蚊

茸SF不思議小説です。縦書きでお読みください。

 庭先で無花果に止まっている髪切り虫を見ていると、隣の柿の木の幹に置いていた左手の人差し指の先に蚊が止まった。変なところに止まったものだ。血を吸うつもりだろうが、そこは皮膚が少しばかり堅いぞ。そう思って見ていると、蚊は細い口を突き刺して血を吸い始めた。器用なものである。
 つぶしちまおうか、とも思ったが、美味そうに一生懸命飲んでいるので、もう少し見ていようと思い、放っておいたのだが、指先がこそばゆくなってきた。
 そこで、ちょっとおかしなことに気が着いた。蚊の模様である。白い筋のある藪蚊でもない、赤家蚊でもない、白っぽい体に茶色のぽちぽちがある蚊だ。始めてみる蚊である。目玉が赤い。
 まだ血を吸っている。お腹が赤く膨らんできた。そろそろつぶしちまおう。
 そう思って右手をそうっとあげた。そのとたん、蚊のやつはよたっと宙に浮いた。蚊のくせにホバリングをしている。腹が俺の血で膨らんで落ちそうだ。
 人差し指が無性にかゆくなった。しょうがない右手で左手の指先を掻いた。
 そこにうちの猫の虎が足下にやってきた。真っ黒な太った雄猫だ。足にこすりついて私を見上げた。
 蚊の奴、ホバリングからいきなり急降下した。あっという間に虎の鼻の頭に止まった。刺されるぞと思ったとたん、蚊は虎の鼻頭に口を差し込んだ。俺の血を吸って真っ赤になっているのにまだ吸おうていうのか。
 見ていると、おかしなことに蚊の赤く膨らんでいた大きな腹が縮んでいく。やがてぺっちゃんこになった。腹にあった俺の血を虎の鼻に全部注入しちまったようだ。私の血が虎の鼻の頭に入っちまった。どうなるんだろう。
 痩せた蚊の奴は勢いよく飛び上がると、すーっと庭木の茂みに入っていった。
 虎がなぜか悩ましげに俺を見ている。人差し指の先が無性にかゆくなった。虎も鼻の頭に左手を当ててこすっている。今度は俺の足に鼻先をこすりつけた。かゆいんだ。
 人差し指を掻きながら家の中に入ると、虎も入ってきた。椅子の足に鼻をこすりつけている。
 ムヒを指に塗った。虎の鼻にも塗ろうとムヒを手につけて差し出したら、虎は慌てて逃げた。それはそうだろう、つーんとくるのだから逃げるわけである。
 虎は猫穴を通って外に飛び出しちまった。
 蚊に刺された人差し指の先を見ると、かゆみは治まっているが、なんだか少し膨らんでいる。炎症を起こしているのかもしれない。見慣れない蚊だったが、変な病気を移すような蚊でなければよいが。血を吸うのを眺めていたなどと馬鹿なことをしたものだ。さらにかゆみ止めを塗っておこう。
 しかし、まあ、どうってことなく、夜になった。黒猫の虎がやっと帰ってきた。雄猫は天気がいいとどこかで遊んで、腹を空かして帰ってくる。猫の食器にはそのためにたっぷりと餌を入れておいてやる。
 虎は帰ってくると、すぐにキッチンの自分の皿に首を突っ込んで、カリカリと音を立てて食べはじめた。
 居間でテレビを見ていたら、満足した顔で虎が部屋の中に入ってきた。顔がなんかおかしい。
 足元に寄ってきたのでよく見ると、鼻の頭に赤黒い小さなおできができている。いや、茸だ。一センチに満たない小さな茸のようなできものである。
 抱き上げると、ごろごろと喉を鳴らして頭をこすりつけてくる。鼻の上のものをよく見た。どうしても茸にしか見えない。赤い傘の内側はヒダになっている。
 指で触ってみるとプルプルと柔らかい。触ってもいやがらないので、痛いとかそういうことはないようだ。
 茸を指でつまむと引っ張った。なかなかとれない。ちょっと強く引くと、茸が浮き上がって、メリッと音がして剥がれた。茸の柄の底には赤い糸がたくさん生えている。虎の鼻の上に血が滲みだして鼻頭を赤く染めた。
 これはいけない。茸を机の上に置いて、血をティッシュで拭き取り、消毒薬を塗ってやった。しみたようだ。飛び跳ねるようにして、キッチンに逃げていった。
 虎の鼻の頭から取ったものをテーブルの上から拾い上げよく見るた。どうしても茸としか言いようがない。どうして猫の鼻から茸が生えるんだ。
