テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(後編)
これまでのあらすじ
大洋生命保険株式会社の本社に勤める水野佑希は、日々仕事に忙殺されていた。人生に悲観した佑希は、ある日衝動的に投身自殺を図る。それを阻止したのは、ひょんなことから同じく本社に勤めることになった派遣社員、武田恵人。佑希を助けたお礼に、恵人は佑希たちが参加する常務の誕生会に出席することに。そこで2人の距離はぐっと近づく。しかし、それを快く思わない先輩社員の古山から忠告を受けた佑希は、恵人からのデートの誘いを断ってしまう……
※前編はこちら http://slib.net/80154
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
# 12
佑希からの丁寧な断りの文章に、武田恵人は、また機会があればと返した。そのメッセージは、既読の表示がついたまま宙に浮かんでいる。
恵人はその画面をぼんやりと眺めた。
早まっただろうか。もう少しメッセージのやり取りを重ねてからの方がよかっただろうか。それに、多忙な彼女の都合も考えずに誘ってしまったのがよくなかっただろうか。
いや。それ以前に、あの日距離が縮まったと思ったのは自分だけだったんだろうか。
やっぱり彼女は、手の届かない、遠いところの人だったんだろうか――
大洋生命3階、第2会議室にて――
水野佑希は、企画部から配られた資料の中に、気になる文言を見つけた。
保険金部業務の事務センターへの完全移管。
「これまで保険金部は、段階的に業務を事務センターへ移管してきましたが、先般の企画会議で、来期中にすべての業務を移管する計画となりました。各部門の皆様におかれましては……」
企画部の説明を聞きながら、佑希はぼんやりと恵人のことを考えた。
保険金部の業務が本社から移れば、彼のような派遣社員は仕事を失うだろう。運が良ければ、本社で他の仕事をもらえるか、事務センターでまた同じ業務につけるかもしれないが……
「……それにより、さらなるコストコントロールが見込まれ……」
これだけ、コスト、コストと言っている状況では、期待できないだろう。
そうなれば、恵人との繋がりもなくなるのか。佑希は、恵人が不安定な条件で働いているという事実を、改めて突きつけられたように感じた。
直接断られれば諦めもつくかもしれない。
恵人は、その日の仕事を終えると、ロッカーから大きめの紙袋を取り出した。中には、柴田から借りたスーツが入っている。それを手に、恵人はエレベーターに乗り込んだ。
4階に着くと、恵人は深呼吸し、廊下を歩き始めた。もちろん、このフロアに来たからといって、佑希に会えると決まった訳ではない。それでもわずかな期待と不安に、恵人の胸は脈打つ。
はやる気持ちを抑えながら廊下を歩いていると、恵人のすぐ左横のドアが開いた。それは女子トイレのドアで、中から女性が1人出てくるところだった。佑希のことで頭が一杯で周りが見えていなかった恵人は、危うく中から出てくる女性とぶつかるところだった。
「あ、すみません……」
そう言って顔を上げると、そこにいたのは見覚えのある顔だった。
「あれ、誰かと思ったら武田くんじゃない」
「こ、古山さん……」
「こんなところでどうしたの?」古山は、冷ややかな声で訊いた。
「ええと、柴田さんにお借りしていたものがあったので、それを返しに……」
「借りてたもの?」古山は怪訝そうに聞き返した。
「ええ、ちょっと、スーツを……」恵人は消え入りそうな声で答えた。
「スーツ? ああ、だからこの間スーツだったって訳か」
恵人はきまり悪く目をそらした。この間はせっかくビシっとキメてきたというのに、そのタネがバレてしまった。
古山は、口元に笑みを浮かべると、右手を差し出した。
「ほら。ちょうどいいから、私が返しといてあげるよ」
恵人は一瞬硬直した。どうにか言い返さなければ。
「大丈夫です。直接お礼も言いたいですし」
「いいって。お礼も私から伝えといてあげるよ」
古山は手を下ろさない。
「けど……」
「武田くん? 柴田さんも仕事中だし、暇じゃないの」古山は突き放すように言った。
「それに、あなたの社員証じゃ、このフロアの部屋には入れないんだよ」
土曜日の夜。人で溢れ返る新宿駅に、佑希は降り立った。
今日は仕事の日よりもカジュアルで、かといってラフになりすぎないよう気をつけて服装を選んできた。ダブルストライプのシャツに、黒のカーディガンを羽織り、ボトムスはマスタードイエローのワイドパンツ。足元は黒のオープントゥのパンプスを合わせた。髪は、三角の飾りのついたヘアゴムでポニーテールに結った。
もう何人か来ているはずだ。周りを見渡すと、懐かしいメンバーが数人、売店の前に立っているのを見つけた。今日は、結婚する美香への前祝いと称して、同じゼミの女性陣で集まる約束をしていたのだ。
「あ、佑希、久しぶりー」
こちら側を向いて立っていた久美子が、佑希に気づき声を掛けた。以前会ったのは2年ほど前、他のゼミ仲間の結婚式のときだった。そのときと変わらない、というより学生時代とほとんど変わらない姿だ。10年の時が一気に縮まったかのようだ。久美子はセミロングの髪を軽く巻いており、服装は、目を引く赤のトップスに、チェックのタイトスカートを合わせている。
「わー! 元気にしてたー?」
続いて亜美佳が声を上げる。こちらは5年ぶりくらいだろうか。けれども彼女も姿は変わらず、むしろ以前より引き締まっているように見えた。こちらはベージュのノーカラージャケットに、白のシャツ、ボトムスには黒のアンクルパンツを合わせている。
「もー久しぶりー! ちょっと痩せたんじゃない? ていうかやつれた?」
芳子がそう言ってポンポンと佑希の肩を叩いた。こちらは、学生時代は掛けていなかった眼鏡を掛けている。服装は灰色のタートルネックに、茶色のジャンパースカート。
「はは、そうかも。激務でね」佑希は答える。
「もーう、大丈夫ー?」
あっけらかんと笑い飛ばす芳子は、確か商社の一般職を辞め、いまは子持ちで専業主婦のはずだ。芳子だけでなく、ゼミ仲間の半数近くは家庭を持っている。「今日は旦那の分の食事を作ってから出かけてきた」とか「子どもが産まれてから初めて夜に外出した」とか言い合う彼女らに、佑希はなんとなく引け目を感じた。
そんなこともあって、お店では、同じく独身で恋人ナシの亜美佳の隣に座った。亜美佳はノンバンク企業の本社勤務で、佑希と同じく、業務委託先との折衝に奔走しているという。亜美佳とは、学生時代は授業で隣の席に座ることはあっても一緒に遊びに行くほどの仲ではなかったが、今日は、立場が似ているからか自然と会話が弾んだ。
「そうそう、上は思いつきで言うけど、現場の人に頼むのこっちなんだよねえ」
「分かるー。それで現場の人には細かいところまで質問責めにされるし」
「ねえねえ、佑希と亜美佳は、会社に良い人とかいないの?」
2人で仕事の愚痴を話しているところに、芳子が割って入ってきた。
「そうそう、2人も美香に続かないと」
同じく既婚で、現在育休中の綾も、芳子の隣から口を挟んできた。
「良い人って言ってもなあ……」亜美佳はそう言って佑希に目を合わせた。
「ねえ……」佑希も言葉を濁した。
良い人。良い人かあ。佑希の頭に一瞬、恵人の顔が浮かんだ。けれどその後すぐに、それを打ち消すように古山の厳しい顔が浮かぶ。
亜美佳は苦笑しながら口を開く。
「うちのとこは女社会だから、男っていったら既婚のおじさんか、派遣さんしかいないんだよねー」
「え、そうなの!?」
驚いたように返す綾の職場は、建設機械メーカーだ。職場環境はこちらとだいぶ違うのだろう。
「そっかー、派遣さんはちょっとねえ……」芳子は眉をひそめて言った。
佑希は、肯定も否定もせずに、愛想笑いで答えた。
「将来考えると不安だよねえ」と、話を聞いていた久美子も続いた。
「そもそも、最初から対象にならないよねえ。ね、佑希?」亜美佳はそう言って佑希の方を向いた。
頷くことはできなかった。
「なにそれ……」言葉が口をついて出た。「派遣で働いてるからって、人格に問題がある訳じゃないじゃない!」
自分でもびっくりするくらい、大きな声だった。抑えられなかった。頭がカッとなるのを自覚する前に声が出ていた。みんなが驚いて自分を見ている。
「あ、ごめん……」佑希は口をぽかんと開けたまま言った。
「ううん、私も言葉が悪かったかな?」と亜美佳。
「てか、佑希、酔ってるでしょー。飲みすぎー」芳子が笑って言った。
こういうときは芳子の笑顔に救われる。佑希も笑い返して、メニュー表を手に取った。
「あは、そうかも、ソフドリ頼もっかなー」
そして、メニュー表の陰に顔を隠し、恵人のことを想った。
それでも本当は恵人と一緒にいたいんだ。家に帰ると、誰もいない部屋で一人、佑希は恵人を想った。
周りに否定されたことで、かえって気持ちがはっきりした。
一度断ってしまったけれど……それでも、映画は来週もやっている。
# 13
久しぶりに会った恵人は、髪が短くなっていた。別人のようで、少しこそばゆい気持ちになる。
ゼミ仲間で集まった日の翌日、佑希は恵人にLINEを送り、一度断った映画に誘い直した。それからの1週間は、そわそわと心浮き立つような日々だった。
そして土曜日の昨日、1週間分の家事を片付けると、風呂で丁寧にリンパマッサージをし、パックで肌を整え、今日に向けて備えた。
服装は、久しぶりに引っ張り出してきたデニムワンピに白のレースのカーディガン。靴はベージュのフラットシューズ。髪には、今日はスエードリボンを合わせた。
一方の恵人は、青いチェック柄のシャツに、黒のズボン。会社にいるときよりもう一段階カジュアルというところか。
こうして私服になってしまえば、普通の男女でしかない。会社での立場も、胸元の社員証の色も関係ない。
2人肩を並べて映画館へ向かう。こういう場面は、幾つになっても照れ臭い。知り合いにでも会ったらどうしよう、などといらぬ心配をしてしまう。
「ええと……1度断っちゃってごめんね。あのとき、ちょっとバタバタしてたんだ。ほんと、それだけだから」
我ながら弁明じみている、そう思いながら佑希は言った。
「いや、こちらこそ、忙しいときにごめん。こっちも、たまたま電車の広告でこの映画のこと知ってさ、それでほら、男1人でこんなの見に行くのもって思って、それで」
最後の方は濁すように、恵人は言った。2人して言い訳を重ねるようにしている姿が面白くて、佑希はこっそりと笑った。
恵人は、うつむいて自分の足元を見た。本当に、ただバタバタしていたというだけで断った訳じゃないよな。
――あなたの社員証じゃ、このフロアの部屋、入れないんだよ。
古山の言葉が頭の奥に響く。佑希に言われた訳ではないが、まるで佑希本人に拒絶されたかのように思えてしまう。
恵人はそっと顔を上げ、佑希の顔を覗き込んだ。
笑っていた。佑希の可憐な笑顔に、恵人は心が暖かくなった。
「映画、おもしろかったね」
映画館近くのファッションビルをぶらぶらしながら、佑希は言った。
「うん。引き込まれちゃったよ。最後の最後までどう終わるのか心配だったけど、あのラストでよかった」恵人はそう返した。
「うん、分かる。あー、でもいちばん最後のところだけは、よく分かんなかったなあ」
「確かに、あれ余計だった気がする」
「尺が余ったとか」
「まさか」
そう話しながら、2人で笑った。
館内の明るい照明が、ひとつひとつのショップを明るく照らす。店先に並ぶ商品も、それを眺める他の客たちも、キラキラ輝いて見える。
「どこか見たいお店ある?」恵人は訊いた。
「うーん……」
正直なところ、男性と出かけているときに服を見定める気はおきない。かといって、このままどこにも入らず歩いているのもつまらないか、などと考えながら辺りを見渡していると、あるショップの入り口にいる小学生くらいの女の子と、母親らしき女性の姿が目に留まった。
その店は姫系子ども服のブランドで、女の子はフリルのついたピンクのワンピースの裾をつかんでいる。そばを通り過ぎようとしたとき、母親の声が耳に届いた。
「ピンクなんて着るもんじゃないって言ったでしょ」
佑希は足を止めた。女の子は訴えるような目で母親を見上げている。
「これからは女の子だって青や緑を着る時代なの」
青色のパーカーとカーキ色のカーゴパンツを着たその女の子は、諦めたように手を離した。
「……水野さん?」
恵人に呼びかけられ、佑希は我に返る。気がつくと、恵人は佑希の数歩先で立ち止まって、こちらを振り返っている。
佑希は歩き出し、言った。
「それじゃあ、上に行ってみようか」
「わあー!」
ビル最上階の展望台。
ガラスの向こうはオレンジ色に染まっていた。遠くに見えるビル群は黒いシルエットとなり、その向こうに太陽が身を隠そうとしている。
「すごーい! 綺麗だねえ」
佑希はそう言って、恵人の方を見た。恵人はただ黙って微笑んだ。
都会の向こう側に広がる、あたたかな空の色に、胸をぎゅっと締めつけられそうになる。嘘偽りのない、自然の色だ。
「あのね」佑希は口を開いた。「今日誘ったのは、本当は、考え直したからなの」
恵人は目を見開いて佑希を見る。
「最初、せっかく誘ってもらったのに、私ったら、自分の立場とか周りの人の言うこととか、そんなことばっかり気にして断ってしまったんだ。くだらないよね」
佑希は口元だけで笑って、恵人を見た。
「いや、くだらないなんて言えないよ」恵人は首を振った。「僕だって、世の中分かってるよ。いつ首を切られるか分からない、不安定な生活で、水野さんみたいな立派な人と釣り合うわけないって」
「でもね」佑希は恵人を見据えた。「私は、あなたを忘れられなかった」
恵人は微笑んだ。「僕もです。水野さんが笑顔でいられるように、ずっと傍にいたい」
きっと展望台には他にも人がいたはずだ。けれども、2人の目には周りの人たちの姿は入っていなかった。
2人はどちらからともなく腕を伸ばし、抱擁を交わした。
目の前は、一面の街の夕空。まるで、空を飛んでいるようだった。
いつの間にか日は暮れていた。
「えっと、この下の階って、レストランなんだよね」恵人が言った。
「じゃあ、そこで食べてこっか」佑希は返す。
「大衆居酒屋じゃなくて大丈夫?」恵人はいたずらっぽく訊くと、佑希は笑った。
「今日は特別な日だもん」
展望フロアのひとつ下の階のイタリアンレストランに入ると、窓際の席に案内された。2人は向かい合って座った。
「しまった、今日もスーツにしてくればよかった」
恵人は、お洒落な雰囲気の店内を見渡すと、笑って言った。
「あら、充分立派よ」佑希もまた笑った。「まあ、けど、あのときのスーツ姿もカッコよかったけどね」
「よし、明日はスーツで出勤するか」
「やだやだ、明日のことはまだ考えない」
佑希は、シッシッと嫌なものを追い払うように手を振った。
本当に、まだ明日のことは考えたくない。職場に行けば、生産性の低い仕事が待っている。
「お待たせいたしました」
店員が来て、佑希の前にリゾットを、恵人にパスタを運ぶ。
「そうだね。今日はまず、この料理を楽しもう」恵人は穏やかに言った。
ああ。自然にそう言ってくれる人が目の前にいてよかった。口をつけたリゾットは、いままででいちばん美味しかった。
「そういえば、恵人は、ウェブデザイナーっていうのかな、HP作るような仕事したいとか思ったりしない?」
「どうしたのさ急に」恵人は面食らったように聞き返す。
「んーなんとなく。ほら、前に見せてもらったHP、センス良かったじゃん」
