Fate/Last sin -26
期待外れだ。
口に出されたわけではないけれど、母の目は間違いなくそう告げていた。
「もう一度、最初から」
「……はい」
何度も、何度も、何度も、何度も見た光景。指先から血の気が引き、うまく息が吸えなくなる。失敗する。どうしよう。こんな簡単なこともできないの。ちゃんとやらなきゃ。ちゃんと。ちゃんと。ちゃんと。失敗しないように。
……だけど分からなかった。目の前の机の上に敷かれた羊皮紙の上に手をかざして、意識を集中して、魔力を集めて、結晶にする。ごくごく簡単な、基礎的な、重要な訓練だと言う。だけど分からなかった。わたしに備わっているはずの回路は開かず、この世界に在るはずの魔力は動かず、したがって奇跡も起きない。どうしたらいいのか。どうしたら出来るのか。分からない。分からない。
そうやって硬直したまま数十分が経ち、母は深くため息をついた。それは失望の音だった。また失望させてしまったのだ。わたしはまた自分の事を呪った。
「もういい。今日は寝なさい」
突き放したような言葉の後に、母はさっさとその部屋を出た。取り残されたわたしは、途方に暮れて手のひらを見下ろす。
どうして出来ないんだ。
こんなに魔術を使いたいと思っているのに。こんなに、この家の役に立ちたいと思っているのに。こんなに―――
姉さんの跡を継ぎたいと思っているのに。
「やっぱり楓は駄目よ」
夜中、たまたま通りかかった書斎の前で、扉の向こうから母の声が漏れているのを耳にした。父と話しているらしかった。
「だから聖杯戦争なんてやめておけと言ったんだ」
「そんなの……花が決めたことに口なんて出せなかった……」
「いくら才能があるとはいえ……」
「……アベレージ・ワンには……」
父と母の会話はだんだんくぐもって聞こえにくくなったけれど、わたしはその場に立ち竦んで動けなくなってしまった。ただ最初の一言だけが、落雷のように、幼いわたしの体を貫いて、永遠に取れない麻痺を残していった。
―――やっぱり楓は駄目よ。
……そうだ。わたしは駄目なんだ。
わたしじゃ父と母を喜ばせられない。もう失望されたくない。あの目で見られたくない。ため息を吐かれたくない。魔術師になって、姉の跡を継いで、この家の役に立って、父と母を喜ばせたかった。けれど、わたしじゃ駄目なんだ。
すべて変わってしまった。
わたしは足早に部屋に戻って、悪い夢から逃げるように毛布をかぶって、そうやって幼稚に震えながら毛布の中の闇を見つめて、何度も何度も考えた。すべて変わってしまった。姉さんが、花ちゃんが―――望月花がいなくなった、二月のあの雪の日から。
魔術のことなんて知りたくなかった。天才だった姉の跡なんて継ぎたくなかった。
何度も何度も、言い聞かせるように考えた。
自分の無能さなんて知りたくなかった。
どうしたら、姉はこの家に帰ってくるだろうか。
どうしたら、私はこの役目から逃れられるだろうか。
*
扉を閉めるような音が聞こえて、楓は礼拝堂の床の上で目を覚ました。どうやらあの後すぐに眠ってしまったらしい。辺りには近所からこの風見教会に避難してきた数十人余りの老若男女が毛布にくるまったままゴロゴロと転がっており、そのすべてが熟睡していた。窓の外は薄紫色の闇で、まだ日は昇っていないようだった。
「……」
楓はついさっきまで見ていた昔の夢を振り払うように頭を振って、そのはずみに右手から何かを取り落としたことに気づく。
毛布の中に落ちていたのは、白銀の針金で出来ている精緻な造りの細工品だった。小さな蝶を模したそれは、昨夜、神父の私室で見つけた物だ。楓は寝起きの冷たい指先でそれを拾い上げて、改めてその細工を凝視する。