 高校の先生が茸好きで、茸の下の土の中は菌糸だらけと言っていたことを思い出した。はがしたら血がにじんだということは菌糸が鼻の皮膚に深く伸びていたのだろう。
 ぷるんぷるんしている茸の傘をちょっと引っ張ってみた。
 大変なことがおきた。傘が破れた。そうしたらじゅーっと血がほとばしりでて周りに散った。蚊のやつが私の左指から吸った血よりも多い。茸には俺の血と虎の血が充満していたのだ。ということはこの茸は虎の血を吸って大きくなったのだ。
 蚊のやつは虎の鼻頭に俺の血だけじゃなく、茸の胞子も一緒に注入したのか。
 あの蚊はこの吸血茸の胞子を媒介しているんだ。
 心配になって自分の指先を見た。ちょっと膨れているようだが。
 空いた薬の小瓶に虎の鼻から採った吸血茸をいれた。いつか誰かに見せてみよう。
 次の朝驚くことがおきた。目が覚め、ふと左手を見ると、指先に小さな茸が生えているじゃないか。虎の鼻先にできた茸とほぼ同じ大きさだ。蚊のやつは吸血茸の胞子を俺の指先にもいれやがった。この茸は寝ている間に俺の血を吸って育ったのだ。指先でグニャグニャ垂れ下がっている。
 右手で引っ張った。ぎゅっと伸びて、ぱちんとちぎれた。血がパジャマに点々と飛び散って、赤い水玉模様になっちまった。千切れた茸の残りの柄先から血がポタポタと落ちている。まだ血を吸い続けている。あわてて根本をもって引き抜くと、鋭い痛みが指先に走った。抜けた柄の底に赤い菌糸が何本も垂れ下がっている。指の先がめくれて赤く血がにじんだ。あの蚊は吸血茸の媒介者だ。それにしても恐ろしい茸だ。
 指から取った茸も虎の茸と一緒に瓶の中にいれた。血が固まっている。この茸をどうしたらいいだろう。茸好きの高校の生物の先生にでも聞きたいところだ。高校時代その先生は自分で撮った茸の写真を皆に見せ自慢していた。先生と連絡先は探せばわかるだろうが、ご存命なら九十をゆうに越しているはずで、茸を見てもらうようなわけにはいかないだろう。
 経済学部卒業後、銀行勤めだったこともあり、周りに生物に詳しい知り合いはいない。科学博物館を思い出した。学生のころだが上野に行ったとき一度入ったことがある。そこで茸の標本を見た記憶がある。ネットで科学博物館の電話番号を調べた。
 電話に出た科学博物館の受付の人が、そういうことは研究部門に訊いて欲しいと、筑波にある研究施設の電話番号を教えてくれた。
 あらためてそちらにかけると、茸専門の研究者が電話口にでてくれた。科学に全く縁がない人間はなんだかとても偉い人と話すような気分になってちょっと緊張する。
 かいつまんで説明すると、相手は「血を吸う茸とは初めて聞きますが、本当に血なのでしょうか。赤い茸の汁ということはありませんか」と聞いてきた。そうかそういう可能性もあるなと思い、待ってもらって、茸をいれた瓶の中の赤い液体を見ると、赤黒くかたまっている。やはり血のようだ。
 そのことを話すと、
 「そうですか、こちらに来られることがないようでしたら、そのままでいいですから、着払いの宅急便で送っていただけますか」と研究者は言った。
 研究者は岩田草大と名乗った。声からするとまだ若いようだ。言われたように荷づくりをしてコンビニにもっていった。
 ネットを開いて岩田草大と検索をかけた。彼は茸研究の中堅どころらしく、いくつも論文の題名がでてきた。全く意味はわからない。本も書いている。「奇妙な茸」という新書で、そちらなら分かるかもしれない。面白そうだ。そのうち買ってみよう。
 その夕方、帰ってきた虎の耳の後ろにまた茸が生えていた。あの蚊に血を吸われ、胞子を注入されたのだ。
 茸を引っ張ってはがすと、今度はつぶさずに空き瓶に入れた。耳の後ろの茸を剥がしたところから血がにじみ出ている。また薬を塗ってやった。慣れたようだ。おとなしくしている。
 あの蚊を捕まえてみよう。そう思って庭にでた。猫の虎はいつもならついてくるのに、居間のソファで空ろな顔をしてでてこようとしない。
