草片文庫(くさびらぶんこ) 作

蚊

茸SF不思議小説です。縦書きでお読みください。

 庭先で植木に止まっている髪切り虫をみていたとき、左手の人差し指の先に蚊が止まった。変なところに止まったものだ。血を吸うつもりだろうが、そこは皮膚が少しばかり堅いぞ。そう思って見ていると、蚊は細い口を突き刺して血をすい始めた。器用なものである。
 つぶしちまおうか、とも思ったが、美味そうに一生懸命飲んでいるので、もう少し見ていようと思って放っておいたのだが、指先がこそばゆくなってきた。
 そこで、ちょっとおかしなことに気が着いた。蚊の模様である。白い筋のある藪蚊でもない、赤家蚊でもない、体中に茶色のぽちぽちがある。始めてみる蚊だ。目玉が赤い。
 まだ血を吸っている。お腹が赤く膨らんできた。そろそろつぶしちまおう。
 そう思って右手をそうっとあげた。そのとたん、蚊のやつはよたっと宙に浮いた。蚊のくせにホバリングをしている。腹が血で膨らんで落ちそうだ。
 人差し指が無性にかゆくなった。しょうがない右手で左手の指先を掻いた。
 そこに飼い猫の赤が足下にやってきた。真っ黒な太った雄猫だ。足にこすりついて私を見上げた。
 蚊の奴ホバリングからいきなり急降下した。あっという間に赤の鼻の頭に止まった。刺されるぞと思ったとたん、蚊は赤の鼻に口を差し込んだ。真っ赤に俺の血を吸ってまだ吸おうてんだ。
 見ていると、おかしなことに蚊の赤い大きな腹が縮んでいく。やがてぺっちゃんこになった。腹にあった俺の血を赤の鼻に全部注入しちまったようだ。私の血が赤の鼻の頭に入っちまった。どうなるんだろう。
 蚊の奴は勢いよく飛び上がると、すーっと庭木の茂みに入っていった。
 赤がなぜか悩ましげに俺を見ている。人差し指の先が無性にかゆくなった。赤も鼻の頭に左手を当ててこすっている。今度は俺の足に鼻先をこすりつけた。かゆいんだ。
 人差し指を掻きながら家の中に入ると、赤も入ってきた。椅子の足に鼻をこすりつけている。
 ムヒを指に塗った。赤の鼻に塗ろうとムヒを塗ろうとしたら、赤は慌てて逃げた。それはそうだろう、つーんとくるのだから逃げるわけである。
 赤は猫穴を通って外に飛び出してしまった。
 蚊に刺された左手の人差し指の先を見ると、かゆみは収まっているが、なんだか少し膨らんでいる。炎症を起こしているのかもしれない。見慣れない蚊だったが、変な病気を移すような蚊でなければよいが。血を吸うのを眺めていたなどと馬鹿なことをしたものだ。
 しかし、まあ、どうってことなく、夜になった。黒猫の赤がやっと帰ってきた。雄猫は天気がいいとどこかで遊んで、腹を空かして帰ってくる。猫の食器にはそのためにたっぷりの猫餌を入れておいてやる。
 黒は帰ってくると、すぐにキッチンの自分の皿に首を突っ込んで、カリカリと音を立てて食べている。
 居間でテレビを見ていたら、満足した顔で赤が部屋の中に入ってきた。顔がなんかおかしい。
 そばに寄ってきたのでよく見ると、鼻の頭に赤黒い小さなおできができている。いや、茸が生えている。一センチほどの小さな茸のようなものである。
 抱き上げると、ごろごろと喉を鳴らして頭をこすりつけてくる。鼻の上のものをよく見ると、どうしても茸にしか見えない。赤い傘の内側はヒダになっている。
 指で触ってみるとプルプルと柔らかい。触ってもいやがらないので、痛いとかそういうことはないようだ。
 私は茸を持って引っ張った。なかなかとれないがちょっと強く引くと、茸が浮き上がって、メリッと言う音とともに剥がれた。茸の柄の底には赤い糸がたくさん生えている。赤の鼻の上が赤くなって血が滲みだした。
 これはいけない。茸を机の上に置いて、血をティッシュで拭き取り、消毒薬を塗ってやった。痛かったようだ。飛び跳ねるように私から離れてキッチンに逃げていった。
