アズィーズ、あなたは間違ってると思うよ

れれれ

アズィーズ、あなたは間違ってると思うよ

気分を害されたら申し訳ないナ、と思ってます

 マークXという車がある。
 私のような小娘にとってただの黒い高級車だが、世間ではそれなりに名を馳せている車種らしい。なぜ突然そんな車の話をするのかと言うと、この車がどうやら生産を中止するらしいという話を、どこかのネットニュースでちらりと見たからだ。私は本当に車には興味が無いのだが、実は、このマークXに乗ったことがあった。ただしその思い出は、華々しい女子大生の生活には相応しくないものだった。むしろ、一種のトラウマのようなものだと言ってもいい。
 私はここでこの思い出を面白おかしくネタにしてやることで、あの一日を少しは有意義であったと、せめて無駄ではなかったと自分に言い聞かせたい。平成も終わることだし、嫌な記憶に別れを告げるにはちょうど良い時期でもある。令和にまでこんなことを自分のうちに秘めておくわけにはいかないのだ。

 以下は、そんな私の苦く忌々しい一夜の記録である。

 忘れもしない、大学三年の2月。ドバイ出身の会社経営者を自称する男は、例のマークXに乗って表れた。会う前から、自分はマークXを持っている。品川ナンバーだ、と何度か言っていた。彼にとっては自慢の種になるほど素晴らしい車だったに違いない。それにもしかしたら、高級車の名前をちらつかせれば女は歓声を上げるとでも思っていたのかもしれない。
 彼との出会いは、とある言語交換アプリだった。簡単に言えば、外国人と会話ができるアプリである。お互いの文化について話し合ったり、世間話をしたり。英語圏に住む恋人とスムーズに会話をしたいという想いで始めたのがきっかけだった。
 彼はそのアプリで何度か話をした仲で、東京に住んでいるらしかった。学校帰りに夕食でもどうだ、と言われたので、ほんの軽い気持ちで承諾した。
 残念なことに車に疎い私は、待ち合わせ場所についてからも彼に車の特徴を尋ね続けてしまう始末だった。駅のロータリーを待ち合わせ場所に指定したために、黒い車はあまりにも多かったし、品川ナンバーも、さほど珍しくはなかった。拙い英語と拙い日本語を駆使し合って、私たちはお互いを見つけた。待ち合わせた時間からすでに20分も経っていた。
 彼は確かに黒い車に乗っていた。内装が綺麗な車、という月並みな感想しか出てこなかったが、馬鹿な私にも、それが高級車であることは理解できた。車に乗り込んで、私たちは教科書で誰もが見たことのあるような挨拶を交わした。彼は私を抱き寄せて、会えて嬉しい、というようなことを英語で言った。彼の英語は強く訛っていて、早口だった。
 彼は明るかった。初めて会ったとは思えないほど会話は続いたし、常にニコニコしていた。笑うと口角がキュッと上がって、年齢よりも随分と幼く見えた。食事をしたのは9時で閉まるショッピングモール内のビュッフェだった。彼の経営している会社の話、名前の知らない野菜の話、宗教の話、CMに出たことがある話。彼は食事を終えるまでの1時間と少しの間、話し続けた。私は時々相槌を打って、愛想よく笑い続けた。でも彼の話は事実面白かったし、英語の練習になったのは確かだった。
 お店を出ると7時だった。外は暗いけれど、帰るにはまだ時間があった。私は事前に9時には帰りたいと話していたから、彼もそのつもりで動いてくれているのが少し嬉しかった。まだ時間があるから、ドライブでもしよう。彼はそう言って車を走らせた。今思えば、どこに行くの、とか、近場がいいな、とか、何とか言えばよかったなと思う。
 彼は相変わらずのマシンガントークをかましながら高速を走り始めた。彼の話に相槌を打っていると、あっという間に9時が近づいてきてしまった。
 もう帰らなきゃ。私がそう言うと、彼は残念そうに眉毛を下げた。彼は高速を降りようと出口に向かってくれた。私は彼がすぐに引き返そうとしてくれたことに安心した。と同時に、少しまずいな、と思った。私たちの前に出てきた標識には、”成田”の文字があったのだ。私は地理にも疎いが、成田が私の家から遠いことは知っていた。これでは9時には間に合いそうにない。親にうんと怒られてしまうかもしれない。
 彼はこんな時でさえもニコニコとしていて、何なら少し腹が立った。ただ、今思うと、彼はニコニコしていたのではなくて、ニヤニヤしていたのかもしれない。
 高速を降りて初めて成田の実態を目にしたのだけれど、想像の数千倍のラブホテルが存在していた。私が少し急いでほしい旨を伝えると、あろうことか彼は突然その中の一つに車を入れた。ホテルクリスマス、とかいうふざけた名前のホテルで、いたるところに小さなサンタクロースがはびこっていた。
 彼はものすごいスピードで車を駐車し、私にニコニコとした笑みを向けた。私は彼を怒らせないように必死で考えを巡らせて、色んなことを言ったと思う。親が心配するから、とか、友達でしょ、とか。あまりにもありきたりな言葉ばかりが出てきて、自分の頭の悪さに嫌気がさした。もちろんそんな嫌気よりも何よりも、目の前の蠢く人間のような何かに一番嫌悪感を覚えた。気持ちが悪かった。”それ”は、私の意思を全て無視した上で、唇を押し付けてきた。ムードも何もあったものではなかった。私は、つい数分前に好きな人がいる話をしたのにな、と思った。ムカついた。
 私は失意と後悔と共に、色んなことを考えた。なんとなくスキンシップが多いな、と思っていたけれど、こういうことだったのか。
 私は少し冷静さを保とうとした。それ自体はあまりうまくはいかなかったけれど、落ち着いた口調で抵抗を続けることでどうにか流されずに済んだ。
 ただ、事なきを得た、と言えるほど無事ではなかった。

