女は誰もがクレオパトラ

日乃万里永

――はあ……。
 真羽が深い溜息を吐くと、向かいの席で弁当を食べる寧々が、
「どうしたの? 真羽。嫌いな食べ物でも入ってた?」
 ミートボールを口に運んだ。
「ううん。違う」
 真羽は力なく首を横に振った。
 寧々は真羽と背格好が似ており、ショートヘアが良く似合う。真羽は高校生になっても、中学の時と変わらずに長い髪を一つに結んでいるが、大人っぽい雰囲気の彼女を羨ましく思う。もし自分も、彼女のようにショートにしたら、ただでさえ童顔なのに更に子どもっぽく見られそうで出来ない。
「具合でも悪いの?」
 寧々が心配そうに顔を覗き込む。
「いや、そういうわけじゃなくて」

 先日、幼馴染の直人と駅前に新しく出来たメロンパン専門店で、香ばしく甘い香りに待ちきれない思いで行列に並んでいると、
「そういえば友哉、彼女出来たって」
 ふいに、直人が思い出したかのように言った。
「へえ、良かったじゃん、友哉」
「同級生だってさ」
「そっか。なんか浮かれてる顔が浮かぶね」
 真羽はそう言いながらも素直に喜べない自分がいることに、心の端がずきずきと痛んだ。
 直人と友哉とは、幼稚園が同じだった。
 母親同士が仲良くなったのをきっかけに、母親に連れられて互いの家を行き来するようになり、顔を合わせるごとに親しくなっていった。
 昔から直人の横にはいつも友哉がいてそれが当たり前の風景だったから、いないことが不自然に思えたりする。そしてこうして直人と会っていても無意識に彼の横に友哉の姿を探してしまう。
 街を歩いていても、友哉が関心を示しそうな物を見ると、友哉だったらどんなリアクションをするだろうとつい思ってしまう。
 いつも友哉が馬鹿なことを言って直人がそれに突込みを入れる。それを見て真羽が大笑いする。それが中学まであたりまえの日常だったから、友哉がいないこの風景が少し物足りなく思えてしかたなかった。
 メロンパンは、美味しいはずなのに、素直に味を楽しむことさえ出来なかった――。
 
「そっかあ」
 寧々は箸を置き、腕組みをして椅子の背にもたれかかった。
「なんだか、寂しくて」
 項垂れると、背後で毒々しい声が聞こえた。
「かわいそーだよな、おまえ」
「え?」
 振り返ると、椅子の背に大きくのけ反り、人を思い切り見下したような眼差しを向けるクラスメイトがいた。
「成見っ」
 彼は入学当初から、なにかと悪態ばかりついてくるヤツで、もうすでに犬猿の仲であった。しかもよりによって真後ろの席だ。
「あんたには関係ないでしょ。ってか、聞いてたの?」
「あんなでかい声でしゃべってたら、聞きたくなくても聞こえるんだよ」
「そんなに大きい声でしゃべってなかったでしょ。どうせ成見が聞き耳たててたんじゃない、面白がって」
「面白がってたわけじゃねえけど。あ、いや面白かったな。ある意味で」
「なによ」
「ほんと、かわいそーだなーと思って」
「なによ、かわいそうって」
「おまえさ、それじゃあ二人とも一生そばにいてくんなきゃ嫌だってことだろ。そんなんじゃおまえ、一生結婚出来ねーな」
「違う、そういうわけじゃないから」
 真羽が言うと、 向かいにいる寧々が、
「仲良いね~」
 紙パックのいちごミルクに手を伸ばし、一口飲むと、
「だけどさ、成見の言うことも間違いじゃないかもね」
 優しい言葉を掛けてくれるどころか、追い打ちを掛けて来た。
「え? 寧々ちゃんまでそんなこと言うの?」
 彼女は、かなりズバズバとものを言う。
「だって真羽はさ、もしその直人って人にも恋人が出来たら、同じようにそうやって、ため息つくわけでしょ」
「え? 」
「幼馴染だってさ、いつかは離れていくんだよ。でも真羽はどちらも手放したくないんでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「二人とも……は無理なんだよ」
「だから、そういう対象じゃなくて、幼馴染が離れていくのがただ寂しいっていうか、ただそれだけのことだって」
「本当に、それだけ?」
「そ、そうだよ……」
 そう言いながら真羽は本当にそれだけかと言われたら、段々自信がなくなって来た。

 
 夏休みを過ぎると早速、文化祭の準備に取り掛かることになった。
 真羽のクラスは喫茶店をやることになり、それだけではつまらないので、ハロウィンの時期ということもあり、“コスプレ喫茶”になった。
 クラスの話し合いで、当日までの準備や役割分担など、細かい内容を取り決める中、真羽は頭の中で、
――コスプレ衣装かあ、後で寧々ちゃんと、なんか適当に買いに行かなきゃ。
 などと考えていると、後ろの席の成見が小声で呟いた。
「おまえさ、コスプレなにすんの?」
 振り向くと、なんだかニヤニヤしている。
「なによ、また変なこと考えてるんでしょ」
「またってなんだよ」
「だってどうせ、ろくでもないことしか考えてないんでしょ」
「ろくでもないってなー。ま、そうかもしんないけど」
 真羽が呆れて体の向きを変えようすると、
「ちょっと待てよ」
 成見が呼び止める。
「なによ」
「おまえにぴったりのコスプレがあるんだよ」
「は?」
 どうせしょうもないものに決まっている。真羽が次の言葉を期待せず待っていると、
「クレオパトラだよ」 
 きっとまたどうしょうもないことを言うかと思ったら、まさかの発言に真羽は一瞬戸惑った。だが成見のことだ、きっと裏があるに違いないと真羽は眉を顰め、警戒した。
「からかってんの?」
成見は黙って首を振った。
「違うよ。別に褒めたわけじゃねえし」
「え? だってクレオパトラっていったら」
「あ、世界三代美女ってやつ? それって違うんじゃないかって最近言われてるよ。単に男の扱いが上手かったんじゃないかってさ。なんたって二人の男を手玉に取ったんだからな」
 そのことは、真羽も最近のテレビなどを観てなんとなく知っていた。世に知れ渡っている事柄が必ずしも真実ではないということなど、数多くあるという。
 だが通常クレオパトラと言えば、誰でも褒め言葉と受け取るだろう。
――やっぱり、疑っといて正解だった。
 そう思うが、成見が言った、“二人の男を”という点はおおいに引っ掛かる。
「……そういうこと」
「っそ」
「だけど、別に私、手玉になんか取ってないでしょ。第一、付き合ってもいないし」
「そっか? この間、また別のやつのこと話してなかったか?」
「また人の話聞いてたの? 成見っ」
 少し大きめの声が出てしまい、何人かが振り向く。
 以前、寧々に話していたことをまた聞かれていたのだ。これからはもっと警戒しなければいけないとあらためて思う。
 真羽は声を潜めた。
「あんた、どんだけ人の話、盗み聞きしてんのよ」
「だから、聞きたくなくても聞こえてくるんだよ」
「嘘ばっかり、また聞き耳立ててたくせに」
 成見は答えずニヤニヤしている。
 だが、本当に手玉に取っているわけではないが、成見の言う、“別のやつ”に、先日会ったことは確かだった――。

