、こうも親しげに話しかけてくれているせいで、どうせ相手にされていない、から、できれば嫌われたくない、に関係のステージが上がったのだ。
恥ずかしい勘違いを警戒する声と、未知の楽園に踏み込んだ興奮。心の中で壮絶な綱引きを繰り広げている最中だからこそ、シオセさんの口から男を否定する言葉を聞いて、息が詰まる。
「あはは、ごめんごめん、そんなつもりじゃ……」
笑いながら肩越しに振り返ったシオセさんは、しょげた僕を見て笑いを納めた。椅子を回して心配そうに、どうしたの、と首をかしげる。落ちる長い髪を指で抑えながら、僕を映す透き通った瞳で見つめてくる。僕は、大丈夫です、と応える以外の選択肢をすべて奪われてしまった。
彼女の目に微笑みが宿った次の瞬間、上司の顔になった。
「ほらほら、手を動かしてよ」
「はい、すみません」
ゆるめたネクタイを、さらに指で押し広げながら、モニターに向かう。
しばらく、フロアにまた、作業音のみが小さく響いた。
「シオセさん」
僕は意を決して話しかけた。
「ん」
「失礼な話、していいですか」
遠慮がちな前置きを入れた。これを聞いていいのか迷う時間が欲しかった。
「なに」
「今日の、片山主任と佐世保さんの立ち話――聞こえてましたか」
シオセさんの作業する手が止まった。僕は、やはり聞いてはいけなかったかと少し後悔し、極度に緊張する。
「……まいったなぁ、見られてたんだ」
苦笑いの声。僕は溢れる正義感を抑えつけ、冷静さを保つ努力をした。
「あれは……ひどいと思います」
「うん、立ち聞きは失礼だよね。ごめん」
熱い衝動が僕の心の制御弁を突きぬいた。
「違います!」
僕は自分でも慌てるくらい強い口調で叫んでいた。シオセさんも驚いた様子で椅子を回す。その顔を見た瞬間、緊張の冷気が、正義感の残り火を吹き消しそうになる。
「主任も、佐世保さんも――ひどいです」
熱が冷気に僅差で勝ち、震えながらも言いきった。
「なに熱くなってるの」
彼女は驚いた顔のまま呆れたようにそう言うと
「……でも、ありがと」
ふんわりと微笑んだ。その笑顔に、頭頂部から首の根元まで、一気にカッと熱くなる。でも違う。僕は感謝されたかったんじゃない。そうじゃないんだ――。
今日の昼、給湯室でお茶を汲もうと廊下に出たとき、棘のある会話が喫煙所から聞こえてきた。
「シオセ、最近部長のお気に入りですね」
「権力にこびるのは女の常套手段だろ。尻でも軽く触らせときゃあのハゲだってそりゃあなびくさ」
「お堅いイメージありますしね、あいつ。そういう子が隙を見せると弱いからなぁ、特に中年は」
「オレだって弱いよ?」
「またまたぁ。イケイケのほうが好みのくせに。キャバ嬢、好きでしょ?」
「ははははっ、ま、シオセの賞味期限も切れかけだしな」
「うわっ、ひどっ。主任、口わるっ!」
シオセさんを下卑た笑いのネタにした二人は、部内でもトップクラスの出世頭。彼らの持つ独特の自信や傲岸さが苦手な僕は、何も言えず逃げるように給湯室に入ろうとした。そこには――。
電子ポットの給湯ボタンを押す手がちょっと震えている、シオセさんがいた。
「主任に、抗議できませんでした。弱くてすみません」
「抗議なんてやめときなさい。意味が無いし、新居くんの出世にも響くよ」
ずいぶん冷静に、しかも諭すような口調で言われる。
「出世なんて」
――この僕が。できるわけがない。
そう言ってうなだれたとき、ハッとするくらいきっぱりとした口調で、新居くん、と僕の名前をシオセさんが呼んだ。
「ちゃんと上を目指しなよ。仕事なんて、上からしたほうが楽しいに決まってるんだから」
僕なんかに出世の話をしてくれたのは、この会社でシオセさんが初めてだ。でも、その言葉の深いところから彼女の隠れた日々の努力を垣間見た気がする。
「……シオセさんは、そのためにいつも“楽しそう”なんですか」
聞いてすぐに後悔した。大人とは、聞いていいことと悪いことを判断することだ、と誰かが言ったが、今の質問は大人のするそれではなかったことに気づいたのだ。しかしシオセさんは、そんな僕の幼稚な質問を許すように笑った。
「気付いた? そうだよー。つまらない人につまらないこと言われたくないじゃない。私、これでも利己主義だからね。自分のために仕事してるの」
モニターに向かい直して仕事を続けるシオセさん。僕はそんなに簡単に気持ちを切り替えることができず、じっとその背中を見つめていた。作業を続けない僕を、シオセさんは叱らない。青臭い動揺を見透かしているんだと思う。
彼女の背中をどんな気持ちで眺めているのか、今ここにいる自分ですらわからない。ただ、血が胸の中で勢いよく暴れ渦巻くのを感じる。現状に満足しない心が、まだ空を知らない雛のように羽ばたきの練習を始めているようなのだ。
その思いは、ひとつの言葉となって僕の胸を満たし始めた。生まれてから二十数年間、こんな気持ちになったことは一度として無い。親に言われるがままに生き、周囲の望むがままに学び、社会の認めるがままに仕事についた僕という人間の歴史を、まるで将棋の駒のようにクルリと裏返してしまうほどの熱量を持った言葉だ。
――ああそうか、わかった。僕は、飛びたいんだ!
急に湧きおこる衝動的な成長願望。生まれ変わりのホルモンが瞬時に全身を駆け巡ったとしか思えない。誰もいなくなった巣の中でうじうじとしていた雛が、空の美しさの一端を垣間見た瞬間に、憧れで心をいっぱいに満たしながら幼い羽を広げ始めた。
ああ。不思議と、悪くない、この気持ち。飛びます、と宣言をする相手は、この人しかいない。
笑われてもいい。叱られてもいい。とにかく、この人しかいない。
「シオセさん」
「ん?」
「おこがましいこと、言ってもいいですか」
「なに?」
殻をプチッと破った気がした。厳しい外気にさらされるために、顔を出す。
「僕がすごい勢いで出世したら……」
時間が重い。喉が渇く。飛ぶんだろう? 言いきれ。最後まで――っ!