 赤の鼻の頭から取った茸のようなものをテーブルの上から拾い上げると、やはり茸としか言いようがない。何で猫の鼻の頭から茸が生えるんだ。しかも赤い糸が皮膚の中に発達していたようで、はがしたら血がにじんだ。そう思い出した。高校の先生が茸好きで土の中は菌糸だらけだとよく言っていた。皮膚に菌糸がはびこっていたのだ。
 ぷるんぷるんしている茸の傘をちょっと引っ張ってみた。
 大変なことがおきた。傘が破れたら、じゅーっと血がほとばしりでた。なんと、この茸は血を吸っている。もっとも蚊のやつは私の左指から吸った血を赤に注入したので、茸には私の血が入っているのかもしれない。赤の鼻の頭が変な血が入ってきたので、茸にして捨てたのかもしれない。
 あの蚊はこの吸血茸の胞子を媒介しているのではないだろうか。
 自分の指先を見た。ちょっと膨れているようだが気にならない。大丈夫だろう。
 空いた薬瓶に吸血茸をいれた。いつか誰かに見せてみよう。
 それが次の朝驚くことになった。朝起きてふと左手を見ると、指先に小さな茸が生えている。猫の赤の鼻先にできたものとほぼ同じだ。やっぱりあの蚊のやつに吸われると茸が生えるようだ。しかもこの茸は寝ている間に私の血を吸って育ったのだ。指先でグニャグニャしている。右手で引っ張ると、ぎゅっと伸びて、ぱちんと切れたものだから、血が飛び散った。パジャマに自分の血が点々とついて赤い水玉模様だ。切れた茸から血がポタポタと落ちている。ということはまだ血を吸い続けているわけだ。あわてて根本をもって引き抜くと、鋭い痛みが指先に走り茸が抜けた。赤い菌糸が垂れ下がっている。指の先がめくれて赤く血がにじんでいる。やっぱりあの蚊は吸血茸なんだ。
 恐ろしい茸だ。取った茸も赤の茸と一緒に瓶の中にいれた。血が固まっている。この茸をどうしたらいいだろう。茸というと茸好きの高校の生物の先生を思い出すが、他にこのようなことに関係している人を知らない。高校の先生は茸の写真を撮って皆に見せてくれた。その先生と連絡を付ける方法はないわけではないが、ご存命なら九十を越しているはずで、茸を見てもらうようなわけにはいかないだろう。
 私の出た大学は経済学部である。銀行勤めだったこともあり、周りにそのような知り合いはいない。どうしたらいいかわからない。科学博物館に聞くのがいいのだろうか。科学博物館の電話番号を調べた。
 電話をかけると受付にかかってしまった。そういうことは研究部門だそうで、筑波にある研究施設の電話番号を教えてくれた。
 かけてみると、茸の専門の研究者が電話口にでてくれた。科学に全く縁がない人間はなんだかとても偉い人と話すような気分になってちょっと緊張する。
 かいつまんで説明すると、相手は「血を吸う茸とは初めて聞きますが、本当に血なのでしょうか。赤い茸の汁ということはありませんか」と聞いてきた。まあ当たり前の反応である。
 薬の瓶の中の赤い液体を見ると、血が固まっているようにしか見えない。
 そのことを話すと、「そうですか、こちらに来られることがないようでしたら、そのままでいいですから、宅急便で送っていただけますか」と言った。
 私は了解して、その研究者に茸を送ることにした。研究者は岩田草大と名乗った。声からするとまだ若いようだ。
 すぐ宅急便の用意をしてコンビニにもっていったあと、PCを開いて岩田草大と検索をかけたところ、茸研究の中堅どころらしく、いくつも論文の題名がでてきた。全く意味はわからない。本も書いているて、「奇妙な茸」という新書で、そちらなら分かるかもしれない。面白そうだ。そのうち買ってみよう。
 その夕方、帰ってきた赤の耳の後ろにまた茸が生えていた。あの蚊に血を吸われたか、誰かの血を注入されたのだろう。どちらでも茸が生えるようだ。
 茸を引っ張ってはがすと、今度はつぶさずに空き瓶に入れた。耳の後ろの茸を剥がしたところから血がにじみ出ている。また薬を塗ってやった。今度はおとなしくしている。