 うだるほどの暑さが続いた夏休み後半、夕方リビングで本を読みながら涼んでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。
 応対に出た母が、しばらくして一人の客を招いた。
「友哉!」
 彼は「よう、久しぶりだな」と返し「なんか、ちょっと懐かしいな」と、幼い頃によく訪れていたリビングを見渡した。 
「あまり、変わってないでしょ」
 友哉が訪ねて来ていた頃と、家具の配置などはほとんど変わっていなかった。家電が少し新しくなったのと、カーテンの柄が変わったくらいだ。
 母が冷たい飲み物を運んで来ながら、
「一番変わったのは友くんね。三人の中で一番小さかったのに、こんなに大きくなっちゃって」
 友哉を見上げ、「まあ、座って頂戴。ゆっくりしていってね」と声を掛けた。
「あ、すぐに失礼しますから」
 彼はテーブルの前に座り、持参して来た手土産を母に手渡した。
「これ、母からの土産物です」
「まあ、わざわざありがとう」
 母は袋の表を見て、
「あら、今年は東北のほうへ出掛けたの?」
 尋ねると友哉は、
「はい、親戚の家を訪ねがてら、観光を……」
 と答え、その時に訪れた名所や、その時々のエピソードなど語り出した。
 時折ユーモアを交えるので、母がその度に楽し気に笑った。
 母は昔から友哉びいきだ――。
 それにしても、友哉の母なら今でもよく訪ねて来るが、友哉が来ることなど珍しい。
 彼の話が一区切りついたところで、
「友哉がわざわざ訪ねて来てくれるなんて、珍しいね」
 率直に言うと、
「ああ、暇だったからな。それに母さん夏バテでまいってたし」
「そうなんだ」
 真羽はその言葉通り受け取ったが、久しぶりに顔が見られて素直に嬉しかった。
 電話のベルが鳴り、母が「ちょっと失礼するわね」と席を外すと、友哉は麦茶を口に含み、こちらを向いた。
「この間、直人に会ったよ」
「あ、そうなんだ」
「メロンパン、おれも食いたかったなあ」
「そんなこと言って友哉、彼女出来たんでしょ」
「ああ、まあ……。でも別れた」
「え? なんで?」
「うーん。なんとなく、気が合わなかったっていうか」
「残念、どんな子に会えるか、楽しみにしてたのに」
「ま、もう済んだことだし。そんなわけでおれは今、フリーだから」
「でも友哉なら、またすぐに彼女が出来るんじゃないの?」
「う~ん。どうかな」
 するとそこへ母が呑気に戻って来た。
「ねえ友くん、今日お夕飯うちで食べていかない?」
「あ、いえ、すぐ帰るつもりなんで、お構いなく」
 友哉が断るが、母の強引さは昔に比べて更に拍車が掛かっており、彼も最後には断り切れず押し切られた。
 その日の夕食は、いつもよりかなり賑やかだった。
 
 帰り際、友哉にちょっと話したいことがあると言われ、玄関の外まで見送ると、
「夕飯、ほんと美味かったよ。おばさんによろしく」
 そう言って、先ほどからずっと母を魅了し続けていた笑顔を見せた。
 相変わらずのおばさんキラーだ。
「うん、伝えとく。でもそんなこと言ったら、おかあさんまた舞い上がっちゃうよ」
「うちのお袋、手抜きばっかするからさ~。久しぶりにちゃんとした夕食食べたって感じがしたよ」
「だって、友哉のお母さん、お仕事大変でしょう」
 友哉の母親は、毎日遅くまで働いている。
「まあね。でも休みの日だって、あまり変わんねーよ」
「文句言っちゃだめだよ。食べさせてもらってるんでしょ」
「う……んまあ、そうだけど」
「それに、そのおかげでそんなに大きくなったんじゃない。さっきお母さんも言ってたけど、本当に友哉は一番チビだったのに、今じゃ直人より背が高いなんて、本当にあの頃は考えられなかったよね」
「ああ、まあ、それだけでも直人に勝てて良かったよ」
 そう言うと急に彼は表情を変えた。「おれは昔から、直人に追いつくことだけが目標だったからな」
「それは、わかってるよ。友哉は直人と張り合ってばかりだったもんね」
「彼女だって、おれのほうが先に出来たし」
「でも、別れたじゃない」
「まあ、そうだけどさ」
 友哉は小さく溜息をついた。「なあ、真羽」
「ん?」
「おまえは? 彼氏出来た?」
「ううん、私はまだそういう人は、いない」
「そっか」
 友哉は急に真面目な顔つきになり、
「変な男にだけは、引っ掛かるんじゃないぞ」
 父親のような口調で言った。
「やだ友哉、お父さんじゃないんだから」
「笑い事じゃないよ真羽。おれにとって真羽は妹みたいなものなんだから、心配なんだよ」
「妹? って私、友哉より半年くらい年上なんだけど」
「まあ細かいことはどうでもいいんだよ」
「どうでもよくない」
「はは。とにかくさ、彼氏とか出来たら、絶対におれに紹介しろよ。見定めてやるから」
「もう、そんな心配いらないって」
「いや、でも本当のこというとさ、おれ、真羽に彼氏なんか出来て欲しくないんだよ」
「え?」
「姉貴に彼氏が出来てもなんとも思わなかったけどさ、真羽は本当の兄妹じゃないのに、彼氏なんか出来たら、大事なもん横取りされた気になりそうでさ、嫌なんだよ」
「友哉……」
 友哉も真羽と同じ気持ちだったのだ。
 今まで当たり前だったことが当たり前ではなくなる。それは友哉も同じように感じていたのだ。
 真羽には、友哉も直人もどちらも選ぶことなど出来ない。この先、二人にはいずれふさわしい女性が現れ、これまで以上に三人で会う機会は減っていくのだろう。直人とメロンパンを食べに行くことも、友哉がこうして家を訪ねてくることも、もう当たり前ではなくなるかもしれない。
 真羽はどうしても寂しさを拭えなかった。


「なにこれ?」
「代わりに応募しといたから」
 教室に入るなり、成見が渡して来たプリントを見て、真羽は一気に頭に血が上った。
「冗談でしょ。やめてよ」
 それは、“南高のクレオパトラを探せ!”といういわゆるミスコンのようなもので、“自薦、他薦、思い込み、なんでもあり”と書かれていた。しかも実行委員長は成見だ。
 普段、クラスの係や委員会などは面倒くさがってやりたがらないくせに、今回はノリノリで実行委員に立候補していたが、こういうことかと呆れる。
「今すぐ取り消して」
詰め寄ると、
「えー。面倒くせーよ」
 人の気も知らず、彼は不服そうに口を尖らせた。
「ちょっと、いい加減にしてよ」
 切れ気味に怒ると、成見はふっと笑った。
「なにが可笑しいのよ」
 まったくこの男は、なにを考えているのかわからない。
「いい機会だと思わねえの?]
「なにが?」
「おまえだって、いつまでもウジウジ悩んでたってしょうがないだろ?」
「だからなによ?」
「男のことだよ」
「あんたには関係ないでしょ。ってかこれとなんの関係があるのよ」
「おまえなんもわかってねーな」
「わかるわけないでしょ」
 とにかく頭に来るだけで、話にならない。
「認めちまえばいーんだよ」
「え?」
「自分は人一倍欲張りな人間だって、認めちまえばいいんだよ」
「…………」
「つまり、いつまでもウジウジ悩んでねえで、もう丸ごと受け入れろって言ってんの」
急に返す言葉がなくなる。
 黙り込んでいると成見は、
「な、いいチャンスだろ? おれに感謝しろよ」
随分調子に乗っている。成見に関しては、こちらのことを考えているというより、面白がっているとしか思えない。
 だが彼の言うように、なにかのきっかけにはなりそうだった。
 真羽にしても、このままではどうにもならないことはわかっていた――。
 成見はこちらの顔を覗き込みながら言った。
「やっぱ、取り消すか?」
 嫌な男だ。真羽はきつく睨み、
「そこまで言っといてなによ。いいよ、出てあげる。きっとそんな企画、誰も出ようなんて人いないだろうから、かわいそうだから出てあげる」
 まあ、真羽にしても頭から反対しているのではない。ただ承諾を得ずに勝手に応募されていたのが気に入らなかっただけだ。
 それにクレオパトラの格好にも興味がないわけではなかった。また、このことでなにかが変われるなら、試してみたいという気持ちもあった。
 成見は平然と、
「ああ、心配しなくても、もう十人以上応募来てるし」
 などと言って、鞄からリストを取り出した。
「え? もう?」
 見ると、同学年で可愛いと評判の女子や、美人で有名な上級生など何人か名を連ねていた。
「なんで? 募集広告だってまだ出してないでしょ?」
 まったくありえない。
 成見は鼻で笑って、
「そんなもん、あらかじめこっちから先に声掛けとくに決まってんだろ。じゃないと企画通らねーじゃん」
 当然のように言った。
 そういうものだろうかと真羽は一応納得したが、あらためてリストに目を通し、
――これは、優勝はナシだなあ。
 出場する前から負けが見えた。


