カクテル
僕は小学四年生の時からずっと眼鏡を掛けている。他の人がどのような基準で眼鏡を外したり掛けたりしているのか解らないけれど、僕が眼鏡を外すのは三つの場所だけであるということを初めに書いておこう。風呂、ベッド、床屋、この三か所では眼鏡を外しても良いことにしている。そして、それ以外の場所では絶対に眼鏡を外さないというルールを厳粛に守り続けてきた。しかし僕は、人間は目が良過ぎやしないかと思うのだ。眼鏡やコンタクトレンズを使ってまで視力を矯正する必要があるのだろうか、と。僕がこのアイデアというか不満めいたものを哲学的な友人に漏らした時、彼は神妙な面持ちになって言った。
「ふむ、つまり君は、人間は本質を見ていないと言いたいのだね。見せかけばかりに目が行っていると」
哲学的な友人(彼は実際大学の哲学科で教鞭を取っていた)は何かにつけて物事を深く考える癖があった。「なぜ矛盾は『抱える』と言うのだろう」と僕が何気なく言った時も随分考え込んでしまった人なのだ。だから僕のように、疑問をほいほい口にしてしまう人間とは相容れないはずなのだけれど、彼は僕とコーヒーを飲みながらお喋りするのが好きなのだと言う。
「それはプラトンの時代からずっと言われていることでね。つまり、私たちが見ているのは見せかけに過ぎず、別のところに本質が存在するとね。でもそれは二十世紀には答えが出ている問いなんだ。洞窟の例えは知っているだろう? 簡単に言うとだね、たとえばここに一頭の馬がいるとしてだね……」
僕はプラトンの名前が彼の口から出てきたので慌ててその話を打ち切った。いやいや、そんな難しい話じゃないんだ。要するに余計なものが見え過ぎて生きるのが窮屈になってはいないかと、そういう話なんだ、と僕は言った。
「なんだい、てっきりイデアの話かと思ったよ」と彼は言った。
そもそも僕がこの命題、「人間は目が良過ぎるのではないか」という独善的な疑問を思い付いたのは、三年前の五月七日のことだ。その頃僕は二十一歳で、今よりはるかに不健康な生活を送っていて、不健康な思想を抱え込んでいた。僕はその前の年の八月からフランスのレンヌという地方都市に留学していた。五月の初めには全ての試験が片付いて暇だったのだが、日本の大学の先輩がメールを寄越してきて、ゴールデンウィークにフランスへ行くので案内して欲しいと頼んできた。そういうわけでその時僕はパリに居た。僕は数日に渡ってサークルの先輩たち(女三人だった)の世話を焼き、その日の昼前にようやく彼女たちをシャルルドゴール空港行きのバスに押し込んだ。
そのあとで僕は理恵に会った。彼女は僕よりも八歳年上の大学院生で、僕と同じタイミングで、パリにある研究機関に留学していた。理恵とは日本に居る時に、フランス語のクラスで知り合ったのだ。留学中、僕はパリに行く度に彼女と会っていた。
ソルボンヌ大学の前で理恵と待ち合わせ、通りに面したカフェでレモネードを飲みながらぐだぐだとおしゃべりをした。しかし彼女と会っていると、日本に残してきた恋人の春那のことが思い起こされた。カフェを出たあと、僕は理恵と一緒に散歩をして、オランジュリー美術館へ行った。楕円形の部屋の壁に張り巡らされたモネの睡蓮の絵に囲まれていた時、僕は隣に居る女が理恵ではなく春那だったらどんなに良かっただろうと思った。
春那は僕が人生で出会った中で最も美しい女であり、そのことが彼女を愛している理由だった。春那は僕よりも三つ年上で、既に社会人だった。僕は留学中、春那との距離を埋めることが出来なかった。留学が始まったばかりの頃、彼女はメールでもスカイプでもとにかく頻繁に連絡をくれた。しかしその頃の僕は異国での生活に適応するのに精一杯で、返事をするのも一苦労だった。時間が経ち、いざ帰国が近づくと逆の現象が起きた。彼女は僕に返事を寄越さなくなった。遠距離恋愛でありがちな話ではある。