 あの蚊を捕まえてみよう。そう思って庭にでた。猫の赤はいつもならついてくるのに、居間のソファで空ろな顔をしている。
 網などもっていないので、いたら手で叩き潰すつもりだった。椿の木の下に行くとぷーんと蚊の羽の音がした。顔めがけて飛んできたので、思い切り叩いた。ざまあみろと手を開けてみると、白い筋の入った黒っぽい蚊がつぶれていた。いつもの藪っ蚊だ。隣の山吹の茂みの方に行くと耳のあたりでぷーんと音がした。振り返ると、目の前に蚊がいた。片手でむんずと掴んだ。うまく捕まえた。手を開くと茶色っぽい蚊がくたばっている。違う、これは赤家蚊って奴だ。
 庭の角に睡蓮鉢が置いてある。黒出眼金が三匹泳いでいるので、ボウフラはいない。キンモクセイの枝が鉢の上にかかっている。その時、右の手首に蚊が止まった。あわてて左手で蚊を打った。
 蚊がつぶれているが白いぽちぽちはない。もう三匹も捕まえた。おととい吸血蚊のいたイチジクのところに行った。あの時もいたカミキリムシが幹にとりついている。蚊の羽音がした。木の裏に回ってみた。ちょっと陰になってわかりにくいが、ともかく捕まえてやろう。きょろきょろしていると、ぷーんと耳元をかすめた。首を引っ込めて、頭の上を見ると蚊だ。すぐ叩いたが、手の中で死んでいたのはやっぱり藪っ蚊だ。なかなかあの蚊のやつは現れない。薄暗くなってきたので家の中に入った。
 家内が友達と海外旅行で二週間いない。その間猫の赤と二人暮らしだ。面倒なことはできないが、生姜焼きくらいなら造作ない。台所で準備を始めると足の甲が痒くなった。いつの間にか蚊に食われたようだ。素足だったのは無用心だった。太股のあたりも痒い。ズボンの上から刺しやがった。ムヒを塗って夕食の準備を進めた。
 明くる朝、いつものように朝風呂にはいった。パジャマを脱ぎ、湯殿に行くと、足に赤いものが生えている。左足の甲と右足の太腿に二本だ。昨日庭で顔のあたりばかり気にしていたので、あの蚊は下半身をねらいおったのだ。赤い茸を抜こうとかがんだのだが、あの研究者に見せようと思い、抜くのを思いとどまった。それで体もろくに洗わずに風呂に浸かってあがった。タオルでからだを拭いても抜けるようすはなかった。かゆみもなく体に異常がないのでほうっておいた。どうなるか様子を見ようと思ったのだ。ときどき足の甲の茸を見ていたが大きくなる様子もなかった。
 その日の夕方、岩田草大先生から電話があった。
 「網野さんですか、あれはへんてこな茸です、確かに人の血です、それに猫の血も、血を吸う茸です、ただし、毒はもっていないので大丈夫です、世界で始めて見つかった吸血茸です」
 私は網野という。
 「それでどうしましょうか」
 「蚊を捕まえたいのですが」
 「昨日、捕まえようと思って、庭にでたのですが、藪っ蚊ばかりでした」
 「近くにホテルをとりますのでしばらくお宅におじゃましていいですか」
 「ええいいですよ、ちょうど家内が海外旅行ですから、家に泊まっていただいてもかまいません、大したおもてなしはできませんが」
 「それはありがたいのですが、蚊の専門家を一人連れていきますのでホテルをとります」
 「子供部屋が二つ空いていますので、お使いください」
 二人の子供がたまに泊まりにくるのでいつでも使えるようにしてある。
 「本当ににいいのですか、助かります、夜中の採集がしやすくなります」
 ということで明日の夕方から二晩、研究者が泊まりに来ることになった。そういえば、自分の足に茸が生えたことを言い忘れた。明日までほうっておいてもだいじょうぶそうだ。そのままにしておくことにした。生物の研究者とはどんな人種なんだろう。ちょっと楽しみになってきた。電話の話しぶりでは誠実そうである。