 虫を捕まえる網などもっているわけはない。いたら手で叩き潰すつもりだった。椿の木の下に行くとぷーんと蚊の羽の音がした。顔めがけて飛んできたので、思い切り叩いた。ざまあみろと手を開けてみると、白い筋の入った黒っぽい蚊がつぶれていた。いつもの藪っ蚊だ。今度は山吹の茂みに行った。耳のあたりでぷーんと音がした。振り返ると、目の前に蚊がいた。片手でむんずと掴んだ。うまく捕まえた。手を開くと茶色っぽい蚊がくたばっている。違う、これは赤家蚊って奴だ。
 庭の角に睡蓮鉢が置いてある。黒出眼金が三匹泳いでいるので、ボウフラはいない。キンモクセイの枝が鉢の上にかかっている。その時、右の手首に蚊が止まった。あわてて左手で蚊を打った。蚊がつぶれているが茶色いぽちぽちはない。
 おととい吸血茸の蚊のいたイチジクのところに行った。あの時もいたカミキリムシがまだ幹にとりついている。蚊の羽音がした。木の裏に回ってみた。ちょっと陰になってわかりにくいが、ともかく捕まえてやろう。きょろきょろしていると、ぷーんと耳元をかすめた。首を引っ込めて、頭の上を見ると蚊だ。すぐ叩いたが、手の中で死んでいたのはやっぱり藪っ蚊だ。なかなかあの蚊のやつは現れない。
 何回か庭に出てみたのだがあの蚊とは遭遇しなかった。今日はあきらめた。
 家内が友達と海外旅行で二週間いない。その間猫の虎と二人暮らしだ。面倒なことはできないが、生姜焼きくらいなら造作ない。台所で準備を始めると足の甲が痒くなった。いつの間にか蚊に食われている。素足だったのは無用心だった。太股のあたりも痒い。ズボンの上から刺しやがった。ムヒを塗って夕食の準備を進めた。
 明くる朝、いつものように朝風呂にはいった。パジャマを脱ぎ、湯殿に行くと、足に赤いものが生えている。左足の甲と右足の太腿と二本だ。昨日庭で顔のあたりばかり気にしていたのは不用意だった。あの蚊は下半身をねらいおったのだ。赤い茸を抜こうとかがんだが、茸がどう育つのか見てみようと思い、抜くのを思いとどまった。それで体もろくに洗わずに風呂に浸かってあがった。お湯に浸かっても変わらず、タオルでからだを拭いても抜けるようすはなかった。かゆみもなく体には異常がない。
 茸の様子を気にしてみていたのだが、さらに大きくなるようなことはなく、俺の体の調子おかしくなったりもしなかった。
 その日の夕方、岩田草大先生から電話があった。
 「網野さんですか、あれはへんてこな茸です、確かに人の血です、それに猫の血も、血を吸う茸です、ただし、毒はもっていないので大丈夫です、世界で始めて見つかった吸血茸です」
 「捕まえようと思って、庭にでたのですが、藪っ蚊ばかりでした」
 「そうでしたか、それで明日、蚊を捕まえにうかがいたいのですが」
 「ええ、どうぞいらしてください」
 「近くにホテルをとりますので、しばらくお宅におじゃましていいですか」
 「ちょうど家内が海外旅行ですから、家に泊まっていただいてもかまいません、大したおもてなしはできませんが」
 「ありがたいのですが、蚊の専門家を一人連れていきますのでホテルをとります」
 「子供部屋が二つ空いていますので、お使いください」
 二人の子供たちが孫を連れて泊まりにくるので、いつでも使えるようにしてある。
 「本当ににいいのですか、助かります、夜中の採集がしやすくなります」
 ということで明日の夕方から二晩、生物研究者が泊まりに来ることになった。そういえば、自分の足に茸が生えたことを言い忘れた。そのままにして見せることにしよう。生物の研究者とはどんな人種なんだろう。ちょっと楽しみになってきた。電話の話しぶりでは誠実そうである。
 次の日、三時ちょっと過ぎにころ玄関の呼び鈴がなった。玄関を開けると、大きな四角い顔の岩田草大がリュックを背負い、大きなアイスボックスを肩に掛けて立っている。彼自身も大きいので、後ろにいる人が見えない。
 「岩田です、はじめまして、茸ありがとうございました。とても珍しいものです。泊めてまでいただくことになりすみません。どうぞよろしくお願いします」
