猿真似

1.香澄のいびつな恋の成り立ちについて

 わたしは人を好きになるとその人のことを何から何まで真似してしまいたいと思うようになるので困る。一体どういう心の働きなのか未だに解らない。けれどもとにかく、鏡に映る自分がその人に見えるように、話している言葉がその人の喉から出てくるように、見ている世界がその人の瞳を通じているようにするためにわたしは色んな努力をしてきたと思う。

 初恋と呼ぶに値するものはたぶん小学六年生の時にやってきた。好きになったのはクラスで一番足の速い男の子だった。彼はわたしの家の隣に住んでいて、幼稚園からずっと一緒に上がってきた子だった。足が速いのと、女の子の名前を「さん」付けで呼ぶという小学生男子にしては比較的特殊な振る舞いのせいで、彼はクラスの女子にちょっとした人気があって、それに気が付いたわたしは知らず知らずのうちに彼を独占したいと思うようになったらしい。高校三年生になった今から見れば、とても道理にかなった恋のように思える。それまでは特に意識しない幼馴染で、少し手を伸ばせばそこにいるという印象があった彼なのだけれど、周りが欲しがりはじめると自分だけのものにしたくなる。簡単な話だ。
そしてわたしは放課後毎日、広いグラウンドを彼と一緒に駆け回っていた。小学生なんて男も女もあんまり体つきが変わらないから、気が付けばわたしは彼と同じくらい速く走られるようになっていた。
 秋の過ぎたある日のこと、わたしと彼はジャングルジムの上で足をぶらぶらさせながら暮れなずむ空を見ていた。放課後のグラウンドには半そで半ズボンでドッジボールやら大縄やらに興じている同級生の姿があった。わたしは息を切らせて彼を追いかけて、とうとうジャングルジムの上まで追い詰めたのだった。わたしたちは西の空に沈んでいく火の玉みたいな太陽と、それに染められた弱々しいオレンジ色の雲をただ眺めていた。言葉はなかったけれど、秋の複雑な空気の匂いのせいで、密度のある時間が流れていた。
「種田さんってさ、女の子なのに、こんなに足が太いんだ」
 出し抜けに彼がそう言って、こんがりと日に焼けた質の良い丸太みたいなわたしの太ももを掴んだ。その時わたしの中で決定的な何かが弾けとんだ。わたしは太ももに固定された彼のいやに大きな手を振り払って、ところどころペンキの剥がれたジャングルジムをさっさと降りた。そしてあいまいな色に染まった空を睨んで眼に焼き付けた。彼の何気ない言葉がわたしの胸に刺さったままだった。空の色を全部塗り替えてしまいたくなるぐらい、悲しい気分だった。そんな風にしてわたしの初恋はあっさりと終わってしまった。
 
 高校受験のために通っていた個別指導型の塾の先生を好きになったのは中学二年生の時だ。その時わたしはいかにも神経質そうな縁の細い眼鏡をかけていて、見かけの予想通り神経質な中学生だった。わたしが好意を抱いていた先生は大学生で、少しぽっちゃりしていて、テレビで時々目にする酔っ払ったイギリス人みたいに、いつも白い肌が少し赤く染まっていた。わたしがいつまで経っても二次方程式の解の公式や国会と内閣の役割の違いを覚えてこなくても、その先生はにっこりと笑って優しく教えてくれるのだった。クラスの野蛮な男子たちとは違うそんな優しさにわたしはどきっとしていたのかもしれない。そして彼はごつごつした黒いフレームの四角い眼鏡をかけていた。
 ある日曜日にわたしは街の一番安い眼鏡屋さんに行って、お小遣いをはたいて太くて黒いフレームの眼鏡を買った。鏡に映った自分はお世辞にもかわいくなかった。どう考えてもわたしの顔に不釣合いな眼鏡だった。絵本に出てくる意地汚いキツネの目みたいに悲しげな瞳に、ぱっつんにした前髪、なぜかお肉の付かない鋭角のアゴに薄い唇。どう控えめに見ても似合わない。こういう眼鏡はもっと、眼がくりくりとした女の子がかけて初めて似合うといえるものだ。でも、鏡の前に立ったわたしは少し恍惚としていた。だって、これで少し先生に近づけたんだから。
 その眼鏡をかけるだけでドキドキした。先生もこんな風に四角く黒い縁で切り取られた世界を眺めているんだと思うと、わたしは得意になった。クラスの友達はその眼鏡を変だと笑ったけれど、どちらかといえば好意的に迎えてくれた。ねえ香澄、どうしたの、そんな眼鏡かけて、お笑い芸人にでもなるつもり、なんて。それでわたしは少しだけ自信をつけて塾に向かった。
「あれ、種田さん、どうしたの? イメチェン?」
 先生はそんな風に言って笑って、いつも通りに授業をした。でも次の週から先生はコンタクトレンズに変えてしまった。理由はもちろんわたしには解らない。でもわたしはそれで二番目の恋を終わらせることに同意した。あの眼鏡はわたしの机の引き出しの奥に仕舞ってある。

 無事に高校生になってはじめて恋人というものができた。その頃のわたしは時代錯誤と言ってもいいくらい古くなった椎名林檎の最初の二つのアルバムを擦り切れるほどに聴きこんでいた。既に東京事変のヴォーカルとして椎名林檎が女子高生の間では定着し切っている時だった。わたしは東京事変を聴かずに、椎名林檎ばかり聴いていた。髪を短くして、コンタクトレンズをつけて、付けボクロを上唇の横につけるかどうか真剣に悩んでいた。
 記念すべき最初の恋人は同じクラスの演劇部の男だった。なぜ彼がわたしを見出したのか未だに解らない。ある日、演劇の公演のチケットがわたしの靴箱に入っていた。チケットと一緒に、彼の名前入りの「もし気分が悪くなければ来てください」という控えめな招待状が同封されていた。いつも同じ教室で顔を合わせているのに、直接ではなく間接的にチケットを渡してきたということに何故か感動してしまった。
 日曜日にひとりで劇を観にいったが、椎名林檎に毒された高校一年生のわたしの脳みそにはいささか退屈な内容だった。「剣と盾」というタイトルのその演劇は、第二次世界大戦中にナチスに占領されたフランスの物語だった。登場人物が政治家ばかりのせいで、戦争のわりには誰も死なないし、台詞は何だか難しくて、一体何を表現したい劇なのか最後まで理解できなかった。でも、舞台の上でフランス人外交官を演じている彼はなかなか素敵に見えた。
 次の日、六時間目が終わったあと、わたしはそれとなくみんなが出て行ったあとの教室に残った。彼も同じようにして教室にとどまっていた。こうしてわたしたちは二人きりになった。
「劇のチケット、ありがとう。良かったよ。あの、衣装とか、すごいね。全部自分たちでつくるの?」わたしは適当な感想を述べた。
「ありがとう。来てくれるって、思ってなかったから……」彼は顔を赤らめて、伏し目がちにそう言った。そういう彼の控えめなところが気に入ったので、わたしはその日からときどき彼と一緒に帰ってみることにした。
 クラスの中で目立たない存在であることはわたしと彼に共通していることだった。わたしは部活さえやっていなかったので、どこまでも無個性な生徒だと周りから思われていたことだろう。でも彼は違った。彼には人に知られず熱中しているものがあった。それは読書だった。
「いろんな本を読んでるとね、自分の知っている世界がどれだけ狭いか解る。それに、世界が本当はとても広いということも」
 満足げな表情を浮かべて、開いた分厚い本のページの香りを思い切り吸い込む彼の横顔をわたしはよく覚えている。わたしはいつの間にか彼のことが好きになっていた。感心してしまったのだ。わたしは本なんてロクに読んだことがなかったから。
 当然わたしは文学少女を気取ることになる。彼が心酔していたフランス文学を片っ端から読んでいった。「トリスタン・イズー物語」から始まり、彼のガイドに従って、フローベール、ラクロ、ラディゲなどなど読んできて、「失われた時を求めて」に取り掛かったのは一年生が終わりに近づいた頃だった。
 雪の降るバレンタインの日に、かばんの中に手作りのチョコレートを忍ばせたわたしは、演劇部の練習部屋の近くで彼を待ち伏せした。この日は夕方に駅で彼と待ち合わせをしていたのだが、彼を驚かせようと思って、練習部屋である化学実験室の近くまで来たのだった。実験室の横にある女子トイレからこっそりと部屋のドアを見ていた。今思えば、素直に約束に従っておけば良かったのだ。
 実験室からぱらぱらと部員たちが出てきて、わたしはまだかなまだかなと寒いトイレの手洗い場で待っていた。まとまった数の生徒たちがもう出てきたのに、彼はまだ出てこない。待ちきれなくなったわたしは実験室のドアノブをゆっくりと回した。
 黒い遮光カーテンに覆われた真っ暗な部屋の中には、実験室特有の鼻につく匂いが漂っていた。カーテンの隙間から漏れた光が、重なる二つの薄い影を一瞬映し出した。わたしがドアの横にある電気のスイッチに手を伸ばしたとき、その二つの影は音を立てずに離れた。
 ぶうんという低い音の後に部屋の明かりがぱちぱちと点くと、そこにはズボンのベルトを慌てた手つきで締めようとしている彼と、やたら胸の大きい上半身だけ下着姿の女がいた。
「どういうこと?」わたしはつぶやいた。
「か、香澄、どうしたの? ああ、この人、先輩なんだ。違うんだよ、これは」彼のベルトはカチャカチャと音を立てていたが、なかなか締まってくれないらしかった。
「どういうこと?」もう一度そう言ったわたしの声は少しだけ震えていた。
 女は床に落ちた制服のブラウスを拾って、「さむっ」とだけ言って小さなくしゃみをした。彼女は悪びれもせずに窓を覆う遮光カーテンの方を向いていた。
 状況をそれなりに理解したつもりでいたわたしは何が何だか解らなくなって、かばんの中から丁寧に包装したチョコレートの箱を取り出し、彼に投げつけた。力なく彼の足元に落ちた赤色の箱は形を歪めていた。
 彼は箱を拾って、埃を払うように撫でて、箱の形を整えた。
「……解ってくれるだろう? 君が思っているようなことは、何も」
「何が?」わたしの体は小刻みに震えていた。「何も言ってないし、何も説明してくれてないじゃない」
「君だってラディゲを読んだんじゃないか」彼は毅然としてそう言った。
「何のこと?」ラディゲ、という名前が出たことにわたしは少し驚いた。
「つまり、そうだな。愛というものは、肉体の欲求とは別に成り立つものであってね……僕はつまり……ああ、とにかく、何でもないんだこれは」
 そこまで聞いて、わたしはかばんの中から図書館で借りてきた「失われた時を求めて」第一巻を取り出して彼に向かって思い切り投げつけた。今度はきちんと彼の額にヒットした。ハードカバーの本がばさりと落ちる音と、彼が床に崩れ落ちる音を背中で聞いて、わたしは化学実験室を出て行った。雪の降る道を何度も滑って転んで、わたしは泣きながら帰った。家に帰って、本棚にずらりと並んだフランスの小説を全部床にぶちまけた。結局わたしにはフランス文学など解らなかった。少し考え直して、散らばった本の中からサン・テグジュぺリが書いた数冊だけ棚に戻して、他は全部次の日にブックオフで売ってしまった。