 次の日、三時頃に玄関の呼び鈴がなった。大きな四角い顔の岩田草大がリュックを背負い、大きなアイスボックスを肩に掛けて立っている。彼自身も大きいので、後ろにいる人が見えない。
 「岩田です、はじめまして、茸ありがとうございました。とても珍しいものです。宿まで承知していただいてすみま。どうぞよろしくおねがいします」と帽子をとってお辞儀をしたので後ろの人の顔が見えた。丸顔の若い女性である。手には小型の網を持っている。
 「あ、こちらは蚊の専門家の日野香です」と岩田が彼女を前に押し出した。女性が来るとは思わなかった。自分の子供は二人とも男だが、彼女はそんな部屋でも大丈夫だろうか。挨拶の後、そのことを説明したが、土の上でも寝ることができますと、男勝りなことを言った。よく考えると、普段はテントなどで寝起きをするのだろう。二人を息子たちの部屋に案内すると、「すてきな部屋」ととても喜んだ。
 居間にきてもらって、これからの予定を聞くと、すぐにでも庭を見たいという。その後、様子を見ながら蚊の採集をするということであった。
 二人を庭に案内するした。日野女史は蚊よけのために、長袖で手袋をはめ厚めのズボンをはいている。耳を覆うように手ぬぐいを垂らしその上から帽子をかぶっている。
 「日野は蚊の分野では日本で五指に入る研究者です、まかせておけばその白いぽちぽちのある蚊をみつけてくれます、私は茸をあたってみます」
 そう言われて自分のからだの茸を思い出した。
 「岩田先生、実はお見せしたいものがあります。家の中にもう一度戻ってもらえますか」
 「ええ、日野さん、始めていてください」
 彼はそう言うと、私について家に入った。日野女史は早速木の下に行って様子をうかがっている。我々が居間の戸を開け直接部屋に入っても、黒猫の赤はこりたとみえて、ソファーを降りて庭に出てこようとしない。いつもは部屋にいなさいといってもでたがるのだが」
 部屋にあがると、岩田先生を風呂場の脱衣場に連れて行った。
 まず左足の甲を見せた。
 「一昨日、いつの間にか刺されて、茸ができていました、それにここも」
 ズボンをちょっとおろして、大腿のところを見せた。赤い小さな茸がプランと垂れ下がっている。
 「本当ですね、痒いとか、痛いとか感覚はありますか」
 「いいえ、全く忘れているくらいでした」
 「写真撮らせてください。その場所だけですので、そのあと、剥がしててみます、すべて写真を撮っておきますがいいですか」
 もちろんと私はうなずいた。
 太ももの上にできた茸をピンセットでゆっくりと引っ張った。赤い茸がにょーっと伸びた。
 「あまり、強く引っ張ると、裂けて血が飛びちりますよ」
 私が注意すると、ピンセットを茸の底に滑り込ませた。ちょっとヒヤットする。しかし、彼はうまいもので、ピンセットの先を動かし茸を引き剥がした。それを資料瓶に入れ貼ってあった紙に情報を書き込んでいる。剥がしたあとに小さなぽちぽちができて、血が滲んでいる。彼はアルコール綿だといって、取った後の皮膚を拭いた。
 「人の皮膚に食い込む茸など始めてみます、世界の茸研究が驚きますよ」
 彼は嬉しそうに四角張った顔を楕円にしてほころばせている。
 「茸の学名にお名前をいれます」
 などと言っている。足の茸を全部とり終えると、岩田先生は日野さんの蚊の採集に協力するため庭に出て行った。私は居間で赤と一緒にテレビでも見ることにした。
かなり経って、庭に面したガラス戸が開き、二人が上がってきた。
 「蚊はたくさん穫れましたが、おっしゃるような蚊はいませんでした」
 日野は私にガラス瓶をみせてくれた。蚊がうようよいるが確かによく見る蚊ばっかりである。
 「夕ご飯のあとにもう一度、蚊の採集をしたいのですが、かまいませんか」
 日野は赤の頭をなでながらいった。
 「もちろんですよ」
 その上、「この猫ちゃんおかりできますか」
