海に弔うあなた

衣更絲子

  1. 謂わばあなたが愛したものを探る行為。
  2. 忘れ物を探しに行くだけ。
  3. 眩暈がするほど遠くへ旅立つわけじゃないのに。

謂わばあなたが愛したものを探る行為。

 神様、俺の神様。その人はいつもひとりぼっちで、他を受け入れたこともなかった。
 実の所、自分は神様というものをよく理解していないし、そもそも宗教すら信じていないので、先生に宛てがう固有名詞を間違えているのかもしれない。それでも彼に魂を喰われても後悔しないくらいにはのめり込んでいた。
 友人には「宇宙人の観察日記と考えればおかしくはないだろう」と言われたが、揶揄が半分含まれていることだろう。もう半分が優しさでできているほど世界は優しくないし、苦痛は海のように八方に散らばっているもの、らしい。これは先生の受け売りだ。
 人はそれをイゾンという別称もつけるらしい。だが先生がいなくなっても生きていけるくらいには自分は酷薄で、人に執着したこともない。だから抜け殻になったところで、俺は薄情なので生きていく。何もなかったかのように布団から這い出して、欠伸を隠しもせずに歯を磨いて、冷たい牛乳をパックのまま飲み干して、何も変わらないと感嘆する朝を食べる。そうして抜け殻には新規の日常が詰め込まれいくのだ。
 美術部で絵を描いているくせに、移ろいゆく季節の歓びや寂しさに対して鈍感であったし、ずっと前に転校した友達のことも忘れてしまった。彼の名前は何と言ったか、あれほど遊んだのに顔すら思い起こせない。昨日食べたものすら忘れる始末だ。ああ、母さんが久し振りに作ってくれた肉じゃがコロッケを食べた。我が家は肉じゃがが余るとコロッケかカレーに変身して食卓に並ぶ。あとは他のおかずのことも、ご飯をどれくらい食べたかも覚えていない。如何に自分が惰性で生きているかが分かることだろう。
 だからいつか、先生のことも忘れる。園貞春という人が美しい何かに寄生される体質であることも、自分だけの神様だったことも、彼の秘密も、何もかも。一年が終われば先生と生徒という関係は解ける。つるつるとしたサテンのリボンで結ばれていたのなら、然程強くもない結び目だ。