オランジュリー美術館の前で理恵と別れたあとも、僕は春那のことを考え続けていた。レンヌ行きのTGVまでは時間があったから、歩いてモンパルナス墓地まで行ってゲンズブールの墓にメトロの切符でも投げてやろうと思っていた。セーヌ川を渡り、サンジェルマン通りを歩き、ラスパイユ通りに差し掛かった辺りで、僕はありえないものを目にしてしまったのだった。
通りに面したカフェの入口のドアから、日本に居るはずの春那がひょっこりと姿を現したのだ。その瞬間、僕の心臓は凍りついた。だがすぐにそれが錯覚であることに気が付いた。その女はただの髪の黒いフランス人だった。しかし一瞬だけ、彼女は確かに春那に見えたのだ。
気を取り直して僕は通りを南下した。なぜそんな錯覚が起こったのかについて考えながら歩いた。結論はすぐに出た。要するにその日、僕は日本人の女に会いすぎていたのだ。その視覚的な情報に、春那と会いたいという欲求が合わさってこのような見間違いが起きたのだと結論付けた。
そう考えてから、僕はいささか自嘲的になった。春那にはこんな気持解らないだろうな、と。誰かを見間違ってしまうくらい僕が君を求めていることを、君は理解することが出来ないだろう、と。僕は冷たくあしらわれていることに我慢できないどこにでも居る男だった。モンパルナス墓地に寄り、サルトルとボーヴォワールが同じ墓の下で眠っているのを見て吐き気がした。それは普通の人が見れば、どちらかといえば微笑ましい光景だっただろう。僕は不健康な思想を抱える二十一歳の男だった。消えない吐き気を伴いつつ列車に乗り込んでパリをあとにした。
この五月七日の午後、春那の幻影を見てしまったことをきっかけに、人間は目が良過ぎるのではないかという疑問が僕の中に芽生えたのだ。眼鏡を掛けていたが為に錯覚を起こしたからだ。裸眼であればあの女だってぼやけて見えて何も思い起こさなかったはずだ。
七月に帰国してすぐに春那と会った。僕はルールに則って彼女にキスをした。つまり、一度目のキスは奪う、二度目のキスは与えるという、きちんとルールブックに記載されているやり方だ。しかし二度目のキスで僕は絶望した。彼女が僕を拒絶しているということが解ってしまったのだ。彼女の体は彫像のように硬かった。僕のキスには残念ながらディズニーの王子のような効能はない。ルールが適用されなくなる三度目のキスの代わりに僕は別れようと言った。春那はこくりとうなずいた。彼女の美しさもまた彫像のように変わらぬままだった。
失恋した男はひたすら絶望するか奮起するかのどちらかなのだが、それはその時にその男がどのような環境に置かれているかで変わってくるものだと僕は思っている。幸いなことに、僕には失恋のエネルギーをぶち込む対象となるべきものが目の前にあった。それは就職活動だった。僕は元々「シュウカツ」というものを馬鹿にしていたが、いつの間にかのめり込んでしまった。なるべく給料が高く、「社会的に」価値があるとされている会社――『東洋経済』で特集が組まれるようなタイプの――に入ってやろうと思った。僕には様々な武器があったから、それらを最大限に利用して、秋には四つの内定を手にしていた。僕は内定を吟味し、とある財閥系の企業を選んだ。決め手になったのは、その企業が連結対象としている会社の中に、春那の勤め先があったことだ。僕は見返してやった気分になった。この上なく滑稽な二十二歳だった。
就職してほどなくして理恵と付き合うようになった。彼女は既に大学で研究職に就いていた。理恵にとってみれば、若く、有名な会社で働いている僕がちょうど良かったのだろう。理恵はよく、自分が居るのは狭い世界だとこぼしていた。
