神様のケーキ

一.

 加代子は銀座にある小さな花屋で働いている。その花屋の主な客は、年配の女性たちだ。中には花を買うのではなくて、花屋の主人である老婦人と話しに来るだけの客もいる。加代子は作業をしながら、 自分よりはるかに年上の女たちのお喋りに耳を傾けている。
「それでね、行列ができてすごいのよ。ロールケーキ。ロールケーキのために人が並ぶなんて可笑しくって。ところがそれがとっても美味しいのよ」と太った女の客が主人に向かって言った。
「ロールケーキねえ……あたしもうこの頃、あんまり甘いものは食べられなくなってきたわ」
「寂しいこと言うのね。あたしなんか甘いもの食べ過ぎてもう、この間病院にいったらお医者様にね……」
 花屋の主人である老婦人は、美しく豊かな銀髪が特徴の、とても上品な女性だった。昔は音楽家として有名だったそうだが、夫を喪ってからは音楽を辞めて、夫の遺したこの花屋を経営していた。加代子には彼女の横顔が、子供の頃理科の図鑑で見た鷹の顔に見えた。一度そう見えてしまうとなかなか頭から離れない。品格が溢れる通った鼻が、鷹の嘴のようだった。
 加代子の店には、お喋りの客を別にすれば、老婦人の仕事仲間だった音楽家たちが花を買いにくる。世界中のどこかで音楽会が開かれる限り、花屋というのはなくならないのだな、と加代子はここで働いて思った。加代子は全く音楽に縁のない人生を送ってきたので、なぜコンサートに花が必要なのか最初はわからなかった。
「それでそのロールケーキのお店はどこにあるのかしら?」と主人が客に訊く。
「銀座よ、ここからもそんなに遠くないわ。西銀座の辺りね。結構有名だから、テレビなんかもよく来るそうよ」
「そうなの……まああたしが行くことはないわね」
「でも加代ちゃんなんか、若いんだからそういうところもよく行くんじゃないの?」とその華やかに太った客は加代子の方を向いた。
 作業中の加代子はびっくりして、茎を切り揃えるための鋏を落としてしまった。加代子はいつも、老婦人たちの会話を盗み聞きしているのが楽しかった。自分の名前が聞こえたので驚いたのだ。

二.

 十二月半ばの寒い日の午後に、加代子は主人に頼まれて外出した。
 加代子がこの花屋で働き始めたのは二年前からだ。加代子は高校を卒業してすぐ働き始めた。加代子には父親がいなかった。母親は看護師だった。大学に行くお金はなかったし、加代子は勉強が嫌いで、性格もおとなしかった。人と面と向かって話すのが致命的に苦手で、就職するのも簡単ではないと高校の先生には言われていた。
 加代子の母は、入院していた花屋の老婦人の夫を担当していた看護師だった。夫が亡くなってからも加代子の母と花屋の主人は交流があった。加代子の母は時々老婦人の店へ花を買いに行っており、加代子が高校を卒業した時も、祝いの花を老婦人の店で買った。その時に老婦人は、最近では足腰も弱くなってきて、手伝ってくれる人が欲しいと漏らした。小さな店で、それまではなんとか独りで切り盛りしていたのだが、花屋の重労働が彼女の年齢にのしかかってきていた。
 そこで加代子の母は、自分の娘をこの花屋で働かせることにする。老婦人にとっても、加代子の母にとっても、また加代子自身にとっても悪い話ではなかった。花屋の仕事は加代子が思っていたより厳しいものだったが、花が好きな加代子にとってはぴったりの職場だった。花とは喋る必要がなかった。でも花はいつも加代子に何かを語りかけているような気がした。
 そういうわけで、老婦人にとっては厳しい冬の外出は、ほとんどが加代子の仕事になっていた。
 加代子は外出の用があるとき、少しだけ化粧をすることにしている。
 そもそも化粧など高校を出るまで一度もすることがなかったのだが、老婦人に言われて少しだけするようになった。
「加代ちゃんはきれいな顔をしているのにもったいないわよ。きちんとお化粧したら、いいところのお嬢さんみたいよ」
 加代子は老婦人にそう言われると黙って赤くなってしまうのだが、忠告に従って化粧をすることにした。高校時代からずっと使っているナイロンのリュックサックを見た老婦人は、加代子に本皮のハンドバッグを与えた。仕事で外出するとき、加代子はそのバッグを大切に持ち歩いた。
でも加代子は自分の肌に何かを塗ったり描いたりする行為があまり好きではなかった。それでも外出するときに苦手な化粧をするのは、東京を歩く自分を少しでも街の景色に馴染ませたいからだった。
 その日は虎ノ門にある会社に花を届ける仕事だった。この会社は毎月役員室の花を換えるので、加代子はもうその会社までの道を覚えていた。地下鉄の虎ノ門の駅で降りて、大きな病院の近くを歩くと、程なくしてその会社のビルが見える。まだ出来て一年くらいしか経っていないビルだった。
 花を届けて、加代子はすぐに虎ノ門を後にしようとした。しかし駅までの帰り道で、加代子の目に留まったひとつの店がある。店の表のベージュの壁に、アルファベットで長い店名が書かれていた。加代子には何語かは解らなかったが、英語ではなさそうだった。ケーキを売っている店のようだった。
 加代子は前に店の客に言われたことを思い出していた。加代ちゃんなんか、若いんだからそういうところもよく行くんじゃないの……。しかし加代子は「そういうところ」にまるで行ったことがなかった。加代子自身も、そういう若い女性がよく行くような店に興味があったのだが、今まで足を踏み入れたことが無い。

