雪守
僕の故郷には雪守という、少し変わった風習がある。
大晦日の晩、産土様と呼ばれる神様が祀られた神社の境内に穴を掘り、集まった参加者たちが雪と共にひとつ、思い出を捨てるのだ。
思い出を捨てる、と言われてもほとんどの人がわからないかもしれない。僕もそのうちの一人だ。幼いころ両親につれられ参加したことがあったが、四角く掘られた大きな穴に写真やぬいぐるみを投げ入れて、上から雪をかぶせるというものだった。
地域に住む、七十ニ歳と二十四歳の年男が穴の見張りを務めるのが習わしで、参拝客に雪守の意味や作法を説明し、それが元旦まで繰り返される。途中、氏子から浄めの酒が配られ、篝火に照らされた境内で儀式は粛々と進んでいく。
そんな雪守の役が回ってきたのは、平年より五日ほど早い初雪が降った日の夜だった。
「貴浩、今年はあんたが選ばれたよ」
母はどこか誇らしげに言い、疑問符を浮かべている僕を強く見た。
「選ばれたって?」
「雪守の見張り番よ、総代の村田さんには返事しといたから」
「勝手なことすんなよ」
「どうせ暇なんだからいいでしょうに。あんたも地域の助けになりなさいよ」
たしかに僕は暇だった。都会に憧れ、上京したまでは良かったものの空気が合わず、すぐに挫折して帰ってきた。思いのほか傷は深く、就職する気力も皆無で、ただ時間だけが流れた。
重機の稼動音が静かな境内に響いていた。うすく積もった雪の下から赤茶けた地面が顔を覗かせる。鳥居と参道に篝火が設置され、始まりの予感に胸が高鳴った。
「いよいよだね」
忙しなく動く重機のバケットを見つめていると、一緒に見張りをする桐生さんが話しかけてきた。地元の名士で、恒例行事には必ず出席するらしい彼は落ち着いた様子で微笑んだ。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくても大丈夫。私は不束者ならぬ、二日酔いだから」
桐生さんはそう言い、白い息を吐きながら笑った。
準備を終えた氏子達が一旦帰宅し、神社には僕と桐生さんの二人だけになった。指先に息を吹きかけていると、篝火に染まった参道や境内に雪がちらつき始めた。白色が一面を覆った頃、最初の参拝客がやってきた。
夫婦と思しき初老の男女は拝殿で手を合わせると、穴に向かって正対した。かばんから封筒を取り出し、少しためらう素振りを見せたあと意を決したように投げ入れた。傍らの雪山からスコップで雪をすくい、封筒にまんべんなくかけていく。様子を見守っていた僕たちに深々と頭を下げ、老夫婦は参道を戻っていった。
「ひとつの区切りなんだよ」
遠ざかる夫婦の背中を見つめ、桐生さんが呟いた。
「生きているといろいろなことがある。良いことも悪いことも。勿論それが人生だが、人は前に進むために何かを忘れなければならない」
「それが、あの封筒ってことですか?」
「貴浩くんは忘れたい思い出ってあるかい?」
短い時間考えた。挫折し、都会から逃げ帰ってきたことが真っ先に思い浮かんだ。
ダメな時は何をやってもダメで、仕事も恋愛も友人関係もすべて破綻してしまった。もし可能ならその三つを穴に投げ入れたい。
「実は私もあるんだ、まだ誰にも言っていないけれど。見張り番も今回で最期になるし、投げ入れてみようかと思ってる」
でも正直まだ向き合う勇気がないんだけどね、と言って桐生さんは微笑んだ。
参拝客が途切れることなく、ぽつぽつと、ゆるやかに時間が経過した。時を刻むにつれ寒さは増していき、ポケットのホットカイロだけが唯一の熱源だった。
「寒くないかい?」
「すごく寒いです」
「本来なら焚き火をするんだが、今年は苦情があってできなくなってしまった」
「苦情、ですか」
「灰が飛んできて困る。だとか、火の粉で火事になったらどうするんだ、ってね。篝火はいいのに焚き火は禁止なんて、変な話だよ」
僕たちは曇天の夜空を見上げた。灰のように降る雪が、鼻や頬にぶつかる。