「僕の下でも働いてくれますか」
秒針が三回、カチ、カチ、カチと音を立てるくらいの沈黙。
「いいよ」
あっけないほど軽快に承諾した彼女。僕の周辺で、また時が動き出した。
でもその前に、お前ホントに出世できるのかとか、今からがんばるってどれだけ頭が悪いんだとか、いろいろツッコミどころがあると思うんですシオセさん――。自分から宣言しておきながら、全肯定されると急に不安になる。
「そのときは、全力でサポートしちゃうぜ。でもその前に」
と彼女は立ちあがる。
「資料、早くまとめなよ。私の分は共有フォルダに入れておいたから」
「あっ、は、はい! すみません、しゃべってばっかりで」
「何か話してってお願いしたの、私だしね。じゃ、先に帰る」
「はい、ありがとうございました、お疲れさまでした!」
「お疲れさま。がんばってね」
感動的でかつ官能的な映画を観た後のような、四肢が震える感情。
生まれて初めてかもしれない。
「この人のために」
という気持ちが芽生えたのは。
§ 二 §
さっそうと会社を出た私は、いつも通りの歩幅でカツカツと暗い夜道を急ぐ。
駅のホームまでは普段通りだった。だけど、電車の中で吊革につかまったら、なぜか身体に力が入らない。ああ、実はかなりヘコんでいるんだな、私。一生懸命に仕事をして、実力で認められたとしても、周囲はそういう風にしか見てくれないんだなぁ。片山さんも、佐世保さんも、私に告白してくれた時は、もっと純な目をしていた気がするなぁ。告白されて、私、嬉しかった……んだけど……なぁ。
ちょっと目にゴミが入ったと、自分で自分に言い訳をする。暗闇が流れる車窓に、くっきりと映る自分の姿を見ながら、大きなため息をひとつ。
「会社、やめちゃおうかな……」
今まで、一度も口にしたことのなかったこのセリフを、思わず吐いてしまった。でも、自宅から近い、給料がよい、新宿に本社がある、と、自分の都合で選んだ会社。できれば辞めたくはない。それに――。
うん。よし、今日は――!
私を癒す空間に帰れば、きっと持ち直す。だから、もうちょっと我慢。
コンビニで夕飯を買った私は、築40年は経つおんぼろマンションの一室に入る。2LDKのうち、六畳の間が寝室。でも私は他の部屋には見向きもせず、四畳半の間に直接入る。壁にある電気のスイッチを入れると、そこには――。
大量のアニメのポスターが壁を飾り、本棚には所せましとフィギュア、DVDやBlu-rayのボックス、同人誌がひしめきあう。リビングのテレビよりも豪華な大型ハイビジョンテレビに、容量2テラのハードディスクレコーダー。5.1チャンネルのドルビーサラウンドシステムは位置を計算して設置してある。脇には、どんなに緻密な3DのCGもグリグリ動く高性能グラフィックボードを搭載したデスクトップタワーPC。携帯ゲームは全機種揃い、個人用のガラケー、スマホも充電満タン。
そう――ここは、私の城!!
キャラクターの全身が描かれた抱き枕に
「ただいまぁ~ルシファーたん!」
と顔をうずめる――。
一日の最後の、至福のとき。小さくて、でもフカフカのひとり掛けソファに腰をおろし、ルシファー枕を抱きしめながらPCを起動。同時に、テレビとレコーダーも電源を入れる。PCの起動が完了するまでに、ゴロゴロできる部屋着に着替える。スーツはさすがにハンガーにかけたが、シャツもストッキングも脱ぎ捨てた。この部屋にいるときの私は、とことんだらしなくていい。これから、録画がたまっているアニメを見ながら、フォロワーさんと話すんだ! 最高に気持ちが緩む瞬間。
ただいまぁヽ(´□`;)ノ ふえ~疲れた。
イヤなこともあったけどのりきりまひた。
ちょっとつぶやいただけで、すぐに返事がくる。
@なましお |´・ω・`)ノ~オカエリナサイ♪
どしたどした~なましおちゃん(´・ω・`)
@なましお 元気だそうぜ~!
今日は新撰乱記の話題でTL埋まってて天国ダヨ☆O(≧∇≦)O
会社の誰にも言えない私の趣味。それは、料理でも、お酒でもない。これ。この世界。すべて。
どうカテゴリーすればいいのか分からないから、オタクというくくりでいいんだと思う。他に最適の単語が見つからないから仕方が無い。アキバ系っていうと男性のイメージだし、私の場合、池袋のほうが七対三くらいの割合で出没頻度が高い。新宿にある会社を選んだのは、どちらにも電車一本で行けるから。オタク、と人から言われるとカチンとくるが、自分でなら言える。
「あはは、私、オタなんで」。
こんな簡単な一言を、一歩扉の外に出ると、もう言えない。ううん、この部屋を出ただけで、もう言えないのだ。プライドが邪魔している、とみる向きもあるだろう。でも、実はそうではない。この世界を守るために、外と内を区切っている。ただ単に壊されたくない。私だけのユートピア。それだけ。だから、外では女子であることを守る。爪にも髪にも服にも気をつかう。それは絶対条件。
その分、反動もすごい。家に帰った私は純度百パーセントのオタクだ。
今日はあらぶるぜぇ~!嵐を呼んじゃうぜぇ~!