本当になんとなく、解放感からそんな発想が浮かんだだけだ。別に、自由で縛られない2人の未来を妄想していた訳ではなく。
「うーん、好きを仕事にすればいいってもんじゃないってのは、前の仕事で思ったかな」
自由で縛られない未来は、音もなく萎んだ。
「ま、そうだよね。そういう私も、保険が好きでこの仕事してる訳じゃないし」佑希は自分に言い聞かせるように言った。
「じゃあ、どうしていまの仕事に?」
「うーん、就活のときは、総合職でバリバリ働けるならどこでもよかったかなあ。なんとなく、金融系で大企業の方が、女でも舐められずに働けるイメージがあったから。それに……」
「それに?」
佑希は窓の外に並ぶ、大きなビルの群れを見下ろした。
「正直、大企業なら潰れることもないし、安泰かなって。船は大きい方がいいと思ってさ」
言葉にすることで気がついた。偉そうなことを言っておいて、自分も凝り固まった価値観に縛られていた訳だ。
「けど、最初の動機がどうあれ、立派に働く水野さんは素敵だよ」
そう言われ、佑希は思わずむせそうになった。
「もうっ、なんでさっきからそう恥ずかしいことばっか言うの!」
そう言って、佑希は口を尖らせた。その姿に恵人は笑った。佑希も、耐え切れず口元をほころばせた。
高田馬場駅、改札前。
佑希は、改札の手前で立ち止まり、恵人に向き直った。
「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。また明日、会社のどこかで顔見られるといいね」
そうだ。明日は会社だ。もうそろそろ、明日のことを考えてもいい時間だ。佑希は、駅の時計にちらりと目をやる。これから、部屋に帰って、化粧を落として、明日に備えなければ。
それでもまだ、今日を終えたくなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「寄って、いきなよ」
# 14
手の届かないところにいると思っていた女性が、自分の腕の中にいた。
ガサガサと音を立て、恵人はコンビニ袋からサンドイッチを取り出した。
「はい、軽いのがいいって言うから、サンドイッチにしたよ」
「あ、ありがと。そこ置いといてー」
佑希は、マスカラを塗りながら鏡越しに答える。
「ワイシャツは買えた?」
「うん。すぐ向かいがコンビニっていいね」
恵人はコンビニ袋からワイシャツの入った袋を取り出し、ビリビリと袋を開けた。
佑希はマスカラをしまうと、ヘアオイルを手に取り、髪になでつけた。
恵人は佑希に背を向け、チェックシャツを脱いでワイシャツに着替える。佑希は立ち上がり、手を洗いにキッチンへ向かう。
佑希が恵人のそばを通り過ぎると、ほのかに甘い香りが恵人の鼻をくすぐった。自分はこの香りを知っている。
「さ、食べないと。遅刻しちゃう」
恵人は口を開きかけたが、佑希の勢いに押され、そのままテーブルに着いた。
恵人がコンビニのコロッケパンを頬張っていると、佑希はやや上目遣いで恵人の方を見た。
「あの……ごめんね?」
「えっ、何が?」パンを喉につかえそうになりながら、恵人は訊き返す。
「目が覚めたら、朝ごはん用意してるような彼女じゃなくて」
「いや、そんなテンプレ通りの展開期待してないから。それに、昨日寝たのだって、その、遅かったし……それに、そんな佑希さんだから、僕は……」
恵人はパンをテーブルに置き、佑希をまっすぐに見つめた。
「はい、そんな時間ないよ!」
佑希はぴしゃりと答えた。けれども口元はニヤニヤと、笑みを隠せなかった。
スーツ姿のサラリーマンたちが、駅からぞろぞろと吐き出されていく。その中で、2人は、肩を並べて歩いていた。
「やっぱり、僕、離れて歩こうか?」恵人は訊いた。
「え、なんで?」佑希は訊き返す。
「いや、ほら……佑希さんは周りの目があるじゃん。もし、あの女の人とかに見られたら……」
古山のことか。佑希は、幸せなひとときに水を差された気持ちになった。
「構わない」
「そ、そう? でも上司の人に知れたりしたら、印象悪くならない?」
今度は前島の顔が浮かぶ。男女平等を謳う彼は、社内恋愛にどんな反応を示すだろうか。いや、仕事の評価とプライベートは別だ。文句は言わせない、そんなことで。
「なんだよ、そんなことで……」
佑希が口を開こうとすると、唐突に真後ろから大声がした。佑希と恵人は顔を見合わせる。
佑希が振り返ると、男性が電話で話していた。しかも知っている人だ。同じ会社の、営業本部の課長を務める根本だ。不満そうな声で、電話の相手を言い伏せようとしている。そんなの俺が出勤してからでいいだろう? 待たせときゃいいんだよ、どうせ向こうの勘違いなんだから。
電話の相手は部下だろう。まったく。月曜の朝から電話が来て不機嫌になる気持ちは分かるが、せっかく報連相をしてくれた部下に、そんなことで電話してくるなとは。
また水を差されてしまった。幸せなひとときはここまでか。
月曜日が始まる。今日は平和だといいな。眠たい目をこすりながら、佑希は祈った。
# 15
その日、まだ朝礼も終わらないうちから内線電話が鳴った。電話機のいちばん近くに立っていた佑希が電話を取った。
「事務統括部、水野です」
「営業本部の長谷川です。朝からすみません。伊藤さんか古山さんはいらっしゃいますか」電話の相手はそう名乗った。
伊藤は、今日明日と福岡へ出張中だ。佑希は古山に電話を取り次ぎ、朝礼に戻った。
朝礼が終わり、振り返ると、古山はまだ電話を続けていた。
「銀行側との手続きで何かあったのかな……はい……とりあえず至急事務センターに問い合わせてみます……」
月曜の朝からトラブルだろうか。そういうことは珍しくない。
古山か伊藤を指名してきたということは、2人が担当している第3分野の保険商品、つまり医療保険やがん保険、新商品の就業不能保険「くらしサポート」等に関する出来事だろう。自分の担当とは異なる、現在の生命保険業界の主力となる分野だ。
佑希はデスクに着くと、PCの画面に目を落とした。組織には役割分担がある。自分は自分の仕事をこなさなければ。
メールをチェックしていると、先程の長谷川からメールが送られてきた。宛先は古山だが、佑希もCCのメンバーに入っている。
長谷川から古山に宛てたメールの下には、長谷川と東京西支社とのやり取りが引用されていた。さらにその下には、東京西支社と、その下部組織にあたる立川支部とのやり取りがぶら下がっている。
それを読み解いたところ、今日の早朝、顧客から支部の営業職員宛てに1件のクレームの電話が入ったらしい。話を聞くと、その顧客は最近「くらしサポート」を契約したばかりで、保険料の初回引き落としが先週あったのだが、週末に記帳をして確認したところ、通帳に記載されている金額が保険証券の金額より200円ほど多くなっていたという。
そんなのはどうせ顧客の勘違いだろう。そう思ってから、佑希は先程自分の真後ろで電話をしていた根本の言葉を思い出した。どうせ向こうの勘違いなんだから。そう根本も言っていた。
長谷川は根本が課長を務めている営業本部の社員だ。もしや、先程根本が電話していたのはこの件ではなかろうか。全容が気になり佑希はメールを読み進めた。
どうやら電話を受けた営業職員も、相手の勘違いだと思ったらしい。そのため、契約内容を一から説明し直し、誤解や不明点がないかを確認し、さらには顧客が手にしている保険証券や通帳が本人のもので間違いないかなど、事細かに状況を確認した。しかし、それが顧客の怒りに火を着けてしまったらしく、とうとう本人が開店前の支部に直接乗り出してきたという。
と、まあここまでなら、あり得なくはない話だ。問題はここからだった。その後、支部長を巻き込んで顧客の話をよくよく聞いたところ、契約時の案内も、顧客の認識も正しく、顧客が持参した本人の保険証券にも案内通りの内容が記載されているのに、本人の通帳の金額だけが違っているのである。
そんな訳でその顧客は、これが本当なら由々しき事態だ、本部の責任者を出せと、いまも支部で粘っているという。
なるほど。支部での対応は一刻を争うということか。それで早々に支部から支社へ報告が行き、支社も本社への報告が必要と判断し、営業本部にまで話が上がってきたということか。それならわざわざ始業前に課長職まで連絡が行ったというのも頷ける。もし本当にこちらの手違いなら大変なことだ。
まあ古山の言う通り、銀行との間の事務処理上の問題か何かで、そのうち決着がつくだろう。
しかし、2時間後、古山は受話器を握りながら普段見せない焦りの表情を浮かべていた。
「それじゃあ、事務センターさんでも銀行さんでも、手続きは正常に行われているというのですか?」
「……なにか、他のお客さんと違う処理をしているとか……は、ないですか……」
自分の業務に集中しなければ。そう思いながらも、耳はつい古山の声に気を取られてしまう。
そんなとき、無人の伊藤の席で電話が鳴った。佑希が電話を取る。
「大洋生命事務統括部、水野でございます」
「大洋生命テレサービス、インバウンドの柏木です」
コールセンターからの電話だった。柏木は、第3分野の保険商品に関する問い合わせを受けている係で、係長を務めている。佑希とは担当分野が違うので接点は少ない。
「お忙しいところ恐れ入りますが、古山様か伊藤様はいらっしゃいますでしょうか」
佑希は古山の方を見た。まだ難しい顔をして電話を続けている。
「伊藤は本日出張中でして、古山はただいま他の電話に出ているのですが――」
佑希は一瞬考えた。通常なら折り返しにして、古山に電話があった旨のメモを渡すところだが――
「よろしければ私の方で代わりに伺いましょうか」
柏木も一瞬考えたようだったが、どうやら急ぎの案件らしく、佑希に事のあらましを説明し始めた。
「――……えっ?」
柏木の話に、佑希は耳を疑った。
「よくいままで問題にならなかったよね」
足早に歩きながら、古山は語気を強めた。
「実は柏木さんの話だと、先月も似たような問い合わせを受けた人がいたとかなんとか」
佑希はその後ろを歩きながら、古山の後ろ姿に話しかけた。
「けど普通に考えてあり得ないことですし、普段から、契約時と話が違うって問い合わせはただでさえ多いので、お客さんの勘違いだと思ったみたいなんですよ。それで、契約時の案内なら営業職員に確認し直せって答えちゃって、お客さんも良い人だったので、分かりましたって言って終わっちゃったのですって。でも今日、他の人からも同じ問い合わせがあったからって、慌ててこっちに」
2人は、部屋の隅の、パーテーションに囲まれたミーティングスペースに入った。
「それ1件目のときに教えてくれれば……」古山は溜め息交じりにそう言い、席に着いた。
「ですよね……」そう返しながら、佑希も古山の隣に座った。
とはいえ、勘違いだと思う気持ちも分からなくはない。自分だって、支部での出来事がなければ、柏木を疑ってかかっていたところだった。
「ところで、そのお客さん、まだ支部にいるんですか?」佑希は訊いた。
「そうなの。ついさっきも長谷川さんから催促の連絡があって。けど、お客さんに強く出られないからってうちに当たらないでほしいな。うちじゃどうしようもない話なんだから」
「ですよね……」
前島がやって来たので2人は話をやめた。少し遅れて部長の山下が来て、古山の向かいに腰を下ろした。
「お待たせ。じゃあ、早速だけど改めて状況を教えてくれるかな」山下は2人を向いて切り出した。
古山は、立川支部での出来事について話し始めた。長谷川からのメールでは部長まではCCに入っていなかったので、メールの内容をかいつまんで説明し、支部では現在も顧客対応中だということもつけ加えた。
「最初は、事務センターと銀行とのやり取りでエラーがあったのかと思ったのですが、事務センターに確認したところ、事務センターでも、引き落とし先のひかり銀行でも、処理は正常に行われているということでした」
古山がきっぱりとそういうと、山下は黙ったまま眉根を寄せた。
「あの、事務センターの回答は本当で、今回は銀行との間の問題ではないのではないかと……」
佑希は、山下が事務センターの回答を疑っていることを察し、先回りして口を開いた。
「どういうことだ」山下は口を開いた。
「古山さんが事務センターに確認している間、コールセンターから同様の出来事の報告が入ったんです」
「同様の出来事?」山下は訊き返す。
「『くらしサポート』の保険料が、過剰に引き落とされているという問い合わせです」佑希は答える。
「まさか。どこの銀行だ」
「宮城銀行です」
一瞬、沈黙が流れた。山下は再び口を開いた。
「お客さんの勘違いじゃないのか。支部の件と違って電話口なんだから、通帳や保険証券を実際に見た訳じゃないだろう」
「コールセンターが言うには、お客さんは大手証券会社に勤めている理路整然とした方で、勘違いをするようには思えないということです。対応者もベテランで、30分以上かけて丁寧に聞き取りをしています。それに……」
「それに?」
「別のオペレーターが、先月も過剰引き落としの申し出をしてきたお客さんがいたと……」
「まさか。ならどうして先月のうちに報告しないんだ」
「……お客さんの勘違いだと思ったそうです」
山下は言い返そうとして、言い返せる立場にないことに気づいたのか、口をつぐんだ。そして思い出したかのように、口を開きかけた。
「……名古屋信金です」佑希が口を開いた。
再び、沈黙が流れた。
少しして、じっと話を聞いていた前島が、口を開いた。
「いやしかし、仮にシステム上のミスか何かがあったとしても、それならもっと問い合わせが殺到しているはずです。それに『くらしサポート』なら私も契約していますが、問題なく引き落としはされています」
前島の言うことはもっともだ。新商品のリリースからもう何ヵ月も経っている。いくらなんでも問い合わせが少なすぎる。佑希自身は「くらしサポート」を契約していないので、それに関してはなんとも言えないが……
「なんか、その3人に共通点とかないのか」山下は、前のめりになりながら訊いた。
「それなんですが、3人とも同じ特約をつけています。『先進医療特約』と『がん診断特約』、それに『入院一時金特約』の3つです」
古山が口を開いた。なるほど、自分はそこまで思い至らなかった。さすが古山だと佑希は思った。
前島が再び口を開いた。
「システムのことはさっぱりですが、もしその3つともを契約した人に限った不具合があり得るなら、数も絞られますね。それなら、いままで明るみに出なかったとしても、まああり得なくはないか……」
山下は、額に手を当てて少し考えていた。そして、手を下ろすと言った。
「危機管理マニュアルに従って報告だ」
# 16
いつも通り、保険金の請求書の内容を端末に入力していた恵人は、顧客が書いた書類の中に“祐希”という名前を見つけた。字は少し違うが、愛しい人を思い出すには充分だった。
昨日の佑希の姿が、自然と思い起こされる。真剣に映画を観る横顔、夕日の中での抱擁、食事中の笑顔、そして……
思わず口元が緩みそうになり、恵人は慌てて真剣な表情を作った。
それにしても、以前エレベーターで出会ったときは難しい顔をしていた佑希を笑顔にすることができたのだ。彼女にはもっと笑っていてほしい。彼女の苦しみの種は取り除いてあげたい。
そうだ。ご飯とか作りに行ってあげたいな。
昨夜、飲み物を出してくれたときに冷蔵庫の中身が一瞬見えてしまった。いや、覗くつもりはなかったんだけど。たまたま見えただけなんだけど。
で、その冷蔵庫は、飲み物や調味料以外ほとんど空っぽで、食材らしきものが入っているようには見えなかった。
