君の声は僕の声 第七章 5 ─木漏れ日─
木漏れ日
聡は足跡を追った。
秀蓮の姿は見えない。足跡の先は大きな倒木が行く手を遮っていた。
「あそこか……」
倒木をよじ登るようにして飛び越え、顔を上げた聡の目の前に広がる世界に息を飲んだ。
一面目の覚めるような萌葱色。
地面も木の幹も木の枝も、すべてが新芽と苔に覆われている。その苔に雪が薄っすらと積もっている。聡は口を開けたままその場に立ちすくみ、首だけを動かしていた。
冷たい空気がしっとりと肌に馴染んで心地良い。見上げながら歩いていた聡は、あやうく根っこにつまずきそうになった。慌てて足もとを見ると小さな芽が苔のあいだから顔を出していた。苔に埋もれてしまって窮屈そうな芽もある。雪を被って寒さに耐え寄り添っているようにも見えた。
「頑張って成長しろよ」
聡はしゃがみ込んで雪をそっと払った。知らず知らずに顔がほころぶ。いつの間にか心の霧が薄れていた。
立ち上がろうとして聡はまたも息を飲んだ。
雲に隠れていた太陽が顔を出し、一瞬にして白いカーテンが敷かれたように、早春の柔らかな木漏れ日が目の前に広がった。明るく照らし出された場所には、白い小さな花が群生していた。そしてその花たちを見下ろしているかのように巨大な一本の樹が生えていた。いや、地面から生えているというのは適切な表現でない。その樹は遥かな時間を見つめてきて根をおろしてしまった老人のようだ。幹は皺だらけだが、どんな天変地異が起きようとも、頑として動くことはなさそうだ。その威風堂々とした存在感は異彩を放っていた。
聡はその樹に向かって歩いた。木漏れ日が目の前に迫ったとき、樹のそばに秀蓮がいることに気づいて無意識に木の影に隠れた。そっとのぞくと秀蓮はずっとうつむいていた。違う、うつむいているのではない。樹の根もとをじっと見つめている。
しばらくすると秀蓮は、手にしていた数本の花を樹の根もとにそっと置いた。それから苔のあいだからのぞく黒々として深いしわの刻まれた幹に両手を添えると、そっと顔を寄せて瞳を閉じた。唇が微かに動き、何か言っているように見えた。
それから眩しそうに木漏れ日を見上げた秀蓮の目に涙が光った。
聡は気づいた。
そこには秀蓮の大切な人が眠っているのだと。
老木を覆う苔についた雪の結晶が、木漏れ日を反射して輝いている。木漏れ日が揺れる影に結晶の光を受けて寄り添う秀蓮の姿が、森の風景に溶け込んで美しいと思う気持ちと、秀蓮の触れてはいけない場所に踏み込んでしまったという慙愧(ざんぎ)の念が入り混じり、聡はその場から動けずにいた。
帰ろう……。そう思ったとき、
「聡」
秀蓮が聡を呼んだ。
──気づかれていた。
「ここは……」
聡は秀蓮の後ろに立つと、手向けられた花を見つめながらつぶやいた。
「父と母が眠ってるんだ。ここは母が好きだった場所でね」
「…………」
聡は群生する小さな花を見つめてから手を合わせた。それから考えていなかった言葉が自然と口をついた。
「秀蓮……。その。ごめん。僕は君に……杏樹の父親への憎しみまでぶつけていたんだ。──ごめん」
口に出して聡は気づいた。そうだ。この怒りは、杏樹の父親への憎しみだ。
ゆっくり顔を上げると秀蓮の肩が震えていた。うつむいて額に当てた手のひらを伝って涙がこぼれ落ちていた。聡は愕然とした。秀蓮がこんな風に泣いているのを初めて見た。
秀蓮は声を殺して泣いていた。
「自信がないんだ」
額に手を当てたまま秀蓮が小さく言った。
