腰ぬけ戦国武将 福島正則

腰ぬけ戦国武将 福島正則

腰ぬけ戦国武将 福島正則

福島正則と聞いたら秀吉の子飼いで 賤ヶ岳の戦いで一番の戦功の有ったお方

賤ヶ岳7本槍のひとりとして名を馳せ 武勇に優れていたのです

家康との小牧、長久手の戦いとか小田原征伐に参加

のちに朝鮮にも渡り、黒田長政や 加藤清正と云った武将の武道派と気が合ったとされます

文治派の石田三成とこのころから 険悪になりのちに関ヶ原で東軍の家康側についています

関白英次に切腹の命令を伝えにいったのもこの人と
されています

と、まあ、一般的に知られているのはこの程度・・

反石田三成の先鋒隊長といったところでしょうか・・

前田利家亡きあと 三成を襲撃を企てたりしています


秀吉に忠誠を誓ったはずの彼が 正則の養子になっていた正之という息子を家康の満天姫と婚姻させてます

これは諸大名との私婚を禁じた秀吉の遺命に背いているし

そのあと家康と秀頼の接見が京都二条城で行われましたが彼は 秀頼の屈辱的ともいえる、上洛を促しています

大阪の陣では秀頼側の加勢要請にも断ってます

こうしてみると 秀吉に本当に忠誠を誓っていたのでしょうか・・

日和見を決め込み 家康の顔色を窺っていただけの
武将に見えてきます

関ヶ原で家康に一応認められ、広島で50万石を与えられますけど 家康の死後

台風の水害で 城の修復していたところ難癖をつけたのが徳川秀忠・・

それで50万国を没収され 長野県の何とかいうところに転封です

結局は最後の2万5000石も幕府に返納し、関ヶ原の合戦の24年後に 長野の片田舎で64才で淋しく死去しています

ネットの記事によると 信濃時代 正則は領民から全く尊敬されず 死後呼び捨てにされているありさまだったとか・・

幕府の使者が到着する前に 家臣が正則の遺体を焼却していたそうです

幕府からのいろんな屈辱に耐えかね切腹したのを咎められるのを恐れこれを隠蔽するために急いで火葬にしたのです

まあ嘘か本当か知らないけど

正則は幕府に対する憎悪を募らせていたことは確かだと思います

一方では 秀忠が正則を憎んでいたのです

その最大の理由は 関ヶ原の合戦に3日遅れて到着した秀忠を嘲笑したことから始まってると思います

それに加え豊臣恩顧だった武将がこうも簡単に裏切り 

家康に媚びる姿が我慢ならなかったのではないかと思います つまりは武士の魂である、忠誠心が有るのか?と思われたことにあります

結局はどちらからも 疎んじられ蔑まれてそのなれの果てが完全な没落です・・

日和見主義者が辿った哀れな結末と私は思います・

それから比較すると三成は最後まで豊臣家に忠誠を誓って散ってますから潔かったのかも知れません・・

秀吉の子、秀頼から懇願されたとき 負け戦になろうとどうあろうと  【家康よ 約束が違うではないか】と 挙兵しておくべきだったのです それが武士の魂と思いますよ・・ホント

それで彼の武士の面目は立っていたのです
引け際の拙さというか・

綿々とお家の安泰と自らの助命にこだわるあまり そんな結果になってしまったのです

真実はどうあれ・・そんな感じしか見えてこないです

腰ぬけ戦国武将 福島正則

腰ぬけ戦国武将 福島正則

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-04

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