 と言った。赤に聞こえたらいやがっただろう。私はなにげなくうなずいてしまった。
 「猫ちゃんと一緒だと、蚊がよってくると思います、それで採取します」
 猫を餌にしようということがその時きわかった。ちょっとかわいそうだが、一回ならいいか。
 「私料理します、台所お借りできますか」
 いったん二階の自分の泊まる部屋に行って、戻ってきた日野女史がコンビニ袋から野菜類を取り出した。
 「すみません、キャンプ料理しかできませんが、野菜炒めと豚肉の生姜焼きでいいですか」
 彼女はさっさと、台所で用意を始めた。きょうはなにかをとろうかと思っていたので、とてもありがたい。まあ、生姜焼きは一昨日食べたばっかりだが、作ってもらえるなら御の字である。
 「ビールは飲みますか」
 蚊の採集があるので断られるだろうと思って聞いたのだが、二人とも「ええ、いただきます、私たちも用意してきましたが、冷えていないので、冷蔵庫に入れさせてください」
 と飲む気まんまんである。
 「研究に差し障りありませんか」
 私はつい聞いてしまった。しかし、その理由を聞いてなるほどと思った。
 「お酒を飲んだ人に蚊が寄ってくるのはご存じじゃありませんか」
 彼女は笑いながら私を見た。確かに聞いたことがある。「体が熱くなるし、二酸化炭素の放出が多くなるので、蚊がくるのです」
 やっぱりプロである。自分を犠牲にしても蚊を集めるつもりだ。
 「でも、刺されないようにしてから、蚊をおびき寄せます」
 そう言いながら、食卓にできた料理を並べてくれた。いつもそうするのだろう、岩田先生は当たり前のようにソファーで何もしないで待っていた。
 二人ともよく飲んだ。花に寄生して花のような形になる茸や、アフリカでの蚊の採集の怖さ、茸と蚊の面白い話ばかりだった。
 「だけど、人に生える茸はちょー珍しいものです」と言う結論であった。 
 その後、二人とも赤い顔をして庭に出た。日野さんは赤を抱えている。赤が嫌がっていないのは日野さんが猫好きなのだろう。
 庭は居間の明かりで暗くはないが、ヘッドライトをつけての作業である。
 日野さんが赤を木の下に離した。赤は勝手知ったる庭だが、なぜか木の下に縮こまってしまった。
 「いい感じ」
 日野さんは喜んでいる。よく考えると動かない方が蚊がやってくる。 
 私は彼らの後ろからちょっとのあいだ様子を眺めていたが、部屋に戻ってテレビをつけた。それからしばらくテレビを見ていたが、八時のニュースが始まったとき、居間のガラス戸が開いた。「蚊がたくさん穫れました」
 日野さんがそういいながらあがってきた。赤を抱えている。
 「動こうとしませんでした。おかげで蚊はたくさん穫れましたが、吸血の蚊は網にはかかりませんでした」
 赤がソファーに駆け上がってきた。なんだかほっとしている雰囲気だ。
 あとから戻ってきた岩田先生が驚くほどにこにこ顔で私の前に資料瓶をつきだした。
 「ところが、ほら、イチジクの後ろの根本にこんな茸が生えていました」
 中にはあの吸血の赤い茸が入っていた。
 「私や猫に生えた奴だ」
 「ええ、ただずっと大きいでしょう、ちょっと見ていてください」
 彼は標本瓶をソファの前の机の上においた。見ていると、赤い茸がもそっと動いて、傘が持ち上がると、傘の下からあの白いぽちぽちのついた茶色い蚊が這い出してきて、舞い上がった。私が瓶に顔を近づけると、茸の傘がぱっくりと開いて蚊が中に飛び込み、傘がぱたりと閉まった。私が驚いていると岩田先生が説明をはじめた。
 「ボクがイチジクの木の下で赤い茸を見つけたとき、日野さんが蚊を追いかけて来たんですよ」
 「あの白いぽちぽちの蚊が猫ちゃんめがけて飛んできたので、網を降り下ろしたら、ひょっと逃げました、私今まで、網での蚊の捕獲率は100%でした、ほんとにすばしっこい奴です、すーっと飛んで逃げていったので追いかけていくと、イチジクの木の根本で消えたんです、あとは岩田先生が見ていたのです」
