快活の哀しみ(4)

尾川喜三太 作

第四章 むかはりの玉蟾

 一場の殺陣を手引きした京臣は意外な結末で報いられた。理科室に駆けつけると、箱椅子はおちこち入り乱れ、春に餘んの雪まろげのような影が三つ、闃としたなかに潰えていた。東洋の姿が見えない代わりに、最惜しげに膝に枕させた一対の男女の像があつた。京臣には一瞬、黙居る凪の凄い横顔が、別の女に見えた。
「凪、大丈夫?」
「……ええ」
 振り仰いだ凪は歯を切つて、必死に涙を堪えていた。京臣は自分の目を疑つた。
「トーヨーじゃないか!―――嘘だろ、どうして、誰にやられたんだ……気ぃ、失ってるのか?なあ凪、何があったんだ?こりゃちょっと、洒落にならんぞ。まさかトーヨー、このまま死んだりしねェよなぁ?」
 凪はそこにへたばつている蟾蜍(がま)の死骸を指さして、そいつに椅子で殴られたの、と云つた。その指さした手のひらが鮮血で真ッ赤に染まつている。
「ッてか凪。その血は?血が出てるじゃん、え、なに、トーヨー殴られて、頭から出血してるの?」
 凪は他人事のように軽く手を振つて、
「これはちがうわ。私の頭。なんか気付いたら出血してて―――大丈夫、越賀くんのじゃないわ」
 いや大丈夫じゃねェよ、と京臣は呆気に取られて傍白した。それに、ナイフを抜き翳した悪童ごときに、東洋が不覚を取るとは思われない。椅子で殴られたことと云い、京臣は釈然としなかつた。
 意気揚々と引き揚げて来たアンディーとキョンシーと、駆けつけた当直の職員が入って来たのが、ほぼ同時だつた。会稽の恥を雪いでちと浮かれ気味の二人だつたが、救急車のサイレンがそこともわかず夜をとよもして正門の角から姿をあらわすと、さすかに酩酊から醒まされた。京臣はひとまず二人を差し措き、職員に手を曳かれて医務室に向かう凪に追い縋つて、云つた。
「ねえ、凪。あのさ、あんましトーヨーを邪慳にするなよな。トーヨーはあれで、強がつて、平気の平左きめこんでるけど、ほんとは相当堪えてると思うんだ。凪に何かしたんじゃないか、嫌われるようなことしたんじゃないかって……」
「わかってるわ!」
 この積聚に京臣はぎょッとした。声はいつになく凛として、利かん気な性情を露わにしていた。
「ッていうか、解ってるんでしょ?私にそんなつもりがない事くらい。何度も話し掛けようとしたのよ、でもいざ面と向かうと、なんか息苦しくなって来て……」
 声が出なくなるの、と最後は蛍が消え入るようにぽつりと云つた。
 京臣はそれ以上追わなかつた。そんなこと、解る訳ないだろ。誰がどう見たって、凪が東洋を鞏固に拒んで、頑なに和解すまいとしている風にしか見えない。それに、面と向かうと苦しくなつて、会話一つ如意ならないだなんて、そんなことあり得るのか?
『ここから先はもう、二人だけの世界だ』と、京臣は珍しく愚痴を零した。

 東洋の打撲は數杵の鐘聲陰に籠るがごときもので、特別外傷もなくて済んだ。ただ、彼は自分の身体に凪と痛みを分け合うべき傷痕のひとつも残らなかつたことに長く拘泥り続けた。凪は果物ナイフがために受けた創傷がもとで十二針縫つたと聴かされた―――それからの凪は、スイカの皮のような幅広のカチューシャを頭にのせることを忘れなかつた。京臣の話によると、傷が根深いだけにそこだけ髪が再生しなくなつたと云う―――東洋の拳はこれより鈍り、左右なくは衣嚢から出なくなつた。
『俺は理解されたくなんてない。ただ一方的に支えていたい』
 東洋は自分の正義感の不実、延いては『悲劇への本能的な翹望』と手を切るただひとつの秘鑰を見出したように思つた。誰かのために拳を揮うのではない、凪のために拳を揮つていさえすれば、一切の夾雑物は透析せられ、それ自体自足し、拡大する、求心的な正義感たり得ていた。あの時、彼の口許が綻び、覚えず哄笑を洩らしたのがその何よりの証拠である。
 ただここで、東洋は一時、正義感の成就を見送らねばならぬ破目になつた。凪に一生残る傷を負わせて了つた―――一体、正義感の成就が何だと云うのだ?凪はまたあの水も堪るまじき氷の眼差しで東洋の良心を刺し貫くことだろう。彼の獨喜悦な正義感―――