 それからしばらく恋愛と関係ない日常を過ごしていたわたしだが、椎名林檎風に切った短い髪が昔のぱっつんセミロングに戻せるくらいまで伸びた三年生の春に、わたしはまた新しい真似の対象を見つけることになった。

2.ポール・クレストンと窓際の少女

 音楽室に誰もいなくなったあとで、僕は広い部屋の真ん中に椅子を置いて、そこに座る。譜面台は要らない。楽譜も要らない。それは全て僕の頭の中に叩き込まれている。
 楽器を構えて、眼を閉じて、呼吸を止めて、耳を澄ませる。そして、深く息を吸い込む。一度吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。もう一度それを繰り返す。全身が研ぎ澄まされたあとで、短く鋭く息を吸って、眼を開けると同時に最初の音符を導き出す。
 ポール・クレストンのサキソフォン・ソナタだ。僕は一年くらいずっとこの曲ばかり練習している。一九三九年にアメリカ人の作曲家が書いたこのアルト・サキソフォンのための作品は、どこか性的な魅力を持った音楽だ。With Vigorというシンプルな英語の指示だけが添えられた一楽章を僕は特に気に入っている。何か、背徳的な喜びのために逃げ出すような、そんな始まり方をする曲だ。僕はいつも、体験したことの無い架空のパーティー会場を思い浮かべる。照明に反射するアクセサリーが放つ煌き、金色のシャンパンの泡、きつい香水がいくつも折り重なった匂い、そんな場所から、とびきり美しい女の手を引いて、こっそりと逃げ出すような、そういう雰囲気だ。指の先の末梢神経と呼吸のための器官に休み無く指令を送り続けている僕の脳の裏側では、まるでサブリミナルの広告みたいにしてこういうイメージが挿入され続ける。四分間吹ききったあとで、僕はいつの間にか立ち上がっていて、汗さえかいていることに気付く。そしてここが平凡な高校の平凡な音楽室のど真ん中であることに気が付く。僕はサキソフォンを吹くことで、短い時間だけ異世界へと旅立つことができる。
 僕にはつまらない毎日が待っている。何も起こらない日常。平和な世界。退屈な勉強。先の見えた未来。向上心の無い吹奏楽部は五時くらいに練習を終えてしまう。家に帰ったらくだらないテレビ番組と、それと同じぐらいどうしようもない家族の会話。インターネットだって似たようなものだ。二十四時間三百六十五日、その画期的な技術は僕をデジタルの世界に縛り付けている。
 そんな僕が、一時だけ現実を忘れて、身も心もゆだねられる世界は、もう音楽の中にしか残っていない。僕はとても渇いている。いつも新しい音楽を求めている。渇いているからこそ、潤うことが出来る。今は、ポール・クレストンの音楽がとろりとした甘い液体で僕を完全に満たしてくれる。僕はもう死んでしまったそのアメリカ人の音楽の世界にすべてを預けてしまう。そしてポール・クレストンは僕をとてつもない快楽へと導いてくれる。演奏を終えたあと、僕はいつも喜びに打ち震えている。頭のてっぺんからつま先まで炎に包まれている。全身が溶けてしまいそうになる。
 そんな風に純度の高い僕の自己満足の時間に、時折不純物が混ざっている。それは視線だ。演奏を終えて最高に満足している僕の領域に、誰かの視線を感じることがある。僕は窓の外を見やるが、誰もいない。でも、確かに誰かに見られていたという不快感が、僕の体の一部分にべっとりと張り付いている。
 三年生になった春から、時々そういう視線を感じるようになった。音楽室は一階にあって、東の校舎を使っている三年生が帰宅するときには前を通るような形になっているので、帰りが遅くなった生徒が窓の外から見ていてもおかしくはない。だが吹奏楽部の帰ってしまった五時過ぎには、あまり東の校舎に生徒はいないはずだ。だいたい僕自身が、誰もいなくなったような時間を見計らってこの個人練習を開始しているわけだから。

 一学期も終わりに近づいた雨の降っているある日、僕はその視線の正体を知ることになる。いつも通りポール・クレストンのソナタを練習しようと思った僕は、椅子に座って、楽器を構えたあと、ちょっと思いついたことがあった。
 演奏をしている途中で急に外を見たらどうなる?
 演奏中、外を見るような余裕は僕にはない。僕の意識は完全に音楽と融合している。誰かがそれを見て、演奏が終わるとすぐに立ち去っているとしたら? 微妙な仮定だったが、もしそうだとしたら、あまり気分の良いものではない。自分の究極の自己満足を見られているわけだから。カーテンを閉められたらいいのにといつも思っているが、電動式のカーテンは教員でないと動かせない。
 僕は不安を取り除くためにも、もし誰かが見ているとしたら、その人を引っ掛けてやろうと思った。演奏を急に止めて窓の外を見るのだ。誰もいなければ、僕の取り越し苦労に過ぎなかったということで、安心して練習すればいい。
 そのような実験にポール・クレストンの音楽を使うのは気が引けたので、僕は代わりにロジェ・ブトリのディヴェルティメントを演奏し始めた。これも同じくらいすばらしい曲で、一年生の時にはロジェ・ブトリ信者だった僕だが、ポール・クレストンに鞍替えした今、その価値は相対的に下がっている。僕は真剣に吹いているふりをした。楽譜は完全に頭に入っているので、眠っていても演奏できるくらいだ。
 しばらく吹いた後で、突然演奏をぴたりと止めて、窓の外を見た。すると、そこには黄色の傘を差した誰かがいた。窓の向こう、少し距離はあるみたいだ。窓のそばに植えられたアジサイの向こうに、黄色い傘と、制服を着た生徒の姿がある。傘のせいで顔は見えないし、足元はアジサイに隠れて見えない。でも、ブラウスの胸元には赤くて細いリボンが結ばれているから、女子だということは一目で解った。
 僕は首にかけたストラップから楽器を外して、椅子の上に置いた。そして窓のほうへ歩いていった。すると、その黄色い傘の少女も気が付いたらしく、驚いて立ち去ろうとした。でも僕が近づいたせいで、アジサイの向こうの彼女の顔が一瞬だけ見えた。彼女は踵を返して、泥を跳ねながら校門の方へと走っていった。
 見たことがある女子だった。一度もクラスが同じになったことはないけれど、顔は何となく覚えている。三年生であることは間違いない。でも、誰かまでは解らない。名前も知らない。
 彼女が僕のことをずっと見ていた人間なのだろうか? それともたまたま今日だけ覗いていたのだろうか? あるいは見ごろになったアジサイでも眺めていたのだろうか? 答えは解らなかった。僕は溜息を吐いて、その日はポール・クレストンを演奏することなく、楽器をケースに仕舞うことにした。