 日野さんの話のあとをまた岩田先生が続けた。
 「驚きましたね、目の前の赤い茸の傘がパクッと開くと、あの蚊が飛び込んで、中に入るとパタンと閉まったのです、それで私はあわてて茸を引っこ抜いて、標本瓶にいれました」
 「それはよかった、茸の中にすんでいる蚊だったのですね」
 日野さんがさらに面白いことを言った。
 「茸と蚊の共生も珍しいものです。想像するにこの茸は動物の血が必要で、蚊は血を吸ってくると、茸に半分くらい与えていたのでしょう、一方、蚊は茸に守られている。もしかすると、茸の中で蚊の幼虫、ボウフラが育つのかもしれない」
 「大変な茸ですね」
 「さらに想像すると」、茸の専門家の岩田先生が続けた。
 「茸は蚊に胞子を運ばせて、動物の皮膚に植え付けさせ、直接動物から血をすうことができるようにしているのではないでしょうか。やがて蚊がいなくても、動物の体の中で育つことのできる茸に進化するというものです」
 「恐ろしいことですね」
 「いや、私たちの仮説にしかすぎませんので、これから研究を進めます、ともかく大発見で、蚊の証拠もあります、研究所で大騒ぎになりますよ」
 「ともかくよかったです、どうです、お二人とも風呂でも浴びて、もう一度ビールでも、持ってこられたのが冷えたでしょう」
 「あ、そうします、今日はもう採集はやめです、すごい資料が手に入りました。明日早く研究所に帰り、すぐに調べます。恐らく蚊は生きたままもって帰ることができるでしょう」
 「それはいいですね」
 彼は瓶をそうっと持ち上げると自分の部屋にもどった。
 二人はすぐに着替えると降りてきて、日野さんから風呂を使った。
 私は乾きものだがつまみを用意し、ビールの支度をした。
 「研究は大変でしょう、銀行員だった私などには想像できませんよ」
 「いや、こういう研究をしている人間は、コミュニケーションも下手で、これしかできない偏屈人ですよ、ただ、今の研究者は昔ほど朴念仁ではなくて、日野君なんて、蚊の研究をやりながら、ジャズダンスのセミプロなんですからすごいものです」
 そんな話をしていると、彼女が風呂から上がってきた。はっと目を見張るようなスタイルであった。Tシャツに短パン姿の彼女は確かにジャズダンスをやっているというだけあって、パキパキに張りつめた手足、ピンと張った胸。年寄りでもちょっとドキドキするほどの見事なものである。
 「ボク入ってきますので、先にビール飲んでいてください」岩田先生が風呂に行った。
 「いいお風呂ですね、桧づくりですばらしいですね」
 日野さんが私の前のソファーに腰掛けた。彼女にビールをつぐと、「すみません」と一気に飲んでしまった。
 すぐにつぐと、「いいお住まいですね、環境がすばらしいわ、今にこんな家に住みたいです」
 「いや、若い皆さん、もっともっといい家に住むようになりますよ」
 「どうでしょう、研究者はお金が入りませんしね、私は趣味につぎこんでますし」
 彼女はそんなことをいいながら、自分の太ももに手をやった。
「蚊に刺されている、私としたことが」
 「ズボンの上から刺したのですね、私もずい分やられました」
 「あのズボンはかなり厚手のはずなんですけど、相当丈夫な口吻をもった蚊です、まさか、あのぽちぽちの吸血蚊じゃないとは思いますけど」
 「一匹いれば二匹はいるわけでしょう」
 彼女はテカテカに光った顔を私に向けて、「その通りです、生き物のことよくご存じですね」と笑顔で私を見た。かなりの美人である。
 「いや、生物のことはよく知りませんが、銀行では生命保険なども扱いますからね、世間は男と女で成り立っているので、動物もそうでしょう、必ず二人いる」
 「そうですわね」