僕の方にしても理恵と付き合うのは何かと都合が良かった。年が離れているぶん恋愛の煩雑な手続きが省略されたし、お互いの欲求を正直に打ち明けることが出来た。それに新しい出会いを求めるためのバイタリティは仕事に刈り取られていた。おまけに彼女には知性というものが備わっていたし、大変な金持ちの娘でもあった。その二つは春那にはないものだった。僕にとって恋愛は、自転車の泥除けに毎年貼り重ねていく駐輪場のシールのようなものだった。理恵の存在は春那の思い出の上に貼り重ねられたわけだ。そうやって人は失恋の痛手から回復してゆく。少なくとも僕はそうだった。
僕が天秤座であることと何か関係があるのかどうか解らないが、その頃僕には二つのことを比べる癖があった。それはさっき書いたような、自転車のシールの例えと矛盾しているように聞こえるかもしれない。だが僕の天秤は基本的にはそれと別のところで成り立っているものだ。感情ではなく理性の天秤だった。その天秤に僕は美と知を置いてみた。完全に釣り合っていた。しかし、知の方に「金」と書かれた分銅を載せてみると、美が置いてある皿は跳ね上がり、その反動で分銅は地面に落ちた。そのようにして僕は理恵を愛していた。
付き合って一年ほど経った頃に理恵から別れを切り出された。喫茶店でコーヒーを飲んでいたのだが、唐突に彼女は結婚すると言った。それは完全な終止形の文章だった。へえ、結婚するんだ? と僕は疑問文で訊いてみた。うん、年上の憲法学者とね、と彼女は言った。知らなかったな、と僕は言った。それは結構なことで、と。
そこまで僕は、自分が理恵の浮気相手に過ぎないということに全く気付いていなかった。もしかしたら理恵にはそれが意外だったのかもしれない。だから僕が動揺して、普段はそんなことしないのに、ストローの袋をねじって水をかける遊びを始めた時も、彼女はただ黙っていた。僕はインド象の足の裏のように鈍感なのだと言ってやった。理恵は一ミリも口の角を動かさなかった。だから僕は比喩を詫びた。ごめん、本当はインド象の足の裏なんか見たこともないし、まして触ったこともないんだけどね、と言った。
理恵は僕に封筒を渡した。僕はその重さを手で量って、冗談のつもりで「五十万かな」と言って笑った。その笑い方が気に食わなかったのだろう。理恵は僕をフランス語で罵倒して喫茶店から出て行った。フランスでも聞いたことのない凄く汚い言葉だった。家に帰って封筒を開けてみると本当に五十万円あった。そのお金で、理恵との思い出のつもりでモネの睡蓮の複製画を買うことにした。
理恵と別れてから僕は幻覚に悩まされるようになった。地下鉄の中で、バスの中で、会社のあるビルの中で、ひどい時はオフィスの中でさえ、ありとあらゆるところに理恵ではなく春那を見つけた。都合が悪いことに、春那は極めて平均的な体つきで、平均的なファッションセンスを持った女性だった。だから僕は何度も見ず知らずの女性に声をかけそうになってしまい、その女が近くまで来るか、あるいは僕が正気を取り戻すまで、不安定な気持ちが続くのを我慢しなくてはならなかった。とにかく街には春那が偏在していた。ユビキタス、と僕は思った。理恵のシールはあっさり剥がれたが、その下にはまだ春那のシールがきちんと残っていたのだ。
僕はほとんど手付かずの有給をまとめて使いたいと上司に言って、一通りの仕事を片付けて後輩に引き継いだあと、二週間会社を休み、そのまま退職願を出した。人事部は最初引き留めようとしたが、しばらくするとそれもなくなり、いくつか書類のやり取りがあったあと正式に退職した。僕は外に出られない体になっていた。女を見るだけで死んでしまいそうな気がしていた。
住んでいたマンションを引き上げて実家に戻った。母親は何も言わなかった。モネの睡蓮の絵をあげたら喜んでいた。それは母親の寝室に飾られることになった。
数ヶ月間ほとんど外に出なかった。およそ生活と呼べそうなもののない空白の時間だった。
母親は一度だけ僕に声を掛けた。
「おまえは今いくつだっけ」
僕は二十三だよと答えた。
「三十までは、他人の飯を食えと田中角栄も言っていたからね」
