意味を与える

意味を与える

  月に一度しかあけないせいか、窓は嬌声じみた音をたてた。ローラーがさびついてきたのだろう、引っ越してきてからろくに掃除もしていない。力任せにあけると、こんどは喘ぎ声のようなものに変わる。築三十年のアパートだからアラサーの喘ぎ声だ。
 うす汚れたガラスを指でなぞると、ぬるい風が頬をかすめた。八月初旬の空は晴れわたり、今日も暑くなることを予感させる。
 素足のままベランダにおり立つと、尖った熱が足裏を刺激した。かかとを浮かせたまま背筋をのばし、目をつむって朝日を全身にあびる。すぐに視界があかくなり、体をめぐる血液が浄化されていく、ような気がした。
 たっぷりと朝を吸い、遠くでカラスが鳴いたのを機に目をあけた。足裏をはたき、用をたしたあと、体毛の処理をするため浴室にあるく。きょうはおじさんに抱かれる日だ。
 二十歳で無職のあたしは、おじさんに体をゆるすことで生きながらえている。
 散らかったこの部屋も冷蔵庫のプリンも毎月お世話になっている生理用品だって、すべておじさんからの施しだ。怠惰なあたしを世間はゆるさないかもしれないけれどそんなことは関係ないし、なにより事実なのだからしかたない。
 売春? パパ活? 愛人? 
 どれもしっくりこない。しいていうなら共依存だ。あたしはおじさんに、おじさんはあたしに、これからの意味を求めている。
 お風呂場はいつもひんやりしていてうら寂しい。まるで墓場だ。服を脱ぎ、幽霊みたいな白い肌をさらすとパンツを洗濯機に投げてシャワーのコックをひねった。夏のくせにすぐお湯にならなくていらいらしたけれど、それでも髪を洗い、体を濡らすとシェーバーで丁寧にムダ毛を剃っていく。
 おじさんは体毛が苦手だ。女の肌は常につるつるだと思っている。実際は処理をしなければ男と大差ないのだけれど、ほとんどの男はそれをしらない。そのことをしらないということは女の努力をしらないということですごく寂しいことなのだが、でも世の中ってそういうものだと思う。かわいい赤ん坊だって生まれたては羊水と血でべちょべちょだ。大切なのは過程ではなく結果で、それさえよければみんな笑顔になれる。おじさんが気に入る肌を目指すべく、思いをこめてカミソリをうごかした。
 おじさんと出逢ったのは太陽がストライキを起こしていた寒い日だった。
 アルバイトをやめ、街をぷらぷらしていたあたしは自分よりかわいそうな人間をさがしていた。服のセンスが皆無なキモヲタ、眉だけ無駄に濃ゆい若禿げ、神様が目隠しして創ったとしか思えないフェイス女子。どれも残念だが、いまのあたしよりは幸せそうに見えた。
 収穫もなく駅に向かうと声をかけられた。改札横の、西日すら当たらない場所に中年のサラリーマンが立っていた。
「良かったら、僕といっしょに死にませんか」
「は?」
「だからいっしょに──」
「ばかじゃないの?」
 にらんでやると男は「やっぱり、だめですよね」と呟いてそのうち泣き出してしまった。年のわりに豊かな頭髪が高級車みたいに光をはじいて双眸を刺激する。
 いい年した大人なのに泣きじゃくる彼を見て、(ああ、この人はもうすぐ死ぬんだ)と思った。世界からそっぽを向かれ、艶のある髪だけを残して、ひとり寂しくこの世から消えさるんだと思った。
 べつに見ずしらずの中年男がいなくなっても何も困らないし、地球は回るし、同じように朝はやってくるのだけれど、それでもこの状況をほうっておけるほどあたしは薄情ではないし強くもなかった。なにより自分以上にかわいそうな人なんてそうそういないのだ。
 それからどういうわけか、あたしとおじさんは運命共同体になった。利害が一致したといえばそれまでだが、二十歳の無職女と死にかけた不惑の男が時間を共有するというのは傍目に見てもおかしいと思う。街ですれちがったなら指をさして笑うだろう。
 仲間内で話題をシェアし、ネットに上げ、だれかの不満やストレス解消の玩具に成り下がる。ふたりはそんな関係で、それはきっとこれからも変わらない。でも案外、生きるってそういうことなのかもしれない。
 髪をふきながら冷房の温度を二度下げる。スマートフォンを確認したあと、朝食がわりに冷蔵庫のプリンを取りだした。レジでもらえるプラスチック製のスプーンはひどく脆弱で、まるで今のあたしみたいに頼りない。カラメルで汚れた先端を舌で弄んでいると、膣が濡れていくのがわかった。きょうはやけに興奮している。そわそわする精神(こころ)に押されるようにバスタオルをはがし、パンツの上からクリトリスを刺激する。すぐに快楽が背骨を駆け抜け、全身が熱にうかされたように火照った。おじさんの絶望する姿を想い、あたしはソファーの上であっけなく果てた。
 おじさんがやってくるのは決まって午後七時だった。五時に退社し、あたしのアパートまで一時間バスにゆられる。途中で軽食をとっているらしく、よくナポリタンの香りがした。おじさんはあたしと目が合うと照れたように視線をはずす。童貞じゃあるまいしいい加減慣れてほしいのだけれど、気弱な犬みたいでちょっとかわいいから、まあいいかとも思っている。
 パンツを取りかえてから手をあらい、髪をしばるとひさしぶりの掃除をはじめた。べつにこの部屋でセックスをするわけではないが、こういう機会がないと一生片付けることがないだろうからこれはある意味好機でもある。あたしは典型的なO型だ。
 雑誌やペットボトルを袋に入れ、ある程度床が見えるようになったところで掃除機をかけた。邪魔なボックスティッシュを隅に追いやり、ヘッドを密着させてしばらく床をなめさせる。ソファーの下に先端を押しこむと、なにかをすいこんだのか苦しそうな異音が響いた。引きぬくと埃まみれの靴下がはりついている。くるりとしていて太ったネズミみたいだ。直に触るのははばかれたので、そのままゴミ箱までもっていってスイッチを切る。いつまで履いていたのかわからない靴下は、ぽとりと、魂が抜けたように絶命した。
 掃除を終えて洗濯機を回し、レモンティーを飲みながらなんちゃって主婦を演じているとスマホが鳴った。弟のソウタからで、彼は開口一番「ねえちゃん、お金貸して」と言った。無職のあたしに金の無心をするなんて相当困っているのか、余程のばかなのかのどちらかしかないけれど、血をわけた弟がそんな話をしてきたのでとりあえず乗ってみた。
「いきなりどうしたのさ」
「お金がいるんだ」
「いくら」
「三十万ほど」
「何につかうの」
「ごめん、理由は訊かないでくれ」
「ふつう訊くでしょ、ばかなの?」
 ツッコんであげると、弟は猿みたいに笑う。
「実は女を妊娠させちゃって、さ」
「あんた童貞でしょ、マンコの形すらしらないじゃん」
「それはしってる。ネットで観たし」
 憤慨する弟にとても情けなくなった。その気になれば童貞なんていつでも捨てられる。街は年頃の女であふれているし、風俗だってある。彼はただ勇気がないのだ。
「あたしの立場わかってる?」
「立場って?」
「いま仕事してないんだけど。プーよプー」
「それはわかってる。でも、ねえちゃんしか頼める人がいないんだ」
 黙っているとソウタはもう一度、頼むよと言った。
 おじさんに飼われているあたしに三十万なんてお金があるわけがない。通帳は三ヶ月ほど出納の形跡はないし、預金は五桁に満たない額しか入っていないのだ。もしかしたら弟のほうがお金持ちかもしれない。
「もう高校生なんだからバイトでもすれば?」
「ねえちゃんモテるからだれかいない? 出してくれる人」
「あんたねェ、だれかに頼るとかいまからそんな考えじゃろくな大人になれないよ。将来とかどう考えてんの」
 説教していて吐きそうになった。いったいどの口が言っているのだろう。かるく自己嫌悪に陥っているとソウタはだらしなく笑い、わかった、また連絡すると言って電話を切った。
 溜息を放ち、スマホを投げてソファーにたおれた。弟と話しているといつも疲弊してしまう。特にいがみ合っているわけでも嫌いなわけでもないのにあたしのHP(体力値)はすぐに底をついてしまうのだ。
 能天気な彼はいわば太陽でずっと見つづけることなんてできなくて、仄暗い場所を好むあたしはその光から逃げるように窖(あなぐら)へ駆けこんだ。人ひとりがようやく収まる狭い空間、内壁は苔と湿気でぬるぬるしていてつかいこんだ膣のようだ。足をのばし、両手をお腹の上で組んでおじさんを思いうかべる。自分よりも弱っている彼を気のすむまでいたぶって陵辱すると、失った体力がすこしだけ回復するような気がした。
 洗濯完了の電子音で目が覚めた。どうやら眠ってしまったらしい。頭をふり、よろよろと脱衣所の洗濯機まであるいた。しわしわになったタオルとパンツを洗濯槽から引っ張り出し、そのまま上に設置されている乾燥機に入れる。この乾燥機も二ヶ月前おじさんが買ってくれたものだ。
 梅雨時期は洗濯が間に合わないと呟いた翌日、玄関先にグリーンの制服を着た配達員が立っていた。イリュージョン。体型も含め、なんだかドラえもんみたいな人だと思う。
 メイクをし、ヘアアイロンをかけていると毛先が傷んでいることに気づき、どうしても切りたくなってしまったので美容室に予約を入れることにした。いつも利用しているところはあいにく休みで、しかたなく別の美容室に電話をする。まだ入って日が浅いのか、受付の女性はぎこちない敬語で予約時間を訊いてくる。都合のいい時間を伝え、慇懃無礼ともとれる言葉をききながら通話終了をタップした。
 世界に黒があふれた頃、インターホンが鳴った。
「これ、おいしそうだったから」
 ジェラートピケの新作をまとったあたしに、紙袋を差し出すおじさんはあいかわらず照れていて、お礼を言うと満足そうに微笑んだ。駅前にある洋菓子屋のマカロンだった。
 適当に座ってもらい、食器棚からカップを出して紅茶を淹れた。おじさんはシルバーのジッポーライターをつけたり消したりしている。
「吸うようになったの?」
 そう訊くと、彼はライターを見つめたまま疑問符を投げてくる。
「たばこ」
「はやく肺ガンにならないかと思ってさ」
「肺ガンなんて苦しいんじゃない?」
「ガンに苦しくないものはないよ。みんな寛解するまで必死に闘ってる」
「それなのに罹患したい?」
 おじさんは頼りなく笑った。これからセックスをするというのにひどく哀しそうだ。とうとう勃たなくなってしまったのだろうか。
 セックスからも見放されて死んでいくおじさんを想像していると股間がとめどなく濡れてくる。パンツは湿り、内腿が熱を持って、体の芯がぶるぶるとふるえた。
 あれ持ってくるとあたしは言い、キッチンに立った。花柄の包みを開けた途端、緑、黄の原色が網膜へダイブしてきた。マカロンの甘い香りが鼻をくすぐり、食べてほしそうな顔をしている黄色を口に放りこんで噛み砕くと優しい甘味が舌を喜ばせる。甘いものってなんてすばらしいのだろう。もうひとつ食べたくなったが、あたしはお菓子を皿の上に盛りつけた。
 午後八時になり、あたしたちは街へ繰り出した。湿気を含んだ夜気と喧騒が肌にまとわりついてくる。おじさんはあたしのすこし先をあるいた。別に恋人同士じゃないから手は繋がない。あたしはあたしでおじさんはおじさんだ。今夜地球が終わろうともそれは変化することのない事象で、だれも曲げることのできない事実だ。
 居酒屋からただよう焼き鳥の匂いに誘われ、引き戸をあけると威勢の良いかけ声が飛んできた。テーブル席に案内され、バッグを傍らに置くとすぐに店員がおしぼりとお冷を持ってくる。生ビールと軟骨を頼み、手持ち無沙汰になってしまったふたりは黙った手を拭きつづけた。二ヶ月前に施したネイルはところどころ剥げていて女子力の欠片もない。カットしたばかりの毛先を弄りながらスマホを見ると、親友のサトミからラインがきていた。また彼氏とけんかしたらしい。クマが泣いているスタンプが送られてきたので親うさぎが子うさぎを慰めているスタンプを送り返した。ひどく面倒くさい。でもこうやって共感しないと女同士の関係なんて瞬く間に亀裂が入ってしまう。いちど壊れた関係を修復するのは神様でも不可能で、そんなことに労力を使うなら新しい誰かをそばに置くだろう。画面をにらんでいるとビールが運ばれてきたので乾杯をしたあと、一気に喉へ流しこんだ。
「きょうはどうしたの」おじさんが呆気にとられたような顔で言った。
「どうって?」
「いや、なにかあったのかと思って」
 答える代わりにお通しの切干だいこんに箸をつけた。かなり味が濃い。中和するため、またビールを口に運ぶ。小首をかしげていたおじさんも同じようにビールを呷った。大きく突き出た喉仏がリズミカルに上下する。軟骨の塩気がアルコールを要求し、なんどもジョッキを傾けた。
「部長の廣川は調子に乗ってやがるんだ」
「そんなやつ、ぶっ飛ばしちゃえばいいよ」 
 アルコールが入るとあたしたちは饒舌になる。大概は愚痴だ。おじさんは会社の、あたしは希薄な人間関係を吐きだす。体の奥底から絞りだされたそれは、ジャングルみたいな騒がしさと三角コーナーのような匂いに溶けて消える。残ったのは虚しさで、あたしたちは虚を間に挟んでセックスをする。
 空のジョッキが増えるたび、あたしとおじさんの熱は激しさを増していった。社会に対する不満をぶつけ合うようにあたしたちは体を重ねるのだ。
 結局、ふたりでジョッキを四杯あけて店を出た。いつのまにか冷たさをまとった夜気が心地いい。遠くから太鼓と笛の音が聞こえる。何度も何度も同じフレーズを繰り返している。夏祭りが近いのだろう。大通りから一本路地に入り、いつも利用しているホテルにあるく。部屋を決め、フロントで鍵を貰うと狭い階段でニ階にあがった。
「お風呂ためるね」
 あたしがそう告げると、彼はネクタイをゆるめながら肯いた。入ってすぐのところにあるお風呂場はいつきても他人の匂いがする。ここで何人もの男女が心を曝け出し、本音を語り合ったことだろう。
 浴槽を軽く流してからお湯をためた。蛇口から吐き出された熱気はとたんに鏡を曇らせる。白い鏡に向かい、人差し指で愛と書いてみたが、馬鹿らしくなってすぐ消した。
 ベッドルームに戻るとおじさんは飲み足りなかったのか缶ビールを開けていた。きょうはやけに深酒だ、忘れたいことでもあるのだろうか。あたしの視線に気づいたのか、おじさんはばつが悪そうに笑った。
「あまり飲むとできなくなるよ」
「そうだな。この一口でやめておこう」
「先にシャワー浴びる?」
「酔い醒ましも兼ねて入ってくるよ、汗をかけばだいぶ違うから」
 ビール缶をおき、いちど伸びをするとおじさんはお風呂場に向かった。その背中を見送ってあたしはベッドに倒れる。無駄にふかふかのベッドは底なし沼みたいに体を引きずりこんでいく。窮屈なストッキングを脱いで床に投げると、素肌にシーツの表面がこすれてひどくこそばゆい。剃毛をがんばった証拠だ。白い天井を見つめているとアルコールが欲しくなり、おじさんが残していったビールを口に含んだ。かなり微温くなっていたけれど、含有されているアルコールはたしかに剥き出しの神経を麻痺させる。
 缶が空になり、あたしは何にでも初めてはあるものだと思った。初めてビールを飲んだのは中学三年生で、場所は当時付き合っていた彼氏の家だった。テレビを観ながら当然のようにお酒を飲む彼がひどく大人に思えて鼓動が高鳴った。勧められるがまま缶に口をつけると苦い液体にあたしは噎せた。口元をぬぐうと彼は笑い、あたしも笑って、そして唇を重ねた。
 不意にボディーソープの香りが鼻をかすめ、現実に戻った。シャワー音を聴きながらセカイノハジメを想像する。周囲はまだ植物さえも生えていない荒地で、全裸のあたしは遠くにある海を眺めている。空は泣きたくなるほどの灰色で、それは絶望みたいに重くのしかかってくる。どこからか吹いてきた風を感じながら、光を求めて彷徨った。
「お先、わるいね」
 おじさんの声で現実にもどった。返事をし、また天井を見つめる。何かが飛んだのか黒いシミがふたつほどあった。完璧の中にある不完全な黒はこのまま淘汰されてしまうのだろうか。それとも白い世界を凌駕するのだろうか。
 シミの行く末を案じていると、おじさんがあたしのつま先を舐めた。いきなりでびっくりしたけれど、かまわずシミを見つづける。
 おじさんはつま先を舐めるのが好きだ。彼に言わせれば女体の中でもトップスリーに入るほどセクシーな部分らしい。親指から小指に向かって舌を動かしていくおじさんはとても幸せそうで、それはまるで子どもみたいで、でもその幸せが長くつづかないことをあたしはしっている。爪、指先、指の腹、間にある水かきも丁寧に舐め上げる。盛った犬みたいに夢中な彼にこれ以上ない優越感を感じていた。男はフェラチオに征服感を覚えるらしいが、あたしはつま先にそれを覚える。不快な夏の夜、ブーツを履いて蒸れた足を大人の男に舐めさせる快感は当事者にしかわからないだろう。膨らんでいくおじさんの股間を反対の足で踏み潰してやりたい衝動をすんでのところで堪えた。
「ねえ、どの指が好き?」
 いつもは話しかけることがないあたしがそう訊いたものだから、おじさんは驚いた顔をした。
「どうしたの」
「べつに。おいしそうに舐めるから」
「変、かな」
「ふしぎだと思って」
「オヤジが若い子の足舐めるのはやっぱり、気持悪いよな」
 つま先から顔をはなすおじさんにあたしは首をふった。「つづけて」
 先ほどよりも強く指が吸われていく。すこしくすぐったい。土踏まずに舌が這うと、我慢できずに笑ってしまった。おじさんが哀しい顔をする。
「ごめん、そこダメ」
 そう言うと、おじさんは足裏にキスをしてそのまま脛に頬ずりする。ふつうの二十歳なら蹴り飛ばすかもしれない。父親に近い年の男が恍惚の表情で頬ずりをしているのだ、嫌悪しないわけがない。だけどあたしはその状況を受け入れた。おじさんはまた指先をすう。子どもを産んだことはないけれど、赤ん坊に乳首をすわれているような感覚におちいった。彼が生きてきた四十年にあたしは勝利したのだ。
 シャワーを浴びたあと、あたしたちは本格的に体をかさねた。やはり飲みすぎたのかおじさんの性器はすぐに硬くならなかったけれど、しばらく口に含んでいるとだんだん硬度を増してきた。弱々しい性格のくせにここだけはやけに挑発的で、そのギャップにまた笑いそうになる。別人格が宿ったペニスの先をゆっくりと指でこすった。新鮮なライチみたいな感触、気持いいのか透明な体液が溢れてくる。指先につけて円を描くように動かすと、おじさんは低く喘いだ。はちきれそうになったペニスをもう一度含むと、濃い海の味がした。