でも、そのまえにほかってくる(。・ω・。 )ノシ
っと。よし、シャワー浴びてくるか~、と立ちあがろうとしたとき。個人用の携帯がチカチカ光っているのが見えた。携帯ゲームのためにしか使っていない専用機だから、遊ぶとき以外はなかなか目にとまらない。あの光り方はどうやら、メールだ。
「なりあさんがあなたをフォローしました!」
久しぶりに見た、このメール。最近、決まった仲間と話してばかりいたせいか、新規のフォロワーさんが付かなかった。しかもどうやら、このメールが来たのはずいぶん前だ。メールをもらってから数週間経ってしまっている。つまりはフォローされてずいぶん放置していたってこと。あわててPCで確認してみる。
「ああもうっ、リムられてるかなぁ」
会社でどんなに陰口をたたかれても、ここまでは焦らないと思う。マウスの動作が、やけに鈍く感じた。
あっ――。いた。よかった。なりあさんは、長い間フォローし返さずにいた私を、フォローし続けてくれていた。
「あぶなーい。これからは、毎日携帯はチェックしよっと」
独り言を言いながら、フォローし返し、お礼と謝辞をダイレクトメールで送る。
「これでよし」
ちょっと安心して浴室に向かった。
深夜にまでわたり、好きなゲームとアニメの話をしまくった翌日は、さすがにまだ眠気の雲が脳の半分を支配していた。今日は特に大きな仕事もないし、新居くんが昨夜の資料をちゃんと完成させていれば、特に心配はない。
彼は自分の仕事を完遂したらしく、印刷し終えた資料が2部、きちんと私のデスクにそろえて置いてあった。ペラペラと流して確認し、問題ないと判断したので、部長に提出しようと席を立つ。でも、途中で思い直して、新居くんのデスクに足を向けた。
「おはよう、がんばったじゃない」
「あっ、シオセさん、おはようございます」
どうやら疲れが取れていないらしい新居くん。
「どした、元気ないね」
「ちょっと、眠くて」
「シャキッとして。ほら、おいで。一緒に部長に提出しよう」
「え、僕もですか」
ぼぉっとしている新居くんの耳元で、周囲に聞こえないように囁く。
「すごい勢いで出世するんでしょう。アピールしておきなよ」
「!!」
椅子を蹴り飛ばす勢いで立ちあがった新居くんは、しきりにネクタイの位置を直しはじめた。私は手に持っていた2部の資料を彼に手渡すと、先に部長のデスクに向かって歩く。まるで、カルガモの子のように、必死になって後を追ってくる新居くん。離れないよう、はぐれないよう。なるほど。年下がかわいいと思う心理って、こういうことか。
部長へのアピールは成功に終わり、新居くんはこのプロジェクトの重要なポジションにいることを認識させることができた。
「次のプロジェクトではリーダーをまかせてもらえるといいね」
自分たちのデスクに戻るさなか、後ろを歩く新居くんを励ます。
「ありがとうございます。あの。シオセさん」
「ん」
「勢いでものを言っていいですか」
部長室から出ても緊張が解けない新居くんは、ガチガチの声でそう言った。
「なに昨日から。その前振り多いね」
茶化すように笑いながら、私は新居くんのほうに振りかえる。
「すみません。小心者でして」
と苦笑いする新居くん。
「知ってる。で、なにかな?」
「あの、食事にお誘いしたいんです」
正直、ドキッとした。デートのお誘いは、それこそ本当に久しぶりだったから。でも、ここで慌てるとろくなことを口走らないのも経験上よく知っている。だから、笑顔は崩さずに。まずは態勢を整え直さないと。
「あら、おごってくれるの?」
「もちろんです。夜までお手伝いくださったお礼と、あと」
「あと?」
「――尊敬してます。理由は、それだけです」
トクン、トクン、トクン……。心拍があがっているのがわかる。きっと、顔が赤くなっている、私。
「あ、いや、それだけじゃないけど……。いえ、今はそれだけです」
ドクンッ! 心臓が跳ねる。何、このかわいいシチュエーション。超萌えるんですけど――。はっ、いけない。眠気のせいか脳が趣味にシフトしている。ここでは私は“シオセ”。スタンスを崩すな。まずは、赤面したことを認めろ。
「て、照れるって」
そして、余裕のある笑顔を崩すな。
「ありがとう。喜んでおうけするよ」
「ま、マジですか!?」
一気に体の力を抜いた新居くんは
「はぁ~、勢いって大切ですね」
と目をつむりながら大きく息を吐いた。
「今週は金曜以外、来週ならいつでもいいよ。あとで候補日教えてね」
「は、はいっ!」
昨日のイヤなことなんて全部忘れちゃった。アハ、なんて単純なんだ、人生。
「あれぇ」
やり取りを聞いていたらしい片山主任が声をかけてきた。
「若い男のお誘いは受けちゃうんだね、シオセくん。プライベートなお誘いはほとんどお断りしていた君が、珍しいこともあるもんだ」
昨日のこともあってか、新居くんがちょっとムッとする。ああもう面倒だな。
「もしかして、年下好み?」
しつこく絡んでくる片山さん。でもうまく逃げなきゃ。
「片山さんも、好みでしたよ」
「えっ」
思わぬ反撃だったのか、体をのけぞらせる片山さん。これ以上たたみかけることも、やりこめることもできるけど、“シオセ”はそういうことはしない。
「失礼します」
と席に戻って仕事の続きをする。
その後片山さんもバツが悪いのか、特に絡んでくることもなかった。新居くんとは後日スケジュールを調整することを約束し、この日は定時に退社することにした。
焦った~(;´艸`) 今日告られちったよ~。
お食事のお誘いだけだけどな~ε-(;-ω-`A)
@なましお おいおいマジか!Σ(゚Д゚ノ)ノ
何の自慢だコノヤロー( `Д´ )ノ☆バンバンバン
@なましお 食事のお誘いくらいで焦るなヨwwww
かわゆすぎるなましおちゃんwwwでもイイナー、デート
家に帰って真っ先に報告。ツッこんでほしいからこそ、あえて自慢のように書く。思ったとおりの反応があるとやっぱり嬉しい。
そんななか、見慣れない人のコメントと見慣れない単語がタイムラインに流れた。その瞬間、おや、と思考がストップした。
@なましお リア充うらやましすヽ|・∀・|ノ
フォローバックありがとうございました~!
これからもよろしくです~ヾ(*´∀`*)ノ
なりあ、さん? 昨日フォローし返した人だ。そういえば、どんな人か知らずにフォローしていたな。過去のツイートを見てみると、ご飯の写真とか、景色とか、写真+一言のツイートが多いみたい。1日3ポスト程度で、フォロー数もフォロワー数もそこまで多くなく、誰かの発言に対するリプライの数もそこそこ。本気でどっぷり楽しんでいるといった感じでは、無いみたいだ。
@なりあ こちらこそ返信が遅れてすみません!