きっと、激務で食事を作る余裕もないのだろう。自分も忙しいときは食事への関心が低くなっていたっけ。だからこそ、美味しい食事を作って佑希を癒してあげたい。佑希が喜んでくれる姿を見たい。
いや、それって結局自分が、喜ぶ佑希の姿を見たいだけじゃないか。それに、いきなり食事を作りに行くのは、やっぱり重いかな。
でも、食事、一緒にしたいな。せめて一緒にお昼に行くとか。
しまった。今日お昼一緒に行けるかどうか朝のうちに訊いておけばよかった。佑希といると、幸せ過ぎて訊かなければいけないことを忘れてしまう。
佑希の階はスマホの持ち込みも自由らしいし、昼休みになったら連絡してみるか。
そういう訳で、昼休みが始まるなり、恵人は早速佑希にLINEを送ってみた。しかし、しばらく画面を見つめてみても、既読はつかなかった。トイレを済ませて再びスマホを取り出してみても、まだ既読はついていない。
どうしよう。忙しかったかな。やっぱり朝のうちに訊いておけばよかった。
それとも、いきなりこんなメッセージを送って迷惑に思われただろうか……
考えていても時間が過ぎるだけだ。そう思い直し、恵人は食堂へ向かった。スマホをこまめに確認しながら、ランチを選び、会計を済ませ、2人掛けの席を選んで、奥のソファ席は空けたまま手前側の椅子に座った。そしてポケットからスマホを取り出し、画面を見てみるも、佑希がメッセージを見た形跡はなかった。
普通に考えたら、忙しいんだろうな。恵人はそう思おうとしたが、今朝のやけにあっさりとした佑希の態度がふいに頭をよぎった。自分とのやり取りも化粧の片手間といった様子で、こちらを見るのも鏡越し。朝食に何を食べたいか訊いても、軽いのなら何でもいいと投げやりな答え。愛の言葉は時間がないと拒絶され……
いやいやそんな訳がない。佑希はその後も、自分と並んで歩くことを選んでくれた。そんな佑希を信じないのは逆に失礼だ。きっと本当に忙しいだけなんだろう。
このままずっと待っていても仕方ない。恵人は、《忙しかったかな? いきなり誘ってごめんね。先に食べてるね》とメッセージを送り、食事に手をつけた。
それにしても。恵人は周りを見渡した。右隣に座っているのは女性2人組。左隣は男性2人組。どちらも楽しそうに話をしている。気にしすぎかもしれないが、2人掛けの座席のわざわざ手前の席に1人で座っている自分が少し情けなくなった。
せめてまた久米川にでもバッタリ会わないかなあ。そういえば久米川とは、この間一緒に飲んで以来連絡を取っていなかった。
あいつ、佑希のことを高嶺の花なんて言っていたけど、昨日の出来事を知ったらどう思うだろう。驚き羨む顔を思い浮かべながら、様子伺いに久米川にもLINEを送ってみた。
しかし、昼休み終わる時間になっても、どちらのメッセージにも既読はつかなかった。
山下の判断のもと、今回の過剰引き落とし問題は、会社のあらゆる危機に対応するリスク管理部に報告され、システム企画部を中心に調査が始まった。リスク管理部の判断で、役員や関連部署の責任者を集めた緊急対策会議が招集され、山下と前島の2人も5階の会議室へと向かった。
佑希は会議に向けた報告書の作成や他部署とのやり取りに追われ、その合間には週末にコールセンターや事務センターで起きたその他の出来事についての報告も入り、やっと一段落がついたときには3時近くになっていた。
「はい、古山さん。鮭とツナマヨのおにぎりです。あとコーヒー。本当にこんなんで足りるんですか? 僕だったら倒れちゃいますよー」
そう言いながら古山におにぎりとコーヒーを渡すのは、入社2年目の後輩、福留だ。彼は個人年金保険や貯蓄保険の担当で今回の事態とは直接関わりがなく、比較的手が空いているため、休憩に出る間もない2人のために昼食を買ってきてもらったのだ。
「ありがとう。大丈夫、おにぎりの気分だったの」古山は笑顔でそう答える。
「水野さん、軽いのでいいって言ってたので、サンドイッチでよかったですか?」福留はそう言って残りのレジ袋を佑希に手渡す。
「え、ああ、うん。ありがとう」
そう答えて、レジ袋の中を見ると、今朝食べたのと同じハムサンドだった。ちゃんとリクエストしておけばよかった。朝も先程も、時間がなかったからやむを得ないが、人に食べるものを頼むのは苦手で、どうしても曖昧なリクエストになってしまう。
「例のお客さん、まだ支部にいるんですか?」福留が尋ねた。
「ううん、さすがに昼過ぎに帰ったって。明日の夜、支社が自宅を訪問することになったみたいだけど」古山が、おにぎりのフィルムを引っ張りながら答えた。
「そっか、それはひとまずよかったですね」
「まあ、これから支社の対応をどうするかは、5階の会議と営業部門の問題だけどね。うちは営業本部が事務センターに問い合わせるのの間に入っただけだし」古山はそう言って、おにぎりに口をつけた。
「そういうもんなんですね……」福留はまだしっくりこないような様子で返事をした。
「支社のことまで構ってられないのよ。それより気になるのは、対象者がどれくらいいるかとか、どうやって対象の顧客にアプローチするかとか、かな。あと、新聞沙汰になるかどうかとか。早くシステムの方で原因が分かるといいんだけど」
「新聞沙汰、なりますか……」
2人の会話になんとなく耳を傾けながら、佑希はコーヒーを飲み、サンドイッチに手をつけた。同じチェーンの同じ商品のはずなのに、朝に食べたものよりパサパサしていて、味気なく感じた。今日2回目で飽きているからなのか、消費期限が近いものだからなのか。
そんなことを考えながら、片手でキャビネットを開き、鞄を取り出す。鞄に手を入れてスマホの通知を見ると、新着メッセージが2件入っていた。
佑希は急いでサンドイッチを食べ終えると、ハンカチとスマホを取り出してトイレに立った。
パウダースペースの鏡の前に立つと、化粧が崩れかけているのが分かった。
今朝はいつもと調子が違ったからな。
いつもの朝なら、化粧をするのに目はひんむくわ、鼻の下は伸ばすわと、ひどい形相になっているのだが、さすがに恵人の前では恥じらいがあって澄ました顔のままでいた。だから細部がヨレやすくなっていたのだろう。それに、ただでさえ、普段と朝のリズムが違って慌てていたのだ。初めての2人の朝を、もう少し落ち着いて過ごせればよかったのだが、仕方ない。
化粧ポーチも持ってくればよかったと一瞬思ったが、どちらにしてもそんな時間はない。メッセージも急ぎの用事なのかどうかを確認するだけにしておこう。佑希はそう思いながらスマホを覗いた。そして、メッセージの内容に、顔をしかめた。
なんだ、お昼の誘いだったのか。こっちは必死で仕事をして、お昼どころじゃなかったというのに。忙しかったかな、なんて後から言うくらいなら、先にこちらの状況を想像してほしかった。今日のような大きなトラブルがなくたって、ただでさえ月曜の午前中は慌ただしいのに。
最初のメッセージが届いたのは12時2分。向こうは12時になると同時に席を立てる環境という訳だ。こちらの忙しさなんて分からないのだろう。SEの頃は激務だったと言って意気投合してくれたと思ったのに。
そう思いながらスマホをポケットにしまおうとしたとき、古山の言葉がふと頭をよぎった。
――早くシステムの方で原因が分かるといいんだけど。
恵人も同じシステム屋さんだった訳だし、取っ掛かりでもいいから何か分からないだろうか。そういえば恵人はいま午後の休憩時間のはずだ。
3時の休憩時間が始まるとすぐ、恵人はロッカーに向かいスマホを取り出した。けれどもこの時間になっても佑希がメッセージを読んだ形跡はない。
もしかして、やっぱり無視されているんだろうか。何か佑希の気に障ることをして嫌われてしまったとか。もしくはそこまでいかなくても、佑希にとって自分の優先度合いは低くて、これからも自分が追い続ける恋愛になってしまうのか……
不安な気持ちで、自分が送信したメッセージを見続けていると、画面にパッと“既読”の文字がついた。恵人はホッと胸をなでおろした。
やはりそんなことはない。自分はもっと自信を持っていいはずだ。そう思うと同時に、いままで佑希はスマホを見ることもできない状況だったのではないかと心配になる。お昼ご飯はちゃんと食べているんだろうか。
そんなことを考えながら画面を見ていると、待ち望んでいた佑希からの返信が届いた。
《ねえ、銀行引き落としの金額がおかしくなっちゃうシステムのバグみたいなのって、聞いたことある?》
…………はっ?
恵人はポカンと画面を見つめた。言っていることの意味が分からない。言っていることの意図も分からない。それに、こっちが一方的にお昼に誘ったとはいえ、メッセージに気づかなかったことに対して一言あってもいいんじゃないだろうか。佑希はもう少し聡明な人だと思っていたのに。
いや、きっと佑希も大変なんだろう。何かトラブルが起きているのかもしれない。まずは、何があったか聞いてあげなければ。そして、自分の知識に限界があることもきちんと伝えなければいけない。
佑希が質問のメッセージを送ると同時に、その隣に“既読”の文字がつく。つまり、恵人はこの画面を開いたまま佑希の返信を待ち構えていたということか。ちょっと引き気味で佑希はLINEの画面を閉じた。
しかし、何はともあれタイミングよくメッセージを目にしてもらうことができた。原因はシステム企画部を中心に調査中だというが、システム企画部には、PCのローマ字入力もできず、いまだにカナ入力で文章を打っているような人もいるというのだ。実務をすべて子会社任せにして胡坐をかいている人たちより、現場を知っている恵人の方がまだ柔軟な発想ができるかもしれない。
返事を待つ間に用を足し、手洗い場の前で再びスマホを見ると、さすが恵人だ。早速返信が来ている。
《何の話? 僕はWEB系SEだったから、よく分からないんだけど》
佑希はガックリと肩を落とした。
そっか。そりゃあそうだよね。期待した自分が馬鹿だった。
同時に、恥ずかしさと自分への怒りが込み上げてきた。自分は何をやっているんだろう。この忙しいときに、男とLINEなんかして。会社の問題を自分の恋人が解決してくれるなんて期待して。
そんな気持ちの収まらないまま手短に返事を返し、佑希はトイレを出ようとした。するとそこに、柴田が入ってきた。
「あら、水野ちゃーん」
「柴田さん、お疲れ様です。ってうわなんですか」
柴田は佑希を見るなり、佑希がさっきまでいたパウダースペースに佑希を押しやった。そしてニンマリと笑うと、声を潜めて言った。
「見ちゃったわよー。今朝あの男の子と一緒に来てたでしょー」
佑希は額に手をやった。朝の時点では誰に見られても構わないと思っていたが、いまは説明するのも面倒臭い。
「ね、どしたの。朝帰り? いつの間に?」
佑希の気分に反して、柴田は上機嫌だ。
「……知りませんっ」
佑希は膨れっ面で柴田を押しのけ、その場を後にした。
# 17
佑希は自席に戻ると、PCで社内ポータルサイトを開いた。ポータルサイトからは、各種連絡文書、社内の座席表や連絡先一覧、そして社内マニュアルや顧客向け資料のデータなどを見ることができる。佑希はその中から、「くらしサポート」の顧客向け資料のPDFを開いた。
入社する前は、保険会社に入社したら、様々な保険商品の知識を叩きこまれ、自社のあらゆる商品に詳しくなれるのかと思っていた。しかしいざ入社してみると、入社後に配属された営業現場では、商品の細かい知識よりもいかに営業職員とうまくやっていくかの方が重要で、その後配属された事務センターでは、データ入力を行う派遣社員やアルバイトをいかにうまく使っていくかの方が重要で、事務統括部に異動してきてからは、コールセンターや事務センターをいかにうまく管理していくかの方が重要だった。
もちろん、自分が担当している死亡保険の分野ならある程度の知識は頭に入っているが、発売されてからまだ日も浅い、自分の担当外の商品となると把握していないことも多い。しかしこうして関わってしまった以上、知りませんでしたでは済まされない。
佑希は画面をスクロールしながら、資料の文字をざっと追った。病気・ケガで働けなくなったときに、毎月給付金をお受け取りいただけます。当社独自の「就業不能状態」に該当した場合が対象です。「就業不能状態」については下記の表通り……
そして、先程話題になった特約の紹介のところで手を止めた。
多様な特約はこの商品の売りの一つであり、種類は16種類。先進医療による療養を受けたときのための「先進医療特約」、初めてがんと診断された場合に備える「がん診断特約」、入院したときの一時金を給付する「入院一時金特約」、他にも、骨折したときの保障や、余命宣告されたときの保障というのもある。
もちろん、様々な特約をつければつけるほど、保険料は少しずつ上乗せされるし、保障内容も複雑になる。
もしかしたら、保障内容をきちんと理解しないで、営業職員の勧めるままに特約をつける顧客もいるかもしれない。だからこそ、今回の件で最初に対応した営業職員も、まず最初に契約内容を確認し直したのだろう。
「あのぉー、ちょっと教えてほしいことがあるんですけどぉー」
「うわっ」
びっくりして振り返ると、福留がPCを覗き込むようにして真後ろに控えていた。慌ててPDFを閉じようとしたが、福留はのんびりした調子で言った。
「あー、『くらしサポート』って特約いっぱいありますよねー。僕も入るとき、どれつけようか迷っちゃいました」
佑希は一瞬沈黙した。そして、驚いて訊き返す。
「福留くん、『くらしサポート』入ってるの?」
「あ、はい。自分のとこの商品ですし、せっかくだから入っておこうかなーって思って」
「へー……そうなんだ。……で、教えてほしいことって?」
「それがですね……あっ、ペン忘れてきちゃった。すみません、取ってきます」
そう言って福留は、自分の席へと走った。
入社2年目のマイペースな後輩に、そんなに愛社精神があるとは思わなかった。そもそも実家暮らしの独身、しかも親は医者という恵まれた環境で、働けなくなったときの保障など要るのだろうか。
これも入社してから意外に思ったことの一つだが、保険会社の社員は、自社の保険にあまり入りたがらない。総合職社員は、営業職員のように契約数を稼ぐために自ら保険に入る必要はない。それに社員向けに割安の団体保険があるのだ。佑希もそれに加入し、最低限の保障だけで済ませている。
しかし、だからといって、加入を考えないどころか、新商品の詳しい情報も把握しないまま仕事をしてきて、いざ自分が関わってからマニュアルを開き始めているようでは情けない。しかもそんな姿を後輩に見られてしまったとは。
もっと勉強しなければ。佑希は思った。
夕方になってやっと、山下と前島が緊急対策会議から戻ってきた。前島は、古山と佑希を自席のそばに呼んだ。
「システムの方で、原因が特定された。詳しいことは省くが、システムの設計ミスで、特定の特約をつけるなど一定の条件を満たした顧客について、一回の引き落としにつき数百円の誤計算が起きていたそうだ」
信じられないようなミスが現実になってしまい、佑希は苛立ちを覚えた。とっくに覚悟はしていたつもりだったが、まだ心のどこかで、何かの勘違いであってほしいと願っていたのだろう。
前島は、手に持った資料に目を落とした。
「影響範囲を調査した結果、保険料を過剰に引き落としていた案件が、423件」
佑希は数字をメモに取った。これまで誤った金額のまま見逃されていた数だと思えば多いかもしれないが、システムのミスによる全社的な影響がこれだけで済んだのなら良い方だ。
「そして」
そして?