 セックスをしたあとの朝日はひどく眩しい。快楽を知ってしまった人間を神様が責めているのだ。
 情事が終わるとおじさんはそのまま会社に向かう。汗臭いシャツやパンツでも気にする様子はない。満員電車に乗るのだからちょっとは気にしろと思うのだが、生きることはすこしずつ鈍感になることらしい。別れ際、おじさんはたった今気がついたように髪切ったんだねと言った。
 街にあふれた静謐が肌を刺す。活動間近の空間はあたしを弾き返すのに必死だ。透明なバリアが至るところに存在し、排他的な空気があたしを嘲笑う。日々の経済行為で造られた街とプーの女は水と油でどんなに攪拌してもけっして交わることはない。
 アパートに着くとメイクも落とさず、あたしは泥のように眠った。くだらない夢すらもみない。喉の渇きで目が覚めた頃、一日は既に半分を終えようとしていた。
 洗面所にいき、クレンジングオイルを乱暴に塗ると現実がもどってくる。鏡の中に本当の自分が現れたときスマホが鳴った。洗い流して部屋にいくと、サトミの甲高い声が鼓膜を攻撃してきた。
「もう死ぬゥ」
「どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫じゃないィもう無理ィ」
「ちょっと早まらないでよ、話聞くから」
「ミズホってやっぱりいいやつだよねェ涙でるゥ」
 グジグジ鼻を鳴らすサトミにうんざりしながらも耳を傾ける。どうせ彼氏との痴話喧嘩にきまっているのだ。黙っていると案の定彼氏が浮気してさァとサトミは切り出した。
 愚痴に見せかけたのろけという情報が右から左に流れていって、定期的に「そうなんだァ」と相づちを打つと、サトミは嬉しそうにつづきを話す。ベッドに寝ころがり、天井を見あげて、あたしはおじさんとのセックスを想い出していた。
 ひとしきり愚痴をいうと満足したのか、サトミは自分勝手に話を終わらせた。充電が二〇パーセントをきったスマートフォンをにらみ、溜息とともに枕元へ放る。ソウタと対峙したときよりも強い疲労がにじみ出て体を蝕んだ。
 昼食のスープ春雨を食べ、特にやることがないのでネイル直しをはじめた。前処理をしたあと下地のジェルを塗り、専用のライトで硬化させ色をつけていく。控えめなピンクが爪を染めると気持まで明るくなるから不思議だ。十指に女を宿し、しばらく見とれてからインスタに上げ、満足してから冷凍庫のアイスをかじった。これもおじさんからの施しだ。彼はいつもあたしに気を使っている。最初はただセックスがしたいからそうしているのだと思った。だれからも相手にされなくなった中年男がすこしのお金と気づかいで手に入れられる若い体、その手軽さのために気を使っているのだと思った。
 体の底に生まれた猜疑心が真実を欲しがり、あたしはおじさんに無茶ばかり言っていた。本場フランスのスイーツが食べたい、きゃりーぱみゅぱみゅのコンサートにいきたい、ナマケモノが機敏に動くところを見てみたい。そんな要求におじさんは誠意を持って対応してくれた。本場のスイーツを取り寄せ、チケットを予約し、ナマケモノがいる動物園に連れていってもくれた。いつだかお願いした、南極の氷でかき氷はさすがに無理だったけれど。
 もうひと眠りしたあと、あたしは街に繰り出した。時刻は三時を回り、日差しは益々強くなっている。異世界みたいに涼しいコンビニへ避難してファッション雑誌を立ち読みし、コーヒーを買ってイートインコーナーに向かった。降り注ぐ光は変わらず強烈で無意識にまぶたを閉じさせる。店内に流れるJ-POPを聴きながら、働くことの意味を考えた。生きるためにはお金がいる。贅沢はせずとも人間らしい生活をするためには必要最低限の収入は必要だ。それは国だって言っている。セーフティーネットはいつだって存在していて、だからこそあたしたちは安心して暮らせるのだ。店が混雑し始め、店員さんが慌ただしく動きだした。働くということは見ないことなのだろうと思った。不都合なことに目を伏せ、死の恐怖から逃げ出し、与えられた課題だけを黙々とこなす。気づけば時間は過ぎ、偽りの達成感と幾ばくかの給金を得て、一日は終わりを告げるのだ。そうやって世界は回っていくのだろう。きっとそうだ。