ところで、リア充ってなんぞなもし。
@なましお リアル生活が充実している人のこと。
ツイート拝見してると、仕事に恋に趣味に、充実してそう(^-^)
うらやましス *^ー゚)b
そう見えるのだろうか。私はどうにも釈然としなかった。
@なりあ そう見えるかなぁ・・・。
肝心のオタ趣味がヒッキーだよ、おれ。
趣味の面で、私は完全に引きこもりだ。この四畳半のスペースから外にオタク趣味を持ち出したことは一度も無い。実際、オフ会に誘われたことは何度もあったが当然すべて不参加。仕事が忙しかったのもあるがそれは言い訳で、実は怖かったのだ。――何に? 正直、自分でもわからない。とにかく、怖い。
そのくせ、タイムラインでオフ会の話題が盛り上がり出すと、猛烈に羨ましくて、妬ましくて、淋しくなる。身勝手な感情だが、本音なのだから仕方が無い。
ちょうどその時、タイムラインに「オフ会やるよ~」という投稿が流れた。その内容を見て、私の身体は、硬直した。
「え……うそ……」
私が女性向けゲームに熱中するようになった、きっかけの作品。そのファンが一堂に集うというのだ。
“日ごろの妄想を、お酒と一緒に弾けさせましょう~♪”
「どうしよう、行きたい。でも」
まだ殻を破れない自分がいることに気づく。ひとまず、本音をつぶやくことにした。
いいな、いいな、いいな、いいな、いいな。
オフ会いいな。行けるかな。また無理かな。
本当は、「また」ではない。「まだ」。小心者なのだ、要するに――。
§ 三 §
翌日以降、週末まで激務続きだった。
「新居くん。この調子だと、さ」
「……はい、そうですね」
同じチームのメンバーだから当然だが、
「食事は、延期ですね」
ということになる。
「そうね。残念だけど」
「また、チャンスください」
あれ、別の候補日を挙げてくれないのかな。ちょっと寂しく思う。でも、こんなときに私からリードして、じゃ、いつにしようか、なんて聞くのもおかしな話だ。誘った本人がまたにしようと言っているのだから、従う以外に選択肢は無い。それに、私も新居くんも、体力の限界に近かった。これで週末に食事したら、メインディッシュの前にテーブルにつっぷすか、お互い手も握らずに本来の意味での「寝る目的」でホテルで爆睡するかのどちらかだ。
でも、一言釘は刺しておきたい。
「人生にチャンスは何度も来ないんだぞ」
新居くんが、少し寂しそうな顔をした。可哀想なことを言ったかな。
その後も、帰宅後ぐったりしたまま直接六畳間の寝室に倒れ込む日々。四畳半のハードディスクレコーダーには未消化のアニメがどんどん積み上がっていく。これはこれで、仕事には無いストレスを感じてしまうのがオタの悲しい習性だ。
さすがに金曜日の夜まで午前様だったのは肉体的にもこたえた。だが
「土日はだらだらする。土日は、だらだら、する」
と呪文のように幾度も唱えて自分を奮い立たせ、乗り切ることができたのだった。
土曜日。目が覚めると昼だった。まぶたが重くて開かない。眠いのではない。疲れがとれないのだ。パジャマにカーディガンを羽織った格好で、たまった洗濯物を一気に洗い、すべての部屋に掃除機をかける。体を動かしていればだんだん疲れが取れてくるから、とにかく無理にでも家事をする。毎日コンビニ弁当ばかりだったので、今日くらいはと台所に立つ。
「趣味は料理、か。確かに怖いかもな~」
新居くんのイヤそうな声を思い出して、ちょっと頬を緩ませながらチーズとハムのホットサンドを作る。コーヒーメーカーから漂う香りと、コポコポという音が心地いい。ホットサンドとヨーグルト、それにコーヒーカップとメーカーのポットをトレーに載せて、いそいそと四畳半へ。
いつも思うが、私が四畳半の部屋に向かうときは、いそいそ、という表現がしっくりくる。田舎から上京してはや5年。それなりのお給料が出るようになってから真っ先に実行に移したのは引越しだった。目的は、自分の趣味専用の部屋を持つこと。その中に入るときはリアルのしがらみを全部忘れられるように、完全に趣味の巣にしたかった。閉鎖的でプライベートな空間がほとんどなかった実家を、勇んで離れた最大の理由がこれだ。だから、とにかく古くてもボロくてもいいので、安くて広いマンションに住みたかったのだ。
録画の溜まったアニメを消化するため、いつものソファに座ろうとしたとき、携帯にダイレクトメッセージの告知がきていることに気づく。なりあからだった。どうやら私が、オフ会に行きたいとつぶやいた夜に送ってきたものらしい。
→なましおさん
オフ会ってどんな雰囲気なんですか?
行くの勇気いりません?
どんな人が来るのかわからないから怖くて、
まだ未経験なんです
指先がちょっと震えた。私と同じ思いを抱いて、一歩が踏み出せない人がここにいる。
初めてなりあに興味を持ち、もう一度過去のつぶやきを見てみる。しかし、相変わらず天気だったり、ご飯の写真だったり、特に変わったつぶやきは無い。オフ会なんていうものに参加しそうにもない雰囲気だ。でもわざわざダイレクトメッセージを送ってくれた人には、せめて本音を漏らしたい。この部屋を出たらどうせ話のタネにすらできないのだ。言ってしまえばいいじゃないか。
→なりあさん
実は、わたしも未経験なんです。
なりあからすぐに返事がきた。
→なましおさん
えっ、こんなに楽しそうにお話しているのに?
あれ、どこかで聞いた質問だな。私は少し考えて、あ、新居くんに言われたんだった、と思いだした。
→なりあさん
よくご覧になっていますね。恥ずかしい/////
でも、ネット上で趣味が合致する方とお話しているのは
とても楽しいのですが、
現実の人間関係にまで発展させられないんです。
きっとなりあはPCの前に座っているのだろう。私がコーヒーをふた口飲んだ次の瞬間には返事を送ってきた。
→なましおさん
TLとは言葉づかいや雰囲気が違うんですね(笑)
なましおさんって、頭良さそう。
グサリ、と何かが心臓に刺さった。そうなのだ。どんなにTLで弾けたキャラでいようとも、根本の私は生真面目。オタクの世界を心から愛しているが、その愛を自分で分析・分類してしまうような癖がある。衝動だけで体当たりできるのは、あくまでも顔の見えないネットの世界だから。TLの向こうにいる人たちは私の大事な趣味仲間だ。でも実際に顔をあわせたら、こんな弾け方はできないし、きっとしない。
→なりあさん
だから、オフ会に行く勇気が持てないんですよ~(・・*)ゞ
→なましおさん
あはは、だとしたら、私と一緒だ。
普段から猫かぶってると、大変ですよね(/。\)
「そうそう! そうなの!」
思わず口に出して同意していた。どうやら、その不安は、なりあも一緒のようだ。
それでも。お互いにオフ会に参加してみたいという気持ちは強いのだろう。そうでなければ、こんな風に話が進展するはずもない。やはり気持ちが近い人とだと、本音でいろいろ話せて楽だし安心するんだな。窮屈だった私の世界が少しだけ広がった気がする。
そんなとき、なりあが提案してきた。
→なましおさん
私と一緒にオフ会デビューしませんか(*´∀`)
……うわぁっ!
