
ペイント
雪がちらついている。雪が音を食っている。周りはあまりにも静だ。
彼は目を覚ました。どんよりとした焦点の合わない赤い目が目の前の空間を見た。酒が残っている。
(なんとつまらんクリスマスイブだったのだろう。毎年毎年、酒を飲んで大騒ぎをするだけ、何も記憶に残らない。子どものころのクリスマスイブはなぜか心躍った。サンタを信じていたからだろう)
エアコンのスイッチを入れ起き上がるとカーテンを引いた。窓を開ける。連なるアパートの屋根は雪の薄化粧だ。アパートの間に植えられている銀杏の木にも雪がかぶっている。
(銀杏でもクリスマスツリーに見えるものだ)
街の中の、歩けば当たるけばけばのクリスマスツリーにはうんざりだ。
(銀杏のツリーに人間を吊るしたらいい)
三階の窓から下の通りを見ると、人通りもなく、白い敷物が敷き詰められている。
(さむ)
(もう一度、寝るか)
窓を閉め、ベッドに戻った。
枕もとのサイドデスクの上に、かなり大きな赤い包みがあるのに気づいた。昨夜はだいぶ飲んで遅くかえって来た。そのときには何もなかった。誰かにもらったのを忘れているのだろうか。
(管理人のおばはんが、こんなもんもってくるはずはない)
本当にクリスマスプレゼントなのか。彼はもう一度赤い包みを見た。緑色のリボンがかかっており、確かにクリスマスプレゼントのようだ。
(飲んだのは男たちだけだし、飲み屋も女っけのないところだ)
大体、普段、まわりに物をくれる人などいない。子どものころサンタさんからノートか何かをもらったっきりだ。
彼はベッドに腰掛けると赤い包みを取り上げた。結構重い。緑のリボンを解き、文字のなにもない包み紙をはずすと白い箱が出てきて、その中には小さなペンキの缶が五つはいっていた。五色のようだ。おまけに刷毛まで入っている。
缶の一つを取り出してみる。
(やっぱり管理人のばばあか、汚した壁を塗れって言うんじゃなかろうか、ママゴトみたいだ)
缶に書かれている説明書きに目が留まった。
『過去を塗りつぶすペンキ、エゴイストペンキ、このペンキを塗ると、あなたの過去が塗り込められてしまいます。一缶で一平方メートル、十年もちます。赤はいいことを、黄は友達を、青は仕事を、黒は悲しいことを、白はすべてです。塗るときには係員がお伺いします、ここに電話してくださいと矢印があり、矢印の先には金色に塗りつぶされたところがある。さらに必要な時はここを削る』とある。
なんだこれは、いいことまで塗りこめてしまう必要ないじゃないか。だれかのびっくりクリスマスプレゼントか。
彼はゲーム感覚で電話をかけてみる気になってしまった。
枕もとの財布に手を伸ばし、十円玉を取り出すと、金色の部分を削った。188とある。上半身をおこし、脇においてある携帯をとると188をまわした。うんともすんとも言わない。
(びっくり缶なのか。開けると骸骨が飛び出すとか仕掛けがあるのかもしれない)
またベッドの上に横になった。
「全く、クリスマスの日だっていうのに忙しいったらありゃしない、だからクリスマスイブにあれを売るなと言ったのに」
彼の耳に男の声が聞こえた。
「誰だ」
彼は驚いて、ベッドから身を起こした。部屋には誰もいない。当たり前だろう。
だけど声がはっきり聞こえた。
「ここだここだ」
なんだ、辺りを見回し、ベッドから降り、キッチンやトイレを覗きにいった。狭いアパートの一室である。戻ってきて声をあげた。
「どこにいる」
まだ酔っているのか。
「ここだ、とうへんぼく」
とうへんぼくっていうのはなんだ、一体誰だ、どこにいる。
幻聴か。頭を動かした。
ベッドの枕元の携帯に明かりがついている。見るとそいつは携帯のスピーカー部分から上半身を出してもがいていた。
「やい、手伝え、三時間しか仕事の時間がないんだ」
何を言っているのかわからないが、そいつは携帯に手をかけて何とか外に出ようと努力をしていた。