3.香澄の新しい恋について

 三年生になって教室が西校舎から東校舎になった。教室の窓からの景色にまだ慣れていない四月のある放課後、わたしは図書館に行こうとした。石田純一気取りの最初の恋人がわたしにもたらしたのは読書という新しい趣味だった。モスバーガーでのアルバイトがある日を別にすれば、わたしは大抵放課後を図書館で過ごす。図書館にはだいたい誰もいないから、ゆっくり本を読むのにはちょうど良い。
 東校舎と西校舎の間に建っている図書館は閉まっていた。閉館の立て札の向こうをのぞいてみると、まだ真っ黒な頭の生徒たちの姿が見えた。そういえばわたしも一年生の時に、図書館にある検索システムの使い方とか、閉架資料の請求方法とかを習った。わたしのかばんの中には駅前の本屋で買ったアゴタ・クリストフの「悪童日記」が入っていたので、教室に戻ってそれを読むことにした。
 二階にある放課後の教室には当然誰もいなくて、わたしは窓際の自分の席に座って本を読み始めた。それは双子の兄弟の話だった。一人っ子のわたしには、双子であるということでどういう気分がするものなのかまったく想像がつかない。顔や体つきはきっと似ているのだろう。もしかしたら、声や性格も似ているのかもしれない。少なくともこの本に出てくる二人の子供の双子は、とてもよく似ているようだった。
 肌を優しく撫でるような春の陽射しがあまりに気持ちよかったので、わたしは眠ってしまっていたらしい。気が付いて目覚めたときにはもう肌寒くなっていた。腕時計を見たら五時を回っていた。帰っても良いくらいの時間だった。
 本を閉じて、階段を降りると、音楽室の方から何やら妖しげなメロディーが聴こえてきた。スピードの速い曲で、よく解らないがとても難しそうな曲だった。わたしは音楽室の前まで行ってみたが、すりガラスになっている音楽室のドアの窓からは、中に誰がいるのか解らない。
 吹奏楽部かなとわたしは思った。本を読んでいる途中、気の抜けた音楽が下の階からうっすらと聴こえていた。でも、わたしの今すぐそばにある音楽は、とても張り詰めた、聴いていて苦しくなるような演奏だった。それに、音の線はひとつしか聴こえてこない。一体誰が吹いているのだろう? わたしはその危険な香りのする音楽に興味を持った。
 建物から出て、外から音楽室を見てみることにした。中庭に面している音楽室の窓は普通の透明なガラスだからだ。電気も点いていない音楽室の真ん中に、立ち上がって、悶えるようにして金色の楽器を吹いている誰かの姿があった。香港の映画俳優みたいに黒髪を短く刈った少年だった。
 わたしは彼の演奏している姿をじっと見つめていた。わたし自身は楽器に触ったこともロクにないのだが、演奏している人間を見たことはある。でも、その彼は、今まで見てきたどんな音楽家とも違っていた。神がかっていると言えば言い過ぎかもしれない。でも、本当にそんな感じがした。彼のいる音楽室だけが、この世界に取り残された空間のように思えた。メロディーははっきりとは聞き取れないけれど、彼は何かの儀式を執り行うシャーマンのように見えた。あるいは、見たこともない新しい動物のように。奇妙に小刻みに体をくねらせて、彼は演奏に没頭していた。
 演奏が終わると、彼はとても満足した表情で伸びをした。幸せそうな顔だった。どうもわたしは男性のそういう顔に弱いらしい。安心しきっている表情。満足しきっている表情。演劇部の彼が新しい本を開くときもあんな表情だった。
 真似、したいな。
 あんな風な顔をしてみたいな。
 わたしは家に帰ってすぐに、彼の表情を思い出して、鏡の前で自分もあの表情を作ってみた。ひと仕事終えました、っていう顔。とても気持ち良さそうな顔。何回か繰り返してみて、急に恥ずかしくなった。そしてどうやら彼のことを好きになったらしいことに気が付いた。
 名前も知らない、喋ったこともない人を好きになるというのはどういう心の働きか解らない。でも、真似をしたい、あんな風になりたいと思うということは、わたしにとっては恋に落ちたということと同じ意味なのだった。わたしはアルバイトのない日、五時過ぎになったら、彼の演奏後の充足した表情を見るためだけにこっそり音楽室を外から眺めた。
 何度見ても素敵な表情だった。どうやったらあんな顔が出来るのだろう? わたしは色々と研究してみた。美味しいものを食べた時、アルバイトのいまいましい残業が終わった時、とても気持ちよく目覚められた時、わたしはその都度密かに鏡を見てみて、自分の顔もあんな風になってないか確かめてみた。でも駄目だった。どれもまあまあいい線まで行ってるけれど、何かが足りない。まるで自分の目の前に天国がやってきたみたいな表情。

 真似したいと思う。でもできないから気になる。そんな風にしてストーカーまがいの観察を二ヶ月ほど続けていたある雨の日に、わたしはどうやら彼に気付かれたらしいのである。いつもみたいにわたしは演奏している彼を眺めていたのに、彼が急に演奏を止めてこっちに向かってきたのだ。わたしは急いで逃げた。
 校門まで逃げて、心臓がバクバクしているのは、たぶん急に走ったせいだけではないなと思った。彼と眼が合ってしまったのだ。一瞬のことだったけれど、確かに眼と眼が合った。彼は不思議そうな顔をしていた。どう思っているのだろう? たまたま演奏を止めて雨の具合でも確かめようとしたのかしら? それともアジサイの陰に蛙でも見つけたのだろうか? いずれにせよ、眼が合ってしまった。彼がわたしのことをそもそも知っているのかどうか、それすら解らないけれど、とにかくわたしの顔は見られただろう。
 家に帰って、雨で濡れた髪を乾かしながら、わたしは鏡に映った自分の顔を見た。雨のせいで冷えた外から蒸し暑い部屋の中に帰ってきて、ほんの少し火照った頬。わたしは眼を閉じて、彼と眼が合った瞬間のことを思い出してみた。わたしの頬の筋肉は自然と緩んで笑顔を作った。鏡を見ることはできなかったが、瞼の裏に映ったわたしの顔は、彼の表情にまた一歩近づく。

4.ブルガリ・プールオムとつるつるした肌の女

 僕の退屈な日常を構成する一つの部分として、恋人の存在が挙げられる。付き合い始めたのは高校一年生の十月くらいだったから、もう一年半以上関係が続いている。彼女は僕より二つ年上で、今は大学生だ。
 彼女が高校三年生で、僕が高校一年生だったとき。彼女を好きになったのは間違いなく僕のほうだった。吹奏楽部でトロンボーンを吹いていて副部長でもあった彼女は、顔がにきびだらけだったけれど、とても愛嬌のある顔で笑った。僕はそんな彼女の自然な笑顔や、「姉さん」と周りから呼ばれるくらいはきはきした性格に心惹かれていた。
 それほど仲が良かったわけではなく、ただの先輩後輩で、時々言葉を交わすくらいだった。でも、夏のコンクールのあと、帰りの電車で一緒になって、僕と彼女は同じ駅で降りた。最寄り駅が一緒だった。
「神野くん、ちょっと座らない?」
 彼女はそう言って、駅のホームのベンチに座った。僕は彼女の隣に座った。
「コンクール、残念でしたね」
 僕は彼女にそんな言葉をかけた。吹奏楽部はコンクールで上の大会に行くことができなかった。この頃の僕はわりと真面目に吹奏楽に打ち込んでいて、コンクールでも上の大会に行きたいなどと願っていた。今では自分のサキソフォンの技術を高めることにしか興味がない。
「そうだね、みんな頑張ったのにね。なんだか、疲れちゃったね」
 そう言うと彼女は、大きな溜息を吐いて、虚ろな眼で夜空を見上げた。明かりの寂しい駅のホームからは、新月の夜空に輝く夏の星々がはっきりと見えた。
 僕も彼女の視線を追って星を眺めていた。時間がゆっくりと流れていた。星が鳴く声が聴こえてくるのではないかと思えるくらい、夜のホームは静かだった。
「あ……」
 そう彼女が声を漏らして、空を指差した。
「流れ星……」
 僕はまた空に視線を戻したが、流れ星らしきものは見当たらなかった。
「ホントですか? 見逃しちゃったみたいです」
「ホントよ。確かに今、スーって。月がないから、はっきり見えるのかもね」
 そうして僕たちはまたしばらく夜空を見上げていた。ふと彼女の横顔を見ると、彼女は泣いていた。
 色を失った眼から、一筋の涙が彼女の頬を伝っていた。口を開けたまま、彼女はただぼおっとしていた。
「姉さん、どうしたんですか?」僕はあわててそんなことを口走った。
 そうすると彼女は我に返って、僕の方を向いた。彼女の潤んだ瞳と僕の不安げな視線がぶつかった。その一瞬、僕は胸が締め付けられたような気分になった。いや、心臓を鷲づかみにされたと言ってもいいだろう。唐突に彼女が治らない病気にかかってしまったような印象を持った。そんな彼女の表情は今まで見たことがなかった。愛おしいという気持ちになったといっても良い。ほんの一瞬の出来事だった。
「ごめん、あたし、何泣いてんだろ、おかしいね」
 彼女は濡れた睫を拳で拭って、すぐにアハハと笑ってかばんの中から手鏡を出した。
「姉さん……」僕は何を言えば良いのか解らなかった。ただ自分の体温が上がっていくことを感じた。
 彼女は鏡で自分の瞳を点検しながら言った。
「ごめんね。何か疲れちゃって。あー終わったなって感じで。ごめんね、何でもないからね」
 僕は色々なことを想像した。一体何が彼女の涙を誘ったのか? 副部長という立場? 最後のコンクールで上に上がれなかった悔しさ? 僕にははっきりとは解らなかったし、それを訊くというようなことも無粋なことであるように思われた。
「俺、よくわかんないですけど。でも、もし何かあったら言ってください。き、聞きますから」
 僕に言えたのはその程度の言葉だった。彼女は手鏡をかばんに戻して、僕に向き合ってこう言った。
「ありがとう。でも、本当に何でもないのよ。時々こういうことがあるだけ。さ、帰りましょう」
 僕が彼女に本当に惚れたのはたぶんこの時だったように思う。

 それから僕は吹奏楽のコンサートに彼女を誘うようになって、二人でよく出かけるようになった。コンサートのあとに食事をするようになったり、お茶を飲んだりするようになって、ある秋の日の別れ際、駅の改札で僕は彼女に告白した。
 心臓が張り裂けそうだった。鼓動がきちんと聞こえたのも覚えている。今思えば馬鹿らしいなと思わなくもないが、誰だって初めて恋人が出来るときにはそういう経験をしているものだろう。
「いいよ。神野くん。もし、あたしみたいので良かったら、よろしくお願いします?」