 校庭脇の樹木が、少しずつ葉を落とし始めた文化祭当日。
 快晴の下、多くの出店も賑わい、真羽のクラスの“コスプレ喫茶”も大盛況だった。
 真羽はクラスの手伝いもそこそこに、午後から行われるコンテストの準備に掛かりきりだった。
 衣装は、袖のない既製の白いワンピースを買い、寧々に手伝ってもらいながら、胸の辺りに煌びやかな独特の装飾を施した。
 髪型は、この日のためにストレートパーマをあて、真っ直ぐに切りそろえた。メイクは、クラスの中でその道に詳しい友だちが、率先して塗りたくってくれた。
 会場へ向かうと、既に十人以上の出場者が集まっていた。総勢二十名ほどが立候補したのだ。
 皆それぞれ工夫を懲らした衣装に、瞼を黒く染める独特のメイクをしている。これだけ揃うと少し異様でさえある。
 この時代になぜクレオパトラ? という感じもするが、流行を無視したところがかえって新鮮なのだと成見は言う。ただのこじつけだろうが……。
 出場者はほとんど成見が声を掛けた面々だが、中には、本人はその気はなくて周りから強引に推薦された掘り出しものなどもいて、この高校で一、ニを争う美少女が顔を揃えることになった。
 ちなみに成見に言わせると「おまえは“思い込み”枠な」だそうだ。
 付き添いで来てくれた寧々が小声で囁いた。
「ねえ、みんなすごくない? 真羽、ちょっと雰囲気押されてるよ」
 確かに、中にはかなり際どく校則ぎりぎりの、かなり露出多めの衣装を身に着けている強者もいる。
 真羽は自分の胸元に目をやった。
「いいよ。もともと自信ないし」
「パット入れちゃう?」
「ええ~。いいよそこまでしなくても」
「目立ってなんぼだよ」
「そんなので目立ちたくないよ」
「あはは」 
 その時、舞台裏からすっと成見が現れた。彼はこちらに気付くとふっと鼻で笑った。
「おまえ、ずいぶん気合い入ってんな」
「は? 誰かさんに勝手に応募されたんだからしかたないでしょ」
「周り、見てみろよ。おまえもうちょっと露出多めにしたほうがいいんじゃねえか? やる気がないふりしてっけど本当は、おまえだって実は優勝狙ってんだろ?」
「狙えるわけないでしょっ」
 そんなことくらい百も承知だ。
 成見は、あまりこちらをからかう余裕はないようで、プログラムに目を落とすと「おまえさ、もう一度、鏡見てみたほうがいいぞ」と言い残し、いそがしそうに走って行った。
 むかつきながら真羽は、鞄から手鏡を取り出した。
 見ると、口紅が少しはみ出している。先ほど寧々と話している時、話しながら口元に手をやる癖があるので、少し指が触れてしまったようだ。
――もしかして、これを直せと教えてくれたの?
 だが成見なら、面白がってそのままにしておくだろう。と思いつつあまり深いことは考えず、コットンで軽く拭き取り、ファンデーションを塗り直した。
 ふと、視線を感じて振り向くと、こちらをキッと睨みつける女生徒がいた。隣のクラスの万智子だ。成見が、「あいつは“自称他薦”じゃねえか?」などと言っていた。
 打ち合わせの時「成見く~ん」と体をくねらせていたから、きっと先ほど彼と話していたのが気に入らなかったのだろう。
 成見に関心があるなどと、真羽には考えられなかった。
 外見はそれほど悪くはないが、特別目立つわけでもない。それに性格に難があり過ぎる。
――あんなのと付き合ったら、大変だ。
 成見に彼女がいるという話は聞いたことがないが、まったく興味はなかった。いや、逆にいるなら会ってみたい程だ。どれほど寛容で、仏の心を持ち合わせていることかと。
――まあ、あんなやつのことはどうでもいい。
 真羽は逆に、万智子を睨み返してやった。

 出場者全員が野外ステージ上に並ぶと、にわかに観客がどよめいた。
 クレオパトラが二十名近く並ぶことなど、滅多に、というかそうそうないだろう。
 一人一人簡単な紹介をした後、個々のアピールタイムとなった。
 各々、なにか特技を一つ披露するのだが、得意のダンスを踊る者や歌を歌う者、中には手品をやってみせる者もいた。
 真羽は特にこれと言った特技がなく事前に、見せるものがなにもないと成見に文句を言ったところ、ほかにもそういう者はいたようで、そういう者たちは取り敢えず、ものまねか早口言葉をやって場を盛り上げろとのことで、早口言葉を選んでいた。
 真羽の番になり、早口言葉をいくつか言わせられたが、案の定、途中でつまづいて会場の笑いを誘ってしまった。
 まあ盛り上がったからよいかと、出番を終えるやさっさとステージ裏に下がると、そこにはこちらの顔を見て吹き出す成見がいて、思い切り足を踏んづけてやった。
 
