ふるさと
プロローグ
「音楽って魔法やと思わへん? あたしはずっとそう思ってる。音楽と出会った時からずっと」
音楽室を包んでいた重々しい沈黙は、部屋の隅々まで響き渡る明るい声によって唐突に破られる。
それは、夏野甘奈の声だった。甘奈は窓に背を向けて、指揮台の上に立っている。そして彼女が向き合っている、三十五人の吹奏楽部員たちは甘奈の次の言葉を待つ。
「でもな、魔法にはちゃんとやり方ってもんがある。何でもかんでも適当に音出せばええってもんじゃないねん。みんなもそれはわかってるよな? 魔法には秘密があんねん。で、あたしはそれを知ってる。それをみんなに教えてあげられる、魔法使いってことや!」
そう言って彼女は指揮棒を高く上げて、小さな音楽家たちは楽器を構える。中学生の眼差しは凛々しく、瞳の奥には果てがないような輝きを宿している。合奏が行き詰った時、甘奈はこうして部員を鼓舞するのだ。彼女はこの言葉を何度も何度も繰り返していたが、中学生たちがそれにうんざりしたことは一度もない。それどころか、甘奈がそう言うたびに新鮮な気持ちが部員の胸の裡に芽生える。演奏の流れを押しとどめていた不吉な何かが、甘奈の澄み切った声と表情の前に、するすると引き下がっていくのを彼らは感じる。中学生たちにとってこれがすでに魔法の言葉だった。そして甘奈は指揮棒を振り下ろし、音楽が始まる。甘奈にとっての魔法の時間が再び幕を開ける。
これは、夏野甘奈が中学校の指揮者になって三年目の物語である。
一章
夏野甘奈は平成最初の年に産まれた。甘奈の母親が、自分のお腹の中に新しい生命が存在していることを知った日、それは昭和が終わった日のことだった。日本中が喪に服していた朝だった。母親である夏野美智子はそのことに奇妙な偶然を覚えた。
美智子が産まれたのは一九六〇年のことだった。美智子がその母親――甘奈にとっては祖母にあたる――から聞かされていた話を思い出したのだ。
「美智子がお腹にいるってわかった日はね、皇太子の成婚パレードの日でね、日本中がお祝いだったんだよ。だから、お二人の名前を頂いて、男の子が産まれたら明、女の子が産まれたら美智子にしようと思ったんだよ」
それは一九五九年四月十日のことで、それから約八ヶ月後、一九六〇年の一月に夏野美智子は誕生した。美智子が産まれた時すでに父親はいなかった。
美智子は甘奈を産む前、またもう一つの偶然に気が付き、溜息をついた。妊娠中に夫との離婚が成立したのだ。夏野姓に戻った美智子は、甘奈もまた父親の存在を知らない子供として育っていくのだと思うと溜息しか出なかった。夏野家は母子家庭の系譜なのかもしれないなと彼女は思った。
美智子はもともと北海道で生まれ、高校を卒業して東京に出てきて、そこで甘奈の父親となる男と出会った。高度経済成長の真っ只中にあって、美智子が未来に不安を感じることは無かった。工業デザイナーという仕事を生業としていたその男と結婚し、彼の実家がある、大阪市と京都市のちょうど中間に位置する大阪府中町市に引っ越した。彼はそこに自分のデザイン事務所を設立する予定だった。とはいえ開業前の資金は足りなく、美智子も服飾店で働きながら夫の独立資金を貯めた。
しかし、妊娠が判るとほぼ同時に夫の浮気も明らかになった。夫は逃げるように東京へ戻り、そこで新しい女とデザイン事務所を開いた。結局、土地に縁もゆかりも無かった美智子が中町市に取り残されてしまった。もちろん美智子は故郷の北海道に帰ることも考えた。しかし美智子は勘の鋭い現実的な女性でもあった。甘奈が生まれた時、日経平均株価は歴史上最も高い水準にあった。景気はそこが頂点で、これからは下降しかないであろうことが美智子には解っていた。景気が悪くなれば、北海道で職を見つけ、老いた母を支えて生活するだけの賃金を得るのは早晩難しくなるだろうと彼女は考えた。それならばむしろ、人も仕事も多くある都会でありながら、温暖で自然豊かな中町市で生きてゆくことの方が容易であるように感じられたのだ。もう彼女は雪かきのない生活に慣れすぎていた。そうして美智子は職場の同僚に助けられながら、母娘二人にちょうど良いサイズのアパートを借りて出産に備えた。
一九八九年十月二十二日――ぎりぎり天秤座――に産まれた夏野甘奈は、愛情深く聡明な母親に育てられ、小学校に上がる頃にはほとんど大阪弁をマスターしたつもりでいた。
「でもな、学校でな、『ナツカンの大阪弁はおかしい』て言われるねん」と、小学生になったばかりの甘奈は母親にこぼした。
「それは仕方ないわよ。わたしは大阪弁を話せないんだからね」美智子は中町市駅前のデパートの婦人服売り場で働いていた。彼女は大阪で暮らして長い月日が経っていたが、東京での仕事で叩き込まれた標準語が抜けなかった。
「嫌やなあ、あたしもちゃんと大阪弁話せるようになりたいなあ」
いじめを受けたというわけではないのだが、甘奈は程なくして内気な少女になっていった。学校から帰ってきても家でゲームをしているだけで、友達と外で遊ぶということが無かった。それは幼い甘奈が抱えていた言語のコンプレックスのせいだった。
見かねた母親は何か習い事をさせようと思いつく。しかし、毎月養育費という名目で別れた夫から送金があるものの、水泳もピアノもお習字も、甘奈の将来のために貯金をしている母親にとっていささか高額な月謝を要求していた。そんなある日、馴染みの八百屋の大将――北海道出身で、熊のように巨大で、絵の中のチンギス・ハンを思わせる吊り目をしている、同郷の美智子に無条件に優しい男――が空手の師範をしているという話を思い出した。
その空手教室は道場というものを持たず、甘奈の通っている小学校の体育館を放課後利用して行われるものだったから月謝は安かった。その上、八百屋の大将は「同郷のよしみ」ということで半額の月謝で構わないと言った。美智子は「それは悪いから」と言って断ったが、大将は頑なだった。
「その代わり、夏野さん、野菜は全部うちで買ってくださいよ。甘奈ちゃんにも北海道のものを食べさせなきゃ駄目ですよ」
甘奈は小学校一年生の時から週に二回、熊のような北海道人に琉球空手の手ほどきを受けることになる。そして広い世代の若者たちに揉まれ、大阪弁の中で最も激しいと言われる河内弁を自然に身につけ、友達も増え、小学校六年生になる頃には黒帯を手にし、クラスで最も快活で、最も喧嘩の強い少女へと育っていった。
「甘奈ちゃんには素質がありますよ」大将はジャガイモの泥を落とし、ビニール袋いっぱいに詰めて美智子に渡した。「このまま頑張れば空手家にもなれます。器量もいいし、道場やっても絶対人気が出ますよ」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」美智子は溜息をついてずしりと重い袋を受け取った。
夏野甘奈が中学生になった時、母親は必ず何か部活動に入るよう娘に言った。「空手は大人になっても出来るけど、部活動は今しかできないんだからね」と言った。甘奈は空手を止めるのに寂しさを感じたが、母の言葉に納得していたし、何より彼女自身が部活動に憧れを抱いていた。甘奈は色々な部活動を見て回ることにした。
空手は例外として、甘奈はスポーツ全般に興味が無かった。「ボール追っかけて何が楽しいねん」とすら思っていた。まず運動部が甘奈のリストから除外された。
ある日の昼休みに、小学校からの友人である好美に誘われた甘奈は吹奏楽部の中庭コンサートを見に行った。
「うち、吹奏楽部入ろうと思ってんねん。ナツカンまだ部活決めてないんやったら、見にいこうよう」と好美は言った。
その時の甘奈にとって音楽とは、小学校の頃にリコーダーで男子とチャンバラをして先生に怒られた苦い記憶を呼び覚ますものだった。歌を歌うのは好きで毎週ミュージックステーションを欠かさず見ていたが、致命的な音痴だったので合唱の授業では周りから馬鹿にされていた。そういうわけで甘奈は余り期待をせずに中庭のコンサートを見に行ったのだが、彼女はそこで感銘を受けることになる。
中庭の真ん中にある大きなムクの木の下に、二十人ほどの吹奏楽部員たちが集まっている。四月の陽射しを浴びた楽器はきらきらと輝いていて、甘奈はそれを見るだけでワクワクした。彼らの前では新入生たちが三角座りをして弁当を広げていた。好美と甘奈もその列に加わった。
偶然は人の心を動かすものである。誰かが意図したわけでもないのに、まるで大きな運命の力が働いているような思いを人の心に植えつける。吹奏楽部が最初に演奏したのはミスター・チルドレンの『youthful days』だった。吹奏楽部がその曲を演奏した理由は少し前に流行った曲で、楽譜化されていたからというだけだった。しかしこれは甘奈の大好きな歌だった。それを聴いている時、甘奈の体には何度も何度も鳥肌が立った。自分の知っている曲を、自分の知らない楽器がこんな風に素敵に演奏できるものなんだ、と甘奈は思った。それは甘奈にとって初めての体験だった。
甘奈と好美はその日の放課後に音楽室へ行き、体験入部ということで様々な楽器を演奏させてもらった。音楽室には新入生が集まっていて、彼らの前にはたくさんの楽器が並べられており、先輩たちと顧問の松風純司がいた。ひとりずつ順番に楽器を試していき、甘奈の番が来た。
「夏野、お前、今まで何か楽器やったことあるんか?」禿げ頭の松風は、いつもにこにこしている六十手前のベテラン音楽教師だった。
「ええっと、あたし、リコーダーくらいしかやったことないです」と甘奈は正直に答えた。
「ほうか、リコーダー好きか」甘奈の発言を好意的に解釈した松風はフルートを手渡した。「ほなまずフルートどうや、リコーダーが横になったと思ってみい」
構え方を先輩に教わって、甘奈は息を吹き込んだ。しかしなかなか音が出ない。繰り返し息を吹き込んでいるうちにイライラしてきた甘奈は、最後の方にはバースデーケーキの蝋燭を吹き消すような勢いで、顔を真っ赤にしてフルートの小さな吹き口に息を送り込んでいた。そしてふらふらになった彼女を見て周りは笑い出し、甘奈は恥ずかしい心持になった。
(ちぇ、何やねん。さっき好美が吹いた時はすぐに音出たのに、けったいな楽器やで)
いかにもお嬢様風で、ピアノを習っていたという好美の方を見た甘奈は、楽器は人を選ぶものなのかもしれないなと思った。
「まあ、フルート難しいからなあ。ほな太鼓はどうや。夏野はなんかええ体つきしとるし、上手いこといくんちゃうか」
その言葉――体つきを褒められて喜ぶ年齢ではなかった――にいささか気を悪くしながらも、バチを渡された甘奈はティンパニを何度か叩いてみた。
(お、お、いけるんちゃう、これ? ええ音鳴ってない?)
調子に乗った甘奈は同年代の女子より明らかに発達した腕に力を集中させ、ティンパニを力強く叩いたが、九回目でバチが甘奈の手をすり抜けて、正面にいた松風の禿げ頭に的中した。
「ご、ごめんなさいっ!」先ほどよりも大きな笑い声が音楽室を包んだ。
「いたたたた……ああ、あかん、打楽器もあかんな。そしたらもう、ラッパしかあれへんな」
そうして松風は甘奈に金色のトランペットを渡した。その真鍮製の楽器は甘奈の掌にはずしりと重かった。リコーダーやフルートや打楽器のバチを持った時とは違う重みがあり、表面は冷たいのにどこか温かみがあると甘奈は感じた。
甘奈はトランペットを自分の顔の前に持ってきた。彼女はまず楽器をじっくりと眺めた。三本のピストンは銀色に輝き、朝顔のように開いたベルには自分の顔がぐにゃりと曲がって映っていた。
「お、なかなか様になっとるやんけ。ほんでな、吹き口に唇つけてな、ぶーってやるねん。機嫌悪い子供がやるようなやつや。思い切り息吸ってな……」
松風に言われた通り、甘奈はたっぷり息を吸い、小さな銀の吹き口に向かって大量の息を吹き込んだ。すると高い音が鳴り、甘奈の頭の中はびりびりと震えた。吹いているというよりかは、楽器に息が吸い込まれていくような感覚があった。その感覚が甘奈にとっては心地よく、息がなくなるまで吹き続けた。それは時間にして数秒のことだったが、甘奈の体は一瞬で熱くなった。この瞬間――ただの息が輝かしい音に変わった瞬間――これは魔法だ、と甘奈は確信した。
吹き終わった甘奈はまた軽い酸欠状態に陥ったが、松風たちは歓声を上げた。
「すごい! 初めてやのにこんな高い音鳴らせるなんて! 才能ありますよ、こいつ」と男の先輩が興奮気味に言った。
「おお、おお、いけるで、これは。決まりや! 夏野、お前はトランペットや!」松風はつるつるの頭を撫でながらにっこりと笑って言った。
そうして夏野甘奈は中町一中吹奏楽部のトランペット奏者となった。
彼女は文字通り青春をトランペットに捧げた。毎朝一番に音楽室へ行って、手付かずの空気を独占した。そして開け放たれた窓から中庭に向かってファンファーレを吹く。彼女にとってはそれが至福の時間だった。朝の空気を高い金色の音で震わせること。甘奈はそれがトランペット奏者にだけ許された快感であると感じていた。いつの間にか教員たちの朝の会議はこのファンファーレを合図に始まるようになった。甘奈が一日も朝練を休んだことのない証拠だ。
松風の定年と同時に一中を卒業し、高校生になった甘奈は自分の楽器を手にすることになる。中一の時から甘奈は自分の楽器が欲しいと繰り返し母親に言っていた。
「じゃあ、三年間他に何も欲しがらなかったら、高校に上がった時に買ってあげる」
そう言って母娘は約束したのだった。実際甘奈は必要最低限以外のもの――年頃の少女が欲しがるような、洋服だとか、靴だとか、最新の携帯電話とか――を一切欲しがらなかった。
高校一年生の四月に、甘奈は母親を連れて電車に乗って心斎橋まで行った。
「楽器屋だったら、中町にもあるじゃない」と美智子は言ったが、
「あかんあかん。楽器買うなら心斎橋や。これは決まってる」と甘奈が譲らなかったのだ。
その道中、美智子は不思議な感慨にふけっていた。わが子に何かを買ってやれるという幸福。これは多くの家庭では、どちらかといえば父親が感じる種類の喜びのようである。お金を、それも大金を出すのに、それが苦しいのではなくて、むしろ快い。本当はそのお金で生活が楽になるし、自分にとっては家計上のマイナスにしかならないのに、その代わりに確かな幸せを手に入れることのできる出費だった。この子がそんな喜びを理解できるのはいつのことかしら、などと思いながら美智子は娘に連れられ汗ばむ陽気の心斎橋筋商店街へと足を向けた。
心斎橋で一番大きい楽器屋で、美智子のそんな幸福感は一瞬で打ち砕かれてしまう。
「さ、三十七万……」
甘奈が欲しいと言った楽器はアメリカ製の楽器で高価なものだった。美智子は事前に色々と調べていたが、トランペットは楽器の中でも一番安い部類だとどこかのウェブサイトに書いてあるのを読んで安心していたのだ。
「甘奈、これはちょっと……」
とショーケースの前で呟いた時にはすでに甘奈の姿はなく、彼女は試奏室の中に入って、楽器屋の店員に何本もの楽器を運ばせていた。甘奈は心斎橋中の楽器屋を知り尽くしていた。どこの店員とも顔なじみで、「高校生になったら楽器を買うつもりだ」と言いふらしていた。そしてそれがこの日だったというわけだ。
試奏室の中で真剣に何本もの楽器を吹き比べている甘奈を外から見つめていた美智子はいたたまれない気持ちになった。もしあの三十七万の楽器が欲しい、それしかない、と言われたらどうしよう。他の安い楽器にしなさいと言うしかないのだろうか。あるいはローンで……などと思っていると、紺色のエプロンを下げた、肌が白くてまるまると太った若い男の店員が美智子に声を掛けた。
「甘奈ちゃんはね、いっつも来てくれてるんですよ。高校生になったらお母さんが楽器買ってくれるんだよーって。毎回毎回たくさん試奏してね」
「そうなんですか……」
そこで美智子は気になっていたことをその店員に尋ねた。
「あの、その、わたしよくわからないんですけど、甘奈のトランペットって、どうなんですか?」
「どう、っていうのは?」
「何ていうか、腕前って言うんですかね。あたしそういうの全然解らなくって」
「いやあ、もう、凄いですよ。中学生なんか良く来るんですけどね、うちの店。甘奈ちゃんほど上手い子は見たことないなあ」
それを聞いて美智子は、おべっかなのだろうなとは思ったが、悪い気はしなかった。
「あの、甘奈が欲しがってる楽器っていうのは、その、おいくらくらい……」
「ああ、甘奈ちゃんね、欲しい欲しいて言ってるの、今ほら、吹いてるやつです。金色のやつね、ヴィンセント・バックっていうアメリカのメーカーのね、いちばんいいやつですよ。もうね、吹き込めば吹き込むほど味が出てきますから。そうですね、三十七万円で、っていうことですけど、甘奈ちゃんめんこいからね、勉強はさせてもらいますよ」
その店員は手を揉み顔を綻ばせいかにも商人といった顔つきで何の気なしに言った。
「めんこい?」と美智子は呟いた。
「やあ、でも、甘奈ちゃんは欲ったかりだわ、お母さん泣かせだね、こんないい楽器に目を付けるなんてね」店員は続けた。
「欲ったかり?」と美智子は怪訝な顔つきで店員を睨んだ。「あんた、内地の人でねえの?」
店員は一瞬「いけね、出ちまった」という顔をしたが、美智子も北海道の人と知ると、饒舌になって自分の生い立ちを語った。すると美智子と同じ函館の出身で、しかも同じ函館西高校の出身だということが判明した。
「ね、毎朝坂上ってね、あの坂がゆるくないんだわ。じゃあお母さんは北島三郎とかおんなじ学年だったんでないの?」と店員はふざけて言った。
「なしてさ、サブちゃんはもっと上だべさ。だけど一個上に辻仁成がいたよ」
函館のローカルトークで盛り上がり、店員と美智子が打ち解けたあとに甘奈が戻ってきて、やはり三十七万の楽器が欲しいと控えめに母親に言った。甘奈の方でも、ヴィンセント・バックの楽器以外に興味は無かったが、さすがにトランペットで三十七万は高すぎると思っていたので、このあと中古の楽器屋に行く段取りも考えていた。
「おっかちゃんに任せなさい」と言うと美智子は自分の胸をどんと叩いた。それは甘奈が初めて見る姿で、初めて聞く単語だった。
激しい交渉の末に夏野母娘は定価三十七万円のトランペットを二十五万円で買い叩くことに成功した。店員は「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げたが、そこからが美智子の腕の見せ所だった。当初の予算を「高くても二十万」と見積もっていた美智子にとっては五万オーバーの手痛い結果になったが、娘の求めるものを与えられた喜びで胸が一杯だった。美智子は、同郷のよしみというのは良いものだなと思っていたが、太った男の店員はそれとまったく反対のことを思いながら、夏野母娘が楽器屋を去っていくのを恨めしそうに見つめていた。
そうして自分の楽器を手に入れた甘奈はめきめきと腕を上げていく。音楽のセンスを見込まれた彼女は高校二年生の時には指揮者に選ばれた。そうして吹奏楽にのめりこんでいき、指揮者としての責任が芽生えると、今まで目も当てられない有様だった成績の方も少しずつ良くなってきていた。三年生になってソロコンテストに出場した彼女は大阪大会で優勝を果たす。惜しくも関西大会では入賞を逃したが、夏野甘奈には音楽の才能があると誰もが認めていた。
それを知っていた担任は甘奈に音楽大学へ進む気はないかと尋ねた。吹奏楽部の顧問もそれを薦めた。しかし甘奈はそれらを一笑に付し、自分は実家から通える京都の私立大学へ行くつもりだと言った。
「だって、音楽で御飯食べていかなあかんくなったら、なんか音楽すんのしんどくなると思わへん?」と甘奈は友人や母親に語った。
甘奈の高校生活は極めて忙しいものだったが、合間を見つけては母校の中町一中へOGとして指導に行っていた。松風が去った後の吹奏楽部は一中の卒業生で新任教師の尾花知佳が顧問になった。彼女は耳の持病があり、指導ができないので裏方に徹し、指揮は合唱部の顧問が担当することになった。
大学への進学を決めた高三の冬に、甘奈は中学校の練習を見に行った。三月の定期演奏会に向けて練習しているところで、甘奈は中学生に混じってトランペットを吹き、手本となる演奏を後輩たちに示した。一中のトランペットパートは皆、甘奈を尊敬していた。
その日の練習の後、尾花は甘奈を国語科教員室に呼び出した。
「夏野さん、大学決まったんやってねえ」尾花は眼鏡をかけていて、きつい目をした女教師だったが、その見た目からは想像が難しい、優しく美しい声の持ち主だった。
「おかげさまで、何とか滑り込めました」
「学部はどこになったん?」
「法学部です。お母さんが、つぶしが利くから、言うて」
「そうやの。大学でも吹奏楽やんの?」
「いや、大学の吹奏楽は、ちょっと」甘奈は先輩から、大学の吹奏楽部は応援団で、運動部の応援ばかりでつまらないと聞いていた。「あたし、応援とかそういうのあんまり興味ないんですよね」
「そっか。でも、夏野さん行く大学、オーケストラもあるやろ?」
「オケはつまんないです。市民吹奏楽団に入るつもりです」
甘奈は何度かオーケストラのコンサートに行ったことがあるが、トランペットは休みが多く、一度楽器を持ったらずっと吹いていたい性格の自分には合わないと感じていた。
「そうなんや……ところで、バイトとかはどうしはるのん?」
「バイトですか?」急に話題が変わったので甘奈は少し驚いた。「ええ、多分すると思いますけど……」
「ちょっと、ええバイトあんねんけど、どう?」尾花の眼鏡の奥がきらりと光った。
尾花が言った「バイト」とは、吹奏楽部の指揮者だった。今指導をしている合唱部の先生が、四月から隣の市の中学に転任になるので、指揮をしてくれる人がいないのだという。
「夏野さん、高校でも指揮してはるんやろ? 生徒たちも夏野さんやったらついていけると思うし」
「いや、でも、え、そんな、ちょっと」甘奈は驚いていた。自分が中町一中の吹奏楽部を指揮するなど思ってもみなかったからだ。
「それに、松風先生にも相談したんやけど、夏野やったら大丈夫や、って言うてくれたよ」
(あのハゲ! 余計なことを!)と甘奈は思って顔を赤くしたが、ちょっぴり嬉しい気持ちもあった。
「ほんまやったら、あたしが棒振れたらええんやけどねえ……」
そう言うと尾花は眼鏡を外し、もう暗くなった窓の外を眺めた。甘奈の目にその表情はどこか悲しげに映った。
「あの、尾花先生って、聞いていいかわかんないんですけど、耳悪いって、どのくらいなんですか?」と甘奈はおそるおそる聞いた。
「ああ、耳悪いっていうかね、中三の時にちょっと病気してね、それ以来三半規管の具合がようないんよ。あたしも一中の吹奏楽部のOGやねんけどな、その病気してから、ほら、吹奏楽って結構耳に圧力かかるやろ。あんまり大きい音も聴こえへんし……」
「そうやったんですか」
「でも、こうやって戻ってきて、指揮はできひんけど後ろから顧問で支えられるっていうのは、幸せなことなんよ」
そう言うと尾花はにこりと笑った。甘奈は眼鏡を外した尾花の笑顔を初めて見て、心が安らぐのを感じた。甘奈は尾花の見た目から、きっときつい性格の国語教師なのだろうなと勝手に思っていたのだが、実は優しい人なのかもしれないと思った。
「あの、指揮の話ですけど、ちょっと考えさせてもらうってことでもいいですか?」
「もちろんよ。そうやね、三月くらいにはお返事もらえるかしら?」
そうは言ったものの、甘奈の腹は決まっていた。彼女は指揮が好きだった。たった一本の細い棒で、自分では音をひとつも出さないのに、無限の音楽を引き出すことができるその行為に愛情を抱いていた。それは彼女にとってまさに「魔法」で、指揮をしている間は、自分が魔法使いになれる時間なのだった。
もちろん、指揮者であることの苦労も、実際の経験から知っていたし、ひとつの中学校の吹奏楽部を一年間引き受けることはそれなりに責任の重いことであるとも思っていた。しかし甘奈の心の中には多少の打算めいたものがあった。まず、大学生になってアルバイトを探さなくて済むということ。ファストフードやコンビニの店員になっている自分の姿を甘奈は想像することが出来なかった。がさつな性格だと彼女は自分を認めていたから、何かミスをして客に怒鳴られるのが目に見えていた。その点、音楽は自分の得意分野だし、相手は中学生だった。甘奈は軽い気持ちで、そのアルバイトを引き受けた。
しかしほどなくしてその見通しが甘かったことを彼女は知る。
「ちょっと、そこのラッパ。何休んでんの。そこメロディーやろ?」ある夏の練習中、甘奈は指揮棒で譜面台をかちかちと鳴らして、ふんぞり返って椅子に座っているトランペットの男子に注意する。甘奈がそう言っても、その彼は隣の女の子とぺちゃくちゃ喋って無視している。
「聞いてんの? ちゃんとやってよ。合奏進まへんやろ?」
そこまで甘奈が言うと、その男子は「へいへーい」と返事をして、「うるせえな」とでも言いたそうに耳のあたりを掻く。
「もう、コンクール近いんやからきちっとして! このままやとまた銅賞やで。じゃあ、Bの二小節前から」と言って甘奈が指揮棒を上げても、楽器をさっと構えてくれるのは数人しかいない。確かに冷房が弱い夏の音楽室での練習は厳しく、それは中学生の時の甘奈も味わったことだった。
イライラした甘奈がまた譜面台を叩くと、彼女の左手のすぐそばにいるクラリネットの女子がびくっと体を動かした。その女子は目をぱちぱちさせて、楽器を構えようとして滑らせそうになった。
(こいつ、寝てやがったな! しかも指揮者の目の前で!)