 珍しく夢を見た。先生の夢だ。街全体が赤茶色に錆び付き、空は煤けた赤に燃えている。遠くのビル群が枯骨となり立ち並ぶ砂漠のど真ん中、或いは端っこにて園貞春の瓶詰めを発見した。美術室ほどの巨大な瓶に彼は詰め込まれていたのだ。
 自分の住まう町には何もなくて、学校も古びた抜け殻でしかない。人影もなく、光も影もない。寒くも暑くもなく、生死すら剥奪されたような地で彼だけは生きていた。
 そもそも夢と自覚していなくとも、突然砂漠が現れたことに対して驚きも悲嘆もしておらず、初めからその世界で生きてきたかのように闊歩し、分厚い硝子に抱かれた彼を発見してからは向こう側から観察するだけだった。ああ、先生がいる。日常的な感覚しかそこにはなく、夕暮れか朝焼けかも分からぬようなくすんだオレンジ色の中で、彼は青い水に浸かっている。透明度の高い青はサファイアのような煌めきを放ちながら、炎のように煌々と燃え盛っているようにも見えた。
「先生」
 瓶底に敷き詰められた砂は砂漠のものだろうか。そういえばこの砂は何でできているのだろう。地べたに座り込んで握ってみると、砂は丸みを帯びており、さらさらとしている。何かがぶつかり合っては細かく砕けた粒子らしい。漠然とだが、街の遺骨だと直感した。だって此処には誰もいないから。そうなれば自分は終末世界の生き残りで、先生は別世界の神様になってしまったのかもしれない。だって声が届きやしないのだ。先生と呼んで反応する人なんて彼しか残されていないのに、聞こえないのか、はたまた無視を決め込んだようにこちらを見ようとしない。そういえば元より自分への態度が乱暴で希薄な人だった。それに彼は自分を嫌っていた。
「先生はひとりなの。苦しくないの」
 伸びた髪がふよふよと水中に舞う。海というよりは液状の夜だった。彼が吐き出す泡は銀色に煌めいていて、ひとたび弾けると上部に小さな銀河が現れる。そこから金色の雨が降っては彼の足元に埋もれ、固形化し、やがては砂となった。砂は彼の二酸化炭素から生まれたのだとしたら、世界は彼のために崩壊してしまったのだろうか。
 憶測を飛び交わせるくらいしかすることがなかった。自分は瓶の前に胡座を掻いて砂を掬う。さらさらと肌触りのよい砂は自分の制服を覆ったが、服の皺に入り込む程度で留まることはない。
 退屈だった。自分の嘆息が世界を変える気配はないのだが、一分ごとに溜め息をついていないと時間を潰せそうにない。そんな時にふと、彼の手が忙しなく動いていることに気が付いた。
「先生、絵を描いてるの」
 美術室の顧問でありながら、彼が絵筆を握っているところに出会したことがない。青い液体で満たされた瓶の中で、伸びた髪やイーゼル、張りカンバスも重力を無視して浮かんでおり、彼は愛用のヴェルベットの椅子に腰掛けながら筆を走らせていた。
 水底みたいな右目と、宝石みたいな左目は一途にカンバスを見詰めていた。熱烈な視線はカンバスを灼き尽くすことはないが、代わりに淡いピンクの塗料がカンバスを染めていく。あれは花だ。点々と描写される色彩は桜樹だろうか。彼は花が――正確には美しいもの全般が――嫌いらしいから、きっと描き終わったら真ん中から突き破るのだろう。そう踏んでいたのに、彼は一面に桜の花を散らせるとイーゼルから外して、小鳥を空へ放つかのようにカンバスを手放した。桜のカンバスは瓶の上へとそっと旅立つ。行くあてもない絵たちは蓋のあたり、銀河の溜まり場に吸い込まれていく。
 荊、蔓花茄子、だるま琉金、阿古屋貝、黄水晶、燐灰石、紫水晶、蚕蛾、木通……その他にもたくさんの絵が曇天のように溜まっている。どれも彼に寄生したものたちだった。
 誰も彼をものにできなかった。共に生きることを許されず、余所者の手により剥離された死骸が彼の頭上で留まる。地に墜つことも許されないが、かといって蓋の外に出てしまえば、待つのは終末の砂漠。彼らはもう死んだのだから、此処には天国も地獄もないのだから、彼から離れてなお、何を求めたがるのかは知る由はない。
「先生は絵を描くのが好きなの」
 これほど無視されているのだから、次もどうせ答えはしないだろうと思っていた。だからアーモンド型の目がゆっくりとこちらを捉えた時に、自分の喉は吹き込む風で乾いてしまった。元々彼の眼孔に嵌め込まれた目玉も、彼の視力を奪った石の名残も、暗い穴の中で等しく瞬いている。夜空に打ち上げられた名もない星のように、海を仄かに照らす灯台のように、寝床をあたたかく染めるキャンドルのように、思わず諸手を差し伸べたくなるような眼差しを向けるものだから、彼の名が唇から滑り落ちていく。
「さだはるさん」
 子どもみたいに舌っ足らずな発音になっても、彼は嘲笑を唇に乗せることはない。唇を柔らかく結んだまま、パレットに黄色い絵の具を取り出した。それからビリジアンをほんの少し混ぜて、絵筆に擦り付ける。青い水に溶けることがない絵の具は瓶の内側を鮮やかに彩った。青い世界で生まれたマスタードイエロー。パセリを混ぜたような美味しそうな彩色は「りん」と形よく描いた。
 己の名に触れられる、瓶越しの自名はつるりと硬質で、鏡写しになった文字をそっとなぞると、日向で温められた雨水のようにぬるい。字に指を走らせたところで、迷路にはならないから迷うことはない。シンプルなひらがな二文字を人差し指で象ると、開かれる唇から銀色の泡がこぽりと洩れた。
『好きだったよ』
 長い髪が海藻のように揺れる。いや、実際に海藻が揺蕩っている。汚い海なんかで見掛ける緑のワカメみたいな海藻。あれはアオサ、といっただろうか。母さんがおにぎりに混ぜ込んでいたことがあったな、とどうでもいいことを思い出していた。
 ワカメなんて不名誉なあだ名をつけられた彼が海藻を生やすだなんて、プライドを傷付けられたどころじゃ済まされないだろうに、銀河から差す光に透けて、何の変哲もなかった海藻がステンドグラスのように荘厳に輝き、思わず目を見張った。触れてみたかったが、瓶の上部に登るには至難の技だったし、叩き壊せるものもない。拒むような厚い硝子の前では非力な子どもでしかなかった。
「今は美術も嫌いなんでしょ」
『また好きになるには、私は変わりすぎてしまったし』
「なんで嫌いになっちゃったの」
『そうしないと生きていけないから』
 くぐもった声は硝子に隔たれて、ますます聞き取りづらい。それでも声はかたちとなり音となり、自分へと手渡された。零れた音を掴むのは難しかったが、ぽそぽそと紡がれる音を拾うと、とてつもなく胸が締め付けられる。人魚の唄が実在するのだとしたら、きっとこんな風に悲しみで海面を嵩増しして溺れさせるに違いない。彼の声は目の奥をぎゅうと掴んで引っ張り上げるような切ない暴力性も持ち合わせていた。
『自分が思うほどには人は簡単に変われないし、普遍を望むほどに自分というものは簡単に変質してしまう。矛盾しているだろう、それが大人になるということだ。みんな子どものまま大人にさせられてしまったし、私も気付けばそんな大人になっている。遣る瀬ないが、認めるしかない』
 りんという字は彼の筆により形を失った。いや、進化を遂げている。マスタードイエローが字の周りを取り囲み、花びらを一枚ずつつけている。大輪の花に変貌するまでに時間は掛からず、あっという間に見慣れた輪郭を生み出した。
(向日葵……)
 自分は花に関心がないもので、綺麗だとか美しいだとかは特別思うことはない。フラワーアレンジメントを目にすれば凄いと思いながらも通りすがる程度の関心しかなかった。それでも瓶の内側に咲いた向日葵は、赤錆色をした街を彩るには充分で、空に打ち上げたら太陽になりそうな、そんな生き生きとした姿を見せていた。
 これを描いたのは子どもで在りたかった先生なのだろうか。だからそんなにも固く唇を結んで泣くのを堪えているような、寂しい顔をしているのか。子ども心を託すような柔らかい手つきで筆を走らせるのか。自分には分からなかった。
「先生は……俺のことも嫌いなんでしょ」
 ああ、何を言っているんだ。これでは自分が構ってちゃんみたいじゃないか。相手の虚を突いたようで、その実突いたのは己のゼラチンみたいにやわらかな場所だった。
 勝手に神様と呼ぶだけで、自分が彼が好きか嫌いかなど考えもしなかった。当たり前のように美術室にいるか、準備室で居眠りして、部活や授業で顔を合わせるだけの人。彼を部活以外で慕う素振りなんて一切見せたことがない。自分はどうしたって子どもだし仲間外れにされたくないし、卑怯だから。彼が最初から自分を嫌っているのはそれが理由なのかもしれない。
 彼が顔を歪めて、いつものように眉間に皺を刻むのは当然のことだった。眉尻が下がり、目の表面にうっすらと水の膜が張ったことを除けば。(彼が棲まうのは水中なので後者はもしかすると目の錯覚なのかもしれない)
『そうだよ。だってお前、私に死んでほしいんだろ』
「そんなことない。それにアンタが」
『…………私はそんなこと、一言も言った覚えはないけど』
 先生は絵の具を取り出すと、濃紺をパレットに絞り出した。夜や深海より深い、或いは昏い色だった。筆に取って空中をなぞれば、水はますます色を深めていく。夜より昏く、海より深い。その絵の具だけは彼が棲まう水によく溶けた。
 彼の頭上で花咲き生きる絵画たちは濃紺に埋もれていく。染まれば最後、浮力を失って墜落していく。カンバスの角からさらりと砂粒と化していき、絵の中で息づいていた者たちも並んで砕けていく。最初からいなかったように霧散した後、雪として足元へと降り積もり、硝子の内側はゆっくりと霜を張っていく。彼の泡もまた結晶となって足元を凍てつかせていた。
『私が誰よりも生きたいこと、お前には知ってほしかったのに』
「先生、待ってよ先生」
 濃紺は銀河を、絵画を、向日葵をも塗り潰した。そして彼に生えた海藻も、軈ては彼の突端を塗り替えていく。全てはひとつに、すべては無に。彼の指先が透けていくのに、自分は無力で硝子の壁すら殴れないでいた。
 震える声を振り絞っても彼の魂は揺さぶれない。肩まで伸びた髪も、真っ白なシャツも溶けていく。道具一式や愛用しているヴェルベットの椅子も、絵の具に溶かされているのか水に溶けているのか、それでも消え行く速度だけは止めようとしない。
『……私はね、好きなものを全て捨ててでも生きたいんだ』
 彼の指先から絵筆が離れると、鳥のように勢い良く浮遊し、頭上で弾けていく。花火みたいに鮮やかな閃光を迸らせて、枝のような指先をこちらへと掲げた。硝子も不透明度を増すばかりで、彼のかたちはどんどん失われていく。
 土と月光を混ぜたような不健康な肌も、肉付きの悪い指も、真夜中に歌う梟みたいな低い声も消えていく。これが死なのだと悟った。生きたい彼が死んでいく。なのに止められない。死んでほしいと願っていたかもしれない自分に、どうして彼を止められるだろうか。
 それに、神様でもなんでもない彼のことを何一つ知らないで、「死なないで」と止められるほど自分は彼を愛していない。神様を玩具として弄んでいた事実が全身の筋肉を硬直させている。ああそうか、彼を一切慕っていなかったのか。手ずから与えられた事実ひとつに膝を落とし、粉雪みたいな砂を握り潰すことしかできない。その間にも、彼は。
「生きたかったんだよ」
 明瞭な意志と共に浮かぶそれは、海面に映された月のように穏やかで、歌う波音のように静々とした声だった。
「…………先生!!」
 濃紺が彼の微笑すら飲み込むと、瓶は海と夜を詰め込んだだけの容れ物となり、物言わなくなった。何も芽吹かず、生まれず、泡ひとつ零しやしない。昼も夜もない砂漠の端っこで、瓶もまた終末のオブジェとして鎮座するに至る。
 それから風が一吹きするまでに膨大な沈黙に打ちひしがれていた。何もしなかった自分を嘲笑うように瓶は黝い艶を出し、鏡のように映された自分は見たことがないくらいに憔悴しきっていた。また一握りの砂を掴むと、瓶へ力なく投げ付けたが、やはり瓶はうんともすんとも言わず、寡黙に佇んでいる。
 俺は一体、何を殺してしまったのだろうか。あの人を殺したのは俺なのだろうか。