それを聞いて僕は外に出ようと思った。深夜から早朝を選んでジョギングをするようになった。まず運動をしないといけないと思ったからだ。一度風呂場で意識を失いかけたのが主たる動機だった。毎日黙って走っていたが、体を動かしていると色々なことが頭に浮かんでは消えていった。しかしある日、ひとつの言葉が頭の中に留まり、僕の口から出て行った。
「天にましますわれらの父よ」
御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、アーメン。
キリスト教の代表的な祈祷文だった。キリスト教系の高校に通っていた僕はそれを部分的に暗誦していた。走っているとなぜかその言葉が浮かんできて、それを呟きながら走っていた。
その日、帰宅してからネットで「主の祈り」というキーワードで検索した。すぐに全文が出てきた。懐かしさがこみ上げてきて、思わず興奮してしまった。十年くらい会っていない友達が帰りの電車でたまたま隣に居たというような興奮だ。僕はその日一日中「主の祈り」を唱え続けていた。
次の日から僕は「主の祈り」全文を唱えながら走ることが出来た。不思議と走る距離は長くなっていった。ついでに英語でも暗誦し、その次にフランス語に取り掛かった。僕は三ヶ国語で「主の祈り」を唱えながら走るランナーになった。
その習慣ができてしばらくしたある平日の昼間に、僕は街に出てみることにした。年頃の女が視界に入ってくるたびに僕は「主の祈り」を唱えた。するともう女が春那に見えなくなっていた。念のためドイツ語とイタリア語の「主の祈り」も暗誦できるようにしてから僕は再びスーツに身を包んで就職活動をすることにした。
「特技の欄に『主の祈り』を五ヶ国語で唱えられる、と書いてありますが、『主の祈り』とは何ですか」ある面接官は僕に尋ねた。
「キリスト教の代表的なお祈りの文句です」
「ほう、それが弊社の役に立ちますか?」面接官はそう言った。
「どんな風に役立てられそうですか?」別の面接官も訊いてきた。僕も含めてみんな眼鏡を掛けていた。
「朝礼で唱えます。何だか素敵じゃないですか?」と僕はできるだけ感じの良い笑みを浮かべて言った。
そんな調子で面接をこなしていったが、だいたいは一次面接で落とされてしまった。僕はハローワークに通うようになり、敢えて日曜日を避けて近所の教会(正確に言えばカテドラルだった)にも行くようになった。かなり広い敷地の中に、妙な形をした礼拝堂があり、それとは別に高い塔もあった。どちらも外装はステンレス・スチールで、石造りのヨーロッパ風の教会にいささか食傷気味だった僕に新鮮な印象を与えてくれる建築物だった。平日の誰もいない時間に礼拝堂に入り、思い切り声を出して「主の祈り」を唱えた。その暗い場所でそれは普通の行為だった。
「中国語とか韓国語でも言えたらいいのにね」ある面接でそう言われた。もっともだと思ったのでその二つの言葉でも覚えた。
「そんなに祈りたいのなら勝手に宗教団体でも作ればいい」と言われたこともあったが、とてもまともな意見のように思えた。就職活動をしていると、時々こうしてまともな意見に出会うことがある。
僕の快進撃はしばらく続いた。行く面接全て落ちていったが、むしろ僕が撃ち落しているような気さえした。まさにそれはジョブハンティングと言うべき活動だった。僕は毎朝早くに起きて「主の祈り」を唱えながらジョギングし、面接でも「主の祈り」を披露し(もっとも、それに興味を示さない企業が大半だったが)、夜には時々風俗に行って春那とは似ても似つかない(つまり僕の美の基準から外れていて、平均的な体つきではない)女を抱き、その最中にも「主の祈り」を小声で唱えることを欠かさなかった。そして僕がアフリカーンス語の「主の祈り」を覚えた時――それは十七ヶ国語目だった――僕の快進撃は終わりを告げた。
僕を採用してくれたのは南アフリカ共和国にある企業との取引を主要業務とする会社で、アフリカーンス語は「ある意味では」使えると判断したらしい。そのようにして僕は働くようになり、二十四歳になった。