堪忍袋の緒が切れた甘奈は両手で木の指揮棒を半分に折った。
「どあほ! お前らやる気あんのか! こらあ!」
こんな風にして、空手で身に着けた口の悪さがつい出てしまうのだった。そうすると中学生たちはまるで葬式に参列しているかのように黙ってしまう。
(はあ、中学生ってこんなめんどくさいもんやったっけ? まったく、最近の若いもんは……)
夏野甘奈にとっての指揮者一年目は万事がこの調子だった。ひとりのOGと指揮者では、同じ人間でも身分が全く違い、中学生たちの接し方も百八十度変わってしまう。彼らにとって、あくまで指揮者は権力者だった。甘奈はそのギャップに苦労していた。毎回の練習の後、尾花は国語科教員室で、紅茶とクッキーを出して悩める魔法使いの労をねぎらった。
「夏野さん、ほんまにようやってくれてるわあ。今はまだ大変やと思うけど、あの子らもちょっとずつ変わってきてるんよ」
そんな風に励まされて、甘奈は三月の定期演奏会までやり抜くことが出来た。彼女は毎回トランペットを合奏に持参して、時には自分で旋律を吹いて解釈を伝えた。そういった努力が実を結び、最後には甘奈が頭の中で描いた音楽が少しずつ形になってきていた。
卒部生全員が書いた甘奈への寄せ書きを受け取った時、彼女の目は潤んだ。色紙の中心には「夏野先生ありがとう」と書いてあった。
「あたし先生やないのになあ」と言って甘奈は微笑んだ。「絶対一年で辞める」と思っていた彼女も、気が付けば二年目の契約書にサインしていた。
二年目の甘奈は中学生の扱いに慣れてきていた。中学生たちはすぐ指揮棒を折る甘奈に恐れを抱いていたので、仲良く一緒にやるという感じには全くならなかったが、指揮者とバンドの程よい緊張感が音楽を引き締めていた。甘奈は折りやすい木製の指揮棒ではなく、あえてグラスファイバー製の指揮棒を使うようになった。生徒たちは少しずつ甘奈を優れた指導者として認め始めていた。おかげで指揮棒は虐殺を免れた。
中町一中吹奏楽部は、夏のコンクールではついに銅賞を脱して銀賞を取り、文化祭では合唱部に代わって大トリを務めた。三月の演奏会も盛況で、五百人収容の小ホールでは立ち見が出るくらいになってしまった。そのコンサートの後、甘奈は尾花に「来年は大ホールを借りましょう」と言った。
「部員も増えてきたし、ちょっとずつこのあたりじゃ中町一中の名前が知れ始めてるみたいよ。金賞に一番近い学校やってね」と、尾花は嬉しそうに言った。
中町一中の指揮は、甘奈にとってはもうただのアルバイトではなくなっていた。それは甘奈の生活を構成する重要な一部分になっていた。普段は週に一回の合奏練習に参加するだけだったが、本番前になると毎日中学校へ行った。大学の講義を受けていても、甘奈が考えているのは音楽のことだった。
(次はどんな曲やろかなあ、金管はいっぺんしばかなあかんな、週末の合奏は早めに切り上げてあげようかな、補講で抜けそうなメンバーは誰かな……)
そうして取得単位ぎりぎりで大学三年生になった夏野甘奈は、中学生たちと共に三年目の春を迎えたのだった。
二章
三年目を迎えた中町一中と夏野甘奈の滑り出しは順調だった。四月には一年生十五名が入部を決めた。ここ三年間で最も多い人数の新入部員だった。
来年三月の定期演奏会は市民会館の大ホールで行われることが決定していた。吹奏楽部史上初めて大ホールでコンサートを行うことになる。このことは甘奈に少なからずプレッシャーを与えたが、一年がかりの大きな目標は彼女の気持ちを引き締めた。甘奈はことあるごとに「来年は大ホールだぞ」と部員に言って聞かせ、その挑戦に皆を駆り立てていった。中学生たちは一人残らず甘奈を心から尊敬し、その音楽を受け入れるようになっていた。それもそのはずで、今の中三は中一の頃から甘奈のしごきに耐えてきた学年なのだ。吹奏楽部は完全に甘奈の色に染まっていた。
最大の成功はコンクールの地区大会だった。二年間の努力が結晶し、中町一中はついに金賞を手にすることができた。北地区の代表になって、大阪府大会に進むことは叶わなかったが、それでも中学生たちはこの結果に狂喜乱舞した。会場には元顧問の松風純司や歴代のOBOGも姿を見せていた。結果が発表された時、歓声を上げる中学生たちの真ん中で、尾花と甘奈は抱き合って喜んだ。彼女たちが現役だった頃にも、金賞は手の届かないところにあったのだ。
「夏野、お前、今からでも遅うないから社会科の教員免許取れよ」と松風は発表の後に言った。「お前はこれを仕事にすべきやと思うぞ」
「そうよ、夏野さん、免許取ったら何とか入れるようにしてあげるし」尾花も調子に乗ってそんなことを口走った。
甘奈は笑って受け流していたが、それも悪くないなと思った。次の日に彼女は軽い気持ちで教員免許の取り方を調べたが、恐ろしいほどの単位が必要であると知って一瞬で諦めてしまった。
八月の頭にコンクールがあり、それを終えると吹奏楽部は長い休みに入った。甘奈も大学の試験をパスしたあと、大学生らしい夏休みを満喫することにした。彼女は大学の友人と遊び倒した。甘奈の大学は京都にあったのだが、中町市と京都をただ行き来しているだけの生活だったから、三年生になるまでろくに観光したことがないと気付いたのだ。もったいないなと思った甘奈は、夏の京都を縦横無尽に歩き回り、ありとあらゆる観光名所を巡った。いかにも大学生の考え付きそうなことである。しかし甘奈は京都が好きになった。
□
世間が盆休みに入っていたある日の夜、甘奈は美智子に呼び出されて、中町市駅前のイタリアンレストランへ行った。美智子が「話がある」と言って甘奈を呼び出したのだ。
珍しいなと甘奈は思った。夏野母娘が外食する機会といえば、年に二回、お互いの誕生日の時くらいだったからだ。甘奈が待ち合わせの時間に店の前へ行くと、美智子はまだ来ていなかった。甘奈は先に入って母親を待つことにした。
しばらくすると仕事を終えた後の母親が店にやってきた。二人がけのテーブルで母娘は向かい合った。
「何やのん、話って」美智子が席に着くなり甘奈は切り出した。
「まあまあ、本題にはまだ早いわよ」美智子がそう言うとウェイターがやってきた。
「とりあえず、何飲む?」
「そうやな、あたしはビールかな」
「甘奈、あなたまだ未成年でしょう?」
「あのなあ、去年の誕生日でハタチになったっちゅうねん」
「あ、そうだったわね。ごめんごめん」そう言うと美智子は甘奈にメニューを渡した。「本当にビールでいいの?」
甘奈はビールを、美智子はキールロワイヤルを注文した。飲み物が運ばれてくると、美智子がウェイターに料理を注文した。二人は乾杯し、甘奈は喉を鳴らしてビールを飲んだ。ジョッキから口を離すと「ぷはあっ」と言って手の甲で口元についたビールの泡を拭った。
「もうなんだか、『おっさん』みたいよあなた。もう少し女の子らしくできないの?」美智子は呆れた表情で、「おっさん」だけ大阪弁のイントネーションを真似て言った。外国人が無理して話す日本語みたいだ、と甘奈は思った。
「あたしはオッサンオバハンに囲まれて酒を飲むのに慣れすぎたみたいや」と甘奈は言った。
甘奈の分析は正しかった。彼女は大学入学と同時に市民吹奏楽団に入った。そこで週に一回トランペットを吹いている。吹奏楽団のメンバーは甘奈よりも年長の人間ばかりで、さらにトランペットパートは中年の男性しかいなかった。紅一点である甘奈は初めて酒を口にしたときからずっと、「とりあえずビール」という完成された様式の飲み方しか知る機会がなかった。そして金管楽器奏者の例に漏れず甘奈も酒に強かった。
「服だって、もっと女の子らしいのを着たらっていつも言ってるのに」美智子はキールロワイヤルの入ったシャンパングラスを少し傾けて溜息をついた。婦人服売り場で働いている彼女は時折売れ残った服を甘奈のために持って帰ってくるのだった。しかしそれらの服に甘奈が袖を通したことはない。
「だって、お母さんの持ってくる服さあ、あたし着られへんもん。ウエストがキュってなってたりさあ、ラッパ吹きが横隔膜締め付けてどないすんねんな。スカートもあかんよ。足開かな力出えへんねんから」
こうなったのはたぶん空手のせいもあるだろう、と思いながら美智子は酒を一口含んだ。
「でも、今は毎日トランペット吹いてるわけじゃないでしょう? たまにはお洒落したっていいのに。大学生なのよ、あなた」
「そんなもん関係あれへんがな」甘奈は憮然としてジョッキに手をかけた。「ラッパ吹きは死ぬまでラッパ吹きなんや」
「もう、髪の毛だって伸ばせばいいのに」美智子は頭の中で、髪を伸ばして色々な服を着ている娘の姿をいくつも思い描いていた。
「棒振る時に邪魔なんよ」そう言うと甘奈は二口目でジョッキの半分ほどまで飲んだ。「ぷはあ、うまい」
シーザーサラダとマルゲリータピザが運ばれてきた時に、美智子は甘奈に訊いた。
「甘奈、あなたもう大学三年生でしょう。将来のこととか、お母さんあんまり聞いてこなかったけど、何か考えてるの?」
(げっ、もしかしてこれが本題ってやつ?)と甘奈は思った。彼女は二十歳になるまで音楽のことで頭が一杯で、自分の将来などまともに考えたことがなかった。
「いや、何も考えてないなあ」と甘奈は正直に言った。彼女は木のボウルに盛られたシーザーサラダをトングでかき混ぜる。
「ふうん……お母さんよく解んないけど、『しゅうかつ』、っていうのがあるんでしょう?」
美智子は「しゅうかつ」だけ大阪弁で話す。きっと売り場で誰かが言っているのを聞いたのだろうなと甘奈は見当をつけた。
「うん、冬くらいからそういうのもあるみたいね」そう言うと甘奈はサラダを二つの皿に盛って、次はピザカッターでマルゲリータを八等分してゆく。
「何だか他人事みたいだわ」
「だって、ようわからんねんもん」
「まあ、そういうものなのかもしれないわね」
甘奈は就職活動について知らないわけではなかった。三年生になってから、大学が主催している就職活動の説明会にも参加していた。しかし甘奈にはその内容が複雑過ぎて飲み込めなかったので、同じ法学部の友人に「とりあえず何したらええねん」と訊いた。その友人は「十月までは何もせんでええ」と返した。甘奈はその言葉にひとまず安心していた。
「十月までは、何もせんでええらしいよ」甘奈は友人の言葉を引用した。
「へえ。でも、何ていうかな。その、甘奈はやってみたい仕事とかあるの?」
甘奈はピザを一切れ口に運んだが、まだ熱かったので皿にそれを置いて冷ますことにした。
「やってみたい仕事かあ……そんなん考えたことなかったなあ」
甘奈は説明会に参加した時、もうスーツに身を包んでいる同級生がいることに驚いていた。それを見て、彼ら彼女らは真剣な気持ちで会場に来ているのだろうと思った。そしてそれに比べて自分は何も考えていないと感じていた。
「うん、何も思い浮かばへんわ」
「あなたのそういう所は誰に似たのかしらねえ」美智子はもの憂げに言った。
「知らんがな。お父さんちゃうのん?」
「まあ、わたしではないことは確かね」美智子は甘奈が取り分けたシーザーサラダにフォークを入れた。
甘奈は父親に会ったことがない。生まれた時にはもういなかったし、そのままの環境で彼女は育ってきた。だから会いたいと思ったこともないし、たぶん父親の方にしても自分に会いたいなどとは思っていないのだろうと決め込んでいた。
「そういえば、お父さんってどんな仕事しとったん?」甘奈はふと思いついて尋ねた。もし自分が父親に似た性格なら、彼の仕事は自分の将来に関する何らかの手がかりになると思ったからだ。
「工業デザイナー」と美智子は眉間に皺を寄せてぽつりと呟いた。どこか投げやりな言い方のように甘奈には思えた。
「へえ、何かかっこいいな。何する人なん?」
「そうねえ。椅子とか机とか、そういうモノの形を考える仕事よ」
「いやあ、全然興味ないなあ」そう言うと甘奈は朗らかに笑った。
「まあ、あなたは音楽バカだから」
「おおきに!」甘奈にとってそれは褒め言葉だった。
サラダとピザをあらかた食べ終えてしまうと、茄子とベーコンのトマトソースパスタが運ばれてきて、ウェイターが二杯目の注文を取った。甘奈はビールを頼もうとしたが、美智子がそれを制してブルゴーニュ産の赤ワインをボトルで頼んだ。甘奈はワインが苦手だったが、美智子が選んだワインは口当たりが滑らかで彼女の舌に合った。要するにぐいぐい飲めるかどうかが、甘奈にとっての良い酒の条件だった。
酒に強いとはいえ甘奈も次第に良い気分になってくる。甘奈の酔いはじめのサイン――理由もなくデレデレする――を見てとった美智子は咳払いをして、彼女にとっての本題を切り出した。
「あのね、甘奈。ちょっと聞いて欲しいんだけどね?」
「うん、何? 何でもええよお?」幸せだ、と甘奈は感じていた。満腹な上にうまい酒をたくさん飲んでいい気分になっている。それは幸せの確実なひとつの形ではある。
「甘奈にね、会って欲しい人がいるの」
「会って欲しい人?」
「そう。男の人なんだけどね。今梅田で働いてて、わたしと同い年の人なんだけど……」
「ふむ」テーブルの上に組んだ腕に、甘奈は顎を乗せていた。そして見上げるような格好で母親の顔をまじまじと見た。
(同い年の男ねえ。まあ、そんな人にあたしが会わなあかん理由なんて一つしかないんやろなあ)
その考えはごく自然に甘奈の頭の中に浮かんできたが、すぐに彼女は混乱した。
「ええっと、つまり、それは、再婚相手ってこと?」酔いがさっと醒めた気がしていた。甘奈は顔を上げて、椅子を引いて姿勢を正した。
「ううん、まだ決めたわけじゃないのよ。お付き合いしてるだけ」美智子は平然と言った。
「お付き合い」甘奈は呟いた。「あたしにまだ、彼氏ができんっていうのに……女子大生のあたしが……」
「まあでもとりあえず、一度甘奈にも会ってもらおうかなと思って」娘の独り言を無視して美智子は言った。
「あたしは何も言いませんよ? もうハタチやねんから。余計なことは、何も」
「いやそうだけどね、ほら、まあ、一緒に住むとかはないと思うけどさ、一度会ってみた方がいいかなって」
「一緒に住むとか想像できひんわあ。あは、家に男の人がいるなんて、笑ける」
「今すぐ会うってわけじゃないから。心に留めておいて欲しいって思っただけよ」
「はあい」そう言うと甘奈はグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。それと同時に美智子もグラスを空にした。
□
大阪府中町市は、淀川と生駒山脈に挟まれた、坂の多い街として有名である。市内には坂を表す地名が多くあり、夏野母娘のマンションも高丘町という所にあった。甘奈が中学生になる前に引っ越したそのマンションは、町名が表す通り長い坂のてっぺんにあった。酔いのせいでぼやけた頭で帰宅する途中、甘奈は自分の将来について考えていた。
(たぶん、お母さんにとっては再婚相手のことが本題やったんやろうけど、あたしはよっぽど将来のことについて考えさせられたわ……。でも、あたしにはまだ全然わからへん。自分がどんな仕事やりたいかなんて)
坂を上り、マンションの前に着くと、甘奈は中町市の夜景を見下ろした。街の灯りの向こうには、黒々とした夜の淀川が静かに流れていた。甘奈にとって一つだけ確かなことは、もし働くとしても、この土地を離れることはないということだった。甘奈は中町市のことを心から愛していた。それは、同じような中町市出身の二十歳の人間と比べたとしてもかなり強い気持ちであると甘奈は自負していた。甘奈にとって中町市は自分だけの故郷だった。唯一の肉親である美智子には、函館という遠く離れた故郷があった。時代の流れと共に南へ南へと描いてきた美智子の人生の軌跡は、甘奈の心の中に故郷という存在の濃い輪郭を投影していた。そのように、故郷を愛するように美智子が甘奈に教育したことは全くない。それは言葉ではなく、親子の関係がもたらす目に見えない力学によって育まれた愛情だった。成功した商売人の子供が、本能的に二代目のジンクスを避けて別の道を歩んでいくように、甘奈は故郷から離れることのない人生を志向していた。完全な大阪弁を話すことができなかった少女のコンプレックスは、まっすぐな愛情に姿を変えて坂の多い街に根を張っていた。
三章
八月の末に吹奏楽部は練習を再開した。その週の金曜日には甘奈が学校へ来て久々の合奏練習が行われた。十月にある文化祭に向けた練習が始まったのだ。この文化祭を最後に三年生は仮引退し、高校受験が終わったら三月の定期演奏会に向けての練習に合流する手はずになっている。とはいえ三年生はコンクール以降、受験勉強で忙しくなっているので、文化祭の段取りなどは全て二年生が行っていた。
「よし、ほんなら『ふるさと』行きましょか」
そう言って甘奈は指揮棒を構えて、その先でゆっくりと大きな三角形を描く。最後の一辺が振り始めの点に戻ってくると同時に、音楽室の空気は三十五人の深い呼吸に収縮し、次の瞬間にはそれが最初の音となって解放される。『ふるさと』は日本中の多くの吹奏楽部でウォーミングアップとして使われている曲で、中町一中でも採用していた。誰もが知っている曲で、単純で明るい和音は耳に心地よく、楽器を始めたばかりの人でも吹きやすい旋律だった。
その十六小節を演奏し終えると、甘奈は再び口を開いた。
「オッケー。いい感じにリラックスできてるね。そしたら、文化祭の曲やっていこうか。そうやな、まず一番厄介なやつから行こう。『ヴィヴァ・ムジカ!』からやってこか。一回目やし、ゆっくりやるね」
夏野甘奈は指揮棒で譜面台の端をこつこつと叩き、テンポを示す。小麦色に焼けた肌の中学生たちはそれぞれの楽譜をじっと見つめ、最初の数小節を想像する。しばらくの沈黙のあとで、甘奈は指揮棒を上げ、音楽の始まりを導く。
□
この日の練習の後、甘奈は一人で学校に残って楽譜庫に向かった。尾花から定期演奏会の曲目について相談を受けたのだった。
「いつもは生徒とあたしで決めてるけど、夏野さんも三年目やし、しかも大ホールってこともあるしね、もし良い曲あったら教えて欲しいのよね」
甘奈の頭の中にはありとあらゆる吹奏楽の曲が記憶されていたて、その中には中町一中のレベルに沿うような曲のリストもあったが、そもそも楽譜がなくては話にならない。吹奏楽の楽譜は高価だから、一年にそう何曲も買えるものではない。だから、これまで中町一中が長い歴史の中で蓄積してきた曲が収められている楽譜庫で、あらかじめ演奏可能な曲を知っておこうと思ったのだ。尾花は「次の練習の時に返してくれたらええから」と言って甘奈に楽譜庫の鍵を渡した。
楽譜庫といっても、二年生の教室があるフロアの、手洗いの横にある小さな部屋だ。その部屋の前に立つと、甘奈は懐かしい気持ちがした。現役時代に甘奈が楽譜庫に入ったのは一回だけで、定年前の松風が部員に大掃除を命じた時だけだった。
鍵を開けて中に入ると、古い紙の匂いと夏の暑さが溶け合った、手で掬えそうな密度の濃い空気が甘奈にまとわりついた。部屋の左右には楽譜の入ったねずみ色のロッカーが並んでいる。その間に辛うじて残った細い道を辿り、甘奈は埃の溜まった窓を開けた。ドアも開けたままにしておき、新鮮な風を部屋に送り込んだ。窓からは西日が容赦なく差し込んできていた。
甘奈はロッカーを一つずつ点検していった。駅によく置いてあるコインロッカーのようなサイズの金属製のものだった。地面から天井に向かってそれが三つずつ積まれていて、壁沿いにずらりと並んでいる。南京錠の留め金がついていたが、どのロッカーにも鍵は掛かっていなかった。その中には楽譜がいくつか入っている。きちんと装丁された表紙のある、出版社から購入した楽譜もあったが、他校に頼んでコピーさせてもらった楽譜もあり、それは大きな封筒に入っていて、表にマジックで曲のタイトルが書かれていた。『行進曲 錨を上げて』という松風の達筆を久々に見た甘奈は思わず微笑んだ。
そんな風にして甘奈はロッカーの中を漁っていったが、懐かしい曲名に出会うたび、トランペットを取り出して吹かずにはいられなかった。甘奈は定期演奏会にふさわしい曲をいくつかリストアップして、楽譜を調べて紛失しているパートがないかどうかを確かめた。そして最後のロッカーに甘奈が手をかけた時、陽は既に沈み始めていた。
そのロッカーはドアの一番近くにあり、甘奈の目線の高さにあった。彼女は南京錠の留め金の部分を引っ張って開けようとしたが、なかなか開かなかった。彼女が指先に力を込めると、ロッカーの扉は勢いよく開いた。
甘奈は反射的にさっと後ろに下がり、開いたロッカーの扉から楽譜が自分の身に降りかかってくるのをかわした。ばさばさという音を立てて、数冊の封筒が床の上に折り重なっていった。
甘奈はしゃがんでそれらの封筒の埃を払い、曲名を確認していった。
(『春の猟犬』か、これはアリやな。『展覧会の絵』、こんなん無理無理! ほんで次は……)
甘奈は『バラの謝肉祭』と表に書かれた封筒を手に取った。するとその封筒の裏から、ひらりと一枚の紙が剥がれて床に落ちた。甘奈は封筒を床に置き、落ちた方の紙を拾った。そしてそれが、楽譜が印刷されたコピー用紙ではないことに気が付いた。
それはA4サイズの厚紙で、変色して薄い茶色になっている。古い楽譜なのだろうなと甘奈は思った。紙の端は虫に食われたような形に細かく欠けていて、表面はざらざらとしていた。吹奏楽の楽譜ではなくて、ト音記号とヘ音記号の二段組になった手書きのピアノ譜だった。すすけた表面に甘奈は目を凝らして、曲名を読み取った。
「『Song Without Words』か。んー、言葉のない歌っていう意味かな?」
作曲者の欄には「J.Sakinami」と書かれていた。サキナミ、と甘奈は呟いて、恐らく日本人だろうと推測した。
吹奏楽の曲でないことは明らかだったから、本来であればその楽譜は甘奈の今日の目的から大きく外れた代物のはずだった。しかし甘奈は、そのタイトルと作曲者に興味を抱いた。彼女の音楽的な好奇心といったところだろう。甘奈はその楽譜を封筒の山の上に置いて、トランペットを構えた。
「どれどれ、モデラート、四分の三拍子、シャープもフラットもなし。全部で十六小節か。ドードードーシーラシー……」
もう外は薄暗くなってきていて、楽譜庫の中には弱々しい青色が投げかけられていた。その一日の最後の光を頼りに、甘奈は楽譜を読み、トランペットの音でなぞっていった。
(なんや、変なメロディーやな。何というか、全然メロディーっぽくないし。つまらん曲やなあ。かっこいい名前のクセに)
十六小節を吹き終わった甘奈は、トランペットを置いて、その楽譜を『バラの謝肉祭』の封筒の中に入れようとした。
その瞬間、甘奈が背を向けていたドアから冷たい風が吹いた。音もなく訪れた、氷のように冷たいその風は甘奈の体に吹き付けて、一瞬のうちに窓へと抜けていった。甘奈は身震いし、すぐにドアの方を振り返ったが、それと同時にドアと窓が暴力的な音を立てて閉まった。
甘奈は自分の体温がこれまで経験したことのない速度で奪われていくのを感じた。そしてその埋め合わせとでも言うように、鼓動が急速にテンポを上げていった。甘奈の耳には、ドアと窓が閉まった音の残響がまだ留まっていた。そしてその残響が薄まっていくと、甘奈が初めて耳にした音量の鼓動が体じゅうに響いてきた。
(ヤバい。何か知らんけど、ヤバい)
ドアが閉まった部屋の中はほとんど真っ暗になっていた。甘奈は震える手で床に散らばった楽譜をロッカーに押し込み、トランペットをケースの中に戻した。
(何なんや、今の風。あんな冷たい風、夏に吹くわけない!)
甘奈はトランペットケースのファスナーを閉じるのに手こずった。普段ならなめらかに動くはずのファスナーが、異常な力の込もった甘奈の指先を拒絶していた。
(早う閉まれ! 早うここを出んと!)