 車内の空気は最悪だった。
 彼はその後も信号で止まるごとに私に唇を押し付けてきたし、コンビニに差し掛かるとすぐにホテルに行こうと言った。
 私はもうどうすればいいのか分からなかった。賢い選択で無いことはわかっていたけれど、私はどうにかしてこのまま彼の車で駅まで送らせることがベストだと考えていた。もちろん自分の身を守るためなら他の手段に頼った方が確実に良かった。例えば、そこからタクシーを拾って帰るとか、近場の駅から電車で帰るとか。それに、車でここから帰るためには一時間以上かかるのは確実で、その間ずっとこの重苦しく気持ちの悪い空気の中に閉じ込められているのは耐え難いものであることも確かだった。しかしそこで逃げたとしても、上手く逃げられる確率は少なかった。ここは私の全く知らない街で、人通りも少ない。地図の読めない私にはリスクが高いし、彼を下手に怒らせることもしたくなかった。というか、正直言うと、そんな案なんか、その時には出てきやしなかったのだ。
 冷静であろうと努めることは出来るが、実際に冷静になることは難しい。比較的ピュアな環境で生活をしていた私は、自分の意思を尊重されないという状況に陥ったことがあまりなかった。特に強い意思表示を無視された経験が無かったから、思ったよりもショックが大きかったんだと思う。
 彼はその後もニコニコとしていた。私はと言えば、母親に弁明を重ねていた。こんな時であっても、やっぱり家族に心配をかけるわけにはいかないと思っていた。それだけは絶対に避けたかった。
 今同じことが起きても、多分私は同じ選択をすると思う。
 彼は怒って静かになった私に、いろいろなことを言った。話を続けてくれてありがたいな、なんて感じられていたのはもう過去のことで、今ではただうるさくて仕方が無かった。彼は何度か、ヘラヘラと謝った。彼が言うには、取引先の台湾人のおじさんから「女は嫌がってるフリをする」と教わったから、今回もそういうことだと思ったのだそうだ。別に誰がどんなことを言おうと勝手だが、どうしたらそんなくだらないことを信じ込めるのだろう。キスの下手さといい、胸をガシガシと触るところといい、もしかしたら経験がないのかもしれない。自分の過ちをまるで人のせいにしてしまうのにも呆れたが、急いでいると言っているのに下道で帰り始めたことにも苛立った。しかし時間が経つにつれ、もう地元に戻してくれるだけでもいいや、と考えるようになっていた。
 私はあまりにも疲れていたし、英語を話すのも、いや、日本語を話すのさえも、面倒くさかった。何と言っても、言葉が伝わらない相手なわけなのだから。
 結局、およそ2時間近くの時間をかけて、私たちは駅に着いた。頭が回ってきた私は、自宅の最寄から数駅離れたところを指定していた。もしストーカ気質な人間であれば、最寄り駅がバレるのは良くないな、と思ったのだ。これが役に立ったのかどうかは分からないが、今のところ、遭遇してはいない。
 
 あれから2か月以上が経った。数週間はしつこく話しかけられたが、今ではそれも止んだ。無事に帰れたことと、思っていたよりもメンタルの回復が早かったこともあって、あまり深く悩むことも無い。ただ、行ったこともないドバイに生じた少しの嫌悪感、危機管理能力の低さへの猛省、そしてマークXとかいう高級車へのトラウマだけが私の心に残っている。
 彼は良い人だったと思う。もしくは私が狂っていると思う。どちらであってももう二度と会うことは無いけれど、出来ることならば他の女の子に同じことはしない方がいいよと教えてあげたい。才能があるのにその使い方を知らないだなんて。アズィーズ、あなたは間違っている。

アズィーズ、あなたは間違ってると思うよ

一番気分を害してるのは私だわよ。
アズィーズは本名ではないですし、ドバイ野郎と呼んでます。ドバイごめんね。

アズィーズ、あなたは間違ってると思うよ

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