 僕たちは秘密を楽しんだ。練習の後にわざと学校から遠い場所で待ち合わせをして一緒に帰ったり、昼休みに彼女が鍵を持っている部室で会って一緒に昼ごはんを食べたりしていた。
 冬がやってきたある日曜日の午後、僕たちは映画を観て夕食を食べたあとに、大きな河のそばにある河川公園にいた。芝生になっている堤防の、公園の敷地に続く階段に手をつないで二人で腰掛けていた。はっきり言ってとても寒かったが、まだ帰りたくなかった。ただそれだけの理由で僕たちはそこに留まっていた。
 僕は思い立って彼女の頬にキスをした。何故そんなことをしたのか未だに解らないが、たぶん、会話が途切れたからだろう。ぶつぶつしたにきびの感触が僕の唇に伝わってきた。
 そうしてキスをした後、彼女は僕に横顔を見せたまましばらく黙っていたが、正面に向き直って毅然とした口調でこう言った。
「口も、しなくていいの?」
 興奮で爆発しそうになった頭を何とか冷静に保って、震える僕は彼女の唇にゆっくりと自分の唇を重ねた。今でも僕が彼女とキスをするたびにどぶみたいな河の匂いが蘇るのは、この経験に基づく条件反射だと僕は分析する。

 彼女にとっての最後のコンサートが迫った三月の夜に、誰もいない暗い部室で僕は彼女を抱いていた。「忘れ物をした」と僕は嘘をついて、鍵を持っている彼女に頼んで部室へと誘ったのだ。コンクリートの床に父親から貰ったお下がりのダッフルコートを敷いて、その上に僕は彼女を押し倒した。
 だめだよと抵抗する彼女の頭を掌で撫でて、おでこから順番に、にきびをなぞるようにして彼女の唇を除いてキスを滑らせていった。そのうちに彼女は抵抗しなくなり、早く唇を、とせがむようになった。僕はこの女を征服している。そんな風な支配感を僕は楽しんで、あえて唇を避けて、彼女の首や鎖骨を舐めた。
 彼女が指をしゃぶってくれと言うので僕は素直に従って、フライドチキンを食べ終わった子供がいつまでも骨をくわえている時みたいに、あえて下品な音を立てて十本の指を順番に口に含んでいった。すると、彼女の手首からふわりと香水らしい匂いがした。
「これ、香水つけてるの?」
 押し倒された彼女の上気した顔に向かって僕は尋ねた。
「うん。ブルガリの香水。男ものなんだけど、匂いが好きだから……」
 僕は彼女の手首を自分の鼻に押し当てて、思い切りその香りを吸い込んだ。ほのかに柑橘系の甘さがあるけれど、どこか明晰な芯を持ったダークな香りだった。確かに男性的な香りなのかもしれない。
 匂いを味わったあとの手首を優しく噛むと、彼女は高い声を上げて喜んだ。そうして僕はようやく彼女の望むキスを与えてやった。息を止めて長く唇を重ねて、離して、そのあとはお互いの奥歯に至るまで舐め尽くした。僕はセーターの上から彼女の薄い胸を右手で揉んで、左手でずっと彼女の右耳を撫でたり塞いだり引っ張ったりしていた。
 しばらくそんな風に唾液の交換が行われて、僕はそろそろいいだろうと思って彼女のスカートの中に手を伸ばした。すると、それまで激しく震えていた彼女の体がぴたりと止まった。彼女は眼を瞑ったまま、呼吸を止めていた。
「だめ、そこは、まだ……」
 僕は少しがっかりしたが、まあこんな場所だしそうだよな、と納得してまた彼女の唇を噛むことに専念しはじめた。

 彼女が高校を卒業して、僕が二年生になったあとのゴールデンウィークに、彼女が僕の家にやってきた。大学生になった彼女はきちんとした化粧をして、少し変わったなという印象があった。僕はより彼女のことを強く求めるようになっていった。それは、大学に山程いるであろう獣のような年上の男たちに彼女を奪われはしないかという恐怖の裏返しでもあった。
 僕のベッドの上で、僕は彼女の服も下着もアクセサリーも全部剥いだ。彼女の顔はもうつるつるになっていた。いつの間にかあのにきびは全くなくなってしまっていたのだ。
 彼女に馬乗りになった僕は訊いてみた。
「にきびなくなったんだね。いつの間にか」
 そう言うと彼女は僕の頬に手を回して言った。
「それは、透のおかげ。いっぱいキスしてくれたから」
 そうして僕たちは初めて交わった。ひとつになった瞬間、彼女が涙を流していることに気が付いた。
「なんで泣いてるの? 痛いの?」背中にびっしりと汗をかいた僕は心配でそう尋ねた。
「ううん、嬉しいのよ……」

 どうもあの最初のセックスが僕にとっての頂点だったらしい。それ以降、僕と彼女はほとんど体だけの関係になっていった。「体だけの関係」と言うと、どうにも大人のスレた恋愛のように思える節があるが、僕にとっては、むしろ体だけの関係こそが若い恋愛の特徴ではないのかという気がする。クラスの友人と話すといつもこの点で意見が分かれてしまう。今では彼女とデートすらまともにしない。コンサートにももう行かない。食事をして寝るだけだ。
 もしかしたら僕はあのにきびに恋をしていたのではないか? そういう仮説が自分の中にある。なぜだか知らないが、僕の中に確かにあった「好きだ」という感情はもうほとんど消えかかっている。でも、彼女の言うようにもし僕が彼女のにきびを取り去ったとすれば、僕が僕自身で恋愛の炎に水をかけたということになる。
 実に滑稽なことだ、と思いつつ、僕はつるつるした肌の女の誘いの電話に溜息を吐きながら出る。

5.香澄の苦々しい夏休みについて

 わたしは夏休みの半分をアルバイトに、半分を読書と受験勉強に費やすことにした。親は塾に行け、お金も出してあげるからと言うが、わたしにとって塾はやや憎むべき対象なので、塾と名のついたところにできれば足を踏み入れたくもない。稼いだお金で吹ける見込みのないサックスでも買おうかなどと考えているが、きちんとした目的があるわけじゃない。ただ何となく暇だからアルバイトをしているだけだ。
 バイト先のモスバーガーはだいたいが大学生のアルバイトで、高校生はわたしだけだった。
「ねえ香澄ちゃん、もし夏休み暇だったらさあ、今度合コン行ってみない?」
 女子大生の梨花さんがわたしにそう言ったのは、恐ろしく暑い日のシフトが終わって、まかない、というか余りもののモンブランを二人で食べている時だった。
「合コン、ですか?」わたしはおそるおそる訊いてみた。
「そうなのよ。ウチの大学から四人、相手はフツーの会社員みたいなんだけどね。一人行けなくなっちゃったのよ。急に実家に帰んなきゃとか言い出して。今週の土曜なんだけど、どう?」
 合コン、高校生のわたしはもちろんそんなものに行ったことがないし、ちょっと怖い。でも興味が無いわけじゃない。
「でも、その、高校生がいたらまずいんじゃないですか? お酒とか飲むお店なんじゃないですか?」
「あら、そんなの大丈夫よ」
 梨花さんはモンブランをぺろりと平らげてしまったらしい。口元についたクリームをハンカチで拭いながら「そんなこと言ったら、あたしだってまだ十九だし」と言った。
「女子大生のふりしてればいいの。香澄ちゃんちょっと大人っぽいし、ちゃんとしてるから、大丈夫よ」

 そんなわけでわたしは大学生のふりをして合コンに参加することになった。まず夕方に梨花さんの同級生であるお姉さん三人とカフェに集合して、今日の傾向と対策について議論した。なかなか面白いものである。彼女たちは年下のわたしをどうやら歓迎してくれたようだった。トイレで化粧を少し直されて、グッチの香水をひじの内側に吹きかけられて、わたしたちはお店に向かった。どうしようもなく甘ったるい匂いがしたが、香水なんてつけるのは考えてみれば生まれて初めてのことだ。

 わたしはドキドキしながら男性陣の到着を待っていた。あまりがちがちになり過ぎないように、お姉さんたちが時々話しかけてくれたが、そう簡単にリラックスできるものじゃない。わたしたちがお店に入ってしばらくすると男性たちが現れた。
 みんな判で押したように似たような格好をしていた。トナカイだか馬だかの動物のマークが入った派手な色のポロシャツに、シャーベットカラーのハーフパンツ、そして足元は素足にデッキシューズかサンダル。男性ファッションはそれほど詳しくないけれど、いかにも雑誌に載っていそうな夏の格好だと思った。
 お酒については梨花さんから「何頼むって訊かれたら、とりあえずカシオレって言っておきなさい。最初の一口だけがまんして口をつけてね。無理そうなら飲まなくてもいいから」と言われていた。それに従ってわたしはカシオレという飲み物をちびちびと飲んでいたが、何のことはない、ちょっと変な薬みたいな味のするジュースといった感じで、一杯くらいは普通に飲めてしまった。
「香澄ちゃんは、何勉強してるの?」とわたしの向かいに座っていた、デカイ腕時計をしてあごひげを生やした男が訊いてきた。
「フランス文学です」とわたしはカフェでの打ち合わせ通りにきっぱりと答えた。へえ、そりゃすごいな、と男は言ってそれきり何も訊いてこなかった。意外なところで役に立つ知識というものがある。もし追及されても多少まともな返事ができそうな分野をわたしは選んだのだった。
 カシオレを二杯くらい飲んでサラダやピザを食べて、楽しく談笑して何とかその場をやり過ごした。じゃあこのへんでお開き、という時にわたしは財布を出そうとしたが、梨花さんがその手を止めて上手なウインクを寄越した。ああ、そういうものなんだ、とわたしは初めて知った。

 その後の流れについてもきちんとカフェでレクチャーを受けていた。「クラブ」というところに行くらしい。
「香澄ちゃんは、一時会が終わったあとどうする?」と梨花さんが尋ねた。
「あの、クラブ、ってどういうところなんですか?」
「そうね、やかましいところでお酒を飲んで踊る、みたいな感じね」お姉さんの一人が言った。
「踊るんですか?」わたしは目をぱちぱちさせて言った。「わたし、踊れませんけど」
「ううん、踊れなくても大丈夫。もしアレだったら、一次会のあとで帰っても大丈夫だし」梨花さんがそう言う。
「行ってみてもいいと思うよ、面白いし、うまく行けば彼氏できるかも」と別のお姉さんが言った。踊ることでどういう力学が働いて彼氏ができるのか解らなかった。