※                ※           ※      
  
 サトミから同窓会の連絡があったとき、あたしはマネキンと呼ばれる試食販売員と闘っていた。
「おひとついかがですかァ?」
 鼻にかかる甘ったるい声と人の良さそうな笑顔に惑わされてはいけない。彼女らは販売のプロなのだ。商品を売るために存在していて心を許した途端にあたしの財布はからになってしまう。互いに内側を読み合いながら愛想笑いを披露してすこしの膠着状態のあとみごと試食だけをすませたあたしは外に出た。午後の日差しに目を細めていると、
「リューセイくんもくるみたいよ」サトミは興奮気味に言った。
「リューセイ?」
「生徒会長もやってたサッカー部のエースストライカーでしょうに」
「ああ、いたね。そういうの」
 リューセイくんは成績優秀運動神経抜群、顔はイケメンでおまけにチンチンもでかい。実家は輸入雑貨のお店を県内だけでも十数店舗経営しているお金持ちでまさに非の打ち所のない男子だ。女子生徒の憧れの的だったが、完璧すぎてあたしは興味がなかった。
「なにその反応、嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど」
「彼ね、いま東京の大学に通ってるみたい」
「そうなんだ」
「彼女いるかな」
 パートナーがいるくせに興味津々のサトミに溜息が出そうになった。どうなんだろ、と返して駐車場の日陰に回る。太陽から見放された場所はどこかおじさんみたいで居心地がいい。このまま横になり、惰眠を貪ったらどんなに最高だろう。
「ねえ、人の話聞いてる?」
「聞いてる」
「ミズホもくるんでしょ?」
「どうしようかな」
「詳しい日時は葉書が届くと思うから」
 サトミの痩せないとなァと言う科白を聞きながらあたしは電話を切った。スタイルがいいくせにそう吐き捨てたサトミにいらつきながらも再びスーパーに入る。二割引の豆腐をふたつかごに入れ、麻婆豆腐の素も併せて買うとアパートに帰った。
 一階にある集合ポストを覗くと同窓会の案内があった。往復葉書で日時は再来週の土曜になっている。鍵をあけ、荷物をキッチンカウンターに着陸させてぼんやり葉書を見つめた。
 豆腐二丁分の麻婆豆腐はさすがに多かったのでおじさんを呼んだ。突然の呼び出しに彼は驚いていたけれど、箸と取り皿を渡すとおいしそうに口へ運んだ。
「同窓会、あるんだね」
 テレビ台の脇にほうっておいた案内を見つけたのか、おじさんは缶ビールを傾けながら言った。そうみたいと返して、麻婆豆腐を取り皿によそう。すこし水気が多かったのか味がぼやけている。醤油をかけたい、思いきり。
「いつ?」
「再来週の土曜日。いくかどうかまだ決めてないけど」
「いってくればいいのに。きっと楽しいよ」
 無責任な言い方に体温が上がった。口に入れた麻婆豆腐はやはり薄くて苛立ちを増長させる。星一徹ならテーブルごとひっくり返しているだろう。
「もう一本もらうね」
 おじさんは買い置きの缶ビールを冷蔵庫から取りだすと喉を鳴らした。おいしそうに飲む姿にひどく腹が立ってくる。ビールの代金もおじさんが支払っているのだから怒るのはお門違いなのかもしれないけれど、嚥下する音や目を瞑ったときにできる目尻の皺がやけに腹立たしい。缶をもつ手を払い、驚く顔に蹴りをくらわせ、髪を掴んでテーブルに叩きつける。噴きだした血が退屈な世界にアクセントを加え、モノクロの空間に色彩を奏でた。
「どうしたの」
 ぼうっとしていたあたしをおじさんが心配そうに見つめる。首を振り、キッチンへあるいた。プルタブを開け、立ったままアルコールを喉に流しこむ。あたしは臆病だ。無職の自分をクラスメイトに知られるのが怖い。充実した生活を送っているであろうクラスメイトを知るのが怖い。醜い虚栄心をビールで洗い流した。
「実は仕事でミスをしちゃってさ」
 二本目の缶ビールに口をつけながら、おじさんは自嘲気味にそう言った。
「発注の数を間違えてさ。老眼なのかな、数字を見間違えるなんて」
 額に手をやり、落ち込むおじさんに子宮が疼いた。もっと困らせてやりたい。出逢った頃のように泣き叫び、路頭に迷う彼の姿をもういちど見てみたいと思った。
「上司にこっぴどく叱られてしまった」
「廣川さんだっけ」
「彼、僕と同期入社なんだけどね。いまじゃ部長と出来の悪い部下、どうしてこんなに差がついてしまったんだろう」
 やるせない感じで笑うおじさんに鼓動が高鳴った。もっと底辺に堕ちろ。絶望しろ。もうひとりのあたしが叫ぶ。
「やめちゃえば」
「なにを」
「仕事。そんな職場、やめちゃいなよ」
 冗談だと思ったのか、彼は笑った。ぎこちない笑みだ。
「そんな簡単にはやめられないさ。責任もあるし、なにより逃げたみたいで格好がつかない」
「前は死のうとしてたのに」
 おじさんは黙って視線をそらした。
「大人ってたいへんだね」
「生きることはたいへんだし、死ぬことはもっとたいへんだよ」
「前者は同意だけど、後者はちがうと思う」
 疑問符をうかべるおじさんを尻目に、あたしはキッチンへ向かうと抽斗から包丁を持ってきた。
「おい冗談だろ」
「あたしが冗談なんて言ったことある?」
 おじさんの顔色がお地蔵様みたいになる。「あ」とか「う」とか言葉にならない声をあげて後ずさった。恐怖に怯える姿は極上のごちそうで、その無様さが失敗した料理のことを忘れさせてくれる。狂人を気取って包丁の腹に舌を這わすと、呼応するみたいにおじさんの顔が引きつった。双眸は見開かれ、もうすこしで失禁しそうな勢いだ。アンモニア臭漂う黄色い液体を想像し、せっかくきれいになった部屋を汚されたくはないので許してあげることにした。包丁を戻し、あたしは声を出して笑った。緊迫した空気はすぐもとには戻らなかったけれど、そんなことはどうでもいい。
 びっくりしたァと仰向けに倒れるおじさんの体は隙だらけで、ぷよぷよな胴体に包丁を突き立てる光景を思い描きながらビールを飲み干した。
 常軌を逸した行動にすっかりまいってしまったのか、おじさんはおぼつかない足取りでアパートをあとにした。弱々しい背中に気分をよくしたあたしは何度も缶ビールをあおり、ポテトチップスをほおばった。今夜はよく眠れそうだ。
 シャワーから吐き出されるぬるい水がきょうという日を洗い流していく。何も生産しない日々が足元へ溜まっていき、泡にまみれて消えていった。