「……先生、先生」
 自分の声の悲痛さに驚いた。そして妙に鮮明な音に目を開くと、飛び込んだのは薄手のカーテンから洩れる光だった。見慣れた光に訳も分からず辺りを見渡すと、そこが自分の部屋であることに気付いた。木目の古びた天井から視線を移すと、UFOキャッチャーの景品で手に入れた怪獣のぬいぐるみだとか、積み重なった漫画雑誌だとか、枕元に充電されたスマートフォンが飛び込んでくる。
 そういえばバイトから帰って来てからすぐに布団に飛び込んだのを思い出した。羽織ったままの蛍光イエローのウインドブレーカーが目に痛い。スマートフォンの電源ボタンを押すと、時刻は十時を差している。休日を迎えてまずまずの起床時間だ。世間では今日から十連休という異例の事態だが、自分は友人と遊びに行くのと朝刊のバイト、それから母親と祖母とで外食に行く予定しかなかった。彼女は相変わらずおらず、どうせ退屈な連休を貪るだけの十日間になりそうだ、と眠い目を擦った。
「…………先生」
 瓶詰めになって消えた先生。あれは正しく夢で敷かなかったが、消えていく彼は妙にリアリティがあった。それは奇妙な体質なせいだと信じたい。人が儚い存在だなんてロマンは古いしダサすぎる。どうしても鼻で笑って忘れたかったのに、最後に見た彼の微笑みが脳裏にこびり付いて、剥がし取るには指ではどうにもならなそうだ。
『生きたかったんだよ』
 夢に暗示が込められているというのなら、自分が見た夢とはなんだったのだろう。罪悪感? それともそれ以外の何か? 分からない、本当はこれっぽっちも分からないし知らなかった。自分のことも、先生のことも。先生に望むことすら、何も。
「……先生って、海とか好きかな」
 指は思うよりも早くスマートフォンを弄り、連絡先を開いていた。さ行をスワイプし、一番下に配置された名前をタップした。『園貞春』、自分が唯一連絡先に追加した教師の名前だった。連絡先を交換した、というよりは半ば強引に連絡先をもぎ取ったといった方が正しいが。
 耳に宛てがい、コール音が途切れるのを期待した。だけど留守番電話サービスに直結するだろうという目論見は外れなかったし、きっと電話は繋がらないという確信はあった。どうせ彼は自分を嫌っているだろうし、彼が自分の連絡先を登録したとは限らないのだから。
 三回。三回挑戦して駄目なら諦めようと決めていた。駄目ならこの夢のこともきっぱり忘れられそうな気がしていたのに、三回目のコールは意外とすんなり繋がってしまった。
『…………どちら様ですか』
 そもそも、どうして彼に電話をしたかったのか、何故彼が海を好きかどうかなど勘繰ったのか、それすらよく分からない。だが彼のあからさまに怪訝そうな声に少しだけ泣きそうになったのは、誰も知らない。
 ただ、この日電話をしなければ、夢の続きは訪れなかった。それだけははっきりと言えるのだ。
 

忘れ物を探しに行くだけ。



「連絡先でいいですよ」
 何を言われているのかさっぱりだった。部活終了後に通せんぼするかのように扉前を塞いで、手を差し出す生徒が何を求めているか。部活からの開放感に浸っていた自分には不明だった。
 何故唐突に連絡先を求められたのだろう。そもそもはいどうぞ、なんて簡単に手渡す気もないし、動機がはっきりするまでは絶対に動いてやらないと決めた。急ぐ用事もないし、一度くらいは相手の負け面を拝んでやりたかったのだと思う。
 職員室に戻れないなら寝ればいいじゃないか。Uターンをして椅子の元へ戻ろうとすると、咄嗟に手首を掴まれてしまって身動きが取れない。しかも相手はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべているものだから、胃のあたりでぐるぐると不快感が旋回する。元から得体の知れない少年であったが、ここまでして何を求めるのだろう。それに無駄に力が強いせいで手首が痛い。
「おい、離せ。何だっていうんだ」
「先生の連絡先を教えてほしいだけだって」
「嫌だ、絶対お前にだけは教えない」
「じゃあ帰さない」
 まるで幼子同士の喧嘩だった。帰れないなら帰れないなりにやりようがあるし、どうせ上司から口煩く言われるのも慣れている。困るのはこいつだろう、と手首を掴まれたまま床に座り込むと、引き摺られるようにしてそいつも座った。と言うよりは半ば転び掛けて上手く着地しただけだが。
 青島燐という少年は私の秘密を知る唯一の人物だ。私という人間らとある日から植物や鉱物、動物の一部といったものに寄生され、体の至る部分を侵食される体質となってしまったのだが、運悪く青島に目撃されてからというものの、彼が自分の居場所に住み着いてしまった。
 寄生されると、自分が望むままに寄生を剥ぎ取ってくれる。スキンシップが過剰なのは気に食わなかったが、処理も手当てもしてくれるので楽だった。何より彼はプライベートに介入してこない。それが救いであったのに、恐ろしいことに少年は『神様』や『美術部顧問』の自分ではなく『園貞春』に興味を指し示し始めている。それが事実なのだとしたら、どうにかして止めさせたかった。
 現にプライベートを知る者なんてタカが知れているし、スマートフォンの連絡帳アプリには必要最低限の情報しか記載されていない。友なんていないし、家族もすっかりいなくなってしまったので、片手で数えるくらいで済んでいたのに。自分の容量を少しでもこいつに埋められるのは嫌だ。とても、嫌だ。
「…………何が目的だ? どうせ誰かに私の連絡先でも売るんだろう?」
「うわ、俺ってそんなに信用ないんですね」
「ないな」
「えー……」
 特段困った風でもないくせに、わざと眉を下げておどける様は自分の神経を逆撫でする。それに手首は握られたままだったので、尚更気に食わない。生暖かくて赤みがかった白い手が自分の肌に重なれば、色合いの違う皮膚はただの異物でしかなかった。腐葉土に降り積もる雪にすらなれないくせに、青島は頑なに手を解こうとしない。
 諦めの悪い少年はポケットからスマートフォンを取り出すと、何やら操作し始めた。一分も経たない内に如何にもRPG風の音楽が流れ始め、タップするとピコンと軽快な音が弾けた。どうやら青島も美術室に居座るらしい。ゲームを咎めるどころか、夢中になったところを突き飛ばして逃げる算段を組んでいたので、隙が生まれるまで彼のつむじなり、ディスプレイを眺めることにした。
 ゲームには明るくないが、イラストの配色は均衡が取れている、と斜めの見方をしてしまうのは恐らく職業病だ。そんな自分に嫌気が差したので手を繋がれたまま床へと転がり、彼が放り出していたスクールバッグを枕代わりにした。
 どうせ少年が先に折れるだろう。自分は人よりも辛抱強い自信があった。噛み殺せなかった眠気に身を任せて目を閉じると、ピンぼけした視界の先で花が揺れた気がした。薄紫の奇妙な造形の花。アレに取り憑かれたことを、青島は現在も知る術はない。何故なら私自身、あの花を咲かせたことがないのだし。
 カチコチ、喧しい音がする。ゲームのBGMを切り裂くように、秒針は今日も自分の鼓膜を苛んでいく。精神的病とも取れる密やかな寄生は、自分の心の端っこを噛んでその時を待ち侘びていた。