僕の直属の上司であるアマドゥというコートジボワール人は完璧な日本語を話した。彼は釣りが趣味で、休日になると、まだ真っ暗なうちに川に出掛け、日が暮れるまで魚を釣って過ごしていた。僕は彼に誘われて釣りをするようになった。アマドゥは身長が一九〇センチもあるので、僕と並ぶと親子のように見えていたかもしれない。
「人生で一番大切なことは何だと思う?」釣りをしている時に、アマドゥが僕に尋ねた。
僕は少し考えてから答えた。
「なるべく多くの矛盾を抱えることじゃないですかね」
「なるほど。お前はそう考えて生きてるんだな?」
「ええ、少なくともそれが一番大切だと思っています」
矛盾を抱えるという言葉は、僕のお気に入りの表現の一つだ。その言葉は僕に、食料品やトイレットペーパーがたくさん詰ったビニール袋を両手に持った人間の姿をイメージさせてくれる。矛盾というのはそのように、優柔不断な天秤のようにして抱えるものだと思っている。抱きかかえるのではなくて。
「俺はね、人生というのは、チャンスをモノにするんじゃなくて、チャンスをふいにすることが一番大切だと思ってる。そういう意味では、お前と同じだな、たぶん」
アマドゥはまるでその日そのことを僕に言うためだけに生きてきたというような口ぶりで言った。
「みんな美しく生きようとし過ぎてる」アマドゥは続けた。そして、
「でもそれが人間ってもんだろう」と付け加えた。語尾に疑問符が感じ取れなかったので僕は黙っていた。アマドゥは僕の沈黙を読み取り、理解したあとで、
「なんてことは、本かディスプレイの中でしか言われないことだがな」と言った。僕はその日から一切「主の祈り」を唱えなくなった。
僕が響に出会ったのはその会社に勤めはじめてしばらく経ったあとのことだ。彼女との出会い方にはいささかドラマチックなところがあった。
僕と響はある画廊の前でぶつかった。その時僕はiPodで「メイク・ハー・マイン」という古い歌を聴きながら映画館に行こうとしていた。その画廊はガラス張りになっていて、通りに面していたのだが、飾られている絵の中にモディリアーニ風の油絵があり、それに目を奪われてしまった。オランジュリー美術館の一階に置いてあるような絵で、そんなものがこんなところにあるはずがない、と驚きながら歩き続け、前から歩いてきた響の存在に気が付かなかった。
その時の響の格好をよく覚えている。赤いニット帽をかぶり、髪の毛は金色で、デニムのワンピースを着て、肩には体と釣り合いの取れていない大きな布地のトートバッグを掛けていて、紐まで黒いコンバースのローカットシューズを履いていた。胸にドンという衝撃があって、僕は少しよろめいただけだったが、響は尻餅をついてしまった。僕はすぐに謝ってイヤホンを外し、手を彼女の方に伸ばした。幸いケガはなかった。僕らはほとんど同時に、すいません、よそ見をしていたもので、と言った。何かを感じたらしい響が、「あの絵ですか」と指差した先には例のモディリアーニ風の絵があった。僕は、「ええ、モディリアーニ」と言った。言ったあとで新手の挨拶みたいだと思った。「わたしもそうだと思って」と響は言った。僕が響を見てその時気付いたことは、いかにも美大の学生らしいな、ということと、栄養失調かと思えるくらい彼女が痩せていることだった。
それから数日経ったあとの水曜日の昼休みに、僕とアマドゥはサブウェイで(アマドゥはえびとアボカドのサンドイッチが病的に好きだった)昼食を取っていた。その時に響が何人かの女の子と一緒にサンドイッチを食べているのを僕が見つけた。これも確かルールブックに載っていたと思うのだが、偶然が二度起これば恋をする準備は整うものなのだ。