彼はベッドに腰掛けると、とりあえず自分の指を携帯の前に差し出した。そいつは彼の指につかまった。指をぐっと引いた。
「乱暴な」と言いながらも、その小人は携帯の上に立ち上がり、ふっと膨らみ、床に下りると、猫ほどの大きさになった。
「やー、遅くなった」
抹茶色の小人は点のような目を彼に向けた。
小人はぴょんと飛び上がり、ベッドの上のペンキ缶の脇に降りたった。
手には刷毛をもっている。
「さー、どの色を塗る」
彼はとっさには何を言われているのか分からなかったが、すぐに説明書きを思い出した。と言っても何も考えてはいない。
「なんだ、何も決まってないのかい、ここに塗ろう、調度いい広さだ」
壁の一画を指差した。
うなずいたわけではないが、目の下にいる小人を見るのに下を向いた。うなずいたようにも見える。
「何色かい、何年ごろだい」
彼はやっと自分で言葉をつむぎだした。
「まだ、何も、ちょっと待ってください、あなたは誰ですか」
「電話くれたんじゃないかね、ペンキを昨日新宿のゴールデン街の出口で買ったろう、一万円払ってくれたんだ」
確かに、クリスマスイブで大学時代の友達と飲み歩き、最後にゴールデン街に行った。しかし後のことはよく覚えていない。
「そうか、だから、クリスマスイブに売るなって言ったのだが、あんたの思い出をこのペンキで塗ってやろうというのだよ、塗っちまえばもう思い出すこともない」
彼が不思議そうな顔をしているので小人は続けた。
「あんた、日記など書いていないのかい」
彼は首を横に振った。
「そりゃそうだな、そんな面倒なことするわきゃないな」
「いやなことを消してくれるのか」
「そうだよ、いやなことなどいくらでもあるだろう。自分でも塗りこめることが出来るが、サービスで俺が来て塗ってやるんだ」
「だけど、俺の記憶だけから消えてもしょうがないものもあるだろう」
「そりゃ、そうだ、心配するな、あんたの消したい記憶を消すと、それを知っている他の人間の記憶もなくなる」
「便利だな」
「あんたの、過去を思い出して話してごらんよ、塗りたいと思ったことに気がついたら、言ってくれれば塗りこめるよ」
「危険じゃないのかい」
「そりゃ、分からん、自分で判断してくれ、俺は頼まれたことだけをするんだ」
まだ、よく分からなかったが、確かに忘れちまいたいことはたくさんあった。一番気に病んでいたのが、大学時代、十五年ほど前だろう、自分が運転していて事故を起し、同乗していたクラスメイトが怪我をしたことだ。男の友達は足の骨折だったが、一人の女の子の頬のところに怪我を負わせ、傷が残ってしまったことだ。可愛い顔をした女の子で、傷ができたことでずい分落ち込んでしまっていた。その事故以来、そのクラスメイトたちとは疎遠になってしまった。彼はスピードを出すのが好きだったのだ。それ以来気をつけるようになった。そんな話をした。
「それじゃ、その事故のことを忘れたいんだな」
彼は頷いた。小人は黄色いペンキを開けると、壁に五十センチ四方の四角を書いて、中を塗った。
「五年前、失恋したことも塗ってくれ」
「どうしたんだ」
「いや、相手に、言葉をもっと気をつけなさいって言われちまった」
「なんて言ったんだい」
「ちっちゃいね」
「それだけ言ったのかい」
「うん、かわいいねと言うつもりだったけど」
「言葉は難しいよ、どんなシチュエーションで言ったのかわからないが、きっと、話の脈絡から、別のことと捉えたんだな」
話を聞き終わると、小人は黒いペンキをあけ、五十センチ四方を塗った。悲しい過去を塗ってくれたのだ。
仕事に関しての大きなミスはないが、ちょっとした計算間違いや書類の漢字のミスを部長からよく指摘される。それは大学を出て仕事についてからずーっとだから、十年間である。
「そうか、そりゃ長いなあ、それも塗っちまうか」
小人は青いペンキを一メートル四方に塗った。
