五分小説 しらす
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午後六時半の待ち合わせだった。
しらすがカフェに来たのは午後七時半だった。
僕の座る二人席は窓に面していたので、小雨のぱらつく街の様子がよく見える。色とりどりの傘がモザイクにひしめくなか、泳ぐ様に、見慣れた真っ黒な傘が近づいてくる。彼女だ。
雨はしばらくで止むだろう。
すぐには席へ来なかった。入店して早々、何やら店員ともめていた。僕は知らん顔をした。やがて店員が根負けしたようにすごすご引き下がっていくと、彼女は目をいからせながら、どかどかとこちらへ迫ってきた。
「おい、ナイフ。なんで禁煙の店なんか選んだ」
「タバコは身体に悪いよ」
「うるさい」
ふん、と鼻を鳴らしてから、向かいに腰を下ろした。そして唇に挟んだ細長いタバコをつまみ、「ふぅ」と一つ溜息をつく。思わず、桃の香を舌に錯覚した。
――懐かしい動作だ。僕は三杯目のコーヒーを啜りながら、それを観察していた。
文句を言ってやる。
「……一時間の遅刻」
「こんなに朝早くだ。大目に見ろよ」
「夕方なんだけど」
「私にとって」
しらすは基本的に生活リズムがおかしい。小説家だからだ。小難しい文学なんかを専門としているらしいが、僕はそれらを読んだことがない。
お待たせ致しました、と店員がブラックコーヒーを運んできた。それが机の上に置かれるや否や、しらすは角砂糖を入れ始める。
とぷとぷとぷ……と、七つ。
「入れすぎ」
「頭使うんだよ」
「冒涜だ」
「やだやだ。これだから頭の固い人は」
しらすは、カップへそっと口づけをして、こくりと喉を鳴らした。
「あぁ、うまい」
「どうして僕と別れるの」
不意打ちを食らって、ピクッと、しらすの眉が動いたのを見逃さなかった。
カップを勿体ぶって置く彼女を、睨んでみる。
やがてしらすが口を開く。……唾液が霧雨のように糸を引いた。
「私はね、しらすなんだ。そして君はナイフ」
「知ってるよ」
「名前じゃなくて」
僕は分からなくて目をそらす。
「しらす。見たことないか? あのスーパーとかでパックに入ってるやつさ。見分けのつかねー顔がバカみてーにひしめいててよ。全部同じように見えて、それは一つで、でもやっぱりそれはそれぞれで、」
煙と共に言葉を吐いていく。気がつけば、僕は机の縁をなぞっていた。
「分からないだろうよ。お前はナイフ。私のしらすを、どんどん切ろうとしちまうからな」
「何か、怒らせたかな?」
彼女は「いいや」と頬杖をついて、窓越しに雨を眺めた。つまり、目をそらされた。
「ま、自分勝手なのは分かってるんだが……」
しらすが、ぽつりぽつりと、呟くように言葉を零す。
「このカフェが禁煙だったり、集合が六時半だったり、注文がブラックコーヒーだったり、――私の本を一つも読んでくれなかったり、だ」
すねた子供のような青白い横顔。
……頬を、雨粒のシルエットが伝っている。
あぁ。
と、僕はこっそり溜息をつく。
そして自分の愚かさを恨んだ。でも今更遅い。彼女は決断してしまったのだから、僕も、それにしっかりと応えなくてはならない。
「分かった。色々と、ごめん」
「反りが合わねーってやつだよ。お前も私も悪かねぇのさ」
その言葉を最後に、しらすは僕の前から去った。
カフェの窓を見る。ガラスが曇っていた。左手できゅっと拭き取ると、そのスコープにしらすを望んだ。
真っ黒な傘が遠ざかっていく。
静かな長雨。
五分小説 しらす
お題:しらす で書きました。
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