見れば見るほど、それは幼い頃に姉が自分に作ってくれた玩具にそっくりだった。後になってそれが姉の使い魔であると知ったが、これほどまでに細かい造形の施された使い魔など見たことがなかった。――それだけ、姉には才能があったということだ。
そこで楓はふと手の上の針金細工から目を逸らした。
才能。……何度、その言葉を思い知らされたことだろう。姉には才能があった。まさに天才だった。この使い魔一つ見ても、その才能の一部を垣間見ることが出来る。父と母もとても期待していたはずだ。あるいは、根源に到達することすら考えていたかもしれない。あの十一年前の聖杯戦争すら起こらなければ――――
今朝の夢に引きずられるように思考の渦に引き込まれた楓は、しかしふと顔を上げて辺りを見回した。
「……?」
遠くの方で、誰かの声が聞こえたような気がしたのだ。だがしばらく暗い礼拝堂の中に目を凝らしても、何も異常はないように見える。
空耳だったのか、と再び手元に目線を落とした時、またしても声が聞こえた。しかもただの喋り声ではない。遠くで誰かが叫んでいる。楓はおもむろに毛布を剥いで、蝶の針金細工をコートのポケットに滑り込ませてゆっくりと立ち上がった。
「……すけて!」
楓はそれが聞こえた瞬間、弾かれたように床を蹴ってドアに飛びつき、全体重をかけて押し開く。それは若い男のような声だった。
「助けてくれ!」
「!」
遥か遠くからだが、はっきりと聞こえたその叫びの方向へ駆けだす。どう考えても異常事態で、本当はそのまま回れ右をして何も聞こえなかったふりを続けたかったが、走り出してしまっては引き返せない。楓は無我夢中で教会の裏手へ回り、昨夜の雨に湿った雑木林へ飛び込んだ。直後、近くなりつつある声が再び助けを求めた。
「誰か―――――」
声は、途中で誰かがマイクのスイッチを切ったようにぶつりと途切れた。
「ど、どこなの? 誰? どうしたの? 返事をして!」
ガサガサガサと、下生えの草が踏まれて大きな音を立てる。楓は喉から振り絞るように林の奥へ叫び返したが、応答はなかった。駆け足をやめ、ゆっくりと探るように林の中を歩きはじめる。
「……誰か、いるの?」
まだ湿っている草が、爪先をじわりと濡らす。楓は雫の垂れている枝葉をかき分けながら進み、しばらくして、不意に何かを踏んだ。
「え、何――――」
言いかけて、足元を見た楓は言葉を失う。
それは地面に投げ出された男性の腕だった。湿った草の上に埋もれるように、若い男性がうつ伏せに倒れて沈黙している。その背中はどす黒く染まっていた。
眩暈がする。
楓は何とかすぐそばの木の幹に掴まり、力を失った膝を励まして立ち上がった。気を失っている場合ではない。男性の背中を染めている血の量を見て、直感的に手遅れではないと感じた。何か、まだ何かできるかもしれない。楓は抜けそうになる腰をなんとか奮い立たせて、草の中に埋もれている男性に近づく。
「大丈夫ですか、いま、応急処置を―――」
「何をするっていうのかしら」
真上から降ってきた声に、今度こそ楓は硬直した。恐る恐る、空に伸びる梢を見上げる。
「あなたは……」
夜明け前の紫色の闇の中に紛れるように、黒いベールの少女が木の枝の上に立ってこちらを見下ろしていた。
「bonjour. でもごめんなさいね。その方、きっともう助からなくてよ?」
「アサシン……!」
楓は数歩後ろに下がって、アサシンと距離を置こうとする。だがアサシンは軽く可憐に肩をすくめると、事も無げに楓の目の前、倒れている男の傍に音も無く降り立った。
「そういう貴女はセイバーのマスターさんね? けれどセイバーの気配がないわ。どうしてしまったのかしら」
楓は今にも体から飛び出そうな勢いで脈打つ心臓を押さえつけるようにコートの襟を押さえて、「あなたには関係ない」と、返事をする。アサシンは蜂蜜色の目を細めて、危なげな子猫を見るような目で楓を見つめた。