 酔っていたのもあるだろうけど、わたしはのこのことクラブというところについて行った。入り口で手の甲にスタンプみたいなものを押されたけど、何もあとが残らなかった。
「ブラックライトで照らすと見えるようになるの」と梨花さんが言った。これがチケットの代わりらしい。
 わたしたちは階段を降りてダンスホールに向かった。クラブの中は暗くて、耳の奥まで響いてくるような音量で音楽がかかっていた。薄暗い青い照明の中で、真ん中のあたりでたくさんの男女が音楽に合わせて踊っていて、そのはじに狭いバーカウンターがあった。わたしたちはまずバーの方に向かったのだけれど、最後尾にいたわたしはいつの間にかみんなとはぐれてしまった。人をかきわけてカウンターに着くと、もうみんなはいなくなっていた。
 誰かに呼びかけることもできないくらい大音量の音楽の中で、わたしは不安には襲われなかった。お酒を飲んだときからずっと、血がぐるぐると全身を回っている感じがして心地よかった。頭はふらふらしたけれど、嫌な感じがしなかった。
 わたしはとりあえずカウンターに行ってお酒を注文しようと思った。何になさいますか、と店員が聞いてきたので、わたしはカシオレと答える。するとさっきのお店で飲んだのよりも細いグラスに入ったカシオレが出された。わたしはまた財布を出そうとしたが、女性は無料です、と言われた。何が何だかよく解らない。わたしの常識が通用しない世界というものがあるらしい。
 人が次々に押し寄せてくるカウンターから離れて、あまり光の当たっていない空間にソファがあるのを見つけて、そこに座ってテーブルにカシオレを置いた。そこにいれば音楽も少しだけ遠くに聞こえるようになって、わたしはほっと一息ついた。あんなところにいたら耳がおかしくなりそうだ。
 カシオレに手を伸ばそうとすると、テーブルに置いてあった灰皿に火の点いた煙草があった。わたしは両隣を見て、初めて隣のソファに人が座っていることに気がついた。
 大柄な外国人の男で、スキンヘッドで、白いTシャツを着て首から金色のネックレスをぶら下げている。彼はアイフォンをいじっていて、わたしには関心を寄せていないようだった。わたしは少し驚いたがとりあえずカシオレを一口すすった。
 歌の無い強いリズムだけの音楽。これってたぶん、踊るための音楽なんだろうな。わたしが聴いたことのない種類の音楽だった。そのリズムに合わせて、たくさんの人々がダンスホールの真ん中で統一されていないダンスを踊っていて、わたしにはそのたくさんの影が見えた。
 その曲が終わったあと、次の曲が始まった。落ち着いたピアノの響きで始まる音楽だった。さっきまでのやかましい音楽じゃない。でもよく聴けば、わたしの知っているピアノの音とは少し違って、もっと温かい、でもちょっと金属的な感じのするピアノの音だ。そういう特殊なピアノがあるのかしら。それとも機械で作った音だろうか?
 短い前奏のあとに、切ない女性の声が英語で歌い始める。すごく切ない声。何て言っているのか解らないけれど、ちょっとかすれていて、抱きしめたくなるくらいかわいらしい声。わたしは一瞬でその声の虜になった。
 ピアノの伴奏にリズムを刻む音が加わって、それに合わせてまたダンスホールが静かに舞踏で包まれていく。わたしはその曲の名前を知りたいと思った。でも手がかりがない。そんなわけでわたしは隣に座っていた男に英語で話しかけることにした。
「Hi,excuse me」酔っていた勢いがなかったら、普段はいきなり誰かに話かけることすら躊躇するはずなのに。
「Hi,」彼はスマートフォンの画面から目を上げてわたしの方を少し見た。
「If you know, can you tell me...this music?」
「What's?」
 どうやら彼は聴こえなかったらしく、眉間に皺を寄せて掌を耳の後ろで開いて「聞こえません」のポーズを取った。
 わたしは音楽を示すために、何もない空間を指さして、大きな声を出した。
「Do,you,know, this music? Name, name of this music」わたしの英語ではこのへんが限界だった。
 男はうなずいて、少し腰を上げてわたしに近づいて言ってくれた。
「OK, this is 'Crave You' by Flight Facilities」
「クレイブ、ユー?」
「イエス、クレイブ、ユー」
「サンクス」
「Any time」
 そんな風にわたしと彼の会話は終わってしまった。クレイブ・ユーという曲名と、フライト・ファシリティーズというアーティスト名が解ったのでなかなかわたしの英語も捨てたものではない。
 曲の盛り上がりとともにダンスホールもじわじわと熱くなって来ていた。わたしは歌詞に耳を澄ませた。完全には聞き取れない。でも、きれぎれに意味の解る英語が流れてくる。どうやら女の子の片想いの歌みたいだ。でも歌の中で何度も繰り返し発音されているクレイブという単語の意味が解らなかった。曲の最後の方で、サックスの音がその切ない女性歌手の声に絡み付いてきた時、わたしはぞっとした。

 結局梨花さんたちとは合流できずに、わたしはクラブをあとにして家に帰ることにした。駅に行くまでの途中、線路の下の地下道の中で、わたしは気分が悪くなった。
 さっきまで気分が良かったのに、夜風に当たったら急に気分が悪くなっていた。たぶん酔ったのだろう。初めてにしてはお酒を飲みすぎたのかもしれない。壁にたくさん落書きのしてある地下道の中で、わたしはポシェットの中から小さいペットボトルの水を出して、一口含んだ。少し汚いと思ったけど、壁にもたれて深呼吸をした。
 わたしの頭上を電車が通っていく音がした。わたしは自分の体を点検した。ひじの内側の匂いを嗅いでみた。かすかな甘い香りが残っていた。胸も、お腹も、濃いブルーのタンクトップも黄色いホットパンツも、ウェッジソールのサンダルも何も変わらない。今日一日が始まったときと、何も変わっていない。
 スマートフォンでYoutubeを検索して、クレイブ・ユーのPVを見つける。iPodに繋いでいたイヤホンをスマートフォンに接続して、わたしはフライト・ファシリティーズの音楽を聴く。
 電子的なピアノの音に、切ない女の声。たぶん、相手に届くことのない想いを歌っている。わたしはぐらぐらした視界で地下道を眺める。たくさんの落書き。外から漏れてくる橙色の弱い光。風が運んでくる都会の匂いがわたしの香水と混ざる。わたしは何も変わっていない。でも、わたしの世界は何かが変わってしまったような気がする。

6.ジル・スチュアートと十二月生まれの女

 ある日の夏休みの練習のあと、校門の前には約束どおりに水色のフィアット500が停まっている。マニュアルトランスミッション、左ハンドルのフィアット500。中古でも三百万くらいはすると聞いた。彼女はこの車を歯科医である父親に買ってもらったという。
 僕はいつもみたいに助手席に座ってシートベルトを締める。色々なことを確認したあとで彼女はエンジンをかける。
「ごめん、ちょっと練習長引いちゃって」
そう言って僕は彼女に詫びる。もうあたりは暗くなり始めていた。夏の終わりにあるコンサートの練習が大詰めを迎えていた。
「サマコンの季節だもんね。懐かしいなあ」
 サングラスをかけた彼女はハンドブレーキを引いて、ゆっくりとその小さな車を発進させる。

 僕の街は大きな河を挟んで南北に分かれている。僕の家や学校は坂の多い北側にある。北側には私鉄の小さな駅があるだけで、JRの駅や繁華街があるのは南側だ。僕たちは河に架けられた橋を渡って南の街へ向かう。南側の駅の近くに彼女が一人暮らしをしているマンションがある。大学に入ってしばらくして、一人暮らしをしたいと言って北側にある実家を出たのだ。
 橋を渡っている時、彼女はカーオーディオのスイッチを入れた。スピーカーからは聴き慣れた音楽が流れてくる。
 ウィーピーズというアメリカの男女ユニットの曲だった。流れてきたのは「Same Changes」という曲で、夕方の道路を走るのにはぴったりなテンポの曲だった。早すぎない、丁度良い速度のリズムに乗せて、女性歌手が優しく英語で歌う。ウィーピーズは彼女のお気に入りだった。
 巨大な耳かきみたいな道路のライトの光を次々に反射させながら、僕たちは太い河を渡る。橋の向こうには、ピンク色に染まった低い空を背景にして、黒いシルエットになった都会の複雑な図形が見える。子供の頃に見たテレビの人形劇を思い出す。デフォルメされた夜の背景に使われているのは、たいていこういうシルエットだったような気がする。地平線を染めているピンク色の空は高くなるに連れて闇の色にだんだん近づいていく。僕はぼんやりと遠い街の明かりを眺めながら、心地よい歌声に耳を傾ける。ウィーピーズは恋によって変わっていく男女の姿を歌っている。そして僕と隣に座っている女も、たぶん恋をしているということになるのだろう。
 橋を渡り終える頃に、彼女はギアをひとつ落とした。そしてレバーにかけた右手を、そのまま僕の左の膝に置く。冷たい手だ。ズボンごしに彼女の掌の低い温度が伝わってくる。彼女はずっと前を見ている。僕もずっと前を見ている。そうして僕たちは都会に呑み込まれていく。