一瞬吹いただけの風に奪われた体温は戻らぬままだった。甘奈は次第に頭がふらふらしてきて、吐き気を覚えた。体は冷たいはずなのに、彼女の額には汗が滲んでいた。甘奈は一刻も早く部屋を出て、夏の大気にその身を晒してしまいたかった。
ようやくファスナーが甘奈に従い、彼女はリュックサックを掴んで楽譜庫から飛び出した。
甘奈は廊下の窓を開け、そこから身を乗り出して外の空気を吸った。心臓は相変わらず早鐘のように鳴り続けていた。甘奈は二度深呼吸をして、窓から体を戻し、壁にもたれかかった。
誰もいない夏休みの廊下には生ぬるい空気が漂っていて、隣の手洗いにある石鹸のレモンの匂いが甘奈の鼻をついた。
(落ち着こう。もう大丈夫や……)
甘奈は自分にそう言い聞かせた。彼女は失われた体温が少しずつ廊下の蒸し暑さに同調していくのを感じていた。
彼女はしばらくその姿勢のままでいて、鼓動と体温が均衡を取り戻した時、リュックサックの中からタオルを出して汗を拭った。その汗の量に甘奈は戦慄した。そして一滴たりとも、夏の暑さでかいた汗ではないと悟った。
□
甘奈は自転車を漕いで、真っ暗な高丘町の坂を上っていく。坂を上っていると体中から汗が噴き出した。彼女は普段、坂の途中で漕ぐのを諦めてしまうのだが、その日はあえて最後まで息を切らして上りきった。甘奈は夏の汗を欲していた。楽譜庫で吹いた冷たい風が、彼女の体に残した奇妙な感触を、汗とともに体の外に出してしまいたいと思ったからだ。帰ってシャワーを浴び、夕食をとって眠りに就いた時、甘奈の体は暑い夜にふさわしく火照っていた。ただ、不自然なメロディーだけが彼女の耳の奥にこびりついていた。言葉のない歌の旋律は、甘奈にとってあまりに無機質で、その味気なさゆえに忘れることができなかった。甘奈は強く目を瞑って、早く眠りの底が訪れるように願った。
四章
八月最後の土曜日には市民吹奏楽団の練習があった。甘奈は吹奏楽団では若手だったので、指揮をする時のような重い責任を感じずにトランペットを吹いていた。甘奈にとっての、週に一度の息抜きだった。
練習は夕方からだったが、雲ひとつない快晴の日だったので、青空の下で思い切り楽器を吹きたくてうずうずしてきた甘奈は、昼食を食べた後トランペットを持って家を出た。ほとんどブレーキをかけずに長い坂を自転車で下ってゆき、人で賑わう中町市駅の踏み切りを渡って、淀川の河川敷にやってきた。甘奈が中町市の中で最も愛する場所がこの河川公園だった。豊臣秀吉の時代に造られたという長い堤防があり、その堤防から川までの広大な敷地が芝生化され、市民の憩いの場になっている。テニスコートや野球場もあり、甘奈も子供の頃は毎日のようにこの場所で遊んでいた。堤防の上から彼女は公園を見下ろし、土曜日の昼下がりを過ごす人々の姿を見て、川の空気を思い切り吸い込んだ。いい匂い、と甘奈は思う。どこか違う街に出掛けても、近くに川があれば、彼女はその気配を感じ取ることが出来る。
堤防を降りて、淀川に架かった橋の下に甘奈は自転車を止めた。日陰になったその場所で彼女はケースから楽器を出し、橋を支える太い橋脚の土台に腰掛けた。しばらく唇をぶるぶると震わせてウォーミングアップしたあと、川に向かって楽器を構えた。ベルの先に、釣りをしているTシャツ姿の男の姿が見えた。
いつものように、一番鳴りやすいファの音を吹き伸ばそうとしたが、息が吹き口から楽器に入らなかった。あれ、おかしいなと甘奈は思い、もう一度、より強く息を吹き込んだが、空気が一向に入っていかなかった。まるで誰かに口を塞がれているようで、頬が膨らむだけだった。
こういうことは今まで何度か甘奈の身に起きていた。トランペットという楽器は、唇の圧力を変化させ、流れる息のスピードを調節することで――水撒きのホースの口を締めたり緩めたりするように――根本的な音の高さをコントロールする楽器だ。それに加えて、三本のピストンを押すことで、楽器の内部で管の長さが変わり、細かい音の高低が決まってゆく。
楽器に息が入らないということは、ピストンが正しくはまっていないのだなと甘奈は思った。ピストンは時々油を差してやらないと固着してしまうのだが、その手入れの後に、はめる方向を間違えるとこういうことが起きる。中学生の頃、学校の古い楽器を使っていた甘奈は何度かそれを経験していた。
しかし、甘奈は最近ピストンの調整など行っていなかった。それなのに息が入らない。そんなはずはない、と甘奈は思った。彼女はピストンを外して、正しい向きになっているかどうか確かめた。三本とも間違いなく装着されていた。そうして甘奈はもう一度息を送り込んだ。しかし息は音に変わらず、溜息になって空気に吸い込まれていった。
調子が悪いのかもしれない、と甘奈は思った。音が出ないなんてことは今までなかったけれど、そういう風になったプロの音楽家を何人か知っていた。テレビで見た、何の病気もしていないのに指が動かなくなったピアニストの話を思い出した。自分ももしかしたら、そういう深刻なスランプに陥ったのかもしれないと思った。音楽家には一生のうちに一回くらいそういうことがあってもおかしくないはずだ、と。その考えは甘奈の心の底を急速に冷やした。彼女の耳には、堤防の桜並木から聞こえてくる、やかましいセミの声だけが響いていた。
体調が悪いので休みますと楽団のリーダーにメールを打ち、甘奈は楽器を片付けた。この時まだ彼女の気分は――元々楽天的で、心配事の少ないタイプではあったのだが――それほど落ち込んではいなかった。楽器を吹けないという事実が目の前にあるのに、それはどこか別の世界の出来事であるように感じられた。甘奈にとってそれは余りにも重大な事実で、理解の範疇をはるかに超えていたからだ。明日には吹けるようになる、と彼女は思って、駅前のレンタルビデオ店でDVDを借りて帰った。
次の日もその次の日も甘奈は河川敷に行って楽器を吹こうとした。だがそのたびに彼女は途方に暮れた。調子が悪いというレベルではなかった。
(あたし、楽器吹けへんようになってる? 下手になったとかじゃなくて、音が出せへん。そもそも息が通らへん)
彼女は次に病院に行こうかと思った。しかしどの病院に行けばいいのか解らなかった。耳も聴こえるし、息もできる。体調はすこぶる良好だった。部屋の本棚にある、高校生の時から集めている吹奏楽の専門雑誌を手に取り、有名なトランペット奏者がスランプに陥った時の話を探した。彼女は何冊も読んだが、楽器に息が通らなくなったなどということはどこにも書いていなかった。明確な原因がある、精神的な不調を別にすれば、せいぜい高い音が出ないとか、音が震えるとか、指の回りが悪くなったとかその程度だった。もしかして自分は長い夢の中にいるのではないかと疑ったが、生活は普段と変わらなかった。平凡な大学生の夏休みがただ過ぎていくだけだった。携帯電話のカレンダーは九月が訪れたことを甘奈に知らせた。
木曜日に尾花からメールが来た。いつも通りの業務連絡だった。二学期が始まったことと、練習曲目と、時間が書かれているだけの文章だった。
(そうや、とりあえず楽器は吹かれへんくなったみたいやけど、あたしには指揮っていう仕事があるんやった。楽器はそのうちに治るやろう)
甘奈はそのメールが来たことで気を持ち直し、指揮の練習を始めた。指揮者用の楽譜を読み、CDでプロの演奏を聴いた。耳はいつも通りだった。彼女は長い時間をかけて曲を研究し、楽譜にチェックを入れ、イメージを膨らませていった。指揮棒を握り、CDに合わせていくつもの図形を描いて次の日の練習に備えた。
そして金曜日の放課後、甘奈は一中に行き、国語科教員室で尾花と軽く雑談した後、楽譜と指揮棒を持って音楽室に向かった。甘奈はいつもと違い、トランペットを持ってきていなかった。しかしそのことを尾花は特に気に留めなかった。
三階にある音楽室に向かう廊下を歩いていた甘奈は、かつて自分が中学生だった時、窓から毎朝中庭に向かってファンファーレを吹いていたことを思い出す。冷たい朝の空気や、誰もいない学校の静けさ、金色に輝いていた自分の音……。そしてその鮮やかな記憶が彼女に勇気を与えた。大丈夫、またすぐに吹けるようになる。そう思って甘奈は音楽室のドアに手をかけた。
その時に彼女はいつもと違う気配を感じた。何かが違う。何かがいつもと違う。何かが激しく欠けている、と。
欠けているもの――それは音だった。甘奈の到着を待ち、それぞれに音出しをしている中学生たちの音だ。その雑然とした、いくつもの楽器が無秩序に奏でる音を聴きながら、彼女はいつも音楽室に入ってゆく。そして指揮台に彼女が立つと、皆は吹くのを止める。しかし、今は甘奈が音楽室に入る前から静まり返っている。
(たぶんミーティングでもしてるんやろ。二学期も始まったばっかりやし)
そう自分に言い聞かせて違和感を脇に押しやり、甘奈は音楽室のドアをゆっくりと開いた。ドアの立てる小さな音がその耳にはきちんと聴こえた。そして楽器を吹いている大勢の吹奏楽部員たちの背中が彼女の目に飛び込んできた。彼らは間違いなく楽器を吹いていた。空気の震えでそれが解った。しかし、甘奈の耳にはどんな音も届いていなかった。
音楽室のドアの前で、甘奈は絶望した。
(楽器の音が聴こえへん……)
彼女は両腕の力を失い、脇に抱えていた楽譜と指揮棒を落とした。そのグラスファイバー製の棒が地面に落ちる、乾いた音を甘奈は聴いた。彼女は何も考えることができなかった。彼女の世界から、楽器の音だけがすっぽりと抜け落ちていた。
一人の生徒が甘奈の背後にやってきた。藤枝という三年生の打楽器奏者で、吹奏楽部の部長でもあった。藤枝は手洗いを済ませて音楽室に戻ろうとしていたのだが、甘奈がドアの前に立っていて入れなかったので、その背中に向かって声をかけた。
「夏野先生? どうしはったんですか? 入らないんですか?」
藤枝は落ちていた指揮棒と楽譜を拾って、甘奈に渡そうとした。彼女は甘奈の異常にすぐ気が付いた。甘奈の体が細かく震え、見開かれた彼女の瞳から一筋の涙が流れているのを見た。
「先生……何か、あったんですか……?」
甘奈は藤枝の質問に答えずに、音楽室の前から立ち去った。国語科教員室に行ったが尾花はいなかった。甘奈は尾花の席の横に置いてあるリュックサックを背負って部屋から出て行こうとした。その時、ちょうどお茶を淹れに給湯室へ出ていた尾花が教員室に戻ってきて、二人は入り口で顔を合わせた。甘奈はさっとうつむいた。
「夏野さん、どうしはったん? 忘れもの?」
「あの……ちょっと……体調が悪いので……」甘奈はうつむいたままそう言った。彼女の声は震えていた。
「あら、大丈夫?」そう言って尾花は甘奈の顔をのぞいた。そして彼女の目が赤くなっているのに気が付いた。
「どうしたん? な、何で泣いてるのん? 何かあった?」尾花は甘奈の肩に手を掛けようとした。
甘奈は何も言わずその場から走り去った。それと入れ替わりで、楽譜と指揮棒を抱えた藤枝が尾花の前に姿を現した。
「ちょっと藤枝さん、どうしたん、夏野先生?」と尾花は尋ねた。
「わかんないんです。何か、音楽室の前で立ってたから、どうしたんですかって聞いたら、泣いてはって……」藤枝は困惑した表情で尾花にそう言った。
尾花は機転を利かせた。
「たぶん、風邪引いてはるんちゃうかな。とりあえず、今日はパート練習に変更ってみんなに伝えといて」藤枝にそう指示して、甘奈の残した楽譜と指揮棒を引き取った。「あと、夏野先生が泣いてたこと、誰にも言うたらあかんで」
藤枝はこくりとうなずき、音楽室に戻って行った。尾花は嫌な予感が自分の胸の中に広がっていくのを感じた。
(夏野さん、何かあったんやろか……ホンマに風邪引いてるだけやったらええねんけど……)
甘奈は全速力で自転車を漕ぎ家に向かった。いくらスピードを上げても流れる涙を止めることができなかった。むしろ風が強く自分の体に吹きつけるたびに、絶望は段々と深くなっていった。
家には誰もいなかった。甘奈は美智子が仕事に出ていたことに感謝した。こんな姿を母親に見せたくないと思った。そして部屋に籠もって大声を上げて泣いた。まるで世界の終わりが来たかのように、長い叫び声を何度も繰り返した。
ひとしきり泣いたあと、甘奈は枕に顔をうずめた。彼女は自分の顔の熱さを感じた。甘奈は自分の心の中で、巨大な何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。甘奈から音楽というものが完全に失われてしまったのだ。そしてそれは彼女のほとんど全てだった。
五章
水島大城の携帯電話が鳴ったのは九月最初の土曜日の夜だった。その時彼は、自宅の二階にある自分の部屋にいて、ベッドの上で胡坐をかき、膝の上に載せたMacbook Airのキーボードを一心不乱に叩いていた。
「ああ、違う。ダメダメ、これ書いてたら収まんねーわ」
大城の部屋にはうっすらとピアノの音が聴こえてきていた。その家の一階にあるグランドピアノの前で、彼の母親もまた一心不乱に白黒の鍵盤を叩いていた。
「ババア、何時だと思ってんだよ……。このクソ暑い夜中にチャイコフスキーかよ」大城は吐き捨てるように言って、頭を掻いてまたパソコンのディスプレイに向き直った。
大城の机の上に置いてあった携帯電話が鳴り出した。ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』だった。彼がその着信音を聴くのは久しぶりのことだった。
(お、誰だろ。吹奏楽の人だな)
そう思って彼はベッドから降りて携帯電話を開いた。メールの送り主は夏野甘奈だった。
(ナツカン先輩じゃん。久しぶりだな)大城の頬は思わず緩んだ。
「久しぶり! ちゃんとラッパ吹いてるか? ところで突然やけど、明日の昼空いてる?」とそのメールには書いてあった。
「おおっと、ナツカン先輩からお誘いとは!」
思わず声を出した大城は急いでメールの返事を打った。
「お久しぶりです。もちろんOKです。高校での別れからはや二年、ようやくナツカン先輩も男としてのボクの価値に気が付いたんですね。ええ、今のところ彼女はいませんから安心してください。ちなみに夜も空いてまーす」
と送って一人でニヤニヤしていた。すぐにまた『ウィリアム・テル序曲』が鳴り、大城は甘奈からの返事を読んだ。
「しばくぞ 中町珈琲15時 楽器持参のこと」
とだけ書いてあった。
「相変わらずだな、あの人は」
そう呟いて大城はベッドに飛び込んだ。彼の顔はしばらく笑顔を保ったままだった。パソコンで先ほどまで行っていた作業はその夜、それ以降まったく進まなかった。一階からはずっとチャイコフスキーのピアノコンチェルトが聴こえていた。
□
ほとんどすべての後輩が甘奈のことを「カンナさん」「カンナ先輩」と呼んでいたのに、水島大城だけは「ナツカン先輩」と呼んだ。高校生の時、甘奈はその理由を大城に尋ねたことがある。
「だって、何かいいじゃないですか、リズムが。本当は僕も先輩たちみたいに『ナツカン』って呼びたいんですけどね」
それを聞いた甘奈は大城の腹に右ストレートを打ち込んだ。
「先輩やろが!」
水島大城は甘奈の高校の、一年下のトランペットの後輩だった。
日曜日の午後、トランペットケースをぶら下げた大城が中町珈琲に入った時、店の奥の席に甘奈が座っていた。彼女の足元にも楽器のケースが置いてあった。
「お久しぶりです! 去年の定演以来ですね。八ヶ月ぶりくらいかな?」そう言って大城は甘奈の向かいに座った。二人の母校である高校の定期演奏会は十二月にあって、その時に甘奈と大城は顔を合わせていた。
「せやな。どう、元気してる?」そう言った甘奈の笑顔はどこか力なく大城の目に映った。
「ええ、そりゃもう。何か、大丈夫ですか、顔色悪いですけど? 冷房効きすぎてるのかな?」
「それよりあんた、まだ標準語治らへんの?」甘奈は顔色の話題をひらりと避けた。
「治る、って失礼だなあ。病気じゃないんだから。僕は元々この喋り方なんです」
ウェイターが注文を取りに来て、二人はアイスコーヒーを注文した。
「ほんで、最近何しとるん?」飲み物が運ばれてきたのを合図に、甘奈がそう切り出した。
「いや、めっちゃ忙しいですよ」大城はストローでコーヒーの氷をかき混ぜた。「十月に選抜があるんですよ、留学の」
「ああ、そういやそんなこと言ってたな。どこやったっけ? アメリカ?」
「いえ、カナダです。狙ってるのは」
「へえ。何でまたカナダなん?」
「何か住みやすいらしいです。のんびりしてて、勉強するにはちょうどいいらしいですよ。でも、大変なんですよね、人気があるから競争率がヤバいんですよ。毎日志望理由書いては直し、書いては直し、ですよ」
大城はストローでコーヒーを一口吸った。頬をへこませた大城の顔を見て、甘奈は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいんですか?」と大城は理由もなく笑う甘奈に言った。
「いや、なんか、アンタって変わらへんなあと思って」
「僕はずっと僕ですよ」と言って大城は不満そうな表情を浮かべた。
「うん、それでええんよ」甘奈もコーヒーを一口含んだ。「それで、留学っていつからなん?」
「十月に選考があって、それが通れば来年の夏からですね。来年の今頃にはカナダにいると思いますよ」
「えらい自信あるんやないの」
「そりゃ、ずっと勉強ばっかしてましたから」大城は得意げに言った。
「確かに、アンタどうしようもないアホやけど、勉強はようできたもんなあ」
水島大城は京都大学で経済学を専攻していた。彼は高校時代から、何でも知っている「歩く百科事典」的な秀才だった。こと音楽の知識に関しては、部員の誰よりも詳しかった。ピアニストの母親と、指揮者の父親のもとに産まれた彼にとっては当然のことと言える。横浜で育った大城が中町市にやってきたのは彼が高校生になる直前のことだ。母親がコンサートピアニストとしての活動に疲れを感じ、大阪の音楽大学で教鞭を取ることに決めたからだった。父親は一年のほとんどをホテルで暮らすような生活だったから、家がどこにあろうと構わなかった。
「でもなんでアンタ留学なんかするんかいな? だいたい、アンタみたいな家に生まれた子は、音楽大学でも行くんがええんちゃうん?」
「嫌なんですよ」大城は腕を組んでそう言った。「僕は音楽は死ぬほど好きですけど、それで飯食っていくのだけは嫌です。それだけはね。反面教師ってやつですよ。だからビジネスマンになってやろうと思いまして」
「ふうん。ピアノ弾けて、絶対音感あって、棒も振れるビジネスマンか」
「指揮は先輩のおかげですよ」甘奈の引退後、高校の指揮者を引き継いだのは大城だった。トランペットも指揮も、大城は甘奈の一番弟子だった。そして大城は甘奈に尊敬の念を抱いていた。
「親父見てて、絶対指揮者なんかしたくないって思ってたんですけどね。いつも苦しそうだったから。でも高校入ってナツカン先輩の棒見て、ああ、指揮ってこんなに楽しそうにできるもんなんだ、って」
「なんやそれ、あたしをバカにしてんのか」甘奈は鋭い目つきで大城を睨んだ。
「いやいや、褒めてるんですよ」大城は煙草を吸いたくなり、テーブルの上を見回したが灰皿が無かったので我慢した。
「アンタと話しとったらちょっと楽になったわ」
「楽になった? 何か悩み事でもあるんですか?」
「うん。そのことなんやけど……」
甘奈は自分の身に起きたことを大城に説明した。楽器が吹けなくなってしまったらしいこと。日常生活にまったく支障はないし、CDの音楽を聴くことはできるのだが、生の楽器の音が聴こえなくなってしまったらしいこと。そして指導に行っている中町一中でのアルバイトを続けることが難しい状況になってしまったこと。自分が楽器を吹けないのはもちろん辛いが、中学生たちに迷惑をかけてしまうのはもっと辛いということを語った。
「それで、大城にお願いしたいねん」そこまで一気に語った甘奈の声に、大城は鉛のような重さを感じ取った。「アンタにやったら、任せられるかなって。一中の指揮。アンタくらいしか、頼める人おらんなって」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」大城はまだ状況を把握できていなかった。「その、病院とかは行ったんですか?」
甘奈は黙って首を振った。
「あの、そうなったきっかけっていうか、原因みたいなものはあるんですか?」
「うん……いや、はっきりわかってるわけじゃないねんけど、これもおかしな話で……」
「言ってみてください」
そして甘奈は楽譜庫の話をした。最後にトランペットを吹いたのはあの場所だったし、不気味な風が吹いたことも話した。
「なんか、変な古い楽譜でな。あんま覚えてないねんけど、それをちょっと吹いただけやねんけど」
「そんなことってあるんですか……」大城はかけるべき言葉を失っていた。
「それで、どうなん? 指揮者やってくれる?」甘奈は身を乗り出して言った。その顔には切実な表情が浮かんでいた。「あの、給料とか出るし、基本的に週一回やし」
大城はしばらく考えてから言った。
「いや、でも、僕ほら、留学の準備とかあるし……」
「でも、ってことは、ちょっとは悩んだってことやな?」甘奈はこの日で一番の明るい笑顔を大城に見せた。その表情を見た大城はどきりとして、反論の言葉を思いつかなかった。
「いやいや、待ってくださいよ」
「音楽の世界に『でも』はないねん。『でも』って言うってことは、『やります』とほとんど同じ意味やねん。迷ったらやる。やってもやらんくても死ぬわけじゃない。はい決まり」甘奈は強引に決めてしまい、リュックサックの中から文化祭の曲の楽譜を出し、テーブルの上に置いた。
「……まあ、週一くらいならいいか」大城は楽譜を自分のかばんの中に仕舞った。
「そうそう、それと、ちょっと試したいことがあって。それで今日アンタを呼んだんや」
甘奈は伝票を持って立ち上がり、楽器のケースを担いで店を出た。大城はそのあとを黙ってついて行った。
□
甘奈と大城は淀川河川敷にやってきた。二人は芝生になっている堤防の、ところどころに作られた石の階段に腰掛けていた。
「アンタがあたしの楽器を、あたしがアンタの楽器を吹いてみる」
甘奈はまだ、自分の楽器が故障したという可能性を捨てていなかった。むしろそれに縋りたいような気持ちだった。
甘奈は金色の自分の楽器を大城に渡し、大城は銀色の楽器を甘奈に手渡した。
「吹いてみて。吹けるかどうか……」
大城は甘奈の楽器を川に向けて構えた。自分の楽器ではないのに、すぐに手に馴染んで、きちんと手入れがされていると彼は感じた。ピストンの圧力も程よく調整されているし、ベルは新品のように輝いて夕陽を反射していた。そして彼はゆっくりと息を吹き込んだ。
その間中、手に大城の楽器を持った甘奈は膝と膝の間に顔をうずめていた。何も見たくないと言っているような格好だった。
大城はしばらく音階を吹いたり、お気に入りのメロディーを吹いたりした。いい楽器だ、と大城は素直に認めた。
「ナツカン先輩、何の問題もないですよ、この楽器」
「そう……」甘奈は眠りから覚めたばかりのような表情で大城を見つめた。「今、吹いたん、やんな。音、出したんやんな」
「はい。まさか本当に聴こえてないんですか?」大城にはまだ信じられなかった。甘奈が何か冗談を言っているのではないかと疑っていた。
甘奈は曲げていた膝を伸ばし、太ももの上に大城の楽器を置いた。そして自由になった両手で大城が持っている自分の楽器のベルをつかむと、その先を自分の耳にかぶせた。
「大城、これで吹いてみて。思いっきり吹いてみて」
「先輩、ダメですよ。耳がおかしくなりますって」大城は甘奈の低い声に狂気を感じた。
「もうおかしなってるんや! ええから、早く!」甘奈は叫んだ。痛々しいその声を拒否できなかった大城は、おそるおそる楽器に唇を当てた。そしてか細い音で音階を吹いていった。
しかし甘奈の耳には何も聴こえてこなかった。ただ、海で拾った貝を耳に当てた時のような、長い静かな時の流れの音を聴いているだけだった。楽器の音、金色に輝くトランペットの音はまったく聴こえてこなかった。
「もう……ええよ……」
そう言って甘奈は楽器を耳から離した。大城のトランペットを自分が吹くまでもないと彼女は思った。何も聴こえないのだ。彼女は黙って泣き始めた。大城の銀色の楽器の上に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちていった。
静かな涙だった。水島大城は、甘奈の泣く姿など一度も見たことがなかった。コンクール前にパートが仲間割れした時も、ソロコンテストで優勝した時も、引退する時も、甘奈の喜怒哀楽のそばに大城はいた。甘奈はそのいずれの時にも涙を流さなかった。大城にとって彼女は強い先輩であり続けた。
しかし、現実に彼の目の前にいるひとりの女は、ただ黙って泣いていた。夏の夕陽に染め抜かれた彼女の体を抱きしめてやりたいと大城は思った。しかし彼にそれは出来なかった。甘奈の肩に手を載せて、涙を止めるより、涙が終わるのを一緒に待とうと思った。
六章
「はあ……就職活動ねえ。まあ、そら、わかるけどなあ」
尾花はそう言ったが、余りに急な話だったので驚きを隠せなかった。九月二週目の金曜日、国語科教員室の尾花の前には、夏野甘奈と水島大城がいた。
「大変なんですよ、むーっちゃ」甘奈は尾花に訴える。「面接とかはまだなんですけど、今から自己分析とか、企業研究とか、ええっと、あとOB訪問とか何やらやらなあかんくて、いや、ホンマは夏の間にせなあかんかったんですけど、ちょっと遅れてて。もうとにかく追い込まれてるんです」
夏休みに友人と遊んだ時に聞いた話を甘奈は口実に使わせてもらうことにした。楽器が吹けなくなったとか、音が聴こえなくなったと尾花に話す気にはなれなかった。自分でもまだそうなった理由が解らないままなのに、それを説明することはできなかった。だから、一切やる気がない就職活動を理由に、しばらく指揮を休ませてくれと言ったのだ。
「いや、それは夏野さんの大切な将来のことやから、もちろん構わへんねんけど……」
「すいません、何か急で。そういうことなんで、ピンチヒッター連れてきました」
そして甘奈は隣で黙っていた大城を紹介した。「ど、どうも」と大城は控えめに言った。
「こいつ、あたしの一番弟子なんです。京大生で、お父さんもお母さんもプロの音楽家なんですよ。サラブレットってやつですわ」
甘奈は大城の父親の名前を言った。「え、あの水島さん!」と言って尾花は目を丸くした。大城は顔を赤くして「ナツカン先輩、余計なこと言わないでください」と言った。
「でも、ラッパも指揮もあたしが仕込みました。いちびりなとこありますけど、腕は確かです」
「いちびり?」大城はその意味の解らない単語を呟いたが、誰も解説してくれなかった。
「ホンマに急ですんません。勝手なこと言うてるのもわかってます。でも、あたしが保障します。こいつなら大丈夫です。どうかお願いします!」椅子に座っている尾花の前で、甘奈は立ったまま頭を下げた。彼女は大城の首をつかんで同じように礼をさせた。二人が制服を着ていたら教師に叱られている生徒にしか見えなかっただろう。
「いやいや、そんな、謝られることやないから。こっちも無理言って三年もお願いしてるんやから」頭を下げられてばつが悪くなった尾花は立ち上がってそう言った。「でも、その、いつ夏野さんは復帰しはるのん? 就職活動って、春まで続くんちゃうの? 下手したら、四年生の間中ずっととか聞くけど」
「それは、何とかします」甘奈は即答した。彼女はもとから就職活動のことなど何も考えていない。「文化祭までは、コイツでやったってください。その後は戻ってきます。もちろん、定演はあたしが振ります」ときっぱりと言った。
「そっか、うん、そんなら問題ないわ」尾花は甘奈に全幅の信頼を置いていた。「それより、先週体調悪いとか言ってたけど、それはもう良うなったん?」
甘奈は先週のことを思い出し、急に恥ずかしくなって、「すんません、急に出て行ったりして」と言って謝った。
「ちょっと夏風邪引いてたみたいです。名前の割には暑さに弱いんですよ」そう言って彼女は作り笑いをした。
「ほんなら、行きましょか、水島先生。あたしが生徒に説明するから、一緒に音楽室行きましょう」
尾花に「先生」と言われた大城は、くすぐったい気持ちになった。
「終わるまで待ってるから」と甘奈は大城に声をかけて、二人が教員室からいなくなったあと、一人で楽譜庫に向かった。
□
その日の練習の後で、甘奈は大城と一緒に中町珈琲に行って話をするつもりだったが、大城は「せっかく中学校に来たんだから」と言って理科室に行くよう甘奈に要求した。
「理科室とか好きなんですよ。人体模型とか、変な匂いとか、机の横に水道があったりするところとか。何かワクワクしません?」
二人は誰もいない理科室にやってきた。扉を開けるとつんと鼻を突く薬品の匂いが漂ってきて、暗幕が張られた部屋の中は真っ暗だった。甘奈が手探りで電気のスイッチを入れると、大城は興奮気味に言った。
「うわ、なんか懐かしいなあ。俺、別にこの学校の出身じゃないのに。理科室の雰囲気ってどこでも一緒なんですね」