※                   ※              ※
    
 公共料金の引き落とし確認のため銀行にいくと三万円が振りこまれていた。見知らぬ金額に眉根をよせたがすぐにわかった。おじさんだ。電話をかけると「おしゃれしていってきなよ」という言葉が返ってきた。
「何の話?」
「同窓会。いってきなよ」
 よけいなことを。聞こえないように舌打ちを放った。普段鈍感なくせになんでそういうところには敏感なのだろう。
「気が向いたらって言ったじゃん」
 あたしが同窓会にいくことがそんなに嬉しいのだろうか。よくわからない。おじさんの感覚はたまに遠いところにいく。性差とはちがう。そういうものじゃなく、基本的な考え方がどこか別の星の何かのようだ。
「迷惑だったかな」
 申し訳なさそうな声がスマホの向こうから聞こえてきた。きっと下を向いているに違いない。無意味な沈黙が少しの時間経過した。
 正直なことを言えば、現金収入がないあたしにこのお金はありがたかった。彼の好意に甘んじ、何に使おうか考えている自分に気がついて嫌気がさしたが、礼を言い、電話を切るとさっそく引き出した。三人の福沢諭吉があたしの財布に引っ越してくる。懐が温まると街を覆っているバリアーが弱まったような気がした。
 コンビニで六十円のアイスを買い、舐めながら日差しの中をあるいた。街の活動に乗り遅れたあたしは荒波に揺れる小舟のようだ。すれ違う人たちがひどく立派に見える。無職のあたしはRPGでいうところのスタート地点で木の棒の武器さえなく、布の服だけを纏っている。人生はよくレールに譬えられるけれど、あたしのレールはどこに繋がっているのだろう。けたたましい音を立てて通り過ぎた原チャリの排気ガスを吸いながら、ふとそんなことを考えた。
 散策に疲れ、住宅街の一画にある公園に入る。そこまで広くない公園だが天気のよさに比例して子どもたちであふれていた。近所にある保育園の散歩コースにでもなっているのか水色の帽子をかぶった園児たちが走り回っている。邪魔にならないよう奥のベンチに腰かけてぼんやりとその様子を見つめた。子どもたちは当たり前に元気だ。小さな体に大きなエネルギーを蓄え、この世界に存在している。ふたつの円い瞳にはいったい何が映っているのだろう。
 溶けかけたアイスを落とさぬよう食べていると、ひとりの男の子がこっちを見つめていることに気づいた。普段子どもと接していないあたしはどうしていいかわからずしばらく無視をしていたけれど彼の熱心な眼差しに負け、「ぼく、いくつ?」と訊いてみる。男の子はびっくりしたのか下を向き、仮面ライダーがプリントされた靴で地面を啄きだした。
「仮面ライダー好きなの?」
「うん」
「強くてかっこいいもんね、仮面ライダー」
「うん」
「ぼくも悪者をやっつけるの?」
「あのねガラガランダっていうのがいてね、そいつがすごく強いの。でもガラガランダはランダーキックに弱くてねそれでね――」
 ああ、スイッチが入ってしまった。そう思った。男の子は目を輝かせ、早口で仮面ライダーに関する情報を吐き出してくる。よくわからない単語が次から次へと飛来し、突き刺さって、脆弱な神経を露わにする。ごめんよ少年、おねえさんはもう血だらけだ。
 得意げに話す男の子の喉元をアイスの棒で思い切り突いてやろうかなんて黒い感情が芽生えはじめたとき、付き添いの保育士がそろそろ帰るよォと彼を呼んだ。男の子があたしの前から姿を消すと粘性の泉にでも落ちてしまったみたいに手足が重くなる。子どもはパワーを与えてくれる生き物だけれど時としてパワーを奪っていくこともある。おねえさんはおばさんに、おにいさんはおじさんに、老人はそのまま墓の下に眠るのだ。吸血鬼のような子どもたちを見送って、ゴミ箱にアイスの棒を放ると、泣きたくなるほどの静寂があたしを包みこんだ。
 臨時収入があったのでいつもよりワンランク高いお弁当を買ってアパートにもどった。シャワーを浴び、クーラーを全開にさせ、テーブルに散乱している空き缶や菓子袋の下からリモコンを探し出してテレビをつけた。ちょうどお昼のワイドショーがやっていて子役上がりの大したことない俳優が偉そうにモノを言っていたのですぐ消した。人間、勘違いしたら終わりだ。
 お弁当を食べ終え、ウーロン茶を飲んでいるとソウタから着信があった。また金の無心だろう。嫌な予感にゲップが出た。
「ないよ」あたしは言った。
「なにが」
「お金」
「いきなりなんだよ」
「そういう電話でしょ」
「ちがうって」
「じゃあ、なに」
 ソウタの不敵な笑い声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。
「なに笑ってんのよ」
「バイトが決まったんだ」
 想定外の言葉に息がつまった。無言の隙間からソウタの優越感が漂ってくる。
「そう、よかったじゃん」
「駅前のコーヒーショップなんだけどさ、けっこう忙しい店らしいんだ。でも、そのぶん時給いいから頑張ろうかと思って」
「ふーん、いいんじゃないの。あんたコーヒーよく飲むし、やりがいあるんじゃない?」
「実はねえちゃんからお金借りて資格を取ろうと思ったんだけど」
「資格?」
「うん、コーヒー関係の。Qグレーダーってやつ」
「よくわかんないけど」
「かんたんに言うとコーヒーの評価ができる資格、かな?」
「コーヒーマニアのあんたにぴったりじゃん」
「コーヒーもそうなんだけどさ」
「だけどなに」
「店長がすげえイケメンなんだ、マジでかっこよくてさァ」
「あんた、そっちの気があるの?」
「そういう意味じゃないよ」
「そういう意味にしか聞こえないんだけど」
「男が男に惚れるってやつだよ。ねえちゃんにはわかんないだろうけど」
「いつからはじめるの」
「バイト? 来週の土曜日から。制服、上は出るけど下は各自揃えてくれってさ。黒のチノパンでいいらしいけど持ってないんだよなァ」
「まだ時間あるんだからしっかり用意しなさいよ」
「わかってるよ。それよりねえちゃんはどうするの」
「なにが」
「仕事。見つけないとヤバイんじゃないの?」
「よけいなお世話だよ、あんたは自分の心配をしてればいいんだ」
「人が親切心で言ってあげてるのに怒るなよ」
「それがよけいなお世話だって言ってんの。バイト決まったからって調子乗んな」
 ばかと吐き捨てて一方的に電話を切った。興奮しているのか脈が速い。グラスに残っている烏龍茶を飲み干してソファーに倒れた。ソウタの勝ち誇った顔がちらつき、舌打ちを放ってお弁当の容器をゴミ箱につっこんだ。両手をつかって強引に押しこむと、残っていたタレが飛び出て指先を汚した。
 ダメな弟からも置いていかれたような気がしてひどく虚しくなり、できることならあたしもゴミ箱に入りたくなった。
 サトミから合コンの誘いがあったのはその日の夕方だった。甘ったるい蜜色が窓の向こうを染めている。しばらく見つめているとオレンジの残像が網膜に貼りついた。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてる」
「どうしても頭数が足りないの。ミズホ彼氏いないし、きてくれるでしょ?」
「べつにいいけど。サトミは彼氏いるじゃん、平気なの?」
「あしたの七時。夜の七時ね、いつものところで待ってるから。いい男いっぱいくるよ」
「ちょっと」
 休憩時間にでもかけてきたのか、サトミは要件だけ伝えると慌ただしく通話を終えた。携帯電話を一瞥し、〝彼に怒られてもしらないから〟とメッセージを送る。
 きょうはよく電話がかかってくる日だ。ふだん世界から剥離しているあたしは一日中だれともしゃべらないということが多々あって、そのせいか見事に舌が退化している。滑舌は悪いし、すぐ疲れるし、早口言葉なんてやったらきっとちぎれてしまうだろう。あたしの舌はおじさんの性器を愛撫するためだけにある、なんて馬鹿なことを考えていたらよけいに落ちこんできたので、この際噛み切ってやった。無論想像のなかで。
 言葉は何のためにあるのだろう。感情を表現するため? 想いを伝えるため? どれも正解だと思う。だけどすべてをまかなえるほど言葉は万能じゃないとも思う。目を見ただけですべて察してくれる世界がほしい。エスパーであふれた街はとても静かだ。人々は口を閉ざし、言葉からの脱却に成功した。
 ふたりで月を見あげることが愛の告白になるような、そんな世界がたまらなく愛しい。

※                   ※              ※ 
 
 サトミと合流し、その足で会場である居酒屋に向かった。こじんまりとした店構えとは裏腹に、ウッディ調の店内は思いのほか広くて老若男女で賑わっている。薄暗い廊下の奥に個室があり、サトミは小上がりでパンプスを脱ぐと襖を開けた。
「ごめーん、お待たせェ」
 彼女が猫撫で声をだすと、先にきていた男たちが歓声をあげた。まるで動物園の盛り場みたいで躰の力が一気に抜ける。ばかみたいだ。個室には六人の男女が着席していて、やる気のバロメーターのように香水の匂いが充満している。女の子のひとりに見覚えがあった。サトミのアルバイト先の子だ。名前はモカちゃんといい、たしか東北から上京してきていまは専門学校に通っているはずだった。視線に気づいたのか、彼女は軽く会釈をして微笑んだ。
 席に着くと幹事らしき二十代半ばの男が頼んでもいないのに自己紹介をはじめた。みんな大学の同期らしい。自慢ともとれる言葉が吐き出されるたびサトミが目を輝かせる。いつでも乗りかえる気でいるのだろう。現実主義といえば聞こえはいいがそんな大層なものではなく、どうしようもないただの男好きなのだ。一番奥にいたカンザキと名乗った男性が話し出すとサトミの表情がイってしまいそうなほど恍惚としたものに変わった。わかり易すぎる。もしかしたら濡れているのかもしれない。ほかの男たちとは違い、彼は静かだった。歌舞伎役者みたいな切れ長の目は鋭く尖っていて、世の中を冷笑しているように見えた。本性を隠そうともしない姿がひどく新鮮に思えて、となりで騒いでいる男たちとは一線を画しているように感じた。
 あたしの番になり、十四個の眼がこっちを見た。充実しているであろう連中の眼。やけに息苦しい。どうやら水の底に落ちてしまったようだ。世界が揺れ、光は屈折して通りすぎる。溺死寸前になった頃、
「クラタサトミさんの友達でオオヤマミズホといいます。普段はおじさんとセックスをして生計を立てています」
 そう自己紹介した。それまであった空気が一変し、みんなの目がいっせいに泳ぎだす。ざまあみろ。あたしは心のなかでほくそ笑んだ。
 なかなかおもしろい人だね。幹事の男が頬を引きつらせるとカンザキさん以外の男たちがそれに同調する。そのうち笑い声が聞こえてきた。冗談だと思ったのだろう。あたしは至って真面目だが、民主主義の世の中は多数派がイニシアチブをにぎるようにできている。あたし以外の人間が冗談だと思えば冗談になるし、本当だと思えば本当になる。そういうものなのだ。まあ信じてくれなくてもいいのだけれど。
 アルコールを頼んだあと、すぐに席替えタイムになった。どれだけ必死なんだ、と思ったがサトミたちも乗り気できゃーきゃー騒ぐのでしかたなくあたしも移動する。右隣に幹事男、無垢材の長テーブルを挟んでカンザキさんが座った。お酒が運ばれてきて乾杯をすると各々話し始める。
「オオヤマさんはひとり暮らし?」
 ジョッキを傾けながら幹事男が訊いてきた。目の奥と口端が笑っている。いやらしいことでも考えているのだろうか。カシスオレンジのグラスに口をつけて頷いた。
「そうなんだ、おれもひとり暮らし。新町のほうなんだけどさ、あそこらへん最近おしゃれになってきたよね。でさ、近所にうまいイタリアンの店があるんだけどオオヤマさんはイタリアンとか好き?」
「大嫌いです」
 笑顔でそう言ってやると男の動きが止まった。着地点を見失った口は餌をねだる鯉みたいにぽっかりと空いている。何その顔。ちょっとおもしろい。男は仕切り直すみたいにビールを呷り、
「おれさ、車持ってるからどこかいこうよ」とあきらめずに誘ってくる。無駄に積極的なやつだ。そのエネルギーをほかに使うことができれば、きっと何者かになれるだろう。
 のらりくらりと誘いを躱していると、カンザキさんは口元に笑みをうかべてウーロンハイを飲んでいた。グラスを持つ手がとてもセクシーだ。しなやかで艶があり、適度な自己主張もしている。おじさんが女のつま先を舐めたくなる理由がわかった気がした。
 彼のとなりに座ったサトミが一生懸命話しかけているがカンザキさんはたまに頷くだけで心ここにあらず、という感じで遠い目をしている。こみ上げてくる笑いを噛み殺す。袖にされている人間を見るとどうしてこうもおかしいのだろう。懸命な友人を笑うなんてどうしようもないけれどあたしの性格の悪さは生まれつきだし、それは周りも承知の上だし、もう直しようがない。様々なトライをみせるサトミを肴にアルコールを口に含んだ。お酒を一口飲むたび、となりの男がじゃまをする。蹴り飛ばしたい気持を抑えてグラスを傾けるとあっという間にカラになってしまった。溜息をついて立ちあがる。「どこいくのォ?」だれかが訊いてきた。お手洗いと答えて、あたしは襖を開けた。
 鏡に向かいメイクを直しているとモカちゃんが入ってきた。無言のまま個室にいき、すぐに音姫が奏でられる。音姫が開発される前はどれくらいの水を無駄にしてきたのだろう。まっさらな水が下水を流れていくさまを想像したあとリップを塗り、髪をといだ。
「ああいう雰囲気、苦手なんですよね」
 メイク道具をしまっていると彼女が疲れた様子で言った。
「あたしも。なんか動物園みたいでばからしい」
 動物園というワードがツボに入ったのか、モカちゃんが声を出して笑う。
「気に入ったひと、だれかいたァ?」前髪を直しながら訊いた。
 彼女はうーんと考える素振りを見せたあと、「カンザキさんかな?」と呟いた。さすがカンザキさん、すごい人気だ。
「彼って雰囲気すごくいいと思いません? 大人っていうか、落ち着いてるっていうか」
「まあ、ね。ていうかほかの男たちが子どもっぽいのかも」
 そう言うとモカちゃんは玩具みたいにうんうん肯いた。
 カンザキさん以外顔もいまいちだし、服のセンスもないし、何より鼻毛がでてたし、あれじゃモテないよねェとあたしたちは自分たちのことを棚にあげ、大いに盛りあがった。
 気分をよくして個室にもどるとカンザキさんの姿がなく、気づかれないように視線を動かしていると、
「カンザキ? いま電話しにいったよ」と幹事の男が教えてくれた。
「店でトラブルがあったみたいでさ。まあ大したことないらしいけど」
「お店を経営してるんですか?」
「駅前のコーヒーショップだよ。借金して始めたんだけど、すげえ繁盛してる」
 まるで自分のことのように言う男の顔はひどく綻んでいる。駅前の珈琲店、こんどソウタが働くところだ。狭い街だからこういう偶然もあるのかもしれない。黙っていると男がどうしたのと訊いてきた。首をふり、カシスオレンジのおかわりを頼んだ。
 五分が経ち、十分が経ってもカンザキさんはもどってこなかった。長針が半周し、みんなが心配しだした頃、ようやく襖が開いた。男性陣が安堵したように息を吐く。カンザキさんは人望も厚いようだ。おせーよ、と幹事男がふざけた調子で言うとカンザキさんは本当にすまなそうな顔をする。着席する彼のすべてを見つめていると胸が高鳴っていることに気づいた。これは恋、だろうか。あたしの視線を感じたのか、カンザキさんがこっちを見た。
「弟がお世話になります」慌てて会釈をする。
「弟?」
「こんどカンザキさんのお店で働くことになったと言ってました」
「オオヤマさん? もしかして、ソウタくんの」
「馬鹿だけど根は真面目なので、一生懸命働くと思います」 
 カンザキさんは微笑んだ。さわやかな笑みだった。サトミの顔がとろけそうに歪む。ほうっておいたらこの場で自慰でもはじめてしまいそうな勢いだ。そんなサトミを見て、あたしの子宮も疼いた。ふるえる指先を股間に這わせ、はしたなく濡れた膣に彼の分身を埋没させたい。いきり立ったペニスがあたしの中で脈打つと、膣内にあふれた熱を奪い取っていく。快楽という麻薬が全身を弛緩させ、火照った体はオルガスムの海に放たれた。