 彼女のマンションの地下駐車場に車を停めたあと、僕たちは駅前のイタリアンレストランに行く。レストランは彼女がいつも選ぶし、代金もすべて彼女が払う。同じレストランに行ったことは一度もない。
「いいのよ、アルバイトしてるし。大学生になったらおごってよ?」
 彼女はいつもそんな風に言って財布を取り出そうとする僕の手を制する。僕は知っている。学生の普通のアルバイト代だけではあのマンションの家賃だって払えそうもないことを。僕は知っている。彼女がアルバイトしている先が彼女の実家の歯科医院であることを。僕はたぶん知っている。一般的に言って歯科医にはかなりの収入があることを。僕は知らない。彼女が毎月実家からどのくらいのお金を貰っていて、僕とのデートでそのうちどれだけのお金を使っているのか。
 こんなに暑い日はTシャツに短パンにサンダルくらいの格好でいたいのだけれど、デートをする時に彼女はワイシャツを着て長ズボンを履くことを僕に求める。仕方なく僕はそのような格好をしている。高級レストランとまではいかないものの、きちんとワインリストがあってテイスティングをさせられるような店を彼女がいつも選ぶから、確かにTシャツではまずいという気がしなくもない。
 僕たちはまずキールとチーズの盛り合わせを頼んで、それが来るまでの間にメニューを検討する。
「今日は白の気分だわ、あなたは?」彼女はメニューから目を離さずにそう言う。
「何でも良いよ。とにかく腹が減ったな」
「じゃあ白で良い?」メニューから目を上げて、彼女はニコニコして僕に尋ねる。
「いつも通り、お任せで」
 そうしてチーズとキールが運ばれてきたら、彼女は店員と会話をしながらメニューをてきぱきと決めていく。それが終わったあとで乾杯をする。
「一体何に乾杯するんだろうね、俺たち」僕は乾杯のあとでいつもこう言っている気がする。
「あら、いいじゃない。毎日生きていられるだけで感謝すべきだと思うわ」
「なるほどね、生きていることに乾杯するってわけだ」
「そうよ。それだけで幸せと思わなくちゃ」
「ところで、その服、いいね」これも毎回言っている気がする。「初めて見る服だ」
 そう言うと彼女は嬉しそうに笑って、服の肩のあたりを引っ張って僕に見せびらかす仕草をする。薄いブルーのシンプルなワンピースだったが、夏らしくて彼女に良く似合っている。
「いいでしょ。ジルのワンピ。バーゲンだったから。買っちゃったんだ。ネットだけどね。悪くないでしょう?」
 僕には「ジルのワンピ」が女子大生にとってどのような記号的価値を有しているのか解らないが、少なくともある種のステータスを満たすものであることは想像できる。彼女は実にそういう顔をしている。
「でも、透くん、それを言うならこっちも褒めてくれきゃ」
 そう言って彼女は耳にぶらさがっている、小さな水滴の形をしたターコイズのイヤリングを指で軽くはじいた。
「そっか、トルコ石、誕生石だもんな」僕はキールを一口飲んでからそう言った。
「よく知ってるわね」
「香織が教えてくれたんだよ」
「そうだっけ?」そう言って彼女はチーズを蜂蜜に浸した。「まあでも、高校生にしては上出来よ。合格点ね」

 ほど良く調節されたぬくもりのある照明の下では、食事をする男女たちがとても幸せそうに見えてしまう。テーブル席がいくつかあるだけの、大きな店ではないけれど、それなりに繁盛しているようだ。僕は夏休みだけど世間は普通の金曜日だ。若いカップルばかりが楽しそうに会話をしながら、ピザやパスタを食べている。そしてたぶん、誰も高校生が大人のふりをして酒を飲んでいるとは思わない。
 いつの間にか僕はこんな世界に引きずり込まれてしまった。でもそれだって自分が選んだんじゃないのか? 僕がこの女に惚れたんじゃないのか?
 料理が運ばれてくる。サバの燻製とウイキョウのサラダ、牡蠣と生ハムのリゾットにレモンガーリック・チキン。バスケットにたっぷり乗せられたまだ熱を持ったパン。ワインはシチリアの白。店員が辛抱強く料理の名前を読み上げるのを聞いているだけでお腹が一杯になりそうだった。そして僕たちは黙々と美しく名付けられた料理を分け合って食べる。
 満腹になったところで店員がデザートのお伺いを立てに来た。僕はラベンダーのパンナコッタを注文し、彼女はエスプレッソを頼んだ。
「どう? 満腹?」腕を組んだまま、手に持ったエスプレッソの香りを味わっている彼女が、何か勝ち誇ったような顔で僕に尋ねた。「明日は練習ないの?」
「うん。無いよ。疲れたせいかな、何だか今日はとくべつに美味かった気がする」僕は正直な感想を述べた。

 そうして食事を終えた僕たちはマンションに戻り、順番にシャワーを浴びる。そのあとで彼女はどろどろした甘い味の酒を大量に僕に与える。僕はおとなしく従ってそれを飲む。彼女も僕と同じだけ飲む。僕たちは確実に酔っ払ってきて、お互いをじらしあう。僕はこの勝負に負けたことがない。抱きついてくるのはいつも彼女の方だ。それをきっかけに、僕たちはアルコールの力を借りて人間から動物に進化を遂げる。甘くなったお互いの舌を使って、唾液でその匂いを相手の体に塗りたくる。僕たちはソファの上で交わる。風呂場で交わる。そして最後に真っ暗なベッドの上で交わる。暗闇の中に来て初めて彼女は言葉を求める。僕の耳元で囁く。好きと言ってくれと言う。愛していると言ってくれと言う。香織と呼んでと言う。何語でもいいから愛の言葉を聞かせてくれと懇願する。僕はそれには従わない。嘘は吐きたくない。僕はそのぶん余計に彼女に快楽を与える。彼女の声帯へと信号を送る脳の機能を麻痺させることに集中する。
 僕は彼女の性欲に圧倒されている。僕はもう彼女を征服したなどという幻想は抱いていない。ただ自分の性欲と彼女の性欲の大きさの違いを理解し、受け入れている。僕は彼女の犬に過ぎない。ジル・スチュアートやフィアット500やトルコ石と同じように、僕は彼女に所有されている。その範疇で僕は僕の性欲を発散している。それだけのことだ。
 僕も彼女も付き合い始めた頃に比べたら大分変わってしまったかもしれない。彼女はにきびを失い、大学生になり、運転免許とフィアットを手に入れた。僕は何を失って何を手に入れたのだろうか? 僕は変わってしまったのだろうか? あるいは、すべてのものは変わっていくのだろうか?

7.香澄の新しい髪形について

「久しぶりね、香澄ちゃん。さ、座って座って」
 夏休みの終わりの日に、わたしは美容院に行くことにした。確かに久しぶりな感じがした。ここ最近ずっと自分で前髪をいじったりしていたから。
「それで、今日はどうしましょ?」席に座ったあと、なじみの美容師さんがわたしにそう尋ねた。
 わたしは挑発的な気持ちで「蒼井優みたいに」と言おうと思ったが、やっぱりそれは身のほどというものをわきまえて止めておいた。だって髪の毛を切ったところで蒼井優みたいな顔にならないのは解り切っているんだから、わたしも美容師さんも切ったあと惨めな気分になるような予感がした。
「あの、ウォン・カーウァイの映画に出てくるような……」
「あ、『恋する惑星』でも観たの?」美容師さんはわたしの髪の毛を撫でながら言った。
「ええ、それは観たことあります」
「もしかしてフェイ・ウォンみたいにして欲しいの? かなり切ることになるわよ」
「いや、そっちじゃなくって」わたしはフェイ・ウォンの思い切った髪型を思い返して暗い気持ちになった。
「どっちかと言うと、香港映画に出てくる俳優みたいに、短くしてほしいんです」
「竹之内豊?」
 わたしはしばらく竹之内豊の顔を思い出していた。
「いや、竹之内じゃないですね」
「じゃあつまり、香港映画に出てくるヤクザの端役みたいな感じってこと?」
「ええ、どっちかっていうとそういう感じです。あの、何ていうか、少年らしい感じ?」
「でもそれだったら、ベリーショートもいいところ、坊主って言った方がいいかもしんないわよ?」
「いいんです」わたしははっきりと言った。「とにかく気持ちの良い短い髪が良いんです」
「了解」そのあとで彼女は小さく溜息を吐いた。「何年か前、高校生になった時だったっけ。椎名林檎って言ってたわよね、そういや」

 鏡の前で髪を切られながら、わたしはわたしをずっと見つめていた。鏡の中の少女が変わっていく経過を観察していた。じょきじょきと切り落とされていくわたしの黒い髪。ぱさぱさと肩や胸に落ちてくる。その重さ。わたしは今確実に何かを失っている。重さを失っている。
 わたしが合コンに行った日の夜に感じたのは、これに近い感覚だった。何かを失ってしまったような感じ。何かまでは解らない。
 わたしはあの日に何を失ったんだろう? わたしはむしろ、多くのことを得たはずだった。経験。それは大切なものだとみんな言う。学校の先生も親も友達も言う。経験。それはお金に換えられないくらい価値のあるものだという。そしてその経験という言葉は、分かちがたく努力という言葉と結びついている。努力をしなければ経験を得られない。経験ということについて人が語るとき、わたしはいつも裏側に染み付いた努力という文字の意味が透けて見えている気がする。
 でも果たして経験というのはそれほどまでに重要なものだろうか? あるいは努力をせずに経験したものは、意味のないものなのだろうか? 経験によって何かが損なわれるということは考えられないのだろうか? わたしが感じたのは、何かを失ってしまったという感覚。それはたぶん、自分が初めて経験できるものが一つ減ってしまったという感覚。合コンに行くこと。お酒を飲むこと。クラブに行ってみること。香水をつけること。わたしは全部やってしまった。こうしてわたしの新しい感覚は減っていく。たぶん、これからずっとそう。そうやって新しいものは何一つなくなってしまう。今のわたしには何が残っているだろう?