 と帽子をとってお辞儀をしたので後ろの人の顔が見えた。丸顔の若い女性である。手には小型の網を持っている。
 「あ、こちらは蚊の専門家の日野香です」
 岩田が彼女を前に押し出した。女性が来るとは思わなかった。自分の子供は二人とも男だが、そんな部屋でも大丈夫だろうか。挨拶の後、そのことを説明したが、土の上でも寝ることがありますと、全く気にしなかった。よく考えると、普段はテントなどで寝起きをするのだろう。息子たちの部屋に案内すると、「すてきな部屋」ととても喜んだ。
 居間にきてもらって、これからの予定を聞くと、すぐにでも庭を見たいという。その後、様子を見ながら蚊の採集をするということであった。
 二人を庭に案内した。日野女史は蚊よけのために、長袖で手袋をはめ厚めのズボンをはいている。耳を覆うように手ぬぐいを垂らしその上から帽子をかぶっている。
 「日野は若いけど蚊の分野では日本で五指に入る研究者です、まかせておけばその茶のぽちぽちのある蚊をみつけてくれます、私は茸をあたってみます」
 そう言われて自分のからだの茸を思い出した。
 「岩田先生、実はお見せしたいものがあります。家の中にもう一度戻ってもらえますか、直接こちらから居間の方にどうぞ」
 「はい、日野さん、始めていてください」
 彼はそう言うと、私について家に入った。
 日野女史は早速木の下に行って様子をうかがっている。我々が居間のガラス戸を開け部屋に入っても、黒猫の虎はこりたとみえて、ソファーから降りてこない。いつもは部屋にいなさいといってもでたがる。
 部屋にあがると、岩田先生を風呂場の脱衣場に連れて行った。
 まず左足の甲を見せた。
 「一昨日、いつの間にか刺されて、茸ができていました、それにここも」
 ズボンをちょっとおろして、大腿のところを見せた。赤い小さな茸がプランと垂れ下がっている。
 「本当ですね、痒いとか、痛いとか感覚はありますか」
 「いいえ、茸があるのを忘れているくらいです、最初のときは痒くなりました」
 「写真撮らせてください。その場所だけですので、そのあと、剥がしてみます、いいですか」
 もちろんと私はうなずいた。
 彼が太ももの上にできた茸をピンセットでゆっくりと引っ張った。赤い茸がにょーっと伸びた。
 「あまり、強く引っ張ると、裂けて血が飛びちりますよ」
 私が注意すると、ピンセットを茸の底に滑り込ませた。ちょっとヒヤッとする。しかし、彼はうまいもので、ピンセットの先を動かし茸を引き剥がした。それを資料瓶に入れ貼ってあった紙に情報を書き込んでいる。剥がしたあとに小さなぽちぽちができて、血が滲んでいる。彼はアルコール綿だといって、皮膚を拭いてくれた。
 「人の皮膚に食い込む茸など始めて見ます、世界の茸研究者が驚きますよ」
 彼は嬉しそうに四角張った顔を楕円にしてにこにこしている。
 「茸の学名にお名前をいれます」
 などと言っている。足の茸を全部とり終えると、岩田先生は日野さんの蚊の採集に協力するため庭に出て行った。私は居間で虎と一緒にテレビでも見ることにした。
 かなり経って、庭に面したガラス戸が開き、二人が上がってきた。
 「蚊はたくさん穫れましたが、おっしゃるような蚊はいませんでした」
 日野は私にガラス瓶をみせてくれた。
 蚊がうようよいるが確かによく見るやつばっかりである。
 「夕ご飯のあとにもう一度、蚊の採集をしたいのですが、かまいませんか」
 日野は虎の頭をなでながら言った。
 「もちろんですよ、居間の方から自由に出入りしてください」
 彼女は驚いたことに、「この猫ちゃんおかりできますか」と言った。
 虎に聞こえたらいやがっただろう。私はなにげなくうなずいてしまった。
 「猫ちゃんと一緒だと、蚊がよってくると思います」
 猫を餌にしようということがその時きわかった。ちょっとかわいそうだが、一回ならいいか。
 「私料理します、台所お借りできますか」
 いったん二階の自分の泊まる部屋に行って、戻ってきた日野女史がコンビニ袋から野菜類を取り出した。