→なりあさん
私も! 今それ提案してみようと思っていたんです!∑(゜∀゜)
通じ合った! 同じ悩みを持ちながら、同じステップを踏みたいと願う者同士が、ここでとうとう合致した。重く圧し掛かっていた石棺の蓋を持ち上げて、ようやく外に出る勇気が持てたのだ。それはどうやら、私一人の力ではどうしようもないくらいの重圧だったんだな。
「アハ……単純だね、人生」
私は快諾のダイレクトメッセージを、心軽やかに打ち始めた。
§ 四 §
心の靄が晴れたせいか、身も心も軽い。
会社でも、プライベートでも、ちょっと饒舌になっている自分がいる。人から「いいことでもあったの」と聞かれ、陰では「お局候補も、男で変わるか」と揶揄される。でも、気にならない。激務も鼻歌交じりにこなしていける。あなたたちがどう思おうと、関係ない。私が愛して止まない世界を邪魔さえされなければ、私は無敵になれる。そのきっかけを、なりあはくれたんだ。
カレンダーの日付を赤いペンでぐるぐると囲む。オフ会の日は絶対に空けるという決意。手帳も、卓上カレンダーも、オンラインの予定帳も、すべてに「予定あり」と書き込んだ。新居くんがこの日を指定してお食事に誘ってくれても、躊躇なく拒絶できる。それくらい、この日は私にとってのアニバーサリーなのだ。
激務は日に日に穏やかさを見せていく。単純にスタートアップのバタバタがこなれて、全員が作業に慣れただけなのだが、そこまでがプロジェクト興起の醍醐味だったり緊張だったりもするので、この修羅場を潜り抜けると少しホッとする。あとはチームのみんなに任せておいても問題ないだろう。
この修羅場を潜り抜けたせいか、それとも今までとは心構えが違うせいか、新居くんの成長が著しい。今まで私の顔色を窺うように指示を求めていたのが、最近では自信を持って任務を遂行している。チームの女の子とも時々談笑している姿を見かけるようになり、軽い嫉妬のような、雛を無事巣立たせた親鳥のような、妙な気分だ。
そうこうしているうちに、オフ会の当日を迎える。コスチュームプレイは見る専門なので、さすがに普通に恥ずかしくない格好をしていきたいと思い、ちょっと気合を入れて服を新調した。いそいそと化粧をし、香水を選び、昨晩に手入れしたネイルを重ねてコートする。先ほど、なりあから「今日は楽しみましょう!」という励ましのダイレクトメッセージが届いていた。口角が自然に上がる。これは美容にもよさそうだ。
玄関前の一枚鏡に全身を映す。
メイクよし。香りよし。ファッションよし。
指差し確認完了。……さぁ、行くか!
パンッ、と頬を両手で挟んで気合を入れる。
同席者に恥をかかせることは無いはずだ。
あとは、心の準備。
どんな人が来ても、どんな風に思われても、楽しめ。
遠慮は敵だ。壁を作るな。
仕事では得意だったことが、自分が本当に好きなことになると、突然すべてのノウハウを忘れてしまった初心者のようになる。もともとコミュニケーション能力は高いほうではない。演技力と想像力でカバーしてきたんだ。
電車の速度を遅く感じ、歩く速度が亀のように思われたくせに、いざ会場のビルの前に辿りつくと、そのとたん脚がすくむ。手に汗を握る。心拍が冷たい血を全身に送りこんでいるかのように先端が冷える。なんだ、万全の準備をしたんじゃなかったのか。しっかりしろ、私。
胸に光るネックレスに手をやる。わかる人にはわかる、とある作品に登場するキャラクターグッズだ。あるアニメキャラクターのシンボルをあしらったもので、作品中主人公はこのネックレスに手をやって力を得る。たっぷり楽しむんだ、という意気込みを自分なりに表してみたつもりだ。
「よし、うじうじしても仕方ない。行くよ」
たかが居酒屋。されどオフ会。いらっしゃいませ、の連呼に緊張はますます高まるが、それらしき集団を見かけたとき、ようやくホッとした。こんにちは、と入口近くの人に声をかける。
「えっ! なましおちゃん!?」
……どうして私ってわかったの!?