「五日前と全然変わらないのね。そんなに怯えないでくださいまし? わたくしはただ食事をしていた、それだけですもの」
「食事……?」
楓は一瞬目を泳がせて、アサシンの姿を直視した。そして見つけてしまった。
彼女の唇の端に、赤褐色に乾いた液体が付いている。
「……この人に何をしたの」
アサシンは絵画の聖母のように微笑んで、
「あなたには関係ない……なんてね」
そう一言を言い放った。だがすぐに笑みを消して、足元の男の体を見下ろす。
「貴女は魔術師ですから、ご存じのはずですわ。サーヴァントはもともと霊体。霊体は霊体しかその身の糧に出来ない。そしてわたくしには、魔術師のマスターは居ない。だとしたら、この五日間、わたくしがこの身を存続させるために何をしたか、ご想像できるのではなくて?」
楓は眉をひそめ、小さく呟いた。
「魂喰い……」
アサシンは唇の端を持ち上げて笑った。
「でも今日は運が良いですわ。……魔術師の心臓があれば、あと数日は心配いらないですもの」
その言葉の意味を深く考えるより先に、楓は素早くアサシンに背を向け、反射的に駆けだしていた。すぐ後ろから、まるで戯れのように軽快なアサシンの声が聞こえる。
「お逃げになるの? ふふ、可愛らしいこと」
返事をする余裕はとっくに無かった。濡れた草を蹴散らし、枝葉を手折りながら雑木林の外へ走る。一瞬、楓の脳裏に、草むらに倒れていた男の姿が浮かんだが、それもすぐにかき消えた。ただひたすらに、走り、逃げる。
「お待ちになって頂戴、ねえ」
アサシンの笑い声はすぐ背後に迫っていた。―――分が悪いどころの話じゃない、と楓は歯を食いしばって、既に動きの鈍くなっている両足を必死に動かす。こんな林の中では、アサシンに追いつかれるのも時間の問題だ。むしろ、これだけ猶予がある方が不思議だった。
せめて人目のある場所に。そうすれば、アサシンだって戦いにくくなるはずだ。
だが林を出るあと一歩のところで、楓は耳元で何かが風を切る音を聞いた。目の前を掠っていったのは、鉛色に鈍く光る小さなダガーだった。
「あ……」
小さく声が漏れ、その途端、足がもつれて地面に突っ伏した。すぐさま両手をついて起き上がろうとしたが、首筋に針のような冷たく鋭い切っ先を感じて、体を強張らせる。
かろうじて、ゆっくりと後ろを振り返った。
アサシンは、楓の首元に小さな短剣を突きつけたまま、完璧な笑みでその視線を受けた。
「魔術師なのに、魔術を使わないのね」
鈴を転がすような声で投げられた問いに、楓はつと顔を歪める。
「―――私には、才能が無いから」
「才能?」
「……」
楓は押し黙った。アサシンは眉をひそめて言う。
「才能、だなんて。奇妙な言葉ね。貴女は魔術師でしょう? それなのに魔術の才能がないなんて、何か隠しているのかしら」
「まさか。……本当に私には才能がないだけ。この歳になるまで訓練を続けても、まともな魔力結晶ひとつ作れない……」
アサシンは、あからさまに憐れむような目で楓を見た。
「お可哀そうに。まるで、生きていた時のわたくしのよう」
「……あなたも、魔術師だったの?」
楓の反応に、アサシンはダガーを突きつけることで返答とした。
「まさか。わたくしはただの人殺しですわ」
言ってから、アサシンは何かを言い淀むように形のいい唇を動かし、ダガーを指先で弄ぶ。
「貴女は夢を見たことがある?」
アサシンはダガーを触る手元から目を離さず、唐突にそう言った。
「……え?」
「貴女は夢を見たことがある? 大いなる志を持ったことがあるかしら。偉大な人間になりたいと思ったことは? 言葉一つ、指先一つで大国を動かす英雄、或いは、何世代も後の人間にも語り継がれるような英雄になりたいと思ったことはある?」
「……そんなの、」
ない、と楓が言うより先に、アサシンは言葉を継いだ。
「わたくしはありますの」