 海は広いな大きいな、なんて歌がある。一面の碧に抱かれてしまうと、言葉も表現などのありったけのものを奪われて連れ去られる。そこに残ったのは自分の抜け殻だけで、呆然と砂浜に突き刺さっている。
 空に憧れる者がいるなら、自分は海に憧憬を抱こう。ところで海洋生物というものは謎が解き明かされたり、ほぼ完璧な姿で発見された個体は僅か数パーセントにしか満たないらしい。
 未知ばかりが浮遊する碧。孔雀の羽みたいにぎらついて、魂に求愛をする蒼。そんな海にいつか埋もれるのが夢だ。自分とて未知の塊であるし、体液は海ほどの塩分濃度だ。還れるものなら還ってみたい。包んでくれるのなら人肌ほどの水温はなくていい、一瞬で心臓が止まるほどの冷たさがあれば、満足だ。
 地の果てすら臨めぬ砂浜はだだっ広く、砂漠のように後方を覆っている。前方に広がる大海原だけが音を紡いでおり、そこには生命の息吹も季節の移ろいも感じられない。自分と海だけが地球に取り残されたかのような空虚だけが、腹の下に留まっていた。
 母なる海と言われるくらいだから、水底は壮大な子宮だ。男である自分には子袋はなく、用もなく垂れ下がる男性器だけがスラックスの下で眠っている。窮屈な人間社会では女が下に見られ、蔑まれ、時に特別扱いされる。優劣のための女性性は吐き気を催すだけだ。
 女になってもろくな目に遭わないと知りつつも、神秘的な臓器には多少の憧れがあったのかもしれない。受け止めて産み出す臓器。だが自分にはそれがない。それどころか、私は。
「………………――」
(私は男のままで良いけれど、あなたを迎え入れる器官が欲しかったのだろうね)
「…………――」
 愛しい音が潮風と独特の腥い匂いにまみれて届けられた。淡い香水と共に手紙に込められていたらさぞかしロマンティックであっただろう声音は、耳の裏を擽るようにして注ぎ込まれ、思わず後ろを振り返った。
 愛しい声がする。私はあの人と生きられる、そんな期待と歓びが胸いっぱいに増殖して、鼓動が海原に溶けてけたたましく鳴り響く。逢いたい、逢いたい、私を呼ぶあの人に。私が愛したあの人に。
「    」
 なのに私はあの人の名前が思い出せない。振り向けば赤い砂漠が背後に広がるだけで、人の形も影もなく、Yシャツの裾を引っ張るような風もない。何もなかった。私は誰を探しているのだろう。私がどうして誰かに恋愛感情を抱いているのだ。恋は人でなしがするものだ、私は落ちぶれる前にそんなものを捨てたはずなのに。
 ……いつ捨てた? 私がいつ恋をしようとした? あの人とは誰だ、どうして私はあの声の持ち主を探している、どうして私は知った風に振り向いて、手で空を切ってしまうんだろう。
「先生」
「…………っ」
 その呼び名だけは聞きたくなかった。世界一大嫌いな人間に認知されるくらいなら、私はさっさと生きるのを止めたって良かった。人魚姫みたいに、海底に沈んでぶくぶくと泡になって、誰も私を知らずに忘れきって、私は私じゃなくなって、真っ暗な海にひとりぼっちで分解される。でも何にも混ざり合えないことも知っていた。
 どうせ還る場所はないのだから。嘲笑するように薄紫の花はチクタク回る。海にも沈めぬ私は何処へ墜ちるというのだろう。
「貞春さん」
「…………お前なんかが私を呼ぶな」
「だって、そのうち先生は先生じゃなくなるんでしょう」
「私はお前の先生なんかじゃ」
「じゃああなたは誰なの?」
 砂漠の表面みたいなマスタードイエローは自分の靴の出っ張りや凹みにうっすら掛かるだけで、猫の毛みたいに揺れる色は何処にもない。世界の真理のように響く声だけが、乱れ咲く孔雀色の波を揺らす。
 ざぷんざぷん、と絶え間なく揺れる波間で、私は探し物すら思い出せず、伸びた髪を思いきり掻き乱して叫ぶしかなかった。私は私、誰でもないのに、青島の声が口腔に滑り込んで私を窒息させようとする。
 すっかり伸びた髪には例の花が絡み付いていた。雌しべがくるくると回る。先が尖って、金属特有の鈍いぎらつきを放って、中心で踊っている。髪はもうそろそろ切り落とさなければ。誰にも触れられないように、青島に引っ張られないように、あの人にだけ触れてもらえるように。
 腥い匂いがする。生命が生まれて死ぬような磯臭さではなく、錆が腐乱したようなツンとする悪臭だ。鋭利な凶器と化した雌しべが明確な意志を持って私の手のひらを貫いた時、広げられた羽みたいに煌びやかな海が一瞬にしてとろりとした朱に染まっていく。此処が地獄だと悟った時、私は一切を諦めてしまいたかった。
 生きることも、思い出すことも、想うことも、何もかも。
「燐、私はね。私は、本当は誰でもないんだよ」
 私でいることすら諦めたくなるほど、絶望的に大人になってしまった。
「そう、ずっとずっと前に、私は――――」



「――――先生、先生ってば。起きて」
「…………んん、ん。何だうるさい……」
「おはよ。外はもう真っ暗だよ」
「………………」
 青島らしい、発音がはっきりとした声がしたかと思うと、血の沼みたいな海も、果てしない砂浜も綺麗さっぱり消え失せていた。広がるのは美術室の床で、伸びた髪には花の面影もない。うねる髪が四方八方に散らばるだけで、胃酸が込み上げるような悪臭も漂っていなかった。勿論手のひらには穴も開いていない。
 去年もこうして床に突っ伏していた気がする。小さく欠伸をしながら忙しなく首を回すと、教室の外はうっすらと薄紫の帳を降ろしている。あの花のようだ、と軽い嫌悪感に目蓋を痙攣させると、ゆっくりと立ち上がろうと床に足の裏を貼り付けた。だが膝に上手く力が入らない。何かに制されている。引力のような何かに。その発信源が青島の手首であることを突き止めると、ぶんと強く腕を振り回して振り払った。
「ちぇ、乱暴なの」
「それよりも私が寝落ちてもそうやっていることの方が粗暴じゃないのか?」
「え? あー……そうね」
 あっさりと手が離されても、手首の内側はうっすらと赤みを帯びており、自分のものではない手汗がこびりついて、てかてかしている。服で即座に拭って今度こそ立ち上がったが、少年は腰を上げる素振りを見せずにずっとスマートフォンを弄っている。学生はなんて気楽なものか。仕事と学業の落差を思い知らされ、肩も頭も重かった。ついでに足も。今日は早く帰宅できないので、それだけでも気が重いというのに。
 こんな奴は学校に閉じ込められて、後から警備員にこっぴどく叱られてしまえばいいんだ。貧乏揺すりの如く小刻みに揺れる膝を蹴ってやって美術室を出ようとすると「あ、そういえば」と明朗な声がキンと響いた。
「あのね。悪いんですけど勝手に先生のアドレスを貰いました。俺のも入れたから、何かあったら連絡ください」
 マイクのハウリングくらいに耳障りな響きに耳を押さえていたが、一度流して、それからふと、良からぬ発言を受けた気がしてじとりと青島を睨むと、本人はへらりと破顔するに留まった。こうして見れば一少年の屈託のない笑顔に思えるが、彼の清々しさはいっそ悪巧みする蛇や猫そのものだ。嫌な予感しかしない。
「待て、今何と言った」
「だからアドレス交換しときましたよって」
「何が交換だ、どう聞いてもプライバシー侵害だろ。訴えるぞ」
「大丈夫、個人情報は売らないですよ。どっちかと言うと買いたいくらい」
 気持ち悪い。子どもの悪知恵ほど狡猾なものはないと思っていたが、青島となると卑しさが格段に違う。自分の幼さも、成熟しつつある思考も人一倍理解して、それをどう使えば人が動くかを予測できる人間だ。自分の思い過ごしだろうが、判断が適切かとか、そんなものは関係ない。要は私が彼を疎ましく思っている時点で、彼の人格に無関心だということだ。
 どうせ未だに自分の陰口を生徒たちと共有しているくせに。絶対に虐める側にもならないが、虐められる側にもならないような、立ち回りの上手い奴。何故こんな子どもに振り回されなければならない。ここ二年以上、胃腸の調子が芳しくないのはこいつの所為だろうか。人の所為にすればストレスは軽減される。だったら事実がどうであれ、この少年を絶対悪の枠から外せない。
「……なんてね。でも変なことには使いませんから。約束破ったら屋上から飛び降りてもいいし」
「安い命だな。お前の母親が憐れだろう」
「はは、その通りだ……。じゃあ今のはなしにします」
 安すぎる。だから嫌いだ。露骨に伝わるように舌打ちをしてやったが、青島はやはりへらりと頬を緩ませるだけだった。個人情報だとかプライバシーとかは心底どうでも良くて、嫌なのは悪魔みたいな少年に好き勝手されて翻弄されることだ。
 振り向きもせずに美術室を出るが、青島は後を追わない。その代わりに声を張り上げて、わざとらしく語り掛けるだけだった。
「俺が卒業する前に何処かに行きましょ。美術部合宿ってことで」
 ふたりで旅行? 馬鹿らしい。自分が完全に立ち去っていないことを良いことに、青島は語り続ける。しかし真に馬鹿らしいのは自分自身だった。靴底を床から離さない限り足音は生まれやしない。まるで自分が此処に居るから、わざとらしく構ってほしいと言わんばかりだ。
 ぴったりと扉に背中を付けると、声は真後ろから投げ掛けられる。青島が背中合わせにいるような違和感が後方に張り付いていた。冷たくもないが暖かくもない、無機質な白塗りの扉。塗料が所々剥げて経年とみずぼらしさを感じさせる扉は影すら取り込んで、不気味な闇を内包した廊下へと放り出してはくれなかった。レモン色の光が心もとなくて、革靴は甘く照ってはくれない。
「先生と馬鹿らしいことをしたいって、なんで分かってくれないかな」
 毎回馬鹿らしいことをしているというのに。この間は鹿の角が生えた気がする。あれはへし折って終わりだったが、角の片割れを鋸でいそいそと切り分ける青島には流石に失笑するしかなかった。
 そうやって寄生物を剥がしたり剥がされたりの関係がだらだらと続いてきたが、折り返し地点も過ぎた。変わったことと言えば自分の髪が春を迎えようとしても長いままであることと、市内の展覧会で青島の作品が入賞したことくらいだろうか。進展を望まれる度に自分は後退したくなるが、進んだ道の後ろには帰り道なんてない。人生は一方通行だ。
 無駄なことをしていないで進路でも決めておけばいいのに、青島は未だに進路が決まっていないらしい。青島の担任である外崎が「真面目なんだか不真面目なんだかよく分からんやつですよ。あいつは猫みたいに掴みどころがないし」ぼやいていた気がするが、聞き間違いかもしれない。連日の変哲のない湿気たニュースと同じくらいにくだらないことだった。
「ま、そのうち連絡しますよ。だから俺の連絡先、消さないでね!」
 青島はそれきり捲し立てることはしなかった。自分がその場を発っただけだが、少ししてから扉が軋む音が聞こえたので、彼も諦めて帰ったのだろう。あまりに関心がなかったせいか、有無も言わさずに交換させられた連絡先を消すことも、そもそも交換したことすら忘れていた。
 その間に虫が一斉に起き出して土から這い出し、咲いていた桜も散って、新緑が吹き出して来ても思い出すことすらなく、日々を惰性的に消費し続ける。ジャケットを羽織らなくとも出歩けるようになる頃まで、自分のスマートフォンも沈黙を貫いている。そう、今日までは。