「どうすることが一番いいのかわからない。僕は医者じゃない。──僕は杏樹が忘れたかった恐怖を呼び起こしてしまっただけなのかもしれない……。寮よりも、ここで過ごすことが杏樹にとっていいと思って連れてきたのに──」
そう言って秀蓮は涙の伝う唇を噛みしめた。
「秀蓮……」
聡は秀蓮に触れようと差し出した手を握り、自分の胸に持っていった。混乱していた。
秀蓮は自分と違っていつも大人だった。見た目には少年でも、体は成長していなくても、秀蓮には豊富な知識と経験があり、それが彼を大人にしていた。聡はいつだって、秀蓮を兄や父のように見てきた。──それがどうだろう。今、自分の目の前で泣いているのは見たままの少年だった。
「…………」
喉の奥に言葉が詰まって出てこない。
そうなんだ。秀蓮も自分と同じ、成長することのない少年なのだと、聡はその時初めて意識した。医療の知識があっても、患者と接してきたわけではない。杏樹にとってどうすることが一番いいかなんて、秀蓮にも誰にもわからない。
「聡」
俯いたまま額から手を離した秀蓮の目は涙に濡れている。それを見た聡は秀蓮の首に腕を回してぎゅっと抱きしめた。秀蓮はうつむいたままだ。聡は右手を秀蓮の後頭部に持っていき、秀蓮の髪にそっと添えた。
「一緒にいよう、秀蓮。杏樹の傍に。マリアが言ってた。──杏樹は、強くなったって……。秀蓮のおかげだって」
秀蓮が顔を上げる。
「僕だって病気のことは難しくてわからないけど、僕たちは杏樹の友達だ」
「聡」
「難しく考えないで、シンプルに考える。──秀蓮が僕に言ったんだよ」
聡がにっこり笑う。
「だから、友達として傍にいる」
秀蓮は涙をこぼしたまま、目を丸くして聡を見ていた。
「それでいいよね」
その日の夜は陽大が出てきた。マリアの話では、陽大も杏樹の話を聞いていたはずだった。陽気な陽大もさすがにいつもより元気がなかったが、それでも相変わらずの饒舌ぶりを発揮し、聡と秀蓮を笑わせた。ネタに尽きると話はキャンプの麻柊の『幽霊騒動』になった。麻柊のまねは他のだれのまねより上手い。可哀想に、麻柊の怖がりはいつでもネタにされてしまう。
久しぶりに笑い疲れて、三人は早々に寝ることにした。
背中に秀蓮の体温を感じながら、聡は眠りにつこうとしていた。
聡には杏樹の人格が、その表情を見ただけでわかるようになってきていた。だが、わかればわかるほど、ずっと心の奥でひっかかっていたことが気になりだした。
杏樹にはまだ、マリアや陽大でさえ知らない人格がいる。
あの日、聡が杏樹の秘密を知ってしまったとき、「このことを誰かに話したら、俺はあんたを許さない」そう憎しみのこもった瞳で聡を見下ろしたあの少年は、マリアや陽大ではない。子供たちでもない。人格の区別がつかなかった頃は玲だと思っていた。だが、玲とも違う。玲は冷たい瞳をするが、あの瞳は冷たい瞳ではなかった。もっと深い憎しみのような感情がこもっていた。あの少年は誰なのだろう。なぜ姿を現さないのだろう。
あのとき、少年は「あんたは心に優しくしてくれた。だからあんたを傷つけない」そう言っていた。あれはどういう意味なのか……心に傷の手当をしていなかったら、杏樹の秘密を知った自分は傷つけられていたのだろうか。浴室で刺された少年のように。
少年を刺したのはその少年なのではないだろうか。
姿を現さないもうひとりの少年。杏樹の中には攻撃的な人格がまだいるはずだ。
聡は杏樹の寝顔を見つめた。
杏樹はまだ知らない。自分の中に『他人』が住んでいることを。それを知ったら、杏樹は……?
君の声は僕の声 第七章 5 ─木漏れ日─