三.

Aは入省十七年目の外務官僚だ。年末が近づいてくるにつれ、処理する書類の量が段々と増えていた。おかげでその日もなかなか昼食のことを考えられなかった。
 Aがデスクで書類の山と格闘していると、同僚のBが食事に誘ってきた。Bも忙しいらしく、今の今まで昼食にありつけなかったらしい。Aは腕時計を見たが、もう二時前だった。
「もうランチの時間は過ぎちまったかなぁ」とエレベーターの中でAはBに言った。
「そうだな、この辺の店はランチ終わってるかもしれんな」
「そりゃ困る。弁当にでもすれば良かったかもな」
「いや、それがいい店があるんだ」とBはニヤリと笑って言った。
「ここは三時までやっているし、旨い豚カツを出すんだよ。虎ノ門まで歩くけどいいかい?」
 Aは久しく豚カツを食べていなかった。虎ノ門まで行くのは多少億劫だったが、旨い豚カツのためなら悪くないと思った。

四.

Bの言うようにその店の豚カツは旨かった。AもBも白米とキャベツをおかわりした。遅い時間に入ったので客もまばらで、AとBは仕事のことを一時忘れることができた。
「ところで、君は奥さんとうまくやっているのかい」Bは煙草に火を点けてから言った。食後のコーヒーが運ばれてきた。
「そうだな、うまくいってると思うよ。子供もこないだ十歳だ」
「へえ、もう十歳か。ついこのあいだまで小さかったのになぁ」
「何かと金がかかるようになってきたよ。中学校もどうするか考えてるところだ」
「私立?」
「公立も悪くないとは思うんだけど」
「そうだなあ」Bは煙を吐き出して、コーヒーを一口啜った。「俺は公立の中高出身だけど、私立のほうがいいんじゃないかと思うよ」
 Aには十歳になる息子がいた。サッカーばかりしていて、あまり勉強しないのがAの気がかりだった。Aは大学受験で随分苦労した経験があるので、息子には同じ思いをして欲しくないと考えていたが、かといって受験のない私立に入れると、部活漬けになってしまうだろうことが目に見えていた。普段から本を読むように言っているのだが、十歳の子供がどんな本を読むのかうまく想像できずに困っていた。クリスマスプレゼントには何か、息子にぴったりの本を贈ってやりたいと思っていた。
「まあそのへんは難しいよな」とAは言って、コーヒーカップに手をかけたが、まだ熱いのでソーサーに戻した。
「子供のこともいいが、嫁のことも考えてやらないとな」とBが言った。
「嫁のこと?」
「ああ。たまにはサービスしてやらないと、官僚の妻ってのもなかなか退屈らしいよ。この年になって言うのもなんだけどさ、若い頃は仕事さえしてりゃそれだけでついてきてくれたが、最近どうにもね」
「そういうものなのかな」Aは妻には不満がなかったし、妻に何か文句を言われたこともなかった。
「だから時々甘いものでも買って帰ってやるといいらしい。雑誌にそんなことが書いてあった」Bは煙草の煙で輪を作り始めた。Bは煙草を吸うと必ずこれをやる。
「おいおい、若い娘じゃないんだし、モノでどうにかなるのかよ」とAは笑いながら言った。
「これがね、驚くぞ」Bは煙草を灰皿に押し付けて火を消して、身を乗り出して言った。