「貴浩くんは、この町のことをどう思う?」
突然そう言われ、桐生さんの顔を見つめた。彼は真剣な眼差しで続けた。
「この町には娯楽がない。車がなければ買い物にだっていけない辺鄙な場所だ。人口は合併を頂点にして減り続けている。若者を留める魅力が枯渇しているんだよ」
返答に困った。一度町を出ていった僕には耳が痛い話だ。お年寄りが地元を否定するのは聞いていて気持ちの良いものではないが、これが現実なのだろうか。
零時近くになり、遠くから除夜の鐘の音が聞こえだした。もうすぐ今年も終わるのだと感慨にひたっていると、ひと組の親子がやってきた。三十代くらいの女性と小さな女の子だ。
拝殿で鈴を鳴らし、手を合わせたあと僕らの方に歩いてくる。雪守は初めてらしく、一通り説明すると女性は穴の前に立った。はめていた手袋を外し、手提げからネクタイを出してそっと穴に投げ入れた。スコップを差し出すと女性は寂しそうな顔で笑み、礼の言葉を口にして雪をかけていく。その作業を僕と桐生さんは黙って見つめていた。彼女の華奢なシルエットと篝火の炎により生み出された影が白い地面の上を踊り、うねって、網膜に残像を残した。
「ありがとうございました」
女性からスコップを受けとって、所定の位置に戻した。ふと視線を感じて周囲を見渡すと、女の子が僕を見つめている。何か言いたそうにもじもじと、履いている長靴の先で地面をつつき出した。
「どうしたの、眠い?」
女の子は嫌々をするみたいに首をふる。帰ろうと、女性が腕をつかんでも根が生えたみたいにその場を動こうとしない。どうしたものか。大人三人、困っていると、
「あのね、マユね、これもってきたの」
女の子がポケットから一枚の写真を取り出した。桐生さんと同年代くらいの男性が野球のユニフォームを着て微笑んでいる。
「おじいちゃんはねェ、おそらのうえにいっちゃったの。さびしいけど、これをみるとママがかなしいかおするからマユ、あなになげるの」
僕たちの視線に気づいたのか、女性は赤い目で小さく肯いた。桐生さんが察するように短く、息を吐いた。
「次郎衛門さんのお嬢さん?」
「はい。生前、父がお世話になりました。お葬式にも大きな花輪を出していただいて。なんてお礼を言ったらいいのか」
「彼とは昔からの付き合いだ、最期くらい派手に送り出してあげたかった。安らかでとても良い顔をしていた」
ふたりの話に耳を傾けていたら、女の子が僕の上着の袖を引っ張った。
「マユもゆきもりやるゥ」
ごめんごめんと言いながら、桐生さんが女の子を穴の前につれていこうとする。
「待ってください」
三人が一斉に僕を見た。怖い顔をしていたのか、女の子が眉をひそめる。
「その写真、投げ入れるのやめませんか?」
「どうしてだい? 寒い中きて頂いたのに」
境内に不穏な空気が流れ、それでも臆すことなく僕は口を開いた。
「忘れちゃいけないと思うんです。桐生さんも仰っていたじゃないですか、良い思い出も悪い思い出もそれがその人の歩んできた道だって。なんていうか、その、うまく言えないんですけど──。いつまでも覚えていることが大事なのかなって。そう思うんです」
桐生さんが手をこまねいていると、女性が女の子を抱きしめた。
「麻友、ごめんね。ママ間違ってた。もうおじいちゃんの写真見ても泣かないから持って帰ろうね」
「ほんとうにィ? ママ、もうなかない?」
女性はにっこり微笑むと、女の子の頭をなでた。
「貴浩くん、すまないね。私はもう少しで間違ったことをするところだった」
「そんなことないですよ、桐生さんのおかげで僕も前を向けそうです」
「そう言ってもらえると雪守冥利につきる、本当にありがとう」
「それより、最期に捨てなくていいんですか?」
「君の言葉で目が覚めた。様々な思い出があるから私なんだ、いつまでも覚えておくことにするよ。──お、氏子達が酒を持って帰ってきたぞ」
氏子達の乗った車のヘッドライトが、日の出のように煌めいた。 了
雪守