 「すみません、キャンプ料理しかできませんが、野菜炒めと豚肉の生姜焼きでいいですか」
 彼女はさっさと、台所で用意を始めた。きょうはなにか出前をたのもうと思っていたので、とてもありがたい。まあ、生姜焼きは一昨日食べたばっかりだが、作ってもらえるなら御の字である。
 「ビールは飲みますか」
 蚊の採集があるので断られるだろうと思って聞いたのだが、二人とも「ええ、いただきます、私たちも用意してきましたが、冷えていないので、冷蔵庫に入れさせてください」
 と飲む気まんまんである。
 「研究に差し障りありませんか」
 私はつい聞いてしまった。しかし、その理由を聞いてなるほどと思った。
 「お酒を飲んだ人に蚊が寄ってくるのはご存じじゃありませんか」
 彼女は笑いながら私を見た。確かに聞いたことがある。
 「体が熱くなるし、二酸化炭素の放出が多くなるので、蚊がくるのです」
 やっぱりプロである。自分を犠牲にしても蚊を集めるつもりだ。
 「でも、刺されないようにしてから、蚊をおびき寄せます」
 そう言いながら、食卓にできた料理を並べてくれた。いつもそうするのだろう、岩田先生は当たり前のようにソファーで何もしないで待っていた。
 二人ともよく飲んだ。花に寄生して花のような形になる茸や、アフリカでの蚊の採集の怖さ、茸と蚊の面白い話ばかりだった。
 「だけど、人に生える茸はちょー珍しいものです」と言う結論であった。 
 その後、二人とも赤い顔をして庭に出た。日野さんは虎を抱えている。虎が嫌がっていない。日野さんの猫好きたよくわかる。
 庭は居間の明かりだけで暗くはないが、ヘッドライトをつけての作業である。
 日野さんが虎を木の下に放した。虎は勝手知ったる庭だが、なぜか木の下に縮こまってしまった。
 「いい感じ」
 日野さんは喜んでいる。よく考えると動かない方が蚊がやってくる。 
 私はしばらく彼らの後ろから採集活動の様子を眺めていたが、部屋に戻ってテレビをつけた。テレビで八時のニュースが始まったとき、居間のガラス戸が開いた。
 「蚊がたくさん穫れました」
 日野さんがそう言いながらあがってきた。虎を抱えている。
 「動こうとしませんでした。おかげで蚊はたくさん穫れましたが、吸血の蚊は網にはかかりませんでした」
 虎がソファーに駆け上がって俺を見た。なんだかほっとしている雰囲気だ。
 あとから戻ってきた岩田先生が驚くほどにこにこ顔で私の前に資料瓶をつきだした。
 「ところが、ほら、イチジクの後ろの根本にこんな茸が生えていました」
 中にはあの吸血の赤い茸が入っていた。
 「私や猫に生えた奴だ」
 「ええ、ただずっと大きいでしょう、ちょっと見ていてください」
 彼は標本瓶をソファの前の机の上においた。見ていると、赤い茸がもそっと動いて、傘が持ち上がると、傘の下からあの茶のぽちぽちのついた白い蚊が這い出してきた。お、舞い上がった。私が瓶に顔を近づけると、茸の傘がぱっくりと開いて蚊が中に飛び込み、傘がぱたりと閉まった。私が驚いていると岩田先生が説明をはじめた。
 「ボクがイチジクの木の下で赤い茸を見つけたとき、日野さんが蚊を追いかけて来たんですよ」
 「あの茶色いぽちぽちの蚊が猫ちゃんめがけて飛んできたので、網を降り下ろしたら、ひょっと逃げました、私今まで、蚊の捕獲率は100%でした、ほんとにすばしっこい奴です、すーっと飛んで逃げていったので追いかけていくと、イチジクの木の根本で消えたんです、あとは岩田先生が見ていた通りです」
 日野さんの話のあとを岩田先生が続けた。
 「驚きましたね、目の前の赤い茸の傘がパクッと開くと、あの蚊が飛び込んで、中に入るとパタンと閉まったのです、それで私はあわてて茸を引っこ抜いて、標本瓶にいれました」
 「それはよかった、茸の中にすんでいる蚊だったのですね」
 日野さんがさらに面白いことを言った。
 「茸と蚊の共生も珍しいものです。想像するにこの茸は動物の血が必要で、蚊は血を吸ってくると、茸に半分くらい与えていたのでしょう、一方、蚊は茸に守られている。もしかすると、茸の中で蚊の幼虫、ボウフラが育つのかもしれない」