「…………くそ、誰だ」
 けたたましいメロディに重なってブブ、ブブ、と蝿の羽音を拡張したようなものがテーブルの上で鳴いている。蜂でも入り込んだだろうか、と特に危機感もなく一点を凝視する。寝ぼけ眼の先には黒いスマートフォンが通知ランプを明滅させていた。
 灯台のようにチカチカと光るランプに目を擦りながら、起き上がってスマートフォンを拾った。ついでに渇いた喉を潤すべく、放置したままのミネラルウォーターのボトルを手に取り、ぬるい水を流し込んでから電源ボタンを押す。
 人との交流を持たないスマートフォンの所為で、自宅でマナーモードに切り替えるのを失念していたようだ。ディスプレイには午前十時を示すデジタル時計と二件の不在通知が通知されていた。だが電話アプリを開いたところで見覚えのない番号が表示されているだけだ。休日に自分を誘う知り合いなんていないし、どうせ間違い電話だろうと、相手を哀れんでテーブルに置こうとした時に、派手な着信音が例の番号のみを表示して鳴り出す。
 いい加減間違いに気付けというのに。他者に起こされたのもあり、苛立ちを募らせながら応答ボタンを押し、一言文句を言うために、しかし最初はなるべく声のトーンを落とし、電話に応じることにした。
「………………どちら様ですか」
『あっ、先生おはよう! 起きてた?』
「は? だからどちら様と」
『俺オレ! 俺だって』
 寝起きで早速オレオレ詐欺に出会すとは、自分も相当不運なものだ。腹の虫がおさまらぬ中で舌打ちをすると、何処かで聞いたような朗らかな声がくすくすと笑い出している。そういえば声の持ち主は自分を先生とも呼んだ。
「……青島か」
『ああうん、青島ですけど、それより燐って呼んでって言ったでしょ』
「やかましいな……私は寝てたんだぞ」
『あれっ、先生って結構寝坊助なんだね。でも俺も今起きたから一緒だ』
 どうやら自分と違って寝起きは良いらしい。あとで着信拒否にしてやろう。眠っていた旨を伝えたせいか、青島のトーンは若干落ちて声が潜められた。
 どうしていけ好かぬ少年の声で目覚める必要があったのか。若干夢でもうざったく絡まれた気もするが、夢を見すぎたようで疲労感が首から腰に掛けてのしかかる。まだ眠れるほどの有り余った眠気を息に乗せて吐き出して、吸い込んで、そのまま枕へと頭を乗せると、自分が応えずとも青島はあれやこれやと話し掛ける。
 今日は天気が良いとか、近所の野良猫の話とか、ちょうど始まった大型連休のこととか、ついでに新聞を取らないかといった勧誘話とか、実に他愛のない内容が連ねられている。余程暇を持て余しているのだろう。いい気味だと嫌味のひとつも零したくなったが、思えば暇潰しに付き合っているのは他ならぬ自分であることに気付き、無言を貫く結果となった。
 それから話し飽きたのか、青島は「さだはるさん」と舌っ足らずに呼び掛ける。教師をそう呼ぶ生徒も、プライベートで貞春と呼ぶのもこれ以外にいない。時々自分が誰だか自覚できなくなるので、皮肉ではあるが、こいつが自分を呼び戻す唯一の人物だ。
『ね、貞春さん』
「聞いてる。何だ」
『連休中、一日でいいから何処かに行きましょ。合宿名目で。あっ、絵は描く気ありますから。たまには色鉛筆も良いでしょ。色鉛筆もやる気を出せば凄いのが描けるらしいし。だからさ』
 あくまで部活としてであり、遊びに行くのではないと主張する青島に対し、どんな手を使ってでも断ってやろうと思った。遮光カーテンを捲れば忌々しい青空が窓硝子を汚していたし、夏の晴れた日ならまだしも、春の匂いを含んだままの日向に飛び込むことを想像するだけで皮膚が溶けそうだ。
 しかも何故この少年とふたりなのだろう。どうたしこの子どもは自分の傍に行きたがるのか。数年ほど付き合っても腹の内を読めないのは、彼が誰よりも子どもらしい所為だ。薄く開いたカーテンをきっちりと閉めて、今に断りの文句を言ってやろうとした時に、カチリと耳の奥で何かが歪む。
(……ああ、まただ)
 何処に巣食っているかも分からない花が、見覚えのない時間を刻む。カチコチ、チクタク。雌しべの針がぐるぐると回って、青島の声すら霞むほどに大きくなる。それから誰かの声がノイズ混じりに割り込んできて、囁くのだ。
 ――貞春、と。遠い遠い、永遠より彼方向こうの海から誰かが、懐かしい色を含んで呼び掛けている。それなのに私は声の持ち主に一切覚えがない。
『先生、どうせ嫌って言うのは分かってるからさっさと……』
「うみ」
『ああ海ね。じゃあ連休中は予定はなし………………え? 今なんて』
「海。一日だけ、海になら付き合ってやってもいい」
『えっ嘘、マジ。やった! 海ね、わかった! じゃあ○○海岸とか……そうだなぁ電車であそこに行っても良いよなぁ』
 ひとりはしゃぐ青島を余所に、空いた手はもう一度カーテンを掴んでいた。そっと開けば変わらず広がる青天井。空は好きじゃないが、海なら。……はて、海なんて好きだっただろうか。自分が? 相手が? 相手とは、一体誰のことだ?
 最近どうにも変な夢ばかりを見る。どうせ何しても疲弊しきるくらいなら、たまには外にでも出よう。そう決めたのは一生に一度の多大なる気紛れだったのかもしれない。青島には期待していない。だがここの所自分に巣食う何かの正体だけは掴みたいというのが本心だった。
 青島と行ったところでろくなことにならないだろう。それでも思い出せるなら思い出してみたかった。声の主のこと、花の名前のこと、それから青島と出逢う前のこと。私の中で木の皮のように剥がれて欠落するものが多い。ストレスが原因で思い出さないようにしているだけなのだろうが。それでも、私の夢は同じものばかり。誰かに呼ばれる、海に放り出される、たったそれだけの夢しか夜に詰め込まれていないから。
 私は、私で良いのだろうか。私は私で間違いないのだろうか。砂糖を振り掛けたような水面みたいに淡い水色を塗りたくった空から逃れるようにカーテンを閉めると、その日は二度とカーテンを開くことはなかった。
 時々、自分を呼ぶ声が青島か、または別の者か分からなくなる。それでもたまに「園先生」と呼ばれて、今日も私は私なのだと、身の丈に合わぬ安堵を胸に抱き、青島との通話を切った。まだ何か言っていた気がしたが、それよりも襲い来る眠気に身を預けたくなって、全てを奪われるように、ものの数分で眠りに就く。それから青島から何通かメールが届いていたが、開いたのは半日も後のことだった。