響は実際に美大生だった。僕はその時アパートで一人暮らしをしていたのだが、彼女はその近所に住んでいて、アマドゥに誘われない週末に会うようになった。美術館か映画館に行って、コーヒーを飲む程度のデートだった。二度か三度そういうことがあったあと、僕は部屋にモネの睡蓮の複製画があるから見に来ないかと言った。僕はその時、母親に絵を譲ったことをすっかり忘れていた。部屋に着いた時にそれを思い出して響に謝った。
「ずるい人」と言って響は僕をベッドに押し倒した。
響の体は予想通り、骨に皮が申し訳ない程度にくっついているというような有様で、乳房はむしろ僕の方があるのではないかと思うくらいだった。しかし、春那も理恵も比べ物にならないくらいの快感を彼女はその貧相な体の中に隠し持っていた。僕の腹の上で響が腰をくねらせている時、その軽さに僕は驚いた。あるべき人間の重さがそこにはなかった。だが、数を重ねていくうちにそれが当たり前になり、むしろ重量の欠如がその行為に必要不可欠な要素だと思うようになった。
響の体にはところどころにアトピーの跡があり、それとは別に少量の青い絵の具が必ずどこかに付着していた。彼女は青い絵しか描かないのだと言った。美大のそばに画材屋があるのだが、青の絵の具の売り上げの七割は自分が占めていると誇らしげに言った。
「でも、裸で絵を描いてるわけじゃないんだろう?」と僕は尋ねた。「なんで体に絵の具がいつも付いてるんだ?」
「いつの間にか入り込んでいるものなの」と彼女は言った。「ユビキタス」
響は自信たっぷりに言い放った。僕は唸った。
そうして僕は十月に二十五歳のアーチを無事にくぐりぬけた。僕の恋もいい加減落ち着くべきところ――つまりは体の相性ということになるのだろうが――に落ち着いたような気がした。僕は幸せだったし、彼女もそのようだった。僕たちは子供が欲しいねとか、結婚って大変なのかなとまで口走るようになった。
僕と響はある金曜日の夜に映画館へ行った。レイトショーでルイ・マルの懐古上映があると響が大学で聞きつけ、割引券を入手したのだ。僕は仕事を片付けて同僚と軽く飲んだ後、スーツのまま響が待っている映画館へ向かった。僕と響は売店でポップコーンを一つとLサイズのコーラを二つ買って、シアターの真ん中あたりに並んで座った。人はまばらだった。
僕はその映画を既にDVDで観ていたが、何度観ても素晴らしいと思える映画だった。ジャンヌ・モローの顔がスクリーン一杯に映し出されて、マイルス・デイヴィスのくたびれたトランペットが聞こえると僕はもうため息をついてしまった。響は僕の右隣に座ってポップコーンをつまんでいた。
しばらく台詞と音楽のないシーンが続き、モーリス・ロネが実に穏やかに社長を射殺したあとで、僕の左の方でことんという音がした。僕の隣の隣――響とは反対側――の席に誰かが座ったのだ。僕はその遅れて来た人に、「あなたは一番良いシーンを見逃してしまいましたよ」と言ってやりたかった。そして席に着いた哀れな人物の横顔をちらりと見たのだが、それは春那だった。
見間違うはずがなかった。髪型も体型も付き合っていた時のままだ。ただ一つ違うところは、彼女が眼鏡を掛けているということだった。何の変哲もない薄いフレームの眼鏡だった。それは僕が初めて見る春那の姿だった。
引き波のようにまず僕の体温がどこかへと退き、その埋め合わせとでも言うように鼓動がテンポを急速に上げていった。春那はコーラもポップコーンも持っておらず、上着を膝の上で丸めてスクリーンをじっと見つめていた。なぜ彼女がルイ・マルの映画を観に来ているのだろう? 何故眼鏡を掛けているのだろう? 何故ひとりなのだろう? そして何故僕の隣に座っているのだろう? 様々な疑問が矢継ぎ早に頭の中に浮かんだが、白い光に照らされた彼女の横顔を見ているうちに、そんな疑問さえ消え失せてしまうくらい心がかき乱されてくるのが解った。春那はやはり彫像のように美しかった。