「本当に喜ぶんだよ。だからって、甘いものだったらなんでもいいってわけじゃない。ちゃんと考えなきゃだめだ。テレビでやってるような、主婦が見るような番組でやってる店をちゃんとおさえなきゃいけない。でも俺たちはなかなかそんなテレビ見られないからな。ところがそういう店をまとめてるサイトがあるんだ。そういうのを暇な時に見ておいて、リストアップして、時々買って帰ると冗談みたいに喜ぶぜ。それだけで休日に家にいるのが随分楽になるんだから、多少高いケーキでも安いもんだよ」
「なんだか仕事みたいな話だな」
「似たようなもんだ」Bは二本目の煙草に火を点けた。「官僚も夫婦も、うまくやるにはちゃんと方法ってもんがある」

五.

 Bの話を真に受けたわけではないが、Aは虎ノ門からの帰り道、Bを先に帰してある店に寄る事にした。たまたま目に付いた洒落た店で、店名はフランス語で書いてあった。ヨーロッパに駐在していたこともあるAにはその意味が解った。「田舎のケーキ屋さん」という意味だった。
 Bは多分こういう店で、ケーキなり何なりを買っていくのだろうなとAは想像した。彼は妻に何か買って帰るようなことが今まであまり無かったなと思い、少し寄ってみることにした。
 店に近づくと、店の前に立ち尽くす女性の姿が見えた。その女性は店の前でじっと店内を見つめていた。Aは特に気にせず中に入った。
 店の中は女性ばかりだった。それもだいたい皆三十歳を超えたくらいで、子供を連れている女性も居た。Aは少し気後れした。自分が入るような店では無かったのかもしれない。でも多分Bはそういう恥を忍んで、こういうところで甘いものを買って帰るのだろうと思うと、自分も何か買ってみようかと思った。なによりそれで妻が喜ぶのなら悪くない。
 香水と甘い臭いが混ざった店内を歩いて、ガラスケースの中を眺めていた。ひとつのケーキが目に留まった。
 ロールケーキというと、丸太にクリームを詰め込んだようなものを想像していたAにとって、そのロールケーキは新鮮だった。薄い焦げ茶色のスポンジケーキの中にはチョコレートクリームが詰まっていた。何より目立ったのは、その中のクリームの切り口がハート型になっていたことだった。こんなロールケーキを見るのは初めてだった。これを買えば見た目の面白さもあって、妻も喜んでくれそうだとAは思った。少し恥ずかしかったが、Aはこのロールケーキを買った。二千三百円だった。
 多めにドライアイスを入れてもらって、Aは店を出た。
 店に入るときに見た女性がまだ店の外にいて、店の中を見つめていた。誰かを待っているわけでもなさそうだ。なんだかその目は、少し悔しそうな風に見えた。少し不審に思ったのでAはその女性をよく見てみた。歳は二十位だろうか、クリーム色のコートを着て、茶色のロングブーツを履いていた。髪の毛は後ろで一本にまとめてあり、眼鏡はかけておらず、薄く化粧をしているようだった。Aはどこか垢抜けない印象を受けた。ハンドバッグだけが妙に彼女の存在から浮いて見えた。そのハンドバッグだけ、黒い鰐皮の、いかにも高級そうなものだったからだ。
 彼女はAの視線に気づくわけでもなく、ただただ店内を見つめていた。Aはその姿に不思議な哀愁を覚えた。あまりじろじろ見ているとこっちが不審がられると思い、Aは仕事場へと足を向けた。

六.