「実際の保険料より引き落とし金額が少なかったのが986件」
少ない方もあったのか! しかもそっちの方が多いのか! メモを取ろうとした手に力が入り、シャーペンの芯がボキッと折れた。
「合わせて1409人の顧客に影響が出ている」
「それにしても、どうしてこれまで気づかれなかったんでしょう」古山が疑問を口にした。
「実はね」前島は溜め息をついた。「コールセンターで、今日出勤しているオペレーターに対して緊急で聞き取りを行ってもらったんだ。会議には、あっちのセンター長も、テレビ電話で参加していたからね。そうしたら案の定、以前から他にも何件か問い合わせが入っていたというんだ。それが、個々のオペレーターや、SVの判断で見逃されていた。お客さんも、営業職員に確認するよう誘導されたり、間違いなんてあるはずないとコールセンターに強く出られたりして、引き下がっちゃったんだろうね。しかも、引き落とし額が少ない分には損じゃないし」
佑希は苛立ちを隠せなかった。コールセンターは何をやっていたんだ。それを報告してくれていれば、もっと早く対処できたかもしれないのに。
前島は、そんな佑希の気持ちを見透かしたかのように、穏やかな目をして言った。
「上としては、発覚が遅れたのをコールセンターのせいにしたいようだ。だが、私としては本社の監督責任もあると思っている」
佑希は、前島の目を見返した。前島は、さっと厳しい目つきになった。
「コスト削減や効率化を押しつけ、利益になる営業のアウトバウンドばかり重視する。そうして、コールセンターは問い合わせ対応に体力を割けなくなってしまう。するとどうなるか」
佑希は目線を落とした。
「お客一人一人の疑問を掘り下げて傾聴することなく、短時間で電話を切らせ、次の電話を取らせる。その方がオペレーター一人当たりの受信件数は増えて効率が良くなるからね。親身に話が聞けるオペレーターほど評価が低くなり、彼らは理想と現実のギャップに職場を去っていく。うちは関係ありません、営業さんにでも聞いたらどうですか、そういう態度をとれる奴が残っていく」
佑希は背筋が冷たくなるのを感じた。
前島は、まだ大洋生命がコールセンター業務を子会社委託していなかった頃コールセンターに所属していたことがあり、佑希もこの話は以前から聞かされていた。それがいま、目の前で起こっていることとして、改めて重くのしかかる。
「まあ、以前から上に物申していたことだったが、うちの担当の小窪常務が耳を貸さない。この間も、アウトバウンド強化の指示を出してきたところだったしな」
佑希はうつむいた。
――インバウンドも手一杯です!
コールセンターの吉村に言われた言葉がよみがえる。その指示を現場に伝えたのは自分だった。
――実務をすべて子会社任せにして胡坐をかいている人たち。
先程、自分はシステム企画部の人たちのことをそう称した。それは自分への盛大なブーメランだった。結局、やっていることは同じだ。
「さっきの会議は、ひどかったよ」前島は苦笑交じりに声をひそめた。「どう解決するかより、どう自分たちを守るかだ。すべての責任は大洋生命システムズにある。発覚の遅れは大洋生命テレサービスのせいだ。すべて子会社のせいにして、責任を逃れ、自分たちを守ろうとしている。特に、まあ、誰がとは言わんが」
前島は言葉を濁したが、佑希は察した。おそらく隣の古山も。なにしろ、システム企画部も、コールセンターを統括する事務統括部も、小窪の担当部門なのだ。自分を守ろうとする小さい男の姿が目に浮かぶ。
船は大きい方がいいから、と昨日レストランで話したのを思い出す。確かに、そう思ってこの会社に入った。しかしその反面、組織が大きければ大きいほど、絡み合う利害も複雑になる。各々が自らを正当化しようとし、事実は歪められ、しわ寄せは下にいる者に回ってくる。
「まあそういう私も、会議じゃとてもそんなこと口に出せないけどね。ここで君たちに愚痴ったってしょうがない」
そう言って、前島はフッと笑った。
「ともかく、対応についてはいま営業も含めて協議しているところだ。特に、過剰徴収した分をどう返してもらうかをね。どちらにしても、対応が決定したら顧客へアプローチも入るし、プレスリリースも出る。うちが忙しいのは、それからだ」
「はいっ」
佑希と古山は、そろって返事をした。
「水野さんも、担当外のところ悪いけど、古山さん1人じゃ大変だから、引き続き協力を頼むよ」
「もちろんです」
佑希は頷いた。言われずともそうするつもりだった。
「ああそれと、水野さんが柏木さんから受けてくれたコールセンターのお客さんについては、対応方針が決まってからコールセンターで連絡することになった。柏木さんたちの方にもその話は行ってるから心配しないで」前島はそうつけ足した。
「分かりました」
「コールセンターに任せられることは、安心して任せよう。私たちの仕事は、彼らが全力を尽くせるようサポートすることだ」
「はいっ」
佑希は、前島の目をしっかりと見て答えた。
席に戻ると、福留がPC画面を見ながら戦慄していた。今回の件に関するメールを読んでいるようだ。
「な、なんか、やばいことになってませんかぁー? 金融庁がどうとか、いろいろ書いてあるんですけど……。う、うちの会社、潰れたりしませんよね?」
佑希はどっと脱力した。そしてあきれ顔で福留の方を見た。福留はすがるような目で佑希を見る。
しょうがないなあ。佑希は笑顔で福留の方を向く。
「大丈夫、あんたは余計な心配しないで、自分の仕事に専念しなさい。こんなことで潰れたりするもんですか」
# 18
水曜日。トラブル発覚から2日。
昨日の午後、今回の誤計算問題の対応方法が決まったと情報が下りてきた。
まず、対象顧客全員にお詫びとお知らせの書面を送付したうえで、過徴収者には速やかに口座振込にて対応。過少徴収者には営業職員が個別に訪問、手続き方法について案内し同意を得た場合にのみ、不足分を徴収することとなった。
その対応が決定するまでの営業部門との抗争や、実際に訪問を行う末端の営業現場の苦労は、想像するだけで頭が痛い。
そして今朝、対象者へ送るための書面のデータが連携されてきた。今回のトラブルの概要と、謝罪の文言、そして今後の対応について記載した文書だ。過徴収者宛てと過少徴収者宛てとで内容が一部異なり、それぞれの場合の手続き方法が記載される。
書面はすでに発送準備に入っており、今日の昼の便で発送されるという。
その書面には、問い合わせ先としてコールセンターの電話番号が載る。電話を受けるのは普段問い合わせ対応をしている大洋生命テレサービスだが、電話番号は通常のものとは異なり、今回の問い合わせ用に割り当てられた専用の番号を使用する。そうして、ベテランのオペレーターだけがその電話を受けられるように設定をするのだ。
書面のデータとあわせて、書面を見て問い合わせてきた顧客の質問に答えるための想定Q&Aの案も作成中だ。緊急対策会議の方で、顧客から寄せられそうな質問とその回答を簡単にまとめてくれているのだが、こちらはまだ叩き台だ。事務統括部とコールセンターの方で、回答の内容が不充分なものについて指摘をしたり、ありそうな質問を追加したりするのだ。最終的に回答をまとめてゴーサインを出すのは緊急対策会議の方だが、顧客から聞かれそうなことが分かるのは、普段から顧客と接している側だということだ。
その業務を古山が担当しており、先程から古山がコールセンターの担当者と電話する声が聞こえてきている。佑希はその声をバックに、明日からのオペレーターの人員配置に関する計画書に目を通している。
「――ええ、それと、契約者の家族が書面を見て電話してきた場合は本人からの架け直しを依頼するっていうのが、もし了承してもらえなかったらってことですよね」
「――そうですよねー。ちなみに、そういうときって、普段だったらどうされてますか?」
「――あー、それもそうですよね。もしそれでも納得されなかった場合ってことですよね。一応、それも確認してみますね」
そしてしばらくの静寂ののち、古山からコンプライアンス部に宛てたメールが、佑希にもCCで届く。古山のメールを打つ速さに佑希はギョッとする。
メールの添付ファイルを確認していると、また古山の声が聞こえてくる。
「事務統括の古山です。お疲れ様ですー。先程送らせていただいたメールの件なんですが、いま大丈夫ですか?」
「――ええ。コールセンターとしては、そういったことを心配しているようなんですけど、そういうときは都度状況に応じて確認させていただくということで――」
「――ただ明日の10時にはウェブにもニュースリリースが載るじゃないですか。そこで公開する内容までは変に隠すこと――ええ、大丈夫ですよね。それで、そのニュースリリースの情報と想定Q&Aってそろそろ――」
「水野さん、ちょっと頼めるかな」
前島に呼ばれて、佑希は席を立つ。
前島からのややこしい仕事の依頼と、この忙しいのにまた余計な長い愚痴を聞かされて席に戻ってくると、まだ古山は電話をしていた。
「――それなので、『弊社ウェブサイトで公開しております通り、一部のお客様に保険料の引き落とし金額の誤りが発生しておりました。つきましては――』って具合で案内していただいて――」
どうやら、今度はまたコールセンターと話しているようだ。
「そのうえで、個別に何かあった場合はご相談いただければ、こちらで対応を検討いたしますので――ええ、いつものフォーマットで大丈夫です。詳しくは、Q&A一覧を改めてメールしますので――」
相変わらず、古山の“翻訳力”は秀逸だ。
現場からの細かな意見と、上からの大まかな方針。どちらの立場も理解したうえで、それらが互いに伝わるように、不要なところを省き、求められている文言をつけ足す。
それはこの仕事には当然必要なスキルなので、佑希自身も普段から心がけていることではあるが、古山はそれをもっと自然体でやってのけているように見える。
古山はこの仕事をただの調整役だと言っていたけれど、本当にそうとしか思っていないのだろうか。
そんなことはなく、佑希の目には、古山はもっとこの仕事に誇りを持っているように見えるのだ。
夕方になってQ&Aも整った。佑希は、必要な時にすぐ取り出せるよう、一覧を紙で印刷し、改めて眺める。
なぜこのようなミスが起きたのか。他の商品の保険料は正しく引き落とされているのか。返金の手続きが面倒なので、次回の引き落としの際にあわせて引き落としてほしい。等々。そして、
《そちらのミスなのに、客に返金を求めるのか》
という、足りなかった分の保険料を返金してもらわなければいけない顧客から、絶対に来そうな質問もある。それに対しては、お決まりのお詫びと説明の文言の後に
《複数回お詫びと返金依頼を繰り返しても納得されない場合は、SV判断で返金免除可能》
との注意書きがある。
ごね得だよなあ。佑希は心の中でつぶやいた。
ごね得といえば、最初に支部に乗り込んできた顧客は、昨日の夜、支社の責任者が豪華なお詫びの品を持参したら、それにご満悦で事態は丸く収まったとか。もしかしたら、初めからお詫びの品が目当てだった可能性もある。
一方、コールセンターに架けてきた顧客は、事情を説明したらすぐに納得してくれたという。そういった顧客が大半だと思いたいが――
明日の10時になったら、大洋生命のウェブサイトにお詫びとお知らせのニュースリリースが載る。対象者への文書も、早いところでは明日に届き始めるだろう。つまり明日には反響の問い合わせがあるということだ。
無事に乗り切れますように。佑希は祈った。
# 19
火曜日の夜。
恵人は、荻窪のアパートでひとり、スマホの画面を見つめていた。
今日も佑希からの連絡はない。
やっぱり自分から連絡してみようか。
いや。何度となく頭に浮かんだ考えを、恵人は打ち消した。そして、昨日佑希から最後に届いたメッセージを見つめる。
《そっか、急にごめんね。じゃあいいや。いま忙しいからしばらく連絡できないかも》
そして、それに自分は《分かった》と返した。佑希の言うしばらくというのがどれくらいなのかは分からないが、それを了承したからには待つしかない。佑希も大変なのだ。
しかし、いくら忙しいからといって、いきなりこんなに素っ気なくなるなんて。日曜日には、あんなに楽しそうにしていたのに。
佑希に限ってとは思うが、一夜限りの遊びだったとは思いたくない。
そんなことを考えながらスマホを見つめていると、電話が鳴った。
佑希からではない。佑希以外に連絡をくれる唯一の女性、母親からだった。
「もしもし」
「ああ、恵人? 最近電話くれないけど元気にしてるの?」
「元気だよ。最近LINEしたばっかじゃん。心配しないで」
「そんなこと言って。また前みたいに事故にでも遭わないか、お母さん心配なんだよ。本当はもうあんたには東京出てもらいたくなかったんだけど……」
早速会話が嫌な方向に進みそうだったので、恵人は遮るように言った。
「またそんなこと言って。新しい仕事も順調だから安心して」
「順調ったってどうせ大した仕事じゃないんでしょ。あんたみたいなの雇ってくれるようなとこじゃ」
恵人は一瞬、返す言葉につまった。その隙を突くように、母親は言葉を続ける。
「ほらやっぱりそうなんじゃない。もうあんた、茨城戻ってらっしゃい」
「何言ってるのさ。そっちじゃそれこそ仕事ないじゃん」
「仕事なんて選ばなきゃあるでしょうが。うちで恵一郎と一緒に農家やりゃあいいじゃない。あんただけだよ、コンピューターだかなんだか知らんけど、わーけわかんない仕事して、結婚もしないでフラフラしてる親不孝モンは」
また始まった。恵人は額に手をやった。
「恵一郎なんて3人目の子がもう幼稚園だよ。美里だって洋介さん連れて月に1度は子ども見せに来てくれるんだから。洋介さんだって立派だよ。市役所の改修だって、イオンの建設のときだって、みーんな洋介さんがやってるんだからね」
「いや別に洋介さん一人で建てた訳じゃ……」
「あんたねえ、職人さん馬鹿にする気? あんた、東京で机に向かう仕事が偉いと思ってるんでしょう! そんなこと全然ないんだからね」
「分かってるよ。ていうか、大した用事ないんだったら、もうお風呂入るから切るね」
「待ちなさ……」
遮る母親の言葉は最後まで聞かずに、恵人はスマホを耳から離し、電話を切った。
そして、スマホをベッドの上に投げつけた。
翌朝、水曜日。
スマホを見ると、久米川の方から返信が来ていた。
《悪い、返信忘れてた。でっかいミスが見つかって大変でよ。本社にも影響出てると思うがそっちは大丈夫か?》
送信時間は、午前2時。久米川の苦労が頭に浮かぶ。そんなときに連絡させてしまってこちらが申し訳ないくらいだ。しかし、この間一緒に飲んだとき、このままじゃ何か問題が起きるなんて久米川は言っていたが、その言葉がまさか本当になるとは。
もしかすると、佑希が忙しそうなのもそれが原因じゃないだろうか。だとしたら、それこそ間の悪いときに申し訳ないことをしてしまった。
一方の自分は、2人が忙しくしているというのに、まったく影響を受けていないのだが……
しかし、出勤してみると保険金部内もなんとなく騒がしかった。社員の一部は慌ただしそうに、一度電源を入れた端末をまた落としたり、荷物をまとめたりしている。
「何かあったんですか?」
恵人は、隣に座る先輩の派遣社員、北野に尋ねる。
「なんか、上の階でトラブってるみたいで、社員さんが何人か応援に行くんだって。私たちには関係ないけどね」北野は答える。
とうとうこの部署にも影響が出たか。しかし結局、派遣社員の自分には関係のないことなのか。応援というのも、どうせ何か専門的な知識が必要な仕事なんだろう。
そんなことを考えていると、荷物を抱えて部屋を出ていこうとしている社員たちの話し声が聞こえた。
「手作業で手紙折るとかありえないんだけど」
ちょっと待て。それなら誰にだってできるじゃないか。むしろそういう作業こそ自分たちにやらせればいいんじゃないか? というより、なんで手紙? システム関連のトラブルじゃないのか?
