Mariaの日記 -4-
朝の事務所は騒がしい。
十数人の営業社員達が慌ただしく動きまわり、大きな声で打ち合わせをする。
その片隅で、真理子はパソコンのモニター越しに雨山を盗み見ていた。
小太りな体と下膨れの顔、歪んでだらしない口元と腐った魚のような目、不潔そうにベタつく髪の毛と汚れた爪……「Mariaの日記」では、自分が雨山に惚れている設定なのだと思うと、真理子はゾクリとした寒気を覚える。
――コイツと二人きりでカラオケとか絶対無理!
雨山が振り返り、真理子と視線が合う。
「おい大路!」
雨山の強い口調に、真理子の体がビクリと震えた。
「は、はい……」
雨山はピラピラと紙を振って、真理子を叱責する。
「これ! 数量が間違ってる! ……ったく何やってんの?ボンヤリしてないでよね!」
ミスを指摘された真理子は慌てて立ち上がり、雨山の席へと向かう。
「すみませんでした……」
雨山が持っている紙を受け取る瞬間、真理子の全身に鳥肌が立つ。
今までは雨山の爪が汚れていても他人事だったのだが「Mariaの日記」の文章を思い出すと気持ち悪くて卒倒しそうになる。
「もう出掛けるから大至急直して!!」
「……はい!」
真理子は席へ戻ると大急ぎで書類を作り直して、雨山に再提出した。
「申し訳ありませんでした!」
雨山はチラリと書類に目を通した後、大げさな溜息を吐いてから嫌味を言う。
「こんな単純ミスするって仕事舐めてんの? いい加減な気持ちで仕事して俺の仕事を邪魔するの止めてくれる? それとも態と間違えて俺の足を引っ張ろうとか企んでんの?」
真理子は「Mariaの日記」の大路真理亜とは違う。ミスすれば反省するし謝罪もする。
だが雨山は辛辣な嫌味を吐くタイプなので、つい、真理子は言い返してしまう。
「雨山さんの書類は字が汚くて読めないんです!」
真理子が言い返すと、雨山は目を吊り上げて怒りだす。
「言い訳するな! 使い捨てのパート社員の分際で!!」
「雨山さんに雇われているわけではありません!!」
こうなると二人の良い争いは留まらず、そのうち課長が怒りだす。
「雨山! 早く営業に行け!」
雨山はイラついた様子で舌打ちをした後、真理子の耳元に顔を近づけて小声で話す。
「女は良いよな、贔屓されて」
雨山の体臭を至近距離で嗅がされ、真理子は吐き気を覚えた。
真理子は臭いから逃げるように自分の席へと戻ると、引き出しに常備している消臭スプレーを取り出して自分自身の周りに吹きかけた。
――あんな臭いのと二人きりでカラオケルームに籠もるなんて拷問だよ……私には絶対無理。
雨山の方を見ると、真理子を睨みつけていた。
流石に消臭スプレーを撒くのは失礼だったかと、真理子は慌てて引き出しに隠した。
雨山が営業へと出掛けると、真理子の席に主任が近づいてきた。
「すまないね、雨山は幼稚な奴だから」
主任は既婚者で幼い子供を持つ為か、優しいお父さんという雰囲気の人だ。
「あ、いえ……私も感情的になってしまって申し訳ありませんでした」
真理子が立ち上がって頭を下げると、主任は温和そうな笑顔を見せた。
「ほら元気出して。これあげるから」
主任はポケットから数個の飴玉を出して真理子の手に乗せた。
「じゃ、俺も営業
行くね。いってきまーす」
と、軽口で挨拶をすると事務所を出ていく。
真理子は主任を見送りながら「Mariaの日記」で主任について書かれていた内容を思い出す。
主任は心の狭い人だとか何だとか悪く書かれていた。だが実際は、この事務所内で主任ほど気遣いが出来て優しい人はいないだろう。
「Mariaの日記」を書いている人物は、主任を悪く書きたいのだろうか。とすると、雨山は主任から営業成績を叱られる機会が多いから疑わしい。
ブログの目的が嫌がらせや悪意なのか、それともストーカー的な歪んだ好意なのか、真理子は思い悩んでいたのだが、もしも雨山が書いたのであれば単純なストレス発散が目的だろう。
雨山と真理子の言い争いは度々起きているからブログで憂さ晴らしをしているのかもしれない。
真理子がブログを偶然見つけることがあれば嫌がらせを兼ねることが出来る……この程度の動機だと想像が付く。
雨山が書いたのであれば「Mariaの日記」には歪んだ好意など含まれてはいない。
真理子は安堵の溜息を吐く。ネットを使っての嫌がらせなんか無視していればいいだけだ。
もしもストーカーであればリアルでの接触を恐れねばならないが……。
真理子の表情が曇る。主任を悪く書いているくらいで、雨山がブログ主だと決めてしまって大丈夫だろうか。
だが雨山以外の社員が、真理子をネタにブログを書くとも考えにくい。
真理子に好意を持っていそうな社員は存在しないし、もちろん恨まれるような付き合い方などしていないつもりだ……雨山以外は。
もしも雨山以外とするなら会社に出入りしている業者か……?
いや、実家でシマリスを飼っていることや趣味や食べ物の好みなど個人的なことを知っているなら合コンか飲み会辺りで会ったことのある男か……でもそれでは職場関係は知らないだろうし……?
やはり特定は難しい。
暫くは出歩く時は背後に注意するべきかもしれない。
「大路さん」
不意に呼ばれ、真理子の体が震えた。
真理子が事務所内を見渡すと、既に営業全員が出払っていて、事務所内は真理子と課長だけとなっていた。
「はい!」
真理子は明るく元気に返事をしてから課長の席へと向かう。
「これ、昼までにお願いね」
「はい!」
真理子は笑顔で応対する。
「Mariaの日記」を気にして暗い表情のまま仕事をしてはならないと、真理子は努めて明るく振舞った。
Mariaの日記 -4-