 加代子はがっかりした気持ちで虎ノ門の駅へ帰った。地下へ続く長いエスカレーターに乗って、自分の意気地のなさを嘆いていた。
 高級そうなケーキ屋の前まで来た加代子は、結局店に入ることができず、五分ほど店の前で立ち尽くしていただけだった。ガラス越しに見た店内の客の華やかさに、加代子は気圧されてしまった。自分の地味な化粧、地味な服装、地味な顔立ち、そして地味な根性が気に食わなかった。私にはあんな風に笑いながらケーキを選ぶことなどできないと思った。実際店の中にいる客たちは皆楽しそうで、店の外まで笑い声が漏れて聞こえてきた。
 それに、どう考えても値段が高い。あんな小さいロールケーキに何千円も払うのは加代子には出来なかった。加代子の贅沢の物差しは、少なくともロールケーキには及んでいなかった。ガラス越しに見た値札を見て、こんな風に考えている自分が又嫌になった。でもそれを味わってみたいという、いかにも年頃の女らしい神経も持っていた。それはどちらかといえば、美味なものを余り知らずに育ってきた彼女の、少女的な趣味の延長だったのかもしれない。しかしドアの取っ手に伸ばした手は、店の中にいる身なりの良い女たちと自分を比べた時の切なさに阻まれてしまった。
 小さな悔しさを心の隅に残したまま、加代子は東京の地下深くに潜って行った。

七. 

 妻にと思って買ったロールケーキをAが家に持ち帰ることは無かった。残業が思ったより長引きそうだったので、悪くなる前に派遣社員の女性たちに食べてもらったのだ。彼女たちは口を揃えて美味しいと言い、デザインも風変わりで可愛いと言った。なるほど今の女はこういうものが好きなのだな、とAは思った。そういう感興を、男は人生のうち何度も味わう。Aはすでに四十歳を超えていたが、彼にとって新鮮なことはまだ多くある。
 Aが手洗いを済ませて、喫煙室の前を通りかかった時、その中にBの姿が見えたので、Aはロールケーキの話をした。
「なんだ、かみさんに買ったんじゃなかったのかい」と言ってBは煙草の箱を潰してゴミ箱に放り込んだ。
「いや、今日は遅くまでかかりそうなんだ。悪くなったものを食わすよりかは、女がどういう反応をするか確かめるのも悪くないと思ってな」
「なるほど、でどうだった。派遣の子たちは」
「随分喜んでくれていたよ。お前の言うとおりだったよ」
 それからAはBに、虎ノ門で見た女の話をした。店の前で立ち尽くしていた女の事だ。
 Bによればそういうことはよくあるらしい。男が高い服屋に入るのを躊躇う心理と似ているらしい。Bは彼の妻の話をしてくれた。Bの妻も、記念日に少し高いレストランなど予約すると、来てみて、店の前で気後れして、やっぱりここはやめましょうということがあるのだという。男は飲食店に関しては無頓着で服屋で妙に緊張するが、女はその逆だと言う。確かにうなずける話だった。虎ノ門のケーキ屋の前にいた彼女は、いかにもそういう風だった。一連の話を聞いて、Aはますます寂しい気持ちになった。
「まぁその女の子がどんな人か知らないけれど、そんな風におまえが感じたならさ、ケーキの一つでも奢ってやれば良かったのにね。『あしながおじさん』じゃないけれど」と言うとBは新しい煙草のフィルムを千切って、一本咥えて火を点けた。
 AはBの吐き出した煙草の煙を、手で払うようにしてこう言った。
「いや、俺にはそんな勇気はないよ。だいたい赤の他人なんだから…義理もないだろう」

八.