「カンザキさんって最高じゃない?」
「あの眼がいい。涼しげでさ」
「かっこいいよね、ほかの男が昆虫に見えちゃうくらい」
「ねえ、抜けがけはダメだからね」
 二次会のカラオケを終え、終電に間に合った安心感からかサトミとモカちゃんはとても饒舌だった。
「ミズホはだれか気になる人いたァ?」
 サトミの問いにモカちゃんがあたしを見た。同時にトイレでの会話を思いだす。嘘をつくのは簡単だが、ばれたときの面倒くささを考えるとここは素直に言っておいたほうがいいだろう。
「あたしもカンザキさん、かな?」
 伝えるとサトミが意味深長に笑う。あなたじゃ無理、とマスカラで強引に大きくした目が言っている。サトミは自信過剰だ。特に可愛いわけでも勉強ができるわけでもないが、なぜか自分を特別だと思っている。世界の中心にいるつもりなのだ。勝ち誇ったような眼がひどく神経を刺激して躰の内側をねぶる。ネイルを施した指先を思い切り突っ込んでやりたい。気のすむまでかき回し、引っ張り出した眼球をカラスの餌にしてやったらすこしはすっきりするだろう。親友のはずなのに乱暴な想像しかうかんでこない自分に寒気がした。
 最寄駅で彼女たちと別れ、覚束ない足取りで自宅アパートまで帰ってきた。鍵とバッグを靴箱の上に置き、そのまま床に寝ころんだ。掃除したてのフローリングはつるつるしていて自分の部屋じゃないみたいだ。
 つるつるをもっと感じたくて服を脱ぐ。ワンピースを放り、下着もストッキングも世界を縛るものすべてから離脱して、あたしは胎児のように丸くなる。床の冷たさが皮膚を刺して血管を通り、脳になだれこんだ。
 フローリングが生温くなった頃、あたしはセックスがしたくなっておじさんに電話をかけた。深夜にもかかわらず三コール目で応答があった。
「ねえ、セックスしよ」
「どうしたの」
「だからセックスだよ」
「酔ってるのか?」
「すこしだけね」
「珍しいね、きみから誘ってくるなんて」
「セックスしたくないの? あたしいま素っ裸」
 短い沈黙があった。裸体を想像しているのかもしれない。カンザキさんに視られたら、あたしの膣はどんな反応をするだろう。
「風邪ひくよ」
「早くきて。あたしの気が変わらないうちに」
 それだけ言い、通話終了をタップした。携帯電話をにぎったまま、カンザキさんとおじさんに抱かれる妄想をする。カンザキさんはどんなセックスをするのだろう。ひどく冷静な愛撫をしそうだと思った。深夜の夜気のように鋭く透明なセックス。おじさんはよく汗をかいていたけれど彼は体温すらあがらない感じがする。蛇みたいな指が膣に侵入し、女体を喜ばせようとその身をくねらせた。すぐにオルガスムが押し寄せ我慢できず、あたしはあっけなく果てた。
 インターホンの音が頭蓋に響いて目を開けた。真っ暗ななか寒気だけがある。明かりをつけ、タオルケットをまいた。玄関ドアを開けるとおじさんはどこか困ったような顔で立っていた。あたしの誘いがそんなに迷惑だったのだろうか、生意気なやつだ。
「シャワー浴びてきてよ」
「本当にするのか」
「そのためにきたんでしょ?」
「きみのことが心配だったから」
「なにかっこつけてんの、いいから早く」
 渋々という感じでおじさんは部屋に上がった。深夜なのにスーツ姿だ、残業帰りだったのかもしれない。ジャケットを脱ぐとソファーの背にかけ、そのままシャワー室にあるいていった。酔い覚ましに冷蔵庫のウーロン茶を飲んだあと窓を開ける。丑三つ時を半分過ぎた街は死んだように静かだ。ベランダに出て、黒の底に沈む世界にカンザキさんを探した。彼の冷めた眼差しが子宮を突き刺す。その刺激が呼び水となって、あたしは陰核を擦った。
 シャワーからもどってきたおじさんにつま先を向けると、彼は無言のまま舐め続けた。丁寧に舌を動かして爪と肉の間を優しく吸う。ソファーに躰を預け目を瞑って、あたしはカンザキさんを想像する。十指が唾液に濡れ、生まれたての赤ん坊みたいにてらてら光った。次は膣に舌を這わせてくるだろうと予想した矢先、おじさんが「やめよう」と呟いた。
「どうしたの」
「きょうは気分が乗らない。疲れてるのかな」
 小さく息を吐きながらあたしの横に座った。額を手で押さえるおじさんからお父さんみたいな匂いがする。目尻のしわが物悲しさを披露し、傍らのよれたスーツがどうしようもなさを演出した。
「悩みがあるんじゃないの」
「仕事のミスを引きずっているのかもしれない」
「例の発注ミス?」
 おじさんは頷いた。視線が死にかけの毛虫みたいに弱々しい。あたしが蟻なら飛びかかってとどめを刺すだろう。その問題がいつまでも解決しないことを願った。骨になり、土に還るまで後悔を繰り返している彼をずっと見ていたいと思った。
「同窓会どうするの」
「またその話?」
「金銭面は心配しなくていい」
「そういうことじゃないから」
 おじさんはひどく悲しそうな顔をした。きっとあたしを援助することが彼の生きる意味になっているのかもしれない。何かを欠損したふたりが、互いに意味を与える。きっと、それはこれからも続いていくのだ。 
 太陽が昇るまえにおじさんはアパートを出ていった。ベランダに降り、皺だらけのスーツが薄闇に消えていくのを見つめたあと、あたしはカンザキさんにメッセージを送る。
【あした、会いませんか?】
 きょうのあたしは自分でも驚くほど積極的だ。まるで獲物を狙うハンターのように銃を構え、カンザキさんに照準を合わせる。引き金を絞り、発射された弾丸は彼の心に向かってまっすぐ飛んでいった。もしかしたら弾き返されてしまうかもしれない。でも、それでもいいと思った。あの怜悧な眼差しにすこしでも触れていられるのなら、あたしは何にでもなってやる。
 街に蔓延った黒が排除されていく。遠くから始発電車の動く音がする。だんだん温みをおびていく空気があたしの中のカンザキさんを風化させる。逃げるように自室へあるいて、窓を閉めた。
 朝がくるのと引き換えに眠りについた。活動的な街から子守唄が聴こえ、深い穴の底に落ちていく。湿った地面はヘドロのように躰を飲み込み、黴臭い窖はあたしを落ち着かせる。光さえ届かない黒い膣はぬめりを増し、他を拒み、孤独を際立たせた。