黒いベールが、逆光を浴びて淡い影を作った。薄闇が徐々に消えていき、漂白されたような朝陽が雑木林の中を照らしていく。夜が完全に明けようとしていた。
「だけどわたくしは、どうしようもないくらい凡人でしたわ。何も為せず、誰の記憶にも残らず死んでいく、これまでの歴史の中に埋もれた数えきれないほどの人間たちと同じになろうとしていました。わたくしにはそれが、恐ろしくて仕方なかった」
逆光の影の中に沈んだ表情は厳しく、冷たい。
「だからわたくしは殺したの。夢を現実にするために。本当にささやかで小さな歴史だったけれど、間違いなくわたくしは夢を叶えましたわ。―――貴女は?」
問いかけられた楓は、息を呑んで美しい暗殺者の顔を見つめることしかできない。
「……」
「貴女には才能が無いのね。お可哀そうに。一体聖杯に何を望んで、何を為そうとしたのかしら」
楓の顔から、さあっと血の気が引いた。指先が冷たくなり、息が出来なくなる。さっきの夢を反芻しているような気分だった。
だがアサシンは氷のように鋭く冷たい顔をふっと緩めて、「あら」と零す。
「ごめんなさいね。これから死ぬ人に、何を言っているのかしら、わたくし」
振り上げられたダガーの短い刃が、朝陽を弾いて瞬きを放つ。それが楓の胸に振り下ろされるより先に、すぐ近くで声が聞こえた。
「動くな、マスター!」
次の瞬間、凄まじい速さで頭の上を何かが通り過ぎていく。鋭い金属音が響きわたった後、アサシンが「まあ、油断したわ……」と小さく呟いて、遠ざかっていく気配がした。
楓が反射的に閉じていた目をそろそろと開けると、白い朝陽を遮るように大きな影が立ちはだかっていた。それは楓に背を向け、遠のいたアサシンの方向を睨みながら、真紅の刃の剣を右手に握り直す。
楓は目を見開いた。
「セ、イバー……?」
「……怪我は無いか、マスター」
雑木林の奥を見つめていた灰色の瞳を楓に向けて、セイバーはそう口にした。アサシンが林の奥へ逃げたまま戻ってこないのを確かめて、ようやく剣を手放す。真紅の刃が空中でかき消えるよりも先に、騎士は地面に倒れている楓の身を起こした。
たった一日見なかっただけなのに、もうずいぶん会っていないような気がした。
楓より頭一つ分高い背に、小麦の穂のような金髪、灰色の瞳、それら全てが最後に会った時と同じだった。楓にまじまじと見つめられて、騎士はきまり悪そうに頭を掻く。
「その、楓、昨日―――いや一昨日か。一昨日は……」
「セイバー」
楓は冷たい指先で自分のスカートの裾を握り、すぐに離す。吸いにくい息を吸って、セイバーの顔を見上げた。
自分の右手には、三画の令呪が一日前と同じように刻まれている。空閑灯は約束を守った。私は、これからまた聖杯戦争を続けなければならないんだ。
そのためには、言わなければならないと思った。セイバーに次会うことがあったら告白しなくてはならないと思っていた事。クララに気づかされ、アサシンに認めさせられた、自分の本当の姿を。
「セイバー。一昨日の夜、私に、どうして聖杯戦争から逃げないのかと聞いたの、覚えてる?」
セイバーは楓のただならぬ気配を察したのか、顔を引き締めた。そして頷く。
「覚えている」
「あの時、私、少し嘘をついたの。姉さんが帰ってこないことが、私が家を継がなきゃいけないことが怖い、と言ったけれど、本当は――――」
「本当は、私が逃げたいだけ」
はっきりと言った。楓はセイバーの顔から目を逸らしたくなったが、こらえて灰色の瞳を見上げ続ける。
「姉さんのためじゃない。私は、自分の才能の無さから目を背けたくて必死なの。だからセイバーがいないと困ると思った。姉さんが帰ってこないと困るの。じゃないと、また辛い役目を背負わされるから。姉さんを身代わりにしたくて必死なだけなの」
