てんきあめ
その日も僕は、なかなか家を出る気になれなかった。ベランダからはスカイツリーがぼんやりと見えた。嫌な天気だった。嫌な一日になりそうだった。
マンションの部屋を出て、エレベーターに乗って一階まで降りてみると、少しだけ雨が降っていた。くもりだと思っていたが甘かった。僕は溜息をついて、またエレベーターで六階まで戻った。嫌な一日になりそうだった。
傘を取ってまた下へ戻ると、雨はさっきより強くなっていた。雨の音がして、雨の匂いがした。雨が降って良いことなんてひとつもない、そう思いながら、傘を広げて南北線のホームまで歩いた。
東京メトロ南北線の駅は、とても深い地下にある。僕は長い間エスカレーターに乗って地下駅まで降りる。比較的新しい線だから、既存の線よりも深い所に線路を引かなければならなかったそうだ。この東京の地下には、そんな風にしてたくさんの線路が複雑に入り交じって、何万人という人々を同時に運んでいるのだと思うと、恐ろしいと言う他なかった。そして自分もそのうちの一人だった。東京の地下を日々移動する、憂鬱な人々のうちの一人だ。
白金高輪行の電車はいつも混んでいる。と言っても、後楽園で結構な数の人が降りるし、飯田橋でも乗る人より降りる人の方が多い。市ヶ谷に向けて電車が出発するくらいに、僕はようやく落ち着いて携帯を触り始めることができた。
月曜日の朝に自殺者が多いと言われる理由が、僕にもようやく分かってきた気がする。日曜の夜から月曜の朝にかけては、言いようのない不安と憂鬱に襲われる。みんなそうさ、みんなそれを乗り越えてやってきたんだ、と自分に言い聞かせることは出来る。でもそんなのは、ただの一般論に過ぎない。一般論が何の役にも立たないことは、「社会人」になって身を持って知ったことの一つだ。
鼓舞することもなく、卑下することも出来ない中途半端なプライドのせいで、僕は苦しんでいた。何かと何かの間に挟まって苦しんでいて、それでいて誰かに何かを打ち明ける勇気もなかった。「観測されない事実は存在しない」という言葉があるけれど、言葉にならなかった苦しみは、たぶん、存在しなかったことになるのだろう。しかし、苦しみは僕の心の裡にあったし、満員電車の中で急に泣きたくなってしまうこの気持ちが、何よりも雄弁に僕の苦しみを証明していた。「誰だってそういうものさ、特に会社に入りたての頃はね」そうしてまた一般論が頭のなかに浮かんで、溜息になって沈んでゆく。やはり一般論は何の役にも立たない。
溜池山王の駅で降りて、今度は地上へと昇ってゆく。人の流れに合わせて歩かなければ、エスカレーターにさえうまく乗ることができない街なのだ。気分は段々と沈んでゆく。会社に近づけば近づくほど、魔力のようなものが僕の心を蝕んでゆく。普段なら気にならないようなこと――ただエスカレーターに乗るだけのこととか――そんなことさえも随分神経の要ることのように思えてしまうのだ。
改札へ向かうエスカレーターに乗って気付いたことがある。泣きたいという気持ちは、どことなく吐き気に似ている。その場で泣いてしまわなければ妙なしこりが心に残って、あとまで泣きそうな気持ちを引きずってしまう。その場で泣いてしまえばすっきりする。泣きたいときに泣ければ良いけれど、溜池山王の改札で泣くわけにはいかなかった。吐き気だってそうだ。夜のうちに吐いてしまえばよいのに、うまく吐けなければ、次の日まで気分が悪い。それにいつでも自由に吐けるわけでもないのだ。
そんなくだらないアナロジーを空想しながら、僕は無意識にポケットからPASMOを出して、駅の改札を通り抜けた。次は地上へと出るエスカレーターに乗らなくてはならない。
エスカレーターの少し手前で、一人の女性が僕の目の前を横切った。ベージュのスーツを着ていて、髪は長く黒かった。その長い髪のせいで顔までは見えなかったが、口元は微笑んでいるように見えた。ほっそりとした体つきの女性で、左肩に白い革製のバッグを掛けていた。僕がこの女性のことを見ていたのはほんの一秒くらいのことだが、彼女の姿は僕の眼にしっかりと焼きついた。なぜなら、彼女には右腕が無かったからだ。
僕は驚いたが、そのままエスカレーターに乗った。そして僕は考えた。彼女はいったい何をしている人なのだろう? なぜ溜池山王にいるのだろう? バッグには何が入っているのだろう? なぜ右腕がないのだろう? 僕は、自分が今目にしたものについて混乱していた。そして彼女はどこへ行くのだろう?
エスカレーターは静かに僕を地上へと運んでゆく。地上の光が見えたが、空は晴れていた。さっきまでのどんよりとした空はもうない。しかし、エスカレーターを降りてみると、ぽつぽつと雨が降っていた。天気雨だった。
もう、傘を差すほどの雨ではなくなっていた。僕はそのまま赤坂のオフィスに向けて歩き始めた。そして腕のない女のことを考えた。彼女も僕と同じように、憂鬱な気持ちを抱えながら、この東京のどこかで働いているのだろうか。何となくだけど、彼女はそういう人間ではないように思えた。彼女は傘を持っていなかったようだけれど、ひどい雨の日はどうするのだろう。今日くらいの天気雨ならば、濡れたまま歩くのだろうか。それとも彼女は地上を歩くことが無いのだろうか。
意味のないことだけれど、僕は自分と彼女を比べていた。僕には腕が二本あって、彼女には一本しかない。いや、彼女には一本の腕があって、僕には二本もあるのだ。どちらかと言えばそう考えた方が自然であるように思えた。
六月の日差しの中で、弱々しい雨の粒が輝いて見えた。天気雨の中を歩くのは随分久しぶりであるような気がした。僕はオフィスのあるビルの前まで来て、地下鉄にいるときに感じた、あの吐き気のような気持ちがなくなっていることに気が付いた。泣きたい気持ちは吐き気と違って、泣かなくたって消すことができる。
そうして僕は、何となく新しい気持ちでエレベーターに乗り込んだ。二十八階まで昇って、ビルの窓ガラス越しに外を見てみると、もう雨は完全に止んでいた。新しい光と予兆の中で、東京は一日を始めようとしていた。悪くない一日になりそうだった。
てんきあめ
【あとがき】
お読みくださってありがとうございました。
人生で書いた二つ目の小説と呼べるものですが、作為はまったくなく、ほとんどが事実を描写しただけのものです。
不思議なこともありますが、もしかすると単に右腕が見えなかっただけなのかもしれません。
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