「なましおちゃんが最後なの! どんな人が来るかみんなで予想してたんだ」
あ、ああ、そういうこと。あの……すごい注目の的なんですけど……。
「……やべぇこいつ美人!」
「超モテそうで憎しみが湧いてきたよ!」
「おい、お前、今日から俺の嫁にしてやるからこっちこい!」
「ちょっとちょっと! なましおちゃん、オフ会デビューなんだから、少し遠慮しなよみんな。……でも、おしゃれでムカツク」
ネット上の会話とまったく変わらない、毒舌と口調。その言葉の裏に悪意が無いことがすぐにわかる語りかけ方。ああ、なんて優しいんだみんな。私のことをモテそうとか何とかいいつつ、参加者はみんなちゃんと女子力を発揮しているかわいいコばかりだ。緊張をほぐし、仲間内にすんなり溶け込めるように配慮してくれているのがよくわかる。年齢層も大学生から主婦まで幅広いくせに、ひとつの趣味を媒介にしてあっという間に砕けた口調になっている。
すごい。なんだこの世界。
気負うことなく、自分をさらけ出せる。誰にも後ろめたさを感じることなく。
「誰だよコミュ障とか言っていたヤツ。みんなすごい明るいじゃない!」
いつのまにか私も砕けた口調でそう言い、みんなの笑いが弾けた。
楽しい時間は、車輪を履かせたように過ぎ去っていく。あっという間に一時間が過ぎたとき、私はずっと気になっていることを聞いた。
「ところで今日、なりあも来るって言ってなかった?」
すると、いつもキレのある返信で笑わせてくれるリツが
「なんか急用が出来たって連絡あったよー。なんだ、なましおちゃんのお友達かー! 誰と仲がいいんだろうって不思議がってたんだよね」
「そうそう。特に話したこと無かったもん」
「そっか……」
今朝出かける前まで、楽しもうとメッセージをくれた本人が、急用でこられなくなるなんて。こんなに楽しい時間が待っていたのに、と思うと、なりあに同情した。それに、今日ここに来るための勇気をくれた彼女に、どうしても直接お礼を言いたかった。私はみんながいる前だったが、ちょっと遠慮がちに携帯を隅で開く。ダイレクトメッセージが一件届いていた。
→なましおさん
私からお誘いしておいて、ドタキャン本当にごめんなさい。
どうしても抜けられない用事ができてしまって。
またチャンスをください。
私は、少し焦り気味に携帯をタップした。少しでも彼女の気持ちが和らぐように、「気にしてないよ、また会おうね」と慰めたかったのだ。しかし、その画面を邪魔するものがあった。画面一杯に表示されるコール告知。どうやら部長からの電話らしい。みんなに「ごめん」と手だけでジェスチャーし、ちょっと離れた場所に移動する。
電話を取ると、開口一番に部長は言った。
「トラブルだ」
「えっ、データベース周りですか」
「いや、どうやらサーバがおかしい様子だ。新居がひとりで請け負うと言うからまかせたが、まだ復旧できない。休みのところすまないが、手伝ってやってくれ」
わかりました、と短く答えて電話を切り、その場で新居くんに電話する。彼はとてもしょげた声をしていて、可哀想になるくらいだった。
「すみません、シオセさんに迷惑かけたくなかったんですけど……」
「なに言ってんの。10年はやいよ。今から向かうから待ってて」
「えっ……でも……」
電話の向こうで何か言いたそうにしていたのを振り切って、急ぎ会社に向かうことにした。
がらんとした土曜日のオフィスは、あの日の残業を思い出す。違うのは自分が私服でいることと、窓外の景色がまだ明るいことくらい。広いフロアの一角だけPCのモニターが付いていた。そこに新居くんがぽつんと座っている。背中から缶コーヒーを差し出すと、彼はビクッと顔を上げた。
「がんばったね。もう任せてくれていいよ。さ、かして」
なるべく優しく言うように心がける。自分のPCが起動するまで、新居くんの操作履歴を確認する。ああ、なるほど。やることはやったんだ。本当にがんばったんじゃない。
「すみません、ほんとに……」
「ううん、これは新居くんの手には負えないわ。ここまでよくがんばりました。ちょっと大工事になるから、手伝ってくれるかな」
「当然です! 何でも言ってください」
「オッケー。じゃあまずデータをバックアップしてくれる? 私は仮想サーバに環境を作り直すから、そこに放り込むのはやってほしいの」
「了解です。現在稼働中のサービスはどうしますか」
「メンテのお知らせは出してる?」
「はい。修復期間は無期限にしています」
「うん、賢明ね。仕方ないでしょう。がんばって1分でも早く復帰させようね」
「はい」
いつぞやみたいに、無駄口はたたけない。それくらい緊迫した空気。1分ごとにクライアントの損失を増やしてしまっている。そこに金銭的責任を負う必要は無いが、信用というお金で買えないものを失ってしまう可能性がある。でも私に恐怖は無かった。ここまでひとりでやり通した新居くんとなら、絶対にこのピンチは切り抜けられる。そう確信しているからだ。
「じゃ、始めようか」
「お願いします」
復旧作業は、長時間にわたった。
§ 五 §
ふたりで缶コーヒーをあける。
時間は夜10時。オフ会の参加者たちは、終電までカラオケしているから、来られるようなら来なよ、とメールをくれていた。今頃、アニメソングで盛り上がっているのだろうか。でも、私、音痴だしなぁ。カラオケならいっか。また今度参加しなおすとして。
「さすがですね。参りました」
新居くんはげっそりした顔に生気を取り戻しつつあった。きっと、私も同じような顔をしているんだろうな。
「これくらいのトラブル、100回は潜り抜けてきたからね」
「ははは、さすがです。でもそうじゃなくて……」
新居くんは、ちょっと言いづらそうにした。
「何よ。まだ責任感じてるの?」
「いえ、違います。その、シオセさん、似合ってます。セシルの変身ネックレス」
……は、はぁ?
「……あ、え、……な、なにそれ……」
「ごまかさなくていいですよ」
えっ……。まさか、ば、ばれた? しかも、よりによって新居くんに!? 嘘でしょ。嘘。やめてよ、夢ならなんて皮肉な内容なの。そんなに私をいじめなくてもいいじゃない。はやく醒めて。はやく。はやくっ!!
「あ、あの。僕だってほら」
私があまりにも余裕無く慌てている様子を見て、新居くんは申し訳なさそうに自分の左腕を突きつけてきた。よく見ると、時計の文字盤に、いつもの新居を見ていたらひくだろうアニメキャラクターの絵。しかも、これって女性用ゲームのキャラクターじゃん!!
「あ、はは、僕も、遊んでみるまでは知らなくて……」
何も聞いていないのに、新居くんはひとり弁解を始めた。
「ツイッターを始めたころ、オススメ欄に表示されたユーザーは片っ端からフォローしていたんです。ところがある日、食卓塩の真ん中に『生』と書かれたアイコンの人から『フォローありがとうございました』ってメッセージをもらって」
え、ま、まさか。
「今までフォローした人から、そうやってメッセージを貰ったことが無かったから、興味が湧いてずっとその人のつぶやきを見ていたんです」
や、やめてよ……。もしかして……。
「塩生こよりさん。だから、あなたは『なましお』なんですね」
「あ、あなた……まさか……」
「そうです。僕が、なりあ、です」
……おいおい。
おいおいおい!
おいおいおいおーーーーーーーい!!