 「大変な茸ですね」
 「さらに想像すると」、茸の専門家の岩田先生が続けた。
 「茸は蚊に胞子を運ばせて、動物の皮膚に植え付けさせ、直接動物から血をすうことができるようにしているのではないでしょうか。やがて蚊がいなくても、動物の体の中で育つことのできる茸に進化するというものです」
 「恐ろしいことですね」
 「いや、私たちの仮説にしかすぎませんので、これから研究を進めます、ともかく大発見で、蚊の証拠もあります、研究所で大騒ぎになりますよ」
 「ともかくよかったです、どうです、お二人とも風呂でも浴びて、もう一度ビールでも、持ってこられたのが冷えたでしょう」
 「あ、そうします、今日はもう採集はやめです、すごい資料が手に入りました。明日早く研究所に帰り、すぐに調べます。恐らく蚊は生きたままもって帰ることができるでしょう」
 「それはいいですね」
 彼は瓶をそうっと持ち上げると自分の部屋にもどった。
 二人はすぐに着替えると降りてきて、日野さんから風呂を使った。
 私は乾きものだがとつまみを用意し、ビールの支度をした。
 「研究は大変でしょう、銀行員だった私などには想像できませんよ」
 「いや、こういう研究をしている人間は、コミュニケーションも下手で、これしかできない偏屈人ですよ、ただ、今の研究者は昔ほど朴念仁ではなくて、日野君なんて、蚊の研究をやりながら、ジャズダンスのセミプロなんですからすごいものです」
 そんな話をしていると、彼女が風呂から上がってきた。はっと目を見張るようなスタイルであった。Tシャツに短パン姿の彼女は確かにジャズダンスをやっているというだけあって、パキパキに張りつめた手足、ピンと張った胸。年寄りでもちょっとドキドキするほど見事なものである。
 「ボク入ってきますので、先にビール飲んでいてください」
 岩田先生が風呂に行った。
 「いいお風呂ですね、桧づくりですばらしいですね」
 日野さんが私の前のソファーに腰掛けた。彼女にビールをつぐと、「すみません」と一気に飲んでしまった。
 すぐにつぐと、「あ、ありがとうございます、いいお住まいですね、環境がすばらしいわ、今にこんな家に住みたいです」とまた一気に飲んだ。
 「いや、若い皆さん、もっともっといい家に住むようになりますよ」
 「どうでしょう、研究者はお金が入りませんし、私は趣味につぎこんでますし」
 彼女はそんなことをいいながら、自分の太ももに手をやった。
 「蚊に刺されている、私としたことが」
 「ズボンの上から刺したのですね、私もずい分やられました」
 「あのズボンはかなり厚手のはずなんですけど、相当丈夫な口吻をもった蚊です、まさか、あのぽちぽちの吸血蚊じゃないとは思いますけど」
 「一匹いれば二匹はいるわけでしょう」
 彼女はテカテカに光った顔を私に向けて、「その通りです、生き物のことよくご存じですね」。笑顔で私を見た。かなりの美人である。
 「いや、生物のことはよく知りませんが、銀行では生命保険なども扱いますからね、世間は男と女で成り立っている、動物もそうでしょう」
 「そうですわね」
 「あの蚊に刺されたとなると、明日、足に赤い茸が生えますよ」
 「あ、そうですね、それは楽しみ、赤い茸を生きたまま研究室に持っていけます」
 そのとき、彼女は研究者の顔になっていた。
 岩田先生も風呂からでてきて、それからまた茸と蚊の話をした。二日泊まる予定で彼らがもってきたビールを全部飲んでしまった。

 次の朝、いつものように六時におき、朝食準備をしていると、岩田先生が帰り支度をして下に降りてきた。
 「もう、お帰りになるのですか」
 「ええ、はやく、研究室に持って帰りたいので」
 「すぐ朝食の用意をします」
 「あ、結構です、彼女まだ起きてきませんか」
 「ええ」
 「おかしいな、六時にはおいとまして研究室に行くことにしていたのですが、ちょっと見てきます」
 岩田先生は荷物を下に置くと二階に上がっていき、息子の部屋をノックしている。