 「あの蚊に刺されたとなると、明日、足に赤い茸が生えますよ」
 「あ、そうですね、それは楽しみ、赤い茸を生きたまま研究室に持っていけます」
 彼女はもう蚊の研究者の顔になっていた。
 岩田先生も風呂からでてきて、それからまた茸と蚊の話をした。二日とまる予定できたビールを全部飲んでしまった。

 次の朝、いつものように六時におきて、朝食準備をしていると、岩田先生が帰り支度をして下に降りてきた。
 「もう、お帰りになるのですか」
 「ええ、はやく、研究室に持って帰りたいので」
 「すぐ朝食の用意をします」
 「あ、結構です、彼女まだ起きてきませんか」
 「ええ」
 「おかしいな、六時にはおいとまして研究室に行くことにしていたのですが、ちょっと見てきます」
 岩田先生は荷物をしたにおくと二階に上がっていき、息子の部屋をノックしている。
 「おかしいな」とつぶやきが聞こえる「入るよ、日野君」
 彼は日野さんの部屋には行ったようだ、すると、大きな声が聞こえた。
 「大変です、日野さんが」
 なにが起きたのだろう、慌てて私も二階に上がった。
 部屋で見た時のことは、今思い出しても、あまりにも異様なことで、ぞーっとする。
 ベッドの上で人間の大きさの真っ赤な茸が、傘をゆらゆらさせていた。柄のところには手足のような突起が飛び出ていて、もぞもぞと動いている、生きているのである」
 「日野さんが、あの茸に吸い尽くされた」
 岩田先生はこのような事件にどのように対処していいのかわからずおろおろしている。私はあわてて、警察と消防署に電話し救急車を手配した。
 「どこの病院がいいですか、事情を話せば筑波の大学病院までも行ってくれると思いますよ、彼女は死んでいるわけではない、岩田先生、研究所の上司の方などに緊急連絡してくれますか」
 おろおろしながらも彼は携帯で上司に電話をしている。その点、銀行マンだった私は落ち着いていたのだろう。
 「筑波に運ぶようにいわれました」
 「必要なものはお持ちになって、救急車に一緒に乗ってお帰りください、私はお二人の残りの荷物をまとめておきますから」
 彼は採取したものをいれたクーラーボックスだけ持った。
 救急車の隊員は日野さんをみると、あまりの異様さにおどろき、しかし私にこういった。
 「この家のあたりは封鎖されるかもしれません、すぐに保健所がくると思います、どこに運ぶかわかりません、筑波になるかもしれませんが、ともかく、隔離が必要になると思います」
 それで、私はいきさつを話し、おかしな蚊がいることを伝えた。
 「このあたりで、その赤い茸がはえた人はいるのでしょうか」
 「聞いていませんので、私とうちの猫しか知りません」
 ということで、私と猫も隔離されることになったわけである。
 家の周りは保健所からの係員が来て、蚊の退治におおわらわであった。
 それから一月ほど私は隔離された。猫も同じである。あらゆる検査が施された。驚いたのは旅行から帰ってきた家内である。親戚の家に止めてもらっていて、私に会えたのは三週間後である。
 どうやら病原体などは保持していなかったようだ。一月たったころ、岩田先生がやってきた。面会ができるようになり、もうすぐ家に戻れるというときである。
 「すみませんでした」
 岩田先生があやまるものだから、岩田先生にはなにも責任が無いことを諭した。、まじめな人である。
 岩田先生は茸も生えず、問題はなかったので、研究に没頭していたのだそうだ。この茸の学名にに私の名前も入れることが決まっているそうである。全く新しい生き物としてもいよいくらいのものだと、周りから思われているという話をしていた。と言って私にはそれがどのような意味なのかわからない。
 「日野さんのことでお伝えしたかったので」そうきりだした彼は、