今更、はっきりと自覚したのだ。私が聖杯に願おうとしていることは、何の夢でも決意でもない。ただ逃げ出したいがための手段なのだ。才能が無いから、姉の方が良いから、などと言い訳をして向き合わないようにしてきたが、アサシンはその言い訳をあっさりと憐れんで、否定した。
あんな目で見られたのは初めてだった。
「楓」
いつのまにか俯いて足元を見ていた楓は、名前を呼ばれて恐る恐る顔を上げる。
セイバーは険しい表情で楓を見下ろした。
「俺は一昨日の夜に言った。『自分の心の有り様は、自分にしか決められない』と」
「……うん」
楓はそのやりとりを思い出した。
「セイバーは何も言わなかった」
だから安心したのだ。無理に変わらなくていいと言われている気がして。
「裏を返せば、変わる気配のない人間に何を言っても意味がないと思ったからだ」
セイバーは言った。楓は口を固く結んで頷く。彼の言う事は、恐ろしいほど真っ当だった。あの時の自分は気が付いていなかっただけで、本当は、セイバーにすら失望されかけていた―――と。
「今回の召喚で、俺の立場は黙って従う事だと思っていた。だが、楓が自分の本当の姿に気づいたのなら、俺は口を挟み、何事も忠告し、主に反駁することも恐れない」
「マスター。お前は変わらなくてはならない」
セイバーは続ける。
「楓―――本当は何を望んでいる? 本当に、姉を連れ戻して、それで終わりでいいのか」
楓は唇を噛んで、考えた。
もし、この聖杯戦争の勝者になったら。姉さんは帰ってくるだろう。そしてやはり望月家の正式な当主になる。そうしたら私はもうお払い箱で、期待も失望もされず、誰の興味も引かず、十一年間、役立たずだった時間は意味を無くして、それで―――
アサシンの、あの視線が脳裏をよぎった。
「セイバー、わ……私は、私は……」
白い朝陽が少し高いところから楓とセイバーの顔を照らした。セイバーは明るい灰色の虹彩で、じっと楓の答えを待っている。
「――――……」
目の奥が熱かった。それでも楓は、目の前の自分のサーヴァントに向かって答えを言った。
「私は、変わりたいの」
セイバーがわずかに顎を引いて、その言葉を受ける。楓は血の通い出した指先を握りしめて、堰が切れたように言葉を紡いだ。
「私は変わりたい。私だって魔術師の娘だよ。魔術師になって、お父様とお母様を喜ばせて、望月家の役に立って、―――姉さんの跡を継ぎたい。私は魔術師になって、自分で自分の運命を受け入れて―――そうやって生きたい!」
それは十一年、楓が自分自身で忘れ去るほど積み重なり、胸の底に押し込められてきた叫びだった。その叫びを追うように、楓の赤い頬に数滴の雫が落ちる。
楓は初めて人前で泣いた。
「マスターがそう願うなら、俺は全力でそれを叶える。今度こそ騎士王の名に誓おう、聖杯は必ず――――我がマスター、楓の物になると」
セイバーは、自分のマスターを見据えて言う。
「それが私の願いでもあるからだ」
*
……何ということを。
彼は人知れず呟いた。
固い歯ぎしりが漏れる。
狂っていく。私が望まない方向に。私が予期していなかった方向に。少しずつ。ゆっくりと、しかし確実に。
その狂いの中心にいるのは、いつもあの剣士だ。
……排除しなければ。
自分の直感が告げていた。
あの剣士を、一刻も早く、この舞台から退場させなければならない。
*
雑木林の奥深くに逃げ帰ったアサシンは、セイバーがそれ以上追撃してこないのを確認してから、セイバーのマスターと鉢合わせた場所まで戻った。まだあの男の霊体は食い尽くしていないはずだ。魔術師を逃したのは惜しかったが、それよりも、余計な口を滑らせてみすみす隙を招いたことのほうが不愉快だった。
なぜ、杏樹にも喋っていないようなことを零してしまったのだろう。