大城は部屋の隅にある戸棚からシャーレとアルコールランプを持ってきて黒い長机の前に座った。その横に甘奈が座った。
「そんなん勝手に触ってたら怒られるで?」
「大丈夫ですよ。金曜の夜の学校になんて誰もいやしません。うわあ、アルコールランプとか超懐かしいわ。何かいいですよね、こういうの。電気消しません?」まるで中学生のようにはしゃいでいる大城はアルコールランプにライターで火を点け、甘奈が点けた部屋の電気を消した。
「せやからそういうとこが『いちびり』やって言ってんねん」甘奈は呆れて言った。
「好奇心旺盛って意味ですね?」
「アホか。お調子もんってことや」
二人は真っ暗な部屋の中で、アルコールランプの頼りない炎の光の前で座っている。
「ほんで、どやった。中学生?」机に肘をついて、頬に手を当てて甘奈は尋ねた。
「いや、さすがですね」大城はにこにこしながらじっと火を見つめている。「何というか、夏野イズムが叩き込まれてて、高校で棒振ってた時思い出しました」
「当たり前やろ。なんせまる二年半やってんねんから」甘奈は誇らしげにそう言った。
「文化祭くらいなら全然問題ないっすよ。しかも給料出るんでしょ? いや、いい話ですよ。中学生はかわいいしね」
大城はかばんの中から煙草の箱を取り出し、アルコールランプの炎で一本の煙草に火を点けた。
「いや、これ、やってみたかったんですよねー! あー超感動だわ。いつもよりうまい気がするわ!」最初の一口を吸ったあと、大城はほとんど叫ぶように言った。
「呆れた。アンタ、これのために理科室行きたいとか言うたんやろ?」
「そうですよ」大城はシャーレに灰を落とした。「理科室が多少煙たくても誰も不思議に思わないでしょう?」
「どうしようもないいちびりやで、ホンマ」
甘奈は楽譜庫から抜いてきた古い楽譜を机の上に置いた。
「大城、ちょっとコレ見て。これがもしかしたら、あたしが楽器吹けへんようになった原因かもしらん」
大城は楽譜を手に取り、アルコールランプの炎の後ろにかざした。
「ん……『Song Without Words』か。『無言歌』ですね。これが呪いの楽譜ってわけですね」
「そう。これ吹いたあとに、急に冷たい風が吹いて、ドアがバターンと閉まって」甘奈はその時のことを思い出すだけで寒気がした。
大城はランプの横にその楽譜を置いて、口に煙草を咥えたまま、机の上に十本の指を立てた。そして彼は架空の鍵盤でその音楽を奏でた。
「何か、変な感じですね。伴奏と音がぶつかるし、メロディーがメロディーらしくない」想像上の十六小節を弾き終えた大城は、口の中に溜まっていた煙を吐いた。「何だろうな。こう、明らかに足りないものがある感じが……」
「そうそう。それ、あたしも感じてん。あたしはメロディーだけ吹いたんやけど、主張がないし、ヤマがないし、何より全然面白くない。歌になってないねん」
「その通りですね」
「そう。それで、曲はとりあえずそんな感じやねんけど、その『サキナミ』って人、知らん? あんた詳しいやろ、作曲家とかそういうの」
大城は楽譜の右上に目を凝らし、「J.Sakinami」の文字を読んだ。名前から日本人らしいことは解ったが、彼の記憶の中に「サキナミ」という名の作曲家は存在しなかった。
「いや、知らないですね。まったく。確かにメロディーは不完全なんだけど、伴奏だけ考えたら、和風な曲と言えなくもないです」
「へえ、そうなんや。じゃやっぱり日本人なんかな?」
「たぶんそうでしょうね。っていうかむしろ、焼いてしまえばいいんじゃないですか? 呪いだったら……」
楽譜を持ち上げた大城は、アルコールランプの炎の上にその紙の角をかざした。それを見て甘奈はすぐに楽譜を取り上げた。
「アホか! これがあたしの唯一の手がかりやねん! 燃やすのは色々調べたあとでもできる」怒りの色をあらわにした彼女は、楽譜をリュックサックの中に仕舞った。
「手がかり、か」大城は短くなった煙草の先を円いシャーレの端で潰した。「しかしまずこの楽譜が何であそこにあったのか、このサキナミってのが誰なのか、それを知らないとね」
「せやからアンタに聞いたんやんか」
「いや、俺にはわかりませんよ。でもほら、あのおばちゃんだったら知ってるんじゃないですか? 顧問なんでしょ?」
「おばちゃんて、尾花先生はまだ三十歳やで?」
「それは失礼」
「あ、でも、待てよ」甘奈の頭の中に松風の姿が浮かんできた。
(あのハゲやったらこんな古い楽譜のことでもよう知っとるかもしれん。というか、今のところヒントになりそうなのはアイツしかおらん)
大城が二本目の煙草に火を点けようとした時、甘奈はふっと息を吹いて火を消した。それで部屋は完全な闇に包まれた。
「あ、先輩ダメですよ。習いませんでした? アルコールランプはこうやってキャップをかぶせて火を消さないと……」
「大城、明日アンタ暇か? いや、きっと暇やな」そう言って立ち上がった甘奈は何も見えない部屋の中で、両手で大城の肩をぐっと掴んだ。「ちょっとついてきて欲しいとこがあんねん」
七章
中町市は、市の中心を貫く国道によって東西に分割されている。東側は生駒山脈に面していて、農業が盛んな地域だ。西側の端には淀川が流れていて、市の中心である中町市駅があり、その界隈に市役所や銀行といった公的機関が立ち並んでいる。駅を降りると、多くのビルや堤防のせいで淀川の姿こそ見えないが、風に運ばれた川の匂いがすぐ鼻につく。
夏野甘奈が住んでいる高丘町は、国道のすぐ西にある、小高い丘の一帯で、甘奈が中学生になった頃からマンションや分譲住宅が雨後の筍のように建った。元々高丘町には大企業の社宅が多くあったのだが、景気の後退とともにそれらは取り壊され、跡地に新しい住宅が建っていった。
高丘町から坂を下り、国道に出て、しばらく東に行くと山南町がある。そしてこの山南町に、一中吹奏楽部元顧問の、松風純司の家がある。
土曜日の午後に甘奈と大城は、国道の一番大きい交差点にあるラウンドワンの前で待ち合わせをした。甘奈と大城が高校生の時、部員たちと頻繁に訪れた場所だ。甘奈が自転車を漕いでラウンドワンの前まで来た時、すでに大城の姿があった。彼はバイクにまたがっていた。
「自転車、それ、駐輪場に置いてきてください」と大城は言った。「乗せてあげますよ」彼は自分の背中の後ろを指差した。
「アンタ、バイク乗るのにそんな格好でええんか?」大城はヘルメットこそかぶっていたが、短パンにポロシャツという格好だった。
「大丈夫ですよ。安全運転がモットーなんです。スピード出しませんから。良いバイクですよ」
甘奈はしぶしぶ大城に従い、こっそりラウンドワンの駐輪場に自転車を停めた。そしてバイクに乗り、大城の背中に捕まった。
「これ、かぶっといてください」そう言って大城は銀色のハーフヘルメットを甘奈に渡した。彼女はてこずりながらそのヘルメットのベルトを顎の下で結んだ。
「ちょっと、怖いよ。あたしバイクなんて乗ったことないんやから」
「大船に乗った気でいてください」
そして大城は深緑色のバイクのエンジンをかけた。
「まず、この音を聴いてください。まだ走りませんから」
「音?」
「ええ。楽器の音は聴こえなくても、エンジンの音は聴こえるでしょう?」
「うん、そら、聴こえるけど」
すると大城は振り返って、甘奈の目を見てにっこりと笑った。
「こいつ、いい音出しますよ。きれいなリズムでしょう?」
甘奈はエンジンの音に耳を澄ませた。彼女はその音に、小さな太鼓を小刻みに叩いているような印象を受けた。
「まあ、リズムはきれいやな」
「ヤマハのバイクです」
「楽器の?」
「ヤマハ発動機っていう別会社ですけど、まあ元は同じです。静かな、いい音を刻むバイクなんですよ。SRV250、ビラーゴのエンジンを積んでます。長持ちするし、外見はヨーロピアンなのに、エンジンはちょっとアメリカンなんだな、これが。とにかく心地良い。確かにヤマハの楽器に通じるところがありますね。パワフルだけど、雑なところがない。きちんと手入れすれば死ぬまで使える」
甘奈は良く解らなかったので黙っていた。
「まあ、しばらくバイクの音楽を楽しんでください。さあ、行きますよ!」
そして大城はアクセルを回し、滑らかにクラッチを離して発進した。まだ夏らしい雲の残る青空の下を、生駒山に向かって走り出した。
□
大城は甘奈が持っている松風からの年賀状の住所を頼りに道を走った。国道から離れるに連れて、建物の数は少なくなり、いつの間にかアスファルトの道路は田んぼに囲まれていた。これから刈り取りをするのだろう、まだ金色の穂が垂れている田んぼと、もう稲を干しているところがあった。コンバインに乗って作業をしている人の姿も見えた。
「高校の時さ、覚えてるかな。『山南の稲穂が刈り取られるまでに……』っていう冗談あったん、覚えてる?」大城の腰を抱いている甘奈は、もうすっかりバイクに慣れていて、話をする余裕すら生まれていた。
「覚えてますよ。あれでしょ、『稲穂が刈り取られるまでに恋人ができないと、三年間ずっとできない』ってやつでしょ? 新入生脅す文句だったな。大阪の人は面白いと思いましたね」
いくつか道を曲がって、バイクは松風の家の前までやってきた。住宅が密集しているところで、洋風の家の表札には「MATSUKAZE」と書いてあった。
「ええか、アンタが音楽の歴史を勉強してる学生ってことで頼むで」
「大丈夫ですよ。任せてください」
「くれぐれもあたしが変になったとか言いなや?」
「わかってますって。子供じゃないんだから」
大城はバイクを家の前に停めた。バイクから降りた甘奈はヘルメットを外しながら呟いた。
「しかしあのハゲ、えらいかわいらしいお家に住んでんねんなあ」
大きな家ではなかったが、胸の高さくらいまでのレンガ塀に囲まれていて、三角屋根はチョコレート色に塗られ、建物自体はクリーム色だった。
「だーれーがーハゲや!」
その時、塀の中から松風が姿を現した。タンクトップ一枚に麦藁帽子をかぶった松風の体はむらなく日焼けしていた。
「うわ、先生、おったんですか!」甘奈は驚きのあまりヘルメットを地面に落としてしまった。
「いや、草むしりしとったら、バイクの音が聴こえたんでな」にかっと笑うと松風は軍手を外した。「夏野、久しぶりやないか、元気しとったか?」
「ええ、そらあ、もう、元気してましたよ」額の汗を拭いながら甘奈は答えた。
「あれは? 彼氏?」松風はバイクにロックをかけている最中の大城を指差した。
「そんなんちゃいます。ただのパシリです」
「なるほど」松風は感心して言った。「お前は相変わらずみたいやな。ところで、何の用や? 連絡もなく、急に」
「ええっと、そのー」甘奈は目線をあちこちにやって、どう切り出そうか迷っていた。「ちょっと、お伺いしたいことがありまして」
松風は一瞬きょとんとしたが、「まあええわ。立ち話も何やしな。入れ入れ。そっちのパシリ君も一緒にな」と言って、二人を家の中に招き入れた。
□
二人は松風家の庭に通された。庭の地面は芝に覆われていて、青いパラソルの下に白いペンキで塗られた木製のガーデンテーブルが置いてあり、同じ真っ白の椅子に甘奈と大城は座った。二人は庭を眺め回したが、庭中に大小さまざまな鉢植えがあって、色とりどりの花が咲いていた。「アールグレイ? ダージリン?」家の中から松風の声がした。甘奈はどちらでも構わないと返事をした。
しばらくすると銀の盆にクッキーの入った籐のバスケットとティーセットを載せた松風が庭にやってきた。甘奈は尾花を思い出し、一中の先生には紅茶とクッキーを出して客をもてなすというルールがあるのだろうかと思った。松風は麦藁帽子こそ脱いでいたが相変わらず白のタンクトップに色の落ちたジーンズという格好だった。なんてこの場所に不釣合いな男なんだ、と大城は思ったが声には出さなかった。
松風は盆をガーデンテーブルの上に置くと、そこから離れたところにある木のデッキチェアに寝そべった。
「ツレの趣味でなあ、ガーデニングっていうんかな。今日は俺一人しか家におらんけどな。まあ、食べてください」
二人はいただきますと言って紅茶をコップに注いだ。
「ほんで、どうしたんや? 何やら聞きたいことあるって」松風は右の掌を顔の前にかざして、日光を遮りながら甘奈に聞いた。
「あの、ちょっと楽譜のことで聞きたいことがありまして」
「楽譜?」
「ええ。楽譜庫掃除してたら、変な楽譜が出てきたんですよ。ほんで、その話こいつにしたら――あ、こいつ、水島大城っていう、あたしの高校の時の一個下の後輩です」
大城は控えめに「どうも」と言った。
「それで、な? アンタにその楽譜見せたら、な?」甘奈は大城の肘をつついた。
「あ、はい。僕、いや、私は、大学で音楽史を専攻しておりまして、夏野先輩に見せてもらった楽譜に、こう、大変興味を抱きまして。できればその作曲家についてレポートを書きたいな、と」
「何の楽譜や?」松風はデッキチェアの手すりのところに置いてあったサングラスをかけた。大城はそれを見て少しひやりとした。
「あ、はい……これなんですけど……」そう言って甘奈は楽譜をリュックから取り出して、松風のところに見せに行った。
「どれどれ……、ああこれか。崎波十三の曲やな」
「サキナミ、ジュウゾウ?」
「せや。作曲家というか、何というか。まあ中町市に昔住んでた人でな」
「昔ってことは、もう亡くなった人なんですか?」と甘奈が訊いた。
「とっくの昔に死んどるよ。戦争で亡くならはったとか聞いたな」
「なんや。もう亡くなってはるんや……」甘奈は手がかりをひとつ失った気がした。
「第二次世界大戦や。しかし、何でまたこんなもんが……夏野お前、これ、楽譜庫で見つけたって言ったな?」
「はい。普通に、『バラの謝肉祭』の楽譜の下に貼り付いてました」
「ああ、ほな、紛れ込んでしもうたやつやな」そう言って松風は楽譜を甘奈に返した。
大城はクッキーを一つつまんで、その味を確かめた。紅茶の味がした。紅茶を飲みながら紅茶のクッキーを食べるのは微妙な気持ちがした。彼は手帳を取り出して、空白のページに「サキナミジュウゾウ」と書き込んだ。
「あの、すいません。その、サキナミジュウゾウ? さんの楽譜が、なぜ中町中学校にあったのでしょうか?」クッキーを飲み込んだ大城が質問した。
「中町『第一』中学校、な。中町中学校ってのは別にあんねん。ややこしいねん」松風は笑いながら言った。
「それは失礼」
「そう、何で一中の楽譜庫にあるかというとやな」松風は体を起こして、サングラスを外した。「それはちょっと長い話になるけど」
「構いません。続けてください」と甘奈が言った。松風は甘奈の顔を見上げたが、彼女の表情は真剣そのものだった。
「俺が一中に来たんは、ちょうど一九七〇年のことや。今からもうだいぶ昔やな。お前らなんかまだ、産まれてへん頃の話や」
ああ、長い話になりそうだ、と思った甘奈はパラソルの下に戻って椅子に座った。
「そん時はなあ、俺もやんちゃしとってなあ、兄ちゃん、アレ、ヤマハのバイクやろ? 俺もヤマハのDT-1に乗っててなあ」
大城はにやりと笑った。「国産初のツーストローク単気筒オフロードモデル、一九六八年にグッドデザイン賞を受賞したフォルムは未だに評価が高く、ヴィンテージ市場でも頻繁に話題になりますね」
「お、兄ちゃん、わかってるね!」松風は朗らかに笑った。
「あのー」甘奈はクッキーを食べながら口を挟んだ。「バイクの話は、あとにしていただけますか」
水を差された松風は再びサングラスをかけ、デッキチェアに横になった。
「そう、それでそん時に、元々俺は別の学校で音楽の先生しとったんやけど、急に一中の音楽の先生が辞める言うて、一中に来たんよ。なんせ急な辞め方でなあ。引継ぎも一回会ったきりで。春花っていう、可愛らしい名前の男の先生やったわ」
「ハルハナ、ですね」大城はその名前を手帳にメモした。「素敵な名前ですね」
「うん、そんで、そん時にちょっと話して、その春花先生はこれから梅田で商売やるから辞めるんやって言って。まあ、なんせあの時代なあ、教師やるより稼げる商売なんかゴロゴロしとったからなあ。今では考えられへんけど」
甘奈は紅茶味のクッキーを噛み締めながら、一九七〇年という時代を想像していた。母親が十才の頃だと計算した。
「ほんでそん時に、大量の楽譜も一緒に引き継いだんよ。『俺は裸一貫で商売するから、この楽譜を置いておく場所もあれへんねん』って言ってな。せやから学校の音楽科の部屋に保管しといてくれっちゅうて。けったいな話やなあと思って、何の楽譜なんですかって聞いたんや。
ほしたら彼は崎波の話をしてくれたよ。あの、崎波っちゅうのは、中町では結構有名な家でなあ。俺も子供の頃、泥町にでかい屋敷があったん覚えてるよ。ほら、今デパートになってるあたりや」
駅前の地名である「泥町」にあるデパートは一つしかない。美智子の職場がそこにあることを甘奈は思い出した。
「で、春花さんが話してくれたことやけどな。崎波家は中町でも有数の金持ちやったんやけど、戦前に産まれた次男坊が十三っていう名前で、音楽が好きやったそうや。ほいで、作曲なんかもしとったらしい。金持ちやからな、外国のレコードとか楽器とかがようさんあったんちゃうかな。
それで、――ここはその春花さんが繰り返し言うてたから覚えてるんやけど、その十三さんは、イギリスの音楽にめちゃめちゃ凝ってたらしいねん。ドイツとかフランスやなくてな」
大城は「イギリス音楽」とメモして、そこに下線を引いた。
「せやけど戦争で亡くなってもうて、春花さんは親戚やからって言うて、十三の書いた曲の楽譜を引き取ったらしい。まあ、春花さんも音楽やってはったわけやしな」
そこまで喋ると、松風は大城に「おい兄ちゃん、煙草持ってへんか?」と訊いた。大城はデッキチェアまで歩いて、松風に煙草を一本渡して、火を点けてやった。
「先生、煙草吸うんですか!」甘奈は驚いた。松風が煙草を吸うところなど見たこともなかったからだ。
「ほら吸うよ。吸うてるんツレにばれたらやばいんやけど。今日はおらんし、ばれても客が来たからごまかせる」
「もう……体に悪いですよ、気つけてください、おじいちゃんなんやから」
「まだまだ元気や」
「それで」席に戻った大城も煙草に火を点けた。甘奈はあからさまに嫌な表情をしてみせた。「そのあと崎波さんの楽譜はどうなったんですか?」
「うん、そういうわけやから俺もその楽譜一式引き取ってな。まあ、中学に置いててもええやろと思ってな。時々音楽の授業で使ったりしたよ。中町のことを書いた歌とかもあったからな」
「使ったやって!」甘奈は立ち上がった。「ってことは、演奏したってことですよね?」
「うん、合唱曲とかもあったしな。淀川がどうのとか……」
「あの、何か、変なこと起きませんでしたか?」テーブルについた甘奈の腕はぶるぶると震えていた。
「変なこと?」松風は眉間に皺を寄せて甘奈をじっと見た。
「その、つまり、生徒たちが……」今度は大城が甘奈の肘をつついた。甘奈はよろめいて椅子に座った。「すいません、何でもないです」
大城が話題を元に戻した。「ええと、今ではその楽譜一式はどうなったんですか? 大量にあったそうですね?」
「おう、もう沢山あったよ。まあ沢山って言っても楽譜やし、短い曲ばっかりやったから、そうやな、ダンボール箱二つぶんくらいやったけど。短命やった作曲家にしちゃかなり多い方やと思うな」
「ずっと楽譜庫に保管されてたんですか?」大城が尋ねた。
「ほうよ。夏野やったら知ってると思うけど、楽譜庫のロッカーあるやろ、あのさらに上にまたダンボール置いててな。天井ぎりぎりやったけど、そこに置いておいたんや。まあ、何かの拍子にどんくさい奴がダンボール落として、それで他の楽譜と混じったんやろな、それ」
「ああ、そういやそんなんあった気がするなあ」紅茶を一口飲んで気を取り直した甘奈は、中学の頃の大掃除を思い出した。「でも、今はないですよね? どこいっちゃったんですか?」
松風は煙草の煙で輪を作っていて、しばらくその質問には答えなかった。そして出し抜けに、
「捨てた」と言った。
「何やて!」甘奈は再び立ち上がった。「どういうこっちゃ! もしかしたらその中に……あたしの……!」
大城は甘奈のTシャツの裾を引っ張って座らせた。「先輩、落ち着いて、落ち着いて」
松風は乾いた声で笑った。
「じょーだんや、じょーだん。ちゃんとあるよ。でもここにも、一中にもない」
「ということは、ハルハナさんに返されたということですか?」大城も対抗して煙の輪を浮かべた。
「いや、その春花っちゅう男とはそれ以来何の関わりもなくてな。知佳ちゃん、あ、尾花先生な。あいつも俺の教え子やから……あいつか俺の後任の音楽の先生に託そうかなとも思ったんやけど、邪魔くさいやろ? せやから、歴史資料館に寄付したんや」
「歴史資料館?」大城はその存在を知らなかった。
「あー、何か行ったことあるわ。社会の授業で行ったわ。泥町にあんねん」と甘奈が言った。
「そう。そこの館長さんが中町市の生き字引みたいな人でな。歴史の本も何冊か書いてるらしくて、こんなんありますよーって言ったら、是非引き取らせてくださいって言うから。大学のレポート書くんやったら、行ってみたらええんちゃう?」
大城はテーブルの上に置かれた崎波十三の楽譜をじっと見つめていた。あまりに集中していたので、甘奈から肘をつねられるまで、自分宛に疑問符が来ていたことに気が付かなかった。「あ、はい、そうですね」と彼は適当な相槌を打った。
「せやけど、行くんやったら早うせなあかんぞ。資料館は日曜やってへんし、今日は四時半で閉まるからな。もう四時近くやで」と言って松風純司は腕時計を見た。
「げ、ほんまですか」甘奈は食べかけのクッキーを飲み込み、紅茶を流し込んだ。「ごちそうさまでした。すんません、急に来て、急に帰って」
「ええよええよ」松風はサングラスを外して、柔和な笑みを浮かべた。「指揮、がんばりや」
その言葉は甘奈の心をちくりと刺したが、すぐに笑顔を取り戻して、深々と礼をした。
「ホラ、大城、資料館行くで、何してんの」
大城は甘奈に引っ張られるようにして松風邸をあとにしたが、彼はずっと楽譜を見ていた。そしてその裏に隠された秘密の正体に気付き始めていた。
八章
甘奈は大城のバイクに乗るなり、すぐに歴史資料館に行くように指示した。大城は何も言わず、ただ黙ってうなずいてバイクを発進させた。甘奈が異常に気付いたのは、彼女の右手に「鳴山」と呼ばれる丘陵が見えた時だった。歴史資料館がある泥町に行くためには、鳴山より前の交差点で左折していなければならないはずだった。
「ちょっと、大城、どこ向かってんの? 泥町やで?」
しかし大城は何も答えなかった。北へ向かう国道は交通量が多く、甘奈は自分の声が届いていないのだろうと思った。信号で停まった時に、甘奈は大城の背中を叩いて言った。
「なあ、アンタ、わかってんの? 資料館はこっちやないって。引き返して。もう閉まっちゃうから」
甘奈はイライラしながら腕時計に目をやった。もう四時すぎだった。
「今から行ってもどうせすぐ閉まっちゃいますよ」大城は振り返らずに言った。
「まあ、それはそうやけど。ちょっとでも参考になるかもしれんのに……アンタはどこに行こうとしてんねんな?」
「俺の家です」
「家?」
「ええ、気付いたことがあるんです」
信号が青に変わった。甘奈はわけも解らず、大城の家へと連れられていった。
□
水島大城の家は、鳴山の北側、風鳴町というところにある。中町市の高級住宅街として知られている地区だ。大城の家もその例に漏れず、家族三人で住むには大きすぎる家のように甘奈には思われた。大城はガレージにバイクを入れた。そのガレージには車が二台停まっていた。
「今たぶん、家には誰もいないと思うから」
そう言って大城は家のドアを開けた。玄関に入ると自動的に照明が点いたので甘奈は驚いた。明るい色の板が張られた長い廊下を抜けるとリビングがあった。入った瞬間、壁の白さと部屋の広さに甘奈は圧倒された。自宅のリビングの倍はあると彼女は思った。
「うっわ……やっぱアンタ、お金持ちなんやなあ……」
リビングの半分には甘奈の家と同じように食卓があり、ソファがあり、壁際にテレビが置いてあった。しかしもう半分は天井が吹き抜けになっていて、カーペットの上に黒いグランドピアノがあった。それだけが白で統一された家具の中で圧倒的な存在感を放っていた。ピアノの奥の窓際にはオーディオ装置と大きなスピーカーが置いてあった。二階からむき出しになった階段が伸びてきていて、その陰には観葉植物の鉢が置いてある。
「家じゃないみたい」甘奈は呟いた。
「ちゃんと家ですよ。僕の部屋は二階にあります。見たいですか?」
「いや、遠慮しとくわ。それより何でアンタ、あたしをここに連れてきたんや。まさか自慢するつもりちゃうやろな、こんなお洒落なお家を?」
大城は首を振って、かばんをソファの上に放り投げた。
「まさか。確かめたいことがあったんですよ。サキナミさんの楽譜の謎が解けたかどうか」
「謎? 謎って何のこと?」
「まあとりあえず、楽譜を貸してください」
大城はグランドピアノの前に座り、甘奈に渡された楽譜を置くと、椅子の高さを調節した。甘奈はその横に別の椅子を持ってきて座った。
「ええっと、確認ですけど」大城はドの音を人差し指で連打した。「聴こえませんね?」
「聴こえへん」甘奈は改めてその事実に打ちのめされた。
「まあいいです。その方が謎解きには都合が良い」そう言って大城は、楽譜を眺めながら、鍵盤に指を立てた。
「ちょっと大城、アカンて。アンタまで呪われてしまうで!」甘奈は慌てて言った。
大城は構わず弾き始めた。「大丈夫ですよ。これを弾いてるわけじゃないです」ニコニコしながら彼はピアノを弾き続けた。甘奈には音が聴こえなかったから、大城が何を弾いているのかまったく解らなかった。
弾き終えた大城は、しばらく黙ったあと、顔を天井に向けて大声で笑い始めた。甘奈は取り残されていた。彼は何かを馬鹿にするような、あざ笑うような調子で笑い続けた。
「おい、何やねん。説明せえや!」甘奈は立ち上がり、大城の右腕をぐっと掴んだ。
「いやあ、おかしいなあって。全く、しょうもないことでしたよ、ホント」大城は腕を掴まれたことには一切構わず、両手で目尻をこすった。
「どゆこと? 何かわかったん?」
「ええ。この曲の正体がわかっちゃいました。今弾いたんですけど、聴こえてなかったんですよね? ああ、楽しいなあ」
「ええ加減にしいや!」甘奈は掴んでいた大城の腕を地面に叩きつけるような勢いで離した。「遊んでるんとちゃうねん! あたしは本気で……本気でこれを何とかしたいと思ってるんや!」
甘奈の呼吸は乱れていた。涙などというものはもう彼女の瞳からは流れない。ただ焦りと憤りだけがじりじりと甘奈の中で温度を上げていた。音楽を失った哀しさはもう怒りに変わっていた。大城のせいでそうなったわけではないし、むしろ彼は甘奈を助けてくれているのに、彼の「いちびり」な言葉遣いは甘奈の神経を逆立たせるのに十分だった。甘奈はしばらく深呼吸して、椅子に座りなおして額に手を当てた。
「ごめん……ちょっと熱くなり過ぎた……」
「いいんですよ」大城は椅子の上でくるりと体を回して甘奈と向き合った。「でも、正体がわかったのはマジです。これはたぶん、いや、もしこれが本当にそのサキナミとかいう男の呪いだとしたらですけど――それを解くヒントになることは間違いない」
「ホンマに?」甘奈は大城の顔をまっすぐに見てそう言った。
「ホンマです。気付いちゃったんですよね。あのハゲじいさんの庭で」そう言って大城は再びピアノに向き直り、指の骨をぼきぼきと鳴らした。
「さて、まず質問です。サキナミがハマっていたのはどこの国の音楽でしたっけ?」と大城が言った。
「イギリスやろ?」甘奈は逆向きに椅子に座り、背もたれに載せた腕に顎をつけていた。
「そう、イギリス。じゃあイギリス音楽といえば?」
「あー、あたしそういう知識系弱いんよ」甘奈は頭をぽりぽりと掻いた。
「知識は時に人を助けます。何でも良いから言ってみてください」
「ええと……イギリスなあ……ああ、そうや、ビートルズ!」
大城はピアノで「ピンポーン」という音を鳴らした。しかしそれはもちろん甘奈の耳には届いていない。
「大正解ですよ。いやあ、サキナミが死んだのは第二次世界大戦の時ですよね。ビートルズがデビューしたのは一九六二年ですよね。彼はもしかして未来人だったのかな? あるいは……」
「わかった、わかった。もっと古い時代の音楽ってことやな」
「後期ロマン派まででお願いしますよ」そう言って大城は甘奈をたしなめた。
甘奈の音楽の中心には吹奏楽の曲があり、その外側にクラシック音楽とミスター・チルドレンが配置されていた。かなり多くの曲を聴いたし、演奏してきてはいたのだけれど、作曲者や、その国籍というとあまりピンと来ないことが多かった。
「ええっと……イギリス、イギリスやろ。ああ、あれは? 『威風堂々』! あれ、イギリスの曲とちゃうかった?」
「ご名答」大城は小さく拍手した。「サー・エドワード・エルガー、正真正銘イギリスを代表する作曲家の作品です」
「あー良かった。また馬鹿にされるかと思った」甘奈は胸を撫で下ろした。
「さて、そのエルガーが、イギリス中にその名を轟かせた、まさに出世作と言うべき曲があるんですが、それは知ってますか?」