ショックすぎて、顔面を真っ赤にしながら、口をぱくぱくさせることしかできない。そんな私を尻目に、新居くんは楽しそうに話を続ける。
「N.Araiのアナグラムです。美月とか仲地さんには、すぐに気付かれちゃいましたけどね」
照れ笑いしながら、彼と同期の女の子の名前を挙げた。仲地さんはひとつ年上だったかで、新居くんはずっと「さん」をつけて呼んでいる。
「オタクって女の子もいるんですね。美月はなんとかっていう魔法少女もののDVDボックスを注文したって言ってたし、仲地さんはマンガ原作のミュージカルアイドルの追っかけ? そういうのあるらしいですね。僕もまだ勉強したてで……」
楽しそうに話を続ける新居くん。
いやいや、ちょっと待て。
その前に白黒はっきりさせておかなきゃいけないことがある。
「ひとつ聞きたいんだけど」
「は、はい、なんでしょう」
私は、一呼吸おいた。
「あなた、私のツイート、全部読んでたっ……て、こと?」
「はい」
「深夜アニメを全部録画してるってことも……?」
「はい」
「限定フィギュアのためにマスクしてまで並んだことも……?」
「はいっ」
「アニキャラだらけの部屋のツイピクも……?」
「はいっ!」
し、死にたい……。
何ニコニコしてんだこいつ。私はパニックになった。顔面の発熱と強烈な鼓動。手も震えて汗が噴き出てくる。
「しかし、あれだけの激務をこなしながら、精力的にオタク活動してるなんて、すごいですよ。ある意味尊敬します」
うるせーよ。ある意味ってなんだよ。素姓がばれてしまった以上、取り繕う気にもなれない。しかし、新居くんは真剣な声音で続けた。
「あなたのことを、とにかく理解したくて」
顔を上げると、新居くんが、まっすぐな目で私を見ている。
「オタクの文化、っていうんですかね。僕、ほとんど無縁だったんですけど、知れば知るほど面白くて。塩生さんがハマった理由がよくわかりました」
「……どう、わかったのよ」
「オタクって、壮絶なパワーで築かれた創造力の向こう側にフィールドがあるんですね。そのパワーの恩恵を無心に浴びることで、はじめてそこに文化があることに気づく。そこに入ったら、あとは人生すべてをさらけ出して愛し続ける。そんな世界ですよね」
……ちょっとズレているし、過大評価しすぎな面もあるが、私は彼のことを少し見直していた。文化に対する偏見の無い接し方。かつそれを吸収しようと努力を見せる姿勢。そして、決意してから目的へ向けて一直線に向かってくる真摯さ。
「ますます、塩生さんのこと、好きになりました」
あまりにもストレートな告白に、心拍が悲鳴をあげている。そんな自分の姿を、私は笑ってしまった。
「し、真剣なんです。笑わないでください」
「ごめん、馬鹿にしたんじゃないの。なんか私、あなたみたいな男性から告白されちゃってさ、仕事もクリアしてさ、趣味も認められちゃってさ、……リア充みだいだなって思って」
そういえば、リア充という言葉もなりあ、つまり新居くんから教わったんだった。その張本人は、不思議そうな顔をした。
「どうして? 塩生さん、すっごいリア充じゃないですか」
「リア充、じゃないよ……」
「えっ」
私は、今まで溜まっていた鬱憤をはき出すように、それまでの自分の心情を漏らした。こんなことは、生まれて初めてだった。両親にさえ見せたことの無い秘密の暴露。それはしかし、彼の前だと不思議と衒う必要が無くて、心地よかった。そう、オフ会への恐怖を、なりあにとつとつと語った時のように。
「一日の大半がリアルじゃない。仕事はお金のため。そこで褒められても、あんまり実感ないんだ」
「……そうだったんですか」
缶コーヒーを傾けて、のどを潤す。すこしだけ、いつもの自分を取り戻した気がする。それは、仮面を被った“シオセ”ではなく、“塩生こより”の自分。
「でもね。趣味の時間もリアルじゃなかったんだよなぁ」
「どういうことですか」
「ん……。ほら、新居くんが理解を示してくれるまで、私が誰にもこんな趣味を持っていることを明かさなかった理由。わかるでしょ」
新居くんは黙ってしまった。ここまで言い切って、初めてすがすがしい気分になっている自分に気づいた。そして、それまでの自分を言い表す言葉が、ふっ、と脳裏に浮かんで、そのまま口をついて出た。
「紙にはさ、表と裏があるじゃない。その面を人は利用するし、紙の存在意義ってまさにそこにあると思うのよね」
「そう、ですね」
「でもね。私はずっと、紙の『厚み』の部分だったの」
「厚みですか」
「うん。広い表は会社の顔。広い裏も趣味の顔。でも本当の自分は、ここ。この薄っぺらい厚みの部分」
私がしんみり言ったせいだろうか、新居くんは少し同情的な目をした。
「とっても狭かったし、絵も、文字も記せないし、自分がなんの役に立つのかすらわからない空間。ほんと、膝を抱えて座ってるだけって感じだったよ」
「窮屈、ですね」
「そう。だからね、なりあに、……新居くんに『オフ会、一緒に初めて行きましょう』って言われて……」
――なんか嬉しかったんだ。
とびきりの笑顔を、新居くんに向ける。彼は、とても嬉しそうに顔を上げて、ちょっと誇らしげに、こういった。
「そっか。じゃあ、塩生さんにとって、いいことをしたんですかね、僕」
私は、この人の勇気ある行動と言葉に、全力で応えたい、と思った。
「うん。なんかさ――」
“裏においでよ。ひっくり返せば、どっちも表なんだから”って言われてるみたいで――。
完
給湯室サイドストーリー
所は給湯室――。早口でかしましい会話が漏れていた。
「仲地さんオツでぇす」
「お疲れお疲れ。これ、昨日行ってきた仙台の笹かま」
「わぁ! ありがとうございます。『ピンミュ』仙台公演、どうでしたぁ?」
「堂妙寺役がジュニアの新米になっててさぁ」
「うん、うん、うん」
「かわいいんだけど、なんか先輩に遠慮して演技が固いんだよね」
「あー、あー、あー」
「もうアタシ的には不満だらけなわけ。マジ谷ピーだからよかったのにさ! やっぱ『ピンポンのお婿様』のミュージカルは谷ピーでもってたね。アタシ的に確信したよ」
「まぁまぁ。問題起こして3話でキャスト変更されたサクサクちゃんみたいに、急に人気が上がるかもしれませんしぃ」
「あーあー!『あのマギ』の東雲さくら? あれ男ウケ狙いすぎじゃね。アタシ的には無しかなぁ」
「ちょっとぉー、サクサクちゃんはCVを柚木みゆさんが担当してから、かわいくなったんですよ!?」
「ユズミユ、媚びすぎだってアタシ的には」
そこに新たに入ってきたのは新居。
「あ、新居くんも食べるぅ? 仲地さんのお土産の笹かまぁ」
「うん。仲地さん、いただきます」
「食べて食べてもう遠慮しないで食べて。アタシ的にはチーズ笹かまがオススメ」
「はぁ。美月はどれ食べたの」
「わたしは、ソーセージ」
「そんなの、あるんだ……ははは……」
「おやおやおやぁ、どしたの新居。元気ないじゃん」
「え、あ、はい。ちょっと昨日の夜、遅かったから……」
「あー、もう、イヤらしいなぁ。どうせアレでしょぉ。シオセさんと一晩中……きゃーっ!」
「ち、ちっ、違うよ! 僕とシオセさんは、まだ……」
ガタガタッ!