……などと思ったことは言えず、始業時間になると恵人はいつも通り入力業務に取りかかった。
が、こちらもいつも通りにはいかなかった。
なにしろ判断を仰ぐ社員がいつもより少ないのだ。書類の不備や、見たことのない種類の添付書類が添えられている場合など、何かいつもと違うことがあったときは、自分で判断せず社員に報告することになっている。まだ入ってから日が浅い恵人は、ただでさえ質問や確認をする回数が他の人より多い。かといって、派遣社員同士での質問は、たとえ相手がベテランでも禁止されている。社員のあずかり知らぬところで、勝手な解釈で仕事を進めるなということらしい。恵人としては、ちょっとした質問なら認めてもらいたいところなのだが。
そんな訳で、恵人は質問がある書類を脇にどけ、他の書類の入力をしながら、同じ島にいる社員の大崎の様子をチラチラと伺う。しかし大崎は、あるときは他の派遣社員の質問を受けており、あるときは自身が係長のところに質問に行っており、あるときは内線電話を受けている。
手が空いていそうなタイミングも時々あるのだが、そういうときに限って恵人の方が、作業のキリが悪くて手を離せない。そうこうしている間にも新たな質問は増え、書類が脇に溜まっていく。
やっとのことで大崎を捕まえることができたと思ったら、そのときにはもう、何枚も溜めていた書類のどの部分の何を訊こうと思っていたのか、記憶が飛んでしまっていた。しかもタイミングを逃すまいと慌てて駆け寄ったので、メモを取るためのペンを持ってくるのも忘れていた。
忙しい大崎に謝りながらペンを取りに戻り、なんとか質問の内容を思い出しながら大崎の指導を受け、すべての疑問が解決し入力を終えた頃には、もう昼休憩の時間になっていた。
恵人は、他の派遣社員たちより少し遅れて部屋を後にした。そのとき大崎や他の社員たちはまだ机に向かっていた。
情けないよな。ひとり昼食を取りながら恵人は思った。
佑希や久米川や他の社員たちが頑張っているときに、自分は逆に周りの足を引っ張っているんだから。
SE時代、システムにトラブルはつきものだった。そんなとき、自分は率先してトラブルに立ち向かおうとしてきた。ときに部署の垣根を越えてまで。まあ、そこまで頑張ってしまったからこそ、一度燃え尽きてしまったのだが。
それが、いまとなっては……
――どうせ大した仕事じゃないんでしょ。
母親の言葉が、改めて胸に突き刺さった。
休憩を終えて仕事に戻ると、さらにはっきりとその事実を突きつけられた。自分のするべき仕事がなくなっていたのだ。
いや、処理しなければいけない書類はたくさんある。この部署には、保険金の請求書が全国の拠点から送り込まれ、まず社員が枚数をチェックしてから派遣社員たちに仕事を回すことになっている。そのチェックをする前の状態の書類は、大崎の机にうず高く積まれている。けれど、大崎にその業務をする余裕がないのだ。
当の大崎は先程から席を外している。室内を見回すと、係長席の隣に座ってなにやら話をしていた。
どうしたものか。自分は都度与えられる業務をこなすだけで、他に抱えている仕事はない。できるのはせいぜい、先程質問した際に走り書きしたことを、忘れないようにノートに書き留めることくらいだ。
しかたないのでノートをまとめていると、隣から北野の声がした。
「そのネックレスかわいいねー。もしかしてプレゼント?」
自分はネックレスはしていないので、その声は別の人に向けられたものだと分かった。
「ありがとー。そう、島田が誕生日にくれたの」北野のさらに隣から返事が聞こえた。
「いーなー。彼氏かー」北野は楽しそうに答える。
そうか。プレゼントにネックレスか。
……じゃなくて。この人たち、いくら仕事がないからといって業務時間内に何をしゃべってるんだろう。社員は忙しそうにしているのに。気がつくと、恵人の向かい側の席でもおしゃべりが始まっている。
おしゃべりは恵人がメモをまとめ終わっても続いていた。何もすることがないまま一人でイライラしていると、ようやく大崎が席に戻ってきた。周囲の話し声は一瞬収まったが、少ししてまた小声でおしゃべりが始まる。
恵人は耐えきれずに席を立ち、大崎の席まで行った。
「あの、何かお手伝いできることありますか」
大崎は驚いたように恵人を見てから言った。
「いや、大丈夫。こっちの仕事だから」
そして、PCに向かい、Excelのファイルを開く。
「け、けど、請求書、数えるのありますよね」
「ああ、ごめんな。昨日の数値だけ、いますぐ入力しなきゃいけないんだ。それ終わったらやるからさ」
「あの、件数数えるだけなら、僕やりましょうか」
恵人がそう言うと、大崎はムッとしたような顔で恵人を見た。
「おまえ、旧帳票の違いとか分かんないだろ。たまに古いのとか、違う種類のとか混ざってるから、そういうのよけなきゃいけないんだよ。こっちは忙しいんだから、余計なことすんなって。ただでさえ、午後に応援から戻ってくるはずだった奴らが、また違う作業手伝わされることになって大変なんだからよ」
知識もないのに差し出がましいことを言ってしまった。そう一瞬思った。けれどもこれまで募っていたイライラも手伝って、恵人はさらに食い下がった。
「だったら僕にその応援に行かせてくださいよ。みんなが大変なときに自分だけぼーっとしているなんて嫌なんです」
「おまえなあ……!」
大崎が声を荒げようとしたそのとき、後ろから声がした。
「大崎くん、どしたの、怖い顔して」
振り返ると、見覚えのある男性が後ろに立っていた。
「あなたは、確か……」
# 20
「すみません、こんなときに不在にしていて。水野さんにもいろいろ対応していただいたみたいで」
木曜日の朝、伊藤は出勤してくるなり頭を下げた。
「大丈夫。引き続き私もサポートに回るから。伊藤くんも出張の後処理とかあるだろうし、何でも頼って」
佑希はそう答える。いまは部の一員として、自分にできることをやりたい。
そして10時を迎え、大洋生命のウェブサイトに今回の誤計算に関するニュースリリースが載る。その後、ニュースリリースの内容は複数のネットニュースにも掲載された。
ニュースリリースには、誤計算の発生した対象者はすでに特定されていることや、対象者には個別に書面を送っていることも明記しているのだが、それでもコールセンターには自分も対象者かどうか尋ねる電話が相次いだ。
コールセンターは、この問題の発覚の遅れに対する反省から、些細なことでもこまめに報告をしてくるようになった。上がってくる報告のほとんどは取るに足らないことだった。佑希としては、そこまで神経質にならなくてもいいと言いたいところだが、立場上そうはいかない。
「まあ、いまのところ想定の範囲内だね」
古山はサンドイッチを片手に言った。
「そうですね。古山さんが周到に備えてくださったおかげですよ」
伊藤が、焼きそばパンを頬張りながら古山を持ち上げる。
「よかったですー。一時はどうなることかと思いましたー」
福留が、3段弁当を広げながらのんびりと言った。
「いや、あなたは変な方向に心配し過ぎなのよ」
ツナマヨのおにぎりを食べながら、佑希は言った。
「まあ、この調子で済んでくれればいいんだけど」
古山がぽつりとそう言った。
しかし、そうはいかなかった。
「2時間半……ですか!?」
佑希は、電話口で思わず訊き返す。
電話の相手は、コールセンターのインバウンド部門で課長を務める関谷だ。例によって古山は電話中、伊藤は離席中のタイミングで伊藤の席の電話が鳴り、佑希が取ったところそれがよりによって課長職からの電話だった。
彼の話によると、午後2時頃、過徴収の対象者から書面を見てクレームの電話があったという。その顧客は、オペレーターが出るなりすぐに上位者対応を希望し、SVが1時間ほど対応したがさらに上を出せと言い出した。係長の柏木がその電話を替わったが、1時半近く経ったいまも電話を切らせてもらえず、関谷のそばでまだ話を続けている。
厄介なことに、その顧客は会社の非を逆手にとって金銭を要求してきていた。
「これまで過剰に保険料を引き落としてきたことに対して、会社は何をしてくれるんだと。会社としての対応については即答できないと伝えると、おまえが責任者ならおまえが決めろ、決められないならもっと上に替われの繰り返しです。解約も匂わせてくるんですが、本当に解約する気はないらしく話が堂々巡りで」
「分かりました。取り急ぎ、その方の証券番号だけ教えてください。こちらもすぐに対応を確認してみます。柏木さんには、具体的な話は一切出さず、なるべく相手の話をかわすようにしてもらってください」
佑希はそう答え電話を終えると、証券番号から顧客情報を検索し、前島の席へ報告に向かった。いつの間にか席に戻っていた伊藤が申し訳なさそうにこちらを見ていたが、声を掛けている余裕はなかった。
前島の了承を得て、対応を確認するためにリスク管理部へ問い合わせる。内線に出た相手は、佑希の話を聞くとあからさまに難色を示した。
「えーっ、そんなのお客の要求飲んでお金渡す訳にもいかないでしょう。普段なら断ってるんでしょう」
「それなら会社の方針として要求には応じられないとお答えしていいですね」佑希はそう言い返す。
「ちょっと待ってください。そんなこと言ってないでしょう」相手は慌てて言った。「だいたい、金銭要求っていっても、どんなニュアンスなんですか。ただ脅しで言ってるだけなのか、何か具体的な損害を被ったと言ってるのかでも対応変わりますよ。本当なら詳細を報告書に書き起こしてほしいところですけど、それが無理ならせめてもっと詳しく対応時の状況を聞かせてください。状況が分からないと、判断のしようがないでしょう」
こちらとしては、少しでも早く、解決のための糸口だけでも見つけられたらと思って連絡してみたが、相手はそう思ってはくれなかったようだ。しかし相手の言うことももっともなので、佑希は一旦引くことにした。
「分かりました。ひとまず担当部署にもう少し詳細を聞いてみます」
そして関谷へ架け直すが、ちょうど他の電話に出ているところだった。
佑希は少し考えたのち、PCに向き直った。そして、コールセンターの録音を聞くためのシステムを立ち上げる。大洋生命も他の一般的なコールセンター同様、通話はすべて録音されており、専用のシステムにログインすることで録音が聞けるようになっている。どのみち関谷に状況を聞いても、向こうも又聞きでしかない。それならば自分で直接、柏木と相手との通話を聞いてしまった方が早い。
該当の通話を検索すると、イヤホンをPCに差し込み、再生ボタンを押す。
「――大変お待たせいたしました。お電話替わりまして係長の柏木でございます」
耳に入ってきたのは、低いトーンの女性の声だった。佑希はぞくりとした。
柏木の声は、つい数日前に話したときとは別物だった。これがクレーム対応の現場というものか。
「ああ!!?? 俺は上司出せっつったんだぞ!?」
そこに、耳をつんざくような男の怒鳴り声が飛び込んできた。佑希は咄嗟に一時停止を押す。
佑希は一瞬放心状態になり、PCの画面を眺めた。心臓がバクバクしている。
怒鳴りこんでくる人なんてコールセンターでは珍しくない。頭では分かっていたが、実際にその声を聞いて、改めてコールセンターがどんな人を相手にしているのかを感じ取った。
佑希は一息ついて音量を落とすと、もう一度再生ボタンを押す。
「――なんでまた女が出てくんだよ! 男に替われ!」
その言葉に佑希は眉をひそめる。
「私が山田の上司でございます。お話があればすべて私にお聞かせください」
柏木は少しもたじろぐことなく、毅然と答えた。
その態度に、佑希は胸がすく思いがした。
自分にはできないことを、柏木はやってのけている。
柏木への尊敬とともに、こちらも尽力しなければという思いに駆られた。まずは相手の要求のポイントを抑えることだ。佑希は会話を早送りしようとした。
するとそこに、視線を感じた。
顔を上げると、隣の席から派遣社員の棗がこちらを覗き込んでいた。手には受話器が握られている。佑希はイヤホンを外した。
「あのう……テレサービスの柏木さんからなんですけど……」
「!」
佑希は慌てて電話を替わった。
「あ、水野さん、お世話かけましたー。例のお客様、無事対応終了しましたー」
柏木は、先程聞いた声とは打って変わって明るい声でそう言った。佑希は、拍子抜けして訊き返す。
「対応……終了? どうやって?」
「なんだかずっとお話聞いてたら、相手も根負けしたみたいで、もういいやって言ってくれました。最後には、頑張ってねなんて言われちゃいました。なので、対応は不要です。契約も継続で。どうもお騒がせしました」
佑希はポカンと口を開けた。あの怒鳴っていた相手を諦めさせるだけでなく、激励までされてしまうとは。改めて柏木への尊敬の念が湧いた。
「よかったです。どうもありがとうございます」
何度も頭を下げて、佑希は電話を置く。時計を見ると、5時過ぎになっていた。
結局、3人合わせて3時間、うち柏木が2時間も対応したことになる。自分なら、そんな電話を終えたらヘトヘトになっているだろう。けれども柏木は、疲れた様子など微塵も見せず、あっけらかんとした様子で電話をくれた。
もしかすると、こんな長時間対応も自分が思っているほど珍しくはないのかもしれない。今回は会社側のミスということでコールセンターの対応も慎重になっていたために、関谷も通話終了を待たずに報告を上げてくれたのだろう。けれども普段から、報告を上げるまでもなくコールセンター内でうまく話を収めてくれている案件もたくさんあるのだろう。いつも話が大きくなった案件だけが自分たちのところに来るので、その大切な事実を忘れかけていた。
リスク管理部に報告をし、だったら最初から連絡してくるなと小言を言われ、前島に報告をし、一緒に安堵する。
別の階に他の用事を済ませに行って戻ってくると、デスクにイチゴのクッキーが置いてあった。それを指でつまんで持ち上げ、尋ねるように周りを見回す。
「あ、僕です」向かい側から伊藤の声がした。「福岡土産、渡すタイミング逃してて。あと、さっき電話取ってくれてありがとうございました」
「いいえー。お土産ありがとう」
佑希はそう返して席に着く。ちょうど少しお腹が空いてきた頃だ。時計を見ると、6時前だった。もうすぐコールセンターの営業終了時間だ。
早速佑希は包装を開けると、クッキーを齧った。するとそこに電話が鳴った。
佑希は慌てて食べかけのクッキーを包装に戻してPCの縁に立てかけると、電話を取った。
「……大洋生命事務統括部、水野でございます」
「あ、大洋生命テレサービス柏木です。先程はどうも」
電話の主は柏木だった。先程の件だろうか。
「こちらこそ。先程の件ですか?」
「いえ、実は、また別件でして……」
柏木は申し訳なさそうに切り出した。佑希はガックリと肩を落とした。
「そうでしたか。どうしましたか」
気を取り直して、佑希は訊いた。
柏木の話を要約すると、過少徴収の対象者から再発防止策について指摘があったということだ。その顧客は差額を返金することには快諾したものの、会社の姿勢そのものに苦言を呈してきたのだ。書面やニュースリリースには“再発防止に努めてまいります”というお決まりの文言があるが、それに対して会社として具体的に何をするのかと。