 それから一週間が経ったクリスマスイブの夜、Aは十七時半に仕事を切り上げて、早々に霞ヶ関を後にした。四谷に古い友人がバーを開いたのだった。その友人はAの大学の同期で、長い間広告代理店に勤めていた。昨年その会社を辞めて、今日の開業のために準備してきたのだった。今日は仲間内で開店祝いをするということになっており、Aも呼ばれた。
 Aは今日の今日まで、開店祝いの準備をできていなかった。友人の第二の人生の出発をどう祝おうか考えていた。とりあえず銀座で何か気の利いたものを探そうと、西銀座の駐車場に車を停めて歩き出した。天気予報では夜から雪が降り、ホワイトクリスマスになるということだった。Aの眼には、銀座を歩く人々は皆幸せで満ち足りているように見えた。まだ雪は降っていなかったが、もう街は暗くなり、あちこちでクリスマスのイルミネーションが輝いていた。
 人が多い通りを歩いていると、理由も無く心が温まってくるのを感じる。今日は四谷に顔を出してから、家で家族とクリスマスを祝うことになっていた。クリスチャンであるAの妻は、クリスマスを他の日本人よりも随分大切に思っていた。だからAが四谷に行くのにも良い顔はしなかったが、なるべく早く帰ると言うと納得してくれた。クリスマスイブを一緒に過ごせる家族のことを思うと自然と笑みがこぼれた。あまり銀座でぶらぶらして時間を潰してもいられないと思った。
 そんなことを考えながら歩いていると、Aは小さな花屋を見つけた。開店祝いといえば、何か祝い花を買うのも悪くないなと思った。いささかありふれてはいるが、Aにとってはちょうどいい選択のように思えた。本当はもっと大きな花屋で買うのが良いのだろうが、目に留まったその花屋にAは入っていった。

九.

 店の中にはAのほかに客はいなかった。花に囲まれたレジカウンターの後ろの壁には、手作りらしい大きなリースが懸かっていた。
「いらっしゃいませ」と見るからに上品な老婦人がAに向かって言った。「ずいぶん寒いですね、何かお探しですか」
「ええ、ちょっと」と言うとAは店の中をぐるりと見渡した。
 狭い店内にはいろんな花が並べられていたが、それぞれが美しく見えるように、丁寧に考え抜かれて並べられてるのが伝わってきた。Aは花には全く詳しくなかったが、陳列されている花たちはそれぞれに与えられている場所に満足しているように見えた。Aは老婦人に訊いた。
「友人が新しい店を出すんだけど、開店祝いに花はどうかと思ってね」
「ああ、さようでございますか。クリスマスイブに開店なんて素敵ですね」老婦人はカウンターから出てきて言った。「差し支えなければ、どんなお店ですの?」
「そうですね、まぁ酒を飲む小さな店ですよ」
「じゃあんまり派手なのも良くないわね。お家に持って帰られるお花がよろしいんじゃないかしら」
 老婦人はカウンターの奥にいる店員に、小ぶりの胡蝶蘭を持って来るように言った。
 その出てきた店員にAは驚いた。先週虎ノ門で見かけた女性だった。Aはちゃんと覚えていた。店員のほうはもちろんAのことなど知らなかった。
 自分があの時どういう思いになったのかなんて、この子は知らないんだろうな、と思いながら、Aは胡蝶蘭の鉢を整える店員の姿を見ていた。Aは虎ノ門で感じた妙な哀しさのことを、この子に伝えて、何かケーキでも買ってきてやろうかと思った。でもそれもなんだか嫌らしくて、おかしな話であるような気がした。自分が哀しくなったので、それを解消するためにケーキを買ってきました、さあ召し上がってください、というのはどう考えてもおかしい。
 そこでAは妙なことを思いつく。
「あのね、お母さん、悪いんだけど」とAはまるで思い出したかのように言った。
「僕実はね、腕を怪我していて……見た目には分からないんだけどね、先週ちょっと職場の草野球で痛めちゃって重たいもの運ぶと痛いんだよね。ちょっと胡蝶蘭も運べるかわからないんだ」
 老婦人はそれを聞いて、こう答えた。
「あらそれはお気の毒ですね……じゃあこの子に運ばせましょう。加代ちゃん、お願いできるかしら?」
 店員は黙ってうなずいた。
「でも、どこまでお運びすればよろしいかしら。四谷まではちょっと」と老婦人は表情を曇らせた。
「ああ、それなら大丈夫。西銀座の駐車場に車を停めてあるんだ。車に入れてくれればあとは大丈夫だよ」

十.