 発表まで少し時間があり、真羽は客席を見渡し、直人と友哉の姿を探した。事前に二人を誘ったのだ。
 ステージ上からでもすぐにわかった。中学時代からバスケをしている二人は、周りから頭一つ分くらい抜き出ていた。
 先ほどステージ上から目が合うと、二人はこちらに向かって手を振ってくれた。  
 教室に向かう前に、ひと言話したいと思っていると、友哉が先にこちらに気付いてくれ、直人も後から気付き、二人でこちらにやって来た。
 友哉が笑顔で、
「真羽、驚いたよ。すごく似合ってる」
 たとえお世辞でも嬉しいひと言だった。是非とも成見に聞かせてやりたいと思っていると直人が、
「おまえ、あんなに滑舌悪かったか?」
――真っ先に言うことはそれ? 
 と拍子抜けするが、彼はそういう人だ。
「二人とも、来てくれてありがとう」 
 礼を言うと友哉が、
「今日は来て良かったよ。真羽のそんな姿、まさか見られると思わなかった」
 彼の言葉には微塵も嫌味がない。やはり誰かさんとは大違いだ。 
「本当は、出るつもりじゃなかったんだけどね。クラスメイトにいっや~なやつがいて、勝手に応募されたからしかたなく」
 それは一応事実だ。
「いっや~なやつって、真羽いじめられてんのか?」
 友哉が心配してくれる。真羽が答えようとすると、
「呼んだ?」
 背後で、宿敵成見の声がした。
「な、成見、なんでここに?」
 タイミングがよすぎる。真羽はもしかしてと、
「あんたまた、立ち聞きしてたんでしょ」
 もういつものことで、呆れ果てて怒る気にもなれない。
 成見は半笑いで、
「いつものことだろ」
 悪びれずに認めた。
 真羽は直人と友哉に向かい、
「これがその、いっや~なやつ」
 と紹介した。そんな紹介のしかたにも関わらず、成見は気にもせず、
「どうも、初めまして」
 普通に挨拶するが、向かいにいる二人は少々警戒している、まあ当たり前だろう。
 成見はこの状況を勝手に楽しんでいる様子で、自ら名を名乗り、互いの自己紹介を終えると、
「ではお二人とも、南校の文化祭、どうぞ楽しんで行ってくださいね。彼女の結果も踏まえて」
 と言い残し、飄々と去って行った。
 友哉が益々心配げに、
「真羽、おまえ大丈夫か?」
 立ち去る成見の後姿に、不安げな表情を浮かべた。
「あいつ、いつもなにかと絡んでくるのよね。こっちの反応を楽しんでるっていうか」
「もし困ってんなら、おれがひと言言ってやろうか?」
 友哉の申し出につい、「じゃあお願い」と言いたくなるが、一応それほどでもないので、「今のところ、大丈夫。ありがとう」と言っておく。すると直人が、
「いや、真羽だって負けてねえじゃん。むしろおまえのほうが、言いたいこと言ってんじゃねえの?」
 鋭い。確かに成見に対しては、言いたい放題ではある。
「もうあんなやつ、相手にしなきゃいいんだけど、どうしても言い返したくなるの」
「真羽ってあんな言いかたすることあるんだな。知らなかったよ」
「相手に依るよ。特にあいつはね」
「なんか今日は、真羽のいろんな一面が見られたっつうか。いろんな意味で、来て良かったよ」
 その時、コンテストの係員が現れた。
「もうすぐ発表だから、早く戻って来て下さい」
「あ、ごめん。すぐ行く」
 真羽は二人に、「じゃあ、行くね」と断ると友哉が、
「優勝出来るといいな」
 また、誰かさんなら絶対に言わないことを言ってくれた。彼だけだろう、そんな風に言ってくれるのは。
「ありがと」
 背を向けたとたん、急に心もとなくなった。
 真羽はこの日を境に、二人のことはきっぱり諦めようと思った。
 二人の存在は安らぎであり、なにより落ち着ける場所だった。だが両方を欲しがれば、結局、どちらも得ることなど出来ないのだ。
 クレオパトラは、性格の異なる二人の男を愛した――。
 直人と友哉の性格はまるで違うが、真羽はそのどちらの人柄も愛している。
 どちらか一人を選べと言われたら、やはりどうしても答えは出せない。
 たとえどちらかと付き合ったとしても、やはりどうしてももう一方を思い出してしまうのだろう。
 このクレオパトラの格好は、今の真羽の気持ちの現れそのものだった。 
 真羽はもう、二度と後ろを振り返らなかった。

 結果は始めから決まっていたようなものだったが、案の定、有力視されていた美少女たちが優勝を争うというもので、真羽など、ほか数名は始めから選外という感じだった。
 ただの盛り上げ役に過ぎなかったが、真羽は出場したことに後悔はなかった。
 これからはただ、前を向いて行くしかない。それだけだった。
 ステージを降りた後、教室に向かおうと思ったが、なんとなく気が抜けてしまい、近くのベンチに腰を落とした。
 ふうっと大きく溜息を吐くと、
「んで、どっちにすんの?」
 成見だった。また聞いていたのだろう。だがもう怒る気力もない。
「成見、お願いだからあっち行って」
 目も合わせず、手だけ振って追い返す。
「なんだ。決められねえのか」
「当たり前でしょ」
「あの二人ならすぐに可愛い彼女が出来るよ。心配すんな」
「ちょっと、どっちの心配してんのよ」
 拍子抜けして顔を上げると、
「ほら、これ」 
 成見が目の前に祝儀袋を差し出した。
「え? なにこれ」
 参加賞でもあったのだろうか? と首を傾げる。
「特別賞だよ」
「え? なんの?」
 なにか特別なことをした覚えはない。
「実行委員長の、おれ様からの特別賞だよ」
 どういう風の吹き回しだ? と思いながら真羽は取り敢えずそれを受け取った。
 コンテストの入賞者には金一封が授与されていたが、まさか予算が余ったのだろうかと思いながら、成見のすることだけに一応疑いつつ中を覗くと、一枚の紙切れが入っていた。
「なにこれ?」
 取り出すと、ちゃんとした紙ではなく、なにかのプリントから空白の一部を切り取ったような切れ端で、見ると誰かの連絡先らしき物が書いてあった。
「これって、だれの?」
「おれ様の」
 先ほどから、いちいちおれに様をつけるのがいちいち気に障る。
「どういうこと?」
 顔を上げると成見は、
「おまえがいろいろ悩んでばっかいるから、おれ様が相談に乗ってやろうと思ったんだよ」
「いらない」
 真羽が突き返すと、
「バカだなおまえは、おれ様が人に連絡先渡すなんてな、滅多にないことなんだぜ?」
 バカはそっちだと言いたい。こんなことでなにが嬉しいというのか。真羽は紙切れをギュッと握り潰した。
「だから、いらないってば。どうせ私をからかって楽しんでるだけでしょ」
 成見に関しては好意だと思えず、裏があって当然だと思っている。彼はつまらなそうに、
「好きにしろよ。その辺に捨てとけば」
 くるっと背を向け、さっさと行ってしまった。
「なによあいつ」
 そのまま背中に向かって潰した紙切れをぶつけてやろうと思って……やめた。
 ほんの僅かだが、握り潰した時の成見の顔が、一瞬陰った気がするのだ。
 それまでへらへら笑っていたのに、その時だけは違っていた。
――いたずらしてやろ。
 真羽は思い直し、一応捨てるのを止めた。
 成見は普段一人でいることが多く、クラスメイトとは必要以上の会話をすることもない。その彼が連絡先を教えてくれたのだから、“滅多にない”は本当かもしれない。これはある意味貴重なことなのだろう。
 真羽は紙切れを広げ、手のひらで伸ばした。
――本当に、なんなの? あいつ。
 真羽はふと、クレオパトラに関わった男たちに、シーザー、アントニウスがいるが、もう一人、クレオパトラを死に追いやった人物がいたことを思い出した。
――確か、オクタビアヌス。
 史実では、やさ男だとか、お人よしでぱっとしなかったとか、または反対に残忍だったなどいろいろ言われているが、クレオパトラが振り向かなかった男であることは確かだ。
――しょうがないな。これからも、適当にあしらってやるか。
 いつしか成見のせいで、こちらの気分が変わっていることに気付いた。
 真羽は気持ちを切り替え、勢いよく立ち上がった。