 「おかしいな」とつぶやきが聞こえる「入るよ、日野君」
 彼は日野さんの部屋に入ったようだ、すると、大きな声が聞こえた。
 「大変です、日野さんが」
 なにが起きたのだろう、慌てて私も二階に上がった。
 そのとき部屋で見たもののことは、今思い出しても、あまりにも異様で、ぞーっとする。ベッドの脇に布団がずれおち、上で人間の大きさの真っ赤な茸がよこたわり、傘をゆらゆらさせていた。柄のところには手足のような突起が飛び出ていて、もぞもぞと動いている、生きているのである」
 「日野さんが、あの茸に吸い尽くされた」
 岩田先生はどのように対処していいのかわからずおろおろしている。。
 「救急車呼びましょう、どこの病院がいいですか、事情を話せば筑波の大学病院までも行ってくれると思いますよ、彼女は死んでいるわけではない、岩田先生、研究所の上司の方などに連絡してくれますか」
 おろおろしながらも彼は携帯で上司に電話をしている。その点、銀行マンだった私は落ち着いていたのだろう。
 「筑波から車を回してくれるそうです、様子を話したら、彼女の姿を外部にさらさないように、とのことでした、それに衛生関係の人たちもよこすということです、もし悪い病原体をもっているといけないので、消毒するそうです」
 「筑波からだと二時間くらいは見ておいたほうがいいでしょうか、どうぞ荷物をまとめておいてください」
 私がそういうと、やっと岩田先生もおちついてきた。
 「ありがとうございます」
 そういって、泊まった息子の部屋にもどった。
 私はもう一度日野さんを見に行った。
 息子のベッドに血の色をした茸が横たわっている。窓から入ってくる朝日にがあたって、日野さんだった赤い茸の体が透き通って見える。心臓らしきものはみえない。
 岩田先生が荷物をまとめ終わったとみえての部屋にはいってきた。
 「先生、日野さんがきていたものが見当たりませんね」
 不思議に思っていたことだ。
 「何も着ないで寝ていることは考えられませんから、茸が吸収してしまったとしか言えません」
 人が茸になってしまったのだから、何が起きても不思議はないのだろう。しかも一晩でそうなってしまった。
 「車が来るには間があります、お話しておきたいことがあります」
 我々は居間におりた。虎が不思議そうな顔をして見上げている。
 「大変ご迷惑おかけしました。研究部長から電話があり、よろしくいうようにいわれました。お伝えしなければならないのは、網野さんもこの蚊に噛まれているということで、一緒に病院のほうに検査入院していただきたいということでした。猫ちゃんも。それにこの蚊が庭にまだいる可能性があるので消毒などしたいそうです、こちらの警察に家を管理するように依頼するそうです」
 ちょっと大変なことになった。しかし仕方がない、旅行中の家内には、帰国後はホテルに滞在するように連絡しよう。
 私も入院する手はずをして、筑波から来る車をまった。
 戸締りをして、虎を猫のかごに入れて、いつでも出られるように整えた。
 しばらくすると、救急車と大きなワゴン車が到着した。
 責任者という人に家の鍵をあずけ、私たちは救急車に乗った。
 
 私は筑波の大きな病院の感染病棟にいれられ、猫の虎はやはり筑波の大学の獣医学部衛生教室で管理された。
 二週間たったとき、私と虎は特に異常はないことがわかった。ただ一月経過観察ということで、入院を継続していた。家内が面会にこれるようになり、話していいことだけは話た。毒をもつ蚊に刺されたことになっている。
 退院まであと五日となった日に、岩田先生が病室にやってきた。岩田先生も一時は入院していたが、蚊にさされていないことから、すぐに研究室に戻っていた。
 「すみませんでした」
 岩田先生があやまるものだから、先生にはなにも責任が無いことを諭した。、まじめな人である。むしろ蚊が増える前に発見してくれた恩人である。