「え、『威風堂々』ちゃうのん。あたし、それしか知らんけど」
「チッ、チッ、チッ」大城は振り向いて、人差し指を振りながら言った。「甘い、甘いですよナツカン先輩。それじゃミュージシャンとしては落第です」
「何でもいいけどそのむかつくパフォーマンスは何とかならんのか」
「彼の出世作は、『威風堂々』の成功の二年前、一八九九年に初演されました」大城は甘奈の苦情に耳を傾けずに続けた。「その名も『エニグマ』。正式には『独創主題による変奏曲』ですが、『エニグマ』の名で知られています」
「えにぐま?」甘奈の聞いたことのない単語だった。「なんや、白熊みたいなもんかいな」
「先輩にはユーモアのセンスがありますね」大城は感心して言った。
「大阪人やからね」
「『エニグマ』というのはギリシャ語で『謎かけ』とか『なぞなぞ』の意味があります。ナチス・ドイツが第二次世界大戦の際に使用した暗号機もこの名前でした」
「何かややこしい話になりそうや」甘奈は溜息をついた。「それがサキナミと何の関係があるんかいな?」
「まあ落ち着いて聞いてください。なぜエルガーがそんな名前を付けたかというと、彼自身がその音楽の中に謎かけをしたからなんです。彼は二つの謎をかけたと言いました。そしてその一つは、もう明らかになっています。『エニグマ』は全部で十四個の小さな曲から出来てるんですが、それらのタイトルが、エルガーの親しい人を指したイニシャルになっていたんですね」
「何や、しょうもな。謎でも何でもないやん」
「まあ、謎というかちょっと粋なサプライズ程度のもんですね。ですけど問題はもう一つの謎です。こちらはまだきちんとした正解が出ていない」
「え、百年以上経ってるのに?」
「はい。エルガーは、『この曲には演奏されない無言の伴奏が存在する』と言ったんですね。どうです、ピンと来ませんか?」
「無言の伴奏?」甘奈はトランペットで『無言歌』のメロディーを吹いた時のことを思い出してみた。
「んー確かに、あのメロディー、何か別の伴奏っていうか、足りひんもがあるという気はしたけど……」
「そこなんですよ」大城は楽譜を甘奈に見せた。「これ、おかしいんですよ。前も言いましたけど、伴奏とメロディーがぶつかってるんです。あり得ないミスです。それで、サキナミがイギリス音楽に凝っていたと聞いた時に思ったんですよ。彼だったら、たぶんエルガーのことも知っていて、無言の伴奏のことも聞いてたんじゃないかってね。だから、この曲には、意図的に別の旋律が隠されているんじゃないかなと思ったわけです」
「ふうん。でも、やからってそのメロディーがわかるわけじゃないんやろ?」
「あせらない、あせらない」大城は楽譜をピアノの前に戻した。「一歩ずつ進んでいきましょう。二番目のヒントです。もう一人誰か、イギリスの作曲家を挙げてみてください」
「えーもう、わからへんよお」甘奈は髪の毛を両手で掻きむしった。
大城はピアノを弾きながら、音が聴こえない甘奈のためにメロディーを歌った。ゆったりとした三拍子の曲で、甘奈にも聞き覚えのある旋律だった。
「あ、それ、『ジュピター』やん」
「そう。グスタフ・ホルスト作曲、組曲『惑星』より『木星』の中間部です」
「何年か前に平原綾香がCD出したやつや」
「そうです。その元ネタが、ホルストの『木星』であることはご存知ですよね」
甘奈は黙ってうなずいた。
「そしてホルストもまたイギリス人で、戦前には既に作曲家として有名だった。そしてホルストは結構変わった作曲家で、まあ、何というか、色々やっててね。日本の子守唄を題材にした『日本組曲』というのも書いているくらいですから」
「へえ。確かに変わってる」
「ですけどナツカン先輩、吹奏楽ファンとして、ホルストと言えば外せない曲があるでしょう?」
大城が言わんとしている曲はもちろん甘奈の頭の中にあった。
「あ、『吹奏楽のための組曲』やな? せや、忘れてた。あたしら高校の時やったやん」
「そう。ホルストは二つの組曲を吹奏楽のために書き上げました。僕ら吹奏楽の人間はこのことに感謝しなくちゃなりません。この二つの作品は、恐らくこれから何百年先も吹奏楽の古典として君臨し続けるはずです。太陽と月みたいにね」
甘奈は「太陽と月」という例えに寒気がしたが、そのことは黙っておいた。
「僕らが高校でやったのは第一組曲でしたけど、第二組曲の方、二楽章のタイトル知ってますか?」と大城が訊いた。
「知らん」甘奈はきっぱりと言った。「第二組曲って、あんま有名ちゃうし、コンサートとかでもやらんしなあ」
「まあ、確かに演奏頻度は第一組曲の方が多いですね。その二楽章はね、ずばり『Song Without Words』、つまり『無言歌』なんですよ」
甘奈は体じゅうに電流が走ったような気がした。タイトルが同じということは、そこに強い関わりがあるに違いないと思った。彼女は背もたれに置いていた腕を離し、背筋をぴんと伸ばした。
「おお、すごいやん! ってことは何、その隠されたメロディーって、ホルストの曲のことなんちゃうん?」甘奈は興奮気味にそう言った。
「でもね、ホルストは『無言歌』と書きましたけど、実際には歌詞があるんですよ。『I love my love』、『私は私の恋人を愛する』っていう、民謡みたいな、ちゃんと歌詞がある歌なんです。要はこの曲名には、インストゥルメンタルですよ、くらいの意味しかないんです。ホルストの『無言歌』にはね」大城はそう言うとホルストの『無言歌』を歌ってみせた。「しかもこれは四拍子です。サキナミのは三拍子」
「何や、ハズレかいな」甘奈は力を抜いて、再び背もたれに腕に載せた。
「そう、ここまでだったら、ただのこじつけに過ぎません。だってその旋律の正体がわからないんですからね。もちろんそこまでだったらわざわざこうやってナツカン先輩に話したりしません。ちょっと待っててください」
大城はピアノの前を離れ、駆け足で二階へと上がっていった。しばらくした後、彼は楽譜とCDを持って降りてきた。オーディオにCDを差し込むと、大きなスピーカーから静かに音楽が始まった。まろやかな低音楽器が奏でる、ゆっくり歩き出すようなメロディーだった。
「これ、ホルストの第一組曲やろ?」甘奈は高校三年生の定期演奏会でこの曲を指揮していた。「懐かしいなあ」
大城はピアノの上で楽譜をぱらぱらとめくり、甘奈に見るように言った。甘奈は椅子から立ち上がって大城と一緒に楽譜を覗き込んだ。
「『吹奏楽のための第一組曲 変ホ長調』は古典的な形式で書かれた作品です。ナツカン先輩ならご存知かと思いますが、第一楽章は一つの音の並びが曲のすべてを支配しています」
「うん、それは知ってる。だいたいずっと同じメロディーやけど、伴奏とか楽器がどんどん変わって盛り上がっていく曲やろ。ボレロみたいに」
「そう、ここ、見てください。ちょうど今CDで流れているところですよ。これが第三のヒント、というか旋律の謎を解く鍵そのものです」
ゆっくりと始まった曲は、まるで行進の人数が増えていくように盛り上がって頂点を迎えたあと、急に静かになっていた。明るい曲調が一転して冷たく、葬送行進曲のように変化していた。陰鬱な厚い雲を思わせるメロディーだ。
「ん……? まあ、ここはポイントになる部分やけど……」
「そう、何か気付きませんか?」大城はニヤニヤしながら言った。
「え、何やろ。メロディーが変わったくらいか? 最初っからここまでは同じメロディーでずっと来たけど、ここからはガラッと変わって……」
「大当たり」大城は拍手をした。「ガラッと変わってるんです」
甘奈はまた自分が馬鹿にされていると感じた。「ガラッと」が謎を解き明かすキーワードのはずがない。彼女は椅子に座り、固く口を閉じ、腕を組んで大城の言葉を待った。何かを言うなりからかわれそうな気がしていた。
「ここに鍵があります」そう言うと大城はピアノの前に座り、第一組曲のメロディーを弾きながら歌った。
「ミーファー……上がってドーシー……ですね? これがメインテーマです」
甘奈はじっと大城の方を睨んでいた。
「そして中間部からのメロディーは……ミーレー……下がってソーラー……さ、気付きましたか?」
甘奈は黙って首を振る。
「じゃ、簡単にしましょう。『カエルの歌』です。ドーレーミーファーミーレードー、ですね?」大城の口調から、彼が興奮しているということを甘奈は読み取った。
「これが、ドーシーラーソーラーシードー、になったら? さあ、もうわかったでしょう! ナツカン先輩! これだけのことだったんですよ!」
『第一組曲』の一楽章がフィナーレを迎えていた。暗い旋律がしばらく続き、曲は重苦しい雰囲気に包まれていたが、やがて冒頭のメロディーが雲の間から射し込んでくる太陽の光のように現れ、トランペットによって神々しく歌われていた。
「あ……反対……ってこと……?」甘奈は『カエルの歌』の例えでようやく大城の真意を理解した。
「その通り!」大城は鍵盤を両手の掌で叩いて立ち上がった。ピアニストである彼の母親が見たら激怒する光景だろうなと甘奈は思った。
「ホルストはメロディーを裏返しにしたんです。僕は『鏡の旋律』と名付けていますがね」
その気障なネーミングに甘奈は呆れた。
「裏返しただけといえば簡単ですが、普通、そんなことできません。絶対にぼろがでる。試しになんでもいいからメロディーを裏返して歌ってみてください。何の面白みもなくなります。しかしホルストは全て計算してこの曲を書いた。最初にチューバによって提示される八小節のメロディーを、この曲の主音である『ミ』を軸にして、すべてひっくり返した。リバーシブルですよ。どっちでもメロディーとして通用してるんですよ……すごいじゃないですか……天才だよ。イギリス万歳! 女王陛下万歳! 僕をカナダに連れていって! そしてその旋律で中間部をまるまる書き、最後にはまたくるりと回転し、もとの形に戻ってくるという、離れ業をやってのけたということなんですよ! グスタフ・ホルストはね!」
大城が喋り終わった時、シンバルの音が広いリビングに鳴り響き、強烈な和音の咆哮が甘奈の耳を貫いた。それは『第一組曲』一楽章の最後の音だった。大城はもしかしてこのタイミングを狙ったのだろうかと甘奈は思った。彼が震えているのは、音楽のせいなのか、自分の言葉に酔っているせいなのか判断しかねたが、おそらく後者だろうと彼女は推測した。
「あの……それで……呪いのほうは」甘奈はおそるおそる尋ねた。
その言葉で我に返った大城はオーディオのスイッチを切り、ピアノ椅子に座って仰々しく咳払いをした。
「さて、ここからが本題でしたね。例の楽譜、まあ、二小節くらいなら呪われないでしょう、聞いてくださいね」
大城はピアノを弾きながら「ドードードーシーラシー」と歌った。
「さて、これを『ド』の音を中心にしてひっくり返すと……ドードードーレーミレー……」
腕を組んだままの甘奈もそのメロディーを歌ってみた。
「え、ちょっと待って」甘奈は愕然とした。
動揺を隠せないままの甘奈を見て、大城はにやりとした。
「そうです。『うーさーぎーおーいしー』ですよ。全部裏返してさっき確認しましたけど、ただの『ふるさと』でした。伴奏もばっちり文部省風のお堅いやつで」
「何の冗談やねん!」甘奈は床を踏み抜くような勢いで立ち上がった。椅子は彼女の尻に跳ね飛ばされた。
「あせらない、あせらない」大城はそう言って、ピアノの蓋を静かに閉じた。
「僕の予想ですけど、とりあえず『ふるさと』を裏返しただけの楽譜に呪いなんかあるわけがないんです。もっと何か別のメッセージがあるはずなんですよ。呪いなんてたいがいそういうもんじゃないですか? それを見つけないとね。まあ、来週の土曜に資料館に行ってみましょう。それでもダメならお祓いするとか、楽譜を煮るなり焼くなりしてみましょうよ」
その言葉は甘奈の怒りを抑えるには至らなかったが、少なくともまだ手立てがあるという希望を抱かせていた。彼女の中では矛盾が渦を巻いていた。自分を呪ったメロディーが、毎週のように中学生と奏でていた、あの優しく温かいメロディーの裏返しだったということに、彼女の胸は張り裂けそうになっていた。甘奈の音楽に対する愛――そして故郷に対する思い――が自分を裏切ったような気がしていた。
九章
甘奈の「呪い」――少なくとも甘奈と大城はそう呼んでいた――は解けぬまま、彼女の大学では秋学期が始まった。甘奈は釈然としない気持ちで一週目の授業に一通り参加した。
大学の中に目立った変化は感じられなかった。いつも通りの日常が帰ってきたという感じがしていた。中学生や高校生の時は、夏休みが終わるとそれだけで憂鬱な気分になったものだが、もう甘奈は大学生だった。
甘奈が最初にある兆候を感じ取ったのは昼食の時だ。彼女は法学部の、いつも一緒に食事をしている二人の友人とともに、教室棟の地下にある食堂へ行った。そのうちの片方の友人はスーツ姿だった。「何でスーツなの」という質問をしなくてはならないほど甘奈は世間に疎いわけではない。凪いでいた心の表面にささやかな波が立つのを彼女は感じた。
そうして注意して世界を見てみると、彼女の周りは就職活動を示す象徴に満ち溢れていた。授業の空き時間に、本でも見ようかと大学生協に寄ってみると就職活動のコーナーが設けられていた。リクルートスーツはもちろん、「就活必須アイテム」と謳われた手帳やボールペンが売られていた。就職活動に成功するために、どうして手帳やボールペンを新しく買う必要があるのか、その因果関係が甘奈にはまったく解らなかった。自分も近いうちにスーツや鞄の類は揃えなければならないのだろうなと思ったりもした。しかしどこか他人事であるような気もしていた。
帰りの電車の中で、ドアにもたれかかった彼女の目の前にはシールの広告が貼ってあり、それは就職活動を行うために登録が必須とされているウェブサイトのものだった。くだらない、と彼女ははっきりと思った。何故自分が大学三年生であるという、その理由のために、就職活動を行わなくてはならないのだろうか? やらなくてはならないと思うように脅されなくてはならないのだろうか? 自分にはやりたい仕事もなにも定まっていないというのに。
そう思った甘奈は自問自答する。むしろ、そのやりたい仕事を見つけるためにみんなは就職活動をしているのではないのだろうか? 企業の説明会に足を運び、読み方も解らない四季報を眺め、うんざりするような質問が並べてあるエントリーシートを自筆で埋めていくうちに、自分のやりたいことが見極められていくのではないだろうか? しかし甘奈にとって、それはどこかインスタントすぎるところがあるように思えた。みんな一斉に同じ時期に、同じような形でスタートを切り、内定を手にする頃には自分のやりたいことが見つかったなんて、お手軽すぎるのではないのだろうか? まるで小学校の社会見学で見た浄水処理場みたいだと甘奈は思った。不純物たっぷりの水が、いくつものオートメーション化された処理を適切に受けるうちに、いつの間にか飲料水になり、上水道をくぐりぬけて蛇口から出てくる。そんな風に自分たちも「社会」に出てゆくのだろうか? そんな風に濾過されていくのだろうか?
夏野甘奈はどちらかと言えば普通の大学生だった。そのような逡巡が一般論に過ぎないことであるとわきまえるだけの社会性は身につけていたし、世間というものがあらゆる種類の犠牲の上に成り立っていることも理解していた。また甘奈は――彼女自身が認めるかどうかは別にして――一般論を括弧でくくり、乗り越えていくだけの魂の強度を持っている人間でもあった。実際彼女は多くの人間を蹴落として生きてきたのだ。それは受験もそうだったし、空手のトーナメント戦でも、あるいはトランペットのコンテストだって同じことだった。悩むたびに立ち止まるようでは生きていくのは難しいとさえ思っていた。就職活動もそういった枠の中、つまり、勝利と敗北が同居する世界の中に組み込まれているということを理解していた。これは今までと同じなんだ、と。
それまでの甘奈であれば、おそらくそのような大学生三年生らしい悩みを抱えながらも、やれやれと思いながら、リクルートスーツに身を包んで友人たちと同じフィールドに出て行ったことだろう。多少ためらいながらも、それが世間だという風に割り切って、深く考えることもせずに。しかし今の彼女にはその一歩が踏み出せなかった。天秤座の彼女の心はぐらぐらと揺れ続けていた。甘奈は音楽家だった。職業的な意味ではなく、あくまで精神的な意味で音楽家だった。そして音楽家であるということは、常に音楽が思想の底にあり、心の中の天秤の片側にはいつも音楽が載っているということを意味した。
しかし甘奈は音楽を失っていた。それがどのようなメカニズムで失われてしまったのか解らぬまま、理不尽な形で音楽を失ったという事実だけが彼女を苦しめていた。音楽を失った音楽家は翼をもがれた鳥のようなものだ。飛ぶことができないということは、生きることができないということだ。甘奈に今必要なのは音楽を取り戻すことに違いなかったが、それには構うことなく、就職活動という現実の方が先にのしかかってきたのだった。甘奈は音楽を括弧の中に入れ、脇に除けて、道を進んでいくほどの強さは持ち合わせていなかった。
□
金曜日の夜にまず尾花から甘奈のパソコンにメールが来た。
「こんばんは。就職活動はいかがですか。最近は大変だと聞いています。まだこれからだろうけど、とにかく体に気を付けて、いつもの夏野さんらしく元気いっぱいで頑張ってくださいね。
水島さんはさすが夏野さんの後輩だけあって、とてもいい感じで合奏を進めてくれているようです。
女の子の多い部活ですから、ああやって年上のお兄さんが来てくれるのが嬉しいんでしょうね。みんなすぐになついて、仲良しこよしでやっているようです」
甘奈はその文章を読んだ時、思わずにやついてしまった。大城が合奏をしているところを想像したが、確かに大城なら、厳しくやっていくよりも、とにかく中学生を楽しませて、おだてながらやっているに違いない。甘奈にとって大城はお調子者の後輩だったが、彼が人を惹きつける力を持っていることは誰もが認めていた。
「ですが、ちょっとしたハプニングがありました。藤枝さんが体育の授業中に右手を骨折してしまったのです。バスケットボールだったそうですが、本人はつき指のつもりでいたらしく、部活にやってきたのですが、中指が膨れ上がってティンパニなど叩ける状況ではありませんでした。
すぐに保健室に行くように言って、その後病院に行ったのですが、全治二ヶ月程度だそうです。残念ながら文化祭まではギプスも外れないでしょうし、今は二年生が代わりにティンパニを叩いています。早く良くなってくれるといいのですが」
(あれほどボールには気を付けろと言っていたのに!)と甘奈は思った。
どんな楽器であれ演奏者がまず大切にしなくてはならないのは手である。甘奈のように、管楽器奏者の場合はその次に唇が重要になってくるのだが、手が使えないと演奏するのは不可能になる。まして藤枝のように打楽器であれば、手が全てと言っても過言ではない。だから甘奈は体育の授業では怪我に注意するよう、この三年間口を酸っぱくして伝えてきた。
しかもティンパニは打楽器の中でも最も重要とみなされることが多い。合奏陣形の一番奥に座している、お椀型の大きな複数の太鼓だ。「第二の指揮者」と呼ばれるくらい、リズムを支配している楽器なのだ。甘奈は二年生がティンパニを叩いているところを想像したが、恐らく合奏は引き締まらないだろうなと思った。ティンパニは代々、あらゆる打楽器に熟練した三年生が、専門的に叩くというのが中町一中の決まりだったからだ。
甘奈は不安な気持ちを抱えたままパソコンを閉じた。こういう時に自分が現場に居られないのがもどかしいと思った。ティンパニ奏者が代わるというのは一大事だし、そういう時こそ指揮者が部員を引っ張っていかなくてはならないのだ。それに部長である藤枝のケアも必要だ。
そんなことを考えていると、今度は携帯が震えた。水島大城からのメールだった。
「おつかれーっす。そっち、大学はじまったんじゃないすか? うちはまだでーす。
そうそう、あの後母親が帰ってきて、『人の気配がする』とか妙なこと言うんすよ。そういうの鋭いんですよウチのババア。
でもご安心を。ボクと先輩の熱い熱いラブアフェアについては黙っておきましたからね(笑)」
馬鹿じゃないのかと思って甘奈は画面をスクロールさせていった。
「それでご報告を。今日は一中の練習でした。部長のかわいい女の子が手をケガしたとか何とかでてんやわんやでした。
今は二年生の男子がティンパニ叩いていますが正直言ってボクは納得いきません。ティンパニって目が合う機会多いじゃないですか。男だと(笑)……ねぇ……ちょっと……。
まあそれはともかくとして、曲自体は順調に仕上がってますよ。
アルセナールはイケイケでやってます。AKBメドレーはまあ、何か踊りとかするらしいです。問題はヴィヴァムジカです。あれはやっぱり腕のあるティンパニじゃないと難しいです。しっかりした曲ですからね。変拍子が崩れていく音が聴こえているようでした」
甘奈の心配は的中したようだった。複雑なリズムの『ヴィヴァ・ムジカ!』という曲が文化祭のメインだった。そしてこれは打楽器が肝になる曲なのだ。変拍子が崩れていく、というのは決して大城流の誇張でもないのだろうなと彼女は推測した。
「まあでもまだ一ヶ月ありますからね。何とか先輩の遺志(笑)を継いでガンバッテゆく所存であります。
早く呪い解かないとね。ええっと、資料館デートは明日ですよね? わくわく。何時くらいにしましょーか」
何がデートや、と鼻で笑いながらも、大城のメールに甘奈は少し救われた気がしていた。今の自分にできることは、とにかく音楽を取り戻すことしかない。そしてその鍵は今のところあの楽譜しかないのだし、無駄足になるかもしれないが資料館には何かしらのヒントがあるかもしれない。甘奈は大城に時間を指定するメールを手早く送り、携帯を閉じた。
十章
泥町――人口四十四万人を抱える中町市の、あらゆる意味での中心がここに集中している。はじめてこの名前を聞く人は、町の名前としてはいささか不適当な感じを受ける。中心であるならばもっと華やかな名前が良いのではないかと。そのたびに中町の人々は名前の由来を語って聞かせるのである。
豊臣秀吉による治水事業よりもっと前、川の恩恵に浴していた中町の人々は、同時に川による災害に悩まされていた。洪水である。琵琶湖から流れる淀川は、中町市で大きく蛇のように曲がっていた。巨大な堤防が出来上がるまでは、増水した淀川に、町の人々は何度も泣かされていた。洪水のたびに泥をかぶる町のことを、いつしか人は泥町と呼ぶようになった。
中町市歴史資料館も泥町に存在している。駅から歩いて数分、古い家屋が残る細い路地の一角にそれは建っている。資料館は町屋造りの二階建てだ。江戸時代、京都と大阪を結ぶ宿場街として栄えた中町の風情を残すこの歴史資料館は、もともとは中町いちの宿屋として名を馳せ、近代以降も料亭付きの旅館として親しまれていた場所だ。夏野甘奈と水島大城は土曜日の午後、この小さな資料館を訪ねた。
資料館に入ると冷たい空気が二人を包んだ。九月も半ばとはいえまだまだ暑い日だったが、館内には冷房がよく効いていた。資料館の一階の照明は暗く、壁はすべて黒く塗られていて、展示物の入ったガラスのケースがバックライトに照らされている。初めて訪れた大城は、いかにも博物館らしい場所だなと思った。
「小学生の時と、中学生の時。二回だけ来たことあるわ。社会のレポートでさ、地元のこと調べたりするやん? そういう課題があってさ」甘奈は大城に言った。この二人と受付の係員を別にすれば、資料館の中に人の姿はなかった。
「へえ……『古事記に見る中町』ねえ……」
大城はガラスケースの中にある「古事記」の写本を眺めた。一階には二つの長いケースが壁に沿って配置されており、大城の見ている方は古代から戦国時代にかけての展示物が並べてあった。甘奈は反対側に歩いていき、江戸時代の中町についての資料をぼんやりと眺めた。洪水や、参勤交代の大名行列を描いた絵巻物や、淀川で商売を行っていた船の模型などが展示されていた。いずれも彼女が目にした覚えのあるものだった。
「しかしこんなところにサキナミの資料なんてあるんですかね?」大城は甘奈の隣に来て言った。「なんつうか、街のざっくりした歴史じゃないすか、これ。とても個人の歴史まで手を伸ばしてるとは思えませんけどね」
「でもホラ、松風先生が言ってたやん? 館長さんが生き字引みたいな人やって。とりあえず他の楽譜だけでも見せてもらえたらええけど」
「やっぱり僕が歴史勉強してるってことになるんですかね」大城は低い声で訊いた。
「当たり前やろ。せやな、中町市の歴史を調べてるってことにしとこう」
二人は一階の展示物を見た後、明治以降の展示があるという二階へ上る階段の前にやってきた。その階段の脇に、椅子に腰掛けて本を読んでいるスーツ姿の老人がいることに気が付いた。暗い室内の中で、遠くからでは闇に同化してその姿が見えなかったのだが、近くに寄ってみるとむしろ白髪が目立って見えた。スーツよりも着物が似合いそうな男だと大城は思った。
階段を上ろうとする二人に気が付いた老人は、本から顔を上げ、にっこりと笑って会釈をした。とても感じの良い笑みだったので、二人は会釈を返したが、そのまま階段を上るのが失礼な気がした。甘奈と大城が目を合わせると、老人が話しかけた。
「こんにちは。何かお力になれることはありますかね?」彼は本を閉じて立ち上がった。立ち上がってみると、彼は甘奈と大城よりも長身で、背筋はぴんと伸びていた。二人が答えに窮していると、彼は微笑んで頭をぽりぽりと掻いた。
「いや、人が来るのが珍しくてね。特に若い人はね。この通り誰もいない資料館ですから、ゆっくりしていってください」
「あ、あの」甘奈が口を開いた。「もしかして、館長さんでいらっしゃいますか?」
「ええ」そう言って老人は、胸元の名札を指差した。「館長の泣澤といいます」
甘奈はじろりと大城を見た。アンタの出番でしょうとでも言いたいような目線だった。
「あ、私、京都大学で歴史学を専攻しています、水島と申します。中町の歴史についてレポートを書きたいと思って、今日は……」
「ほう!」泣澤はいささか強い声で言った。「それは素晴らしいですね。こちらのお嬢さんもご一緒で?」
大城は甘奈の方をちらりと見て、「はい」と答えた。
「ゼミの先輩なんです。グループで中町市の歴史を研究しています」
「なるほど。さようでございますか。それでしたら専門的な資料が必要でしょう。展示はかなり概説的になっていますが、二階の倉庫にはかなりの資料がございます。本当は色々企画も考えているのですが、大きな資料館ではございませんし、スペースの問題もありまして……」
そこまで聞いて、甘奈は松風の話を思い出した。
「あの、本をお書きになっていると伺ったのですが?」
「ええ、ええ」泣澤は嬉しそうに、あるいは恥ずかしそうに背を丸め、また頭を掻いた。「恥ずかしながら、ずっと中町の歴史について書いております。ですが、なかなか完成させられず、出版の目処などは立っていないのですがね。死ぬまでには何らかの形で、と思っておるんですが、いかんせんかなりの分量になってきてしまいまして。何せ古事記の時代から書き起こして、現代までの中町市を詳細に記述しようと思いますと、これは大変な……」
話が長くなりそうだと思った甘奈は、思い切って崎波の名前を出した。
「崎波十三でございますね?」泣澤は急に真剣な表情になり、鼻の下の白髭をつまんだ。「どちらでその名前を?」
大城の出番だった。「ええ、実は、こちらの夏野先輩が、中町中学校の吹奏楽部の出身で、元顧問の松風先生からサキナミさんのお話を聞いておりまして、それを私が聞きまして、興味を持ったのですが」
「中町『第一』中学校の松風先生ですね?」泣澤は確認した。
「失礼しました」大城は甘奈に向かって舌を出した。「また間違った」
「松風先生からは膨大な資料をいただきました。いや、実は、崎波十三という作曲家については、私もちょうど今執筆しているところでしてね。彼の存在はなかなか興味深いのです」
「本当ですか!」甘奈の目は輝いた。「詳しく聞かせていただきたいんですが」
「ええもちろん、ただし長い話になりそうです」そう言うと松風は腕時計を確認し、「まだ大丈夫だ」という笑みを二人に向け、ガラスケースの前に二人を案内した。
□
「水島様であればご存知かとは思いますが、中町市は淀川の水運と、京都と大阪を結ぶ宿場街として栄えた町でございます」
「ええ」大城は腕を組んで展示されている洪水の絵巻物を眺めていた。「もちろん承知しております」
「判っている限りでは、崎波家は江戸時代に商人として、泥町一帯で財を成した家でございます。この船はご存知でしょうか? 淀川を渡る様々な船に向けて、食料などを売っていた船です」そう言って泣澤は船の模型を指差した。
「『くらわんか船』ですよね」甘奈が言った。「確か、『飯食らわんか』っていうかけ声が名前の元になっているとか」
「その通りでございます」泣澤は満足げな笑みを浮かべた。「崎波家は、これらのくらわんか船に代表されるような、商船向けの商売を手がけておりました。
それと合わせて、宿に泊まる旅人向けにも商売を行っておりました。何を売っていたかまで詳細は解りませんが、かなり精力的に働いていたようで、江戸末期には既に多くの利益を生み出していたようです。明治、大正時代も時代の変化に応じたビジネスを行い、よくあるように二代目で潰れるということはなかったようです」
「それで、ジュウゾウさんっていうのは、いつ生まれたんですか?」大城が訊いた。
「はい、崎波十三は、一九二二年、大正十一年に崎波勘助の次男として中町市に生まれました。
当時の崎波家は相変わらず富豪として泥町に君臨しておりました。新しいビジネスをいくつもこなしていたようです。例えば、駅前の中町珈琲をご存知でしょうか?」
「ええ、時々行きますよ?」と甘奈が言った。駅前には若者向けのチェーンのコーヒー店がいくつもあったが、中町珈琲は幅広い世代が利用する喫茶店だった。
「あそこも崎波家が始めたコーヒー店なのです。今は純喫茶になっておりますが、当時は『カフェー』と言って、大正時代の最先端の社交場だったのですよ」
「社交場」と大城が呟いた。
「ええ。崎波家は時代の先を行く家柄だったというわけですね。十三少年もそのような感覚を少年時代に育んでいきました。そして、恐らくご存知とは思いますが十三は音楽に興味を示しました。当時の『洋楽』、つまり今で言うところのクラシック音楽でしょうか」
「はい、松風先生に聞きました。なんか、イギリス音楽に凝ってはったんですって?」と甘奈が言った。
「そのようですね。私は詳しくは存じ上げないのですが……様々な資料を基に記録を整理いたしますと、スポーツ愛好家だった兄に比べ、十三は音楽を愛し、ヴァイオリンやピアノ、マンドリンなどを愛好していたようです」
なんだ、管楽器はないのか、と甘奈は思い少し残念な気持ちになった。
「そういったものを崎波勘助――十三のお父さんですね、彼は心斎橋などで購入して、子供の教育に役立てていたようです。
その頃の勘助は、ビジネスの方面では、農業に興味を抱いていたようです。それもあって、十三の兄は化学を学ばせられました。当時としては恐らく、最高の教育を受けたのではないでしょうか。商人の息子でしたから、まず二人とも数学を徹底的にやらされたようです。そして十三の兄は京都帝国大学で化学を専攻するようになります」
「お、先輩だ」と大城が言った。
「さようでございます。十三の方は、将来には色々と悩みがあったものと思われますが、音楽はあくまで趣味という風に割り切っていたようです。ですが演奏者として、中町市ではその名を知らぬ者はいないというくらいの名手で、カフェーや駅前でよく演奏をしていたそうです。十二歳の時には最初の曲を作曲しています。作曲の方も話題になり、高校生の時には、十三の作品が公会堂で演奏されたという記録が残っています。
そして高校を卒業した十三は、兄と同じ京都大学の農学部に進学します。これは推測ですが、恐らく勘助は、戦後の日本を見通していたのではないでしょうか。戦後の食糧事情を見越して、二人の息子に農業の道を選ばせたのだと思われます。農地改革後の土地に切り込んでビジネスを行おうとしたのではないかなと。それだけの才覚がある商人だったようです」
甘奈は会ったこともない崎波十三の生涯を想像していた。自分とは恐らく似ても似つかないような人生を歩んだに違いないのだろうけれど、音楽に惹かれながら、それを職業にしなかったという点では一致しているなと思った。しかし十三は果たしてそれを選んだのかどうなのかということが気になった。自分は音楽を仕事にしたいと思ったことはないけれど、もしかしたら十三はプロの音楽家になりたかったのかもしれない。自分とは比べようもないくらいお金持ちでも、自分のやりたいことが出来るわけではなかったのかもしれないなと推し量っていた。
「この頃の崎波十三の人生に、ひとりの女性が紛れ込みます」そう言うと泣澤は甘奈と大城を順番に見やって、にっこりと笑った。
「恋人ってことですか?」大城が尋ねた。
「そうです。崎波十三には恋人がいたようです。しかし、これは時代の悲劇と言うべきか、当然と言うべきか、二人は戦争によって引き裂かれてしまいます。一九四三年の秋、十三は二一歳で、京都大学の学生でした。学徒出陣という言葉はご存知でしょうか?」
「聞いたことあります。学生も戦争に行かなきゃならなかったっていうやつですよね?」甘奈がそう言った。
「でも、十三は農学部だったんでしょう?」大城は眉間に皺を寄せ、疑問の表情を泣澤に向けた。「学徒出陣は文系学生に限られていたはずです」
泣澤はガラスに映る自分の顔をじっと見つめていた。しばらく沈黙したあとで、目線を足元へ向け、深い溜息を吐いた。
「哀しいことです」と彼は呟いた。
「おっしゃるように、基本的に学徒出陣は文系に限られ、理系と教員養成系の学生は免除されました。しかし理系の中で、兵器製造に関係のある理工系は除外されましたが、農学系は免除されなかったのです。十三は農学部農業経済学科に所属していました。彼が農業経済を専攻した理由がわかりますか?」
「お兄さんが……化学を学んでいたんですよね」大城はゆっくりと言った。「たぶんそれは、肥料や農薬の開発のためだったのでしょう?」
「もちろん、推測に過ぎません」泣澤は優しい笑みを浮かべた。
「ですが、十三は長男である兄の助けになるよう色々と考えたはずです。兄が農薬を開発するから、自分は農業ビジネスの仕組みを理解しておこう、と。その結果が農業経済を専攻するという志になって現れたものと思います。哀しいことです。音楽の才能に恵まれた若者が、戦争に行かざるを得なかったと思うとね……」
しばらく三人の間には重い沈黙が訪れた。戦争というものについて考えるとき、甘奈はいつも黙することしかできない。大城にしてもそうだった。それは遠い昔の出来事だったし、想像の及ぶような範囲の悲劇を超越したようなものに感じられていたからだった。平成に産まれた自分たちが、何かを言えるようなことではないと思っていた。ただただその歴史を受け入れることしかできなかった。
「そうそう、恋人の話を忘れていましたね」泣澤が沈黙を破り、明るい声でそう言った。「今まで申し上げた崎波家の歴史は、いくつかの公的な資料と、私自身が行ってきた聞き取り調査と、崎波十三の日記に基づくものなのです。その証拠をお見せしなくてはなりませんね」
「日記があるんですか?」甘奈は自分の呪いのことをほとんど忘れていた。それよりも、自分と同じ中町市で育った崎波十三がどのような人生を辿ったのかを知りたくなっていた。
「ええ。夏野さん、でしたね。吹奏楽部の出身だそうですね。興味深いものをお目にかけましょう」
穏やかな笑みをその目尻に湛えて、泣澤は二人を二階へ向かう階段へと誘った。
十一章
甘奈と大城が泣澤に連れられて階段を上ると、広い畳の間が二人の目に飛び込んできた。一階の照明とは違い、格子状の木枠が張られた天井から、数本の小さなシャンデリアが温かい光で部屋を照らしていた。
「お手数ですが、ここでは靴をお脱ぎいただくことになっております」
三人は靴を脱ぎ、少しの段差を上がって畳を踏んだ。大城と甘奈はしばらく部屋を見回した。複雑な彫刻をあしらった欄間が二人の頭上にあった。壁には先ほどと同じように展示物の入ったガラスケースがあったが、掛け軸や箪笥なども置いてあり、旅館の大広間のような雰囲気があった。
「この資料館は中町一の宿場であった『淀屋』を改築したものでございます。こちらの大広間はもともと宴会場でございました」泣澤はそう言うと、畳の間の横にある事務室の中に入っていった。
「なんか畳の匂いとか嗅ぐの、久しぶりな気がする」甘奈はぽつりと呟いた。
しばらくすると泣澤が数枚の楽譜と二つの紫色の座布団を持ってきた。二人は薦められるまま座布団に座り、泣澤は膝を折って畳の上に正座した。
「こちらの楽譜が、崎波十三が初めて作曲したと思われる作品です。短い曲です」泣澤は一枚の楽譜を二人に見せた。
甘奈はその紙を手にとってみた。『無言歌』の楽譜と同じ材質の、少しだけ分厚い紙であることがすぐに解った。
「『淀川の歌』ですか」甘奈はしばらく楽譜を目で追い、それから裏返した。裏面には「S.9 淀川にて」と記されてあり、四行の歌詞がその下に書き込んであった。
「そうです。崎波は中町市の自然を題材に多く曲を書きました。こちらもその一つで、彼が十五歳の時の作品です」
泣澤は大城に一冊の楽譜を差し出した。大城はその製本された楽譜を読んでいった。
「これはマンドリンオーケストラのための曲ですね。十五歳の時にはもう、わりと大きな曲を書いてたんだ」彼はページをぱらぱらとめくっていき、最後のページまで読むと、甘奈と同じようにそれを裏返した。
「えっと『S.12 鳴山での花見の印象 皆で食べ、飲み、歌ったことの思い出に 春花泰君に献呈』って書いてありますね。この、春花泰くんっていうのは?」大城はその春花という苗字をどこかで聞いた気がしていた。
「ええ、そこからお話しましょう」そう言うと泣澤は座り直した。それを見て二人も姿勢を正した。
「春花泰という人は、十三と同じく中町市の人間です。崎波家からそう遠くない、泥町の端の方で酒屋をやっておられた家のようです。これは後ほど詳しく語ることになりますが、泰はのちに崎波十三の楽譜を全て引き継ぐことになります」
そこまで聞いて甘奈は思い出した。「あ、その話、松風先生から聞きました。一中の音楽の先生やってはったんですよね? 確か」
泣澤はうなずき、「仰るとおりです。そもそも彼が音楽教師の道を選んだのも、十三の影響でした」と言った。
「あれ、親戚なんじゃなかったっけ、その、春花さんと崎波って」と大城が言った。
すると泣澤は鼻の下の白髭をつまみ、首をかしげた。
「そのような話は聞いておりませんが、どうなのでしょう。記録上、親戚だったということはないはずですが……」
「松風先生がそう聞いたって言ってたような気がします」大城は松風家の庭で聞いたことを思い出していた。「親戚だったから楽譜を引き取ったって、その泰さんが松風先生に言ったとか」
「そうなのですか。いや、存じ上げておりませんでした。とすると……」泣澤は手で口を覆い、畳に視線を落とした。しばらく考え込んでから、顔を上げて話し始めた。
「いえ、それは後にいたしましょう。とりあえず、わかっているうちでは、十三は年少の泰くんを弟のようにかわいがっていたようです。家もそれほど遠くないとあって、十三は彼に音楽の手ほどきをしたと思われます。
そうそう、先ほど申し上げました日記というのは、これらの楽譜のことなのです。ご覧いただいたように、十三は楽譜の裏に、その時あったことや感じたことなどを短く書き留めていました。どちらかといえば、彼にとっての日記は音楽だったのかもしれません。印象的なことがあるたびに筆を走らせ、曲を書いたようですね。そして記録として、いつどこで何をしたかということを書いていたようです。倉庫には膨大な量の楽譜がありますが、それらの裏には例外なく短い文章が記されています」泣澤は三枚目の楽譜を甘奈に手渡した。「こちらは十三が十八歳の時の作品です」
「清き水の音楽……」甘奈はタイトルだけ確かめると、すぐに楽譜を裏返した。「昭和十五年、夏、美智子と貴船参拝の折」
甘奈は美智子という言葉を見て、自然に口にしたが、それが彼女の母親の名前であることに気が付いた。その偶然は甘奈をひやりとさせたが、それほど珍しい名前でもないのだろうと思い納得した。
「この、美智子さんというのは、どなたですか?」甘奈が泣澤に訊いた。
「先ほど申し上げた、十三の恋人とみられる人物です。彼女の名前は頻繁に崎波の楽譜に登場します。泰の兄である、春花美智子です」泣澤は微笑んだ。「いつから二人が恋仲にあったのかまではわからないのですが、美智子の名前が初めて彼の楽譜の裏に現れるのは、その貴船神社を訪れたという夏のことです。昔から弟の泰くんと遊んでいたということですから、二人が恋人になっていたのはもっと以前のことかもしれません。その時十三は十八歳、美智子は十六歳でした」
甘奈は貴船神社のことを思い出していた。ちょうど夏休みに友人たちと京都を観光した時に彼女はそこを訪れていた。「清き水の音楽」という曲の題名を甘奈は理解することができた。靴を脱ぎ、足を浸した川の水の冷たさと、川床から聞こえる風鈴の音を思い出した。
「さて、ここから先は少々重たい話になりますが……あちらの展示を見ながら話をしましょう」泣澤は立ち上がり、二人もそれに続き、壁際のガラスケースの前に立った。
「中町市と二つの戦争」と題されたその展示ケースの中には、武器や、ところどころ破れた服や、銃弾が貫いた跡が残るブリキの看板などがあった。
「まず、美智子のことをお話しましょう。彼女は中町市に住んでいた女性で、女学校を出たあとは実家の酒屋で働いていました。そのような通常の市民について、私ども資料館や、中町市が知りうることは少ないはずなのですが、多くのことが判明しています。その理由については後々述べるとして……」泣澤は展示に目線を落としている大城と甘奈の方を向いた。「お二人は、戦時中の中町市について何かご存知でしょうか?」
甘奈と大城は目を見合わせた後、首を横に振った。
「その頃の中町市は、軍需産業で発展していた街でした」そう言うと彼はポケットの中から白い手袋を出し、それをはめた。「中町に初めて軍事工場ができたのは、一八九六年、明治二十九年のことです。現在の葉宮地区に建設されました」
葉宮は甘奈のよく知る地名だ。「一中のあたりですか、もしかして?」
「ええ、そうです。現在の中町一中があるあたり一帯すべて工場と火薬庫でした」泣澤はガラスケースの鍵を開き、中から丁寧に細長い金色の銃弾を取り出した。「これは第二次世界大戦当時生産されていた二〇ミリ機銃弾というものです。中町製造所と中町火薬庫は大阪でも屈指の軍事工場でした」
泣澤は二〇ミリ機銃弾を大城に手渡した。大城は恐る恐るそのバナナ大の金属を手にした。
「おもっ!」大城は慌てて左手を添えた。「むちゃむちゃ重いじゃないですか!」
彼はすぐに銃弾を泣澤に返した。泣澤はスーツの内ポケットからハンカチを取り出し、表面についた大城の指紋を拭き取り、ケースの中にそれを戻した。
「話を美智子に戻しましょう。彼女は戦争が始まってしばらくすると、この中町の工場で働くことになります。戦時中は女性や子供も、かなり多くの人間が兵器製造などで戦争に関わっていました。そう、ちょうど夏野さんと同じくらいの年齢の女性も、皆何かしらの形で戦争に貢献することを強いられました」
「僕は戦場へ?」と大城が訊いた。甘奈は黙っていた。
「恐らく、いや間違いなく徴兵されたでしょう。水島さんのように顔色の良い、健康な男性の多くはすぐに前線へ送られました」泣澤はケースの鍵を閉めると、微笑を浮かべてそう言った。しかしその微笑の中に、どこか冷たく、何かを諦めたような表情が隠れていることを大城は感じた。
「そう、そして美智子が工場で火薬や砲弾をせっせと造っている間、先ほど申し上げましたように、十三は学徒出陣により兵役に就きました。国内でいくつか軍務をこなしたあと、数字に強かった彼は主計少尉として朝鮮に渡ります」
「しゅけい……しょうい?」甘奈にはその単語の意味が解らなかった。
「ええ、そうですね。会社で言うところの、経理のような部署です。軍隊といっても、食料であるとか、服や生活必需品など、様々なコストがかかってきますからね。その膨大な計算を処理するところに彼はいたのです」
甘奈はそれを聞いてほっとした。良かった、戦場で人を殺していたわけではないのか、と彼女は思った。呪いの怨念がもしあるとすれば、それは少なくとも十三が殺した兵士の恨みではないだろうということに安心した。
「そして結局彼は朝鮮で終戦を迎えるわけなのですが……お二人は、大阪大空襲というのはご存知ですよね?」
横浜育ちの大城でもその言葉は知っていた。「戦争が終わった年の春に、大阪にたくさんアメリカの爆撃機がやってきて、火の海になったとか」
「その通りです」泣澤は手袋を外し、それをズボンの尻のポケットに入れた。そして両手を腹の前で組み合わせた。「中町市の記録にも残っていますが、その空襲が行われた三月の夜、中町市からも大阪市の炎が見えたと言います」
「ここからですか?」甘奈は思わず眉間に力が入るのを感じた。
「ええ、ここからです。まるで夕焼けがずっと続いているようだった、と言う人もいます。大阪市は焼き尽くされました。しかし、中町市には、大阪大空襲の時も目立った被害はありませんでした。時々散発的に小規模の空襲がある以外はね」
一階と同様、二階にもちょうど良いくらいの冷房が効いていて、大城と甘奈は暑いとは感じなかったのだが、泣澤は一度内ポケットに仕舞った白いハンカチを再び取り出し、額を拭った。大城はそれを見て、たぶんスーツを着てネクタイを締めているから暑いのだろうなと思った。
「そう、目立った被害はありませんでした。少なくとも、歴史書に載るような被害はね……」
泣澤はそう言ったが、甘奈と大城にはまるで独り言のように聞こえた。
十二章
「先ほど申し上げましたように、私が春花美智子について確かな情報を得ているのには、きちんとした理由がございます」泣澤はハンカチを握ったまま、大城と甘奈の方に向き直った。
「一九四五年の七月、もう日本の敗戦は決定的になっていました。沖縄戦は終結し、本土決戦ということが叫ばれていました。戦争に止めを刺したのは、ご存知のとおり、広島と長崎に投下された原子爆弾ですが……しかし、七月の時点で一体、中町市の市民の間でどのようなことが言われていたのかまではわかりません。まだ勝てると言っていた人もいたでしょうし、それを心から信じていた人もいるのかもしれない。あるいは負けるとわかっていても、それを口にできなかったか。いずれにせよ、戦争はまだ終わっていませんでした。春花美智子は、その日も朝から中町製造所に働きに出掛けました。彼女が二一歳の誕生日を迎える約一ヶ月前、七月二十四日のことです」
夏野甘奈はその言葉を聞いて、当時の春花美智子が、今の自分とほぼ同じ状況であることに気が付いた。甘奈は二十一歳の誕生日を来月に控えていたのだ。そして、美智子がどのような運命を辿ったのかを語る泣澤の言葉を待った。
「六月と七月に何度か中町市への空襲があり、家が焼けたり人が亡くなったりすることがありました。爆弾以外にも、P51というアメリカの戦闘機が散発的に銃撃を行ったりしていたようで、その度に死者や、けが人が出ました。
……ですが、いずれも小さな被害でした。大阪の歴史書にはおそらく記されることのない事実です。大阪大空襲に比べれば、微々たる被害です」
泣澤の口調は、今までと違い、ある種の抑揚が認められるようになった。急に早口になったり、遅くなったりした。
「そして七月二十四日の爆撃がありました。終戦の約三週間前です……三週間ですよ。あと三週間というところで……春花美智子は、命を落とします」
甘奈は黙って目を瞑った。一瞬だったが、彼女は強く目を瞑った。そうして二、三度まばたきをして、泣澤を見つめる視界をあらためた。
「製造所の周辺で、半焼二戸。死亡者は合計で五名。重傷者は十二名。軽症者は三名で、製造所の一部は焼け落ちました。その五名の死亡者のひとりが、崎波十三の恋人であった春花美智子です。
中町で、空襲によって命を落とした人間はそう多くありません。それゆえ、記録がきちんと残っているのです。皮肉なことですね。もし彼女が何もなく、平穏にその後の暮らしを続けていたとしたら、私が彼女の名前を知ることなど無かったと思うのです。いや……あるいは、崎波十三の妻として、その名前が歴史に刻まれていたかもしれませんね。偉大な作曲家の妻として」
そこまで言うと泣澤は大きく溜息をつき、二人に向き合った体をくるりと回し、格子状の天井を見上げた。ハンカチで額を拭っている泣澤の背中を大城は見ていた。泣澤はしばらくそうやって天井を見上げていたが、ハンカチを内ポケットに仕舞うと、再び甘奈と大城に向き合って、丸めた右手を口元に当て、「失礼」と言って二度乾いた咳をした。
「さて、話を先に進めましょう。きっとお二人は崎波のことを聞きたいでしょう。彼は朝鮮で終戦を迎えました。もちろん恋人の死は知りえません。終戦の間近になって、ソ連、今のロシアですね。ソ連軍が日本に向けて攻撃を始めたというのはご存知でしょうか」
「確か中立条約を一方的に破って侵攻してきたんですよね? 無条件降伏の一週間前くらいに」大城が言った。
「ええ、その通りです。ソ連は満州や樺太といった地域に侵攻しはじめました。命からがら日本に帰ってきた人もいますが、殺された人や、そのまま帰れずに中国で生涯を終えた人もいます。しかし崎波は軍人でしたから、逃げるわけにはいきませんでした。彼は他の多くの日本人とともに、終戦後、ソ連軍の捕虜になります」
「シベリア抑留ですね」腕を組んだ大城が呟いた。「まさか、十三はシベリアで亡くなったんですか?」
泣澤は首を横に振った。「いえ、彼は幸いなことに健康な若者でした。ですから、過酷な寒さと労働で、多くの捕虜達が死んでいく中、十三は生き残ります。そして一九四七年に『信洋丸』という船に乗って日本に帰ってきました。
その後の十三ですが、しかし、あるいは……シベリアで死ぬよりも、無残な死に方をしたと言えるかもしれません」
三人の間には再び沈黙が訪れた。甘奈にとって沈黙は音楽を作るための重要な器だった。沈黙、静寂、それらが成り立って初めて、その器に音楽を流し込むことができる。彼女には沈黙の質を見極める能力があった。それは指揮者だけが獲得できる感覚だった。棒を振り下ろす前の沈黙の中に、あらかじめ音楽が含まれているのを彼女は時折感じていた。それはある種の予感だった。どのような音楽が生まれるのか、頭の中にそのイメージが流れ込んでくる。そうして指揮棒を振り下ろした時、鳴らされる初めの音が想像の音楽とぴたり一致した時に、完全な快感が彼女の体内に湧き上がって来るのだ。
泣澤の次の言葉が耳に届く前に、彼女は十三の運命を沈黙から読み取ってしまった。そして快感ではなく、悲しみが彼女の心の底からじわりと滲んできた。
「崎波十三は自殺しました。いえ、表向きは心臓発作ということになっているのですが……」泣澤は一瞬間を置いたが、次の言葉が再び沈黙によって切り離されてしまう前に、すぐに声を繋いだ。
「帰国した十三は、もちろん家族によって温かく出迎えられました。しかし家族はそこで、十三から聴力が失われてしまったことを知ります。二年に渡る、想像を絶するストレスが彼の音楽を奪いました。私は楽器の類は全くやらないのですが、音楽家であった彼が音楽を失うというその絶望を、ほんの少しだけ想像することができます。もし春花美智子が生きていたら……もちろん無駄な想像です。ですが想像せずにはいられないのです。もし米軍が、意味のない爆撃を止めていれば……だってそうでしょう? 原爆投下の計画が確実になっていた時に、中町を爆撃し、若い女の命を奪う理由があったでしょうか。しかし、戦争とはそういうものなのです。圧倒的な暴力に意味を求めること自体が無意味なのです」
泣澤の目は開かれ、頬は紅く染まっていた。その目が捉えていたのは、目の前にいる二人の若者の姿ではなかった。もっとどこか遠くの、時間を越えた先にあるものを見据えているようだった。
「美智子の死を知った十三がどうなってしまったか、それはご想像にお任せします。死に至るまでの短い時間をどう過ごしたか、はっきりしたところはわかっていません。ただ、一九四七年の大晦日の日に亡くなったということだけは確かです。どのような死に方を選んだかも私たちには知りえません。しかし遺書が残されていました。先ほど申し上げたように、公式には心臓発作ということになっていましたがね。その短い遺書の中には、これまで書いた全ての楽譜を淀川に流すようにと書いてあったそうです。彼にとって淀川は中町そのものでした。今の中町に住む人たちにとってもそれは同じことでしょう」
その後の話は、泰が崎波の親戚であったということを除いて、松風から二人が聞いたのと同じ内容だった。十三の死を悼んだ春花泰がすべての楽譜を引き取り、それらは松風の手に渡り、今は歴史資料館の倉庫に保管されている。ただ、甘奈が持つ一枚だけを除いて。
「崎波十三について私が語るべきことは、これが全てです。レポートの参考になれば良いのですが」泣澤はにっこりと笑って言った。
「大丈夫です。きっといいレポートができます」と大城は言った。大城は歴史学の学生ではなかったし、これは嘘だったのだが、彼は本気でそう言っていた。
甘奈はリュックサックから『無言歌』の楽譜を取り出し、黙って泣澤に見せた。
「これは……ちょっと、よろしいでしょうか」彼はまた白い手袋をはめて、楽譜を手に取った。
「『Song Without Words』ですか。私は楽譜は読めないのですが……これはどちらで?」
「あの、一中の楽譜倉庫を掃除していたら出てきたんです」と甘奈が言った。
「さようでございますか。ええ、これは確かに崎波のものですね。音符の筆跡は他の楽譜とわずかに違いますが……署名のアルファベットは全く同じです」泣澤は楽譜を裏返した。「しかし、歌詞も何も書いてありませんね」
甘奈はこくりとうなずいた。
「おかしいですね。十三は必ず何かしら書くはずです。日時なり、出来事なり。歌の場合には必ず歌詞があるはずですが」
「でも、『無言歌』ですからね。本当に歌詞がないのかも」大城はそう言って溜息をついた。
泣澤は目を細めて紙を遠ざけてみたり、照明に透かしてみたりしたあとで、その楽譜を甘奈に返した。
「もしかすると、それは崎波が帰国してから亡くなるまでに書いたものかもしれませんね」彼は手袋を外しながら言った。「もしそうだとすると、それはその期間に書かれた唯一の楽譜になります」
「やっぱりこれも、ここに置いてもらった方がいいですよね?」甘奈はそう尋ねた。
「もちろん、そうして頂けるとこちらとしては大変助かります。ですが、きっとその楽譜を元にレポートを書かれているのでしょう?」泣澤が微笑むと、その目尻に皺が寄った。「レポートが完成した後で、もしよろしければまたこちらに持ってきていただけたらと思います」
甘奈と大城は泣澤に礼を言い、一階へ降りていった。出口まで泣澤が見送った。
「鳴山のムクの木の下に、崎波十三の顕彰碑があります。とても小さなものですが、彼の死後何年も経ってから、作曲の業績に対して中町市が建てたものです。お時間があれば、一度寄られてみるのも良いでしょう」そう言って彼は深くお辞儀をした。甘奈と大城も礼をして、二人で資料館をあとにした。
□
甘奈と大城はそのままバイクに乗って、どちらから言うともなく鳴山へ向かった。西の空は少しずつ夕方の色に染まり始めていた。日が暮れる時間は日に日に早くなってきていて、昼間の暑さは和らいでいた。鳴山に着くまでの間、二人は一言も交わさなかった。
鳴山は、山という名前が付いているものの、実際はゆるやかな丘であり、その上には広い公園があった。大城は鳴山の下でバイクを停めた。二人は階段を上って、公園の敷地に足を踏み入れた。オレンジ色に染まりつつある公園にはまだ子供たちの姿があった。
公園の隅の、丘の西側の終端に樹齢五百年を数えるムクの木がある。そこから西を向けば中町市街を一望することができる。ムクの木の葉は黄色く、枝は小さな黒い実を垂らしている。時折吹く風に音を立ててその身を震わせながら、ムクの木はただじっと立ち尽くして、長い間中町市の景色を鳴山から見下ろしてきた。大城と甘奈はムクの木の周りを歩きながら、崎波十三の顕彰碑を探した。
それは木の根元にあった。その顕彰碑は先端が丸くなった円錐の形をしており、甘奈の膝くらいまでの高さがあった。灰色の石でできており、まだ新しいという印象を二人に与えた。表には「崎波十三顕彰碑」と刻まれていて、西の空を向いていた。そしてその裏側に、彼が作曲家であったことと、生没年が記してあった。
甘奈は『無言歌』の楽譜を取り出して、その碑の前に置いた。淀川に沈んでゆく太陽に背を向けて、彼女はしゃがんで石の円錐と向き合った。
「これでええんかな」と甘奈は呟いた。
大城は甘奈の後ろに立っていた。強い風が吹き、ムクの木がさわさわという音を立てた。
「ここに……置いておけばええんかな?」甘奈の声は震えていた。大城も甘奈の隣にしゃがんで、彼女の横顔を見た。甘奈は泣いていた。半開きになった口が歪み、唇が細かく震えているのを大城は見た。
「なんでやねん……そら、辛かったやろう、苦しかったやろう。しんどい思いして、寒い寒いところで……この中町では想像もできひんくらい、寒いところで……!」
甘奈は涙も鼻水も拭くことをせず、ただ呟いていた。大城はムクの木の表皮に目を移した。甘奈を見ていることに耐えられなかった。
「好きやったんやろうなあ、音楽! あたしも好きや。あたしも好きや、それに、それに恋人だっていた。弟みたいなガキもおった。金持ちやった。幸せやないか? この中町で産まれて、中町で育ったんやろう……? たくさん曲だって書いた。どんな気持ちやったやろう? 自分の曲が演奏されるって。なあ、どんな気持ちやったんや?
そら戦争は辛かったやろう。どんなことがあったか知らん、知らんけど、耳が聴こえへんようになって、やっと帰ってきたら、恋人が死んでて……! 恋人が、死んでて!」
甘奈はほとんど叫ぶようにそう言うと、しゃがんだ姿勢を崩して、膝を折り、その次に両手を地面に付けて泣いた。彼女の体はずっと震えていた。それを見た大城も同じように膝を折って、彼女の肩に手を置いた。その振動と体温が、手を通じて大城にも伝わってきた。
「わかるよ。アンタの気持ち。あたしも今そうなってんねん。なあ、音楽を失うって、こういう気持ちやねんな。からっぽや。何も無い。恋人の方は、わからへんけど、死にたくなるよな。アンタはかわいそうな人やったんやな。
美智子さんやって……知らんけど、綺麗な人やったんやろう? アンタ、惚れてたんやろう? お母さんと同じ名前や……あたしと同じ歳やった! なあ、なあ、でもな、でも、なんであたしを恨むねん? なんであたしが呪われなあかんねん? なんであたしから音楽を奪わなあかんねん!」
崎波の楽譜の上には、大城の楽器の上に落としたのと同じように涙がぽつぽつと染み込んでいった。しかし、今度の涙は止まりそうになかった。甘奈は泣き続けた。子供みたいに、しゃくり上げながら言葉を継いだ。
「あたしにとって音楽は全てなんや。人生そのものなんや! アンタは辛かったかもしれへんけど、あたしには関係ない。あたしの人生を、あたしの音楽をアンタに滅茶苦茶にされる理由なんかない。音楽を奪う権利なんかないんや……! どんだけ辛かったって、それをあたしに押し付けるのはやめて!」
甘奈は楽譜をいくばくかの砂と一緒に掴むと、立ち上がって、両手でそれを裂こうとした。
「あたしには関係ないんや!」
大城は反射的に甘奈の手から楽譜を奪い取った。それと同時に甘奈は崩れ落ち、顕彰碑の前に倒れた。そして声も上げずにただ泣き続けた。彼女は拳で地面を何度も叩いた。
大城の手の中にある楽譜は、数センチを残して、ほとんど真っ二つに裂けていた。甘奈の小さな体は夕陽に照らされて長い影を作っていた。大城は時折大きく揺れるその影をじっと眺めていた。
十三章
何かを考えるたびに、その何かは頭の中に浮かぶけれど、すぐに切れ端が見えて、どこかへ去ってしまう。夏野甘奈は沈んでいた。何かを考えると、別の何かのことを考えてしまう。何かをしようとすると、別の何かをしなくてはならないという気になってしまう。そうして気が付いたら一歩も動けなくなっていたし、一言も喋ることができなくなっていた。甘奈は大学に行く気も起こらなかった。ただ黙って布団に潜っていた。彼女には、自分でも不思議に思えるくらい、心の動きが見えていた。怒りや悲しみを通り過ぎたあとの甘奈を待っていたのは、透明になった心だった。
甘奈の同居者である夏野美智子がそういった甘奈の異変に気付かないはずがなかった。少し前から、甘奈がトランペットを持って出掛けなくなったのを知っていた。以前までだったら、甘奈は少なくとも週に一回は楽器を持って外へ出ていた。甘奈が高校生になってからずっとそうだった。普段から家にいる時は、甘奈は自室に籠もることが多い。美智子がそっとドアを開けると、甘奈は机に向かっていたり、楽器を磨いていたりして、ドアが開いたと気付かないことがあった。夜中にはヘッドフォンを付けて音楽を聴いていることが多かった。鏡に向かって、髪を振り乱して指揮の練習をしている甘奈の部屋に入った時には、怒られたことさえある。――ちょっと、恥ずかしいんやから、ドア開ける時はノックしてよ! 甘奈はそんな風に言って、顔を赤らめていた。
しかしここ数日、甘奈は大学に行っていないし、音楽を聴いている様子も美智子には伝わってこなかった。美智子が仕事を終えて帰宅する頃には、甘奈の部屋の明かりは消えていた。朝に美智子が家を出る時に部屋を覗いてみても、甘奈はベッドの中にいて、ただ目を開けてじっとしている。冷蔵庫の中の食料は少しずつ減っているから、自分のいない時に何かを食べてはいるのだろうと美智子は思ったが、自分の娘の身に何かしらの異変があったことは確信していた。
夏野甘奈の二十年の人生を、美智子はずっと一緒に過ごしてきた。だから、今までも娘のこのような状況に何度か遭遇していた。ひどい風邪にかかって寝込んだこともあるし、空手を始める前は、何日も家から出ないようなこともあった。中学生の甘奈が年上の先輩に片想いをしていて、その恋に破れた時、彼女は二日間水しか飲まなかった。反抗期めいたものもあった。急に口を利かなくなり、食事をリビングではなく部屋で食べていた時期もある。高校生の時には、涙のあとをくっきり顔に残したまま帰ってきたことも美智子は覚えている。とにかくあらゆる娘の表情を美智子は記憶していた。
そういう時、美智子は甘奈に何も尋ねなかった。ただ推し量るだけだった。だから涙の理由も知らなかったし、失恋のなりゆきも後から聞いた話だったし、リビングを避ける振る舞いについて問い質したりもしなかった。楽しい顔で帰ってきたときにはいつまでも甘奈の話を聞いてあげていたが、その逆の場合は何もしなかった。沈黙だけが癒すことのできる種類の苦しみがあるということを、この母娘は十分に理解していた。だから二十歳になった甘奈が深く落ち込んでいるらしいことを知った時も、何日か経った後で、夏野美智子はいつもそうしているように、ただ黙っておかゆを作った。
おかゆ、あるからね、と美智子は木曜日の朝に、甘奈の部屋のドアを半分だけ開けて、静かに言った。いつも通り、味付けは濃いけどね、ほら、わたし、北海道の人だから、あなたの口に合うかはわからないけれど、と言った。それだけ言うと、美智子はドアを閉め、仕事に向かった。
母親が家を出て行ってしばらくしたあとに、甘奈は布団から出て、キッチンを覗いた。赤い小さな鍋には蓋がしてあり、中にはおかゆが入っていた。ただのたまごがゆだ。風邪を引いた時にいつも美智子が作ってくれるものだった。甘奈はそれを見るのが何だか久しぶりであるような気がした。その黄色い、水気の少ないおかゆをスプーンで掬って、口に運んだ。確かにいつも通り、少し濃い味がしたが、それを飲み込むだけで、甘奈はポカリスエットの味を思い出した。風邪を引いた時いつも彼女はそれを飲んでいたからだ。冷蔵庫を開けてみると、きちんと五〇〇ミリリットルのペットボトルに入ったポカリスエットがあった。甘奈は微笑んで、キャップを開けてそれを飲んだ。
もしかしたらお母さんはあたしが風邪引いてると思ってるんかもしれへんな、と甘奈は思った。いや、それは違うか、とすぐに思い直した。いずれにせよ、彼女の母親は正しかった。甘奈はテーブルに座って黙々とおかゆを食べた。全て食べ終えた後、おかゆ、うまいな、と、しんとしたリビングで呟いた。
夕方になって空腹を覚えた甘奈は、自分でもおかゆを作ってみようと思い立った。米を炊いて、卵を割って、美智子のおかゆを真似て作った。味は舌が覚えているという自信があった。子供の頃から食べ続けてきた味なのだから。
そうして出来上がったおかゆは、美智子の作ったものと同じ色をしていたし、同じように水気のない、おこわに近いようなものだった。甘奈は一口食べてみた。
ひどく薄い味付けで、とても食べられるような代物ではなかった。甘奈は苦笑した。御飯むだにしちゃったかな、と彼女は呟いた。あたし、大阪人やのに、と言うと、苦笑は微笑みに変わっていった。その味のないおかゆは、甘奈に母親の偉大さを知らせてくれた。たった一人のキッチンで、ありがとう、と甘奈ははっきり言った。
十四章
「で、ヴィヴァ・ムジカなんですけど、全然ビバ! って感じじゃないです。音楽万歳どころか、お通夜みたいになってます」
甘奈の携帯が鳴ったのはやはり金曜日の夜で、一中での練習を終えた大城がメールを寄越したのだった。
「まあ、最近来たばっかのボクが言うのもアレですけど、やっぱり部長がケガしたってのは大きいんじゃないですかね。こう、精神的にもね。みんな元気ないですし。ま、そういう時が指揮者の腕の見せ所なんですけどね!」
藤枝の負傷は甘奈が思っている以上に、部員たちに深刻な影響を与えているようだった。甘奈は不安な気持ちで画面をスクロールさせた。
「そんなわけで、もしかしたら曲変更しちゃうかもしれないです。ヴィヴァ・ムジカはちょっと難しいですし……コンクールでやった雲のコラージュに置き換えるかもしれません。あんまり文化祭ぽくない曲ですが、あれならみんなも慣れているし、っていうことで」
甘奈は唇を噛んだ。悔しい気持ちだった。確かに、コンクールで演奏した『雲のコラージュ』という曲は、ひと夏かけて練習したのだから、今すぐにでも本番に持っていける。しかし、それは前進ではなく後退だった。せっかく新しい曲をひとつ経験する機会ができたのに、それを潰してしまうのはもったいない。甘奈はその場にいられないことが情けなかった。大城の腕は確かだが、自分ならきっと『ヴィヴァ・ムジカ!』で押し通すのに、と思った。
「あんま言いたくないですけど、その、元気になってくださいね。
ナツカン先輩カムバック! 的な感じになっちゃってますから。ボクも、生徒も、尾花先生もですよ。とほほな感じですけど、まあなんとか頑張りますから、一回練習見に来るだけでもいいんで、ぜひぜひ!」
行けるわけないやろ、と甘奈は心の中で毒を吐いた。音も聴こえない、楽器も吹けない指揮者なんか邪魔になるだけだ、と。
甘奈は一応、毎日楽器に口をつけていた。もしかしたら呪いが解けているかもしれない、元に戻っているかもしれない、という期待を込めて。部屋の隅で、楽器に息を入れてみるのだが、相変わらずせき止められている。その度に甘奈は大きな溜息をつくのだった。
大城からのメールを読んだ後、何かしなくてはと思った甘奈は久しぶりに崎波の楽譜を見てみることにした。顕彰碑の前で破いて以来、リュックの中に入れたままだった。
彼女は楽譜を取り出し、机の上に置き、スタンドの電源を入れた。明かりに照らされた楽譜は白っぽく見えたが、真ん中で半分に破かれていた。甘奈自身が破いたのだ。
危ないことをしたと甘奈は思った。顕彰碑の前ではもう何もかもが嫌になって、あと少しでびりびりに破いて鳴山から撒き散らすところだったなと思い、ひやりとした。
(これが唯一の手がかりやねんもんな)
甘奈は破こうとする自分の手を止めてくれた大城に感謝しながら、セロテープで破れた部分を修復しようと思った。楽譜を裏に向けて、机の隅に置いてあるテープの台に手をかけた時、あることに気が付いた。
(あれ? この紙、二重になってる?)
裏面の破れた部分から、表面の厚く変色した紙の下に、少しだけ白っぽい紙がのぞいていた。つまり、もともとの紙の上に、さらに上から一枚紙を貼っている構造になっていたのだ。
そこで甘奈は、資料館で泣澤が言っていた言葉を思い出した。
――十三は必ず何かしら書くはずです。日時なり、出来事なり。歌の場合には必ず歌詞があるはずですが……。
この紙を剥がしたら、そこに何かメッセージがあるのかもしれないと甘奈は思った。この呪いを解く鍵がそこにあるかもしれない、そう思った甘奈は、はやる気持ちを抑えて、丁寧に表面の紙をめくっていくことにした。
紙自体がかなり劣化しているので、甘奈は慎重に指を動かした。色あせた表側の紙は、四辺を薄く糊付けされていただけなので、ゆっくりと力を入れながら剥がすことができた。
そうして楽譜の本当の裏面が姿を現した。そこは劣化を免れていたようだったが、甘奈の期待したようなことは何も書かれていなかった。ただの白い紙だった。彼女は少しがっかりして、剥がした紙はそのままにして、セロテープで破れた部分を補修した。
甘奈は楽譜を手にして、ベッドにごろりと横になった。
(やっぱり遺言の通り、淀川に流した方がええんかな? もしかしたら流さんかったことが原因で恨まれてるってこともあるやろうし……)
甘奈はぼんやりと楽譜を眺めた。『ふるさと』を逆さにしただけの旋律。それを吹いただけで自分が呪われているという事実がまた思い出されて、暗い気持ちになった。
(でも、何で棺に入れてくれって言わんかったんやろう?)
甘奈は理科室で大城がふざけてアルコールランプの炎に楽譜をかざしたことを思い出した。
(普通、焼いて欲しいと思うよなあ、自分の作品に執着がないんやったら……)
甘奈は寝転びながら、楽譜の右上に記されている「J.Sakinami」の署名をじっと見つめた。崎波十三という人物についての情報が甘奈の頭の中にぽつぽつと浮かんでくる。
(崎波十三、シベリアで耳が聴こえへんようになって、自殺した人。恋人は春花美智子で、美智子さんは爆撃で死んだ。その弟が楽譜を引き継いで、さらにそのあとハゲが引き継いで、今は資料館にある……。十三のお兄さんは化学者で、十三も勉強がようできた。だって京大やもんな。最高の教育を受けたとか言ってたな、泣澤さん。そうそう、金持ちで、デートは貴船神社やもんな……なんか、風流というか、何というか。普通十八歳で貴船神社でデートするか? いやいや、まあ当時はボウリングもカラオケも無かったんやしな。あと、イギリス音楽に凝ってたんやった。エルガー、ホルスト、鏡の旋律……)
甘奈の頭の中で、唐突にトランペットの音が高らかに響いた。それは高く冷たい山の頂上で、朝日の輝きとともに吹き鳴らされる音だった。すべてに光を与え、影を作り、夜の終わりを告げる温かい金の音色だった。彼女の複雑に組み合わさった思考回路の、今まで繋がることの無かった二つの先端が遂に出会ったことを知らせる音だった。
まさか、と甘奈は思った。甘奈は楽譜を裏返し、何も書かれていない、セロテープで貼り合わされた紙を見つめた。部屋の明かりで逆光になり、一面影になっていたが、甘奈はそこに隠された十三の言葉があるということを確信した。甘奈の手は震えていた。最後の秘密、最後の謎、そしてそれを解く鍵を、甘奈はようやく見つけたのだ。
彼女は楽譜をベッドに置き、携帯電話を手に取った。画面を開き、時刻を確認した。午後八時二十四分だった。甘奈は大城に電話して、バイクですぐに家まで来るように指示した。
「あんな、ちょっと試したいことがあんねん」と甘奈は言った。
母親と夕食を取っていた大城は、電話の向こうのその声に、自信に満ち溢れたかつての甘奈が戻ってきたことを感じた。彼は急いでパスタをかきこみ、家を飛び出した。高揚する気持ちを抑えて、エンジンが温まるのを待ち、それから深緑色のヤマハSRV250を高丘町に向けて勢いよく発進させた。
十五章
水島大城がバイクで長い坂を上り、甘奈のマンションに着いた時、空には大きな満月が浮かんでいた。月は静かに金色に輝いていた。秋にしか見ることの出来ない色だなと大城は思った。甘奈はポロシャツの上にパーカーを羽織ってマンションの前で待っていたが、夜の風は冷たく、大城を待つ間に何度か小さなくしゃみをした。その手には楽譜が握りしめられていた。
「もう、遅いよ」と甘奈は鼻をこすりながら言った。
「これでも飛ばしてきたんですけどね」大城はバイクのエンジンを切って、銀色のハーフヘルメットを脇に抱えた。
甘奈のマンションは細い坂に面しているのだが、そのマンションの向かいには小さな歯科医院があった。歯科医院の前に、二台の自動販売機があり、白い光を道路に投げかけていた。甘奈は大城を引っ張ってその自動販売機の前へ行った。
まず甘奈は、崎波十三の『無言歌』を、自動販売機のガラスに手で押し付けた。そうしてペットボトルや缶を照らしているバックライトで楽譜を透かしてみた。表と裏を順番にそうやってかざしてみて、「うん、見えない」と甘奈は言った。
「先輩、何やってるんですか?」大城は甘奈が何をしたいのか、その真意を理解できていなかった。
甘奈はその質問には答えず、「ちょっと、アンタ、火持ってるやろ、貸して」と言った。
大城はズボンの尻ポケットを探り、くしゃくしゃになった煙草のソフトケースを出した。そしてその中からライターを引っ張り出したが、その時に煙草が数本地面に落ちてしまった。大城がしゃがんで落ちた煙草を拾い、Tシャツの裾でフィルターを拭っている間に、甘奈は火を点けた。彼女は裏面を上にして楽譜を持ち、その下にライターを持った左手をくぐらせていた。大城は煙草を回収して立ち上がって、甘奈の持つ楽譜を見た。何も書いていない、セロテープでところどころ補修された楽譜の裏には、ライターの火の灯りが透けてぼんやりと見えているだけだった。
「あ、あぶり出し絵ってやつですか?」と大城が言った。「なるほど、それが思いつきですね?」
甘奈は「うん、これも違う」とうなずき、「アンタ、財布持っとる?」と大城に言った。
「ちょ、何すか、今度はカツアゲですか」大城は口を尖らせて言った。
「ええから財布出せ」と甘奈は低い声で言った。自動販売機のバックライトに照らされた甘奈の顔を見た大城は黙って財布を差し出した。
甘奈は小銭を自動販売機に入れて、ペットボトル入りの水を買った。そしてペットボトルと楽譜を地面に置き、大城に近づいて、彼が抱えていた銀色のヘルメットを何も言わずに奪った。
「え、何するんすか、ちょっと! おい、止めて! 先輩!」
甘奈は地面にヘルメットを裏返しにして置き、その中にペットボトルの水をどぼどぼと注ぎ込んだ。「大丈夫、スポンジの部分にはかけへんから」と甘奈は言った。大城は止めようとしたが、ペットボトルの中身はあっと言う間になくなり、ヘルメットの半分ほどが水で満たされてしまった。
「まあ、安もんだから、いいですけどね……」大城は力なく言った。
甘奈はしゃがんだまま、水の入ったヘルメットの安定を保つために左手を添えながら、右手で地面に置いた楽譜を掴んだ。その時にはもう、大城は甘奈が何をしたいのかが解っていた。果たしてそれをして良いのか? と大城は思ったが、黙って見守ることにした。
自動販売機の光を頼りに、甘奈はゆっくりと、何も書かれていない楽譜の裏を上にして、それで水を掬うようにして、慎重にヘルメットの中に紙を浸していった。そうして楽譜の全面に水が行き渡るまで浸したあと、すっと立ち上がって、紙を自動販売機に近づけた。傾いたヘルメットからは水が少しずつこぼれ出していた。
すると、自動販売機の光に照らされた、甘奈の手元にある水浸しの古い紙の上に、じわりと文字が浮き上がってきた。大城もそれを見ていた。何も書かれていなかった楽譜の裏は、みるみるうちに黒色の文字で満たされていった。ところどころに漢字の混じった、三つの部分からなる文章だった。そしてそれが失われていた歌詞であると、二人は信じて疑わなかった。
甘奈は紙の上に目線を落としたまま、「やっぱり」と呟いた。そして次の瞬間、甘奈はさっと顔を上げ、大城の目をじっと見つめた。大城はその時の甘奈の表情を見て、一体どのような感情が彼女の中に生まれているのか判断がつかなかった。その凛々しいまなざしには、希望が潜んでいるようにも見えたし、眉は不安げに曲がっているようにも見えた。大城が何かを言おうとする前に、甘奈は「行くで」とだけ言って、ヘルメットを蹴飛ばして残りの水を道路にぶちまけた。
十六章
「何で気付いたんすか?」鳴山へ向かう途中、国道の交差点で信号に捕まった時、湿ったヘルメットをかぶった大城がそう尋ねた。
「アンタさ、貴船神社って行ったことある?」
「いや、ないですね。京都観光とか興味ないんすよ」
「何それ、もったいないなあ」
甘奈は夏休みに貴船神社に行った時のことを大城に話した。水を神様として祀る貴船神社の名物が「水占みくじ」という、ちょっとした仕掛けが施されたおみくじであることを説明した。何も書かれていないおみくじを水に浸すと、占いの文言が浮かび上がってくるという仕組みで、甘奈がそれを体験したのは今年の夏が初めてだった。
「崎波さんって、貴船神社にデートで行ったとか書いてたやん?」と甘奈が言った。
「でも、その時代にそんなハイテクな印刷方法があったんですか?」大城は疑問を口にした。
「知らんがな。偶然かもしれん。でもほら、お兄さんは化学者やったんやろ?」
「あとは遺言の内容ってことですね」信号が青になり、前の車がのろのろと動きだした。
「そう。『淀川に流せ』ってな。それでピンときたわけ」
「いや、参りましたね」大城はゆっくりとバイクを発進させた。
鳴山へ向かう前に、甘奈は大城の家へ行くように指示した。歌詞が解った今、すべきことはひとつしかない。そのためには伴奏が必要だった。甘奈は耳が聴こえなかったが、それでも大城にキーボードを持ってくるように言ったのだ。
「でも、歌詞が出てきたところで、それを歌って呪いが解けるもんなのか……」と大城は呟いた。
「歌ってみなわからへんやん? とりあえずやってみんと」と甘奈は言った。
大城は甘奈を外で待たせて家に入り、部屋の押入れの中にキーボードを見つけた。そしてその埃をかぶったカシオのポータブルキーボードに電池が入っていないことを確認して、母親と一緒になって家中の電池をかき集めた。「こんな夜中に何しに行くのよ?」とピアニストの母親は訝しがったが、単三電池六本を首尾よく手に入れた大城は何も言わずに家をあとにした。そのキーボードはバイクの上で、大城の背中と甘奈の胸に挟まれて鳴山まで運ばれた。
□
二人は夜の鳴山へやって来た。一週間前と同じように、バイクを停め、階段を上って公園のムクの木の前までやってきた。大城はその大木にもたれかかり、胡坐をかいて、膝の上にキーボードを載せた。彼の目の前には崎波の顕彰碑があった。そしてその向こうには楽譜を手にした甘奈が夜の中町を見下ろすように立っている。二人を照らしているのは、ムクの木の横にぽつんと立っている細い街灯の頼りない光だった。空には大きな月が浮かんでいて、ムクの木は時折何かに怯えるように葉を揺らした。
大城は膝の上でぐらぐらとするキーボードに苦戦しながら、軽く『ふるさと』の前奏を弾いた。
「寒いなあ……あの、ナツカン先輩、聴こえませんよね?」ジャケットをバイクに置きっ放しことを後悔しながら大城はキーボードを弾いた。
「うん。聴こえへん」甘奈は後ろを振り返らず、街の夜景を見下ろしたまま言った。
「じゃ、やりますか」そう言って大城は指の骨をぼきりと鳴らした。「前奏、四小節歌いますからね。いきますよ。わーすーれーがーたきー……」
「大城、ちょ、ちょっと待ってくれへん?」甘奈はそう言って振り返った。
「どうしたんすか?」
「あんな、あたし……」甘奈は頬に手を当てた。「音痴、やねん。実は、あたしはようわからんねんけどな……」
「あ……」
大城は高校時代、トランペットのメンバーでカラオケに行ったことを思い出した。コンクールの打ち上げで行った時のことだ。ミスチルを熱唱している甘奈のおぞましい音程に鳥肌が立ったが誰も何も言わなかったのを思い出した。
「そ、そういえば……」
「いや、あたしも知らんねんけど、小学校の時、合唱でそう言われたことがあって。わからへんねんけど……」甘奈は困り果てていた。
大城は首を振った。
「ナツカン先輩、大丈夫ですよ。っていうかそんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 先輩が歌わないで誰が歌うっていうんですか?」芝居がかった口調だと自覚していたが、大城は続けた。
「その歌が先輩に音楽を取り戻してくれるかもしれないんです」大城は甘奈の手元を指差した。「それに、誰も聴いてませんよ。年寄りのムクの木しかオーディエンスはいないじゃないですか。楽なもんでしょう? 僕たち、もっと大勢の前でやってきたんですから。ね、大丈夫です」
その言葉に対して、甘奈は何も言わなかった。彼女は一回うなずいたが、その目は大城を捉えていなかった。もっと別の空間に存在する何かに向かって同意を表したように大城には見えた。甘奈は再び前を向き、西の空の空気を大きく一度吸った。それを見て大城は、『ふるさと』の前奏を歌いながら鍵盤を叩いた。
街も川も 変わらず
我の帰り 待てども
君は二度と 帰らず
忘れ難き 花君
膝の上でぐらつくキーボードを抑えつつ、大城は甘奈の歌声に耳を傾けていた。音楽という芸術に絶対的な価値を置き、自分だけの審美眼を持つ水島大城の耳にも、甘奈の歌声は美しく聴こえ、ふと自分が何のためにここにいるのかを忘れそうになった。呪いを解くためという、まだ信じきれない目的のために自分が鍵盤を叩いているということを、彼は一瞬忘れてしまった。それほどまでに甘奈の声は瑞々しく響き、夜の空気に染み込んでいた。高校時代のカラオケにいた、音痴の甘奈はどこかへ退いてしまったようだった。何かが乗り移っているのではないか? 大城はそう考えるくらい、甘奈の歌声に魅了されていた。彼女のトランペットに魅了された日と同じように。
戦遂に 終わりて
未だ癒えぬ この耳
雨も風も 聴こえず
ただ聴きたし その音
甘奈は楽譜の裏に蘇った文字を追って、声にするだけで精一杯だった。文字以外目に入らなかったし、音楽的な配慮――奏者として、指揮者として、彼女の胸に深く刻み込まれてきたあらゆる種類の注意――を全く欠いた歌だった。彼女は大城が歌ってくれた前奏の四小節の音程だけを頼りにして歌い始め、それを続けていた。その声の後ろでは大城がキーボードで伴奏を弾いていたのだが、もちろんそれは甘奈の耳には届かない。しかし、彼女の音痴は、多くの音痴がそうであるように、周りの音程に合わせようとして起こるものだった。だから、丸裸の旋律を歌っている彼女の声には、音程の迷いが一切起こらなかったのだ。甘奈は歌詞の内容など考える余裕もなく、真っ暗な闇の道を、蝋燭の明かりだけを頼りにまっすぐ歩いてゆくように、慎重に言葉を声でなぞっていった。
花の散りし 今こそ
波は海に 還らん
父と母を 残して
逝くを許せ ふるさと
甘奈が歌詞の最後の文字を歌い終えると、彼女の頬にはまっすぐに涙が伝った。それは甘奈ではない何かが流した涙だった。彼女の喉を媒介として、彼女の声に宿った何かだった。甘奈は最後の言葉と呪いの意味を理解した。そこに掛かっていた様々な思いを、自分の声で、自分の耳を通じて受け止めた。そして暖かな風が吹いた。それは秋の夜には似合わない、ゆっくりとした風だった。音も立てずに訪れたその風は、まずムクの木を撫で、木の葉は気持ち良さそうに音を立てた。その次に風は甘奈の体を包んだ。風は甘奈の手から楽譜を優しく奪い、夜の闇へと運んでいった。甘奈はずっとその紙を、やがて見えなくなるまでずっと目で追っていった。その先には黒々とした淀川の姿があった。風が去ると、また涼しさが戻ってきた。
薄着の大城は弾き終えて安心したのか、大きなくしゃみをした。彼の膝の上で不安定になっていたキーボードは、大城のくしゃみでバランスを失い、地面に落ちてしまった。白黒の鍵盤はデタラメな音を立てた。大城は鼻をこすりながらキーボードを起こして、ムクの木に預けていた腰を上げた。
「聴こえる……」
甘奈はそう呟いて大城を見た。大城は甘奈の目に光が宿っているのを見た。甘奈は大城に駆け寄って思わず抱きついた。あまりに勢い良く飛びついたので、哀れなキーボードは再び地面に投げ出され、甘奈の耳にその音を届けた。ムクの木はまるで微笑むようにさわさわという音を立てていた。
十七章
(まさかこんなことになるなんて、一体誰が予想したやろう?)