 「日野さんはまだ赤い茸のままです。戻れるかどうかわかりません。だが、生きているのです、この茸は神経に相当するものが発達していて、体中に神経が伸びています。だから体を動かすことができます。人の細胞に相当するものは全くなくなっています。茸の細胞だけです。猫や網野さんに生えた赤い茸の細胞と全く同じです。神経も動物のものと似ています。ようするに日野さんは赤い茸になってしまったのです。ただちがうのは、傘の頭のところに脳に相当する神経の集まりができています。進化しています。その脳の機能をいま脳神経科で調べています。もしかすると、日野さんの記憶が残っているかもしれません。それに、傘の一部に卵巣が集まっています。クラゲなどとちょっと似ています。彼女は女性です、新たな生き物です、もう私の手には負えないところです、私は茸しかわかりません」
 彼を慰めるのにはどうしたらいいかわからなかった。日野さんのことは頭から離れない。生物学者でジャズダンサー、こういう女性がこれからも出てくるのだろう。素敵な人だった。年寄りには眩しくさえ見えた。
 「蚊についてもわかりました。全く新しい種類だそうです」
 「それであの蚊に刺されて、私や猫はなぜ日野さんのように茸にならなかったのでしょうか」
 「性染色体はごぞんじですか」
 「ええ、それは、XXが女性でXYが男性ですね」
 私もそれくらいの知識はあった。
 「そうなんです、あの茸の胞子の遺伝子はXに入り込んで、茸の細胞にしてしまうんです、ちょっとウイルスやファージのような感じです」
 そこは私には理解できなかった。
 「だけど、性染色体は精子と卵子だけにあるのではないのですか」
 「いえいえ、からだのすべての細胞の中にあるのですよ」
 やっぱり生物はよくわかっていない。
 「それで、体中の細胞のXをおかしくして、茸にしてしまうのですが、男にはYがあって、それを抑えるので、刺されたところの細胞から小さな茸が生えるだけなんです。ところが女性はXXなので、すべてを茸にしてしまいます、それで日野さんは茸になってしまったのです」
 「退院したらお見舞いにいきましょう」
 「いや、会わない方がいいと思います、実は日野さんのことは他人に言ってはいけないと言われているのです、網野さんには嘘は言えないと思って、お話をしました。話をしたことがわかると、私はどうされるかわかりません。国の極秘事項になっていて、日野さんのご家族には彼女は亡くなったことになっています、お察しください」
 私は唖然とした。岩田先生の立場はよく分かった。言ってくれてありがたかった。しかしこの扱いいがいいのか悪いのかわからなかった。岩田先生はこうも言った。
 「私も科学者として隠しておくのはいやだと思い、上司にそう言いました。しかし、日野さんが見せ物になってもいいのか、メディアの餌食になっていいのか、彼女には苦痛の無いように生きていてもらう、そう言われました」
 私は黙るしかないと思った。
 「元に戻る可能性はあるのですか」
 私がそう聞いても彼は俯いたままだった。ただ小さい声で、
 「そうなって欲しいです」とつぶやいた。
 
 久しぶりに自宅のPCを開いた。今までの話を書きとめておこうと思ったからだ。
 タイトルとして吸血茸と打ち込んだ。すると、吸血鬼の子と変換されてでてきた。
 その通りだと思った。

指の先を蚊にかまれた。赤い小さな茸のようなものができた。飼い猫の頭にも赤い茸のようなものが生えた。つぶすと血がでてきた。庭に変な蚊がいる。専門家に調べてもらった。

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  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-26

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