心の中の天秤が久しぶりに姿を現すのを感じた。それは不安定だった。右の皿には響が載っていて、左の皿には春那がいた。響は僕のすぐ隣に居て、春那はひとつの座席を挟んだ反対側に居た。春那と響の重さは同じくらいだったと僕は思う。しかし、てこの原理で、天秤の銀の皿は春那の方に傾いてしまったのだ。バランスを失った天秤が音を立てて崩れていくのを感じた。それは理性の天秤などではなかった。そもそも理性と感情を切り離すという考え自体が僕には不向きだったのだ。天秤は僕の心の中から永遠に失われてしまった。
スクリーンの中のジャンヌ・モローはバーを出て、何かを呟きながら夜のパリを彷徨っているところだった。マイルスのトランペットは相変わらず皺の寄ったジャケットみたいにくたびれていた。そしてジャンヌ・モローもかつての僕と同じように、恋人の姿を捜し求め、見間違って落胆していた。
僕は腰を上げて響の前を通って外に出た。僕は鞄を置きっ放しにしていたから、響はきっと僕がトイレにでも行ったと思っただろう。
映画館の外に出ると、夜風が吹いていて、たぶんパリと同じくらい冷たかった。僕の口をついて出てきたのは「主の祈り」だった。もしかするとジャンヌ・モローが呟いていたのもフランス語の「主の祈り」だったのかもしれない。
何時間くらい歩いていたのか解らないが、僕はステンレス・スチールの教会に辿り着いた。僕は礼拝堂ではなく、塔に向かった。礼拝堂の中には誰かが居るという根拠のない確信があったからだ。
塔の扉を開けてみると、ただ壁沿いに螺旋階段があるだけだった。一段目に足を掛けると、冷たい音が反響して上へ抜けていった。僕は一段ずつ、「主の祈り」を唱えながら、ひとつの音が響き終わるのを待ってから次の段に足を置いた。上り終えるのにはかなりの時間を要した。
階段を上り終えるとドアがあった。それを開けると、人ひとりが身を乗り出せるだけのバルコニーがあった。外に出てみると、もう明るくなっていた。そしてそこに出てみて初めて、その塔が何のために作られたのかを知った。
バルコニーから下を見下ろすと、ステンレス・スチールの礼拝堂があった。そしてその形は、上空から見ると、完璧なラテン十字の形になっているのだった。地上から見た時には全く解らなかったことだ。塔の上から見ると、それは巨大な棺に描かれた十字架のようにも見える。
その十字架のずっと向こうでは太陽がじわじわと夜の色を侵食していた。空の色を見て、たぶん午前四時半くらいだろうと見当をつけた。ジョギングをしていた頃によく見た空の表情だった。夜と朝が織り成すピンクとオレンジのグラデーションは、見ようによっては美しいものなのかもしれない。だがその空は僕にもっとグロテスクなものを連想させた。人間の体の内側の色に見えたのだ。舌の裏か、あるいは(男女両方の)性器の色に似ていた。一日の始まりの色にしては刺激の強い色だと思った。
鳥の声が聞こえた。僕はポケットから携帯電話を出し、時刻を確認した。午前四時三十二分だった。着信が十三件入っていて、うち十二件は響で、最後のひとつはアマドゥだった。それまで忘れていたのだが、その日は誘われた方の休日だった。
僕は携帯を閉じ、アーメンと呟き、それから眼鏡を外した。眼鏡を外しても良い三つの場所というルールを僕は初めて破った。そして、巨大な十字架の上に、あるいはグロテスクな空に向けて、眼鏡を放り投げた。あいまいになった視界で見た空は、甘いカクテルの底のような色をしていた。〈了〉
カクテル
【あとがき】
お読みくださってありがとうございました。
自分の見ている視界が怪しいなと思って、そのアイデアを膨らませたものです。
この時読んでいたチェーホフの小説と、新井素子の「チグリスとユーフラテス」に影響を受けています。
自分で書いてなかなか出来がよい気がして、織田作之助青春賞というのに出し、三次選考まで残ったそうです。
個人的には、中盤にあるアマドゥとの釣りのシーンが気に入っています。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。