 温かいお湯とシャンプーで髪を洗われている間、わたしは自分が得たものと失ったものについて考えてみた。そこで、わたしは何ひとつ得ていないということに気がついて愕然とした。お酒を飲んで賢くなったか? 香水をつけて走るのが速くなったか? クラブに行って貯金が増えたか? わたしはそれらに対して持っていた想像力をすべて奪われてしまったのだ。わたしはそれらを経験してしまったことで、想像する権利を失ったのだ。知ってしまったという事実のために。
「くだらないなあ……」わたしは思っていたことを口に出してしまった。
 シャンプーをしてくれていた若い美容師さんが驚いて手を止めた。
「え、かゆいところ、ありますか?」
「ああ、ごめんなさい、独り言です。気持ちよいです」
 わたしは時々こういうことがあるので困る。

 マッサージしてもらって髪を乾かしてスタイリングまでしてもらうと、意外といい感じの髪型になっていた。短くてさっぱりしていて、頭がたいぶ軽くなった。サックスの彼に近い髪型になっているはずだ。
「結局フェイ・ウォン風になっちゃったわ」美容師さんは刷毛でわたしの肩に落ちた髪をはらった。「あるいは、蒼井優ちゃんみたいな感じかもしれないわね」
「そんな、やめてください、全然違いますよ」わたしは勝ち誇った気になって言った。

8.ヨハン・シュトラウスと魅力的ではない女

 市民会館で行われるサマーコンサートは、僕らの学校と、街の西の端にある男子校の吹奏楽部とのジョイントコンサートだ。毎年恒例の行事で、今年はアンコールにヨハン・シュトラウス二世の「こうもり」序曲を演奏した。
 市民会館からの帰り道、他の部員たちと一緒に打ち上げ会場に向けて歩いていた。僕は夏の終わりというものをひしひしと感じていた。大きなコンサートをやり終わったという満足感。僕ら三年生はこの本番で仮引退だ。今からは受験勉強だけに集中して、進路が決まれば三月のコンサートの準備にこっそりと混ざっていく。高校三年生の夏休みの終わりは、今まで過ごしてきたどんな夏休みとも違う重みがある。
 僕の頭の中では「こうもり」序曲のクライマックスの数小節が何度も何度もリピートされていた。スピードを上げて、楽器が折り重なってきて、オーケストラ全体が火花を散らして終わりに向かって突っ込んでいく。終わるのが名残惜しそうに、同じテーマを何度も何度もフォルテで演奏する。終わると解っているのに、それにあくまで抵抗していく。
演奏をしている僕たちは何重もの入れ子構造の中にいる。ヨハン・シュトラウスの世界。ヨハン・シュトラウスが書いた音符の世界。数百年の時を経て指揮者が解釈する世界。僕が解釈する世界。周りの演奏者が理解している世界。そして聴衆が求める世界。こんないくつもの箱の中に閉じ込められて、僕は僕だけの音を紡ぎ出すことに専念している。
そして、いくつもの世界がただ一つの悲しみを表現している時、つまり、終わって欲しくないという、ありがちな感興を呼び起こされるとき、オーケストラは本当の意味で一つになることができる。連続ドラマの最終回、ハリウッド映画のハッピーエンド、長い小説の最後の章。何でもいい。もっと観ていたい、もっと聴いていたいというセンチメンタルな感情こそが、悲しみの本質であると僕は考えているし、音楽の極致でもあると思っている。そして、ヨハン・シュトラウスはオペラの序曲に過ぎない八分間の音楽にそのすべてを鮮やかな手法で詰め込んだ。つまり、本当の音楽は始まりの中に終わりを含んでいる。
 僕の夏休みはもう終わってしまう。そしてそれは二度と帰ってこない時間なのだ。

 二つの学校が合同で行う打ち上げはいつも収集がつかなくなる。男子校の生徒がうちの吹奏楽部の女子と頑張って話そうとするのを観察するのがメインイベントと言っていいだろう。あちらこちらで告白があったり決意表明があったりする。酒もないのにみんな酔っている。僕はほほえましいとさえ思う。
 でもそんな風景を端のほうで眺めていると、僕は果たして彼らに比べて何か高級な恋をしているのだろうかという気になる。年上の女と多少長い間付き合っているというだけの話ではないのか? 高い料理に高い酒を胃に流し込んでいるだけの話ではないのか? こうして童貞の男たちが嫌われるのを怖れながら中途半端な居酒屋でおずおずと大して魅力的でもない女に懸命に話しかけている光景のほうが、よっぽど正統な恋愛らしいのではないか?
 僕の心の底のほうが暗い感情で冷たく湿るのを感じる。そして気付く。僕は嫉妬している。僕は彼ら・彼女らに嫉妬している。まだ経験していないものを求めようとする人々に、僕はどうしようもなく嫉妬している。僕はすでにそれらを経験してしまったから。もう通り過ぎてしまったから。初めて見ることは、たった一度しか出来ないから。

 そして僕は打ち上げの帰り道、少し冷たくなった夏の夜風に吹かれながら、彼女に別れを突きつけることを決意する。

9.香澄の誰も知らない秘密について


 猫という動物は人間に似ているのかそうでないのか解らないけれど、とにかく思い通りに動いてくれない。
 学校からの帰り道にある墓場に住んでいる太った三毛猫がいて、わたしはそいつがけっこう気に入っている。撫でてやろうと思って近づくと、さっと植え込みの奥に引いてしまう。ある程度の距離までは近づけるし、にゃーにゃー鳴いているのだけれど、自分の領域を侵されるとすぐにどこかへ行ってしまう。
 かと思えば、ゆっくり近づいていくと許してくれる日もある。そういう時は遠慮なくそいつの頭を撫でる。気持ち良さそうに眼を閉じて、わたしにされるがままになっている。オスかメスか確かめてないけれど、わたしの好きな表情だ。気分が良い日はひっくり返ってたるんだお腹を見せてくれたりもする。
 ある日思い立って、わたしはその三毛と絶妙な距離をとって、しゃがんでそいつを呼んでみた。
「こっちおいで、こっちおいで」
 と日本語でいうが猫はにゃあと鳴いてわたしを疑いの目で見ている。
 そこでわたしはお弁当箱を取り出し、鮭の銀色の皮を道路に置いてみる。わたしは皮は食べない主義なのだ。
 猫は現金なものでさっと警戒を解いてわたしの方にやってくる。足元で、鮭の皮とわたしの眼を交互に見やりながら、「これ、食べてもいいの?」と瞳で問いかける。わたしはうなずいてあげる。
 そしてそいつが鮭の皮をおそるおそる舐めている隙に、わたしは思う存分頭を撫でさせてもらう。簡単なことなのだ。こっちから行って近づけないなら、おびき寄せてやればいいのだ。

 わたしには誰にも言っていない秘密がある。というか、能力がある。
 初めて失恋したあの日以来、わたしは時々空の色を変えることができるようになった。でもそれは、単純にわたしがそう思っているだけで、周りの人が見て空が変わっているかどうか確かめたことはない。だって秘密にしているから。
 紳士気取って苗字に「さん」をつけるくせにデリカシーのないあの男子に傷つけられたあと、ジャングルジムを降りて、わたしはあまりに悲しくてその時の空の色を呪った。そうすると、空の色がみるみる変わって、わたしの好きなピンク色の夕暮れの色に変わってしまった。切れ切れになっていた雲が集まってきて、金色の優しい太陽を作った。わたしはそれに驚いたけれど、怒りの気分が落ち着いていくのを感じた。
 空がわたしを慰めてくれていると思った。それからときどき、何か悲しいことや辛いことがあったとき、わたしはそれとなく空を眺めるようになった。そういう時はいつでも、空はわたしを勇気付けてくれた。その時の気分に合わせて、曇りだった空が海みたいな濃い青色に変わったり、うっとおしいくらい晴れている時は葉っぱの緑色が陽射しを隠してくれたり、星のない都会の空に七色の天の川が現れたり。そんな風にして、わたしは空の色を変えることができた。

 二学期が始まったある日の放課後、しばらく図書館で時間を潰した後、わたしは音楽室の前に行った。すりガラスごしに、彼の禍々しい演奏が聴こえてきた。
 わたしは強く願った。彼をわたしのものにしたい。彼にわたしを見てほしい。頭の中にフライト・ファシリティーズの悲しい片想いのメロディーが流れる。わたしが彼を想うように、彼にもわたしを想って欲しい。わたしは強い強い念を送った。でも彼は、ずっと演奏を続けたままだった。彼はきっと、わたしとは違う世界の中にいるんだ。たったドア一枚の隔たりが、何万光年もの距離に思えた。
 校舎を出て空を眺めると、空の色が変わっていることに気がついた。あの空の色だった。わたしが初めて空を呪ったときのあの色だ。わたしが一番尊いと思っている空の色。すぐに使いすぎてなくなってしまう貴重なピンクの絵の具。一瞬だけ見せる空の色。それがわたしの頭上に広がっている。そしてゆっくりと雲が集まってきて、金色の円盤を作り始めた。
 わたしは賭けてみることにした。東校舎の屋上まで息を切らせて走った。そして屋上の端に立って、その空の色と東の空に浮かぶ太陽が失われていないことを確認した。
 きっと来る。きっと彼は来るはずだ。彼にはこの空が見えているはずだ。