「はぁっっ!? まだァァ!?」
急激な勢いで喰いつく二人。しまった、という顔をした新居の逃げ道をふさぐように仲地が仁王立ちする。美月はそそくさとお茶を淹れ始め、語りを期待する体勢を作る。このあたりのコンビネーションは抜群だ。
「おいおい新居ぃぃ。アンタはねぇ希望の星なんだからね、アタシ的に。しっかりしてくれないと困るのよ」
「そうよぉ。新居くんどういうこと? まだって何よぉ。あ、はい、お茶」
「あ、ありがとう。……おいしい」
「お茶の味は!」
「いいから!!」
「あ、はい……。なんかさ、寝かしてくれないんだよ、土日」
「きゃーっ! やっぱりイヤラしぃ~!」
「だ、だからっ、違うんだって。美月の想像とは……」
「どういうことどういうこと。ちょっと仲地さんに教えなさいよ」
「……なんかですね。ノルマがあるんです」
「ノルマ?」
「うん。土日で、最低ワンクール見なきゃいけないんです。アニメ」
「ワンクールっていうと……」
「7時間くらい……あるね……」
「それと、原作になったマンガとか、全部タブレットに入ってて、片っ端から読まなきゃいけなくて……」
「それも……ノルマあるのぉ?」
「うん。1日10巻」
「それって……」
「余裕じゃん?」
「毎日だよ!? 土日じゃないんだよ。毎日。そしてそのネタについていけないと、言われるんだよ」
「な、なんて?」
「『アゲイン~!』って」
「……」
「…………」
「………………鬼だねぇ」
「………………体育会系だ」
「……うん」
ひとしきり黙る3人。
「で?」
「で、って?」
「『まだ』ってのは……言葉通り『まだ』なの?」
「まだ! だよっ!! キスはおろか、手すら握ってないよっ!」
「……シオセさん」
「……思った以上に、ヤルね」
「なんかさ、最初は超優しくニコニコしてたのに、僕のオタク知識が足りないとわかったとたん、急に目覚めちゃってさ。今なんか『1年後までに立派なオタクに育てる!』とか言って、スケジュール管理ソフトで僕の予定決められちゃってるからね!! ガントチャートで進行具合とか把握されちゃってさ! 遊園地でデートとか、おいしいお店でディナーとか……夢のまた夢さ……ははは、あはははははっ!」
「……新居くん、帰ってこーい」
「……真性のオタクに惚れた、お前が悪い」
「仲地さぁん、それを言ったら新居くんが可愛そうですよぉ」
そのとき。
「新居くん! どこ!?」
「あっ! あの声は!」
「ほら、ほら、はやくいきなよ!」
「あ、うん……」
とぼとぼと給湯室から通路に出る新居。塩生に腕を掴まれると、厳しい表情で報告書の説明をされている。真面目な顔で「はい、はい。わかりました」と敬語づかいの新居。仕事の顔のつもりなのだろうが、仲地と美月にはそうは映らない。
「……なぁにぃ、あれぇ。完全に尻に敷かれてますよねぇ」
「……うん。情けない。あ、壁際に追い込まれてる」
「……なんか、中学生のカツアゲみたいですね」
「あっ!」
「えっ!」
「……見た?」
「……見ました。しましたよね、今」
「うん……ほっぺに。ちゅって……」
「……」
「……」
「……いいなぁ」
「……でれでれじゃん、新居。片手に笹かま持ったまま出て行くなよ」
「ソーセージ味ですね、あれ。彼、最近仕事もノッてますよねぇ。小さいながらもプロジェクトリーダーですし」
「当然でしょ。進行管理、誰がやってると思ってるの。あのシオセさんが自分のプロジェクトと兼任だよ!?」
「ですよねぇ……。男を上げるなぁ、オタクのくせにぃ」
「あんただってオタクでしょ」
「はぁあぁぁ~! 彼氏ほしいぃ~!」
「当分いいかな、アタシ的には」
「またまたぁ、強がっちゃってぇ」
「今、一番気になってるのは『ワンフェス』だし、アタシ的に」
「『ワンダフルフェスティバル』!? わたしもいきたぁい!」
「お、行くかい。今週末だからね。朝集合しよう」
そこに、新居が呆けた顔で帰ってきた。
「よっ、色男。なにほっぺくらいで喜んでんだよ」
「えっ……見てたんですか……。いやね、やっとデートに誘ってもらえたんですよ」
「おおぉ~! やったね新居くん!」
「うん! 今週の日曜! 幕張だって!」
「……」
「……」
「ねえ、幕張って何か面白いところあるの!?」
「……え、あ、うん」
「……フィギュアにまで手を出してるのか、あの人」
「え、フィギュアって? スケート? 大会でもやるのかな」
仲地と美月は、新居の肩に手を置きつつ、思いやるように言った。
「新居くん。デート楽しんできてね」
「いいかい坊や。カメラは一眼にしろ。アドバイスはそれだけだ、アタシ的に」
「……? よくわかんないけど、ありがとう! やったぁ~! デートだ!」
2人の女性が深く合掌したのは、言うまでも無い(ポンッ!)
完
紙の厚さのリア充
とても思い入れのある作品です。
ご感想などいただけると、とても嬉しく思います。