 風が冷たさを増し、吐く息が白く濁る頃、校内では風邪が流行り、クラスメイトの欠席が目立ち始めていた。
 成見が、五日も学校を休んでいた――。
 月曜からずっとだ。風邪が長引いているらしい。
 真羽はきっと、二、三日で登校して来るだろうと思っていたが、あまりに長いので少しばかり心配になり、今日になって、連絡しようかどうか迷った。
 文化祭で連絡先をもらったが、一応登録したものの、実はいまだになにもしていなかった……。
 なんとなく、素直に送ってしまうと変に負けた気がして、そんな気になれなかったのだ。
 成見はこちらがあのまま処分したと思ったのか、そのことについてなにも言って来なかった。
 だが普段、あんなに目障りなヤツが急に何日もいないと、少し気になったりするもので、ぎりぎりまで迷って、やはり連絡してしまった。
 悩みぬいた末にひと言、「大丈夫?」とだけ送ったが、すぐに返事は来なかった。
 まあ、そのうち来るかと放課後まで待ってみたが、うんともすんとも言って来なかった。
 返事を期待していたわけではないが、時間が経つごとに、段々不安にもなって来た。
 帰り支度をしていると、寧々が顔を覗き込んで来た。
「真羽、どうした?」
「ん?」
「元気ないじゃん。もしかして真羽も風邪ひいた?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあなにか、心配事でもあるの?」
「別に、なにもないよ」
 答えるが、寧々は納得していない様子で、
「もしかして、成見のことでも心配してたの?」
 なぜだかお見通しだった。
「なんで? そんなわけないじゃん」
 図星ではあるが、一応否定すると、 
「だって真羽さ、このところずっと元気なかったじゃん。それって成見がいなかったからじゃないの?」
「え? そんな風に見えた?」
「そうだよ。いつも成見と言い合ってるから、なんかあいつがいないと、調子でないんじゃないの?」
「いやいやいや違うって。これが普通の私だってば。あいつがいる時はただ、喧嘩して怒鳴ってるからなんだか元気に見えちゃうだけだって。本来の私は大人しくて、いつもこんな感じなの」 
「そ~お?」
 寧々は疑わし気に目を細めた。
「そうなの!」
 少し強めに言い切り、鞄を手に取った。「帰ろ、寧々ちゃん」呼び掛けると彼女は成見の机に向かい、ごそごそと中の物を取り出した。
「ちょっと、寧々ちゃん、なにやってるの?」
 寧々は数枚のプリントを手に取ると、
「職員室行って来る」
 すたすたと歩きだした。
「ちょっと待ってよ、なんで?」
 追い掛けながら問うと、
「これ、成見に届けに行こうと思って。宿題とか提出物が結構溜まってたし、今から先生に住所、訊きに行かなきゃ」
「え? なんで寧々ちゃんが? わざわざそんなことしなくったって」
「真羽も一緒に行くんだよ」
「え? なんで私が?」
 寧々は急に立ち止まった。
「クラスメイトだもん。力になるのは当然でしょう」
 正論だが、寧々の場合、なにか違う気がした。
「そんなの、私たちがやらなくたって、成見の近くに住む子にやってもらえばいいじゃない。あるいは先生が」
 こちらも一応正論のつもりだった。寧々は正面に向き直り、
「あのさ真羽、本当は成見のこと心配なんでしょ。わかってるんだよこっちは、会いに行けばいいじゃん。顔を見れば安心するでしょ」
「だから違うって」
 あくまでも否定を貫く。
「じゃあさ、私に付き合ってくれない? それならいいでしょ」
「え?」
「私が成見に会いに行くから、真羽はそれに付き合ってよ」
 寧々はどうしても、行かせたいらしい。
 真羽は戸惑っていたが、だが本当のことを言えば、実はそれがありがたかった――。
 やはり返事がないのは気になるし、今どうしているのかも若干気に掛かる。それにこの五日間、少し物足りないというか、張り合いがないというか、寧々が言うように元気がないと言われれば、認めたくないがそうかもしれなかった。
「じゃあ、寧々ちゃんの頼みなら、しかたないよ。わかった」
 渋々承知したふりをしたが、寧々はくすっと笑った。
 
 成見の家は、市の中央寄りにある、高層マンションの一室だった。
 担任は成見に、直接確認の電話を入れてから住所を伝えてくれたので、彼はこちらの訪問を拒まなかったようだった。
 成見の見舞いに行くというと担任は、丁度彼のところへ行こうとしていた矢先だったようで、「それは助かる」と言い、ほかのプリント類も渡してきた。
 彼の両親は仕事で家におらず、家にいるのは成見一人きりだと言う。 
 彼の家に向かう途中、寧々に、
「成見って、兄弟とかいるのかな?」
 問うと、
「さあ、どうなんだろうね」
 寧々は首を傾げた。
 成見の家族について真羽はなにも知らなかった。
 多分寧々のように、ほかのクラスメイトにも、彼のことを知る人物はいないのではないかと思った。
 彼は人のことに関しては首を突っ込みたがるが、自分の事に関してはなにも語らない。
 唯一、将来なにになりたいのかと尋ねると、「探偵しかねえじゃん」と、本気か冗談かわからないがそう答え、真羽は寧々と顔を見合わせ、「なるほど」と頷き合ったくらいだ。
 彼に関してはそれくらいで、今まで特別関心を抱いたことはないが、この日初めて、彼の両親が共働きだと言うことを知り、彼の住まいを知った。
――敵陣、見つけたり。
 という感じだ。
 七階でエレベーターを降り、ドアの前に立つと、プレートには苗字のみ印字されており、家族構成はわからなかった。
 呼び鈴を鳴らそうとすると寧々が、
「あ、ごめん、急に用事を思い出した」
 などと言い出した。
「え? 嘘でしょ」
「ほんとごめん。うっかりしてた」
 寧々は両手を合わせ、「じゃ、後はよろしく」とプリントの入った袋を手渡し、あっという間にいなくなってしまった。
「ちょっと、待ってよ」
 追い掛けようとするとガチャッとドアノブが回る音がして、成見が顔を出した。
「なんだ、玄関先でうるせえな」
 ただでさえ細い目を更に細めている。真羽は瞬間湯沸かし器のように、
「なによ。せっかく来てあげたのに、その態度はないでしょ」
 病人だということを忘れて噛み付いた。
「だから、声がでけーんだよ。近所迷惑なんだよ。こっち入れ」
 成見は真羽の腕を引き寄せた。
「ちょっと」
 されるがままに玄関に足を踏み入れると、バタンとドアが閉まった。
 真羽は、自分でも少し声が大き過ぎたかもしれないと反省しつつ、それにしてもその言いかたには不満を感じ、持参した袋を突き出した。
「はいこれ、わざわざ届けてあげたんだから、お礼くらい言いなさいよ。それと後で寧々ちゃんにもね」
 成見の態度に、心配して損したとさえ思う。彼は袋を受け取ると、
「一応ありがたいと思ってるよ。だけどお前、玄関先で騒ぎ過ぎなんだよ」
 非常識だったとは思うが、注意するにも言いかたというものがある。むっとしていると、
「それにさ、おまえおっせえよ」
 またまた怒りを抱かせる言葉を吐いた。この男はどれだけ人を怒らせたいのか。
「はあ? 学校からどれだけ掛かると思ってんの? 場所だってなかなかわからなかったのに」
「ちげーよ」
「なにがよ」
「渡してからどんだけ経ってんだよ」
「は?」
 言っている意味がわからない。だが“渡してから”という言葉に、なんとなくあれのことかと思う。
「連絡先のこと?」
「もういいよ。入れ」
 否定しないということは、そうなのだろうか。彼はこちらからの連絡を待っていたというのか。この、成見が……。
「待ってたの? 私からの……」
「だから、もういいんだよ。うるせえ、早く入れ」
 成見は目を反らし、さっと背を向けた。
 意外に思いながら真羽は、彼がこちらからの連絡を待っていたことに、やはり悪い気はしなかった。
「じゃあ、ちょっとお邪魔するね」
 玄関を上がり、上下スウェット姿で猫背気味に歩く成見に付いて行くと、リビングは、まるでモデル住宅のように、さっぱりしていた――。
 必要な物以外、無駄は一切ないといった感じだ。
 真羽の家には、テーブルの中央に母がアレンジした生花が飾られていたり、棚には写真立てがいくつか飾られていたりするが、この家にはそういったものがなにもない。殺風景というか、生活感がない。
「さっぱりしてるね。ごちゃごちゃした私の家とは大違い」
 そう言うと、
「適当に、座れよ」
 彼はソファーを指差し、カウンターキッチンの向こう側に回った。
 真羽が腰を下ろすと、彼はしばらくして冷蔵庫から冷えた缶コーヒーを持って来て、目の前のテーブルに置いた。
「こんなもんしか、ねーけど」
「あ、ありがと」
 成見でも一応こんなことするんだ、と変なところに感心する。
 彼はカウンタ―前の椅子に座り、持っていた缶のプルタブを引いた。
 しんと静まり返った部屋に、成見がコーヒーを飲む音だけが響く。真羽は今頃になって、二人きりだということを意識した。
 なにか話し掛けようと思いながら、やはり彼の家族のことが気になった。
「ねえ、成見って兄弟いるの?」
「兄貴が一人」
「へえ、そうなんだ。学生?」
「っそ」
「ふうん、仲良いの?」
「いいわけねえじゃん」
「あ、そう」
 なんとなくそんな気がした。この家にないものが、そのまま成見にはない気がするのだ。
 それは余計な物だし、いらないかもしれないが、それは知らぬ間に心の隙間を埋めてくれるものでもある。
 彼が連絡を待っていたのは、その無駄なものを、彼が無意識に欲しがっていたのではないかと思った――。
 