 また誰かが呼んでいる。愛しい貴方のことが思い出せないから、だからこう呼ぶことにしよう。『神様』、と。

眩暈がするほど遠くへ旅立つわけじゃないのに。



 朝の低い光はレモンやバナナみたいな淡い色をして、しかし地上を目覚めさせるほどには強烈だ。連休前半に差し掛かったというのに、人が疎らなのは朝六時を迎えたばかりだからだろう。街外れの小さな駅と大型連休は無関係と言わんばかりの閑静な空気の中、その人は佇んでいた。
 始発を待つプラットホームの奥にはお馴染みの白シャツと薄手のカーディガンを羽織るその人がホームの奥でぽつんと突っ立っている。学校でよく見る出で立ちのはずなのに、普段と様子が違うように感じられたのは彼の格好のせいだろう。
 学校では暗い色ばかりを身に付ける人なのに、その日は珍しく明るい色調だ。夏物のニットカーディガンはセルリアンブルーで、アイスブルーの細身のジーンズを合わせていた。それからナチュラルベージュの麦わらで編まれた中折れハットを被り、イエローとホワイトとネイビーのトリコロールカラーを揃えたスリーベルトのサンダルを履き、黒くて至ってシンプルなリュックを背負っていた。
(うわ、先生っぽくない)
 普段出歩かないと豪語していたが、考えてみれば彼は三十代前半で教師の中では大分若手だ。老け込んだ顔と地味な色合いのファッションばかりを追っていたせいか、その辺を歩く洒落た人と変わらぬ格好をされて、何だかむず痒い。彼が普通の人に見えるのがつまらなくて嫌だと言ったら、彼は間違いなくドタキャンして家に帰るだろうから、余計なことは言わないと決めた。
 それ以前に彼の傍に歩み寄れないでいた。数十歩ほど歩けばいつものように先生、と気兼ねなく声を掛けられるなら既にしている。だが足が動かないし、視線も彼に釘付けになった以上はどうしようもできない。
(知らない人みたいだ)
 ホームの階段下から彼を覗き見すればするほど、彼があの園貞春なのかという疑念がぽこぽこ浮かんで、しまいには彼のそっくりさんに思えてくる。ぼんやりと突っ立って、始発の電車が来る方向をじっと眺めている姿からは想像もつかない。あの人があらゆるものに寄生される人だなんて。寄生を剥がした痕も、寄生物の名残も、それから、
(いや、あれのことだけは突っ込まないって決めたんだから)
 彼が自分の神様で居続けるためには、見て見ぬ振りをする必要もある。例えば顔の、顎の下の境目のこととか。忘れたわけではないけれど、無理矢理忘れようとして、だけど気にすればするほど夢にまで出てしまうもので。
 そんなことをしたいわけじゃない。正体や真実を暴きたいわけでもない。ただ彼との時間が欲しかったのだから、あのことは忘れなければ。
 彼が夢の中で儚く消えたのが余程ショックだった自分にとって、どんな姿でも彼がそこにいることに安堵すべきなのだ。両手で頬を思い切り叩き、喝を入れて一歩踏み出すことにした。
「先生、おはよー」
 人違いならどうしよう、だなんて自分らしくもなく心臓をどきどきさせながら手を振ると、帽子のつば下からは鬱陶しげに目を細める彼がいた。顔の左側を覆う、うっすらとした傷痕も、人形みたいに色を含んだ左目も、何より眉根をぎゅっと寄せるのも間違いなく園貞春そのものだった。
「…………朝から声がでかい」
「ごめんごめん。先生、今日の格好良いね。オシャレ」
「…………帰って着替えて来ていいか」
「いやいいよ! もうちょっとで始発来ちゃうし」
「サンダルだけでも変えたい」
 彼は忌々しそうに自分の足とこちらの足を見比べて、嫌がらせのように大きく嘆息した。理由は分かっている。例のトリコロールのサンダルというものは実は自分も今履いている物だ。しかも同色を選んでいるとは思いもしなかった。
 お互いの素足には青と白と黄色の真新しい革ベルトがよく映えていて、へらりと笑って取り繕うとする自分と、ゴミを見るような目でこちらを見下ろす彼が、世界の異物のようにホームの光に照らされていた。
 始発列車が到着するアナウンスが流れる中、彼の左目は光に透けて、飴玉のようにぴかぴかと光っている。