※                    ※             ※ 

「コールドブリューおすすめだからさ、飲んでみてよ」
 サトミに誘われてカンザキさんのお店にいくと、ホール担当のソウタがあたしたちを見つけてそう言った。好きなものを飲ませろと思ったが、弟の目が今までになく輝いていたのでとりあえず、あたしはそれを注文した。
 メニュー表を見つめながら、昨晩酔った勢いであんなメッセージを送ってしまった自分を呪った。カンザキさんは関西に出張しているらしく、ほっと胸を撫で下ろす。
「カンザキさんにさァ」
 サトミがスマートフォンを弄りながら声を上げた。
「連絡先教えてって言ったのに断られた」
 子どもみたいに口を尖らせる。
「そう」
 あたしは笑いたい気持を抑え、「ちゃんとしてる証拠じゃない?」と返した。サトミは納得がいかない様子で唸ったあと、「彼女いるのかも」とつづける。
「いたら合コンなんてこないでしょ」
「あたしみたいに隠してるかもよ」
「バレなかったの?」
「ぜんぜん。あいつ鈍いから」
 サトミはおばさんみたいな笑い声をあげた。お前は死ね。微笑みながら心の中で呟き、カンザキさんとほかの女が愛し合う姿を想像した。彼の眼差しに冷たさはなく、春の水たまりのように生ぬるい。見知らぬ女はそれを当然のように受け入れ、放たれる寵愛を素っぴんのブサイクな顔と躰に染み込ませていく。不思議と嫉妬はない。それよりも彼がどんなセックスをするのか見てみたいと思った。カンザキさんの愛撫、舌使い、ペニスの大きさを思い浮かべてあたしは陰核を擦るのだ。
 ソウタが飲み物を運んできた。途端、甘い香りが鼻をかすめる。サトミが注文したカフェオレだ。褐色の表面に白いハートが可愛らしく描かれている。女子がイチコロになるやつだ。
 インスタ用の画像を撮影し、「飲むのがもったいない」とサトミは定番の科白を吐いてからふつうに飲んだ。呆れながらあたしも口をつける。すっきりとした甘さの奥に広がる香ばしさが鼻から抜けて心地いい。座席にもたれ、店内を見回すと白を基調とした清潔な店はまるでカンザキさんを写したようだった。よけいなものがいっさいなく、媚びることも主張することもない。主役はコーヒーであり、あたしたちはその香りに酔いしれる。
 カンザキさんの話をし、ネイルとファッションの話に流れ、そのあと次回の合コンの話になったところでスマートフォンが震えた。カンザキさんからのメッセージだ。サトミに見られないよう表示させる。〝あさってなら会えますよ〟。そう書かれていた。とたん胸が高鳴った。鼓動が膣を刺激して愛液がにじみ出てくるのがわかる。動揺を悟られないよう、バッグにもどして席を立った。トイレの個室に入り、あさっての夜に会う約束をして壁に寄りかかる。皮膚がこそばゆくなるような優越感が湧き出てきた。これは幸福だ。まぎれもない幸福だった。不要なものを排泄する狭い空間であたしはひとり、笑った。
 カンザキさんによろしく、とソウタに伝えてあたしたちは店をあとにした。夏の湿気を含んだ風が強く吹いて目を細める。サトミは無言だった。黙っていると彼女は怒っているみたいに見える。細かな皺が眉間に刻まれ、つけまつげで大きくなった双眸は本来の一重をさらけ出していた。カンザキさんとのやり取りを気づかれただろうか。友情と愛情。友と男。もしどちらかを選ぶとしたら、あたしはどっちを取るのだろう。
「ミズホ、あたしに黙ってることない?」
「どうしたの」
 サトミが足を止め、にらむようにあたしを見た。
「抜けがけはなしって言ったじゃん、どういうつもり?」
「どうって」
 サトミが口を歪ませて詰め寄ってきた。ひどくめんどくさい。そもそもあんたは彼氏がいるだろう。
「見たの?」
「見たんじゃない、見えたの」
「先に言っておくけど抜けがけしたわけじゃないよ」
「してんじゃん」
「してないから」
 サトミがふたたび口を開こうとする前に、彼が教えてくれたのとあたしは言った。
「嘘よ」
「なにが嘘なの? ぜんぶ本当のことだから」
 サトミが悔しそうに顔をくしゃくしゃにする。ひどく快感だ。ばっちりメイクをした顔をもっと歪ませてやりたい。つけまつげを剥ぎ取り、血色の悪い唇を露呈させ、隠していた不細工を世界に晒してやる。あたしとカンザキさんのセックスを見せつけたら、サトミはいったいどんな顔をするだろう。
「中年男とセックスするしか能がないくせに」
 こっちをにらみつづけるサトミに愛想が尽きて、あたしは手を振るとその場を離れた。背中に刺すような視線を感じる。、彼女との関係が終わった証拠だ。夕日を浴びながら駅前までくると、おじさんと出逢ったときのことが脳裏に浮かんであたしは立ち止まった。弱々しい彼の姿がいまの自分と重なって胸がズキズキと痛んだ。唯一の友達を失い、無職で、親くらいの年の離れた男とセックスをして生きながらえている女の幸福はこの世界でどれくらいのところに位置しているのだろう。
 アパートに帰ると苛立ちが津波のように押し寄せてきた。バッグを投げ、ミネラルウォーターをがぶ飲みし、冷蔵庫の扉を乱暴に閉めてソファーに倒れる。想像の中でサトミを何度も泣かせてやったがそれでも苛々はおさまってくれず、しかたなく自慰をすることで解消しようと試みた。カンザキさんを登場させ、彼の指先を陰核に這わせる。眼差しとは対照的な温かい先が円を描くように動き、呼応するみたいに快楽が躰を駆けた。おじさんとのセックスとはちがう気持ちよさだ。ものの数分であたしは果てた。虚脱感の中に小さな達成感がある。少なくともサトミよりあたしのほうがカンザキさんの傍にいるのだ。チープな自尊心だけがあたしを支えていた。
 世界とのつながりがおじさんとカンザキさんだけになった夜がくる。寂しさよりも潔さがあたしを揺らした。ミネラルウォーターとプリンしか入っていない冷蔵庫みたいな感覚、だけど卑下する必要もない。いまのあたしはこんなものだ。不要なものはぜんぶ捨ててしまいたい。何もかも手放して身軽になり、セカイノハジメに没入する。荒野にはあたしとおじさんとカンザキさんしかいなくて、三人は飽きるまでセックスをするのだ。膣は彼らのペニスを栄養に日々成長する。避妊をしなくてもふしぎと妊娠することはなかった。子を産むことが女の幸せだとよく言われるけれど、そんなことはないとあたしは思う。産んでもいないあたしが言っても説得力は皆無だけど、それだけが女の幸せであってたまるかと叫びたい。
 シャワーを浴びてプリンを食べながら黒の街にいる彼らを想った。不器用で泥臭いおじさんと怜悧で聡明なカンザキさんは一生交わることのない存在だ。そんなふたりがあたしの躰を介して邂逅する。おじさんはつま先を、カンザキさんは胸を愛撫して、我慢できずにあたしは嬌声をもらす。最高の宴だ。いきり立ったふたつの欲望に埋没すると鮮やかなエクスタシーが闇を照らした。
 自慰のあとはやけに喉が渇く。ミネラルウォーターを飲みながら携帯電話の液晶画面におじさんの番号を表示させる。三コール目で彼が出た。
「ねえ、ご飯いかない?」
「何が食べたいの」
「お肉がいい」即答した。
 おじさんは焼肉か、と呟いて一拍置いてからわかったと言った。午後八時に駅前で待ち合わせをして電話を切った。
 おじさんは約束の五分前に現れた。スーツ姿は相変わらずだが、きょうはいつもと違ってにこやかだ。何かいいことでもあったのかもしれない。二言三言言葉を交わし、いきつけの店に向かう。すれちがう人たちがあたしたちを見ている気がする。年の差が倍以上あるカップルはやはり目立つのだろうか。一緒にいることが当然になってきたこの関係をどこかで壊したい自分がいる。自暴自棄とは違う、これは希望に向かう道標だ。いつまでもおじさんに飼われていていいわけがない。自立という言葉が背中を押す。カンザキさんの存在がおじさんからの脱却を促した。生きる意味を奪われたら、人はどうなってしまうのだろう。
 スモークが施された扉を開けると、香ばしい匂いがして食欲を刺激した。奥の席に着き、ネギタン塩と上カルビとライスを注文する。カルキ臭い水を飲んでいると、
「この関係はいつまで続くのかな」おじさんが小さく言った。
「僕らは知り合ってどのくらい経ったかな」
「半年くらいじゃない?」
 グラスから口を離すとおじさんは嬉しいような悲しいような、複雑な顔をする。意味がわからない。
「終わりにしたいの?」
「そういう意味じゃない」
 驚いたように首と手を振る仕草がひどくおじさん臭い。中年なのだから当たり前だけど、それでもおじさん臭くて嫌気がさす。煮え切らない彼に苛立ちが募っていって目の前に拳銃でもあれば迷わず撃っていることだろう。最近やけに導火線が短くなっている。ちょっとしたことが火種になり、燻って、あたしを爆発させるのだ。
「廣川部長に褒められたんだ」
 タン塩を焼きながらおじさんは嬉々とした表情で言った。
「仕事うまくいったんだ?」
 おじさんは首を横に振った。
「箸の使い方がうまいって。入社して二十年、褒められたのは初めてだよ」
 そう言って、おじさんはにっこりと笑う。悲しすぎると思った。同い年の上司に箸の使い方しか褒められない彼にどうしようもなく同情する。明らかに下だ。このひとはあたしよりもずっとずっと下にいる。
 焼かれていく肉を見つめながら、あたしたちのこれからを想った。要領の悪いおじさんは出世なんか皆無で底辺を這いずり、施しを受けつづける限りあたしは無職のままだろう。底辺と最低がロースターを囲み、同じように肉を焼く。咀嚼し、飲み込んで、翌日ただの排泄物になる動植物たちに懺悔しながら変わり映えのないセックスを繰り返すのだ。
 生まれたての子牛分くらいの肉を平らげて店を出た。湿気を含んだ世界は海の底のような匂いがする。前を歩くおじさんに意地悪をしたくなり、「好きなひとができた」なんて言ってみた。おじさんは立ち止まり、安いドラマみたいにたっぷり間をおいたあと振り向いた。よせられた眉のした、ふたつの目は頼りなく揺れている。思春期の娘がもう処女じゃないとしってしまったときの父親みたいな顔。
「おめでとう」
 精一杯大人ぶるおじさんに溜息が出た。本当の気持を吐露することもできないなんてあまりにも弱すぎる。やはり彼はあたしよりずっと下にいるのだ。
「こんど三人でセックスしようよ」
「なに言ってるんだ」
「ペニスの大きさ、比べられるの怖い?」
「そういうことじゃないだろ」
「あたしを失ってもいいの?」
 自分で言って吐きそうになる。あたしにそんな価値はない。口から子牛が出そうになるのをすんでのところで抑えた。
「だいぶ酔ったみたいだな」
「ふつうよ」
「きょうはもう帰ったほうがいい」
「あなたはしらない」
「何を」
 答える代わりにいやらしく微笑んで見せた。彼の絶句した顔はひどく滑稽で、その無様さがあたしの中にある悪意を撫で回す。おじさんの困惑や泣き顔をずっと見ていたいという欲求がお腹からあふれて膣を濡らした。
「あたしの部屋いこう」
 人間は弱い生き物だ。いつだって自分より下を持ちたがる。上を畏れ、中間に嫉妬し、下を見て安堵する。ざらついた心を癒すのはいつもセックスで、獣じみた己の姿を想像すると決まって死にたくなった。
 ソファーに身を投げ出して、ストッキングの上からつま先を舐めさせる。舐めてもらうじゃなくて舐めさせる、だ。イニシアチブは常にあたしがにぎっていて、彼はばかみたいに平伏する従者だ。おじさんは女体が快楽を得るための道具で、それ以上でも以下でもない。破裂するほど勃起したペニスに血が通っているのがひどく腹立たしく思えた。
「あなたって変態ね」侮蔑するようにあたしは言った。
「そう、かな?」指を銜えながらおじさんが返した。
「汚い足を舐めて勃起してるんだから変態だよ」
「ぼくはこれよりセクシーな部分をしらない」
「視野が狭いのよ」
「きょうはずいぶん攻撃的だね」
 おじさんは口許に笑みを浮かべて再び指先を吸う。ストッキング越しに空気が通ってスースーする。つま先を思いきり口の中に突っ込んでやったらどんな顔をするだろう。
「きょうは挿入(い)れないでね」
 意味がわからないのかおじさんは舐めるのをやめ、あたしを見る。
「気分じゃないから」
「気分じゃないって。じゃあどうすれば」
 屹立したペニスを押さえておじさんは呻いた。おしっこを我慢する幼児のような姿に皮膚の底に眠る悪意が目を覚ます。挿入したくてうずうずしている彼も、それを眺めているあたしも、ひどく滑稽に思えた。
「口でしてくれるの?」
「は? するわけないじゃん」
「じゃあ手か」
「それもなし」
 意地悪く笑うと、おじさんは短く息を吐いてパンツとズボンを拾う。一丁前に怒ったのだろうか。
「なにしてるの」
「帰るよ」
「その状態で帰れるの。商売女に相手してもらうつもり?」
「やっぱり酔ってるんだな、いつもの君らしくない」
 おじさんはどこか寂しそうに言い、服を着ると無言のまま部屋を出ていった。
 玩具を失い、静寂だけがある自室は悪夢から覚めたあとのように緊張している。あたしらしいってなんだよ、知らねえよ、ちゃんと答えも置いていけよ。憤慨し、テーブルの脚を蹴った。衝撃でスマートフォンが落下する。カンザキさんはどうしているだろう。いまあたしに意味を与えている存在はカンザキさんだ。彼の鼓動とあたしの鼓動は共鳴し、ひとつの大きなうねりとなって世界に響く。あたしたちはアダムとイヴを装い、笑って、互いの体を求めるのだ。