事前に用意していた通り、具体的な策は検討中だと伝えると、そんな悠長なことを言っているからこのような問題が起こるんだと説教めいた話が始まった。運の悪いことに、その顧客はIT企業の経営者で、システムについても詳しく、決まりきった説明では満足しなかった。あげくには再発防止策を文書にして送れという要求を突きつけた。
対応者も、再発防止策は社として今後必ず検討することや、個別対応は行っていないことを伝えたが、相手は一歩も引かなかった。そのうえ、自分はSNSのフォロワーも多く、会社の対応次第ではそれを世間に公表することもできると言ってきたのだ。
そこで、一旦はどのような対応ができるかだけでも確認して、日を改めて連絡することにしたという訳だ。
「面倒な案件ばかり持ち込んですみません。だいぶ粘ってみたんですが……」柏木は詫びた。
「いえいえ、先程の件だって無事終えてくださったじゃないですか。こちらも確認してみますよ」
「すみません。詳細はまたメールさせていただきますので」
「よろしくお願いします」
そう言って電話を切ってからはたと気がついた。今度は古山も伊藤も席にいたので、電話を繋ぐこともできたのだった。つい要件を聞いてしまい、なし崩し的に自分がこの話を抱えることになってしまった。
まあ乗りかかった船だ。先程奮闘してくれた柏木のためにも力にならなければ。
とはいえ、これは先程のクレームよりたちが悪い。何か自分の利益になることを要求してくるのであれば、まだ対処のしようがあるし、それが不当な要求なら拒むこともできる。そうではなく、正義感から会社の体制に異議を唱える“世直し型”のクレームは、対処の仕方が難しい。
過去に似たような案件があっただろうか。過去のメールを探していると、早速柏木からこの件の報告書を添付したメールが届いた。
報告書に記載されている顧客情報を見て、佑希は意外に思った。このクレームの主は女性だったのだ。IT企業の経営者というから、てっきり男性かと思っていた。
佑希は試しにその名前をGoogleに打ち込む。1件目に本人の会社のウェブサイトがヒットした。オレンジを基調とした、おしゃれなデザインのサイトだ。社長挨拶には、にこやかな笑みを浮かべた女性の写真が載っている。4年前に設立された、従業員18名の小さな会社のようだ。
佑希は検索結果のページに戻り、上から2番目に表示された、彼女のTwitterのページを開く。フォロワーは1万人超えだ。毎日何件かツイートしていて、リツイートされているものも多い。最近炎上した広告に対しても言及しており、200件以上リツイートされている。確かにそれなりの影響力はありそうだ。
ただでさえ、今回の問題はネットニュースに載っているのだ。炎上でもして注目を浴びたら、会社の信用にだって関わる。
前島に報告をすると、彼は渋い顔をした。
「本来なら、脅しのような文句に屈するべきではないんだがな……」
そう言いながら、佑希が印刷したTwitterのページを眺めた。そして、柏木からの報告書に目を移す。
「そうか、伊勢さんが対応してくれたのか……」
報告書の対応者欄には、伊勢という名前がある。かつての部下だろうか。
「ご存じなんですか?」
「ああ。私がコールセンターで係長だったときに……いや、また話が長くなるからよそう。そうか……彼女が対応しても引いてくれなかったか。まあ、どう頑張ったってどうにもならないときはあるからなあ」
前島は、懐かしさの入り混じった表情で、独り言のように言った。そして、佑希に向けて言った。
「コンプラの見解を仰ごう」
「できる訳ないでしょう」
コンプライアンス部の藤原は冷たく即答した。
藤原は佑希と同年代くらいの平社員のはずだが、上司に相談するとか、部内で検討するとか、そういったそぶりも見せず、電話口でただ断った。
せめて検討のテーブルには乗せてもらいたい。佑希は食い下がった。
「もちろん、再発防止策を事細かに書いて送るなんていうのが無理なのは分かります。ただ、お客さんに対して何か妥協点というか、落としどころがないと……」
「そんなこと言われましても、書面なんて送ったら後々証拠が残るじゃないですか」藤原は迷惑そうに言った。
「それは分かりますが、口頭だけで引いてくれるお客さんではないので……」
「困りますね」そう言って藤原は声を低くした。「ここだけの話、今回の件に関してはあまりややこしいことをするなと小窪常務に言われているんです」
ここでも小窪の名前が出てくるのか。自己保身の塊め。佑希はムッとして言い返した。
「SNSに投稿されて炎上でもしたら、それこそややこしいことになるじゃないですか」
「だから、そうならないようにうまく丸め込むのがコールセンターの役目じゃないんですか」
佑希の眉がぴくりと動いた。藤原は続ける。
「だいたい、あなたこの間も文書文書ってうるさかった方ですよね。電話で解決できなきゃコールセンターの意味ないでしょう。それともなんですか、コールセンターはお手紙屋さんですか?」
藤原は高圧的に畳み掛けてきた。
黙っていることはできなかった。先程聞いた、耳をふさぎたくなるような怒鳴り声。それに屈しない毅然とした態度。
「……現場はよくやってくれています」
「はい?」
「今日も、金銭を求めてきた方を、3時間かけて納得させてくれました。それでも、どうやっても、どう頑張っても納得してもらえないときもあります。それが現場なんです」
頭より先に口が動いていた。
「私は先日、小窪常務に現場を知るよう言われました。これが現場です。なんなら私が常務に直接お話ししましょうか?」
一気に言ってしまってから、さすがに言い過ぎたと思った。伊藤が向かいの席から驚いたようにこちらを見ている。ああ、最近なんだかカッとなりやすいのかな。
先方も驚いたようで、少しの間、受話器から静寂が流れた。
そして、藤原はフッと笑うと言った。
「そこまで言うなら会議に諮りましょう」
# 21
金曜日、週の最後の出勤日。
けれども、今週は今日が最後ではない。誤計算問題が発覚して初めての週末を迎えるのだ。対象者への書面も届き出し、土日も営業しているコールセンターへは多数の問い合わせが入ることが予想される。それに対処するため、土曜日は自分が、日曜日は伊藤が交代で出勤することになったのだ。
どうせ自分には家族も恋人もいないので、突然の休日出勤を命じられても特段困ることはない。古山は、そんなことを考えながら溜め息をついた。そして、コールセンターからの報告のメールに目を戻す。
今日の昼頃、有名企業に勤める50代後半の男性から、書面を見て苦情の電話が入った。男性は過少徴収の対象者で、保険料の差額を返金する必要があったが、会社の不手際にもかかわらず顧客に返金を求める姿勢に苦言を呈した。担当者はマニュアルに沿ってSVに相談し、SVの許可のもと特別に返金を免除する旨を案内した。
すると男性は、そういう問題ではないとかえって激怒してしまった。自分はたかだか数百円が惜しいのではない。会社の対応について意見を述べているのだ。怒られたから、じゃあお金はいいですとは何事だ。金で人を黙らせようとするのか。大人しく支払った人の損ではないか、と。
最終的に、返金には応じるが、こんな対応はおかしいと上層部に伝えておけと言い残し、男性は電話を切ったという。
この件に関しては、明らかにコールセンターの対応が至らなかった。対応者には想像が及ばなかったのかもしれない。大企業に勤める壮年男性の心情が。単なる金銭的な損得の話ではない。ついでにいうと、会社としての対応がどうとか、大人しく支払った人がどうとかいうのも建前にすぎない。
本当は、自分が数百円をせびる小さい男だと思われたことに腹を立てたのだ。
――プライドの問題でしょ。
小窪の誕生会の日に、自分に向けられた言葉が頭をよぎった。男性社員たちから、なぜ結婚しないのかとか、稼いでるんだから相手の収入など気にせず誰とでも結婚すればいいのにとか好き放題に言われ、笑顔でかわしていたときのことだった。その場にいた商品開発部の和智がこう言い放ったのだった。
――プライドの問題でしょ。せっかく大企業で稼いで、自分の価値を高めてきたのに。そういうプライドが邪魔して、理想を下げることができないんでしょ。
鋭い指摘に、何も言い返せなかった。そして、その会話を聞いていた小窪が、さらに追い打ちをかけるように言った。
――でもかわいそうに。君は確かに調整役としては優秀だけど、管理職になれるタイプじゃないね。中にはお嫁さんになれない代わりに頑張って出世を目指すような人もいるけど、君はどっちも中途半端。ま、適材適所ってことで、うちでずっと面倒見てあげるよ。
いま思い出しても、はらわたが煮えくり返る思いだ。女としての幸せをつかみ損ねたことをあれこれ言われるのはまだ慣れているが、自分の仕事ぶりまで否定されるなんて。これまで自分がプライドを持って担ってきた仕事は、その程度にしか思われていなかったということか。
そんなことを言われた日の帰りに、恵人と一緒にいる佑希の姿を目撃した。自分は何者にもなれないままプライドばかり強固になっているというのに、佑希はいとも簡単にそれを乗り越えた。そんな佑希が堪らなく妬ましかった。
佑希は時計に目をやった。午後5時50分。
昨日コンプライアンス部に対して啖呵を切ったことは、その後で前島に怒られた。けれども、結果的に緊急対策会議で承認が下り、顧客に送る文書が作成される運びとなった。もちろん、これから協議されるであろう具体的な再発防止策ではなく、よそ行きの大まかな文言になる予定だ。それだけでも充分驚くべきことだった。
とはいえ、さすがに昨日の今日で作成できるものでもないし、顧客への返事は来週に持ち越しだろう。そう思った矢先、メールが入った。
差出人はコンプライアンス部の藤原だった。メールを開いてみると、なんとそこには顧客宛て文書のデータが添付されていた。
佑希は急いで添付ファイルを開き、内容を目で追う。
画面をじっと見つめていると、背後から前島が近づいてきて言った。
「やれやれ。向こうも仕事が早いなあ」
「課長!」佑希は振り返った。
「と言っても、多分いつだかの文章の使いまわしで、お客さんからすればこれでも決まりきった文句にすぎないんだろうけどね。これ以上は無茶言うんじゃないよ」
「もちろんです!」佑希は立ち上がって言った。「あの、今回のことは、本当に……」
前島は、鼻をかきながら言った。
「藤原くん、私が小窪常務の悪口を言ったのを水野さんが真に受けたんだろうと言ったら笑ってたよ」
佑希はびっくりして前島を見上げた。
「さ、早く藤原くんにお礼言って、柏木さんにも教えてあげて」前島はそう言って佑希を促す。
佑希は、「はいっ」と元気に返事をしてデスクに向き直った。
藤原に内線をして、早々の対応にお礼を言うと、藤原はフンと鼻を鳴らした。
「僕らもそんなことに時間を割いてられませんから、チャチャっとやっときましたよ。これでよければ、さっさと送ってもらってください」
「はい、そうさせてもらいます」
佑希はそう答えた。この人も嫌味なところはあるが、悪い人ではなかったのかもしれない。
藤原との電話を終えると、佑希はメールを柏木に転送し、コールセンターに電話を入れた。
「助かりました。迅速に対応していただいてありがとうございます」
柏木は安心したような声で言った。
「さすがに具体的な内容までは載せられませんが、この内容で大丈夫でしたか?」
藤原や前島と話していたときには、これ以上ないくらいの対応ができた気になっていたが、柏木や顧客の姿をイメージした途端、少しだけ不安がよぎった。文書は、時候の挨拶にお詫びの文言、そして、誤計算の原因がシステムの設計ミスであることや、システム開発時のチェック方法の改善とマネジメント強化を図る旨が記載されたシンプルなものにすぎない。
「充分です。後はトークでカバーするので、早速架けてみます」
柏木はそう言ってくれた。その答えが、頼もしかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」そう言ってから佑希はまた時計に目をやる。「あ、でも今日はもう……」
「大丈夫です。お客様が待ってますから、今日中に電話します」
柏木は明るい声で、力強く答えてくれた。
それから1時間ほど経って、柏木から電話が入った。
「無事ご納得いただきましたよ」
その言葉を聞いて、佑希はホッと胸をなでおろした。
「書面が届いたらご確認いただけるとのことです。こちらから明日付で間違いなく送付しますので」柏木は続ける。
「本当にありがとうございます」佑希は電話口で頭を下げた。「お客さんはもう落ち着いていらっしゃいましたか?」
「はい。それどころか」柏木は面白そうに言った。「今日はいろいろなお話を聞かせてくれたみたいですよ。3人いらっしゃるお子さんのこととか」
「え、その方子ども3人もいて社長やってるんですか!?」佑希は思わず訊き返す。
「そうなんですよ。もともと、お子さんたちを養うのに家計の足しになればと思って、在宅で働き始めたのがきっかけだとか。いまでは、自分が働けなくなったら家計が回せなくなるほどになって、それで、この商品ができたときに真っ先に加入してくださったんです。それなのに今回のことが起きてしまって、本当に子どもたちの生活をかけるに足る会社かどうか試したかったそうなんです」
佑希は、胸にストンと落ちるものを感じた。
「本当に水野さんのおかげです。私ったら、つい水野さんにいろいろ頼んでしまったけれど、本当に水野さんに頼んでよかったです」
佑希は慌てて返した。
「いえ、そちらの対応がよかったからですよ。今後ともよろしくお願いします」
それに、自分は話を繋げただけで、実際に尽力してくれたのは別の部署だ。それでも、柏木の感謝の言葉に、晴れやかな気持ちになった。
ふと思い出して、佑希はつけ足した。
「対応は、そちらの伊勢さんが?」
「はい」
「課長の前島が、伊勢さんのお名前見て懐かしそうにしていました。どうぞよろしくお伝えください」
「はい、こちらこそ、前島課長によろしくお伝えください」
佑希はもう一度お礼を言って、電話を終えた。そして、長い息を吐いた。
異議を唱えていた一人の顧客が、首を縦に振ってくれた。ただそれだけのことだ。だからといってこの誤計算問題そのものが解決する訳ではない。何か会社に利益をもたらす訳でもない。むしろここまでするのにどれだけの人件費が掛かっただろう。
それでも、そこには一人の生身の顧客がいた。自分には想像もできなかった生き方をしている、一人の人間が。その一人の信用を、繋ぎ止めることができたのだ。
前島に報告しようと思ったが、席を外しているようだった。ひとまず、前島もCCに入っている藤原からのメールに、対応完了の旨を返信した。
ホッとしたからか、佑希は急に疲労感を覚えた。コーヒーを求めに自販機へと向かう。
紙コップにコーヒーが注がれると、佑希は自販機脇にあるカウンターに寄りかかり、コップに口をつけた。心地よい苦みが口の中に広がる。
激動の1週間が終わった。
いや、本当は終わっていない。古山も伊藤も、この週末は休日出勤だという。それに、コールセンターは普段から土日関係なく稼働している。営業現場も対象者への訪問に動き出す。本当に頭の下がる思いだ。
実のところ佑希も休日出勤に手を挙げたのだが、本来「くらしサポート」に関する業務は担当外なので、そこまでさせられないと却下されてしまった。佑希としては、イレギュラー対応で滞ってしまった通常業務をこっそり進めたいというのもあったのだが。
仕方ない。今日も終電コースになりそうだ。どうせ予定もないことだし……