10.ポール・クレストンと屋上の少女

 僕はいつも波長のことを考える。物理の授業で見た音波か何かのグラフだ。
 最高と最低の二つの極の間を揺れる曲線。誰もが目にした事のあるくねくねとした放物線の連なり。そしてそれにもう一つの線が重なる。その曲線も同じ幅で振れる。もし始まりの点が違ってしまえば、その二つの線はどこかで交差するけれど、同時に極を迎えることはない。
 永遠に交わることのない平行線の悲劇に比べれば、この二つの波長は限られた範囲の中を動くだけだから、まだ恵まれていると言えるかもしれない。僕と香織の恋愛はまさにこのような道のりをたどった。僕が彼女を最高に求めているときに、彼女はそれほど僕を求めていなかった。そして彼女が僕を求め始めると、僕は少しずつ引き下がっていった。
 すべては高校一年生の時、あの駅のホームで始まった。僕があのとき流れ星を見つけていたら? 僕があのとき泣いている彼女を力任せに抱きしめていたら? 僕はそんなことを考える。僕たちは同じ波長で永遠を歩むことができたのではないか? そんな仮定が頭に浮かぶ。
 電話で別れを切り出した。彼女はもちろんなぜと問うた。僕は何も答えられなかった。ただただ別れたいとだけ言った。彼女は嫌だとはっきり言った。僕は結論をもう一度伝えた。彼女は会って話がしたいと言った。僕はワカレタイ、ワカレタイ、と哀れな駐車券発行機のように同じ言葉を繰り返した。そして彼女は諦めてチケットをむしりとって行った。

 二学期になっても僕は放課後の練習を続けた。もうあの視線を感じることはなかった。僕は無我夢中でポール・クレストンの世界に飛び込んでいった。そしてその世界を通り抜けた後で、自分がどのように変化しているかを分析した。毎日毎日それを繰り返した。でも、僕は何も変わっていなかった。前と同じ。何も失っていないし何も得ていない。ただ快楽で満たされるだけ。そしてそれは永遠には続かない。
 急に虚しくなった日があった。ポール・クレストンの魔力が途絶えた。吹いている途中で、僕は演奏している自分を外から見ているような感覚になった。そうして急に熱が引いてしまった。俺は何をやっているんだろう? こんな演奏に何か意味があるのだろうか? 俺は何を求めているんだろうか?
僕は演奏を途中で止めて、何となく窓際に眼をやった。もうアジサイは枯れている。僕は黄色い傘を差していた少女のことを思い出した。彼女はどこへ行ってしまったのだろう。彼女は本当に僕の演奏を見てくれていたのだろうか。それとも僕が見た幻想だったのだろうか。
 窓を開けて、空を眺めてみた。小学生のパレットみたいな空の色だった。いくつもの色が無秩序に混ぜられて作り上げる名前のない色。地平線は黒っぽい色に染まり、その上に妙に明るいピンクの空が広がっていた。少し不思議な感じがした。悪くない景色だった。僕はその日の練習をそこで止めて、しばらく空でも眺めていようかと思った。空なんか眺めていたって、何も僕は変わらないだろう。理由のないこの虚しさを埋めてくれるような力は空にはない。でも、あの空を何かの記念に僕の眼に焼き付けてしまいたい。
 楽器を片付けて倉庫に仕舞い、制服のブレザーを着て、僕は屋上に行くことを考えた。東校舎の階段を登って、「立ち入り禁止」の立て札をよけて、屋上に続く埃の溜まった階段を上った。
 そうして錆付いたドアをそっと開くと、誰かの背中が小さく見えた。

11.猿真似のワルツ

 東校舎の屋上には冷たい風が吹いている。
西の空の中心には沈んでいく太陽があり、一日の終わりの輝きを放ちながら空を橙色に染め上げている。煙のような薄い雲が橙色の空に幾筋も漂っている。木々に止まっている烏たちは不安げに鳴きはじめ、公園の子供達は遊びの時間が終わりに近づいたことを知る。いつの間にか現れた蝙蝠は夜の到来を待ち、いたるところで準備運動を始めている。
 暮れていく太陽の輝きが届かない東の空には、雲が集まった巨大な円盤が浮かんでいる。この星に存在するすべての空の色素が街の東の空に集まっている。その色素はひとつの強い意志によって呼び出され、組み合わされ、闇に染まっているはずの空を塗り替えている。集合した雲はひとつの意志によって金色を与えられ、その意志が続くまで闇を封じ込める役目を与えられている。そしてその存在しないはずの光源は、周りの空の色を選び取る。世界のどこかに今存在している、ピンク色の空をこの場所に呼び寄せる。香澄はそれをもう一つの太陽と呼ぶ。そのようにして香澄が望んだ空がこの街に誕生する。
 透が屋上への階段を登り、ドアを開いた時、ひときわ冷たい風が走る。
 東の空に面した屋上の端に、髪の短いひとりの少女がいる。その少女の背中に向かって透は少しずつ歩いていく。透の視界には、屋上の給水塔も、西の空の夕陽も入ってこない。透はふと自分の足元を見つめる。そして自分を中心とした二つの長い影を認める。自分の後ろに伸びる影と、自分の前に伸びる影を見つめる。そして透は少女の隣に到着する。
 二人は黙って金色の太陽を見つめる。ピンク色に染まった空を眺める。そして街を見下ろす。太い河と光り輝く長い橋を見下ろす。瞬きはじめた街の灯りと、それに不釣合いな明るい空を見比べる。
 透は視線を少女の横顔に移す。
 香澄は少年の視線を左の頬に感じる。
「君なんだろう? 僕が演奏してるとこ、ずっと見てたの」まず透が口を開く。
 香澄はその一言で、自分の頬が紅く染まっていくのを感じる。
 香澄は何かを言おうとしたが、声が出ない。そうしてただこくりとうなずく。短く、だが決然としてうなずく。
「どうして?」
 香澄は透が発したその単純な問いにも答えられない。彼女は横顔を晒すことに耐えられず、透の方を向く。そうして二人の視線は、はじめて空気だけを介してぶつかることになる。
「あなたにも、この空が見えるのね?」香澄は逆に透に質問する。
 透はもう一度空を見つめる。そうしてそこに広がる色と円盤を確かめてから、口を開く。
「こんな空の色は見たことがない。それに、この丸い形の雲も。だから、ちゃんと見ようと思って屋上に来たんだ。そうしたら君がいた。君が……僕の演奏を見つめていた君がいた。僕は君の視線をずっと感じていた」
 透は香澄の眼を見て微笑む。また冷たい風が二人の間に吹く。
「もしかして、君がやったのかい? この空。どういう仕組みなんだい?」
 香澄はその質問に喜んで飛び上がりたくなる。しかし、それを抑えて、冷静な口調で答える。
「知らなかった? 女の子は、空の色くらい変えることができるのよ」

 香澄はポケットからスマートフォンを取り出して、それを地面に置く。制服のブレザーをばさりと脱ぎ捨てる。香澄は「Crave You」を流し始める。香澄はまだそのタイトルの意味を知らない。そして、一人でリズムを取って踊り始める。少しずつ、体を揺らして、腰をくねらせて、手を叩きながら、指を鳴らしながら、掌で短い髪を撫でながら、腕を空に向けて突き上げながら。
 透はそんな香澄の姿をじっと見つめている。
「ねえ、踊らない?」動きを止めて香澄は言う。音量を最大に設定されたスマートフォンからは女の歌声が流れ続けている。
「踊るって、どうやって?」透はずっと微笑んだままだ。
「わたしと、ワルツを」
 香澄は膝を折って、眼を瞑って右手を透の方に突き出す。「シャル・ウィー・ダンス?」
 透は一瞬戸惑った表情を作ったが、黙って右手を香澄の手に重ねた。
「この曲は四拍子だけどね」
 透がそう言うと、香澄が眼を開けて透の瞳を見つめる。
「ワルツは三拍子だ」と透は言った。
 その言葉を受けた香澄は透の手をすっと離して、立ち上がって再び踊りはじめる。
「何だっていいの。とにかく踊ればいいのよ、ホラ、わたしみたいに。わたしの動きを真似することから始めるの。運動会のダンスみたいにね」
 そうして透は、香澄の動きをしばらくじっと眺めて、ブレザーを脱ぎ捨てる。香澄の動きは透にとって、一見複雑そうに見えたが、よくよく見てみると、シンプルな動きがいくつか組み合わさっているだけだった。
 透はステップを踏み始める。その足音が香澄のそれに重なってくる。偶数の影が、二人のせわしない動きに合わせて揺れ動く。香澄によってエンドレスリピートを命じられたフライト・ファシリティーズは片想いの少女の歌をずっと歌い続けている。
 二人は向かい合って踊る。ときどき視線が交差する。香澄はそのたびに喜びを覚える。透はそのたびに不思議な思いを深める。そうして二人とも笑っている。上昇していく二人の体温を、時折吹く風が優しく冷ましていく。二人の動きは少しずつ、確実に近づいてくる。やがて透が完全に香澄の踊りを真似できるようになるまで、二人の弾んだ視界の中から、金色の太陽とピンク色の空が消えることはない。

猿真似


【あとがき】

お読みくださってありがとうございました。
作中に出てくる「フライト・ファシリティーズ」の「Crave you」というミュージックビデオに触発されて書いたものです。
男性と女性の一人称を交互に使って、最後に三人称を使うという試みでした。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。

猿真似

好きな人ができると、何から何までその人の真似をしてしまうという少女、香澄。彼女は放課後の教室で、ある男子生徒がアルト・サキソフォンを演奏している姿を目撃し、新たな真似の対象を見つけたことを知る。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.香澄のいびつな恋の成り立ちについて
  2. 2.ポール・クレストンと窓際の少女
  3. 3.香澄の新しい恋について
  4. 4.ブルガリ・プールオムとつるつるした肌の女
  5. 5.香澄の苦々しい夏休みについて
  6. 6.ジル・スチュアートと十二月生まれの女
  7. 7.香澄の新しい髪形について
  8. 8.ヨハン・シュトラウスと魅力的ではない女
  9. 9.香澄の誰も知らない秘密について
  10. 10.ポール・クレストンと屋上の少女
  11. 11.猿真似のワルツ