 Y新聞の地方欄を飾つたこの事件は、思いの外根が深いものだと、記者の筆意は語っていた。額面通りに聴くかぎり、他校の生徒に苛められていた女児のために同級生が意趣返しをしたと云う美談にすぎない。が、被害者の女児が最後まで沈黙を護つたことと、廿二歳の指導員が監督不行届きを理由に自主退職したことから、大仕掛けな苛めの機関が仄聞されるようになつた―――因みに紙面でこそ伏せられていた指導員の男、日比谷武任の名はたちまち閭巷に罵つた。これはかの入梅前のドッジボール大会で、先住民の隣に座つて不吉な微笑を泛べていた野球帽の美男子である。
 事件当夜の保育所にたまたま居合わせた記者は、この刃傷沙汰の報知を聞いた児童たちが、色めくどころか、早速の沈黙で結託し合つて世の大人達の向こうを張るような目色をしたと伝えている。抑圧された感情に顔を腫らしているこれら仔羊の羣は、一見、上級生の圧制が怖さに緘口していると見えたが、次の下級生の一言が記者の先入主を撃破つた。
「東海林さんが悪いんだよ―――東海林さんが守らなかったから、六年生たちが罰を与えてたんだ」
 他の児童がその下級生の口許を押さえたげに身構えたが、本心では首肯しているらしかつた。
「どういうこと?飛塚君たちがやんちゃなだけじゃなくて、東海林さんが何か悪いことしたの?」
 さしもの下級生も少し猶豫つたが、良あつて、
「ミヨシキリだよ。ミヨシキリ。東海林さんがミヨシキリを守らなかつたんだ」
「ミヨシキリ?」
 児童らはそれ以上仔細に渉らせなかつた。
 ただ唯一の手掛かりは、記者がこの学童のプレハブ小屋を罷りしなに角柱に鐫りつけられているのを見出した卅一文字である。彫刻刀の篆刻を赤いハイマッキーでなぞつた跡が見られた。
  三夜荐り 神にささぐ血 なかりせば あらしかも疾く 過ぎざらましを
 この和歌の出典は未だ不明であり、情報提供を求めている由である。記者はこれを、ユダヤ教で云うところの「過越祭」に近いものではないかと推量している。それによれば、三日三晩続けて生き物の血を絶やさぬことで、災厄を免れることができると云う迷信が、児童らの間で「ミヨシキリ」と云う持つて回った呪詛に転訛して広まつたと考えられる。この場合の生き物が何を指すかはいざ知らず、児童らがいかなる災厄を懼れ、それを信ずるに至つたかは解らない。が、若しそうだとすると被害者の女児は―――東海林凪は人身御供の役を強いられていたとも考えられるのである。
 ところで自主退職した若い指導員であるが、彼とこの呪詛の猖獗との間に因果関係があつたかは定かではない。ただし、彼が去つてからの青空倶楽部がまるで醇風美俗の亀鑑のように健全な運営と健全な精神をつちかうようになつたと云う事からしても、彼の存在は忽諸にできない。
 
      *
 
 救けにあらわれた東洋を見て、凪は『結婚の模倣』以来、念じ続けてきた靈府(れいふ)の黙禱が彼に通じたとさえ思つて、この上ない幸福感を味わつた―――だがその幸福感のために身も世もあらず、据眼の面藍のごとくなつたのだと誰が信ぜよう?
 いつまでも母になりきれない女親のために、凪は可笑しな心的機構を昔から負わされて来た。
 廿六歳の母は未だ男の指を気丈に弾く肌膚の張りを失なわない代わりに、ほんの十代の娘にしか見えない。いつでも子供の存在を忘れられるほど気が若く、動もすると娘にも劣らない幼稚な魂を顕わすために、実母と云うより未婚の叔母と見る方が凪にはしッくりした。そしてこの無辜の母親は、幼
い凪が発したあまたの他愛ない問いかけを、徹頭徹尾無視し続けたのである。
 「あゝ」だとか「うゝん」だとかそんなはぐらかし方をして呉れた方がまだ凪のために僥倖だつたろう。この無応答の常態が凪の原始的な人間関係の認識を一寸可笑しなものにした。彼女は以来、言語の媒介と云うことに強い不信感を抱いた―――だからして「超自然の悟性」や「言語以前の交感」などと云うものを夢見るに至つたのだが―――『私の問いかけを相手が如実に理解しているとは限らない』と云うちゃんちゃら可笑しな疑問符が然し凪から取り去られることはなかつた。だから凪が心に表象する人間関係において、彼女の問いは―――本懐は無人の境を流浪うのである。人寰の外に逐われた彼女が見ているのは嘗てそこに属していた頃の人間の残像であり、問いは彼等と没交渉に、万籟死したる如法暗夜を無際限に容裔する―――憖つか言語の媒介が人間同志をねじれの位置に置くのではないかと凪は思つた。
 正面切つた拒絶の方が、孤独に比べてどれほど堪え易かろうと、凪は何度思つたか知れない。本懐に近づけば近づくほど、凪はその庶幾の諾否を人に問うことが出来にくくなつた。拒絶を恐れたからではない。普段看過されがちな他人とのずれが募つた挙句、ねじれの位置の関係が本質的なものであると暴露されるのが恐かつたからである。
 聡明な凪はそこで、東洋と云う仮設を―――と云うのも、彼以上の適役は一寸見当たらなかつたから―――設けた。凪はなるたけ無媒介のまま、東洋との間に最高度の襯和を仮定した。この仮設が実現しないかぎり凪はまだ生きていることができたし、万一この仮設の不可能が証明されれば凪は到底生きることに堪えなかつたろう。凪が一等危険を冒して自分と東洋の相性を試したのがかの『結婚の模倣』である。もう少しで見てはならぬものを見そうになつたので、凪は思わず旋踵したのだつた。
 恋愛感情などと云う有触れたものを得難い啓示のように空想する未経験者がいるように、母性愛に餓えている者は得てしてそれを高直なものに空想しがちである。凪の母性愛に対する評価の騰貴には天井がなかつた。母胎の中の羊水的交通―――東洋は宛然それを可能にするような存在へと祀り上げられた。獨り彼だけが凪の前に背中を向けて立つているのである。對坐つた人間の残像は立ろに消えかねない。凪が東洋との間に補償したがつているのは母子関係のそれに庶幾かつた。だから凪には東洋に甘えるだけの権利があつたし―――この重責は甚だ不当であるが―――東洋は冥々裡に凪を理解しなければならない。

快活の哀しみ(4)

快活の哀しみ(4)

呪詛の温床『青空倶楽部』は解体され、学童の運営は健常に復したものの、誰が播いたとも知れぬ『ミヨシキリ』の種子がやがて災禍をもたらすだろうと―――或る者はひそかに北叟笑んでいた。一年間の閑日月を経て、東洋たちは中学に進学する。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-05-04

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