……あれ? そういえば、何か忘れているような……
「水野ちゃん」
声を掛けられ、佑希は振り向く。いつの間にか古山が立っていた。
「よかったね。例のお客さん、無事対応終わって」
「すみません、いろいろと出過ぎたことを……」佑希は咄嗟にそう返した。
「何言ってるの。手伝ってくれて、すごく助かってるよ」古山は笑顔で言った。
「そう言っていただけてよかったです」
「そういえば」古山は思い出したように言った。「あいつも、大活躍だってね」
「あいつ?」佑希はキョトンとして聞き返す。そして、“何か忘れていた”の“何か”を思い出し、「あっ」と声を上げる。
「そう、武田くん」
そうだった。後でLINEを返そうと思いながらそのままになっていた。あろうことか、仕事のことで頭が一杯で、すっかり意識から抜け落ちていた。
「保険金部の同期から聞いたんだけど、武田くん、今回の件で社員に交じって応援に出てるんだってね」
「応援?」
「あれ、本人から聞いてない? ほら、取り過ぎた分の返金とか、書類の金額の訂正とか、その辺の事務作業で人手が必要だからって、いろんな部署からかき集められてるじゃない」
「ええ。その業務に……武田くんが? 普通、契約の関係で派遣社員に他部署の仕事はさせないんじゃ……」
「うん。それにも経緯があってね。武田くんったら、部内が応援でバタバタしてて自分まで仕事が回ってこないからっていって、自分を応援に行かせろって社員に食って掛かったんだって。普通そんなことしたら余計なこと言うなって怒られそうなもんじゃない? でも、ちょうどその様子をリスク管理部の酒井課長が見てたんだって」
「リスク管理部の、酒井課長?」
佑希は訊き返した。名前は聞いたことがあるが、顔が思い浮かばない。
「ほら、覚えてない? 小窪常務の誕生会で私たちのテーブルにいて、武田くんが何かいいこと言ったときに賛成してた人」
「ああ!」
思い出した。恵人が生き方について話していたときに、元気よく合いの手を入れてくれた男性がいた。古山は話を続ける。
「その酒井課長がちょうど、もう1人くらい応援出せないかって保険金部に打診しにきてたところだったんだって。そんなときに武田くんが応援行かせろとか言ってたもんだから、じゃあおいでよって感じでかるーくOK出たんだって」
「軽っ」
「で、仕事させてみたらそれがもう優秀で。ほら、社員ってたいてい管理業務ばっかりで、入力とかの実務は弱い人多いじゃない。まあそういう役割分担だからそれが悪い訳じゃないけど。で、その中で武田くんが抜きんでて仕事が早くて正確で、もう大活躍だってさ」
古山は面白そうに話した。そして、顔を近づけて言った。
「水野ちゃんと一緒ね」
「え?」
「会社のピンチに、熱くなって周りに食って掛かって、でもちゃんと結果を残す。似た者同士なんじゃない?」
佑希は顔が熱くなるのを感じた。ついさっきまで存在を忘れかけていたというのに、途端に恵人のことが愛しくなってきた。
それにしても、古山はこんな話をして大丈夫なのだろうか。恵人のことを目の敵にしていたというのに。窺うような目で古山を見返すと、古山はゆっくりと口を開いた。
「それで……謝らなきゃと思ってたんだけど……この間は、ごめんね。ひどいこと言って」
唐突な謝罪に、佑希は目を見開いた。
「武田くんは何も悪くない。私はあなたたちの関係に口を挟める立場でもない。ただ私があのときイライラしてただけだったの。2人には関係ないことなのに、私は、自分の気持ちを水野ちゃんにぶつけて……」そう言いながら、古山はうつむいた。
そうだったんだ。佑希は、いつも完璧に仕事をこなす先輩の、人間らしい一面を垣間見た気がした。
「大丈夫ですよ」佑希は微笑んだ。「私もそのおかげで、自分の気持ちを確かめる時間が持てました」
古山は驚いたように顔を上げた。そして微笑んだ。
「ありがとう、水野ちゃん」
そうだ。その通りだ。一度恵人の誘いを断ってしまったこともあったけど、そのおかげで自分の気持ちは確かになった。やはり自分は恵人のことが……
そんなことを思っていたら、一刻も早く恵人に逢いたくなってきてしまった。さっきは今日も終電だなんて考えていたけれど……
そんな佑希の心中を察するかのように、古山は声を掛けた。
「よし、今日はさっさと帰れるように、残りの仕事片付けるよ!」
# 22
それから月日が経ち、例の保険料誤計算問題も事務統括部での対応は無事収束した。
雨降って地固まると言うが、あの騒動の後、会社にいくつか変化があった。
一つ目は、あの小窪が大阪の子会社へ出向になったことだ。本人がいなくなってみて改めて分かったことだが、小窪は思っていた以上にいろいろな人から煙たがられていたらしい。あの騒動は彼を追い出すにはちょうどいい口実だったのかもしれない。
小窪の後任として新たに常務となった土井はシステム畑出身で、早速システム部門の改革に着手した。今回のミスを引き起こす要因となった、システム部門の軽視や、無謀なシステム開発スケジュール、子会社への負担の押し付けなど、この会社が抱える問題にメスを入れたのである。事務統括部も土井の担当となり、以前より現場の声に耳を傾けてもらえるようになった。
そして、もう一つ最近大きく変わったできごとと言えば、会社が重い腰を上げて働き方改革に取り組み始めたことだ。残業制限、不要な会議や業務の見直し、有給取得の推奨など、世間で進められているような施策が、大洋生命でもスタートした。
しかし、働き方を見直したからといって、いきなり仕事量が減る訳ではない。当然、残業ができない分、仕事は溜まる。そのため、それを解消しようと早出する者が続出した。
佑希もその例に漏れず、今日も早朝からデスクに向かっている。
世の中そんなにすぐに、何もかもがうまく行くなんてことはあり得ない。試行錯誤を繰り返しながらだんだん良くなっていくと信じるだけだ。そう思いながら、佑希はコーヒーを口にした。
フロアの向こうから前島が出勤してくるのが見えた。
「おはようございます」
佑希が挨拶すると、前島は笑顔で返した。
「おはよう。水野さん、今日はよろしくね」
「はい」佑希は少し照れ臭そうに答えた。
大洋生命には、顧客に感謝の言葉をもらった従業員を毎月何名か推薦し、選考に通った者に表彰状を送るという社内表彰制度がある。それに佑希が選ばれ、今日の朝礼で役員から表彰されることになったのだ。
それというのも、以前同性パートナーを保険金受取人に指定できない理由を文書で回答するよう求めてきた顧客から、後日、丁寧な文書対応をしたことに対するお礼の手紙が届いたからだ。
当初佑希は、表彰されるべきは現場の人間であって自分ではない、それに本来の顧客の要望には応えられていないのに好事例として扱っていいものなのか、と断ろうとした。
しかし、あいにく会社の表彰制度は子会社までは対象にしていない。それに、大洋生命テレサービスの澤井からこう言われたのだ。本社で表彰案件となればこの事例が注目を浴び、同性パートナーを認めない現在の規定への問題提起となる。それこそが顧客の希望することだと。その言葉で思い直し、佑希は自分が表彰を受けることを選んだ。
朝礼の時刻が近づき、フロアに土井がやってきた。佑希が挨拶に行くと、土井はにこやかに挨拶を返してくれた。本当にこの人が自分のところの常務になってくれてよかった。佑希は心からそう思った。
朝礼が始まり、土井が今回の事例について紹介する。
「このお客様は、同性のパートナーの方と同居をされていて、保険金受取人をパートナーの方に指定したいと希望されたのですが、あいにく当社では同性パートナーを受取人として指定することができません。他社では可能なところもあるのになぜ大洋生命ではできないのかと、お客様はコールセンターに訴え、文書での回答を希望されました。そこでコールセンターから相談を受けた水野さんが、コンプライアンス部と何度も調整を重ね、誠意ある回答をしようと尽力してくれました」
そんなふうに紹介されると恥ずかしい。佑希は少しうつむいた。土井は続ける。
「その結果、書面を受け取られたお客様から、後日このようなお手紙が届きました。簡単に紹介したいと思います」
そう言って、土井は手元の紙に目を落とした。
「以前から他の商品でお世話になっている御社で、ぜひパートナーのために保障を残したいと思いお電話しました。けれども御社では同性パートナーは対象外だと知り、一石を投じたい思いでこのようなお願いをさせていただきました。その結果、お願いした通り、現在の規定では対応ができない理由をきちんと書面に起こしてくださったうえで、私の声を今後の取り組みに活かしてくれることを約束してくださいました。現時点で希望が叶わないことは残念ですが、私の声を真正面から受け止めてくださり本当にありがとうございます」
これでもかなりかいつまんでいる。佑希も読んだが、実際の手紙はもっと長かった。その手紙には、これまでに受けた偏見や不当な扱い、それでもなお、そういった世の中に立ち向かおうとする決意のようなものが含まれていた。それを読んで、佑希は過去の自分の無理解を恥じた。そして、一般的に理想とされている生き方とは、ほんの少し違う生き方を模索しようとしている自分の姿を重ね合わせた。
「――このような表彰は営業部門が対象になることが多いのですが、水野さんは、直接お客様と接することはなくても、自分の仕事の先にいるお客様のことを意識することで、このような感謝の言葉をいただくこととなりました。それでは、そんな水野さんへ賞状を授与したいと思います」
佑希は背筋を伸ばし、土井に向き直った。土井は賞状を読み上げ、佑希に向けて手渡す。その手には、光沢のあるピンクブラウンのネイルが施されていた。
「それでは、水野さんから受賞にあたってのコメントをいただきたいと思います」
土井がそう言うと、佑希はみんなの方に向き直った。そして、大きく息を吸い、話し始めた。
「今回は、このような賞をいただきありがとうございます。これは私一人の力ではなく、対応を相談させていただいた前島課長、文書を承認してくださったコンプライアンス部、そして、お客様のために情熱を持って取り組んでくださったコールセンターの方々あってのことだと思います。中でも、コールセンターの方々は私たちの知らないところで日々努力を重ねていらっしゃって、本当に感謝するばかりです」
佑希は横目でちらりと土井の方を見た。いまのいままで、言おうかどうか迷っていた。けれど、やはり言葉にしなければいけないような気がした。
「また、今回はこのような形でお客様にはご納得いただきましたが、今後会社として、多様な価値観を認めていく必要があると感じました」
少しだけ空気がピリッとしたような気がした。構わず佑希は続ける。
「それはなにも、LGBTの方々に限ったことではなくて、誰もが――」
みんなの顔がこちらを向いている。前島や、古山や、伊藤、福留、棗……
「――こういう生き方をしなきゃいけないとか、逆にこういう考えは古いから新しい価値観に従わなきゃいけないとか、そんな考え方に縛られずに生きていけるようになれたらって思うんです」
話しながら顔が熱くなってくる。たぶんみんなの頭には、はてなマークが浮かんでいるだろう。
「保険は人の生涯に寄り添う商品です。ですから、私たちは、自分たちの仕事を通して多様な生き方に寄り添っていくことができます。そしてそれは、この事務統括部でも、きっと実現できるはずです」
我ながら臭いことを言ったと思う。こんな台詞、入社後に営業現場の研修で聞いて以来、他の社員の口から聞いたことなどない。佑希は咳払いをして、言った。
「……すいません、長くなりましたが、以上です」
佑希が軽く頭を下げると、その場に拍手が広がった。
「すごかったよ、水野ちゃん」
朝礼の後、古山に声を掛けられた。
「いえ、なんだか好き勝手に話してしまって」佑希は首を振る。
「ううん、本当にすごいよ。それに引き換え、私は遅れてるなー。水野ちゃんみたいに進んだ考え方できないよー」古山は軽い調子で、それでいてどこか悲しそうに言った。
「違うんです」佑希は慌てて返した。「どの考えが進んでるとか、遅れてるとかじゃないんです。私は、古山さんの生き方、好きです」
「……ほんと、水野ちゃん変わったね。誰の影響かしら」
古山はからかうようにそう言った。佑希は照れ笑いでごまかした。
「ありがとね」
古山は微笑みながらそう言うと、席に戻っていった。
「ねえ、すごいじゃなーい、表彰されて」
聞き覚えのあるダミ声が響き、佑希は慌てて振り返る。声の主は柴田だった。
「はい、お祝い。今度はマドレーヌ焼いてみたの」
柴田はそう言うと、きれいにラッピングされたマドレーヌを佑希に手渡した。
「わあ、かわいい。いつもすみません」
佑希はそれを両手で受け取る。すると、後ろから視線を感じた。
「あら」柴田もそう言って振り返る。そこには前島が無言で立っていた。
「ほら、前島さんもどーぞ」柴田は懲りずに、前島にもマドレーヌを渡そうとする。
「…………」
前島は仏頂面で押し黙っていたが、柴田は笑顔を崩さない。
「……分かったよ」
前島は渋々という感じでリボンのついたビニール袋を受け取ると、席に戻っていった。
佑希と柴田は2人で顔を見合わせ、こっそりと笑った。
「はあー、それでも、これだけの予算求められちゃうかあ」
佑希は、新規開拓のアウトバウンドの目標値を見ながら頭を抱えた。小窪のような無茶な要求はされなくなったものの、やはり会社に目標はつきものだ。これを伝えたら、アウトバウンド担当の吉村になんと言われるか。
「――という訳で、厳しい状況は重々承知なのですが、これだけの数値を上げる必要がありまして……」
「――分かりました。なんとか工夫してみます」
受話器の向こう、吉村はあっさりとそう答えた。佑希は拍子抜けして、一瞬沈黙した。
「御社の状況も分かりますし、それに、水野さんのお願いじゃしょうがないもの」
吉村は柔らかな声でそう言った。その言葉に、佑希はじわじわと胸が温かくなるのを感じた。
「昨日も、無理を言うお客様のために、いろいろと手配してくださったと聞いています。本当にいつもありがとうございます」吉村は続けた。
佑希は迷わず答えた。
「いえ、それが私の仕事ですから」
「うん、完璧」
そう言って佑希は、書類を棗に返した。棗は嬉しそうに書類を受け取る。
「棗ちゃんも、だいぶ仕事早くなってきたよね。助かってるよ」
「ありがとうございます」棗は明るい声で答えた。そして、佑希の顔を覗き込むように尋ねる。「この後は、どうしましょうか」
佑希は時計を見る。
「まあ、もうすぐ時間だし、ゆっくり片付けでもしてて」そして、茶化すようにつけ足す。「今日料理教室の日でしょ」
「あ、はい。すみません」棗は首をすくめるように頭を下げた。
「今日は何作んの?」
「あ、ローストビーフを……」
「いいじゃん。また感想聞かせてよ」
こんなたわいない会話でも、以前の自分なら妬みを感じていたかもしれない。けれども、棗にはただ棗の日常があるだけだ。
PCに目を戻すと新しいメールが届いていた。それを見て、佑希は小さく「あっ」と声を漏らした。
保険金部の移管、延期になったんだ。
以前会議で言及されていた、保険金部の業務を完全に事務センターに移管するという計画が延期になったことが、メールに記載されていた。
その知らせに、佑希は、かつて保険金部に勤めていた彼のことに思いを馳せる。
――辞めるの……?