 年が明けて早々に、真羽は友哉に誘われ映画を観に行った。
 タイムトラベルもののシリーズ第三作目で、以前から話題になっており、真羽も絶対に観たいと思っていたものだった。友哉とは、過去にそのシリーズ二作をレンタルして家で数回観ていた。
 直人も誘ったそうだが、彼は彼女と観るらしい。
 直人に彼女が出来たことを聞いて、真羽はやはりいい気持ちはしなかった。一人っ子の真羽にとって、直人や友哉は半ば兄弟のようなものだった。だからもし真羽に兄や弟がいて、どちらかに彼女が出来たら、きっとこんな気持ちになるんじゃないかと思った。 
――もういい加減、幼馴染離れ、しないと。
 兄弟だとて一生一緒に暮らせるわけではない。いずれは各々一生を添い遂げる相手を見つけ、離れて行くのだ。
 直人も、友哉も。
 真羽はこうして友哉と二人で過ごせるのもいつまでかわからないが、今この瞬間を胸に焼き付けておこうと思った。
 映画は想像以上の息を付かせぬ展開で、終わりまで一時も目が離せなかった。
 興奮冷めやらず余韻に浸りながら映画館を後にすると、友哉が、
「丁度昼だし、なんか食おっか」
 とお腹をさすり、二人で近くのファストフード店へ立ち寄ることにした。
 ハンバーガーを頬張りながら、先ほどの映画の話に盛り上がる。
 その時、ふと後ろのほうで聞き覚えのある声がした。
 まさかと思い振り返ると、知らない男性だった。ただ、その声は成見にそっくりだった。
 真羽はふと、成見のことを思い出した。

 友哉と映画に行くことを寧々に話していたところ、案の定成見が口を挟んで来た。
「なんだおまえ、やっぱりそいつと付き合うことにしたのか?」
「いや、別に付き合うとかじゃなくて、ただ一緒に映画観に行くだけだけど」
「ふーん」
「なによ」
「誘われたら、どこでも付いて行くのかおまえは」
「はあ? 幼馴染なんだから、別に一緒に映画観に行ったっていいでしょ」
「幼馴染じゃなくても、おまえは誘われたら誰にでも付いて行きそうだよな」
「はあ? なに言ってんの? 成見じゃないんだから」
「あっそ」 
 そして翌朝の登校時、真羽が寧々と教室に向かっていると、妙な二人組が通り過ぎて行った。
 成見と万智子だった。しかも成見は彼女の腰に手を回し、万智子は嬉しそうに腰をくねらせている。   
 後から教室に入った真羽は机に鞄を置くと、
「彼女出来たんだ。良かったね」
 と成見に祝いの言葉を贈った。すると成見は、
「あいつだけじゃねえよ」
 といやらしく笑った。
「やだ、最低」
「おまえほどじゃねえよ」
 そう言って成見はそっぽを向いた。
 その言葉にむかついて言い返そうとすると、彼は教室から出て行ってしまった。
 だが真羽は、その時のことがどうしても解せなかった。 
 成見が彼女の腰に手を回した時、なぜ一瞬でも胸の痛みを覚えたのか。
 そのことを思い出し、目の前のハンバーグを成見だと思って、思い切り齧り付くと、
「真羽、なんか考え事でもしてた?」
 友哉が目の前でパンフレットをひらひらと揺らした。
「ああ、ごめんごめん。なんでもないの」
「なんかすごい顔して齧り付いてんなと思って」
「ああ、あはは、ちょっとね」
「もしかしてあの、成見ってやつのことでも考えてたか?」
「え?」
「だってさ、前に文化祭で紹介してくれただろ、その時おまえ、今みたいな顔してたからさ」
「ああ、あの時」
 真羽は苦笑してしまった。成見が絡むと碌な表情をしないらしい。友哉は急に真剣な顔で、
「なあ真羽、あの時も言ったけど、本当に困ったことがあればなんでも言えよ。前にも言ったけど、おれにとって真羽は本当に兄妹同然だから、なんでも力になりたいんだ」
 友哉が本当に心からそう言ってくれているのだとわかる。誰よりも優しくて頼りになる友哉には、昔から困ったことがあるとなんでも助けてくれた。
 きっと真羽がひと言なにか言えば、すぐにでも成見のところに乗り込んで行ってくれるかもしれない。
 だが困っているのは、成見がなにか真羽に悪いことをしたわけではなく、このわけのわからない自身の感情だった。
「ありがとう友哉、その時は遠慮なくお願いするね」
 友哉は「おう、まかせとけよ」と笑顔を見せた。  