 そうして加代子はその男性客に連れられて西銀座の駐車場まで行った。加代子は何の疑いも無く胡蝶蘭を運んだ。通常のサービスだった。客の車のトランクに胡蝶蘭を入れて、加代子は店に戻ろうとした。
「いやあ悪かったね、助かったよ」と客はトランクをバタンと閉めた。
「ついでで悪いんだけど、ちょっとお願いしたいことがあるんだ。時間はかからないから」
「お願い、ですか?」加代子は少し怪訝な顔をした。
「ちょっと買い物なんだが、そこまで付き合って欲しいんだ。君にとっては帰り道だよ」

十一.

 二人は地下駐車場を出て、銀座西五丁目の交差点から中央通に向かって少し歩いた。天気予報どおり、雪がちらつきはじめていた。三つ目の角を左に曲がって、少し細い通りをまっすぐ歩いた。
 男の客はある店の前で足を停めた。
「ここは……」加代子は自分がその店の名前を知っていることに気がついた。先週来た太った客が、行列ができると言っていた店だった。
「知っているかい? 有名な店だものね。どうも独りで来るのに気がひけてね」
「あの、私は何をすれば……」
 加代子はこの客が何をしたいのか解らなかった。それに、こういうお店の前に来るとしり込みしてしまうのだった。本当は中も見たいのだけれど、虎ノ門の時と同じように、自分には不釣合いな店であるような気がした。でも店の中からは、オレンジ色の温かい光が漏れていた。
「あぁ、ごめんね。いいんだ、ここまで来て貰えれば十分さ。ちょっと待っててくれないか」
 男はそう言うとひとり店の中に入っていった。降る雪は静かに増えていっているような気がした。加代子は店のガラス越しにその男性客の姿をじっと見つめていた。
 しばらくして男は店から出てきた。そうして加代子に紙袋を渡そうとした。
「はいコレ。胡蝶蘭を運んでくれたお礼だよ」
 加代子は驚いた。ほとんど反射的に、両手を胸の前で振って断った。
「えっ、でも、花を運んだだけです。こんなの頂けません」
 男は半ば強引に紙袋を加代子に渡し、そのままコートのポケットに手を突っ込んだ。
「いいんだよ。僕が買いたくて買っただけさ」
 加代子はどうしていいか解らず、ただ店の前で動けなくなっていた。男は少し駐車場のほうに歩いてから、振り向いて加代子に言った。
「メリー・クリスマス!」

十二.

 四谷に寄った後、根津の家に帰ったAは家族三人でささやかなクリスマスの晩餐を囲った。十歳になる息子には初めて絵本ではない本を贈った。ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」だった。Aがその本を初めて読んだのは十五歳の時だったので、十歳の子供が読むには少し早すぎるような気もしたが、Aにはこの本がクリスマスプレゼントにぴったりであるように、むしろクリスマスプレゼントになるために書かれた本のように思えた。
 食事のあと、寝室でAは今日あったことを妻に話した。花屋の娘のことも話した。ベッドに入ると、微妙な気分になった。自分が良い事をしたのか、悪い事をしたのかうまく受け止められていなかった。やっぱり何だか寂しい気持ちがした。
「あなたは良い事をしたんだと思うわ」と妻は言ってくれた。「でもそういう風に悩むことってあるわよね」
「君はそんな風に感じたことがあるかい?」
「そうね……」妻は鏡台の前で爪に除光液を塗っていた。「わからないけれど、そんなこともあったように思うわ」
「そういうものかなぁ」Aはぼそりと呟いた。
「それで、その女の子は喜んでたの?」
「いやそれも良くわからないんだ。なんせ慣れないことしたもんだから照れちゃって、渡してすぐに車に戻ったんだよ」
「喜んでるわよきっと。だって、そういうお店に入りたくても入れないような娘さんだったんでしょう? 女の子なんて誰だって甘いもの貰ったら喜ぶのに、その子だったら普通の何倍も嬉しかったんじゃないかしら」
 Aはベッドから、妻の背中を見ながら考えた。確かに妻の言うとおりなのかもしれない。それに深く考えるようなことでもないような気がした。
 妻は除光液を塗り終えて、鏡に映る夫の姿を見た。夫婦の視線は鏡の中でぶつかった。
「それはともかくとして、うちに一本買ってきてくれても良かったんじゃないかしら」

十三.