 この日は天気は良いものの、気温が低いせいか上着を着用する人が多かった。自分はレモンが描かれた長袖の柄シャツをしていたが、これでも肌寒いくらいだ。先生に至ってはカーディガンの上に厚手のストールを肩から掛けている。車窓と睨めっこするだけの彼と向かい合わせで座り、大きなリュックから弁当を取り出した。
「俺、朝ごはん食べますね」
「勝手にしてくれ」
「先生も食べるでしょ? だって先生、朝に弱いみたいだし。食べてないんじゃないかと思って持って来ましたよ」
 新聞配達をしているせいか朝には強い。多少寝なくとも具合は悪くならないので、バイトが終わってすぐに弁当を拵えた。リュックの三分の一を占めるランチバッグから朝食の弁当を取り出すと、窓と向き合ってばかりの彼がようやくこちらを向いた。
 母親が昨晩作ってくれた唐揚げの残りや、作り置きしている味付け玉子、茹でただけの人参やブロッコリーを透明なフードパックにぎっしりと詰め込み、拳ほどの巨大なおにぎりも握った。しかも昼食用の弁当もあるし、更には彼の分も作ってある。ついでにチョコレートなどの甘い物も忍ばせているが、それは午後になってからのお楽しみだ。
 先生に生活能力がないことは何となくだが把握していた。断られるのを前提に、ずいと朝食一式を手渡すと彼は素直に受け取る。特に可愛くもなく、見栄えも彩りも完璧とは言えないフードパックと、でか過ぎるおにぎりを見比べている。眼球がきょろきょろと左右に動き、数度往復してから、彼がぽそりと何かを呟いた。しかしガタガタと揺れる車内だ。彼の声がよく聞き取れなかった。
「え、何? ごめんね聞こえなかった」
「箸をくれ」
「あ、あー……! はいどうぞ」
「ああ。いただきます」
 ちゃんといただきますと言うんだ。割り箸を貰ってしっかりと手を合わせる姿に、改めて彼のプライベートと向き合っていることに気が付いた。彼が甘い物が好きという以外、昼食はちゃんと食べているか、夜は何を食べているのか、酒は飲むのか、など聞いたことがない。聞いても答えなさそうだし、聞く気もなかった。
 割り箸を割って、彼が真っ先に摘んだのは唐揚げだった。母は毎日多忙で料理をする暇がない人であるが、たまの休みには腕を奮ってたくさんのおかずを用意してくれる。中でも肉料理はどれも絶品だった。惣菜屋や料理屋に比べたら平凡な味と見た目でしかないが、母子家庭の自分からしたら、母の手料理はそれをも超える味だ。だから先生が唐揚げを黙々と頬張ってくれていることに、並々ならぬ感動を覚えていた。
「……うん、美味しい」
 素直にポジティブな感想を述べられて、危うく膝の上に乗せたフードパックがずり落ちそうになった。揚げたてを用意しろだとか、味が濃いとかいちゃもんをつけてきそうな彼が、黙々と唐揚げを食べている。時々隅っこに忍ばせたたくあんを齧り、また唐揚げを頬張る。薄い頬が咀嚼する度に膨らんで、動いて、喉が上下する。
 忘れがちだが、彼はれっきとした人間なのだ。寝るし、ご飯だって食べる。ひどく人間くさい所作がテレビで放送されるドキュメンタリー作品のようで、フードパックの蓋を開けることすら忘れて夢中になって見入ってしまった。
「…………お前は食べないのか」
「あっ食べる、食べます。いただきます!」
 ふと我に返り、焦りながら弁当を開く中、彼はプチトマトを口へと入れる。ハムスターみたいだ、とぽっこりとした頬を見て思う。自分もプチトマトを口に入れたら、いつも食べている青臭いトマトの味でしかないのだが、同じものを食べているという感慨深さのせいか、赤い玉が妙に美味しく感じられた。
 ぷちりと弾ける種の酸っぱさをお茶で流し込みながら、特に会話が弾むことなく朝食は消費されていく。先生の傍ではレモンティーが光に溶けて鮮やかな琥珀色に輝いていた。
 景色が流れることすら気にすることなく弁当の半分を食べると、後にと取っておいた唐揚げが宙に浮く。それはふいに空を切って、あろうことか先生の口へと入っていく。彼が唐揚げを盗んだと理解したのは、口内で噛み砕かれて細かくなった肉や衣が彼の喉奥へと消えていった頃で、はっとした瞬間に盗られまいと残りの唐揚げを無理矢理頬へと詰め込んだ。
「ネズミみたいだな」
「ひょんなほとはいれす」
 揶揄と共に、珍しく薄く笑ってみせる彼に怒りが沸いた。が、同時に彼が気に入る食べ物があったことに安心した自分がいる。勝手なイメージとして、健康補助食品とサプリメントだけで生きていそうな、そもそも生きているのか、いないのか怪しい風貌だったからだ。
 だが薄い唇は油でてかてかしていたし、間髪入れずにおにぎりに齧りついている。自分に合わせてかなりのボリュームを用意していたのに、彼の膝に乗せられたフードパックは既に空だった。意外と食欲があるのだな、と細い手首と顔を見比べて、唐揚げを頑張って噛み締める。
 母の作った唐揚げは時間が経てば当然衣のサクサク感が損なわれてしまうが、味わい深い味や大きめに切られた肉の食感は変わることがない。彼も気に入ってくれたのだと信じながら食べ切ると、残りひとつとなった唐揚げをもの欲しげに睨み付けている。流石に渡すまいと手で唐揚げを覆うと、可笑しそうに一笑してまた一口とおにぎりに齧り付いた。
「スーパーの惣菜なんかよりずっと美味かった」
「唐揚げはね、昨日母さんが作ってくれたやつなんですよ。美味しいでしょ。俺も好き」
「そうか。全部母親が作ってくれるのか」
「んん。母さんは昼も夜も働いてるから、普段は弁当とか家のごはんは俺が作ってる。簡単なのしか作れないけどね。味玉なんて麺つゆに漬けるだけだし」
「…………まあ、お前にしては悪くないんじゃないか」
 今日はいやに褒めてくる。雪でも降るのではないかと窓越しに空を見上げたが、外気を遮断した窓は暖かな光しか迎え入れない。太陽の位置が僅かに高くなってふたりの膝や腕も暖めてくれた。流石に暑くなってきたのか、先生の肩に掛かっていたブランケットは背後にずり落ちている。
 横半分に切って入れた味付け玉子を箸で半分に切ると、茶色くなった白身にとろりとした黄身を絡めて、また一口と口に入れた。自分も同じように玉子を食す。半分を一気に口に放り込んだが、麺つゆが濃すぎたのか塩辛い。だが文句をひとつ零すことなく丁寧に噛み締めては、またおにぎりを口にしている。中から梅干しが見え隠れしていた。
「母さんも褒めてくれる。どんな簡単なものでも美味しいって」
「ふうん」
「俺、思春期真っ盛りだから本人には言いづらいけど。母親とか、離れて暮らしてるばあちゃんが好きなんですよ。家族がそのふたりしかいないせいだけど」
 父は幼い頃に亡くなった。一緒に遊んだ記憶がないのが幸いしたのか、父親が恋しいと泣いたり喚いたりしたことがない。当たり前に父親がいる友達を羨んだこともあるが、母親がいつも優しくしてくれるからグレることがなかったのだと思う。(煙草を吸うのは良くないことだが)
 祖母は母親の母親にあたり、驚くほどパワフルだ。一緒に暮らしたがらないが、たまに遊びに来てくれる。男勝りだし、たまに口も悪い。だけど逞しいし、母の親だけあってやはり自分を見守っていてくれる。愛されていると思ったら、不思議と反抗期が訪れない。変なの、と同級生から笑われることもあるが、来ないものは来ないのだからそれで良いと思っている。
「ま…………ひとり息子と初孫というのなら可愛がるだろう。お前が人生をどう歩もうが私には関係ないが、それでいいと思うならいいんだろう」
 だから先生がからかったり蔑んだりせず、耳を傾けてくれていたのが、自分の在り方を認めてもらえたように思えて嬉しかった。青島燐という子どもを否定し続けた彼が話に聞き入ってくれたこと、尚も弁当を平らげてくれること。この人に話を聞いてもらえたというだけで大きな何かを得た気になる。
 思わず顔を綻ばせると、反してお得意の仏頂面を晒したが、それにしても彼は終始穏やかな表情を見せる。土をまぶしたような、血色の悪い顔立ちも朝日に晒されると肌が明るくなる。特別さもなく、そこら辺にいそうな若い男の人といったところだ。
 それでもカラーコンタクトでは生み出せないであろう左目の輝きは彼にとっての特別でもある。代償は視力の悪さではあるが、それを抜きにしても宝石の成分が取り残された虹彩は魅惑的な光を閉じ込めている。近付いて覗き込みたくもなったが、自分の弁当が空になっていない。いつでも見られるものだと諦め、大人しく食事の続きをした。
 そうこうしているうちに先生のおにぎりも胃袋に収まったらしく、ラップを丸めてフードパックへと詰め込んでいた。自分も遅れておかずを平らげ、空いたパックをしわくちゃのレジ袋へ突っ込みながら、昆布の佃煮が少しだけ顔を出すおにぎりにありつくと、ふと彼が神妙な面持ちで遠くを眺めていた。目的地まではあと四十分は掛かる。それでも海があるかのように微かに目蓋を降ろし、しかし眼差しはしっかりと遠方を向いていた。
「先生は家族と別々に暮らしているんですか? 一人暮らしみたいだけど」
 先生の家には数回だけ訪れたことがある。寄生の件で家に送って言った時に覚えたものだ。自分が住むアパートから差程離れておらず、しかも最近建ったばかりのアパートに住んでいるらしかった。驚くほど綺麗で、しかし何もない部屋だった。
 絵もインテリア用品も皆無で、玄関からすぐのキッチンも汚れひとつ見当たらない。小さな冷蔵庫に小さなテーブル、箪笥がひとつ。パソコンはあるがテレビはない。電子機器も家具も必要最低限しかない簡素な部屋だったが、ベッドだけは立派だった。
 ダブルサイズで広々としており、マットレスや枕も深夜の通販番組で見掛けるようなふかふかとした素材だったし、毛布の手触りも良すぎてつい触ってしまったほどだった。流石に寝るのが好きな人だとは思ったが、思い返すと日々の寂しさばかりを詰め込んだような部屋だった。人気も生活臭もなさすぎたのだ。