 今年のバレンタインは、寧々が友チョコ交換しようと言うので、真羽は久しぶりに手作りした。
 登校し、暖房の利いた教室で一息ついてマフラーをほどくと寧々が、
「おはよう、真羽」
 と早速小さな紙袋を差し出してきた。「はいこれ。私が作ったの、食べてみて!」
「わあ! ありがとう」
 受け取って、真羽も鞄から寧々に渡すチョコを取り出し手渡すと、彼女は礼を言って受け取りながら、
「それ、なに?」
 鞄の奥を指差した。
「ああ、これはなんとなく、作り過ぎたから」
 実はもう一つ、作ってしまったのだ。
 別に作るつもりはなかったのだが、なんとなく作ってしまった。
 というのもここ数日、成見が万智子とイチャイチャしている姿が目に付いてしかたなかったのだ。
 ほかの男ならば、なにをしようが一切気にならないのに、成見に限って気になる自分が嫌だった。
 いや、認めたくなかった、自分の気持ちを。
 それでもこの機会に意思表示くらいはしてみたい。
 たとえ「そんなもん、いらねーよ」と言われようと、それはそれで冗談だと言って笑ってすませればいい。
 真羽はそう思い、もう一つ用意したのだ。寧々のものと少し味を変えて。
 寧々は声を弾ませて、
「もしかして、それ、成見の?」
 直球を投げ掛けて来た。
 どうも彼女には、真羽の心を見透かされているらしい。だが真羽は、
「成見は関係ないでしょ」
 とっさにそう言ってしまった。やはり本当のことはなかなか言えない。 
「え? 違うの?」
 なんだか寧々が、いつの間にか成見化しているような気がした。からかわれると過剰に反応する真羽を、完全に面白がっている気がする。
 “あく”が強い成見は、人に伝染するのだろうか。
「違うに決まってるでしょ! 本当にちょっと多く作り過ぎたから、もう一つ用意しただけで……」
「じゃあ、誰にあげるの?」
「それは……」
 本当のことがなかなか素直に言えない真羽を見かねてか、寧々は後ろの席にいる成見に向かって言った。
「成見、真羽がチョコくれるって!」
 やはり面白がっている。
「寧々ちゃん、だから違うって」
 後ろで成見は、
「もう、ここにあんだけど」
 その言葉に振り向くと、机の上にそれらしい箱が置いてあった。寧々はつまらなそうに、
「ああ、例の彼女ね。でもバレンタインなんて、いくつもらったっていいじゃない」
「いらねえよ、そんなに」
「なんで? 真羽の手作りだよ」
「そんなもん、腹こわすに決まってんだろ」
「ちょっと、なんてこと言うのよ」
 この発言には真羽もさすがに切れた。
「いいよ、寧々ちゃん、もうやめて」
 そして袋を取り出し、思い切って中を開け中身を取り出した。やはり作らなければよかったと後悔する。これ以上いたずらにからかわれるのは嫌だった。向かいの寧々は、
「ちょっと真羽、なにしてるの?」
 驚いた様子で目を見開いている。
「お腹こわすわけないって、証明してやるの」
 腹立ち紛れに、怒りに任せて一口齧る。手作りのブラウニーだ。すると寧々は手を伸ばし、
「じゃあ私にも、頂戴!」
 口を大きく開け一口で食べ切ってしまった。
「どう? 味は」
 一応試食して来てはいるものの、やはり人に食べてもらう時には緊張する。
「うん。美味しい!」
 寧々は、「もう一個頂戴ね」と今度は少し齧って、
「甘さ控えめだね。それにちょっとビターな感じ?」
 感想をくれた。
「ねっ。大丈夫でしょ」
 後ろの成見に聞こえるように言うと彼は、
「ばーか、後でトイレに駆け込むことになるんだよ」
 憎たらしいことばかり言うので、もはやあんなやつにあげようなどとは思わなくなった。
 結局、寧々と二人で食べ切り、成見の口に入ることはなかった――。
 
 
 その週の金曜。下校時に真羽が帰宅しようとすると、なぜかスマホが違っていた。
「あれ? これ私のじゃない」
 寧々に告げると、
「え? なんで?」
 真羽が彼女にスマホを渡すと、彼女は勝手に画面を操作し、
「これ……成見のだ」
 不思議そうな顔をした。
「なんでだろう。間違えたのかな。でもそんなはずないんだけど」
 確かめようにも、彼はとっくに帰宅してしまっていた。
「電話、掛けてみたら?」
 寧々が言い、真羽は「うん、そうしてみる」と受け取った。
 躊躇いつつも画面を操作し、自分のスマホの番号に掛けてみるとすぐに留守電に切り替わった。
 用件を入れて少し待つがしばらくしてもなんの反応もない。
 不安になり、もう一度掛けてみると、
「はい」
 応答があった。やはり成見の声だった。
「あ、成見? それ私のスマホでしょ。間違えてるの、気付かなかった?」
 彼は少しして、
「ああ……どうする?」
 と訊いて来た。
「すぐにでも取り換えたいの。今どこにいるの?」
「家」
「え~」
「週明けでもいいぞ」
「やだ。絶対やだ」
 自分のスマホが二日も手元にないなんて、考えられなかった。
「じゃあ、交換しに来れば?」
「そっちが、届けに来てよ。間違えたの、そっちでしょ」
「違うよ。それにおれ、困んね~もん」
「ああ~。もう」真羽は苛々しながら、「じゃあ行くから、待ってて」
 真羽は寧々に断り、成見の家に行くと言った。
 彼女はなぜかニヤニヤしながら、
「いってらっしゃ~い」
 と呑気に手を振った。
 