 加代子は帰り道、あの客はいったい誰だったのだろうと思っていた。紙袋の中に入っていたのは、先週花屋で話題になったロールケーキに違いなかった。これは単なる偶然だったのだろうか。車まで花を運ぶことはよくあるが、ありがとうの一言を貰えることも稀だった。こんな風に何かをくれる客はまずいなかった。
 その男は加代子の知り合いではなかった。初めて見る客だ。彼は加代子がロールケーキを食べてみたいと思っていることを知っているかのようだった。この銀座のお店に来てみたいと思っていたことも知っていたのだろうか。もっと言えば、加代子がこのお店のことを、花屋の女の客から聞いたことも知っていたのだろうか。
 加代子は先週のことに気がついた。虎ノ門までお使いに行ったときに、似たようなロールケーキのお店の前で、勇気を出せずに何も買えなかった日のことだ。もしかしたらあの客は、あの時の加代子の姿を見ていたのかもしれない。そうだとすれば話はわからないでもない。ただのケーキ屋にすら入れない、惨めな自分のことを不憫に思っていてくれたのかもしれない。
 でも、虎ノ門のあのお店は、加代子が本当に行ってみたいと思っていた店ではなかった。だから、自分が食べたかったのは本当は銀座のロールケーキであるということを、彼が知っていることの説明がつかなかった。これはただの偶然なのか、それとも……。
 そこまで考えて、加代子はもしかしたらこれは神様の仕業なのかもしれないと思った。
「神様……」
 加代子はふと空を見上げた。都会の明かりと分厚い雲のせいで、星も月もまったく見えなかった。でもその代わりに、遠い空から真っ白な雪がたくさん降ってきていた。今日はクリスマスイブだった。

十四.

 クリスマスイブの夜にAが感じていた妙な寂しさは日に日に弱まっていていた。でもAはなんとなく銀座の方へは足が向かなくなっていた。同じ買い物ならわざわざ別のところへ行くことが多くなった。
 そのことを妻に伝えると彼女は笑って言った。
「妙に神経質なところがあるのね。それなら私も買ってこようかしら。食べてみたら彼女の気持ちも解るんじゃない? あたしもそのロールケーキ食べてみたいわ」
 それを聞くと、Aは首を横に振って言った。
「いやいいんだ。別に、そんなに気にしているわけじゃないんだ。銀座に行かなくたって困ることもないしね」

十五.

 加代子はそれから長い時をこの世界で生きた。以後の彼女の人生の中に、特別取り上げて書くような出来事は起こらなかった。どちらかといえば不幸な人生を歩んだのかもしれない。実際辛いことも悲しいことも数え切れないくらい起きた。
 加代子はそういうことに出くわすたびに、あの客のことを想い出した。あの年のクリスマスイブに起きたちょっとした幸せを想うだけで慰みになった。そしてまたその男が思いがけぬ幸福を自分に運んでくる姿を想像して、温かい気持ちになった。彼女は生涯このことを忘れずに生きた。

神様のケーキ

【あとがき】

お読みくださってありがとうございました。
はじめて三人称で書いたものです。
三人称を書く練習として、志賀直哉の「小僧の神様」をお手本にしました。
プロットの大枠を真似して、現代風にアレンジしました。
三人称だと色々なことが書けるものだなと、勉強になりました。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。

神様のケーキ

加代子は銀座にある花屋で働いている。 冬のある日、彼女は街で美味しそうなロールケーキを目にするが、店のドアを開くことができない。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-26

Copyrighted
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