 プライベートに頭を突っ込みたいというよりは、彼とあたたかいものを共有したかったのかもしれない。独特な人であり、自分が神様と肖ったくせに、何故か今は人としての彼を見てみたかった。できれば自分みたいに好きなものの話を零してくれたら良かったのにと期待していた。おにぎりからは昆布の脇から梅干しもやってきて、口の中は甘かったり酸っぱかったり、しょっぱかったりと忙しない。
「もう私しかいない。親戚もいないから、長いことずっとひとりだ」
「え……」
「気にすることでもないだろう。人はいずれ死ぬ。私の家族はたまたま早かったと言うだけだ」
 やたらと酸っぱくしょっぱい気持ちになったのは昆布と梅干しを多く齧り取ったからだと信じたい。危うくおにぎりを落としそうになったが、彼は些細なことのようにレモンティーを飲む。受け入れてしまった過去はレモンティーでもお茶でも流し込めない。自分も父を早く亡くしたが、それでもまだ母も祖母もいる。誰もいないだなんて、寂しくないのだろうか。だからこうも擦れてしまっているのだろうか。
 勝手な憶測ばかりを巡らせているせいで、彼の眉間には深い皺が寄せられる。頬杖をついて一瞥すると、また窓へ振り返ってはレモンティーを一口飲んだ。
「母親は私が若い頃に。父親はお前のところと同じ、小さい頃に亡くなった。母が生きていた頃はふたりで暮らしてた」
「そっか、そうなんだ……」
 会話を続けられそうになかった。良からぬものを踏んで自分の一部が吹き飛んだ心地だ。ちくちく痛む胸を押さえながらおにぎりの残りを口の中へと押し込むと、喉で米粒がぎゅうぎゅうに詰まって苦しくなった。ろくに噛みもせず、お茶で一気に流し込むと、やはり彼はこちらに興味を示さずに、窓に自分の虚像を映すだけだった。
 カーディガンの青が反射して、彼の青光りする長い髪はますます青味を増す。長い指が毛先を弄び、髪の毛は逃げてもまた指先に捕らえられている。猫とねこじゃらしの関係のように。
 シャンプーのCMで見るような髪の長い女性とは異なり、彼の癖毛はきついし激しくうねっている。だがカーブの所々に見られる金属的な艶だとか、そこから放たれる香りはどんなシャンプーを使っても再現し難いだろう。ほうと見蕩れていても右手は忘れてはいないらしく、彼の髪を傷付けた日のことを思い出す度に、鼓動のように手のひらの傷口が痛んだ。今日は体が痛いところばかりだ。
「あっ……ねぇ。先生はお父さん似? お母さん似? ちなみに俺は母さんによく似てるって言われるんですけど」
「私? …………私、は」
 ふと彼の動きが止まり、じっと窓を見詰める。初めて自分の姿を見たかのように前のめりになり、アーモンド型の鋭い目をぱちりと開けて、これでもかと凝視していた。じゃり、と毛先が指と指の間で擦れる音が、この時は何故か鮮明にこちらまで届く。
「私は……………………」
 自身に触れるように、彼の左手が窓へ伸ばされる。愛おしげに頬に触れて、爪を立てて、引っ掻いて。それでも何の変化も齎さない彼の虚像は悲しそうに口を噤んでおり、左手は静かに膝の上へと墜落した。後は右手が忙しなく自分の髪を弄るだけで、こちらへ向き直った頃にはいつもの仏頂面へと戻っていた。
 それでも毛先を擦り合わせる仕草は止まないまま。魂が抜けた心地のままで髪を弄り、青紫を含んでいそうな吐息を吐いて、サンダルを足から滑らせて落とした。
「……………………子どもが余計なことを聞くな。この話は終わりだ」
「う、うん……。ごめんなさい」
「弁当を貰ったから、それに免じて聞かれなかったことにしてやる」
「うん……」
 血管が浮かんだ足の甲を座席に乗せ、小さく丸まるその人は顔が強張っていたものの、不機嫌そうな雰囲気はなく、膝に頬を預けては長い髪を垂らしている。
 すっと通る鼻梁や、組んだ腕が光に暈されて輪郭を失っている。今にも頭の上にハーレーが浮かんでいそうなその人は、自分の手の甲に浮かぶ骨や血管を撫でて遊んでいる。話すこともすっかりなくなってしまった。モバイルバッテリーも携帯しているし、ゲームでもして到着までの暇を潰すのもいい。だがそんな気にもなれず、眩しさに目を眇めながら、空みたいに真っ青なカーディガンばかりを追った。
 ひどく長い時が流れた気でいたのに、まだ十分ほどしか経っていない。アナウンスが流れ、電車の揺れが穏やかになる。次に到着する駅は目的地からまだまだ離れているらしい。ほんの少し遠いだけなのに、恐ろしいほどの長旅になるような気がして、小脇に抱えていたリュックをぎゅっと抱き潰した。画用紙やクロッキー帳なんかも詰め込まれたリュック。一日で埋まるはずのないページが足りなくなる予感がする。そんなことは有り得ないのに。
「海にはまだ着かないのか」
「うーん、あと四十分くらいですかね。多分ですけど、海はそんなに混まないと思います。海開きもまだだし、田舎の小さい浜辺だし。そう綺麗な海でもないから」
「そうか」
「そこで絵を描いたりして、夕方になったら帰る感じでいいのかなって思うんですけど、先生は?」
「いいんじゃないか」
 そう言うと、帽子を前に傾けて腕掛けに背中を預ける。日差しは徐々に強くなっていくが、帽子が遮っているお陰か、目を焼くような眩しさをものともしない。ぐしゃぐしゃになったストールを膝に掛けると、背を丸めて縮こまる。美術室や準備室で何度も見る光景だった。
 これから蛹にでもなるようになるべく小さくなって、背中を丸めて膝を抱える姿。自分よりずっと年上なのに、薄光の中で眠る彼はこれから産まれるのを待つだけの胎児みたいだ。海に着いたら生まれるのかもしれない。海で生まれたら何処で生きるのだろう。水底だろうか。
「貞春さんが付き合ってくれるとは思わなかった」
 与えられたと言えば大仰だが、生徒の中ではきっと自分だけが呼べる名前。美術室を飛び出したなら尚更違和感のない名前だった。彼を時に名前で呼ぶことがある。彼もたまに名前で呼んでくれるが、今日は苗字すら呼ばれていない。
 下垂しかける目蓋の間から丸い黒目が動く。溜め息すら億劫そうに、なるべく全身を動かさないようにと体を固定させている。肩甲骨よりも下まで伸びた髪はどう考えたって伸びるのが早すぎだ。だが彼の体質は不可解なことだらけだったので、気にするだけ野暮だろう。そんな髪が靡きもしないで、蔓のように垂れ下がる。
「…………私もお前と出掛けるとは思わなかった」
「だろうねー。海、楽しみだね。先生は海、好き?」
「海は」
 ふと、数日前に見た夢を回想していた。瓶詰めにされた美術室と先生が、枯れ果てた世界の隅っこで絵を描く夢。南の海のように透き通った青の中で揺蕩う彼は淡く微笑んでいた。風が吹いたり、波を浴びれば一瞬で奪い去られるような、そんな寂しい笑みをひとつ携えて。
 まるで海から生まれた生き物だった。髪は海藻になって、手の指の間には水掻きが張って、ふたつの肺にはたくさんの酸素が蓄えられて、皮膚はプラスチックみたいにつるりとしているか、宝石みたいにぎらぎらと瞬く鱗をびっしりと纏うか。そして脚はなくなって大きな尾と鰭になる。そうしたら目の前からすぐにいなくなってしまうのだろう。透き通った孤独を湛える人だった。
 彼は人だけれど神様でもあった。どうして彼は自分の神様になってしまったのか。そういえばどうして、自分は彼に夢中になっているのだろう。もう三年になるのに気になり出すだなんて。また彼に馬鹿にされるに違いない。
「海は、好きじゃない」
「そっか」
 自分から提案したくせによく言う、とも思うし、彼のことだから適当にあしらったのだろうとも思う。唇を小さく動かすだけで、彼は今度こそ黙り込んでしまった。自分も特に話すことがなくなってしまい、穏やかな光に体が暖められたせいで軽く眠気が押し寄せてきた。
 軽く眠ればあっという間に目的地に到着するだろう。リュックを端に置いて肘を掛けて凭れ掛かる。スマートフォンで到着予定時刻の五分前にアラームをセットして、ポケットに押し込んだ。
「俺、ちょっとだけ寝ます。着きそうになったらアラームが鳴りますけど、起きなかったら起こしてくださいね」
 だが彼は相変わらず無言で、よく見ると目蓋をはすっかり閉じられている。よく見せる寝顔を晒して小さな寝息を立てていた。そういえば自分よりよく寝る人だったと思い出して苦笑する。
「……俺が起こした方がいいってことね」
 自分も続いて目を閉じれば、光が目蓋の手前で反射して視界が赤っぽい闇に閉ざされる。朝日はいつでも目蓋をこじ開ける気満々で、抗うように固く目蓋同士を合わせた。
 行き交う人たちのざわめく声や足音、線路を走る車輪の鈍い音、そんなものに満たされる中で、ふたりだけが音を忘れたかのように眠る。もうすぐ漣がふたりを出迎えてくれるだろう。何を描こう、何をしよう、予定はたくさん立ててきたはずなのに、いざとなると何も浮かばない。
 それでもいい。ただ彼が海の向こうに消えなければそれでいい。神様は儚くとも強くなくともいい、ぽつんと立っていてくれたらそれで良かった。ならば彼の意味とはなんだろう。ああ、海に行ったらこんなことを一切忘れてはしゃぎ倒したい。
 意識を手放すのは簡単だった。柔らかな熱に包まれながら束の間の眠りを味わう。それでも目蓋の裏に浮かぶのは、夢の中で出逢った彼。
 何もかもを捨てても生きたいと願う、あまりに人間臭い人がそこにいた。

海に弔うあなた

海に弔うあなた

海の夢を見る。私を呼ぶ貴方のことを、私はずっと思い出せない。 美術室を飛び出して、青島燐は美術部顧問の園貞春と共に海へ行く。教師としての園貞春しか知らなかった燐は、知られざる彼の内面へと触れていく。彼すら知らない秘密へと。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-04-27

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著作権法内での利用のみを許可します。

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