例の騒動が一段落した頃、恵人から唐突に切り出された。
――応援のときに、社員のIDを流用して、派遣社員が見ちゃいけない画面を操作したのが問題になってね。
――それって、自分のIDを使わせてその仕事をさせた社員がいるってことでしょ? そっちが問題じゃん。なんでそれで恵人が辞めることになるの。
――会社的には、派遣が勝手にやったことにしたいみたいよ。まあ、会社ってそういうもんじゃん。
何も言えなかった。確かに恵人の言う通りだ。本当に責任を取るべき者はいざというときに自分を守り、責任を押し付けられた末端が切り捨てられる。絶句する佑希に、恵人はこう言った。
――でも、いいんだ。実はね、僕はもともと事務センターで勤務する予定だったんだ。それが、派遣会社の都合で当日になって本社に回された。もとから振り回されていたんだよ。でもね、それで佑希に会えた。運命だよ。感謝でいっぱいなんだ。
そう言って、恵人は佑希の手を取った。
――佑希は、佑希にしかできない仕事を、誇りを持って続けてね。
そうして恵人は会社を去った。そういう意味で、自分は恵人を守れなかった。
せっかく保険金部の仕事もまだここに残るのに。そう思いながら、佑希はメールを読み進める。
移管が延期になったのは、調整がうまく行かなかったからなのか。いや、調整には事務統括部も関わっているが、そんな話は聞いていない。もしかすると、誤計算の件をきっかけに、組織にある程度の余剰が必要だと判断されたのではないだろうか。まあ、自分の主観による憶測に過ぎないが。
けれど、あのときはたまたま閑散期だった保険金部の人員がかなり応援に協力していたそうだ。なんでも他の拠点に任せて、一人の無駄もなく仕事を回していたら、緊急時に対応できるだけの体力は確保できなかっただろう。効率が良いということは、裏を返せば余力がないということなのだ。
何が収益にならない仕事だ。何がコストになる仕事だ。
いくら営業現場が頑張って新しい顧客を獲得してきても、その申し込みの手続きは誰がどう行うのか。顧客の疑問には誰がどう答えるのか。そして、その現場を誰が指揮し、どう支えていくのか。そこには、自分にしかできない仕事がきっとあるはずだ。
佑希は腕をまくった。
さて、今日もあと少し。頑張って早く仕事を終わらせよう。
在宅ワークも、なかなかやりがいがある。
恵人は、ウェブサイト制作業務の発注者へ進捗報告のメッセージを送信すると、クラウドソーシングサイトをログアウトした。
以前、好きを仕事にすればいいものではないなどと、分かったようなことを言ったことがある。けれども、どうやって自分にできることでお金を稼ぐかを考えたところ、やっぱり自分にはウェブ関連の仕事がいちばんだという考えに行きついたのだ。
この間の件で気がついた。自分は変なところで責任感を発揮してしまう傾向があり、割り当てられた作業を淡々とこなす仕事には向かないと。この間の件がなかったとしても、どちらにせよ自分は大企業の歯車にはなれなかっただろう。だから理不尽な契約解除であっても、あえて異議を申し立てようとはしなかった。
かといって、零細企業の社員として消耗していた頃に後戻りするつもりはなかった。
幸いなことに、この時代、インターネットを介して個人でも仕事を請け負うことができる。手っ取り早いのが、企業や個人が不特定多数に向けて仕事を依頼しているクラウドソーシングサイトだ。
クラウドソーシングサイトでは、たとえばお店のウェブサイトを制作してほしいだとか、スマホアプリを開発してほしいだとか、いろいろな仕事が募集されている。その中から自分の希望する仕事を選んで応募し、時には条件交渉を行い、無事契約締結に至ればその仕事を受託することができる。
それを繰り返しながら、フリーのエンジニアとして自らの責任のもとで仕事を請け負っていく、そんな働き方を模索しているところだ。単価が安く収入が不安定なのが悩みどころだが。いまのところは、もう一つのスキルを活かすしかない。
恵人は立ち上がり、オーブンを覗いた。よし、いい感じだ。チーズの香りが部屋いっぱいに広がる。
流しで布巾をしぼり、テーブルの上を拭き始める。
テーブルの端には、雑誌が何冊か朝から置いたままになっていた。恵人はそれらをひとまず本棚の上に避難させる。日本経済大予測、損害保険完全ガイド、わんこの気持ちペット保険特集号。またあれこれと買い込んだものだ。そろそろ本棚に入り切らないんだけどなあ。自分が言えたことではないが。
LINEの通知音が鳴り、恵人はすぐさまスマホを手に取る。
なんだ。久米川からか。
久米川も、あの騒動のときは大変そうだったが、それをきっかけに業務改善が進められ、以前よりは幾分か働きやすくなったそうだ。だから時々こうして飲みの誘いが入る。
けど悪いな。恵人は断りの返事を送った。
箸とナイフとフォークをテーブルに並べ、皿と鍋敷きを敷く。冷蔵庫から昨日の残りのキャロットラペを取り出し、ツナ缶とひよこ豆を混ぜ合わせる。先程仕込んでおいた野菜スープを、再び火にかける。
そろそろかな。恵人は玄関のドアを覗く。
ピンポーン。エントランスのチャイムが鳴った。
え、チャイム?
インターホンで応答すると、相手は宅配業者だった。
なんだ。恵人は拍子抜けしながら、オートロックを解錠する。
少し目を離したすきに、野菜スープがぐつぐつと煮立っている。恵人は慌てて火を弱める。
玄関のチャイムが鳴り、恵人はドアを開ける。差し出された伝票を見て、靴箱の上から、水玉模様のマスキングテープを貼った印鑑を手に取る。
これも実用書だな。A4くらいの大きさの荷物を受け取りながら、恵人は思った。
宅配業者が帰ると、恵人はその荷物も本棚の上に置いた。
再び野菜スープの火を調節する。そして、お椀を出そうと頭上の棚に手を伸ばす。
ガチャっ。ドアの鍵が開く音がした。
恵人は手を下ろし、ドアの方を向いた。ゆっくりと、ドアが開く。
「ただいま」
ドアの向こうから佑希が顔を出した。
「おかえり」
いまだにぎこちない声で、恵人は返した。
夕食を終え、2人でソファに寄り掛かる。
佑希はスマホを見ながらあきれ声で笑った。
「もー、美香ったら、またLINEでのろけてるよー」
「美香さんって、海外で働いてたっていう、大学の友だちだっけ?」と恵人が訊く。
「そうそう。筋金入りの仕事人で、本人も最初は絶対家庭に入るのなんて向かないって言ってたんだけど、主婦もなってみたら案外奥が深いって。人生ってどう転ぶか分からないね」
「ほんとだね」
「最近ね、お客さんとか、会社の人とか、いろんな人の生き方を見てて、本当にいろんな人生があるなあって思ったんだ」
佑希は、スマホをテーブルに置くと、話を続ける。
「あと、今日仕事してて、今更だけど思ったの。別に営業の最前線でバリバリ収益を上げる人だけが偉いんじゃなくて、私の仕事だって会社に必要な仕事だし、お客さんに感謝されることもある。そういう仕事にやりがいを見出す人がいたっていいと思うんだ」
「そうだね」
「それとちょっと似ていて、女の生き方もさ、若いうちに結婚して子育てするのが幸せって言う人がいたり、逆に結婚しなくても男の人並みに仕事で活躍するのが偉いって言う人がいたりするじゃない」
「うん。どっちも、理想的なひな形みたいに言われてるよね」
「そうそう。もちろん、どっちの生き方も良いと思うよ。けど、そういう価値観に縛られずに、それ以外の生き方を模索する人がいたっていいと思うんだ。私みたいに」
そう言って、佑希は恵人の肩にもたれかかった。
「そうだね」
そう答えると、恵人は佑希の肩を抱いた。
「僕もね、親や兄弟と話していて、時々、僕の考えの方がひねくれてるのかなって思うことがあったんだ。地元で仕事を見つけて、地元で結婚して、子どもをたくさん作って、そのまま地元で生涯を終えるような生き方の方が、こうして無理に都会で生きていこうとするより賢かったんじゃないかって。でも、僕はそうしたくなかった」
「そういう生き方をしたい人が、そうしたらいい。恵人には、恵人の生きたいように生きてほしい。それに……」佑希は顔を持ち上げ、恵人の目を見た。「恵人が東京に出てこなかったら、こうして出会うこともなかったし」
「そうだね」恵人は優しく微笑んだ。
佑希は頭の後ろに手をやり、縛っていた髪をほどいた。長い髪がはらりと肩に落ちる。
「その香り」恵人はぽつりと言った。
「え?」
「佑希は覚えてないだろうけど、まだ知り合う前、エレベーターで佑希と一緒になったことがあるんだ。そのときと同じ香りだと思って」
「えっ!?」佑希は声を上げた。「そうだったの? 聞いてないよ!」
「引かれるかと思って、話してなかったんだよ」恥ずかしそうに恵人は答えた。
「引きはしないけど、でも、なんでいちいち、エレベーターで一緒だった人のこと覚えてるの?」
恵人は頭をかいた。そしてぼそっと言った。
「そんなの、言わせないでよ」
佑希は一瞬キョトンと恵人の顔を見返したが、その意味を理解すると顔を赤らめた。そして、飛びつくように恵人を抱きしめる。恵人もその背中に腕を回す。
しばらくそうしてお互いの心音を聞き合っていたが、やがて佑希は腕を緩めた。そして、恵人の頬にそっと触れた。首元のネックレスが静かに揺れる。
佑希がゆっくりと顔を近づけると――
「ふふ、くすぐったいよ」
「ごめん」
2人の口づけは、佑希の長い髪によって阻まれた。
<完>
テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(後編)
お読みいただきありがとうございました。
前編からかなり期間が空いてしまいました。もっとパロディ感のあるドタバタギャグにするつもりが、こんなにまじめで説教臭い話になるとは思っていませんでした。あと、当初考えていたよりずいぶん話のスケールが小さくなりました。
システムのことがさっぱりなのは私です。保険会社に勤めたこともありません。そのため突っ込みところは満載だと思います。とりあえず下記の文献を参考にしました。
千葉明監修(2016)『産業と会社研究シリーズ④生保・損保――2018年度版』産学社
山口明雄(2018)『危機管理&メディア対応 新・ハンドブック』宣伝会議
and...
ジェームズ・キャメロン監督(1997)『タイタニック』[DVD]20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン