チェロ

 

 私の名前は萩原喜美。いま三十五歳で、チェロの教師をもう十一年以上やっています。「ヨシミ」という名前は、確かに男には少し珍しいかもしれませんね。私の母は、生まれてくる子供が、女の子だと信じて疑わなかったそうです。男の名前は用意していなかったので、そのまま女の子に付けるつもりだった、喜美という名前を私に与えたそうです。父がその時何と言ったのか知りませんが、私の家庭では、だいたい母が実権を握っていましたから。
 ええ、ご覧のとおり、ここにはもう何もありません。チェロ教室をやっている時は、譜面台や、メトロノームや、教本が並べてある棚や、それからもちろん生徒用のチェロが置いてあって……それに、ここは楽器工房も兼ねていましたから、ニスを塗ったばかりのチェロを、窓際に吊って乾かしたりもしていました。今となっては、どれも懐かしい思い出です。いえ、懐かしい思い出に変わりかけていると言った方が正しいでしょうか。
 チェロを始めたのはほんの小さな時です。物心ついた時にはもう、弓を握っていました。音楽好きの父の影響でした。父は、小さな会社を経営していて、毎朝始業前に、社員が誰もいないオフィスでチェロの練習をしていたそうです。もっとも、父がチェロを始めたのは、今の私と同じくらいの歳の時、私が生まれたばかりの頃だったそうです。
 私は何の迷いもなくチェロ奏者になるという目標に向かって生き始めていました。中学生の時にはもう、音楽大学を受験することを考えていました。私が高校生になると、父は私と酒を飲むようになりました。父がせがんだのです。私は仕方なく従っていましたが、今考えれば、父は急いでいたのだと思います。いまの私は、そんな父のことを可愛らしいとさえ思えるようになりました。
「喜美、俺は五十五歳になったら、死のうと思うんだ」
 高校生の私に、父は口癖のようにそう言っていました。その時父は五十歳くらいだったと思います。父はニコニコと笑ってそう言いました。私には冗談としか思えませんでしたから、笑って受け流していました。
 父が死んだ日の一日前も、私は父と一緒に酒を飲んでいました。その時私はもう成人していて、チェロを専攻する音大生になっていました。父は私のチェリストになるという夢を、心から喜んでくれていました。
「なあ、喜美、音楽というのは、終わりがちゃんとあるから、芸術としての価値があるんだよな。
 それに比べれば、人間の人生は……」
 父は珍しく深酒をしていました。いくら飲んでも酔わない人だったのですが、その日はいつもに比べると、少しだけ感傷的になっているという印象を受けました。
「……それに比べれば、人間の人生は、いや、俺の人生は、終わらない音楽を聴いているようなものだ」
 おそらく父は遺言のつもりで私にそう言ったのでしょう。音楽家になろうという私にとって、この言葉は、あまりに重いものでした。
 音楽は始まった時から終わりに向かって突き進みます。作曲家は自分で曲を終わらせることが出来ます。ですが人の一生は、多くの場合、そうはいきません。私の父は、弓をそっと置くように、静かにこの世から去っていきました。
 私が大学を卒業するのを見届けてから、母も死にました。私の両親は、とても仲の良い夫婦でしたから、きっと天国で会う約束があったのでしょう。そうして私は独りになりました。
 大学を卒業する頃には、いくつかのコンクールで賞を取っていて、ひとつのオーケストラのオーディションは確実にパスできるよう、教授が段取りをしてくれていました。私はいまでも音楽家ですが、演奏者として生きてゆく道は、その時に諦めてしまいました。
 音楽は、きっとあなたもご存知かと思いますが、時間を素材にした芸術です。演奏というのは、あくまで一回きりのものです。
 私は虹を見るたびに、神様がどんな思いでそれを描いたのかを想像せずにはいられません。あんなに美しいものなのに、すぐに消えてしまう。きっと哀しい気持ちであの七色を刷いているはずです。私にとって演奏とはそういったものなのです。音の虹を架けるのは、本来とても哀しいことなのです。
 演奏者は、それでも人の心に何かを残すことができます。しかしそれは形のないものです。私は形あるものを作りたかった。消えないものをこの世に残したいと思った。パンを作るより、椅子を作る人になりたいと思ったのです。
 音大を卒業して、しばらく有名なチェロ職人のもとで修行を積み、楽器の作り方を一通り覚えた後で、この工房兼教室を開きました。
 もっとも、作ったチェロを売りに出したことはありません。チェロを作るのは、私にとっては未来への仕事でした。何本かは、私の若い生徒たちに贈りました。ストラディヴァリウスのような名誉はいりませんが、私の作ったチェロが、長い間受け継がれていけば、それほど嬉しいことはありません。
 私自身が使っていたチェロは、父の遺品です。ルーマニアで作られた、ほとんど黒に近い、深い木の色をした最高級のチェロです。父の腕にはいささかもったいない代物でしたが、きっと私へのプレゼントのつもりだったのでしょう。
 ですが、この教室も、もう閉めてしまうことにしました。それなりに繁盛していたのですがね。まだ引退するには若すぎるのではないかって? そうですね。おっしゃるとおりです。
 私がこの教室を閉めようと思ったのは、ある生徒の存在がきっかけです。今から三年ほど前に、私は彼と出会いました。

 彼のことをKと呼ぶことにしましょう。Kから電話があったのは、静かな雪の降る日でした。ここでは雪が降るのは珍しいことですから、よく覚えています。外に出て、じっと目を凝らせば、雪の粒がらせんを描いて地面に落ちていくのが解るような、そんな穏やかな降り方でした。
 Kの電話は、ごく普通のレッスンの相談でした。チェロを始めたいのだが、何からすれば良いか解らない、と彼は言いました。声色からきっと中年の男性だろうなと推測しました。ある統計によると、子供を別として、男性がチェロを始める年齢というのは、四十代後半から五十代前半が一番多いそうです。
 私はいつも通り、何も要らないので、一度教室に来てみてくれと言いました。一回目のレッスンは無料で、気に入ったらそのまま通ってもらえればいい、と。そうして次の週の土曜日に、Kはここにやってきました。
 Kは身長が百八十センチはあろうかという、背の高い男でした。短く切られた硬質の髪の毛にはいくらか白いものが混じり、もみ上げが髭と繋がっていて、そちらも歳相応の白み方をしていました。彫りの深い顔立ちで、くっきりとした二重まぶたの下に、眠そうにも見える、大きな瞳がありました。ネクタイは締めていませんでしたが、銀ボタンのついた紺のブレザーを着て、上にはトレンチコートを羽織り、桃色のカシミヤのマフラーを巻いていました。そして彼は、まるでたった今子供を誘拐してきたというような格好で、脇にダークブルーのチェロケースを抱えていました。
 私はKに椅子を勧め、コーヒーを淹れました。外は寒かったでしょう、と私が訊くと、ええ、まあ、と彼は答えました。
 小さい椅子の上で座りにくそうにしているKに、コーヒーの入ったマグを手渡し、私はこう尋ねました。
「もうチェロを買われているんですね」
 するとKは、恥ずかしそうに微笑んで、
「ええ、まあ」と言いました。
 それから私たちは、コーヒーを飲みながらカウンセリング――初回のレッスンのことを私がそう呼んでいるだけですが――をこなしていきました。
 Kは、チェロにずっと憧れていたのだが、今まで仕事が忙しくなかなか手を出せなくて、最近ようやく現場を離れ、管理部門に回ったので時間が出来たのだと言いました。チェロに憧れた理由を私が訊くと、彼はきっぱりと、ヨーヨー・マの『リベルタンゴ』だと言いました。
 ちょうど私がこの教室を始めた頃だったと思いますが、サントリーウイスキーのテレビCMで、ヨーヨー・マというチェリストの弾く、『リベルタンゴ』という曲がBGMに使われたのです。私の教室にも、それをきっかけにチェロを始めたという生徒が何人かいます。
 カウンセリングの最後に、私はKが持ってきたチェロを見せてもらうことにしました。まだほとんど新品であることが一目で解りました。どちらかといえばオレンジ色に近い、明るい木の色をした楽器で、おそらくイタリア製だろうと見当をつけました。見た目だけで楽器の値を付けることは難しいですが、安くとも百万はするだろうと思いました。まだ楽器のことをほとんど知りもしないのに、これだけの楽器を買ってしまえるということと、彼の身なりを考えて、Kは収入の高い職業についているのだろうと勘繰りました。
 せっかくチェロを持ってきていたので、細かい構え方やセッティングは抜きにして、しばらく音を鳴らさせてあげて、それからKを帰しました。
 その日の夜にKから電話があり、月に一度か二度、土曜日の午後にレッスンを入れたいと言われました。こうして土曜日のレッスンが始まりました。これが今から三年前、私とKの出会いでした。

 Kはチェロについてほぼ何も知りませんでした。楽譜さえ読めませんでした。一体どのような顔をして楽器屋であのチェロを買ったのか、私はそれを想像すると、いまでもつい微笑んでしまいます。
 月に二度、たまに一度の月もありましたが、Kは私の教室兼工房にやってきました。彼は頭の良い生徒でした。教えられたことをひとまず飲み込んで、それをまた自分なりに理解して、身に着けていくということが出来る人でした。季節がひとめぐりする頃には、構え方が安定し、ひとつの音階をはっきりと鳴らせるようになりました。
 少しずつ曲を使って練習していく段階に差し掛かっていました。やはりいつまでも基礎練習だけではつまらないですからね。『きらきら星』や『ふるさと』といった曲から始めました。初心者に教える時には必ず辿るコースです。
 ある時私はレッスン中に、将来的に演奏してみたい曲はないのかとKに尋ねました。生徒に目標を持たせるのは大切なことですからね。
「もちろん、『リベルタンゴ』を弾けるようになるのも、目標のひとつだとは思いますが、他にやってみたい曲はありますか?」私はそう尋ねました。私たちは、お互いのチェロを股に挟んで、椅子に座って向き合っていました。
「ええ、まあ、『リベルタンゴ』もやってみたい曲ではありますけど……」そう言うと彼は、弓を持っていない方の手、つまり左手で、頭の裏を掻きました。
「でも、それだって、生きているうちに弾けるようになるか、怪しいもんですよね」
「そうですね、このペースでやっていけば……」私は少し考えました。
「早ければ三年。あるいは五年。一番長くても、十年もあれば弾けると思いますよ」
 私は生徒には嘘をつかないようにしています。Kの飲み込みは早かったですから、早ければ三年というのはかなり正直な意見でした。
「はあ、五年、十年ですか……」
 そう言うとKは溜息をついて、首を引いて、上目遣いをするような顔で私を見て、言葉を継ぎました。
「じゃあ、エルガーのチェロ協奏曲を弾きたい、と僕が言ったら、先生は、どのくらいの時間が必要だと思いますか?」
 私はKの口からその曲名が出てきたことに、ほんの少しだけ驚きました。エドワード・エルガー、世間的には『威風堂々』や『愛の挨拶』の作曲者として有名ですが、チェロの世界では、最も重要な協奏曲を書いた作曲家とみなされています。ですから、チェロを始めて一年程度のKでも、その曲を知っていておかしくないのですが、いささか意外なことに思われたのです。それまで私はKと、チェロの曲についての話をする段階にはまだ到達していなかったからです。
「そうですね、今のペースでいくと、二十年は覚悟してもらわないといけません。もっとも、仕事も何もかも放り投げて、毎日朝から晩までチェロにしがみついているというなら、私が七年で何とかしてあげましょう」私は弓を緩めながら、いたって真面目な顔つきでそう言いました。
「そりゃ大変だ」Kは顔を綻ばせて言いました。私はそういう時のKの朗らかな笑い方が、とても好きでした。
「しかし、何でまたエルガーのコンチェルトなんですか?」と私は訊きました。
 チェロの名曲といえば、バッハから、それこそリベルタンゴまで幅広くありますし、エルガーの協奏曲は、誤解を恐れずに言えば、かなり渋い曲です。初心者が好んで聴くようなものではないように思われたからです。
 Kも弓を緩めながら、今度は伏し目がちに、恥ずかしそうな微笑を浮かべて言いました。
「いや、初めて買ったチェロのCDがね、その曲だったんです。ジャクリーヌ・デュ・プレのCDです」
 ああ、なるほどなと私は思いました。それなら十分に考えられることだ、と。Kは、チェロの良し悪しも解らずに百万の楽器をぽんと買ってしまえるような人物なのです。幸い、彼の楽器はきわめて良品でしたが……。サントリーのCMで『リベルタンゴ』を聴いて、そのCDを買いに行き、チェロの棚に置いてあるデュ・プレのCDに、何も知らずに手を伸ばすということは、十分にあり得ることです。
 ジャクリーヌ・デュ・プレという女性は、有名なイギリスのチェリストです。透き通った白い肌に、長いブロンドの髪の毛を持った、若く美しい女です。もし天使の中にチェロを弾くものがいたとしたら、それはデュ・プレのことでしょう。たいていの男であれば、屈託のない笑みを浮かべる、彼女の姿が映ったCDジャケットを見ただけで、曲の中身も問わずに手に取ってしまうはずです。
「ジャクリーヌ・デュ・プレ……すばらしいチェリストでした。特に彼女のエルガーは今でも語り継がれています。ある意味では、あの協奏曲を現代に蘇らせたのは、彼女と言っても過言ではないですね。おまけに彼女はとても美しかったし、永遠に美しいままですからね」私はいつの間にか、いかにもチェロ教師らしいことを口走っていました。
 Kは「すべて承知している」という風に何度かうなずくと、教室の窓の外を眺めました。私もそれにつられて外を見ました。冬の午後の、短い太陽の時間が終わりかけていました。Kは楽器を股の間から解放し、床に横向けに置くと、立ち上がって私を見下ろしてこう言いました。
「萩原さん、少し早いですけれど、もし良かったら酒でも飲みに行きませんか?」
 Kが私のことを「萩原さん」と呼んだのは、それが初めてでした。

 私とKはそれから、レッスンの後に二人で飲みに行くようになりました。大抵は近所のアイリッシュパブで、ビールを飲みながら何かつまんで、その後にウイスキーを飲むという具合でした。学生や外国人がたくさんいて賑やかなところでしたが、いつも大きなディスプレイでサッカーの試合を流していたので、会話が途切れたら、そちらに目を移せば良いので便利でした。
 Kはレッスン中は私のことを「先生」と呼びましたが、そうやって飲んでいる時は、「萩原さん」と呼んでくれました。
 私たちはそのくらいの年頃の男がする話をしていました。お互いの仕事の話――私は教室に来る生徒の話や、チェロの作り方について――を中心にして、音楽や、政治や、スポーツの話題をとりとめなく話していました。
「じゃあ、萩原さんが今まで食べてきたものの中で、一番美味しかったものって何ですか?」
 Kは時々こんな風に、会話が途切れると、今まで一番~だったものは、という質問をしてきました。食べ物の時は、散々悩んだ挙句、カレーだと私は言いました。
「チェロ作りの修行をしている時、私と同期の友人二人で、カレーを作ったんです。とにかく二人ともひどく貧乏していて、狭いアパートに住んでいて、炊飯器もなかったから、鍋で米を炊いたんですよ。それで、ただ普通にカレーを作ったんですけど、何か具合が良かったんでしょうね。異常に美味く出来上がった。まあ、腹を空かせていたというのもあると思いますが……とにかく、カレーが金色に輝いて見えたのは、後にも先にもあの時だけです」
 お恥ずかしい話です。下らない話です。Kはそんな私の話をニコニコしながら聞いてくれていました。
「いや、金色のカレーというのは良いですね。目に浮かぶようです」
「その友人がね、昔少しだけイタリアンレストランで働いていたそうなんです。美味かったのは彼のおかげです。でも、一回きりでしたね。その次にやった時は、普通のカレーだった」
「なるほど」
「それで、あなたはどうなんです? 今までで一番美味しかったものは」
 私たちはカウンターに並んで座っていました。Kは、彼の楽器によく似た色のウイスキーが入ったグラスを、時々、氷の音を聴くためというように傾けて、しばらく質問の答えを探していました。
「そうですね……何だろうな……」
 それが何だったのか、私に思い出すことができないのが残念です。確か、パンナコッタか唐揚げだったと思うのですが、はっきりとは判りません。本当にとりとめのない、時間を楽しむだけの会話でした。
 他にも、色々な主題でそういった話をしました。今までで一番痛かった時や、自分が一番格好良いと思う国旗の柄、なんてテーマもありました。お互いが何と答えたのかは思い出せないのですが、とにかくあの時の私たちは、愉快な時間を過ごしていました。本当に楽しいお喋りは、後に残らないものですね。お酒と同じです。
 ですが、一つだけ強く印象に残っているKの答えがあります。それは、「今まで見た中で一番美しい景色」というテーマの時でした。
 私は確か瀬戸内海に沈む夕陽と言った気がします。私が答えた後でKは、ウイスキーのグラスを置いて、肘をカウンターに着けて、両手を顔の前で祈るように組んで、ゆっくりと語り始めました。
「学生の時、僕はよく友達と山に登っていたんです。その時、どこの山に登ったか……まあ、結構高い山ではありました。
 頂上で、朝陽が昇るのをじっと待っていたんです。暗くて、寒い中で、何人かで身を寄せ合って待つんです。その景色を見るために、僕たちは山に登っていました。
 夜の闇が日の光に少しずつ染まってきて、青くなっていくんです。濃い青色です。ブルーアワーと呼んだりもします。それに、太陽の光がさらに強くなっていくと、桃色の空が、太陽と青い闇の境界に浮かんでくるんです。朝陽が全力ですべてを照らし出す、その少し前の時間にしか見られない色です。
 その、桃色と深い青色が重なっている空を見つめている時に……僕は初めて、自分がまるでこの世のものではないような気がしたんです。別の世界に来てしまったような気になってしまいました」
 その景色について喋っている時のKの表情は、夢うつつ、という言葉がぴったりでした。まぶたが重いとでも言うように目を細めて、カウンターの向こうにある、色とりどりのリキュールが並べられている酒棚を見ていました。ですが、きっとKはそんなものを見てはいなかったでしょう。彼の脳裏に蘇っている、遠い記憶の中にある美しい景色に見惚れているように見えました。私もまた、そんなKの横顔に見惚れていました。
 私とKはそんな風にしてお互いを少しずつ知っていきましたが、今考えれば――いえ、正直に申し上げれば、当時もそう感じていたのですが――ひとつの話題を注意深く避けていたように思います。それは女の話題です。Kの妻に関する話題です。私は当時三十過ぎで、まあ独身でもおかしくない年齢でしたが、Kにはきっと妻がいるのだろうと思っていました。しかしKは、指輪などはしていませんでした。
 私は、そういった話題が出ないのを不自然に思いながらも、改まって何かを訊くということはしませんでした。

 Kが独りで暮らしていることを知ったのは、初めて彼の住むマンションに行った時でした。マンションの七階にある角部屋で、バルコニーが広い割に家賃が安いのだとKは言いました。十畳程度のリビングと、同じくらいの広さの寝室がありました。簡素な住まいで、誰かが頻繁に出入りしているという空気は感じませんでした。
 その日Kは、レッスンの後で、珍しいワインがたまたま手に入ったので家に来ませんか、と言って私を誘ったのでした。暑い夏の日でした。
 私がローテーブルの前のソファに座ると、Kは二つのジョッキをテーブルの上に置きました。彼はそれにかち割り氷を入れて、どぼどぼと白ワインを注いでいきました。
「こういう飲み方は嫌いですか?」とKは私に尋ねました。私は、これだけ暑いのだから構わない、と言いました。
「良かった。時々、嫌がる人がいるもんですから。ワインは特にね。飲み方にうるさい人が結構いるんですよ」
 そのKの言葉から、こうして私のように、Kの部屋を訪れる人がいるのだろうなと推測しました。だからといって、何が、というわけではないのですが、ああそうなのか、と私は思っただけです。
 Kはワインを注ぐと、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けました。プラスチックのトレイを取り出して、それを覆っていたビニールを破り、ガラスの皿にその中身を盛り付けました。Kはチーズクラッカーの箱と一緒にその皿を持ってきて、テーブルの上に置きました。サーモンのカルパッチョが載ったガラスの皿は、薄い青色が透かしてあって、表面には波を象った細かい凹凸が刻まれていました。
 そういった一連のKの動作や、食器や料理の選択を見ているだけでも、Kが独りの生活に熟練しているということを読み取ることが出来ましたし、またそれを最大限尊重する振る舞いをしてやりたいという気分になりました。それは緊張というよりかは、むしろ快い気分でした。
 しばらくお喋りをした後で、「何か足りないものがありますね」とKは言って、壁際に置いてあるCDラックの前に立ちました。彼はその中から一枚を選んで、CDプレーヤーに差しこみました。
 その時Kが私に聴かせてくれたのは、『バードランド』という曲でした。これはウェザー・リポートというアメリカのグループが作ったジャズの曲です。バードランド、日本語に訳すと「鳥の島」くらいになるでしょうか。もっとも、鳥のことを書いた曲ではなく、バードランドという、ニューヨークのマンハッタンにある、有名なジャズクラブの名前から取った曲名です。
 その時Kがかけたのは、ウェザー・リポートのものではなく、メイナード・ファーガソンがカヴァーしたものでした。ファーガソンは天才的なトランペット奏者でした。きっとあなたも彼の音を聴いたことがおありでしょう。『スター・トレック』でもいいし、『ロッキー』のテーマでも構いません。彼の名前が刻まれた音を、どこかで耳にしたことがあるはずです。
 と、私は今、したり顔で語っていますが、これらはすべて、あの夏の日の午後に、Kが授けてくれた知識です。冷たいワインを飲みながら、あの底抜けに明るい『バードランド』を聴いている時、ジャズに疎い私にKが教えてくれたのです。
『バードランド』という曲は、恐ろしく前向きな曲です。メイナード・ファーガソンのトランペットで聴いていると、何だか背中を押されているような気がしてきて、たちまち元気になってしまいます。トランペットという楽器には、そういう力がありますね。人の心を直接揺さぶることのできる楽器です。それはおそらく、トランペットが楽器になる以前は、危険を知らせたり、遠くにいる相手に何らかの合図を送るための道具であったという事実と、決して無関係ではないでしょう。
 思わず手を叩きたくなるような、躍動する八小節のメロディーを繰り返してこの曲は終わります。正確に言えば、終わりはありません。フェードアウトしていくのです。フェードアウトしていくということは、つまり、本来は永遠に続くということなのでしょう。
「この曲を聴いていると、必死で生きろって、応援されているような気分になるんです」とKは言いました。そして、
「きちんと終わらないじゃないですか。ずっとあのメロディーが続く。ずっと聴いていたいと思ってしまう。そこに……何というかな、希望みたいなものを、僕は感じるんです。いつまでも楽しく生きていけるような、明るい予感のようなものをね」と続けました。
 そのKの言葉を聞いた時、私は自殺した父のことを思い出しました。終わらない音楽に絶望した父のことを。Kはそれに希望を見出していました。その言葉は私の心を強い光で照らし出しました。初めて父の死を否定してくれる言葉に出会った気がしました。

 正直に告白いたしますと、私はKに惹かれていました。月に一度か二度、彼が教室にやってくると思うと、それだけで気持ちがふわりと浮かび上がるようでした。私はこれまで沢山の生徒を受け持ってきましたが、Kのように、レッスンを心待ちにしてしまうような人はいませんでした。
 彼の部屋で過ごす時間は、とても心地よいものでした。酒と料理と音楽、それにお喋り。Kはいつもジャズをかけて、私に色々なことを教えてくれました。彼のCDラックには、ジャズのものばかり入っていました。
 冬が終わりに近づいていた、ある冷たい雨の日に、私はKのCDコレクションの中から、例の、エルガーの協奏曲が入った、ジャクリーヌ・デュ・プレのCDを見つけました。ジャケットの中のデュ・プレは、やはり美しく微笑んで私をじっと見つめていました。私はこれをかけようとKに言いました。Kはホットワインの入った耐熱ガラスのマグを手にしたまま、黙ってうなずきました。
 世の中に一体どのくらいの数の楽器があるのか、音楽家である私にも解りません。その中で、人の声に最も近い楽器は何かと問われたら――これはとても難しい問いなのですが――私はチェロとトロンボーンを挙げます。
 そして、エドワード・エルガーの協奏曲は、チェロの完全な独奏で始まります。そのチェロの奏でるメロディーは、人の声、それも、嘆きの声にしか聞こえません。どこか暗いところに閉じ込められてしまった人の、諦めの叫びに聞こえます。誰にも届かないような、慟哭。重々しい複弦の響きは、その苦しみを引きずらなくてはならないという、運命の枷を思わせます。一体どんな哀しみを経験すれば、こんな絶望的な音符が書けるのでしょう? そう思わずにはいられません。エルガーは死ぬ直前、この開始の旋律を口ずさんで友人に聞かせたといいます。そして、「私が死んだ後に、丘の上でこのメロディーが口笛で聞こえたとしたら、それはきっと私だ」とまで言ったそうです。
 曲が始まってしばらくした後で、私はKの顔色を伺ってみました。彼は椅子の肘掛に軽くもたれかかって、頬に手をやって目を瞑っていました。ホットワインのせいか、Kの頬は紅を刷いたようになっていました。しかし、曲が進むに連れて眉間に皺が寄り、血の気が失せて、明らかな苦悶の表情が彼の整った顔に現れ始めました。
 Kは突然目を見開いて、「すみません、音楽を止めてくれませんか」と言いました。私はその声にある種の緊急性を感じ取り、すぐにCDプレーヤーの電源を切りました。Kは深呼吸した後に、こう言いました。
「すみません、少し、飲みすぎたようですね」
 Kは力なく笑いました。しかし、彼が音楽を止めてくれと言った理由は、酔いなどではないと私は思いました。かと言って、それを問いただすということを、私はしたいとは思いませんでした。本能的に、それはKの心の中の、微妙な領域に足を踏み入れることになると感じたからです。
 そうした私の心の動きを読み取ったらしいKは、こう続けました。
「僕は、実は、萩原さんにひとつ嘘をついていました」
 Kは、彼がチェロを始めた本当の理由を、ゆっくりと語り始めました。

「僕が悠紀子と結婚したのは、今から二十年ほど前、二十八歳の時でした。ああ、悠紀子というのは、僕の妻だった人の名前です。
 彼女は僕よりひとつ年下の、大学の後輩でした。悠紀子も山が好きでね。結婚してからも、二人で登ることが、年に何回かありました。
 山に登るっていうのは、ほとんど意味のないことなんですよ。準備して、登って、降りる。それだけ。体には多少良いんでしょうが、何かを学ぶということはあまりない。でも、登る前と登った後では、自分の中の何かが確実に変化しているんですよ。何かをくぐり抜けたという感触があるんです。
 僕と悠紀子は、そういうことを口にはしませんでしたが、心の底ではたぶん同じことを思っていたし、そのことで二人が繋がっていると僕は感じていました。
 悠紀子が山に登れなくなったのは、彼女が三十五歳の時です。ある病気にかかりました。それが厄介な病気で……」
 そこでKは言葉を切って、ホットワインを一口すすりました。しばらくの間、私とKの間には沈黙がありました。
 私はじっと黙って、両手を膝の上に置いていました。音楽家は、沈黙が含む意味を読み取るのに長けています。ですから私は、Kが妻の病名を言う前に、その答えと、その結末と、Kがチェロを始めた理由まで、すべてをはっきりと理解してしまいました。
 私は即座に強い哀しみに打たれました。しかし、黙ってKの話を聞き続けることにしました。彼の口から聴いてあげなければならないと思いました。
「そう、その病気なんですがね……。萩原さん、多発性硬化症という病気をご存知ですか?」
「もちろん」私は哀しみが声に漏れないように努めましたが、どこか冷たくKには聞こえたかもしれません。
「そうですよね……チェロの先生が、知らないはずがないですよね。ジャクリーヌ・デュ・プレの命を奪ったのと同じ病気です。今でも原因不明の病気とされています。
 もっとも、妻が多発性硬化症を発症した時は、僕はチェロに何の興味も抱いていませんでした。デュ・プレもエルガーも知りませんでした。ジャズばかり聴いていましたからね。悠紀子もクラシック音楽など聴く人ではありませんでした。
 ですから、病院のベッドの上で段々弱っていく悠紀子が、このCDを買ってきてくれ、と言った時は驚きました。それが今かけたCDです。たぶん悠紀子は、自分の病気について調べていくうちに、デュ・プレにぶつかったんでしょう。それで、デュ・プレが病気になる前の、一番輝いていた時期の、エルガーの演奏を生きる希望にしたいと思っていたのでしょう……。
 多発性硬化症は、寛解と再発を繰り返す病気です。このマンションに僕が来る前は、もう少し広いところで、二人で暮らしていました。家に帰ってこれる時期があると、悠紀子は一日中エルガーの協奏曲を聴いていました。ただ黙って、あの暗い曲を、一日中……。
 悠紀子が死んだのは、去年の秋でした。患者さんの中には、発症しても長く生きられる人もいるそうですが、悠紀子の場合は、デュ・プレと同じように、五十歳になることができませんでした。
 心の準備は出来ていました。ですが、独りになって、悠紀子が遺したCDを聴いていると、やり切れなくなるんです。なんでこんな哀しい曲をずっと聴いていたのだろうって。なぜチェロなんだ、なぜエルガーなんだ、なぜデュ・プレなんだ、とね……。
 それで僕はチェロを始めようと思ったんです。悠紀子と繋がっているために。天国に行った時に、僕がちゃんとエルガーを悠紀子に聴かせてあげられるようにと思ってね。
 だから僕はね、萩原さん。チェロを弾く時に、僕は祈っているような気持ちになるんですよ。僕にとってチェロは、そういう楽器なんですよ」
 私は何も言うことができませんでした。Kの表情は、もう穏やかにすらなっていました。私は心の中で泣き叫んでいました。でも涙は流れませんでした。
 ただ、私はその時、Kを強く抱きしめてやりたいと思いました。いまでも、そうしてやるべきだったのではないかと自問することがあります。ですが、それは出来ませんでした。なぜかと言われてもお答えできません。ただ、私はそれを、少し怖れていました。

 チェロを弾くことは祈ることだ、と言ったKに何をしてあげられるのか、私は考えていました。そして考えた末に思いついたのが、ひとつの曲をKに授けることでした。
 次のKとのレッスンがあった日は、春と言っても良さそうな日でした。もう三月になっていましたし、外に出ると少し肌寒かったですが、陽の光はゆっくりと体を温めてくれました。
 私はレッスンを一通り終えた後、その思いつきを実行に移すことにしました。
「チェロを弾くことは祈ることだと、そうおっしゃいましたね」
「ええ」
「あなたにぴったりの曲があるので、今日はそれを教えて差し上げたいと思います」
 そうして私は、『鳥の歌』を弾き始めました。
 三分程度の曲で、ゆったりとした、哀しげなメロディーの歌です。まるで遠い昔のことを思い出すような、決して明るい歌ではないのですが、短調のぬくもりに満ちた旋律です。元々この曲はカタルーニャ地方の民謡なのですが、パブロ・カザルスという――チェロの神様のような人です――スペインのチェリストが弾いたことで有名になりました。
 カザルスはこう言っています。
「カタルーニャの鳥はこう鳴くのだ。『ピース、ピース、ピース』と……」
 晩年のカザルスは、一九七一年の世界国際平和デーに、国際連合本部に呼ばれ、平和への祈りを込めて、世界に向けてこの曲を演奏しました。
 そう、Kの祈りについて思いをめぐらせている時に、私はこの曲のことを思い出したのです。もちろん、カザルスは平和への祈りを込めたわけで、Kの祈りとは異なるものだったでしょう。ですが、もしKが、悠紀子さんのための祈りに『鳥の歌』を使ってくれるなら、私はそれで構わないと思いました。それに、チェロ暦一年ちょっとのKでも、何とか弾ける曲でした。
 私はすでに申し上げたように、音大を卒業する時に、チェロ奏者としての道は諦めていました。しかし、Kの前で『鳥の歌』を弾いていた私の腕には、間違いなくチェリストの魂が宿っていたと思います。誰かの為に音を奏でる時、音楽はいちばん純粋な力を発揮します。
 だからKは泣いてしまいました。私の演奏は、Kの心の、おそらく長い間凍っていた部分を溶かしてしまったのだと思います。Kは声を上げず、小さな椅子の上で、その大きな体を丸めて、チェロを股に挟んだまま泣いていました。フレーズが切り替わる無音の一瞬に、Kの涙が床に落ちる音を聞きました。しかし、私は最後まで演奏を止めませんでした。Kにこの歌を最後まで聴かせる義務があるとさえ思っていました。私が音に込めた、言葉にできない想いを、彼に受け取って欲しいと強く願っていました。
『鳥の歌』を弾き終えた後も、Kは泣き続けていました。私はハンカチを差し出しましたが、Kは手でそれを制して、自分のハンカチで涙を拭いました。そして黙ったまま楽器を片付けて、ここを出て行きました。私は、自分の演奏で誰かが涙するのを見たのは、それが初めてでした。
 次のレッスンの前日に、Kから電話があり、体調が悪いので次の週に振り替えて欲しいと言われました。私はそれに従いました。しかしその次の週、Kは姿を現しませんでした。何度かKに電話をしましたが、彼は出ませんでした。
 それから時々、教室にワンコールだけの電話が鳴るようになりました。不気味だと思いましたが、それは一月ほどで止んでしまいました。Kの家に行ってみようかとも思いましたが、それは出来ませんでした。
 夏頃になってようやく、私はKが永遠にここには来ないだろうということを悟りました。私はたぶん、『鳥の歌』を彼の前で弾いたあの時点で、チェロ教師としての役割を終えていたのだと思います。
 Kは、私の友人でした。それも、かけがえのない友人でした。ですが、私たちは、チェロによってのみ繋がっていました。ですから、チェロを抜きにして、私が彼を追いかけるということはできなかったのです。私はここで待つしかなかったのです。
 そうしてまた冬がやってきました。私は冬が来たら、もうこの教室を閉めようと、Kを失ってから考えていました。
 そしてご覧のとおり、ここには何もなくなってしまったのです。奥の工房にも、おがくずひとつ落ちていません。

 ところで、エルガーのチェロ協奏曲をお聴きになったことはありますか? もし手元にチェロがあれば、私が弾いて差し上げるのですがね……。チェロもいまは、ここではない場所にあります。
 さっき申し上げましたように、チェロの独奏で、悲劇的な始まり方をする曲なのです。この曲には、協奏曲としては珍しい特徴があります。
 それは、曲の終わり方です。曲の最後に、冒頭のチェロの独奏が姿を現すのです。これは複数楽章の曲では滅多にないことです。エルガーはよっぽどあのメロディーがお気に入りだったのかもしれませんね。考えようによっては、あれもまた終わらない音楽と言えるかもしれません。始まりに戻るんですからね。あるいは、ひとつの円が閉じられると言うべきでしょうか。
 ああ、雪が降ってきましたね。今日は初雪だと、誰かが言っていました。
 そうです。Kから電話がかかってきたのも、こんな雪が降る日でした。静かな雪です。
 そろそろ私は行かなくてはなりません。少し、お喋りが過ぎたようですね。
 雪が降ったら、旅に出ると決めていたのです。と言っても、どこか行くあてがあるわけでもないのですがね。
 ええ、そうです。いつかKが言っていた空を探しに行くんです。桃色と青色が出会う空をね。どこにあるのかは知りません。ですが、きっと見つけられるという、根拠のない自信があります……そうですね、私が見つけるのではないのでしょう。きっと、空の方が私を見つけてくれる、確かにそんな気がしています。

チェロ

【あとがき】

お読みくださってありがとうございました。
楽器シリーズとして書きました。
チェロという楽器の両性的な性質、静謐な雰囲気というものを表現したかったです。
カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」の訳文のように書きたいと思って真似をしました。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。

チェロ

私の名前は萩原喜美。いま三十五歳で、チェロの教師をもう十一年以上やっています。「ヨシミ」という名前は、確かに男には少し珍しいかもしれませんね。私の母は、生まれてくる子供が、女の子だと信じて疑わなかったそうです。男の名前は用意していなかったので、そのまま女の子に付けるつもりだった、喜美という名前を私に与えたそうです。……

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-26

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