文化祭の本番を終えた夜、帰宅した夏野甘奈は日記を書き始めた。
(最高の本番やった。この三年で、一番。でも、一番不思議な気持ちになった本番でもあった。いい演奏が出来たという以上のやり切った感がある)
甘奈は二行目にそう記して、文化祭の本番に至る経緯を思い返していた。
□
呪いが解けた甘奈は、次の週の金曜日、大城と一緒に一中の練習へと向かった。まずいつものように国語科教員室へ行った。
「あら、夏野さん、来てくれたん? 大丈夫? 就職活動の方は」
尾花は甘奈と大城を自分の席に座らせて、紅茶とクッキーを二人の前に置いた。
甘奈は礼を言って、こう切り出した。
「先生、あたし、就活やめます」
二人の隣の空いている机の前に座った尾花は、「え、どういうこと?」と言って眼鏡の縁を触った。
「やめるって、就職を諦めるってこと?」
甘奈は笑って首を振り、
「いや、違います。ただ、色々やってみて、わかったんです。今あたしがすべきことは、就活なんかじゃなくて、音楽なんやって」と言った。
半分は嘘だったが、半分は本音だった。甘奈は音楽を失って初めて自分がすべきことをはっきりと自覚したのだ。甘奈は大城の顔を覗いた。彼は既に三枚目のクッキーに手を伸ばしていた。目が合うと、大城はにやりと笑った。
「この、いちびりには迷惑かけましたけど、今日からはあたしが指揮台に戻ります」
「それはもちろんかまへんねんけど、ほんまに大丈夫なん?」尾花は状況が飲み込めなかった。「だいたい、今、結構大変な状況で……」そう言うと尾花は大城の方をちらりと見た。
「ティンパニですよね、先生が心配されているのは」クッキーを飲み込んで、手をズボンで拭いながら大城が言った。
「それは……ちょっと見て見いひんことには何とも言えませんけど。藤枝さん、まだ良くならんのですか?」甘奈は尾花に尋ねた。
尾花は右手で短い髪の毛をかき上げながら答えた。
「だいぶ、治ってきてはいるんやけどね。ギプスはまだ外れへん。ティンパニは掌にかなり衝撃がくるし、完全に治らんうちはね……でも本人は、本番には絶対出たい、って言うてるから、取りあえず今はトライアングル叩いてもらってる。ティンパニは二年の大久保くんに代わってもらってるけど、あの子じゃまだね……」
三人とも腕を組んで、大久保の顔を頭に浮かべて唸った。その後で甘奈が言った。
「取りあえず、やってみますわ」
甘奈が指揮台を大城に預けていたのはほんの一ヶ月程度のことだった。しかし甘奈には、その数センチの台の上に立つのが久しぶりであるように感じられた。彼女は高校生の時、自分が初めて指揮をした時のことを思い出していた。部員たちの、いつもとは違う冷たい目線と、音楽室に満ちる沈黙の質。自分が進める合奏を、奏者がどう思っているのか、それを何より雄弁に語るのが、合奏の合間に時折現れる真っ黒な沈黙だった。それを思い出しながら、甘奈は音楽室のドアを開けた。
部屋に入り、指揮台に近づくに連れて、思い思いに鳴らされているウォーミングアップの喧騒は薄まってゆく。そして甘奈が指揮台に足を掛けると、音はぴたりと止む。甘奈は一ヶ月ぶりの部員たちの顔をひとつひとつ確かめてゆく。その表情を読み取ってゆく。大城は音楽室の隅に立って、甘奈の合奏を見守っている。トライアングルを握り締めた藤枝の顔には切実な表情が浮かんでいる。三十五人いれば、三十五通りの顔がある。甘奈はそう考えていた。そして、「久しぶり」でも「こんにちは」でもなく、その三十五を一にする魔法の言葉を高らかに宣言する。
「ふるさと」
三十五人は一斉に楽器を構え、甘奈は架空の三角形を描き始める。その沈黙に含まれた音楽の密度に、大城は自分の体に否応なく鳥肌が立つのを感じ、悔しさを覚えつつも、改めて甘奈の偉大さを認めずにはいられないのだった。
中学生たちの集中力は、甘奈のそれに呼応するように、一瞬たりとも途切れることなく続いた。最後の『ヴィヴァ・ムジカ!』の合奏に取り掛かる頃には、普段なら練習が終わっていなくてはならない五時半を過ぎ、窓の外はもう暗くなっていた。しかし誰もそのことに気が付いていなかった。聴いていただけの大城でさえ練習の緊張感に呑み込まれていて、音楽室に忍び寄る足音に気付かなかった。
「おっしゃ、ほな最後行きましょう。『ヴィヴァ・ムジカ!』や」
甘奈はタオルで額の汗を拭い、もう震えてしまうくらい酷使した右腕を上げ、ティンパニに目をやった。二年生の大久保は不安げに甘奈を見つめている。甘奈は目で「大丈夫」という合図を彼に送り、指揮棒を振り下ろした。
微妙だ、と甘奈は曲を通している間ずっと思っていた。思い切りに欠ける演奏だった。ティンパニが引っ張っていかなければならない、曲が盛り上がる場面のリズムの歯切れが悪かった。むしろ全員がティンパニをかばうように、おそるおそるリズムを刻んでいた。そのような土台の上に築かれたメロディーは快活さを失い、重いムードのまま曲はクライマックスへと突き進んで行った。悪くはない、と甘奈は思った。このような状況では、そういった音楽の作り方は正解とさえ言えるかもしれない。安全運転、という言葉が甘奈の頭に浮かんだ。曲の合間に、甘奈は大城の表情を盗み見た。彼も唇を噛んでいた。そつなくトライアングルを叩く藤枝の意識が、ティンパニに寄りかかっていることを甘奈は感じていた。
曲を通し終えて、甘奈は指揮棒を譜面台の上に置き、ぐしょぐしょに濡れたタオルでもう一度額を拭った。そして三十五人の顔を見た。さすがに限界だった。取りあえず今日はここまでにしておこう。しかし、文化祭まであと二週間しかない。合奏の締めくくりにかける言葉を間違ってはいけない。さあ何と言おうか……。
甘奈が考え抜いた末に選んだ言葉を口にしようとした時、音楽室のドアが開いた。そこには尾花知佳が立っていた。
甘奈は反射的に黒板の上の壁時計を見た。尾花が音楽室に来るのは、合奏が長引いた時だった。「そろそろ終わりですよ」と言いに来てくれるのだった。
「あ、先生、すいません、今終わるところで……」と甘奈は言った。
「違うねん」尾花はぽつりと呟いた。全員が彼女に注目していた。尾花は呆然としている様子だった。
「え、時間のことじゃないんですか?」
「違うねん」と尾花は繰り返した。そして彼女の顔がみるみるうちに輝き、くしゃくしゃの笑顔になっていく様を音楽家たちは目撃した。
「聴こえるねん! 音が! 楽器の音が!」
□
(何と言っても一番のサプライズは尾花先生やった。まさか先生の耳の病気っていうんがアレやったとは)
甘奈は日記の三行目にそう書き、思わず声を上げて笑った。そしてひとしきり声を出したあとで、その偶然が笑い話で済んで良かったなと思い、ふうと息をついてから再びペンを走らせた。
(しかもあんなに上手いなんて。ホンマ、今までもったいなかったなと思う。でも、取りあえず良かったということにしとかなきゃ。何せあたしたちは、音楽を失うっていう地獄を見てきたわけやから……)
□
甘奈が復帰した日の合奏の後で、甘奈と大城は尾花の話を聞いた。教員室には誰もいなかった。
「音、聴こえるって、病気治らはったんですか?」と甘奈が訊いた。
「ううん、実はね……」尾花は眼鏡を外し、目と目の間を二本の指でつまんだ。「こんな話、信じてもらえるかわからへんねんけど」
尾花がそう言った時、勘の鋭い大城は全てを察した。そして彼は「続けてください」と言った。
「あたしが中三の時やねんけどな、中三の冬、ちょうど受験の前の、一月の中ごろ、阪神大震災があったんよ。その時のことって覚えてたりする?」
大城は「僕、その頃横浜にいたんで」と言い、甘奈は「全然覚えてないです」と言った。
「まあ、そりゃそうか。まだ二人とも小さかったやろうし。実はね、病気とか、三半規管がどうとかっていうのは、全部嘘やってん。あたしは、あることをきっかけにして、それからずっと楽器の音が聴こえへんようになってしまったんよ。それを今まで隠してた」
尾花がそこまで言うと、甘奈はようやく真相に気が付いた。彼女は目を丸くし、口をぱくぱくさせて何かを言おうとしたが、驚きのあまり舌が回らなかった。それを見た大城は、唇に人差し指を当てて、(言うな)というメッセージを甘奈に送った。
「そう、ほんで地震やったね。あの日、中町は震度四くらいで、かなり揺れてね。あたしはマンションの八階に住んでたんやけど、凄かったよ。まだ寝てたんやけど、揺れで目覚めて、ずっと布団の中で収まるのを待ってた。幸い電車とか道路には影響がなくてね、この辺は。それで次の週くらいやったと思うけど、ちょっと音楽室に寄った時に、楽譜庫がめちゃめちゃになってしもうたって松風先生が言うてたんよね。それであたし、その時受験で部活行けてなかったし、気分転換にもええかなと思って、掃除しますって言ったんよ。それくらい手伝ってあげようと思って。後輩たちは定演の準備で大変やったしね。それで、楽譜庫に行ったら、もうそれはめちゃめちゃで。ロッカーとか段ボールの中が床にぶちまけられててね。それから……」
甘奈と大城は黙って尾花の話を聞いた。妙な古い楽譜のメロディーが気に掛かって、それを歌った後、急に気分が悪くなったということ。受験が終わって練習に参加すると、音が聴こえず、楽器を演奏できなくなっていたこと。申し訳ないと思いつつも、病気と偽って、最後の定期演奏会に出なかったこと……。
「今あたしがこうやって顧問をしてるのも、その時のことが、やっぱり心に引っかかってるからやねんな。今まで誰にも言えへんかった。二人に信じてもらえるかわからへんけどね。歌っただけで、音が聴こえなくなるなんて」
そう言うと尾花は困ったような微笑を二人に向けた。
甘奈はその笑顔を見て、何も言うまいと思った。もう呪いは解けたのだから、今更その内容がどんなものだったのかを言って聞かせる必要はないと思った。尾花も甘奈も音楽を取り戻したのだから。
尾花は一度大きく深呼吸して、「つまらない話で引き留めてごめんね」と言い、眼鏡をかけて椅子から立ち上がった。「もう七時やわ」と彼女が腕時計に目をやりながら呟いた時、甘奈が口を開いた。
「先生。リベンジ、したくないですか?」
尾花を見上げた甘奈の目には、挑戦的な光が宿っていた。その目つきは、尾花の心の中の、ずっと眠っていた感情に火を点けようとするものだった。尾花はその言葉の意味を頭ではすぐに理解したが、口を突いて出たのは質問だった。
「……どういう意味? リベンジって?」
「先生、現役時代、打楽器やったんでしょ?」甘奈は不敵な笑みを浮かべ、大城も同じ表情で尾花を見つめていた。
「ちょうど困ってるとこなんですよ」と甘奈は続ける。「腕のええティンパニ奏者を探しててね」
尾花は懐かしい光を自分の中に感じた。何層もの埃に覆われ、蜘蛛の巣が張っているような古い記憶の中の箱。その中から、弱々しい光が漏れ出てくるのを尾花は感じ取った。彼女は一度、強く目を瞑った。彼女の手は小刻みに震えていた。封印されていたリズムを取り戻そうとして、尾花の意識とは別のところから生まれてくる力がその手を震わせていた。尾花は目を開き、両手を固く閉じ、
「でも」と言った。
「あ」甘奈は尾花の顔を指差し、勝ち誇ったように笑った。「でも、って言いましたね」
「でも、っていうのは、やります、っていう意味なんですよね?」大城はそう言って、甘奈と目を合わせてうなずき合った。「音楽の世界では」
甘奈に指差された尾花の顔は赤く染まっていった。尾花は既に想像していたのだ。生徒たちの背中を見守りながら、舞台の一番奥でティンパニを叩いている自分の姿を。
「でも、ほら、ブランクだってすごいあるし、現役の時やって、そんなに上手だったわけやないし、仕事もあるし」尾花はそうやって、できない理由を並べ立てたが、大城と甘奈の耳には喜んでいるようにしか聞こえなかった。
「決まりですね」甘奈は立ち上がって、リュックサックを背負った。「先生といえども、あたしは手加減しませんからね。来週までに猛練習しておいてください」
尾花は両手で顔を覆い、何度もうなずいた。甘奈と大城はそれを見て、教員室をあとにした。二人が夜の学校の門を出る時になって、大城が控えめに口を開いた。
「あの……ナツカン先輩」
「ん? どした?」
「僕も、出ていいですか? 文化祭」
□
机に向かっている甘奈はにこにこしながら日記の続きを書いている。
(そんなわけで、今日の演奏は今までで一番良かった。まあ、大城のラッパはオマケやったけど、尾花先生はホンマによう頑張ってくれて、中学生より練習しとったかもしれへん。でもみんな、今日は不思議な気持ちやったと思う。練習でやってたのとは全く違う次元の演奏やった。
こういう時に、音楽は魔法やなって思う。
自分たちができること、やってきたことを、ひょいって飛び越えて、気が付いたら違う世界にいる。そういう時のあたしは、一拍目を振り下ろした時から、ちょっぴり哀しい気持ちになってしまう。だって音楽って、始まった時から終わってしまうんやから。ずっとずっと演奏していたいと思うから、終わってしまうのがすごく哀しい。
でもまあ、あたしには次がある。次は大ホールで定演や。その前に、今度はホンマに就職活動とかも考えなアカンくて……)
甘奈がそこまで書くと、ノックの音が聞こえた。彼女は日記を中断し、「はーい」と返事をした。美智子がドアを開けて部屋の中に入ってきた。
「甘奈、来週の土曜って空いてる?」と美智子が尋ねた。
「うん、夜なら空いてるよ。六時まで楽団の練習があるけど」
「そっか、うん、夜で良いんだけどね。ほら、その、前に言ったじゃない? 会って欲しい人がいるって」美智子は目を泳がせながらそう言った。
「ああ、お付き合いしてるっちゅう人か」
「うん」
「別にええよ。なあなあ、どんな人なん? ハゲてたらイヤやなあ」甘奈は朗らかに笑った。
「ハゲてないわよ。普通の人だから安心して」
「ちぇ、つまらんなあ。それで、名前は何て言うん?」
美智子は手で顎を触り、不思議なもので見るような顔で言った。
「あれ? 言ってなかったかしら? 俊輔さんって言うの。苗字はね……」
その名前を聞いた甘奈は卒倒しそうになった。
十八章
春花俊輔と夏野甘奈が中町市駅前のウィーン風居酒屋で初めて会った時、甘奈は緊張しっ放しだった。美智子はそれを見て、「この子にもまだ子供らしいところがあるのね」などという、自分の義理の父親になるかもしれない人物と対面する子供の微妙な心境を想像したが、それは見当違いだった。甘奈が感じていたのはそれと全く別の種類の気まずさだった。
(この人が春花美智子の孫やったりするんやろか……いやいや、美智子さんには子供なんておらんかった。てことはアレや、泰くんの子供? 待て待て、「くん」っておかしいな。珍しい苗字やけど、他人ってこともありえるし……)
甘奈の前に座っていた春花俊輔という男は、人懐っこい笑みを浮かべ、初対面の甘奈にどんどん質問していった。
「甘奈ちゃん、楽器がすごいんやって? 美智子さんからいっつも聞いてるねん」
梅田で紳士服店を経営しているという俊輔のスーツの着こなしは、ファッションに鈍感な甘奈から見ても隙ひとつないことが一目で解った。
「ほんで、何の楽器やってるんやったっけ?」グラスではなく、ジョッキに注がれた白ワインを俊輔は一口含んだ。
「えっと……トランペットです」甘奈は受け答えするたびに自分の顔が赤くなっていくのを感じた。それは、「今日だけは」と美智子にせがまれて着ているブルーのワンピースがウエストを締め付けているせいだけではないと彼女は推測していた。
「空手も黒帯なのよ」と俊輔の隣に座り、ホスト役を自認している美智子がサラダを三つの皿に取り分けながら言った。
「そら怖いなあ、覚悟しとかな」俊輔はシルクのネクタイを締め直す仕草をして、からからと笑った。
「ちょっと、余計なこと言いなや」甘奈は頬を膨らませた。
(んー、何か調子狂うなあ。ホンマは聞きたいこと、確かめたいこと沢山あるんやけどなあ)と思いつつ甘奈はジョッキに手をかけた。
「実は、僕の親父も音楽やっとったんよ。昔」俊輔が言った。
甘奈は「それって泰さんですか」と言いそうになる口を抑えて、俊輔の次の言葉を待った。
「まだ、僕が小学生の時やったけど、それまでは僕ら家族で中町に住んどってん。親父は音楽の先生しとってなあ。せやから僕も色々楽器やらされて、一応楽譜は読めたりするんやけど……スポーツ好きな子供やったから、どの楽器も長続きせんくてな。でも家族で引っ越してからは、親父、音楽もぱったり止めてしもうてね。まあ仕事が忙しくなったからやろうけど」
「へえ、そうなんですか」と甘奈は返事をしたが、もう頭の中では俊輔が泰の子である、つまり春花美智子の甥であるということを確信していた。
甘奈の疑問はひとつだった。
それは、春花家が崎波家と親戚にあたるのかどうかということだった。泣澤館長と松風の言葉で食い違っているのはこの点だけだった。もし松風が聞いた春花泰の言葉が正しいとすれば――崎波十三と美智子の恋は、叶わぬ恋だったということになる。甘奈はそれを確かめたかった。ジョッキに半分ほど残っていた甘く透き通った味のするワインを一気に飲み干し、手の甲で口を拭うと、甘奈は次の質問を口にした。
「あの、ご家族の話を、もっと――」
そこまで甘奈が言いかけた時、肘の内側にまで皿を載せたウェイターがテーブルの脇に立った。「お待たせいたしました。ウィンナ・シュニッツェルでございます」
「お、これこれ」俊輔は両手をすり合わせながら、テーブルに置かれてゆく皿を目で追った。
「ウィンナ・シュニッツェル、甘奈ちゃん、食べたことある?」
「あ、いえ、ないです」
「仔牛のカツレツなんやけど、これが抜群にうまいんよ。さ、食べよう」
俊輔はそう言って、襟首にナプキンを捻じ込んで、ナイフとフォークでウィンナ・シュニッツェルを切り始めた。隣にいた美智子も顔を綻ばせて同じようにナイフを入れる。それを見て甘奈は唐突に泣きそうな気分に襲われた。それを押し戻し、甘奈もナプキンを首元に挟み、その金色に輝く仔牛のカツレツに取り掛かった。
三人はしばらく無言で食べ続けた。俊輔がフォークを置き、ワインを一口飲み、ナプキンで口を拭った後、少し間を置いてから言った。
「僕はね、家族っていうのは、一緒に飯を食うことなんやって思ってんねん。できればこんな風に、うまい飯をね」俊輔は甘奈の目をまっすぐ見つめた。
「甘奈ちゃんに言うとかなアカンって思っててんけど、僕は美智子さんと同じように、離婚してる。前の奥さんとの間に子供が二人いる。若い時に結婚したから、二人とももう成人して、一人は働いてるけどね。でも奥さんとうまく行かんようになって、別れて、子供とは別の生活をしてきた。甘奈ちゃんがお父さんにどんな気持ちを持ってるか、それを僕は知らんけど、僕も、もしかしたら甘奈ちゃんのお父さんと同じような男なのかもしれへん」
美智子と甘奈は手を止めて、黙って聞いていた。
「僕は君たち親子の生活の中に入っていこうという気はないねん。ただ、美智子さんとこれからの人生を、ちょっぴりやけど、一緒に歩んで行きたいと思ってる。少しずつ、同じものを見て、同じ道を踏みしめて行きたいと思ってる。そしてできれば、時々でいいから、こうして甘奈ちゃんとも一緒に飯を食いたいと思ってるねん。甘奈ちゃんは、それを許してくれるかな?」
「……そんなん」甘奈はナプキンで目尻を拭った。「そんなん、あたしが何か言うようなことじゃないです。あたし、もうハタチやし、もうすぐ二十一歳やし、お母さんにはお母さんの人生があることぐらい、わかってます」
「そうやな。せやけど、親子は親子や。これまでもそうやったし、これからずっと先、甘奈ちゃんがおばあさんになって、天国に行ってからも親子なんは変わらへん。そうやろ?」
「はい」
「せやから、甘奈ちゃんが認めてくれるかどうか知りたいんよ。僕たちが夫婦になることを」
甘奈は両手でナプキンを掴み、それで顔を覆った。
「もう……夫婦やないですか、十分。二人、夫婦にしか見えませんよ」
甘奈は鼻をすすった。だが涙はとめどなく溢れ出てきた。近くを通りかかったウェイターが「お水をお持ちしましょうか」と美智子に尋ねたが、彼女は微笑んで首を振った。
「甘奈、ありがとう」美智子はそう言って、横にいる俊輔の手を握った。
甘奈は涙で滲んだ視界で、微笑む二人を見つめていた。彼女は自分が何故泣いているのかが解らなかった。そこには悲しみというものがなかったからだ。彼女が見ているのは、幸せに包まれている夏野美智子の姿だった。その姿を見ているだけで胸が締め付けられる思いがした。もう一人の美智子――甘奈の母親はやがてまったく同じ名を名乗ることになるのだが――若くして亡くなった、自分と同い年の女の姿を母親に重ねていた。会ったこともない崎波十三とその恋人のために甘奈は祈り、涙を流した。大丈夫、ちゃんと生きてる。ちゃんと繋がっているよと……。
エピローグ
春の淀川の堤防には、花見客が大阪中から集まってくる。人々は芝生の上で酒を飲み、食べ、頭上に並んだ桜の木々を見上げ、そして歌い合いながら新しい季節の到来を祝っている。あまりに見事に咲き誇るその桜並木に、人々はその町の名前を一瞬忘れてしまう。桜町、誰が言ったのか解らないが、泥町はこの季節だけそう呼ばれている。
水島大城は大学三年生になった四月最初の週末、淀川河川敷にやって来た。桜のアーチをくぐりぬけ、堤防の階段を降り、芝生の上に敷き詰められたレジャーシートを踏まないように気を付けながら、人々の喧騒から離れたところにある、一本のプラタナスの木を目指して歩いた。広大な芝生の上にぽつんと立っているその木の下に、本を顔にかぶせて寝そべっているひとりの女がいた。
大城はその女の横に胡坐をかいて座った。花見客の明るい声がうっすらと聞こえていた。
「ナツカン先輩、寝てるんですか?」と大城は声をかけた。「おっと、もうナツカンじゃなかったか」
「別にええよ、ナツカンで」と甘奈は顔に本をかぶせたまま言った。
「そういうわけにもいかないでしょう? もう先輩は夏野じゃないんですから」大城は甘奈の顔を覆っていた分厚い本を取り上げた。
「うわ、まぶしっ」甘奈は目を貫く正午すぎの日光を手で遮った。それから立ち上がり、ジーンズについた草を払った。
「しかし、ええ天気やなあ」甘奈は桜並木の方に目をやり、両腕を空に突き上げて伸びをした。
「絶好のお花見日和ですね」大城は手に取った本をぱらぱらとめくりながら言った。
「あたしにぴったりの一日や」甘奈は――春花甘奈は穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、春の淀川の空気を思い切り吸い込んだ。そして全身を川の香りで満たしたあと、息を大きく吐き出すと、今度はプラタナスの陰に全身が収まるように倒れ込んだ。
「それで、結局判ったんですか? 例の、親戚かどうかっていう謎は?」甘奈の隣に座っていた大城が訊いた。
「内緒」と甘奈は言った。
「えー、教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
「そういうの、蛇足って言うねん。もう終わった話なんやから」甘奈はくすくすと笑った。「それよりアンタ、準備進んでんの? 留学の?」
「もう大変ですよ。書類が山ほどありますし、勉強もしなきゃならない。住むとこだってまだ決まってないんです。不安でいっぱいですよ」
「へえ、大変やなあ。ま、あたしには関係ないけど」
「それより先輩はどうなんですか? 何か就活してないって風の噂で聞きましたけど。こんな本読んじゃって」
そう言って大城は本の表紙を寝転がっている甘奈の顔の上にかざした。『目指せ! これ一冊で独学合格 公務員試験対策問題集』というタイトルが甘奈の目に飛び込んできた。
「あ、こら! 人の本勝手に読むな!」甘奈は大城の手から本を奪い取った。
「先輩、寝転がって勉強してるようじゃ、公務員試験は通りませんよ。これは後輩からの忠告です。さては中町市役所が狙いですね? ほんとにこの街が好きなんだから」
「うるさいなあ、もう」
図星だった。甘奈はその本を芝生の上に放り投げた。「ちょっと読んでみてるだけや、参考に」
「そういや、先月の一中の定演、良かったですよ」と大城が言った。「思わずグッときちゃいました。卒部生紹介の時には」
「いや、誰よりもあたしが一番びっくりしたけどな」そう言うと甘奈は体を起こし、背中についた草を払った。
□
引退する中三を舞台の前に並べて、そのひとりひとりを顧問が紹介していくというのが一中吹奏楽部のアンコール前の儀式だった。内輪のことではあるのだが、それは甘奈の時代にもあった伝統だったし、尾花の時代にも存在した。紹介が終わると後輩から卒部生に花束が手渡され、拍手の中でアンコールに突入するのが慣わしだったのだが、その時は違った。
全員の紹介が終わり、ホールが拍手に包まれている中、春花甘奈は舞台袖で汗を拭い、アンコールの曲を頭の中でイメージしていた。舞台の一番前で一列に並んだ卒部生が花束を受け取ってお辞儀した後、甘奈は舞台に足を向けた。
「今日はもう一人、ご紹介しなければならない、送り出さなければならない、私たちにとって大切な方がいます」
会場にその美しい声が響き渡ると、拍手は止み、水を打ったような静けさがホールを包んだ。
甘奈は予定外のその言葉に踏みとどまり、自分とは反対側の袖に立っている、マイクを握った尾花の姿を見た。尾花はにっこりと笑って、大きく息を吸い込んだ。
「三年間に渡って、中町一中吹奏楽部を指導してくださった、春花甘奈さんです」
静寂は一瞬のうちに拍手に変わった。その万雷の拍手の中、甘奈は尾花に手招きされるまま、舞台の中央におずおずと歩いて行った。卒部生たちはあらかた席に戻っていたが、指揮台の前では大きな花束を抱えた藤枝が満面の笑みで甘奈を待っていた。
「夏野先生、あ、ちゃう、春花先生。三年間、ありがとうございました」
「なんか、恥ずかしいわあ、こんなの……」
照れながら甘奈は花束を受け取り、客席に向かってそれを高く掲げると、割れんばかりの拍手はさらに大きくなった。
「先生、実はもう一個サプライズがあるんです」拍手の音にかき消されないように、甘奈の耳元で藤枝は言い、指揮台の上の楽譜を指差した。
「え、アンコール、『ベスト・フレンド』やなかったん?」と甘奈が驚いてみせた時にはもう、藤枝は舞台の一番奥に向かって駆け出していた。譜面台の上に載っていたのは『ヴィヴァ・ムジカ!』の楽譜だった。
甘奈は指揮台の横に花束を置き、ゆっくりとその数センチの台に上った。すると一瞬のうちに拍手が引き、再び静寂が訪れる。そして甘奈は三十五人の顔を確かめる。先輩の卒部を前にして涙を流すものもいる。ニヤニヤしながら甘奈の顔をうかがうものもいる。久しぶりの楽譜を熱心に覗き込んでいるものもいる。甘奈は全員の表情を確かめた後、舞台袖にいる尾花の方を見る。二人は短くうなずき合う。
さあ、終わりの始まり――そう思って甘奈はゆっくりと指揮棒を構えた。
□
甘奈と大城に木陰を提供しているプラタナスの木は、河川公園の真ん中辺り、ちょうど川と堤防の中間に立っている。そしてそこには、川の匂いと、花見客の笑い声が届けられている。淀川はやがて大阪湾に流れ出て、海の波となって消えてゆく。堤防に植えられた桜の花も、やがて風に散り土へと還ってゆく。
水島大城と春花甘奈は胡坐をかいて向き合っている。その二人の間を優しい春の風が通り抜けていく。
「尾花先生、『あたしが府大会に連れていくんや!』って息巻いてはったわ」と甘奈が言った。
「いや、ナツカン先輩の後釜は辛いっすよ。経験者は語る、ですよ」
「アンタと違って、尾花先生なら大丈夫や」そう言って甘奈は鼻を鳴らした。
「何すか、それ」大城は憮然として川の方を向いた。
その時、堤防に咲いた桜の木にひときわ強い風が吹きつけ、何枚もの花びらが空に舞い上がった。そしてそのうちのたった一枚の花びらが、プラタナスの陰で胡坐をかいている甘奈の膝の上に落ちた。彼女はそれをつまんで大城に見せた。
「ほら、大城、桜、こんなところまで飛んでくるんや」甘奈は顔を輝かせてそう言った。
大城は何も言わず、少女のような瞳で薄いピンクの花びらを眺めている甘奈を見つめていた。そして唐突に、忘れていた質問を思い出した。
「そういえば、先輩、何で急に呼び出したんすか? 何か理由でもあるんですか? また、ややこしいことじゃないでしょうね?」
大城はそう言って葉の陰で暗くなった甘奈の顔をまじまじと見た。甘奈も同じように大城の顔を見つめた。大城は、その陰の落ちた春花甘奈の頬が、みるみるうちに赤くなってゆくのを目撃した。桜の花の色に似た彼女の頬を見て、大城も思わず赤面した。
この二人はやはり音楽家だった。そして指揮者だった。何かを言う前から、沈黙に含まれた意味を解りすぎてしまうところがあった。お互いの気持ちを言葉にする前に読み取ってしまう。それでも甘奈は震える声で、苦し紛れにこう言った。
「別に、理由なんかないけど。でも、ややこしいことかもしれん」
二人は目を合わせているのに耐えられなくなり、同時に目を逸らせた。するとまた風が吹き、甘奈の指先から桜の花びらをさらって、淀川の深い青の流れへとそれを運んでいった。(了)
ふるさと
【あとがき】
お読みくださってありがとうございました。
人生で初めて書いた長編小説と呼べそうなものです。
楽器とその楽器が創り出す人格を題材にした小説を書いていて、その「トランペット」にあたります。
じぶんがずっと暮らしてきた街を舞台に、ミステリーの要素を加味して物語を作りました。
三人称に挑戦しましたが、少しぎこちないところもあるかもしれません。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。