アサシンは目を伏せ、暗い目で足元に横たわっている名前も知らない男の体を見つめた。もうとっくに背中を一突きされて絶命している。その死体を見ながら、アサシンはあのセイバーのマスターの事を思い出した。
「……!」
だがアサシンは唐突に顔を上げ、辺りを一瞥し、翻って木立の中へ潜り込んだ。
何者かがここへ近づいていた。間一髪で気配を遮断し、息をひそめる。ほどなくして、枯れた落ち葉を踏む二つの足音が、男の死体の元まで歩いてきた。
―――嫌でも覚えている顔だ。黒髪に、病人のような白い顔の魔術師に、長い銀髪のサーヴァント。アーチャーと、そのマスターだ。
二人は死体の横に立って、束の間、それを眺めた。まるでそこに、死体があることを予期していたかのように。
「死んでいますね」
マスターが口を開いた。脈を測ることも、瞳孔を確認することもせず、つまりは断定的に男の死体を見ていたのだ。アーチャーはその亡骸を見て眉をひそめた。
「どう見ても刺されてるじゃねえか。誰が―――」
アサシンは息をひそめて、限りなく霊体を薄く引き伸ばすようにして梢の上に隠れる。辺りを見回すアーチャーを眼下に見ながら、今ここで奇襲を仕掛け、戦闘に持ち込んだらどうなるか考えた。
(間違いなく、無事に帰してもらえるとは思えませんわ)
アサシンは胸中で呟いて、じっと隠れ続ける。だが、しばらく辺りを警戒していたアーチャーが、不意に赤い双眸をアサシンのいる辺りに向けた。
(……!)
間違いなく、目が合った。
アーチャーはしばらくアサシンのいる方向を凝視していた。だが、アサシンが戦闘を覚悟したその時、つと目を逸らし、「誰もいないぜ」とマスターに声をかける。
黒髪のマスターは疑いもせず、「そうですか」と平淡に答えた。
(見逃した……?)
それとも本当に気づいていないのか。アサシンはただ困惑して二人を見下ろす。
黒髪のマスターは死体をひっくり返したり横に倒したりして、男の体を検分していたが、しばらくして不愉快そうに呟いた。
「駄目です。これは使えない。何故だか分かりますか、アーチャー」
「さあ。何度も言っているが、俺は魔術に詳しくないんだ」
「それでも、サーヴァントなら知っている。これは魂喰いされた死体だ」
猛禽のように鋭い黒目で睨まれても、アーチャーは少しも表情を変えない。わずかに首を傾げて、「そうか」と答える。マスターは畳みかけた。
「いま生き残っているサーヴァントの中で、魂喰いをする理由がある者は、誰ですか?」
「アサシンだろうな」
「この死体は新しいですよ、アーチャー」
「それで?」
「本当に、ここには、誰もいないんですか?」
マスターは詰問した。サーヴァントは、目をわずかに細めて答える。
「俺はいないと言ったぞ、マスター」
空気が一瞬で張り詰めたのがありありと分かった。アサシンは息をつめて、そのやり取りを傍観していた。
しばらくの沈黙の後、アーチャーが気の抜けた溜息をつく。
「もう夜は明けたんだ、マスター。日が出ているうちは聖杯戦争の戦闘行為は禁止だろ」
「……」
マスターは黙って、少し何かを考えるように耳の後ろを触り、やがて興味を失ったように雑木林の外へと歩きはじめた。その後ろを追うように、アーチャーも死体の傍を離れる。
濡れた草を踏みながら去っていく二人の姿を目で追いつつ、アサシンがやっと詰めていた息を吐いてその場を立ち去ろうとした時だった。
不意に、アーチャーの銀髪の頭が振り返って、迷いなくアサシンの方を見た。
その唇が、誰にも悟られないほどの小さい声で何かを呟いたのが分かった。そして、あっさりとアサシンに背を向け、マスターの後を追って姿を消す。
アサシンは呆気に取られて、アーチャーの姿を見送り、思わず声を漏らした。
「―――『次は殺す』だなんて」
黒いベールの乙女は、笑った。
「とっても当たり前のことをお言いになるのね」
Fate/Last sin -26