 岩田先生は退院後、茸の解析に集中していたのだそうだ。この茸の学名に私の名前も入れることが決まっているそうである。全く新しい生き物としてもいいくらいのものだと、周りは考えているという話をしてくれた。といって私にはそれがどのような価値があるものなのかわからない。そのような話のあと、ちょっと目を伏せた。
 「日野さんのことでお伝えしたかったので」そうきりだした彼は、
 「日野さんはまだ赤い茸のままです。戻れるかどうかわかりません。だが、生きているのです、この茸は日野さんの神経が残っていて、体中に神経が伸びています。筋肉の細胞もばらばらになって皮膚に入り込んでいます、だから体をくねらせるくらいは動けます。この赤い茸は人の体の中に菌糸を伸ばし、その一部は人の細胞と同化しています。ようするに日野さんは神経と筋をもった赤い茸になってしまったのです。ただちがうのは、傘の頭のところに脳に相当する神経の集まりができています。進化しています。その脳の機能をいま脳神経科で調べています。もしかすると、日野さんの記憶が残っているかもしれません。それに、おどろいたことに傘の一部に卵巣が集まっています。クラゲなどとちょっと似ています。彼女は女性です、新たな生き物です、もう私の手には負えないところです」
 日野さんのことは頭から離れない。動物学者でジャズダンサー、こういう女性がこれからも出てくるのだろう。素敵な人だった。年寄りには眩しくさえ見えた。
 「蚊については日野の後輩たちが総出で研究しています」
 「それであの蚊に刺されて、私や猫はなぜ日野さんのように茸にならなかったのでしょうか」
 「性染色体はごぞんじですか」
 「ええ、それは、XXが女性でXYが男性ですね」
 俺にもそれくらいの知識はあった。
 「そうなんです、あの茸の胞子の遺伝子はXに入り込んで、茸の細胞にしてしまうんです、ちょっとウイルスやファージのような感じです」
 そこは私には理解できなかった。
 「だけど、性染色体は精子と卵子だけにあるのではないのですか」
 「いえいえ、からだのすべての細胞の中にあるのですよ」
 やっぱり生物はよくわかっていない。
 「それで、体中の細胞のXをおかしくして、茸にしてしまうのですが、男にはYがあって、それを抑えるので、刺されたところの細胞から小さな茸が生えるだけなんです。ところが女性はXXなので、すべてを茸にしてしまいます、それで日野さんは茸になってしまったのです」
 「退院したらお見舞いにいきたいですね」
 「いや、会えません、実は日野さんのことは他人に言ってはいけないと言われています、網野さんには嘘は言えないと思ってお話をしました。国の極秘事項になっていて、日野さんのご家族には彼女は蚊からうつされた毒性の強い伝染病で亡くなったことになっています、位牌だけお渡ししたそうです、お察しください」
 私は唖然とした。岩田先生の立場はよく分かった。言ってくれてありがたかった。しかしこの扱いいがいいのかどうかかわからなかった。岩田先生はこうも言った。
 「私も科学者として隠しておくのはいやだと思い、上司にそう言いました。しかし、日野さんが見せ物になってもいいのか、メディアの餌食になっていいのか、彼女には苦痛の無いように生きていてもらう、そう言われました」
 私は黙るしかないと思った。
 「元に戻る可能性はあるのですか」
 私がそう問いかけても彼は俯いたままだった。ただ小さい声で、
 「そうなって欲しいですが」とつぶやいた。
 
 家に戻り、久しぶりに自宅のPCを開いた。今までの話を書きとめておこうと思ったからだ。
 タイトルとして吸血茸と打ち込んだ。すると、吸血鬼の子と変換されてでてきた。
 その通りだと思った。

指の先を蚊にかまれた。赤い小さな茸のようなものができた。飼い猫の頭にも赤い茸のようなものが生えた。つぶすと血がでてきた。庭に変な蚊がいる。専門家に調べてもらった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-26

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