 成見の住むマンションに辿り着き、玄関の呼び鈴を鳴らすと、彼は面倒くさそうに現れた。
「あ、成見、スマホ交換して!」
 スマホを差し出すと、
「ああ、部屋にある」
 この男はどこまで人を苛立たせるのかわからない。
「ちょっと、さっき伝えたでしょ。普通、用意しておくもんだと思うけどっ」
 大声で怒鳴ると、
「だからさ、おまえ声がでかいんだって」
成見は、真羽の背後にある玄関の戸を閉めた。 
 勢いにまかせてまた大声を出してしまったと少し反省するが、だがここへ来させたのは成見のほうだ。
「さっさと持って来てよ」
 彼は「しょうがねえなあ」と文句を言いながら部屋にスマホを取りに行った。
「ほら」
 ぶっきらぼうに渡され、さっさと交換し終えると、
「なんで間違えたの?」
「知らねえよ」
「へ?」
 わけがわからない。
 だが、思い返すと寧々の行動は怪しかった。あまり確かめる様子もなく成見のだと言った気もする。
――もしかして、寧々ちゃんが?
 理解出来ないが、まあ用事は済んだ。
「じゃあ、帰る」
 真羽が回れ右をして玄関を開けると、
「ちょい待て、そのまま帰んのかよ」
 成見の言葉に、一応振り返る。
「だって、用事済んだし」
「なあ、おまえさ、あのバレンタイン、おれに渡そうとしてなかったか?」
 振り向くと、成見は壁にもたれかかり、超がつくほどの上から目線でこちらを見つめていた。
「そんなわけないでしょ」
 やはり帰ろうと思い、さっさと背を向けると、
「じゃあ、なんでおれ好みの味にしたんだよ」
「は?」
「あいつが言ってたのって、おれ様の嗜好ドストライクじゃん」
「あいつって、寧々ちゃん?」
「ああ」 
「そんなの、寧々ちゃんの好みに決まってるでしょ。本当に、なに言ってんの?」
 しかたなくまた振り返ると、
「おれ、後であいつに訊いたんだよ、おまえの好みの味かって。そしたらさ、全然違うって言ってたよ。それにあいつのともう一つのやつは、味が少し違ってたって」
 そこまで周りを固められると言葉に詰まる――。
 本当は……先日、この家に来て彼にコーヒーをもらった時、無糖でかなり苦味がきつかったが、彼は表情も変えずに飲んでいた。
 それを見て、普段から苦さに慣れ親しんでいるのだろうと思った。
 そして家に来る途中、寧々と一緒に、一応お見舞いにと果物をいくつか買って行ったのだが、
「まあ、おれあんま甘ったるいの苦手だし。このくらいが丁度いいな」
 と言っていたのを思い出し、彼の好みの味に仕上げたのだ。
 確かに、彼の嗜好に合わせて作ったことは認める。 
 だが絶対に成見の前で認めたくはない。
「違う。成見の勝手な思い込みだよ。だいたい彼女がいる人に、なんでチョコあげたりするのよ」
 ごまかすと、
「おまえ、なんか誤解してんじゃねえの。おれ、彼女なんかいたっけ?」
 とんでもないことを言い出す。
「いるじゃない。バレンタインだってもらってたし、一緒に帰ってたし、この間なんてお弁当まで届けてもらってたし」
 成見ははあっと息を吐いた。
「それってさ、おまえの言うようにしてりゃ、全部彼女なわけ?」
「そうでしょ。それに腰に手、回してたじゃない」
「あいつは、ただのおれのファンなんだよ」
 またまた頭に来ることを言う。
「あんた、彼女の気持ちもてあそんでるの? 最低」
「だからさ、その彼女がいると思ってるおまえが、おれにチョコなんて渡そうとしてたんだろ。おまえ、自分のほうが最悪だってわかんねえの?」
「だから、違うって言ってるでしょ」
「相変わらず素直じゃねえな。まあ、素直な女なんて興味ねえけど」
「もういい。今度は本当に帰る」
 もう話にならないと思い、再び背を向けると、
「え?」
 いきなり、成見が後ろから手を回してきた。真羽は驚いて、
「ちょっと、なにしてんのよ」
 腕を引き離そうとすると、抗えない強さで体の向きを変えられ、あろうことかいきなり唇を塞がれた。
「ちょっ、な、なにすんのよ」
 手の甲で唇を拭う。
「じゃあなんで、来たんだよ」
「だから、スマホ返してもらうためでしょ」
「おまえ、おれがこの家に一人だって知ってるよな。それでも来たってことは、そのつもりなんだって普通思うだろ」
「ばか、一応あんたを信用してるからに決まってるでしょ。この間だってなにもなかったし」
「この間は、弱ってたんだよ」
「クラスメイトでしょ。もう、いい加減にしてよ」
 きつく睨みつけ、帰ろうとすると、
「おまえ、おれが好きでもない女に、今みたいなこと、すると思うか?」
 その言葉に、真羽は動きを止めた。 
 振り返り、成見を見上げる。
「どういう意味よ」
「そういう意味だよ」
 成見は間髪入れず腕を掴み、そのまま真羽を奥に引き入れた。
「ちょっと、待ってよ」
 抗うが、力では叶わない。
 真羽は頭が混乱しながらも、なぜか足は動きを止めようとしなかった。
 靴を履いたままだ。それでも彼は構わず先を行く。
「ちょっと、本当に……待って成見、お願い」 
 声を落とすと、ようやく彼は立ち止まった。
「往生際が悪いな」
「嫌いなの。成見なんて」
「そっか……」
 彼は呟くと、急に手の力を緩めた。「じゃあ、帰れよ」掴んでいた腕を離される。
 本当に成見は、やることが滅茶苦茶だ。
 真羽は下を向いたまま、黙り込んでしまった。
「悪かったな。嫌いなら、なにもしねえよ」
 成見はそのまま近くの壁にもたれた。
 このまま帰ってもいいのだが、真羽の頭と心はすっかり混乱していた。
 先ほど口づけられた瞬間、頭が真っ白になり、なにも考えられなかった。驚いたせいもあるが、なにかが違っていた。
「嫌いなの。大嫌いなの成見なんて」
 半ば自分に言い聞かせるように繰り返す。
「わかったよ。もういいから、帰れよ」
 成見は不機嫌そうにこちらを見ている。
「わかった。帰る」
 真羽はそのまま玄関へと戻って行った。
 頭はそれを指令する。それなのに足は、速度を増さない。心が勝手に行動を制御する。
――帰らなきゃ。あんなやつ、好きでもなんでもないんだから。
 心に言い聞かせる。それなのに……。
――なんで、こんなに、苦しくなるの?
 真羽は立ち止まり、動けなくなってしまった。
 どうしていいかわからずにいると、
「なんだ? 忘れ物なら、もう、なんもねえはずだけど」
 成見の低い声が廊下に響く。
 最低なやつなのに、その声に身体が勝手に反応する。
――私、どうかしてる。
 成見が、すぐ後ろに歩み寄って来た。
「どうした?」
 先ほどとは違い、口調が穏やかだ。そんなギャップに戸惑う。
 真羽はもう頭の中が一杯一杯でなにも考えられなかった。だがこのままでは埒が明かない。
 真羽は少しだけ頭を空っぽにし、制御を外した。そのとたん真羽は振り返っていた。そして次の瞬間、自分のほうから成見に抱き付いていた。
「おまえ……なんで?」
 嫌いだと散々言われておいて、急に抱き付かれたら彼だって戸惑うのは当然だ。
 真羽自身、この行為に対し、頭が混乱しているのだから。
「嫌いなんだろ、おれのことなんて」
 成見は抱き付かれたままの姿勢で呆れているようだ。
 真羽はひと言、心のままに、
「嫌いなやつに、こんなことしないよ」
 と呟いた。見上げれば、目の前に成見がいる。
「そっか」
 彼は少し体を離し、また唇を重ねて来た。今度は深く、痺れるほどに。
 だが、彼がその先に進もうとした時、真羽は顔を上げた。
「ちょっと待って」
「ん?」
「この先は、もう少し待って」
「はあ?」
 成見は鳩が豆鉄砲くらったような顔で、あんぐりと口を開けた。
「だって私まだ、成見のこと、良く知らないし」
 ようやく自分の気持ちに気付いたばかりで、真羽の中でまだ戸惑いが残っていたのだ。
 少し体を離し「ごめんね」謝ると彼は、あからさまに肩を落とし、
「なんだよ、しょうがねえなあ」
 取り敢えず今は、我慢してくれたようだった。
 真羽は、この先もう少しだけ、彼を知りたいと思った。

 
 この頃次第に暖かくなり、厚いコートもいらなくなった。
 春めいた暖色系のコーディネートに身を包んだ真羽は、成見と街中を歩きながら、そっと腕に手を絡ませた。
 彼はされるがまま、真羽に歩調を合わせてくれている。
 特にこれといって会話はないが、それがかえって真羽は心地よかったりする。
 それでも一応、成見は成見なわけで、
「なあ、いつ、おれんちに来るんだよ」
 と突然言い出す。
「だーかーらー。まだ心の準備が出来てないの。もう少し待ってって言ってるでしょ!」
「待てねーよ」
「もう、成見のバカ、エッチ、アホ、変態」
「うるせーな」
 もう、会う度に繰り返されるやりとりだ。
 真羽は、こういうことだけは、慎重に時期を選びたかった。
 
 寧々は、やはりあの時わざとスマホを取り換えたのだと白状した。
「やっぱこうなると思ったんだ。自分の気持ちに気付いてないのが、当の本人だけなんて、もどかしくって見てられなかったからさ」
「だけど寧々ちゃん、私一歩間違えたらあの時成見になにされたかわかんないんだよ?」
 攻めると、
「成見が本当にヤバイやつだったら、あんなことしないって。だって、待ってくれたでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「ああ見えてあいつ、そんなに悪いやつじゃないよ」
 寧々のほうが、成見をよく知っているようだった。
 友哉と直人には、成見と付き合ったことをまだ話していないが、そのうちに紹介したいと思っている。
 きっといい顔はしないかもしれないが、自分の選んだ人だ。自信をもって二人に会わせたい。
 
 クレオパトラは、性格の異なる二人の男性を愛した――。
 だがもし彼女がオクタビアヌスをも愛したとしたら、未来はどうなっていただろうかと思う。
 真羽は今、成見と付き合っているがこの先どうなるかなんてわからない。
 ただ、自分がそばにいることで、彼の世界を鮮やかに彩りたいと思う。
 真羽はただ、彼が自分に求めるものを精一杯与えたいと思った。
 今はただ、それだけだった。

 

女は誰もがクレオパトラ

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