「だいぶ塗ったな、ちょっと休ませろや」
小人は上着のポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「どうだい、吸うかい」
小人は煙草を彼にすすめた。
「そりゃあ、ありがとう」
その煙草を吸ったとたん、彼はむせた。
「強すぎたかな、これを吸うと、楽しかった記憶を思い出すよ」
「そういえば、なぜ楽しい過去も塗っちまうんだ」
彼は煙草の火を灰皿の上でもみ消した。
「いや、赤いペンキは楽しい過去を強くしてくれるんだ」
「缶にはそう書いていなかったけどね」
小人は缶を持ち上げて、説明書きを読んだ。
「確かにね、ペンキ会社に言っとくよ、日本語が苦手なやつが作ったんだな」
ちょっとしか吸っていないが、楽しいことを思い出した。一番嬉しかったのは小学校六年の時、写生大会で三等賞をとったことぐらいだ。そういえば褒められたことがあまりない。
「それだけかい」
「そうだな、二十五年、いやもっと前になるな」
「そうか、でも、それを塗っていいのかい、無理に塗らなくてもいいのだよ」
「どうしようかな、三日前に食べたラーメンは旨かった」
「それも塗るかい」
彼は頷いた。
小人は赤いペンキを十センチ四方に塗った。
「白いペンキは何にするのだい」
「例えば、去年の一年間を塗りこめることが出来るのさ、全部忘れちまう」
「どんな人が必要になるのかわからないな」
「戦争にいった人や、つらい病気で一年間入院した人などは、使うことがあるけどね、あんまり使わないね」
「俺にはいらないね」
「そのほうがいいね」
「さて、終わりかな、三日で乾くからね、そうしたら、壁に塗りこめた過去はもう十年間記憶にないからね、気をつけてね」
小人は、そう言って、携帯のマイクの部分に頭を突っ込んで中にもどっていった。
三日過ぎた。
仕事場で、計算書と報告書を部長に持っていくと、部長があきれた顔をした。
「ほら、また、計算が違っている、それに、報告書の私の名前の漢字が間違っている。最近良くなってきたと思ってたのに、気をつけなさいよ」
彼は何を言われているのかわからず。
「はい、気をつけます」
と言って書類をデスクに持ち帰った。だんだんよくなってきたのに、みんな忘れてしまったので振り出しに戻ったのだ。
昼休み、周りの仲間と話している時、彼は得意げに嬉しそうに話した。
「小学生の時、写生大会で三等賞をとったんだ」
それを聞いていた女の子たちが「へーえ、すごいねえ」とあきれた顔をして、自分たちの机にもどってしまった。
その日、得意先に書類を届けに行った。久しぶりにスピード違反でつかまった。かなりのおオーバーで、十万円の罰金と免許停止をくらった。事故のことをわすれたことで、得られた教訓も忘れたからだ。
次の年、デパートの紳士服売り場でネクタイを買った。その売り場の女性に彼は恋をした。彼はデートに誘い出した。しかしあっけなく振られてしまった。
「ちょっと年をとったくらいの女性のほうが魅力がある」と彼が言ったからだ。
彼はまたしても振られたのだ。前に振られたことを忘れたことから、言葉に注意しなくなったからだ。
彼はもう一度彼女にメイルをしようと携帯を開いた。
抹茶色の小人の顔が画面に現れて宣伝文句を早口で言った。
「大事な過去を思い出すペンキが今だと十万円、安いよ」
良い思い出も悪い思い出も、その人間の将来のために大事なことを彼は理解していなかった。もちろん宣伝の意味も全く理解が出来なかった。
小人は彼の眼を見てすぐに引っ込んでしまった。
彼のやりなおしの人生がはじまった。
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私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 挿絵:著者