※                   ※              ※   

【連絡遅くなってすみません。金曜の夜ならあいてます】
 カンザキさんからの返信が輝いて見えるのは、きっと恋をしているからだ。すぐに返すのはかっこう悪いので五分待ってから、
【ありがとうございます。では金曜の七時に駅前で】
 と送る。しばらくして了承する返事がきた。こみ上げてくる笑いをこらえながらサトミに【カンザキさんとデートしてくる】
 とメッセージを打つ。我ながら最低だ。もしかしたらブロックされているかもしれない。だけど、それでもいいと思った。不意に現れたレゾンデートルがあたしを意地悪に変えていく。もう止まらない。止める気も起きない。歯噛みするサトミの姿が目に浮かび、勝利した喜びで膣が躍動した。
 同窓会のことを思い出したのはその日の朝だった。夜通し自慰をしていたあたしは重い頭と体を起こしてカーテンをあける。一日の始まりを告げる光が窓の向こうに広がり、散らかりだした自室と明確な線を引いていた。光の中で生きる元同級生たちを想うと自分のくだらなさが際立って消えたくなる。
 もともと行く気がない同窓会のことが気になるなんて馬鹿らしいと一蹴して窓を全開にし、空気を入れ替えてシャワーを浴びる。気分転換にはこれが一番だ。
 おじさんから振り込まれたお金でデートに着ていく服を買う。彼が同い年の上司に叱責されながら稼いだお金でカンザキさんのためにお洒落をするのだ。我ながらひどいと思う。そのことを知って泣きそうになるおじさんの顔を思い浮かべると口許がゆるむ。背中を丸めて遠ざかっていく彼を見ながらあたしの中にカンザキさんを浸入させる。あたしは笑い、彼も笑って、おじさんはひとり号泣した。均衡が崩壊したのだ。そう、世界はいつだって変わりたがっている。
 街に蔓延るバリアーを躱しながら帰宅すると、アパート前にサトミが立っていた。不意を突かれ、動揺しているあたしに彼女は無言のまま近づいてくる。刺されそうな雰囲気に子宮が縮んだ。あのメッセージを読んだのだろうか。
 きっかり一メートルのところで止まると、サトミは突然泣き出した。呆然とするあたしに彼女のしゃくりあげる声が飛んできた。
「なんで、どうしてあんなこと、言うのォ?」
 すがるような目であたしを見るサトミは子どもみたいで、儚くて、押したらすぐ壊れてしまいそうだ。人は泣くと子どもに戻るのだろうか。いつものように鼻をぐじゅぐじゅ言わせながら顔を歪ませる。マスカラは取れ、目の周りがパンダのように黒くなっている。泣いて興奮したからなのか鼻頭は真っ赤でまるでトナカイだ。パンダとトナカイの混合獣になってしまったサトミを見ているとおかしくてたまらなくなり、あたしは無遠慮に笑った。
「ちょっとォ、笑わないでよォ」
「ごめんごめん、だっておかしいんだ」
 むすっとする彼女の顔がまた〝ツボ〟で、そのうち涙が出てきた。目尻を拭いながら涙は悲しくてもおかしくても出るんだと、そんな当たり前のことを思った。
「泣きすぎて顔ひどいよ」
「ミズホが泣かせたんでしょ」
「部屋入って。お茶でも出すから」
「うん」
 階段を上がり、ドアを開けて荷物を床に置く。ボックスティッシュを渡すとサトミは勢いよく鼻をかんだ。
「買い物いってたの?」
 サトミの声を背中で聞きながらお茶の準備をする。適当に座ってもらい、紅茶とマカロンを出した。
「カンザキさんと、付き合ってるの?」
 恐る恐るという感じでサトミが言う。合コン以来会ってもいないのに話が飛躍しすぎだ。サトミはいつだって事を大きくする。あたしとは違った妄想家だ。黙っていると、「ねえ、どうなの」サトミがパンダ顔を近づけてくる。ここは上野か。
「うん。付き合ってる」
 おもしろそうだったので嘘をついた。サトミの顔が徐々に崩れ始める。波にさらわれる砂城みたいだ。
「もう、エッチ、したの?」
 彼女は性行為のことをエッチと言う。もっと直接的にセックスと言えばいいのに可愛らしい言葉を選ぶのはそのほうが男受けがいいことを知っているからだ。あたしは紅茶を一口すすってから頷いた。呼応するようにサトミが泣き出す。昔の言葉で表現するなら欷泣というやつだ。お前はカンザキさんのなんなのだ。うなだれる彼女の、形の良いつむじを見つめながら心中で呟いた。
「そんなに泣かないでよ」
「出るんだからしょうがないでしょ」
 サトミは目元を拭いながらマカロンをかじる。「あ、これおいしい」ぽそりと呟いて、残りを口に放りこんだ。
「ねえ、何しにきたの」
「わかんない。だけど泣きにきたわけでもマカロン食べにきたわけでもないのはたしか」
「だいぶ落ち着いたみたい」
「泣いたらすっきりしちゃった」
 そう言ってサトミはまたマカロンをかじった。
「ミズホも同窓会出るんでしょ」
「まだ決めてない」
「まだってもう十日後だよ」
「べつにどうでもいいじゃん、同窓会なんて」
「ミズホはリア充だからね」
「その言葉大嫌い」
「そう? あたしは好きだけど」
「ばかみたいじゃない? そもそもだれが言い出したかしってるのかって話」
「だれだっけ」
「しらない」
「何それ。結局ミズホもしらないんじゃん」
「したり顔のくせに言葉の意味間違ってる人もいるよね、破天荒とかがそう。本来は前人未到ってことなのに」
「それこそどうでもいいよ」
「うん。あたしも途中でどうでもいいって思った」
 あたしたちは互いの顔を見合って笑った。喧嘩してても簡単に笑い合える距離感、それが友達なのかもしれない、と青臭いことを考えた。
「男のことで仲違いしてる場合じゃないね」
「付き合ってるなんてうそ、見栄張っただけ」
「ミズホって昔からそういうとこあるよね」
「サトミだって彼氏いるのに浮かれすぎ」
 意味深長に微笑み、あたしたちは紅茶をすする。熱い液体が喉元を過ぎるたび、こいつよりは幸せになってやるという黒い感情が腹の底に溜まっていった。

※                   ※              ※  
 
 金曜の夜は街が脈動する。オルガスムを迎えた膣のように激しく、精液を放出するペニスみたいに蠢くのだ。
 カンザキさんは周囲に染まらない強烈な個性で存在していた。駆け寄るあたしを一瞥し、「いきましょう」とだけ言った。ハイヒールを履いているあたしに合わせて彼はゆっくりと歩いてくれる。ここらへんもおじさんと違う。ちょっとした気遣いがすごく嬉しくて、先程から頬が緩みっぱなしだ。しばらくして雑居ビルにあるバーに案内された。店内はひどく暗かった。森林のような匂いの中、流れるジャズが慈雨みたいに降ってくる。
「行きつけなんですよ」
 カンザキさんはそう言って笑う。吸い込まれそうな笑みだ。思わず「好きです」と呟きそうになり、急いで口を引き結ぶ。彼に促され、十席ほどあるカウンターの中央に座った。
「珍しいね、マコトが女の子を連れてくるなんて」
 カウンターの向こうでグラスを拭いている白髪頭の男性が微笑んだ。カンザキさんは目元だけで笑むと、
「大切な人に知ってほしかったんですよ」と言った。
「とうとうお前にもそういう人ができたか」
 マスターだと思われる男性が口元に笑みを浮かべたあと、あたしを見る。大切な人という言葉に躰の内側が揺れた。まだアルコールを飲んでいないのに酔っているみたいに頬が火照り、鼓動が速くなっている。悟られないよう笑い返した。
 マスターとカンザキさんは本当に仲が良く、まるで親子のように見えた。マスターの言葉に耳を傾け、時折ほほ笑むカンザキさんはひどく新鮮で、そんな彼を間近で見られることに感謝した。感謝した、なんて大げさかもしれないけれどそう感じたのだからしかたない。
 初めて聞く、おしゃれなお酒を勧められてそれを頼んだ。先程からドキドキが止まらないでいる。これは少女漫画の世界だ。このあとあたしたちは互いの気持を吐露しあって激しくセックスをするのだろう。
「オオヤマさんは人を殺すことをどう思う?」
 グラスを傾けながらカンザキさんが言った。最初なにを言っているのかわからず、あたしは彼の横顔を見つめた。
「殺人は本当に悪なのかな」
「どういうことですか」
 カンザキさんは息を吐いたあとグラスに目を落とし、「間引きも必要だ」と呟いた。
「譬えば緊急避難がある。己の身を守る前提なら人殺しだって肯定される。自分の利益になることは誰も否定できない。言うなれば間引きも未来の人間に対しての利益だ」
 思ってもいなかった言葉にあたしは頷くことすらできずにうつむいた。
「またマコトの御高説が始まったな」とマスターが笑う。
「こいつはいつもそうなんだよ。むずかしい話が好きなんだ」
「好き嫌いの問題じゃないんだよマスター」カンザキさんが微笑む。
「面倒くさい男だろ?」
 マスターが笑いながらあたしに問う。苦笑したあと、ごまかすようにグラスの縁を指で拭った。
「最近、意味をよく考えるんですよ。ぼくたちは何のために存在しているのか、この行為は本当に必要なのか」
「店のほうはどうなんだ」
「おかげさまで軌道に乗りましたよ。経営するようになって初めてマスターを尊敬しました」
 ふたりが声を出して笑う。街とは違うバリアーを感じながらグラスに口をつけた。その後もふたりはあたしの知らない世界を披露する。経営理念からイデオロギーに飛び、そこから哲学の存在意義になった。グラスの縁を指でなぞりながら話題がこちらに流れてこないことを祈っていると、しばらくしてあたしが退屈そうにしていたのを感じ取ったのか「べつのお酒にしようか」とカンザキさんが言った。
 バーをあとにし、ホテルの部屋に入るなり、あたしはカンザキさんにもたれた。アルコールの混じった熱い吐息が頬にあたる。我慢できなくなってキスをねだると彼は微笑んだあと唇を重ねてくれた。熱を持った舌が別の生き物みたいに絡み合う。唾液が甘い。口の中が甘美で満たされるとあたしたちはベッドに倒れた。
「シャワー浴びないと」
 起き上がろうとすると躰を押さえつけられた。「そのままでいい」
 普段とは違う低い声音、オスの声だ。すぐにスカートをたくし上げられ、ストッキングごとパンツを下ろされた。これじゃレイプだ。抵抗すると強い力で腕を取られ、痛みに顔が引き攣った。
「ちょっと」
「どんどん抵抗していいよ、そのほうが興奮する」
 言うなり、乱暴にあたしの足を開かせようとする。内腿を閉じて身をくねらせると彼が楽しそうに口許を歪ませた。カンザキさんはこういう性癖なのか。べつに処女じゃないから受け入れてもいいのかもしれないけれど、性欲の捌け口に使われるのは嫌だ。あたしの膣はそのためにあるんじゃない。覆いかぶさってくるカンザキさんを押しのけてベッドから降りると彼が意外そうな顔をした。
「そういうのはちがうな」
「痛いのはやめてよ」
「どうして」
「どうしてって。セックスは愛の確認でしょ」
「これがぼくの愛だ」
 大真面目な顔して言うカンザキさんに未知の怖さを感じた。ペニスはスーツのズボンを突き破りそうなほど屹立している。いつもの彼じゃない。
「相手が嫌がれば嫌がるほど興奮するんだ。泣かれるとさらにいい」
「サディスト」
「どうかな。少なくともマゾではないと思うけど」
「いつもそうなの?」
「セックス?」
 あたしは肯いた。
「ジレンマがあるんだ。大切な人ほど優しくしたいのにどうしても乱暴に扱ってしまう」
「やめようとは思わない?」
「何度も思った、でも駄目なんだ、抑えれば抑えるほど欲望は膨らみつづける。体をふるわせ、精神を蝕み、脳にあふれ出す。まるで覚醒剤だ。もう死んでしまったほうがいいのかもしれない」
 そう言ってカンザキさんは笑んだ。哀しそうな笑みだった。その表情を見たとたん、あたしの中の本能が叫んだ。
「もう一度しよう」あたしは言った。
「痛いのは嫌だって」
 あたしは首を振る。「したいから」
 困惑気味のカンザキさんに抱きついた。彼の鼓動があたしの鼓動と重なる。これは生命のハジマリだ。上着を脱がせ、あたしもワンピースを脱いだ。カンザキさんが我慢できないという感じであたしをベッドに押し倒した。ブラジャーを剥ぎ取られ、そのまま覆いかぶさると胸を揉まれる。乱暴な所作に恐怖を覚えたがその感情が彼を気持ちよくさせるのだ、あたしは大げさに嫌がった。カンザキさんの掌が緩やかに伸びてきて首を絞めてくる。五指にすこしずつ力が入ると息苦しさから目がちかちかしてきた。脳が酸素を要求する。すぐに手を払いのけろと命令するがあたしはそれを無視した。彼になら殺されてもいいと思った。どうせいつかは死ぬのだ、病気や事故や老衰で旅立つのならカンザキさんに終止符を打ってもらいたい。苦しさや痛みを受け入れた瞬間、彼の手がゆるんだ。
「やめよう」
「どうして」
「やっぱり、君とは無理みたいだ」
「どういう意味」
「相性が悪いんだよ」
「そんなのまだわからないよ」
「僕が欲しいのは偽りじゃなくて真実だ」
「これだって真実でしょ? ねえ抱いてよ」
 カンザキさんがゆっくりと首を振った。「きょうはもう、そんな気分じゃない」
「ふざけないでッ」
 その気になった躰を拒絶され、熱を纏った怒りがこみ上げてくる。カンザキさんをにらんだ刹那、ふとおじさんのことが頭の片隅を過った。彼もこんな気持だったのだろう。
「ばかにするな」
 吐き捨てるように叫んで、服を着ると部屋を出た。アルコールで火照った体はいつの間にか鎮まっていて、でも悔しさでふるえている。足を踏み出すたび、こんなはずじゃなかったと囁きが耳朶を叩いた。泣きそうな自分がいる。理想はけっきょく理想でしかなくて砂糖菓子のように甘いあたしに現実(リアル)が剥き出しの事実を突きつけてきたのだ。
 エレベーターに乗り、ロビーに降りたところで涙腺が決壊した。歪む世界の中、あたしはおじさんに逢いたくなり、声を出して泣いた。

※                   ※              ※  
 目が覚めたとき、世界が崩壊していればいいと思った。
 風は止み、太陽は死んで、辺りは闇に包まれる。誰もいない湿った窖で骨になるまで過ごすのだ。
 午後が訪れて、見事に白骨化したあたしをサトミは外に連れ出した。オープンカフェのテラス席は夏の日差しが容赦なく降り注いで残った骨までも溶けてしまいそうだ。
「あたし、アイツと別れる」
 サトミが決心したみたいな顔で言った。「かも」じゃなくて「別れる」。強い意思と同調するように額の汗が光った。
「別れてさ、リューセイくんに告るんだ」
「見切り発車すぎない?」
「そんなことない」
「彼女いるかもしれないじゃん」
「いないから」
「決めつけないほうがいいよ、男なんて」
「なにかあったの?」
 サトミが双眸を輝かせてあたしを見る。その光から逃げるようにレモンスカッシュを一口飲み、目の前の歩道に視線を移した。白シャツを着た若い夫婦がベビーカーを押している。小難しい顔をしたサラリーマンが足早に通り過ぎた。街はいつものように活動し、骨だけになったあたしを変わらず弾き返す。
「ねえ、あたしたち付き合わない?」
 無意識に吐き出した言葉に、サトミは「は?」と呟いたまま固まった。
「なに、そのつまんない冗談」
「やっぱつまんないか」
「当たり前でしょ、どうしたの」
 あたしは首を振る。鉛のような疲れだけがあった。憧れていたものが実は幻想でしかなかったと気づかされたその反動だろうか。
 なんでもないと返して、グラスに手を伸ばすと携帯電話が鳴った。おじさんからだ。席を外し、通話をタップした瞬間、低い声が響いた。
「意味を奪われると人間はどうなると思う?」
 奪うという強い言葉に足が震えた。返答に困っているとおじさんがつづける。
「世界から色彩が消えるんだ。まるで夢のように。熱だけ纏ったモノクロの夢はうろたえるぼくを嘲笑って通りすぎる」
「自意識過剰」
「思いが強いほど対象がぼくから離れていく。出世だってそう、本当は同期が上司になって、死にたいくらい悔しいよ」
 寂しそうな声に胸が高鳴った。妙な高鳴りだ。雨に濡れる捨て犬を見つけた時のような、体の中心が揺れる高鳴りだった。今夜逢う約束をして、あたしたちは電話を切った。
「誰から?」
 席に戻るなりサトミが訊いてくる。弟と答え、あたしはグラスの氷をかじった。

 寡黙な夜がおじさんを引き連れてくる。アパートの玄関に立つ彼はいつものように照れた笑みを浮かべ、これ、おいしそうだったからと小さな紙袋をこちらに渡した。
 あたしは礼を言い、おじさんを部屋に上げると普段と同じように座ってもらう。冷蔵庫から缶ビールを出し、スーパーで二割引だった焼き鳥をレンジで温めた。
「彼氏とはうまくいきそう?」
 缶ビールをにぎったまま、おじさんは疲れたように微笑んだ。
「これからどうするの?」
 質問を質問で返したからか、おじさんは眉根をよせた。テーブルに視線を落としたあと、「とりあえず、生きるよ」と言った。
「けっきょく最期は死ぬのにね」
 そういうと、おじさんは照れたように笑う。
「ねえ、セックスしよ」
「彼氏に悪いよ」
 あたしは首を振った。おじさんが察したように表情を崩す。あたしたちはようやく言葉からの脱却に成功した。
 おじさんを見つめたあと、口許だけで笑って、つま先を向けた。彼は泣き笑いのような顔をしてしゃぶりついてくる。ねっとりとした熱が皮膚を包み、肉を溶かして、骨をねぶる。あたしはおじさんと、おじさんはあたしと、一体化してひとつの新しい何かになった。
 セカイノハジメを囲む、快楽の海はいつだって荒れ狂っている。空は絶望的なほど暗く、切れかけた蛍光灯ほども光を発しなかった。
 全裸のふたりは寄り添ったあと、ためらうことなく崖から飛び降りた。

意味を与える

意味を与える

純文学です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted