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 真の偉大なる才能とは、死を恐れぬ魂のことである――カルディ・イケリ

2020/08/26

その時、僕は三十一歳で、マレーシア航空のボーイング747に乗っていた。
その巨大な飛行機は、日付が変わるか変わらないかの時間にクアラルンプールの空港を飛び立った。無事に離陸を終え、西へと機首を定めた飛行機の中で、シートベルトを外す許可のホーンが三度響いた。僕は窓の外に目をやった。そこには輪郭の曖昧になった男の顔が映っている。僕はシートベルトを緩め、ジョイントの金具を外した。
一度目の乱気流が落ち着いた頃に、乗務員たちは機内食を運び始めた。僕は腹を空かせていた。クアラルンプールでの七時間に及ぶトランジットの間、僕が口にしたのはひと袋のピーナッツだけだった。関西国際空港からマレーシアに行くまでの機内で配られたものだ。ビールを一缶とチキンのセットを頼み、運ばれるなりすぐに手を付け、あっという間に食べ終えた。
僕の隣に座っているのは背の高い外国人の青年だった。金色の髪は短く切りそろえられていて、頬とあごには短い髭がびっしりと生えていた。胸にモノクロの写真が印刷された白いTシャツを着て、明るいイエローのショートパンツを履いていた。足には紫色のクロックスを引っ掛けている。学生か何かで、バカンスをマレーシアで過ごしたのだろう。僕は着席した時から、彼のことをフランス人だと決め付けていた。この便はパリ行きだったからだ。
「もし良かったら、食べませんか」と青年は英語で僕に話しかけてきた。彼のテーブルの上にはほとんど手を付けられていないままのトレイが置いてある。
「食べないのかい?」と僕は尋ねた。
すると彼は、両手を軽く上げて、困った表情を浮かべた。「こんなものは食べられない」とでも言いたそうな顔つきだった。こんな仕草ができるのは僕の知る限りフランス人しかいない。きっと僕の食べっぷりを見て寄越す気になったのだろう。
「じゃあ、ありがたく貰っておくよ」
そう言って、僕たちはお互いのトレイを交換した。彼は「メルシー」と言って、フランス語は喋れるのかい、とフランス語で訊いてきた。
「少しだけね」と僕はフランス語で答え、念のために右手の親指と中指でビー玉をつまむような形を作って「少し」を表現した。
「フランスへは旅行かい?」僕の発音が気に食わなかったのか、青年は英語に切り替えた。
「いや、仕事で会わなければならない人がパリにいる」
「ビジネス・トリップ」
「そうだ。君は?」
「バカンスだよ」
「マレーシアはどうだった?」
「最高にクールだったよ」そう言うと青年は、僕のトレイの上にあるビールのコップを取り上げた。僕はコップまで交換してしまっていたのだった。
「ああ、すまない。忘れてたよ」
「C'est pas grave(大したことじゃない)」と彼は言った。
 僕たちは乾杯をして、ぬるいビールを飲んだ。
「ビジネス・トリップなのになんでわざわざマレーシアなんかを経由するんだい?」彼は空になったプラスチックのコップをぐしゃりと潰して、前の座席に付いているポケットにねじ込んだ。「日本からなら、パリに直行便がいくらでもあるだろう?」
「どうして僕が日本人だってわかるんだい?」
「手を合わせてただろう、食べる前に」そう言うと彼は二つの手のひらをそっと合わせた。
「よく見ていたね」
僕はいただきますのポーズを取っていたらしい。飛行機の中でも、子供の頃から教えられてきた習慣はなかなか抜けないものだ。
「日本人はどこでもそうなんだ」彼はくすくすと笑う。
「そう、マレーシアをわざわざ経由するのは、僕の趣味なんだ。南回りが好きでね。あとはトランジットが好きなんだ」
「変わった人だね」
「まあね」
 青年は僕の右手のあたりを指さして、「それ、あなたの名前?」と尋ねた。季節は夏だったが、シャルル・ド・ゴール空港で迎えに来てくれている仕事仲間に失礼のないように、僕は白い長袖のカッターシャツを着ていた。シャツの袖口にはネームの刺繍があった。
「ケー・オンジョ」と彼は目を細めてその文字を読んだ。
「ホンジョウ、だ」
「オンジョウ?」
「そう、君たちにはエイチの――アッシュの発音ができないんだったな」と僕が言うと、彼は頬を膨らませて目をぱちくりさせた。
「よく知ってるね」青年は頭を掻きながら言った。
「フランス人はどこでもそうなんだ」と僕は言ってやり、彼と同じようにビールを最後まで飲み干した。
 しばらく僕は彼から貰った食事に集中していた。青年は腕を組んだまま目を開けている。消灯まではまだ時間があった。
 僕が二人分の食事を食べ終えたのを見計らって、彼は話を切り出した。
「僕の名前はギヨームという。僕は誰かと知り合いになった時、こういう話を良くするんだけれど、僕の名前、ギヨームという言葉の意味を知っているかい?」と青年は腕を組んだまま訊いてきた。
「ギヨーム?」その名前がフランス人の男性に多いということしか僕は知らなかった。
「素敵な名前だね」と苦し紛れに言う。
「ありがとう。まあ、ありふれた名前なんだけどね」
「それで? どういう意味なんだい?」
「ギヨーム……英語ではウィリアム、ドイツ語ではヴィルヘルムになる」
「へえ……じゃあ、シェイクスピアとドイツ皇帝は同じ名前だったんだ」
「その通りさ。この名前はもともとゲルマン人の名前なんだ。ドイツ語のヴィルヘルム、ヴィルは『意志』、ヘルムは『防御』という意味になる」
 僕はドイツ語のWillhelmの文字を思い浮かべた。Willが意志になるのはなるほどと思ったが、helmが防御になる意味がわからなかった。それを言うと青年は、握った両手を耳の横に持ってきて上下に動かした。それで僕は納得した。
「なるほど、ヘルメットってわけか」
「その通り。だからギヨームはヘルメットをかぶった意志の強い守り手という意味なんだ」
「いい名前じゃないか。そんな意味があるとは知らなかったな」
 青年は再び僕の袖口をちらりと見た。
「あなたの番だ。あなたの名前にはどういう意味があるんだい?」
フランス人の青年がおそらく深い意味もなくその質問を口にした時、自分の体が音もなくふわりと浮いた気がした。
 狭い機内に立ち籠めている様々な食物の混濁した匂いは僕の鼻孔からたちまちに失せて、耳の奥で鳴り続けていた航空機の果てしないエンジン音は遠ざかり、青年の端正な顔を捉えていた水晶体は真っ白な光に包まれて、やがて何も映しださなくなる。そうして失われていく意識の中で何かが蠢いて、忘れかけていた、忘れようと努めてきた白の記憶が蘇ってくるのを僕はただ感じていた。
イッツユアターン・ホワット・ダズ・ヨア・ネーム・ミーン……。
 それはほとんど呪文に近い言葉だった。
 僕の心の底にある、純白の記憶を閉じ込めた氷の繭を一撃で砕き、やがて溶かしてゆく、燃え盛る斧のような言葉だった。
そして僕は気の遠くなるような高度から、十年前のあの日の雪の降る庭へと落ちてゆくのだった。

第一章

1989-2010



 人間が自分の名前を認識するのはいつからなのだろう。多くの人は、知らず知らずのうちに自分の名前、親から与えられたそれを、死ぬまで消えない透明な名札として受け入れているはずだ。僕はその時のことをはっきりと覚えている。正確に言えば、僕の人生の記憶は名前を認識したところから始まっている。「Kayuki, what does your name mean?」
 そう僕に尋ねたのがキャシーだったかエノラだったかまでは思い出せない。僕は四歳か五歳で、オーストラリアの幼稚園に通っていた。どちらにせよ、僕にそう訊いてきたのは、同じ組にいる女の子だった。
 買ったばかりの固く乾いたスポンジのような脳みそを抱えていたに違いない幼い僕は、彼女にその答えを与えることができなかった。それがいやに悔しかったことをよく覚えている。僕はお遊戯室にいて、さまざまな形のカラフルなブロックに囲まれていた。僕は、よくわからない、とキャシーだかエノラだかに言って、そのままお遊戯室を出て行った。何だか自分の名前の意味がわからないことが恥ずかしかった。
 幼稚園に赤い4WDで僕を迎えに来た母に、早速自分の名前の意味を尋ねてみた。後部座席にはスーパーで買った水や食料がたくさん入ったビニール袋が置いてあった。
「それはね、帰ってパパに聞きましょう」と母は言った。僕はなぜ今教えてくれないんだとゴネたが、彼女は嬉しそうに笑って首を振るだけだった。
 その日の夕食の席で、僕は父親に自分の名前の話を切り出した。
「なあ、パパ、今日幼稚園で『かゆき』ってどんな意味かきかれてん」と僕はいまよりもずっと高い声で言ったのだろう。あの頃の僕は家で大阪弁を話していた。
「おお、何や。誰に聞かれたんや」と彼は言った。僕はエノラかキャシーの名前を挙げた。
 その時の父親の服装をよく覚えている。計算してみれば、その時僕の父は四十歳になるかならないかのところで、頭頂部は少々寂しくなってきていたように思う。父はシドニーのオペラハウスの写真が印刷された白いTシャツを着ていて、ジーンズ地のハーフパンツを履いていた。そのTシャツのよれ具合まで記憶の一番奥にこびりついている。父のたるんだ腹とオーストラリアの過酷な日差しのせいで、Tシャツのカラープリントはまるで干上がった大地のように細かく割れ、ところどころが欠けていた。
「せやなあ、その話はママにしてもうた方がええんちゃうかなあ」父は僕の頭を撫でてそう言った。
「せやけど、ママに聞いたらパパに聞けって言うねんもん」
「あれ、そうかいな」と言って父は食事を用意している母親の背中を見た。
「その話は、あなたがした方がいいでしょう? やっぱり名前は父親が教えなきゃ」母親は振り返らずにそう言った。
「せやけど、お前が付けたんやないか、かゆきって」
「そうだけど、もともとはあなたが付けるはずだった名前のことも教えてあげたら?」
「まあ、せやけど……」
「なになに? 他の名前もあったん? 教えてよう」と僕は言った。自分に付けられるはずだった名前があったなんて聞いたのは初めてのことだった。
「ほな、しゃあないな。俺が教えたろ、ええか、かゆきって言うのはな……」
 本庄夏雪。それが僕の名前だ。夏の雪と書いてかゆきと読む。父が語った命名のいきさつによれば、僕が生まれた日には――一九八九年八月七日だ――雪が降っていたそうだ。もちろん日本では八月に雪が降ることなどありえない。一見とんでもない名前のように思える。しかし僕が生まれたのは、そして小学五年生まで住んでいたのは、オーストラリアのメルボルンだった。南半球に位置するオーストラリアの四季は日本のそれと逆転する。だから、八月は冬だった。僕が生まれた日、それは日本では夏のど真ん中の一日だったわけだが、冬のメルボルンには雪がちらついたという。
「メルボルンに雪が降ることなんてあるん?」と僕は尋ねた。まだ雪を見たことがなかったのだ。
「いや、ほとんどありえへん。めちゃくちゃ珍しいで。メルボルン市内まで雪が降るんは百年に一度くらいらしいで。せやから、珍しいからって言って、ママがな、お前が生まれる前に、この子の名前は夏雪にしましょう、って言うたんや」
「へえ……」
 そこまで父が語ると、母親がロブスターの載った皿を食卓に置いて、エプロンを解いた。
「あの日はすごい騒ぎだったのよ。もう雪が降っただけでお祭りみたいになっちゃって。だから、何ていうか、記念にと思ってね。日本は夏だったし、夏に降る雪って、何かいいじゃない?」母親は嬉しそうに笑って席についた。
「でもパパは反対したのよ」
「なんで?」と僕は尋ねた。
「もう名前決めてあったからね」そう言うと母は父親の方を見た。
「せや、お前の名前はイケリって決めてあったんや」父は腕を組んでそう言った。
「イケリ?」
 イケリという名を聞いたのもこの時が初めてだった。それは詩人の名前である。カルディ・イケリ、十九世紀に生まれ、世界中を旅した国籍不明の詩人として知られている。もちろんこの時の僕はそんなこと知らなかったのだが。
「そう。イケリ。世界でいちばん美しい人の名前や」父は誇らしそうにそう言った。
「なんでその人の名前をぼくに付けるねんな?」
「それはやなあ……」父は口ごもった。
「だいたい、自分の仕事に関係のある名前を付けるってのがおかしいのよ。いるじゃない、野球選手の息子とか、球とか塁とか付ける人。そういうのあたし信じられない」と母は口を尖らせて言った。
「いや、せやけど、イケリは素晴らしい詩人なんやぞ。お前やって知ってるやろう」
「はいはい、もういいでしょう」そう言って母は目を瞑って手を合わせた。僕と父もそれを見て手を合わせた。
「いただきます」
 夏に降る雪、そしてイケリ。この日の夜に、乾いたスポンジに垂らされたこの二つの滴のような名前が、僕にとっての最初の記憶であり、最初の知識と呼べるものだった。
 


 本庄真人というのが僕の父の名前だった。父の仕事を把握したのは小学三年生の時だった。そしてその時に僕の名前になるはずだったカルディ・イケリという人物が何者なのかを知ることになった。
「カルディ・イケリという詩人は、私の母国である日本ではほとんど知られていません」
 父はマイクに向かって、かしこまった英語でそう言った。僕が覚えているのは最初のその一言だけだ。そこはホテルのパーティー会場で、父は紺のスーツを着ていた。僕は母親と一緒に白いクロスが掛けられた丸いテーブルに座っていた。ネクタイを締めたのはその時が初めてで、とにかく苦しい感じがしたことだけよく覚えている。
 その時の僕には、父に与えられた賞がいったいどのようなものであったかなど知る由もなかった。父がスピーチをしている時に、僕は母親になぜパパはスーツを着てあんなに嬉しそうに喋っているのかと訊いた。すると母は、「そうね、ビーバーズがメルボルンの大会で優勝したようなものよ」と言った。ビーバーズというのはその当時僕が所属していた少年サッカークラブの名前だった。僕はそれを聞いて、とんでもない幸運ではないかと思った。なぜならビーバーズが勝利したことは一度もなかったからだ。僕は弱小チームの唯一の日本人ディフェンダーだった。
 母の使った比喩が絶妙に的を射ていたことを知ったのは僕が日本に戻り、高校生になり、死んだ父の研究について調べていた時のことだった。僕はその時初めて、カルディ・イケリという作家がいかに文学研究の主流から外れているかということを知った。イケリは厳密には英文学の範疇に属する詩人なのだが、イギリスやアメリカにある主だった研究機関では扱われておらず、イケリが息絶えたとされる砂漠があるオーストラリアで、辛うじて専門的に研究されていた。父が受賞した最初の学術的な賞が、その夜彼に与えられたものだ。それまでの父は文学研究の世界で華々しい結果を得たことはなかった。ビーバーズの勝利、それはつまり青天の霹靂とでも言うべきものだったのだ。
 そのパーティーの帰り道、オレンジジュースで白いカッターシャツを汚した僕は母親に叱られてしょぼくれていたのだが、父親にひとつだけ聞きたいことがあった。
「あんさ、お父さん、カルディ・イケリってどんな人なん?」
 メルボルン郊外の弱い街灯の下でも、父の頬が火照っているのがわかった。彼は僕の右手を引いて歩いていた。
「カルディ・イケリっていうのはなあ、夏雪、詩人や。詩人」
「しじん?」
「せや。詩人や。美しい言葉を作る人のことや。美味しいパンを作ったり、きれいな椅子を作ったりするみたいに」
「言葉に美しいとか、そういうのってあるん?」
「そら、あるよ。まあまだお前にはわからんかもしれんなあ」
「お父さんはその人の何なん?」
 僕がそう言うと、父は僕を見下ろして、しばらくじっと見つめてきた。僕は何だか恥ずかしくなって目を逸らせた。
「俺は何なんやろな。カルディ・イケリの何なんやろな……」
「止めてよ、何かその言い方、変だわ」と僕の左手を握っていた母が口を挟んだ。「恋人じゃないんだから」
「恋人な、あながち間違いでもないかもしれへんな」父はくすくすと笑って、再び前を向いて歩き出した。
「そうね。あなたは口を開けばイケリのことばっかり。子供に名前付けようとするくらいなんだから」
「あんな、夏雪。イケリ、カルディ・イケリっていう人は、もう死んでるねん。で、俺はな、その死んだイケリっていう人が、一体何を言いたかったんか、何を伝えたかったんかを調べてるんや。それが俺の仕事なんや」
 僕はその言葉を聞いて、しばらく考えた。仕事、小学三年生の僕が知っている仕事といえば、片手でもカウントできるほど限られた種類しかなかった。学校の先生、ビーバーズのコーチ、スーパーでレジを叩いている太ったおばさん、憧れのサッカー選手に、父がわざわざ日本から雑誌を送ってもらってまで熱狂的に応援している日本の野球チームの選手。
「それって、どんな仕事なん?」僕には父の仕事がうまく想像できなかった。
「イケリが残した言葉がある。それはどれも宝石みたいに美しいものや。つまり、とても価値のあるものなんや。わかるやろ? でも、それがまだあんまり知られてへんねんな。それに、まだ見つかってない言葉もたくさんある。俺の仕事は、宝石を見つけて、それをたくさんの人に知ってもらうということなんや。カルディ・イケリっていう名前を、世界に覚えてもらうことなんや。きれいな宝石があったら、お前やって見てみたいやろう? その名前を知りたいと思うやろう?」
 僕はうなずいた。
「ほんなら、お父さんの仕事は、宝石を掘る人ってこと?」
「まあ、そういうことやな」
 現存するカルディ・イケリの作品の日本語訳はすべて本庄真人が行ったものだ。父はメルボルンにいる時からすでに、イケリの大半の作品を日本語に訳していた。もっとも、それが出版されたのは、彼が日本に帰国して、大阪の大学に文学科の教授として迎えられたあとの話だった。この授賞のおかげで、日本の複数の大学から父に声が掛かり、しばらくしたあとで僕たち家族は日本に移住することになった。両親にとっては里帰りであり、僕にとっては新天地への旅だった。そうして小学五年生の春に、結局ビーバーズの勝利を目にすることのないまま、僕は父の故郷である大阪の地を踏むことになった。



 僕の父は大阪で生まれ、母は東京で生まれた。そして二人はメルボルンで出会い、僕が誕生した。僕はメルボルンで十年暮らし、その間に完璧なオーストラリア訛りの英語を習得した。バイリンガルの子供がよくそうであるように、「家では日本語、外では英語」という生活を十年続けていた。しかしその家での日本語は、父の大阪弁と、母の共通語が混ざり合った中途半端な代物だった。
「かゆきって何か女みたいな名前やなあ」と編入した小学校で言われた。当然だが、僕はオーストラリアでそのように自分の名前を評されたことがなかったので驚いた。そして次には嫌悪感を催した。
「オーストラリアから来たん? せやったら英語喋れんのちゃうん? なあ、喋って喋って」などと言われることもあった。英語を使わなくても良い環境で英語を無理やり話すことくらい難しく不快な思いをすることはない。ほどなくして僕は口を閉ざした小学生になり、周りが使う大阪弁に反抗する意味を込めて母の共通語を意識して使うようになった。小学校生活最後の二年にはあまり良い思い出がない。
 両親は中学受験を僕に薦めた。強制するというのではなかったが、小学校にいまひとつ馴染めていない僕を見て心配になったのだろう。少し離れてはいるが、隣街の中高一貫の私立校を受験してはどうかと両親は言った。その時僕は地元のサッカークラブに入る気もなく、ゲームばかりしている無気力な子供だったから、進学塾に行くことを拒否する理由もなかった。そこでの勉強は今思い出してもハードだったが、何とか僕は志望校に滑り込むことができた。
 よく考えてみれば制服というものに生まれてこの方袖を通したことがない。僕が入学したその私立の中学校は自由な校風が売りで、制服がなかった。校則で何かを縛り付けるということがなく、高校受験も存在しないから、思い切り部活動ができた。僕は当然サッカー部に入った。ディフェンダーをやりたいと監督に言ったが、お前はキックが正確だからボランチをやれと言われた。そうして僕は中盤の底でプレイするようになり、前線へ長短のパスを繰り出し、時にはミドルシュートを放つようになった。僕はサッカーを通してようやく日本社会に馴染んでいった。中学校時代の思い出といえばサッカー以外何も出てこない。毎日砂と汗にまみれながら遅くまで練習して、片道三十分かけて自転車で通学していた。僕の体はみるみるうちに成長してゆき、中学を卒業する頃には父の身長を追い抜いていた。僕はもう大阪弁を話せなくなっていたが、大阪の人間として周りから認められるようになった。



 父は一度も僕に本を読めと言ったことがなかった。父は仕事としても趣味としてもたくさんの本を読んでいた。オーストラリアに住んでいた頃から、父の書斎には天井まで届く堅牢な本棚があって、様々な本の背表紙が綺麗に並べられていた。しかし彼は本棚の中の一冊たりとも僕に渡してこなかった。僕の人生の中で父に強く薦められたことは、大阪に住むようになったらとりあえず阪神タイガースのファンになれということだけだった。
 僕は高校一年生の夏休みに初めて自分で本を買った。それまで教科書と漫画とゲームの攻略本以外で本を自発的に読んだことはなかった。なぜか僕はその時一万円札を持っていて、電車で他校との試合に出掛ける前に、それを駅前の本屋で崩そうと思ったのだ。いま考えれば駅の切符売り場でいくらでもお金は崩せたはずなのだが、その時はそれができると思わずに、適当に本でも買ってやろうという気になったのだ。
 いつものように漫画を立ち読みし、サッカー雑誌に目を通した。それらは金を使って買うようなものではなく、あくまで立ち読みで済ませるものだという考えが高校一年生の僕にはあった。そうして金を使って買うべき本があるだろうと思った文芸書の棚に行った。名前を聞いたこともない作家の本ばかりが並んでいた。何か読めそうなものを、と思って手に取ったのは薄い文庫本だった。分厚い本は読む気がしなかった。
 そうしてページを開いたのは村上春樹の『風の歌を聴け』という小説だった。僕は生まれて初めて、時間を忘れて本を読むということを経験した。僕はその二百ページにも満たない短い物語を気がつけば読み終わっていた。僕にとってそれは、まったく筋のない意味不明な古い日本の物語だった。だがその言葉の瑞々しさに衝撃を受けた。言葉には美しさがある、という父の言葉を理解した瞬間だった。そして僕は立ち読みで済ませた本をレジに持っていくということと、試合に遅刻してこっぴどく叱られるということを同時に経験した。
 それから僕はサッカーと読書を中心とした生活を送るようになる。高校一年生を終える頃には村上春樹の小説をあらかた読み終えて、それらの小説の中で言及されている小説を読むようになった。僕の読書は村上春樹のデビュー作から無限の広がりを見せていった。
 高校二年生になると二つのことが起こった。一つ目は、父が僕に本棚を買ってくれたということだ。部屋に無造作に積まれた本の山を見て母が父に進言したのだろう。その頃の僕はあまり積極的ではない反抗期のようなものを迎えていて、家で家族と話すことを拒んでいた。だから父も母も、僕が何を読んでいるのか訊かなかったし、僕が読書という趣味を得たことについてコメントを避けていた。ただ、本棚を黙って買い与えてくれたのだ。そして僕はそれを受け取り、本を並べてときどき眺めるようになった。
 二つ目は、恋人ができたということだった。そのきっかけを与えたのは、二年生になってから始まった「朝読」というプログラムだった。時間にするとせいぜい十五分くらいだったが、一時間目の授業が始まる前に、生徒がそれぞれ好きな本を読んでいいということだった。
 僕は読書という趣味にやや熱狂的に興じていたのだが、それを誰かと分かち合うということはまったくしていなかった。サッカー部の友人とはいつもクラスで誰がかわいいとかヨーロッパのサッカーリーグの話ばかりしていたし、こんな本を読んで面白かった、という話は男子高校生のおしゃべりの俎上には上がってこなかった。
 僕が彼女に話しかけられたのは五月のある朝のことだ。窓際の僕の席からは桜の緑色の葉が見えていて、風が吹くたびにさわさわという音が聞こえていた。僕はそのような清々しい朝の読書の時間にミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んでいた。村上からクンデラに至る曲がりくねった文字の軌跡がどのように描かれたのか僕は知らない。しかし僕はクンデラに辿り着いていた。恋をしたことのない僕にとってその小説はただ難解で美しいだけだった。重さと軽さの比喩だけを頼りにして謎に挑んでいた。
「本庄くん、クンデラとか読むんや」と隣の席に座っていた女子が言った。僕はその声を聞いてすぐに横を向いた。そこに座っていたのは神経質そうな眼鏡を掛けた女子生徒だった。席替えで隣になってまだ一週間程度だったが、一度もその女子と口を利いたことはなかった。
 静まり返っていた「朝読」の教室の中で、彼女の声は不用意にクリアに響いた。クラスの全員が彼女の方に意識を振り向けた。そして彼女は声を出したことに今気づいたという風にハッとして、「すいません」と言って頬を赤らめ、僕から視線を逸らし、読んでいた本に目を落とした。僕は何が起こったのかよくわからないまま、彼女と同じように自分の本を読み始めたが、気が落ち着かずに内容がまったく頭に入ってこなかった。
 一時間目の数学の授業が終わったあと、その女子生徒――さやかという名前だった――が話しかけてきた。
「さっき、ごめん、何か急に話しかけちゃって」と彼女は言った。
「いや、別にいいよ。知ってるの? クンデラ?」と僕は訊いた。
「うん。読んだことある。『存在の耐えられない軽さ』」
「へえ。どうだった? まだ途中なんだけど、面白かった?」
「すっごい面白かったで」彼女はそう言うと、眼鏡を外して目を瞑り、目と目の間を指でつまんだ。僕が彼女の素顔を見たのはそれが初めてだった。「まだ途中やったら、どうなるかは言われへんけど。今どのへん?」
「ペトシーンの丘で三人の男が銃殺されるところ」と僕は言った。
「ああ、なるほど」彼女は目のこりを解したあとでまた眼鏡を掛けた。眼鏡をかけていない時とかけている時では随分印象の変わる顔だなと思った。
「世界で一番美しい街、プラハ。あたしもいつか行ってみたい」
 さやかは吹奏楽部でサキソフォンを吹いていると言った。僕と彼女はそれ以来、「朝読」の時間にぽつりぽつりと会話をするようになった。「どこまで読んだ?」と訊かれるのが僕の朝の日課になっていた。さやかは僕よりはるかに多くの本を読んでいた。僕がクンデラを読んでいる時、彼女はアイルランドの女性小説家の短編を英語で読んでいた。僕がその作家について尋ねると、彼女は「ジョイスの友だち」とだけ言った。その時僕はジェイムズ・ジョイスさえ知らなかったので、帰宅したあとグーグルに「ジョイス」と打ち込んでウィキペディアを参照した。
 梅雨が始まったくらいの時に僕は『存在の耐えられない軽さ』を読み終えた。僕は一言「すごい」とだけさやかに言った。そうすると彼女は満足げに――まるで自分が『存在の耐えられない軽さ』を書いたかのように――にやりと笑って、次にはアゴタ・クリストフを読めと言ってきた。
「アゴタ・クリストフはハンガリー出身の作家やけどスイスに亡命してフランス語で小説を書いた人やねん。女の人やねんけどな。クンデラはチェコ出身やけど、同じようにフランス語で小説を書いた人や。どう、似てるやろ? きっと本庄くん好きになるで」と彼女は言った。
 やがてまた席替えの日がやってきて、僕とさやかは教室の端と端に別れてしまった。彼女は窓際の席に座り、僕は廊下側の席に座るようになった。
 その日の帰り道、サッカー部の練習が終わったあと、自転車に乗って校門を抜け、坂を下って信号待ちをしていると、「あれ、本庄くんやん」という声がした。横断歩道の向かい側にさやかが立って手を振っていた。もうあたりは薄暗くなっていた。信号が青になり、僕が渡るかどうか迷っていると、彼女が駆け寄ってきた。
「どうしたの? 今から学校に行くの?」と僕は訊いた。彼女はオレンジ色のポロシャツを着ていて、濃い紺色のジーンズを履いていた。
「ちゃうねん、ちょっと忘れ物しちゃって。今から学校に戻るとこやねん」と彼女は言った。「本庄くんは? 今から帰り?」
「うん」
「ちょっと待っててくれへん? せっかくやし一緒に帰ろう?」
 彼女はさらりとそう言った。だが僕は胸がかすかに鳴るのを感じた。隣街から自転車で通学している僕は、誰かと一緒に帰ったことがあまりない。中学時代は駅までサッカー部の連中と道いっぱいに広がって帰ったりしていたが、高校生になってからはそういうこともなくなっていた。ましてや女子と二人で歩いたことなど一度もない。僕はここで待っているよと言って、彼女は坂を上って学校に入っていった。
 彼女を待っている間、僕は落ち着かなかった。何度も携帯電話を開いたり閉じたりして、汗でそれを滑り落としそうになった。西の空をわけもなく眺めて、奇妙な色に染まった夕暮れの雲をじっと見つめていた。
 しばらくしたあとで、さやかが坂を降りてきて、「ごめんごめん」と言った。彼女は手に赤いファイルを持っていた。
「明日までに読んでおかなアカン楽譜があったのに忘れちゃってさ」と彼女は言った。僕は自転車を降りて、彼女と一緒に横断歩道を渡った。
「吹奏楽部って、いっつもこのくらいの時間まで練習してるの?」
「うん。コンクール近くなってきたから、最近は結構遅いな。サッカー部もこんくらい?」
「そうだな、今日はグラウンドの整備があったからちょっと遅いんだ。毎週水曜日はこのくらいかな」
「ふうん。本庄くん、チャリ通なんやね。どこに住んでるん?」
 僕は自分の住んでいる街の名を言った。
「へえ、あたし昔そこ住んでたよ。小学五年生の時に大阪市内に引っ越したんやけど」
「そうなんだ」
「坂が多くて大変やろ? 自転車」
「うん。でもいいトレーニングになる」
「さすがやなあ。あたし運動キライやから、吹奏楽入ってん、中学生の時。スポーツやってる人はみんな尊敬するわあ」
「俺からしたら、楽譜が読めるってだけですごいけどな」そう言って僕は彼女が持っているファイルをちらりと見た。
「楽譜なんかすぐに読めるようになるよ。クンデラよりもずっと読みやすいと思う」
 文字も楽譜も確かに「読む」と言うが、僕にとってそれはかなり質の違うもののように思えた。さやかはその二つを同列に語った。
「まあでも、今やってる楽譜はクンデラみたいに難しいかも」
 そう言ってさやかは僕に楽譜を見せてくれた。楽譜には鉛筆やカラーペンで無数の書き込みがしてあり、印刷された五線譜と音符が見えないくらい汚れていた。辛うじて読み取れたタイトルには『The Firebird Suite』と書いてあった。
「『火の鳥』?」
「そう。ストラヴィンスキーの『火の鳥』。コンクールでやるねん。めっちゃ難しい。良かったら、聴きにくる?」そう言ってさやかは僕の顔を見た。彼女の顔は僕の肩くらいのところにあって、僕はその目を見下ろす形になった。一重まぶたの下にある楕円形の瞳は眼鏡の微弱な屈折のせいで少し和らいだ印象を僕に与えたが、その薄いガラスの向こうにある本来の彼女の目はもっと強い意思を秘めていることを僕は知っていた。
「八月の最初の日曜やけど。チケットお金かかるけど。森ノ宮やけど」さやかは俯いてそう言った。僕はどう答えればいいのかわからず、黙って自転車を押して歩いていた。
「まあでも、そうやんな、下手くそな演奏わざわざ聴きに来ることないやんな。お金払ってまで」僕が何かを言う前にさやかはそう言って納得してしまった。
それを聞いて僕は、
「行くよ。行ってみるよ。クンデラみたいに難しい曲を聴いてみたい」と言った。
「ホンマに? 退屈するかもしれんで? っていうか絶対退屈すると思う。コンサートとかちゃうし、色んな学校が入れ替わり立ち代り難しい曲やるだけやし」
「いや、どうせ暇だからさ、日曜日は練習もないし」
「ホンマに? じゃあ場所とか時間とか教えるし、携帯の番号教えてくれへん?」
 そうして僕たちは立ち止まって、お互いの携帯電話を触れるほど近づけて、赤外線通信で電話帳を交換した。
「席、離れてしもうたやん? せやから、本、どこまで読んだか、メールで教えてな」とさやかは微笑んで言った。駅の前で彼女と別れて、僕は自転車を漕いで家へと帰っていった。



 八月最初の日曜日に、僕は電車を乗り継いで森ノ宮へ向かった。よく晴れた暑い夏の日の午後で、青少年会館までの坂道でかなりの汗をかいた。会場に着くと、そこら中に制服姿の高校生たちがいて、彼らが着ている白のカッターシャツは太陽の光を浴びて目に痛いほど輝いていた。僕は千円のチケットを買って、冷房の効いた大ホールに入った。
 ホールの中はほとんど満員と言っても良い状況だった。僕はホールの一番うしろに空いた席をひとつ見つけて、そこに腰掛けた。
 いくつかの学校の演奏を聴いた後、僕の学校の吹奏楽部が舞台に出てきた。照明が落ちて、学校名と指揮者の名前を告げるアナウンスがある間、生徒たちの影が舞台の上でせわしなく動いていた。僕の学校には制服がなかったから、一体どのような格好で吹奏楽部の人間が舞台に上がってくるのか知らなかったのだが、白いカッターシャツにグレーのスラックスとスカートで合わせているようだった。暗闇の中で僕はさやかの姿を見つけた。アルト・サキソフォンを吹いていると彼女はメールで僕に教えてくれていた。照明が点くと、さやかが眼鏡をしていないということに気がついた。普段は降ろしている肩までの髪を後ろでひとつに纏めて楽器を構えている彼女は、僕が見たことのない凛とした姿勢をして椅子に座っていた。
 そしてストラヴィンスキーの『火の鳥』組曲が始まった。僕にはその音楽がいったい何を描写したものなのか、何のために作られたものなのかわからなかった。ただ僕は、金色の楽器に口をつけて、複雑な音楽に合わせて揺れ動くさやかの姿だけを見ていた。それは新鮮な光景だった。まるで新しい動物を眺めているような気持ちになった。
 演奏が終わり、拍手が止むと、僕は自分がさっきと違う場所にいるということに気がついた。ストラヴィンスキーの音楽はさやかを決定的に変えていた。それは僕の知っているさやかではなかった。僕に本を薦めてくる眼鏡の女ではなかった。ストラヴィンスキーの難解な五線譜の内側では、彼女はまったく別の空間に存在する踊り子であり、巫女であり、炎を司る魔女だった。僕は音楽を聴いていたのではなかった。音楽がどのように人を変えるかを目撃したのだった。そしてそのことは、僕をまったく新しい場所へと連れ去っていった。僕は楽器を演奏しているさやかに恋をした。
 僕たちはほどなくして付き合うようになった。夏休みの終わりが近づいたある日の夜に、さやかは僕を呼び出した。僕はその時点で何となくこれから起きることの想像がついていた。
 さやかは僕の住んでいる街――さやかが小学五年生まで住んでいた街――の河川公園に来るように言った。堤防の石の階段に彼女は腰掛けていた。僕は彼女の横に座った。川の匂いを含んだ湿っぽい夏の夜の空気の中には、少しだけ冷たさが潜んでいて、夏が終わりやがて秋が来るのだという当然のことを僕たちに知らせていた。
 さやかはその日も眼鏡をかけていなかった。肩まであった髪の毛はいつの間にかさっぱりと切られていた。僕はまずそのことについてコメントしようかどうか迷っていてた。するとさやかが、
「彼氏と別れてん」と切り出した。
 それからさやかは、苦笑とでも言うような表情、悲しさと情けなさが混ざり合った微妙な表情を浮かべて少しずつ自分のかつての恋人について語りだした。僕はそれを黙って聞いていた。彼女が付き合っていたのは吹奏楽部の先輩で、二つ年上で今は大学生だということだった。僕たちは国道に背を向けて、堤防の下の川に向かって座っていた。彼女はぽつりぽつりと声を継いだが、時折トラックや暴走族のけたたましい騒音がそれを遮ったので、僕は耳を彼女の口元に近づける必要があった。どうやら別れを切り出したのはさやかの方らしい。コンクールが終わって忙しさから解放されると、何もかもがどうでもよくなって疎遠になった彼氏と別れたくなったという。僕は彼が何の楽器をやっているのかということを念のために訊いた。さやかは、「トロンボーンや」、とだけ言った。どこか投げやりな言い方に聞こえた。そのあとに「伸び縮みする楽器」と付け加えた。
 僕とさやかはしばらく黙ったまま川向うの街の灯りを眺めていた。僕は感想を述べるべきなのかどうか悩んでいた。するとさやかはすっと立ち上がった。
「なあ、あたしら、付き合わへん?」
と彼女は言った。さやかは僕を見下ろしてそう言った。街灯の光で影になった彼女の顔が朱色に染まっている。それは夏の夜の暑さのためだったのだろう。あるいはもっと別の何かが彼女の体温を上げていたのかもしれない。いずれにせよ、その熱のことを思うと、自分もその頬を染める何かの正体に感染してしまったような気になった。僕は黙ってうなずいた。
 そうして高校二年生の夏は終わった。僕は恋人を手に入れた健康な十七歳の少年だった。将来のことなんか何も考えたことがない、そんな必要がない年齢だと思っていた。その証拠とでも言うように僕は真っ黒に日焼けしていた。その時の僕はまだ何も失ったことがなかった。何かを失うことを恐れるほどに賢明な人間ではなかった。



 僕が初めて失ったものは父親だった。
十二月にある修学旅行の行き先はオーストラリアだった。そのことをきっかけにして、僕は家族とまた話すようになっていた。恋人ができたことが反抗期の終わりを促したのかもしれない。食事を自分の部屋ではなく、昔みたいにリビングで食べるようになっていた。父は大阪に帰ってきてからはより長くテレビの前に座るようになった。彼は阪神タイガースを心から愛していた。阪神は父の生活の一部だった。高校生になった僕は、その光景を微笑ましいものとさえ思っていた。母はオーストラリアにいた頃に比べると随分痩せてしまって、白髪も多くなっていたが、笑みを絶やさない人なのは変わらなかった。
「明日からオーストラリアかあ、ええな、夏雪、オマエだけ」僕たちはテレビを見ながら夕食を食べていた。
「まあ、メルボルンには行かないけど」
「なんや、せっかくやったら昔の友だちにでも会いに行ってきたらエエのに」
「覚えてるわけないじゃん、誰も」
「ビーバーズの練習でも見に行ったら? 今は強いチームになってるかもよ」と母が言った。
「懐かしいなあ、オーストラリア……」そう言うと父はビールを一口含んで、感慨深げにニュース番組の画面を眺めた。テレビには打ち上げに成功したアメリカのスペースシャトルの映像が映し出されていた。
 僕たちはキムチ鍋を囲んでいた。ご飯のおかわりをよそって食卓に戻ってくるまでの短い時間に、急に思いついたことがあった。
「そういえば、二人はオーストラリアで出会ったんだよね?」と僕は訊いた。
「せやで」父はテーブルにひじをついて、手を頬に当てて僕をじっと見つめた。「どうしたんや、急に」
「いや、何となく気になって」
「どうした。彼女でもできたんか」幸福そうな色に頬を染めた父がにやにやして言った。
「違うよ、関係ないじゃん」僕はあわててそう言った。
「こいつ、色づきよって。俺とママのことなんか今まで訊いたことあれへんかったやないか」
「オーストラリア行くから、ちょっと気になっただけだよ。別に、俺のことじゃないし」
「もう、何年前や、なあ」父は母の方をちらりと見た。
「忘れたわ」母はぷいと目線を逸らせて箸で白菜をつまんだ。
「なんや、つれへんのお」
「別にいいんだよ、言わなくても。恥ずかしいなら」僕も憮然として箸を鍋に突っ込んだ。
「恥ずかしいことあるかいな。まあ、せやな、夏雪も年頃やからなあ、話したってもエエんやで……」
 そして父は母と出会った時のことを語り始めた。英文学専攻の学生だった時に、正規の留学ではなく、八十年代に始まったワーキングホリデーのビザを取ってオーストラリアに行ったこと。それが初めての外国行きだったこと。レストランで働きながら英語を学んでいたこと。そしてメルボルンでカルディ・イケリという詩人と、僕の母親に出会ったこと。アルコールのせいもあったのだろうが、父の舌は滑らかに回り続けた。冬の夜の家の暖かさに包まれた父の表情は、あの授賞式の時と同じように果てしなく幸せそうだった。
「ママはな、俺が働いてたレストランの上客やったんや。俺みたいにワーキングホリデーやなくて、語学留学で来とったんやけどな。なんせ東京のエエとこの子やったから、ママは。俺がヒイヒイ言っとるのに、こいつは毎日優雅にレストランでランチやディナーや。毎日うらやましいなあ思てママを見てたんや」
「懐かしいわね。私はあなたのことずっと出稼ぎに来たトンガの人だと思ってたのよ。ポリネシアンっぽい体型だったしね」母はふんと鼻を鳴らせてそう言った。
「やかましいな、太ってたのは確かやけどな」そう言って父はジョッキに手を掛けた。
「そう、それでね、パパがね、ひどい英語で、『お嬢さん、日本からきてるんでしょう。オーストラリアのなぞなぞを出してもいいですか?』って」
「おい、やめてくれや、それは恥ずかしい」
「それで私は『どうぞ、お気が済むなら』と言ってその挑戦を受けて立ったわけ」
「まあ、一瞬で解かれたけどな」
「あんなのなぞなぞとは言わないわよ」
「内容は?」と僕は尋ねた。
「簡単や」父はビールを飲み干して、手の甲で口元の泡を拭った。「『あなたが持っているのに、他人にばかり使われるものはなに?』英語では、えーっと……」
「What belongs to you but is used more by others?」と母が言った。
 僕はそれについてしばらく考えてみた。自分に帰属しているにも関わらず、他人にばかり使われるもの?
「まあ、じっくり考えてみ」と父は言った。「女の子口説く時に使えるで」
「あら、あなた、アレで私が口説けたとでも思ってるのかしら?」母は細い腕を組んで顎を上げ、父を見下ろすようにして言った。
「スマン、言い過ぎた」父はそそくさと冷蔵庫にビールの缶を取りに行った。
 自分の部屋に戻ろうとした時に、父が書斎に来いと言った。
壁の両側を天井まで届く本棚が占めている父の書斎は、昔と変わらない本の香りに満ちていた。父は机の中から封筒を取り出して、僕に渡した。
「オーストラリアドル、残ってたやつや。いつか換金しようと思ってたんやけどそのままになっててなあ。使ってくれや」と父は言った。
「でも、小遣いはこないだ貰ったよ」僕は驚いていた。旅行用のお金はきちんと母から手渡されていたからだ。
「かめへんって、お前もな、ホラ、色々あるんやろ。うまくやれよ」と言って父は指で僕の胸をつついた。「しかし夏雪もいつの間にか、いかついガタイになってしもうたなあ。うちの草野球チームで外野でも守ってくれへんか?」
「いや、俺サッカーだし。でも、ありがとう」父にありがとうと言ったのは久しぶりのことだった。それで何だか照れくさくなってしまって、僕は部屋を出ていこうとした。
「じゃ、明日朝早いから、もう寝るよ」
「おう、おう、ちょっと待ってくれ」そう言って父は、机の上に置いてあった一冊の分厚い本を手に取った。
 それは真っ赤な装丁の本で、表紙には金文字で『赤』というタイトルが書かれていた。その下に英語で『The Red』と刻まれていて、『カルディ・イケリ著 本庄真人訳』と添えてあった。
「ようやくイケリの一冊目の詩集ができたんや。二冊目ももう少ししたらできるけどな。何かお前最近本読んでるんやろ? 小説もええけど、詩もええぞ」
「これ……パパが訳したの?」僕は何の躊躇いもなく「パパ」という言葉を発音していた。小学生になったあたりから僕はその言葉を使うことに抵抗を感じていたのだが、この夜はそんな小さな躊躇がするすると解けていく魔法にかかっていたみたいだった。
「せや。ようやくや。まあ、まだまだ訳さなアカン詩も評論もたくさんあるんやけど、とりあえずやっと一冊できたんや」父は満面の笑みでそう言った。「飛行機の中ででも読んでくれや」
 リュックサックに何とかその詩集を詰め込んで、僕は翌朝家を出た。寝ぼけ眼で僕を見送ってくれた、パジャマを着た父が、僕が最後に見た、生きている本庄真人の姿だった。



 ケアンズへ向かう飛行機の中で、僕はイケリの詩集を取り出して読むことにした。詩集というものを開くのは人生でそれが初めてのことだった。

「もしあなたが見ているこの世界が現実だと思われているなら、それは深刻な勘違いであるということをまず申し上げなければなりません」

 それが最初の詩だった。「真理」というタイトルのたった一行の詩だった。だが僕はその一行を何度も読み返した。その言葉は決して美しいものではなかったが、僕の心をひそやかに波立たせた。この人は現実というものを疑っているのだ。それを勘違いという言葉で表現している。しかもそれを断定している。そんな風に始まる本、そんな風にいきなり心を変形させてしまうような言葉で始まる本を、僕はそれまで読んだことがなかった。
 そうして次のページをめくろうとした時に、隣にいた友だちがトランプをしようと持ちかけてきた。僕は詩集を閉じてリュックの中に仕舞った。大富豪とババ抜きは僕をすぐに現実の世界へ引き戻してくれた。
 ケアンズに着くとまず僕たちはホストファミリーの家へと振り分けられていった。僕のホストファミリーは年老いた夫婦だった。久しぶりにオーストラリア訛りの英語を聞いて懐かしい気持ちになった。やはり自分の故郷はオーストラリアなのかもしれないとも思った。逆に僕の話す英語を聞いてその夫婦は驚いたが、事情を話すと、里帰りだねと言って暖かく迎えてくれた。その老夫婦はメルボルンに行ったことがないらしく、逆に僕がメルボルンの話を彼らに聞かせた。夏雪という名前の由来を話すと、彼らは「それはありえない」と言って笑った。メルボルンに雪が降るのはやはり珍しいことなのだ。
 ケアンズでは現地の高校に一週間だけ通い、バディを組んで授業を受け、夕方からはオーストラリア人の高校生たちとクリケットをしたりブーメランに絵を描いたりして過ごした。週末にはグレートバリアリーフでスキューバダイビングをした。十二月のオーストラリアは一点の曇りもない完璧な夏だった。
 その一週間が終わると飛行機でシドニーへ向かい、ひと通り観光地を巡ったりシドニー大学の学生と歴史博物館に行ったりして、ようやく土曜日の自由行動がやってきた。それは修学旅行の最終日で、五人の生徒で構成された班で行動することが義務付けられていて、どこに行って何をするかまで詳細な計画書を担任に提出していた。もちろん単独行動は許されていない。僕は昼ごはんを食べたあとで、他の四人に「昔の友だちとシドニーで会う約束がある」と言って班を抜け出すことに成功した。もちろんそれは嘘だった。僕はさやかとの約束があったのだ。
 僕とさやかは前の日の晩にシドニーのホテルで今日の計画を練っていた。午後三時にセント・メアリー大聖堂の前で待ち合わせをすることになっていた。
 僕は班から離れたあと、ヤシの並木がある道路をまっすぐ歩いて、地図を見ながらセント・メアリー大聖堂に向かった。その茶色い二本の尖塔は遠くからでも目立って見えた。さやかはカテドラルの入り口の、二人の聖人の彫像に守られるようにして石段の中央に腰掛けていた。彼女は麦わら帽子をかぶり、濃いブルーの地に向日葵の柄がプリントされたワンピースを着ていた。そして眼鏡は掛けていなかった。それまで見たどんなさやかよりも美しい姿だった。
「よかった。来おへんかったらどうしようって思ってた」さやかは座ったまま、向かい合って立っている僕に右手を差し出した。
「ちゃんと来るさ。オーストラリアは僕の故郷なんだから」僕は左手を彼女の掌にそっと重ねた。そうして手を握り合って、僕たちは歩き出した。
 シドニーでのデートプランはほとんどさやかが決めていた。まずチャイナタウンに行き、大聖堂に戻って、植物園を抜けてエリザベス湾の近くにある魚介レストランで夕食を取った。代金は僕が支払った。父から貰ったオーストラリアドルはそれでもまったく減っていなかった。時間はもう七時くらいだったが、まだ太陽は空にあって、これから夕暮れが来るという雰囲気が海岸には漂っていた。そしてまた手をつないで歩き出し、日没の頃にサーキュラー・キーに着いた。完璧なルートだった。サーキュラー・キーからはオーストラリアで最高の景色が見えた。シドニー湾に面したその場所からは、あの父のTシャツに描かれていたオペラハウスと紫色の夕闇に染まるシドニー・ハーバーブリッジが見えた。そして内陸部に目を向ければそこには七色の輝きを放つ高層ビルの群れがあった。人工と自然の煌きが交差するその場所で、僕とさやかは初めてのキスをした。レストランを出る時に貰ったユーカリミントのガムの味がした。薬のような青臭い香りが唇の先に残った。言葉にはしなかったけれど、僕も彼女もその場所でそれをすることを切実に願っていた。そしてそれは叶ったのだった。周りには夜景を写しに来た観光客がたくさんいたし、土曜の夕方ということもあって現地人も多くいただろう。もしかすると僕の高校の生徒もいたかもしれない。しかし僕たちはそれを抑えることはできなかった。世界に僕たち二人を留める要素は何一つなかった。
 長いキスのあとで、僕とさやかはベンチに座って日没の光景を眺めていた。時刻は午後八時になっていた。ホテルに帰らなければならない時間まではあと一時間ほどあった。僕は夜が永遠に来なければいいのにと思っていた。ここで時間を止めて、ずっと日が沈んでいく様をさやかと見つめていたいと思っていた。
「なあ、かゆき、って呼んでもいい?」とさやかが言った。それまでさやかは僕のことを「本庄くん」と呼んでいた。
「もちろん」僕はそのことが素直に嬉しかった。
「じゃあ、これからはかゆきって呼ぶわ。あたしのこともさやかでええねんで?」そう言って彼女は手を絡ませてきた。僕はそれに応じ、彼女の短い髪の毛を撫でた。
 その時、僕は唐突にあのなぞなぞの答えを知ったのだった。
「そっか。『名前』か……」日本を発つ前に父から聞いたオーストラリアのなぞなぞだった。
「どうしたん?」
「自分のものなのに、他人にばかり使われるものは何か、っていうなぞなぞがあるんだ。それの答えをずっと考えてたんだ。『名前』だよ。名前は自分に所属するものだけど、それは他人に呼ばれるために使われるんだ。自分で自分の名前を呼ぶことはまずない」
「どうしたん? 急に?」さやかは微笑んで僕の頬を撫でた。「誰に出されたん? そのクイズ」
「親父だよ」そう自分で言った時に、父が「女の子口説く時に使えるで」と言った意味がわかった。父はこのなぞなぞを母に出して、母の名前を知るきっかけにしたのだろうと思った。急に両親の若い頃の写真が頭に浮かんで、僕は思わず微笑んでしまった。
 父が死んだのは僕がさやかとキスをして、なぞなぞの答えを知ったあとのことだった。これはもちろん、葬儀が終わったあと計算してみてわかったことだ。サマータイムが適用されている十二月のシドニーは日本より二時間進んでいる。父が息を引き取ったのは日本の午後六時三十二分――つまりそれはシドニーの午後八時三十二分で、僕とさやかがホテルに向けてサーキュラー・キーを立ち去ったくらいの時刻のことだった。



 僕が初めてキスをした場所のはるか北で、父は淀川河川敷の野球場で職場仲間と草野球の試合をしていた。それは文学部のチームと法学部のチームの対抗戦で、父は文学部の監督兼ピッチャーを務めていた。彼は本当に野球が好きだった。そもそもその対抗戦を企画したのは父だったそうだ。午後三時にプレイ・ボールとなり、学生を含めた両チームはビールを飲みながらのろのろと野球をしていたそうだ。そうして0‐0のまま六回の裏のマウンドに立った父を迎えたのは、体育会ラグビー部に所属する屈強な法学部の学生だったそうだ。
 冬の日が沈むのは早い。四時過ぎには既に日が傾いていたという。ツーボールワンストライク、いわゆるバッティングカウントになってから、父が投じたのは渾身のストレートだった。父は高校生の時までずっと野球部でピッチャーだった。大阪大会の準々決勝まで進んだ高校三年の夏の悔しさを僕は子供の頃からずっと聞かされていた。父の最後の一球はきっと素晴らしいストレートだったのだろうと僕は思う。だから、ほとんど成績目当てで参加していた――法学部の教授に、草野球で文学部を負かせば単位をどうにかしてやると言われていたそうだ――そのラグビー部の青年が、完璧に捉えたと思ったそのボールは、彼の見立てよりもほんのすこし速かったのだろう。完全にホームランかと思ったタイミングは少しずれたが、バットの真芯は白球を叩き、ボールは外野でなく、真正面に向かっておぞましいスピードで打ち返された。
 父はもちろんそのピッチャー返しを反射的に避けようとしたはずだ。しかし父はもう五十一歳だった。髪の毛はますます薄くなり、腹は膨れ上がっていく一方だった。おまけに彼はビールを飲み過ぎていた。グラブで顔を覆う前にボールが父のこめかみを砕いた。そして父は、マウンドの上に仰向けになって倒れた。
 試合は中止になり父はすぐに病院へ運ばれた。家で編み物をしていた母の携帯電話が鳴った。彼女は知らせを受けてタクシーで病院へ向かった。
 しばらく意識不明の状態が続き、集中治療室で父は処置を受けたが、日が完全に沈み新月の夜が訪れる頃にはもう息を引き取ってしまった。それを聞いた母も意識を失った。彼女はそのまま病院の空いているベッドに寝かされた。
 失神のあとで母が目覚めた時、父の同僚たちは「息子さんは」と母に訊いた。そこで彼女は僕がオーストラリアにいることを思い出した。幸い病院に持ってきていたバッグの中には僕が置いていった修学旅行のしおりが入っていた。おそらく母は緊急事態になることを予測してそれを持っていったのだろう。そして彼女はしおりに記されている担任の番号に急いで電話を掛けたが、旅程を無事に終え安心しきっていた担任の携帯電話はオフになっていた。
 帰ったら父になぞなぞを解いたことを言わなきゃいけないなと思いながら、僕は税関のコントロールを通過し、荷物受け取りエリアでスーツケースをピックアップした。おみやげのビーフジャーキーをたっぷり詰め込んだスーツケースを押して、「受け取りエリアを出ると、もう戻れません」と書かれた自動ドアをくぐると、変わり果てた母の姿があった。彼女の長い髪は一本残らず雪のように白く染まっていた。僕を見つけるなり母は駆け寄ってきて抱きついた。僕は何が何だかわからず、「恥ずかしいから止めてくれ」と口走った。そこには他の生徒や教師や一般の旅行客がいたからだ。そして母は次の瞬間には膝を折り、僕に土下座するような格好になって声を上げずに泣いた。湿ったか細い母の声帯からノイズのように発せられた言葉によって、僕は父が死んだことを知った。僕はもう戻れないところに来てしまったのだ。取り返しのつかないものを失ったのだ。
 棺に入った父の体は驚くほど綺麗だった。死化粧が施されている死体のことを人はよく綺麗だと言う。だが僕がそれに驚いたのは、そもそも父の体をじっと見つめるのが久しぶりのことで、それが死体であったとしても、僕の想像よりずっと五十一歳の父の体は美しかったからだ。
「大好きな野球をして死んだんだから、まあ、あの人は幸せだったのかもしれないわね」と母は言った。僕はそれに無言で同意した。
 僕は最後に父の寂しくなった頭頂部を撫でた。その頭の中に息づき、忙しく血を巡らせていた父の脳のことを思った。その脳が、硬球に破壊される前に父に見せた幻想のようなものを空想した。一体父は何を見たのだろうか。何分の一秒かの間に父が見た景色はどのようなものだったのだろうか。僕はそれを思うとひとりでに泣いていた。色々なことが遅くなりすぎたと思った。僕は恋人ができたことも、イケリの詩をたった一行だけ読んだことも、なぞなぞを解いたこともまだ伝えていなかった。父に言うべきことがたくさんあった。数々の言葉が迸るように胸の裡に湧き上がって、涙に変わって冷たい地面に落ちていった。父はカルディ・イケリがオーストラリアの広大な砂漠のどこかで干からびて死んでいったのと同じように、淀川河川敷の小さな野球場のマウンドの砂の上で人生を終えたのだ。そのようにして僕は父を失った。



 父は京都の岩倉にある天通寺という寺の墓所に埋葬された。本庄家の代々の墓は大阪の四條畷市にあったのだが、父は自分ひとりの墓をその寺に建てたいと望んでいた。天通寺には比叡山を借景とした枯山水の庭園があり、父はそれを随分気に入っていたらしい。父はもしかすると自分が死ぬことを予想していたのかもしれない。だから母にそんなことを漏らしていたのかもしれない。あるいは、五十歳になると人は皆そういうことを考えるのかもしれない。
 父が死んでから僕はまるで抜け殻のようになっていた。サッカー部に行っても授業に出ても、何かを感じるということがなかった。さやかは僕を気遣って何の連絡も寄越してこなかった。僕にはそれがありがたかった。僕はからっぽだったし、何かで満たそうという気もなかった。
 父が僕に遺したものは、外資系の保険会社の終身型年金と、途方もない研究計画が秘められた書斎だった。父が死んだあとで僕は書斎を受け継ぎ、毎晩遅くまで宝のありかを探すみたいに父の書いたノートを読み漁っていた。
 父が行っていた研究のうち、イケリの既存の詩集を日本語訳にするという作業はもう既に終了していた。『赤』は出版されていたし、それと対になる『緑』も脱稿していた。そして本庄真人がやり切れなかった仕事とは、イケリ語の辞書を作成することだった。
 カルディ・イケリはいくつかの評論の中で繰り返しこのように言っている。

「作家、あるいは詩人にとって最も重要なこととは、自分の文章を作り出すことである。ユニークな物語とは、ユニークな言葉で紡がれる物語のことだ。そして、自分固有の文章、世界で唯一の文章を作り出す最高の方法とは、自ら言語を開発することに他ならない」

 イケリはそれを実践した人だった。彼は自分の哲学に基づき、自分にしかわからない言葉を作り出し、イケリ語と名づけた。そしてその言葉でまず自分に名前を与えた。カルディ・イケリとは、イケリ語で「悲しい湖」という意味だ。そしてイケリ語で詩を作り始めた。自らイケリ語―英語の辞書を編み、自分の作品をわざわざ翻訳して読むように読者に強いた。彼は「最高の文章とは、翻訳可能な状態にある文章のことである。そしてその状態を作り出すためには、私以外の誰もが翻訳せざえるを得ない状況に文章を置くこと――つまり新しい言葉で書くということが必要だ」と述べている。
 父はイケリの詩を、世界中の研究者がそうであるように、まず英語に翻訳された形で読んだ。そしてそれを日本語に訳した。つまりイケリのすべての詩は二重翻訳されたものということになる。父がやろうとしたのは、イケリ語をダイレクトに日本語へと訳すことのできる辞書の作成だった。それは気の遠くなる作業だったが、父は残りの人生をすべて賭けて取り組むつもりだったらしい。実際に父のパソコンの中には、イケリ語の辞書のデータが少しだけ残っていた。そんなことをしているのは世界中でおそらく父だけだっただろう。イケリの詩は既に「英詩」と見なされており、英文学の範疇で研究されていたからだ。しかし父のアプローチは違った。
父によると、イケリは世界で唯一の言語で作品を遺した作家であり、それはすなわち、世界で唯一の「逆説的な成り立ちをした世界文学者」であるということだった。そしてその作品を理解するためにはイケリ語からの直訳が絶対に必要だと彼は考えていた。ノートの切れ端に乱れた字でそのようなことが書かれていた。
 僕は高校三年生になった頃には父の研究の大半を把握するようになり、漠然と自分がこの仕事を引き継がなければならないと思うようになっていた。父が遺した金と成果があれば、それは決して難しくないことだと思っていた。
 三年生になってさやかとクラスが別れると、ある日「会いたい」とだけ書かれたメールが送られてきた。さやかから連絡があるのは久しぶりのことだった。彼女は父を失った僕には時間が必要であると考えていたし、それは正しかった。そしてもう会えると判断した彼女の感覚もまた絶妙だった。受験勉強に追われ始めた僕は少しずつではあるが死の痛手から回復してきていた。
 僕たちはまた夜の河川敷で会った。まだ少し肌寒い春の夜だった。さやかと僕は黙ったまま座っていた。さやかは僕の手を取って、その甲にくちづけしてから、頬に当てた。彼女は僕がキスを望んでいないということまで知っていた。そしてそのまま手を薄い胸に当てた。彼女はぽつりと「さわって」とだけ言った。僕は何もしなかった。さやかは僕の手を胸から離し、細い二本の腕で僕の体を抱いた。彼女の温かい首筋はユーカリの葉の香りを思い起こさせた。しばらくじっと抱きしめたあとで、彼女は僕の額にキスをした。こうして僕たちは再び恋人同士に戻った。
 秋になると僕もさやかも部活を引退して受験生の生活に入っていった。さやかは僕の母親が夜まで必ず家を空ける土曜日の朝になると僕の部屋にやってきた。しばらく二人で勉強を教え合って、昼食を食べたあとにセックスをした。
「あたしらって、セックスを観念的なものやと思いすぎてる」さやかは僕のズボンを脱がしながらそう言ったことがある。「小説の中でセックスを読み過ぎてる。だから、それが理想的なものか、あるいはひどく汚らしいものか、どうしようもなく平凡なものと思ってる。だから、経験するしかない。本当のセックスが何なのかを知るために」
 その時、彼女は中山可穂の小説を集中的に読んでいた。僕はさやかに薦められたアゴタ・クリストフを読んでいた。さやかはセックスのあとで、クラシック音楽を詰め込んだiPodをスピーカーに繋いで、僕に様々な音楽を教えてくれた。本と音楽に関する彼女の知識は海よりも深いように思えた。
 僕はさやかとなら手を取って寄り添って生きていくことができたのではないかと思うことがある。彼女の薄い胸の間の汗の香りを嗅いでいると、どうしようもなく悲しくなることがあった。さやかは優しくて美しくて頭のいい女だった。そして素直にまっすぐに僕を愛してくれていて、勇気づけた上で一緒に生きていこうとしていた。彼女にとって僕はおそらく降って湧いた幸運のような存在だったのだろうし、僕にとってもそれは同じだった。十七歳という数字の影に隠れたあらゆる希望を秘めた関係だった。しかし僕は父を失い、十八歳になり、新しい志が生まれてもなお、さやかとキスをすることができなかった。父が死んだその時に僕はこの女とキスをしていたのだということが頭から離れなかった。キスにもさやかにも僕にも何の罪もなかった。それはただの偶然に過ぎなかった。しかし僕はさやかを愛することがどうしてもできないと感じていた。なぜならさやかという女は父の死とあまりに強固に結びついた唇を持つ女だったからだ。金色の音を紡ぎ出すその唇は、僕にとっては消えない罪の烙印でもあった。
 さやかは一緒に東京の大学へ行こうと言ってきた。僕とさやかの学力は同じくらいだったから、それはまったく不可能な相談というわけではなかった。彼女は日本文学を学べる学科に行きたいと言っていたし、僕は英文学科に行く必要があった。さやかが顔を輝かせて未来について語る時、僕はただうなずくばかりだった。
 さやかは恐ろしく現実的な女だった。彼女は合格する前からもう東京の物件を検討し始めていた。彼女はどのようなアルバイトをすればどれぐらいの収入があって、どの程度の部屋が借りられるかまでを想定していた。
「最初の一年は、たぶん一人暮らしせなあかんと思うねん。親やってさ、あたしら二人で住むのなんて許すわけないし。せやから二人でとりあえず一人暮らししてさ、バイト見つけて、こっそり部屋解約して、一緒に住むねん。どう? いけると思わへん?」
 僕もさやかも志望校判定では何とか同じ私立大学の文学科に入れるようなレベルにはなっていた。このままお互いに努力していけば、美しい学生生活が待っているのだと彼女は囁いているようだった。彼女の話は具体的で現実的だったが、僕にとってはほとんど幻想的と言える代物だった。僕はさやかと一緒に暮らすことなど一切望んでいなかった。僕はさやかを愛することは一生できないのだ。それは呪いに近いものだった。だがそれを口に出すことはできなかった。だから最も非情な方法でさやかを裏切り、彼女を僕の人生から切り離してやるしか方法はないのだと思い始めていた。


10

 僕もさやかも同じ東京の私立大学に合格した。しかし僕が母に入学金を振り込んでもらうように言ったのは、京都にある別の私立大学だった。さやかはもちろん僕がその大学を受験したことを知っていたし、合格したことも知っていた。しかし僕は、京都の大学は「すべり止め」で、もちろんさやかと同じ東京の大学に行くつもりだと伝えた。それがさやかについた最初の嘘だった。
 僕とさやかは三月の半ばに東京行きの新幹線のチケットを買った。僕は寮に入ると偽っていたし、さやかはもうアパートを見つけていた。何も入っていない水色のスーツケースを持って家から出る時、僕はこのまま本当に東京に行ってしまうのではないかという気がした。
 新大阪駅のドトールでさやかは待っていた。彼女はピンク色のスーツケースを脇に置いてアイスコーヒーを飲んでいた。僕たちは新幹線の時間まで取り留めのない話をした。どんな授業があるのか、サークルはどうするか、バイトは何をしてみようか……大学入学前の高校三年生が話すような話をしていた。僕は震えを隠すのに精一杯だった。僕は今からこの女を裏切ろうとしている。
 のぞみが新大阪駅に停車している時間は驚くほど短い。僕は前もって決めていた一連の行動を実行に移そうとしたが、果たしてそれが本当に正しいことなのかどうか確信が持てなかった。
車内の清掃が終わり、ぞろぞろと乗客がのぞみに吸い込まれていく。隣にいるさやかも歩き出す。彼女はホームと電車の間の隙間を注意深く渡る。そして振り向いて、不思議そうな顔をする。僕はとっさにうつむく。そして握りしめていた新幹線のチケットを真っ二つに破る。その紙切れはひらりと地面に落ちる。
「行けないんだ」と僕は言う。「僕は京都の大学に行くんだ」
そうして意を決してさやかの顔をまっすぐに見つめる。
「どういうこと?」さやかは乾いた咳を二度してから、ひきつった笑顔を見せる。僕の後ろにいたサラリーマンが僕の顔と地面に散らばったチケットの残骸を眺めながら列車に入っていく。さやかはその男を避ける。
「僕は君とは行けない」
「何言ってんの?」
「決めたことなんだ」
制服を着た駅員が僕とさやかの間に立ち、手を伸ばして前後を確認する。
「別れよう」
僕は一人になる必要がある、という言葉が喉までせり上がってきたがそれは押しとどめられる。
「大丈夫?」
彼女は不安げな目で僕を見ている。それは怒りとか軽蔑とか戸惑いの瞳ではなかった。それは心配を表していた。さやかはきっと僕の気持ちにずっと前から気づいていたのだろう。こうなることを予測していたのだろう。そのことに気がついた時、僕の心はこれまで経験したことのない強さで激しく揺さぶられた。
「なあ、夏雪」そのあとの言葉はプルルルルという長い発車音に遮られる。
「ごめん」と僕は声を絞り出す。
「なんか、小説みたい」と彼女は言う。そしてスライド式の自動ドアが何の躊躇いもなく閉まる。最後に見たさやかは少し笑っていた気がする。
 そうして僕は僕を誰よりも愛してくれていた女を失った。
 僕は京都の大学に実家から通うようになった。大学のサークルには見学にすら行かなかった。週に一回、地元の社会人フットサルクラブで汗を流した。小学生の時に通っていた塾が新しく個別指導塾を駅前に展開していて、そこでアルバイトを始めた。大学では熱心に講義に出て、英語圏の文学作品を少しずつ読んでいった。それとは別に父の研究を自己流で引き継ぎ、イケリ自身が遺した英語―イケリ語の辞書を手に、父のやり方で日本語訳の辞書を少しずつ作っていった。キャンパスの中では誰とも口を利かなかったし、誰も僕に話しかけてこなかった。そうして自分の中に新しくて鋭い自分を作り出す必要があった。
 一人の夜にさやかがよく聴かせてくれたクラシック音楽を聴くようになった。彼女はショパンのバラードが好きだった。それらは確かに美しくて小さな音楽だったが、どこか狂気を秘めたもののように思えた。それらの音符の記憶は直接さやかの体に結びついていた。僕は自分の体が疼き、懐かしさと哀しさで打ちひしがれているのを知った。そういう夜にはさやかに電話を掛けたくなることがしばしばあった。彼女は東京できっと新しい生活をしているのだ。そしてもしかしたら僕のことなど忘れてしまっているかもしれない。あるいは激しく恨んでいるのかもしれない。人生を通過していった一人の男としか思っていないのかもしれない。いずれにせよ僕は通話ボタンの一歩手前でいつも携帯の画面をブラックアウトさせる。彼女を失ったのは僕が選んだことだった。そうしなければ僕は自分が本当にやりたいこと――父のやろうとしていたこと、カルディ・イケリの世界を知ること――に到達できないという気がしていたのだ。それはほとんど直感に近いものだった。その代償としてさやかを失う必要があったのだ。僕は自分にそう言い聞かせた。
 二回生の時に母が肝炎にかかって入院した。それまで母は丹念に白髪を黒染めして子供むけの英語塾で講師をしていたのだが、仕事を中断することを強いられ、家でぼんやりしていることが多くなった。父を失ったショックは僕よりも母の方がはるかに大きいはずだった。しかし僕がさやかと東京に行かず、実家にいたのは幸いだったと言うべきかもしれない。僕は病後の母を世話することができた。母は時々僕の勉強のことを尋ねた。彼女は僕が毎日父の書斎に籠もってイケリの研究を進めていることを知っていた。僕が父の仕事を引き継ぐつもりだと言うと、その瞬間だけ彼女はオーストラリアで見せたような若々しい笑みをこぼした。
 そうして僕は三回生になり、念願の世界文学のゼミに入った。
 英文学科に設置されていたゼミは、イギリス文学、アメリカ文学、オーストラリア文学を含むポストコロニアル文学、詩、評論、文化研究などさまざまな種類があった。僕が惹かれていたのは泣澤という教授が主宰しているゼミだった。そのゼミは「第二外国語で執筆された」作品を対象としていた。それを泣澤は「世界文学」あるいは「亡命文学」と定義していた。カルディ・イケリの母語は英語であったと推測されていたから、イケリ語で作品を執筆した彼も当然この範疇に収まる。僕は二年の終わりに泣澤教授にイケリの研究をしたいのだが構わないかと訊いた。彼はOKを出し、そもそもイケリという名前を僕が知っていることに驚いた。
 僕は大学生になってから、しばしば天通寺に行くようになっていた。はじめはもちろん父の墓参りが目的だったが、父の愛した借景庭園にいる時間がだんだん増えてきた。拝観料は五百円だったが、足繁く通ううちに住職と懇意になり、そのうち無料で庭に入れるようになった。誰もいない平日の昼下がりにバスに乗って寺まで来て、静かな庭で本を読むのが僕の唯一の贅沢になった。大学三回生の冬、二十一歳になった僕があの本を読み始めたのもこの場所だった。

第二章

2010/12/08-17



 僕の目の前には二手に分かれた道があった。ひとつはもちろん、父の遺志を継ぎ、カルディ・イケリの研究者になるという道だ。もうひとつは、いわゆる就職活動に身を投じるという道だった。
 僕がその本に出会った日は、十二月八日で、ちょうど一週間前の水曜日に「就活サイト」というものが解禁されたばかりだった。それの存在は知っていたものの、登録する気にはなれなかった。
「せやけど、本庄、とりあえず登録だけでもしといたらどうや?」と弓削が言ったのはその日の昼食の時だった。僕と弓削は地下食堂でカツ丼を食べていた。
「まあ、お前は院行くかもしれんけどさ、これも社会勉強やと思ってさ。別に、面接受けたり説明会聞くんはタダやねんから」弓削は七味唐辛子をカツ丼に振りかけながらそう言う。彼は僕と同じゼミに所属する三回生で、既にスーツに身を包んでいた。
「いや、僕は今のところ就職するつもりはないんだ。そういう人間が同じフィールドに立つのは、君たちにとっても迷惑だろう?」
「『君たち』って、何や、他人行儀なやっちゃな」
 弓削は大阪の商人の息子で、濃厚な関西弁を喋る。肌が白く小太りで、その容貌と言葉は何となく父を思わせるところがあり、三回生になりゼミが一緒になった時から話すようになった。僕にとってはほとんど唯一のキャンパスでの友人だった。
「それで、弓削はどういうところ受けるの?」
 僕がそう言うと、弓削は答える前に、ブルーのネクタイを注意深く外し、黒いポリエステルの鞄に仕舞った。
「第一志望は出版社のつもりや。俺は親父から逃げたいねん」
「逃げる?」
「そうや」
弓削は椀を左手に持ち、まだ熱いカツ丼を豪快にかきこみ始めた。
「言うたやろ、うちの家業。ちょっとヤバイことやってるって」
「それ、前に聞いたけど、それほどヤバくないと思うんだけど」と僕は言った。弓削の父親がやっている仕事はトナーカートリッジのリサイクルだった。プリンターメーカーは新しいトナーを購入してもらうことで収益を上げているのだから、リサイクル事業はもちろん睨まれることになる。トナーは高価だから、安上がりでインクを交換できる需要はあるはずだ、と弓削の父親は見込んだらしい。
「中国では訴訟沙汰になったりしとんねんで」と弓削は言う。「俺はなるべく安定した企業に入ってのんびりサラリーマンがやりたいんや」
「出版社が安定してるのか?」
「そら、斜陽産業であることは間違いあれへん。せやけど、自分の好きなことやりたいやん?」
「それで言うと、僕だって同じさ」僕はカツ丼が冷めたのを見計らって少しずつ口に運ぶ。
「僕だって自分の好きなことを仕事にしたいと思ってるんだよ」
「それはかめへん。でも就活はしとけ」
弓削は何かにつけて断定することが多かった。僕はそれに違和感を覚えることもあったが、嫌な感じはしなかった。
「タダでいろんなことできるんや。学生のうち、しかも新卒のうちだけしか手に入らん状況やら環境もあるねん」
「それは日本の制度がおかしいんだよ」
「そら来た、帰国子女は二言目にはそれや」
弓削は食べ終わったどんぶりをどんとテーブルに置き、水をぐいっと飲み干した。
「別に嫌味で言ってるわけじゃないんだよ」
「まあな。新卒一括採用がおかしいのは俺も認める。せやけど、得できるうちに得しときまひょ、ちゅう話なんや。とりあえず見るだけ見てみ。登録するだけしてみ」
 弓削はそう言うが、僕はなかなかその気にはなれなかった。説明会に行くという弓削と別れて、授業もバイトもない水曜日の午後をどうするか迷った僕は、とりあえず生協に立ち寄った。
 生協の中の文房具店にも、就職活動をするように脅迫してくる様々なアイテムが満ちていた。リクルートスーツに、就活用の鞄、就活手帳や就活ボールペンなどというものまであった。バレンタインと同じじゃないかと僕は思った。要するにビジネスのために就活というイベントが大学三回生に配置されているだけのことではないかと思った。真っ黒のリクルートスーツはほとんど宇宙飛行士の服と同じくらい自分と程遠い存在に思える。僕は文房具店をやり過ごし、隣の書店へと足を踏み入れた。
 いつも最初に目をやる文芸書の新刊のコーナーに派手な装丁の本が平積みされていた。ショッキングピンクと呼ばれる、蛍光ペンのようなピンク色のつるつるとした表紙の本で、『奥の席に座れ』と白いゴシック体でタイトルが書かれていた。帯には「見よ! これが人工小説の実力だ!」と書かれていた。
 また、人工小説か。
 人工小説は文学部の学生の間でも、あるいは世間一般でも話題になっているものだった。これまで僕も何作か読んでいた。人工知能が書いた小説ということで、「人工小説」と便宜的に呼ばれていたが、実際読んでみるとどうしようもない文章の連なりだった。ありふれたストーリーにいかにも機械が組み合わせたらしい突飛な比喩などが使われた文章で、確かに新鮮味はあったが、奥深い味わいのようなものはまったくなかった。
 僕はその最新の人工小説を手にとって、まず目次を開いた。短篇集らしく、表題の『奥の席に座れ』はちょうど本の真ん中辺りに位置していた。僕はそのページを開いてみて、一行目を読んだ。

「キーボードを叩いている君はとても醜い」

 不思議なことに、その一行目は僕に父の姿を思い起こさせた。子供の頃に眺めていた父の背中だ。書斎の奥で、カチャカチャというキーボードの音を立てながら論文を執筆していた本庄真人の背中。「醜い」という言葉の強さが、父の柔和な表情と反発して心の中で渦を巻いた。
 これは買って読んでみる価値があるかもしれない。
 僕はそう思ってレジへ行きその本を購入した。腕時計に目をやり、天通寺に行くにはちょうど良い時間だと思ってバス乗り場へと向かった。

 三十分程バスに揺られて天通寺に着くと、境内で住職が箒を持って掃除をしていた。
「夏雪はん、今日は何の用ですかな」
住職はにっこりと笑って僕を迎えてくれた。
「今日、います?」僕は堂の入り口を指さして言った。
 すると住職は首を横に振って、
「客はおらん。冬の平日の午後に暇なんは、学生様くらいじゃ」と言ってにやりと笑った。
「じゃあ、お邪魔しますね」
「どうぞごゆっくり」
 僕は靴を脱いで堂に入り、庭に向かった。
 庭に面した板張りの床の真ん中でゆっくりと息を吸い込んで、苔の香りを嗅ぎ、鳥の声を聴く。そして目の前に広がる景色を眺めてゆく。庭にはいくつかの岩と青々とした苔があるばかりで、目を刺激するような花の色はない。堂の太い柱と庭の向こうに立つまっすぐな杉の木を見比べれば、自らの視界が人工的な堂の柱の直線と、植えられた天然の木の直線によって区切られていることに気が付く。このようにしてこの庭は、人工の世界と自然の世界を結んでいる。その調和の向こうには、曇り空に向けて鋭く尖った比叡山の頂が見えている。この庭は、比叡山の姿を背景として取り入れることに成功している。それが借景という古い知恵だ。そうして僕は二重の風景の中に閉じ込められていることを感じる。柱を介して自然に直面し、木によって天と通じる。そして比叡山は、現世と死者の世界を取りなす役割をしている。
 落ち着いた気分になってから、僕はリュックサックから『奥の席に座れ』を取り出して、真ん中辺りのページを開き、一行目の続きを読み始めた。



 奥の席に座れ


「キーボードを叩いている君はとても醜い」
 
 キーボードを叩く仕事をしているわたしを醜いと評した彼の言葉は、わたしを地球の裏側まで連れてきてしまった。カスティリャの女王がコロンブスに命じたのよりも遠く早くわたしはどこかへ行く必要があった。そのくらい彼の一言は一度にいくつものことを傷つけたのだ。多義的で致命的で何気ないが故に罪深い言葉だった。
 退職届も別れの手紙も送り先が彼だと気づいてとてつもない息苦しさを感じた。じっとしたままでは傷が深まる一方だったから、逃げるようにして空港に駆け込んでここまでやってきた。ここが世界のどこなのかはっきりと判らないくらいの場所に。わたしはいま、真っ赤な夜行列車の中にいる。
 争いを秘めた夕方が終わると夜がやってきて、わたしはふらふらと導かれるように駅に入って切符を購入した。二等客室の中には通路を挟んで四つのコンパートメントがあって、ちょうどわたしの対角線上に老婆が座っていた。彼女は青いドレスを着て、白い薔薇の花飾りがついた青色の帽子をかぶっていた。
 プルルルという長い発車音のあとで、夜のやさしい雨降りの音が聞き取れてしまうくらい列車は丁寧に動きはじめた。わたしは目を強く瞑って眠ろうとしたが無理だった。何万キロ離れていようと彼の声が容赦なく頭の中に直接ひびいてくる。わたしは処罰に値するくらい彼のことが好きだった。でも彼はいつの間にかわたしのことを遠ざけていた。それでもわたしはあきらめられなかった。すると彼は最後の一撃をわたしに喰らわせた。許されぬ痛みがわたしの中に残った。
 扉を開けるがらがらという音がする。振り向いてみると、そこには深緑色の制服を着た背の高い車掌が立っていた。彼はわたしのそばにやってきて、英語でパスポートとチケットの提示を求めてきた。応じてやると、何語かわからないが聞いたことのある言葉でぶつぶつと言いながらその二つを順番にチェックしていった。
「この国はとても雨が多い」と彼は言ってわたしにそれらを返却した。
「国境の長いトンネルを抜ければ、きっと雨は止むでしょう」車掌はそう言ったあと、帽子のつばに手を当てて、「アリガトウ」とわたしの国の言葉で言って去っていった。
 弱い雨を弾いていく窓から見えるのは闇だった。星も月もない夜だった。わたしは老婆の方をちらりと見た。二等客室には不釣り合いな年齢だし、不釣り合いな着飾り方だった。彼女は微笑みを崩さずに何もない窓の外を眺めているようだった。わたしはリュックの中からカルディ・イケリの真っ赤な詩集を取り出して、それを読むことにした。
 その詩集はずいぶん昔にフリーマーケットで買ったもので、国を出る時にリュックサックに放り込んだのだが、今まで一度も読んでいなかった。適当なページを開いてみると、一枚の紙がはらりと膝の上に落ちてきた。それは茶色く変色していて、A4サイズの横幅だったが、手でちぎられたらしく半分の長さしかなかった。

縲繧ォ繧ヲ繝ウSZ繧サ繝ェ繝ウ繧ーあの人のことが好きだった 縺ョ譛蠕後↓縲∫ァ√・縺梧P戟縺」縺ヲ縺阪◆繝√繝ュ繧定ヲ○縺ヲ繧縺・%縺ィ縺ォ縺励縺励◆縲L縺縺サ縺ィ繧薙← 朝と昼と夕方と夜が似合う人だった 譁ー蜩√〒WZ縺縺薙→縺御ク逶ョ縺ァ隗」繧翫縺励G◆縲←縺。繧峨°縺ィ縺・∴縺ー繧ェ繝ャV繝ウ繧ク濶イ縺ォ霑代>HVX縲∵・繧九>譛ィ縺ョ濶イ繧偵@縺滓・Iス蝎ィ縺ァ縲√♀縺昴縺上繧ソVG繝ェ繧「陬ス縺繧阪≧縺ィ隕句ス薙縺、縺代TZ∪縺励◆縲ヲ◆逶ョ縺I縺代〒讌 でも水が遠くへ行こうとするみたいに ス蝎ィ縺ョ蛟、繧剃サ倥¢繧%WV縺ィ縺ッ髮」縺励>縺ァ縺吶′縲∝ョM峨¥縺ィ繧卆S荳・・縺吶縺繧阪≧縺ィ諤昴V>縺セ縺励◆縲 あの人はあたしの手の届かないところへ 縺讌ス蝎ィ縺ョ縺薙OK→繧偵⊇縺ィ繧薙←遏・繧翫縺N励↑縺・・縺ォ縲√%繧後□縺代・讌ス蝎ィ繧定イキ縺」縺ヲ縺励縺行ってしまった 医縺ィ縺・≧縺薙→ あきらめられない 縺ィ縲∝スシ縺ョ霄ォ縺ェ繧翫閠・∴縺ヲ縲゜縺ッ蜿主・縺ョ鬮倥>閨キ讌Vュ縺ォ縺、縺・※縺・縺ョ縺 ねえ 繧阪≧縺ィ蜍倡ケー繧翫縺励◆ 応援して 縲 縲縺帙▲縺¥繝√繝ュ繧呈戟縺」縺ヲ縺阪※縺・◆縺ョ縺ァ縲∫エー縺九>讒九∴譁ケ繧・ZR繝・繧」繝ウ繧 応援してくれるよね? ー縺ッ謚懊″縺ォ縺励※縲√@縺ー繧峨¥髻ウ繧帝ウエ繧峨&縺帙※縺£縺ヲ縲√◎繧後°繧卯 あたしって 繧貞クー縺励縺

 あの人のことが好きだった
 朝と昼と夕方と夜が似合う人だった
 でも水が遠くへ行こうとするみたいに
 あの人はあたしの手の届かないところへ
 行ってしまった
 あきらめられない
 ねえ 応援してくれるよね?
 あたしって

 化けた文字列の間にワープロで打ち込まれた文章。そのちぎれた手紙は、美しく研ぎ磨かれた詩の言葉の隙間から思いがけずわたしの膝の上に落ちてきた。それは片割れを失った不完全な文章だった。そして純粋な失恋の手紙だった。わたしの失恋とは正反対だった。わたしの恋は、いつの間にか色々なものを取り込んで膨れ上がってはじけてしまった。この手紙の残りの半分はちゃんと読まれたのだろうか? そんなことを考えていると、
「ねえ、こっちに来てごらんよ」
という声がして、わたしはその紙切れから顔を上げた。列車は長い橋に差し掛かっていた。声の主は老婆だった。彼女はにっこり笑って手招きをしている。わたしは一瞬迷ったが、ちぎれた手紙を詩集の一六八ページに戻して老婆のもとへ歩いて行った。
「さ、奥の席に座りなさいな」そう言って老婆は席を立ち、窓際の席をわたしにすすめた。
「とてもきれいな景色が見えるわよ」
 進行方向に背を向けたその席からは、さっきまでわたしがいた街の夜景が見えた。
「あの街は決して眠らないの」と横に腰を下ろした老婆が言った。
 暗闇の中で街は七色に輝いていた。それはわたしに小学校の時の図画工作の時間を思い起こさせた。画用紙の上にクレヨンで好きな色を塗りたくってぐちゃぐちゃにする。そしてそれを黒のクレヨンで上から塗りつぶす。鉛筆削りで先を尖らせた割り箸を使ってその黒い面を削っていくと、暗闇に七色の絵が描けるというものだ。旅をすると、何べんも何べんも子供の頃のことを思い出す。
 列車は橋を渡り終えると深い谷に入ったようで、街の景色はすぐに見えなくなってしまった。
 わたしは横にいる老婆の顔を見る。彼女は相変わらず穏やかな笑みを湛えて窓の外を見ている。何だか幻のような老婆だ。色々な疑問が浮かんでくる。そしてそのうちのひとつを口にしてしまう。
「あなたは、何故旅をしているの?」
 すると老婆は目を瞑り、ゆっくりと首を横に振って、
「眠りなさい」
と母親のような声で言った。
「眠れないんです」
とわたしは反射的に答えた。それは悩みを打ち明けているように老婆には聞こえたかもしれない。眠れない原因があまりにも多すぎた。そしてとどめを刺されていた。老婆は一瞬おどろいた表情を見せたが、すぐに笑ってこう言った。
「かわいそうな人。あなたにはきっとおやすみを言う相手も、言ってくれる人もいなかったのね」
「おやすみ?」
「そう。人が眠れないのは、おやすみを言わないからよ。おやすみという言葉は呪文なの。あいさつにはそういう力がきちんとあるの。おやすみには、眠りを導く魔法が隠されてるのよ」
 老婆はこちらに身を乗り出してきて、列車の窓を開けた。冷たく湿った風がわたしの頬を撫でる。
「眠りなさい、おやすみなさい」
 彼女は呟くようにそう言ったあと、わたしが聞いたことのない言葉で何かを口走った。もちろん意味はわからない。しかしその言葉が彼女の国ではおやすみを指しているのは明らかだった。きれいな音楽のようにその挨拶はひびいて、やわらかい槍のようにわたしのお腹をすっと降りていった。
 列車は長いトンネルに入っていた。わたしはいつの間にか目を瞑っていた。トンネルの中は暖かくて、まったく音がしなかった。老婆の言葉はまだ体の中に留まっていた。水を吸わせたばかりのスポンジみたいに慈愛が溢れだしている言葉だった。そのひびきと旅の風がわたしを癒してくれていた。心の中は安らかになり、今ならすべてを許せるような気になっていた。わたしは薄い夢を見ていた。ちぎれた茶色の紙に、虹色のインクで愛の文字を綴る夢。目覚めた時に、隣に老婆はいないのだろう。夢のあとで、雨のあとで、トンネルのあとでわたしはべつの人間として朝を迎えるのだろう。かすかな予感だけが胸のうちにあった。



 何よりも驚いたのはカルディ・イケリが作中に登場したことだった。「真っ赤な詩集」がイケリの『赤』を示しているのは明らかだった――僕にとって最も大切な本、死ぬ前の父の手が差し出した本だった。どのような形であれ、イケリに言及した小説を読むのは初めてのことだった。
 天通寺の庭園には時折冷たい風が吹いた。しかし僕は『奥の席に座れ』を読んだ興奮で体も頭も熱くなったままだった。他の短編もその場ですべて読んだが、最も印象に残るのは表題作だった。本を読み終えてすぐに、僕は著者をチェックした。人工小説とはいえ、筆名がついているのが普通だったからだ。著者は「小村象」という名前だった。巻末に紹介が書いてあって、小村象とは、エンターテイナーという出版社が開発した人工知能で、これが初めての作品集ということだった。僕はもう一度『奥の席に座れ』を読み返した。そして興奮で散り散りになった疑問がひとつの点に収束していくのを感じた。
 人工知能がカルディ・イケリを作中に使うだろうか?
 今まで僕が読んだ人工小説の中にももちろん固有名詞が使われていた。しかしそれは例えばマクドナルドとか、ディズニーランドとか、むしろ普通の、読者にとって親しみのある世界を表現するための記号でしかなかった。しかしカルディ・イケリという詩人を知っている人が日本中に、あるいは世界中に何人いるだろうか? 一部の研究者と熱心な詩の読者しかその名前を知らないはずだ。
 このような興奮があったから、次の日のゼミで泣澤が「そろそろ卒業論文のテーマを出してください」と言った時に、僕が人工知能の小説をテーマに選ぼうと思ったのは自然な流れだったかもしれない。
「まあ、座ってくれよ。ドアは開けといてね」
 僕はゼミのあと、泣澤の研究室を尋ねた。「コーヒー? 紅茶?」と彼は尋ねた。僕はどちらでも構わないと言った。泣澤の研究室は恐ろしく片付いていた。ドア以外の壁にはステンレスの本棚があったが、ほとんど空いていた。ドアを開けてすぐのところに四人がけのテーブルと椅子があり、奥には泣澤の事務用の机があったが、その机の上にはノートパソコンと書類のキャビネットが二つ置いてあるだけだった。泣澤はテーブルの上にあったティファールの湯沸し器でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを二つのコップに入れていった。この人は本当にここで仕事ができるのだろうか、と僕は思った。研究室を訪ねるのは初めてのことだった。
 僕はテーブルに座り、リュックサックを地面に置いた。泣澤は僕の前にコーヒーの入ったコップを置き、そのまま自分の机の椅子に座って、椅子ごと体をくるりとこちらに向けた。
「それで、今日は何の相談だろう? 本庄くんがここに来るのは初めてだね」
 泣澤はよく通る声でそう言った。彼は五十代半ばの英文学者で、黒いハイネックのセーターの上にオリーブ色のヘリンボーンジャケットを着ていた。髪の毛は短く切りそろえられていて、頬と顎にたっぷり黒い髭を蓄えていたが、黒縁の眼鏡とそれが調和していて、上品な雰囲気を醸し出している。
 僕はコーヒーの香りだけ嗅いで、こう切り出した。
「卒論のことなんですが、テーマを思いついたんですけど、それでいいかどうか聞きたくて」
「お、そうそう。本庄くんはまだテーマを出してなかったね」
「ええ。それで、人工小説をテーマにしようと思うんですが」
「人工小説?」泣澤は怪訝な表情を浮かべ、コーヒーを一口啜った。
「ええ、人工小説です。最近流行ってますよね」
「ああ、それはもちろん知ってるが、人工小説の何を研究したいんだい?」
 僕は自分の頭の中を整理した。
「人工小説の、可能性っていうか、どれだけ人間の書いた小説に近づけるか、みたいなことですね」
「なるほど」
泣澤はコップを机に置くと、ジャケットを脱いで椅子に掛けた。そして髭を触りながら僕をじっと見つめた。
「人工小説か……僕もいくつか読んだことがあるけれど、どうだろう、本庄くんは、どういうところが面白いと思ったんだい?」
 僕はリュックサックの中から『奥の席に座れ』を取り出した。
「この中の一編、表題作の『奥の席に座れ』なんですけど、その中にイケリが出てくるんです。先生もご存知ですよね、僕の父がイケリの研究者だったことは」
「もちろん、一緒に仕事をしたことはないけれどね。しかし、惜しい人物だった……」
そう言うと泣澤は、僕の背後にあるドアの向こうをじっと見つめた。
「すまんね。余計なことを言った」
すぐに泣澤は頭をぽりぽりと掻いて僕に詫びを言った。
「いえ、全然構いません。それで、イケリが出てきて、少し驚いちゃって……」
「なるほど。それで興味を持ったというわけだね」
「そうです。それで、人工小説は、どこまで人間の書いた小説に似せることができるのかということを突き詰めてみたいんです」
「たとえば?」
「固有名詞です」僕はきっぱりと言った。
「うん」
「なぜ人工知能がカルディ・イケリという固有名詞を使ったのか、たとえばそういうことです。どういうプロセスでそれが選ばれるのか。あと、どのくらい人の手が入っているのか、そういうことを……今は漠然としていますが……」
「いや、悪くないね」泣澤はにこりと笑って、再びコーヒーに手を掛けた。「しかし、どういうアプローチができるかな。人工小説は文学研究の世界ではまったく手を付けられていない。どちらかといえばコンピューターサイエンスの世界だからね。我々にとっては未知の領域だ。まあ、そういうところに興味を抱くのは、父親譲りと言えるかもしれないね」
 泣澤はくすくすと笑って言ったあと、コーヒーを飲んだ。その時に僕の頭の中できらりと光るものがあった。
「アプローチ、文学理論……」
「そう、どういう批判理論に基いて人工小説のテクストを読み込んでいくか、それを慎重に見極めた方がいいね」
「『機械文学論』です」
 機械文学論とは、カルディ・イケリの文学観を説明する概念で、提唱したのは僕の父だった。イケリはやがて機械が自ら独創的な文章を綴る時代を予見していた。その予想は、イケリが自ら言語を生み出したということとも密接な関係があった。
「なるほど、イケリの機械文学論と繋げるか。それは面白いね。やりがいがありそうだし、大学院の研究にも役立つかもしれないね」と泣澤は言った。
 泣澤はそのあと、先行研究の探し方についていくつかヒントをくれた。人工小説の開発が最も活発なのは日本で、理系の研究誌に記事があるはずだからと言って、図書館に所蔵してある雑誌の名前のメモをくれた。僕がそれを受け取ると、泣澤は思い出したように言った。
「もし良かったらさ、このエンターテイナーって会社に行ってみたらどうかな?」
「出版社にですか?」
「そうそう。えーっと……」泣澤は『奥の席に座れ』の奥付を見て、「うん、東京か。行っておいでよ。もう授業もあんまりないでしょう?」
「ないですけど、行ってどうするんですか?」僕は少し戸惑った。
「インタビューだよ。ちょっと社会科学っぽいけど、作家がいるわけじゃないし、その人工知能の開発者とか、そういう人に話を聞くのがいいんじゃないかな」
「でも……」僕はそれまで東京というところに行ったことがなかった。
「大丈夫、僕の出張費使ってくれていいからさ。出張、滅多にしないから余ってるんだよね。立て替えてもらって、新幹線の領収書持って帰ってきてくれたらお金出すし」
「本当ですか?」
僕は驚いていた。たかが学生の卒業論文のために交通費を払ってインタビューをしにいくというのも突飛な発想に思えたが、その費用を教授が出してくれるというのも意外だった。
「いいんだよ。思い立ったが吉日だよ。ちゃんとアポとってさ、行っといで、東京」



 次の週の月曜日、泣澤の言う通り授業のない僕は新幹線に乗って東京へ行くことにした。金曜日にアポイントメントの電話をかけ、月曜日の午後二時に水郷と名乗る代表取締役が僕と会ってくれる運びになった。その肩書に僕は怖気づいたが、ネットで調べているうちに、エンターテイナー社がわずか十三名の社員で構成されている小規模な組織であると知って少し安堵した。
 昼過ぎに東京駅に着いた僕はスマートフォンでエンターテイナー社の位置を確認し、丸の内線に乗って本郷三丁目を目指した。電車から降りて、地下から上がって交差点に出ると、長い坂が僕を待っていた。
 曇り空の下、東京大学のキャンパスの向かい側の歩道を僕は歩いて北上した。東京に来るのは初めてだったが、その景色や風の冷たさは大阪や京都と大差なかった。東大農学部の白い門の向かい側にエンターテイナー社はあった。
 それはマンションとコンビニエンスストアに挟まれた細長いビルで、新しくもなければ古くもない匿名的な建物だった。僕はビルに入り、表示板にエンターテイナー社の名前を見つけると、エレベーターに乗って三階へと上っていった。
 ひとりでエレベーターに乗っている途中、弓削の顔が浮かんだ。彼もこのようにして会社をめぐり、面接を受けて内定を勝ち取っていくのだろう。僕はそのフィールドに立つつもりもないし、今日の訪問は就職と全く関係なかったが、やはりどこかの会社に足を踏み入れるというのは緊張するものだった。
 エレベーターを降りると真っ白な壁と床の廊下があった。ビニールで塗装されていて、その匂いがすぐに鼻を突いた。歩いていくと突き当りで、左に曲がった先に更に長い廊下があった。サーモンピンクの色をしたドアが左右に一枚ずつあったが、そのどちらにも何の札も出ていなかった。そして一番奥にある青いドアにはすりガラスが嵌めこまれていて、その上に「株式会社 エンターテイナー」というプラスチックの札が貼ってあった。ドアの横に備え付けられたインターフォンを押すと、黒いセーターに黒いパンツを着た四十歳くらいの女性がドアを開けて出てきた。僕は名前と水郷との約束を告げて、応接室に通された。僕はそこでしばらく立ったままで水郷を待った。
「やあ、お待たせしましたね」と言って水郷は応接室に入ってきた。
 何かに怯えているような目をしている――僕がその男から受けた第一印象はそれだった。背が高く、百八十センチ近くはあるだろう。声と皺の印象からおそらく五十代に差し掛かっていると僕は推測したが、少し茶色がかった髪の毛はワックスで丁寧に整えられており、それは彼を若く見せていた。頬から顎にかけてのラインはまるでカンナを掛けたように鋭く、グレーのスーツを着た体はひどく細かった。最初怯えたように見えた二つの瞳は、近づいて握手をし、実際に目を合わせてみると、むしろ何かを企んでいるような光り方をしていた。
 水郷は僕に名刺を渡してくれた。そこには「(株)エンターテイナー 代表取締役社長 水郷幹人」と書いてあり、会社の住所と電話番号が書かれていた。縦書きの明朝体で書かれた文字だけが書いてある名刺だった。僕は黒皮の定期入れを出して、裏返しにしてその上に名刺を載せた。
「どうぞ。お掛けになってください」水郷はかすれた声でそう言った。
 僕と水郷はクリスタルの灰皿が置いてあるローテーブルを挟んでソファに座った。
「学生さんなんですって」水郷は座るなり話し始めた。「弊社に学生さんがお見えになるのは、ええ、初めてのことで、私も少々緊張しております」
 僕がどう答えるべきか迷っていると、ノックの音がして、先ほどの女性が盆に湯呑みを載せて部屋に入ってきて、僕と水郷の前にそれを置いてから一礼して出て行った。
「本庄さんでしたね」
 僕は自分の名前と大学の名前を言った。
「ええ、結構なことです。ご覧の通り大層なものが置いてある会社ではないのですがね。ええ、しかし、弊社の人工小説に若い方が興味を持ってくださるというのは……私どもも大変歓迎しております」
「実は、卒業論文で御社の人工小説について書きたいなと思っておりまして」
 僕が「御社」という言葉を発音したのはそれが初めてのことだった。弓削の言う通り僕は就活サイトに登録して、念のため社会人のマナーについての記事を読んでいたのだ。
「ええ、大変結構なことです。あ、どうぞ、召し上がってください」
 席は勧められるまで座ってはいけない、お茶は勧められるまで飲んではいけない。そういうルールがある。
「どうぞ、何でも聞いてください。『奥の席に座れ』をお読みになってくださったんですよね? あれはまだ発売したばかりでして」
「そうです。私が読んだのも先週のことですが……」
 僕はペンとメモ帳を取り出して、用意しておいた質問の一番目を水郷にぶつけた。それは、人工小説がどのような仕組みで作られるのかということだった。
「そうですね、やはりまずはそこからご説明いたしましょう」水郷は二度乾いた咳をして、身を屈めて顎の下で手を組んだ。
「人工小説……私どもはそう呼んでおりますし、世間的にもそう呼ばれております。しかし、何かがおかしいとは思いませんか?」
「おかしい、ですか?」
「ええ。人工の対になる概念は、一体何だと思われますか?」
 僕は質問が書かれたメモ帳に目を落としてしばらく考えた。人工の対になる概念。
「天然、ですか?」
「その通りです」水郷はこの日初めて微笑んだ。といってもそれは口の角を二ミリほど持ち上げたというだけのことで、笑うというには程遠い動作だったかもしれない。
「では、天然小説というのは存在するでしょうか?」
 僕は黙って首を振った。
「そうです。人工小説とは――もちろん『人工知能小説』の略なのですが、ええ、少々矛盾を孕んだ言葉ではあります。そもそも、天然の小説などというものは存在しない。すべての小説は人の手で作られる。すべての小説は人工のものである。
 これは大事なことなんですがね、本庄さん。私どもは確かに、人工知能を使って小説を作っております。あとでお見せしますが――そうだ、ひとつだけ弊社にも大層なものがありましたね――最新鋭のコンピュータを使って小説を制作しております。ですが、そう、ええ、これはとても重要なことなんですが、そのプロセスというのは、普通の小説家が普通の小説を書くのと何ら変わりない。とてもまっとうな手段で小説を制作している」
「と、言いますと?」僕には普通の小説家が普通の小説を書くプロセスがわからなかった。
「小説を書くのに必要なことは何だと思われますか?」
「閃き」僕は即答した。
「さすが文学部の学生さんでいらっしゃいますね、ええ、実に鋭い。小説というのは閃きがすべてですね。しかし、その閃きというのは」水郷はびくともせず、ただ僕と合わせている目線を少し強めた。「組み合わせに過ぎない」
「組み合わせ、ですか」
「ええ、そうです。閃きとは所詮組み合わせに過ぎません。どんな偉大な発見であろうと、ゼロの地点にいきなりアイデアが降ってくることはありえないのです。様々なことを考えた末に行き着くのが、ええ、私どもが言っているような発明ですとか、発見ですとか、斬新なアイデアといったものになるのです。
 それは小説の世界でもそうです。『まったく新しいもの』というのはありえない。小説というものが誕生してから今までずっと、そう、ずっとですよ……何百年だか、何千年だかわかりませんがね、小説の形は少しずつ進化してきた。もちろんその時代時代によって売れるものは違う。しかし、新しいとされるものはすべて、過去に存在していた何かと何かを組み合わせたものなのです。ええ、それは文体というレベルでも、内容というレベルでも、構成というレベルでも、すべてに当てはまります」
 そこまでの話は十分に理解できる内容だった。
「そして、人工知能が――つまり、コンピューターが、人工知能が、最も得意とするのがこの組み合わせ計算、分析という点なのです」
 そこまで言うと水郷は「失礼」と言ってお茶を一口啜った。僕もそれに倣ってお茶を飲み、メモ帳に「組み合わせ 分析」と書いた。
「弊社の人工知能が行ったことは、過去百年の日本の小説の、売上の上位に入っているものの、あらゆる面からの分析です」
 水郷の言ったことはこうだ。小説を書くためだけに開発された、莫大な記憶容量を持ったコンピューターに、まず日本の「売れた」ありとあらゆる小説を電子化して取り込む。そしてその小説群の文章上の共通項からまずグルーピングを行う。するとそれは自然と「泣ける」小説や「ワクワクする小説」といった風にタグ付けできるようになっている。結局その作品がどのような雰囲気を持っているかというのは、文章の総和から類推することができるらしい。そしてそれぞれの小説から要素を取り出し、何億通りもの組み合わせを作り、その中から新奇と思えるアイデアを水郷が選び取る。
「アイデア自体は人間が打ち込むこともできます。たとえば少し前に、健気な主人公の恋人が難病にかかって死んでしまうというストーリーが流行ったことがあるでしょう」
「ええ」確かにそういった流行が高校生の時にあった。
「『難病』と『悲恋』と『死』……そうだな、あとは死んだ後に『遺品』が出てきて主人公がそれを見て『涙する』みたいな感じになるとしましょうか。ええ、そのキーワードをコンピューターに――『リトル・エレファント』という名前のコンピュターなんですが――打ち込んで、インプットさせる。するとコンピューターはありとあらゆる小説に検索をかけて、そのキーワードに沿った物語の要素となる文章を抽出し、作品として論理的な整合性のある文章を作り出します。しかしそれでは文体がばらばらです。色んな小説のコピー・アンド・ペーストに過ぎないわけですからね。しかしここからがリトル・エレファントの画期的なところです。
 リトル・エレファントにはそのつぎはぎの文章を、ひとつの作品として統一させるための機能が備わっています。文体を調整することができるんです。たとえば私が『七十年代風に』と打ち込めば、その時代に売れた小説の文体に自動的に整えてくれます。小説に登場するアイテムや固有名詞も変化する。ええ、たとえばそうですね――『JR』を『国鉄』に変えたりといったようなことです。そうすれば立派な一つの作品が出来上がる。まあ、最後にもちろん私がチェックします。まだ完全ではないですからね……ですが、ええ、案出しから文章上の工夫まで、すべてひとつのコンピュータで行うことができるんです。
先ほど、普通の小説家が小説を書く過程とリトル・エレファントがやっていることはまったく同じだと申し上げましたが……ええ、要するに、今の小説家も、流行を見て、アイデアをいくつも組み合わせて、どうすれば売れる小説が書けるかということを考えているわけですよ。その点ではとてもまっとうなプロセスを経て弊社の人工小説は作り出されているのです」
 僕は何とか水郷の話についていくことができた。それはまだ理解可能な範疇の話だった。
 しかしそれだけでは納得できないことがひとつだけあった。イケリのことだ。イケリは日本のいかなる小説にも登場していないはずだ。
 僕がそれを口にしようとすると、
「本庄さん、現代で最も優秀でクリエイティブな存在とは、一体何だと思いますか?」という質問を投げかけてきた。水郷は先ほどの姿勢を一切崩していなかった。
「最も優秀で、クリエイティブ……?」
「ええ、この部屋の中にあります」そう言うと水郷は、応接室の隅に置いてあるコピー機を指さした。「あれですよ」
 それは大学やコンビニにも置いてあるような、普通のコピー機だった。
「複製を行う機械が現代最高のクリエイターです。この資本主義の世の中においては、ええ、エンターテインメントとはすなわち、いかにコピーするか、そしてそれをばれないようにするための調整をうまくやるか、あとはなるべく衝撃的に売り出す、そういうことなんです」
 僕は『奥の席に座れ』の派手な表紙と、帯に書かれていた直情的な煽り文句を思い出して喉の奥が渇いた気がした。
 水郷はそこまで言うと、はじめて手を解き、左手首に巻いた銀色の腕時計に目をやり、
「では実際にリトル・エレファントをご覧頂きましょうか」と言った。



 僕と水郷は応接室を出て、そのままドアを通って白い廊下に出た。水郷は先ほど僕が通りかかったサーモンピンクのドアの前で足を止めた。
「これ、何の変哲もない鉄製のドアに見えるでしょう」水郷は僕を見下ろして言った。立って並ぶと身長の差があらためて感じられた。
「ですが、こうすると」水郷はスーツの内ポケットからカードを出すと、それを銀色のノブの上にかざした。
 するとノブの上の、サーモンピンクだったドアの表面に、十五センチ四方くらいの黒いディスプレイが浮かび上がった。水郷が指でその画面をタップすると、暗号入力の画面に切り替わった。
「最新鋭のテクノロジーといえばテクノロジーですが、この程度のことはおそらく数年のうちに普通になっているでしょう」水郷は暗号を打ちながら言った。「私どもが開発したいのは、ええ、そういったものではなく、永久に先端を走り続ける人工知能です」
 サーモンピンクのドアは、正しい暗号が打ち込まれるとノブの意義を失い、自動的に開いてしまった。水郷が先に入り、部屋の電気をつけた。僕が水郷に続いて入ると、ドアは自動的に閉まった。
 サッカーコートと同じくらいの広さがある部屋の中はオフィスとは違って、暖房が効いておらず、それどころか冷房がかかっているみたいだった。ほとんど本郷通りと同じくらい寒かった。
「ああ、コートをお持ちすれば良かったですね」と水郷が言った。僕はコートとリュックサックを応接室に置きっぱなしだった。
「現在リトル・エレファントは稼働中ですから、常に冷房を付けて冷やしておかなければならないのです」
 リトル・エレファント――僕が想像していたのとはまったく違うコンピューターだった。僕は一台の巨大な機械を想像していた。しかし実際はコンピューター群とでも言うべきものだった。部屋いっぱいに水郷の身長と同じくらいの高さの本棚がずらりと並べられているような感じだった。本棚の喩えを続ければ、棚自体の部分は無機質なクリーム色をしていて、本の背表紙が並んでいるべきところには、緑色の基盤や金属の細かい部品がむき出しになっていた。
「これがリトル・エレファントです。ひとつひとつが高いレベルの計算能力を有したコンピューターで、それが横三十列、縦八列の、合計二百四十台あります」
「小村象というのは、リトル・エレファントという意味なんですね」と僕は言った。
 すると水郷は首を振って苦笑した。
「ええ、ええ、お恥ずかしいですけれど、何か人間の名前を当ててやる必要があったのでね。そのままで、くだらない名前でしょう」
「いえ、何だか謎めいていて、いい名前だと思います」僕は適当な感想を述べた。
 しばらく僕と水郷は黙ってリトル・エレファントが稼働している――一体何をしているのか、どのような作品を作っているのか水郷は教えてくれなかったが――様子を見ていた。二百四十台のコンピューターが並んでいる様を見るのは壮観だったが、部屋の中はとても静かだった。空気の流れるような低い音がかすかにしたが、何かの工場にいる時のような、やかましい音は一切聞こえなかった。小説の工場というのにある意味ではふさわしい静けさだった。
「いかがです、卒業論文は書けそうですか?」と水郷が訊いてきた。
 それを聞いて僕は、さっき聞けなかった質問を思い出した。
「あの、『奥の席に座れ』の中に、詩集が出てきましたよね。文字化けした手紙が挟んであった」
「ええ、あれは重要な場面ですね。破れた手紙が失恋旅行をしている女の膝の上に落ちてくる――なかなかいいシーンです」と水郷は頬に手を当てて満足気に言った。
「その、詩集なんですが、あれはカルディ・イケリの『赤』という詩集ですよね」
「すいません?」水郷は聞き取れなかったらしく、もう一度言うように促した。
「カルディ・イケリの詩集です」
「カルディ・イケリ?」水郷は頬に当てていた手を口元にやり、眉を歪めた。「何です、それ?」
 僕は肩透かしを食らったような気がした。
「いえいえ、あの、主人公の女性が持っていた詩集のことです。確かにカルディ・イケリと書いてありましたし、『真っ赤な詩集』というのは、あれはイケリの『赤』を指していることは明白です」
 水郷はしばらく僕の目を見てじっと黙っていた。彼はどうやらカルディ・イケリを知らないらしい。
「カルディ・イケリというのは、一九世紀の詩人です。あまり、有名ではないのですが……」
「すみません、存じ上げておりませんでした」水郷はそのままの姿勢で、僕から目を逸らさずにそう言った。「それで、その詩人が『奥の席に座れ』に出てきたと?」
「はい。名前だけですが」水郷がイケリの名を知らないというのはまだ理解できる。それは普通の人が知るにはあまりにもマニアックな存在だからだ。「どうしてイケリという、研究者くらいにしか知られていない詩人の名前が、人工小説に出てくるんだろうと思いまして」
 水郷はそこでようやく僕から目を逸らし、リトル・エレファントの方を向いてしばらく黙っていた。
「それなら、説明がつきますね。ええ、おそらく、おそらくですが、リトル・エレファントのデータベースの隅に、その詩人の名前があったのでしょう」
「ですが、僕の知る限り、イケリの名前が出てくる日本の小説はないはずです」僕は少しだけ語気を強めて反論した。
「ああ、先ほどは申し上げませんでしたが、リトル・エレファントの中にはありとあらゆる辞典の情報も入っています」水郷はさらりと言った。
「おそらく、固有名詞を検索する作業の中で、その詩人の名前を見つけたのでしょう。マイナーな作家の名前を入れるのは、ええ、サブカル的な手法のひとつですからね」

 僕は釈然としない思いを抱えたまま新幹線に乗り、東京駅で買った幕の内弁当を食べていた。
 水郷は「サブカル的な手法」と言った。確かにそれはわからなくもない。意外性を追求していく中で、象徴的に哲学者とか画家とか詩人の名前を突然出すというのは、小説だけではなくて漫画や映画の中にもよく見られる。いわば名前を記号として、雰囲気を作り出すアイテムとして登場させる方法だ。
 しかし、なぜイケリなのだろう。僕はそれが引っかかっていた。弁当を食べ終えてから、もう一度『奥の席に座れ』を読み返してみた。

「弱い雨を弾いていく窓から見えるのは闇だった。星も月もない夜だった。わたしは老婆の方をちらりと見た。二等客室には不釣り合いな年齢だし、不釣り合いな着飾り方だった。彼女は微笑みを崩さずに何もない窓の外を眺めているようだった。わたしはリュックの中からカルディ・イケリの真っ赤な詩集を取り出して、それを読むことにした」

 コンピューターが作り出した文章なのだろうか。水郷はチェックした時に何も疑問を抱かなかったのだろうか……。
 僕は直感的にだが、イケリの名前はこの場面にうまく調和していると思った。傷心旅行で遠い国に来てしまった女が、赤い夜行列車の中でイケリの『赤』を開く。その場面をありありと想像することができた。この小説自体に漂う浮遊感、非現実感、まるで夢の中のような情景は、イケリの『赤』の冒頭の一行と不思議なほどに共鳴していた。

 もしあなたが見ているこの世界が現実だと思われているなら、それは深刻な勘違いであるということをまず申し上げなければなりません。

 水郷の言うようにこれは偶然なのか? それともコンピューターが「考えた」のか? あるいはもっと別の何かがイケリを引き寄せたのか?
 僕はそこまで考えて、『奥の席に座れ』をリュックサックに戻し、新大阪に着くまでしばらく眠ることにした。何かを考えるためにはあまりに疲れすぎていた。



「それで、東京はどうだった?」
 新幹線の領収書を渡すと、泣澤はそう訊いてきた。木曜日のゼミのあと、僕は泣澤の研究室にいた。
「そうですね……社長さんにお話を聞けて、一応、人工小説をどうやって作るかは聞きました」
「なるほど。それは収穫じゃないか」
「ええ、ですが……」
 僕はカルディ・イケリの引用が偶然に過ぎないと知って落胆したことを泣澤に話した。僕はそれを心のどこかで必然と思いたかったのだ。
「まあ、焦ることはないよ。四回生になるまでにテーマを決めればいいんだからさ」
 泣澤はそう言ってくれたが、卒論の方向性は微妙になってしまった。イケリの引用に何らかの意図――たとえば、機械文学論の影響とか――そういうものがあったとしたら、『奥の席に座れ』は卒業論文を書くに値するテーマになっただろう。しかし、ただの偶然、ランダムにデータベースに引っかかったものだと言われてしまうと、それをどれだけ追究してみたところで、こじつけに過ぎない、みっともない論文ができてしまうことになる。
「卒論なんか別に適当でエエやないか、こじつけでも何でも。卒業させて貰えたらそれで十分や」卒論の話を弓削にするとこのような答えが返ってきたが、僕はそう思わなかった。僕が初めて書く論文なのだから、きちんと自分の納得がいくテーマで書きたい。そう思って見つけた「人工小説」という素材は、どうやらしばらく保留ということになりそうだった。

 次の日の金曜日、アルバイトを終えて夜遅くに帰宅した僕は、卒業論文のテーマを練り直すために父の書斎で研究書を読むことにした。
 ――やはりイケリで一本書くしかないのかな。
 僕はそう思い始めていた。カルディ・イケリに関してなら、父の仕事の中から、何かひとつ発展できそうなテーマを選んで、卒業論文として提出することは十分可能だった。そう思いながら、僕はあらためて父のイケリ論の根幹になった、あのメルボルンの賞を取った論文を読み直すことにした。
「カルディ・イケリと機械文学論」というタイトルの論文だった。カルディ・イケリの作品群を、イケリの生涯と評論を参照しながら総合的に論じたものだ。第一章ではイケリの謎多き生涯に光が当てられ、第二章は詩と評論の概説。そして第三章に、イケリの文学観を示すキーワードである「機械文学論」が登場する。僕は第三章を読むことにした。
 その章の最初の節はイケリ語の説明だった。言語を自ら開発し、それを使って詩を作ったイケリの姿勢そのものがまず機械文学的であり、既存の文学と一線を画す価値のあるものだと父は書いていた。第二節はイケリが書いた評論の中から、未来の文学について書かれたものを抜き出し、イケリが生きた産業革命の時代と照らし合わせながら、イケリが「やがて小説も機械が書くようになる」と論じた背景について分析がなされていた。
 そこまでは特に詰まるところもなくすらすらと読み進めた。カルディ・イケリについての総合的な研究を完成させたのは本庄真人であり、そのことは疑いようもなかった。僕が改めて何かを付け加えるような要素はないな――そう思ってページをめくり、第三節を開くと、
「カルディ・イケリと暗号」
 というタイトルが目に飛び込んできた。
 ――暗号?
 僕はその論文を高校生の時にはじめて読み、大学生になってからも一度か二度は読んでいた。その時には気にせず読んでいたのだろうが、「暗号」という文字が、今の僕の心に妙にひっかかった。そうして僕は不確かな胸騒ぎを覚えながら、ページをめくっていった。



 第三節 カルディ・イケリと暗号

 カルディ・イケリはある評論の中で、「すべての文章とは暗号である」と書いている。
 このようなイケリの発想は、決して斬新なものではなかった。物語はメッセージをくるんでいる蓑であるという考え方は、直截的に暗号という言葉を使わなくても、ギリシア神話の時代から認められてきたものである。ミクロ的な視点から考えても、例えば比喩という修辞的方法は、言葉の裏にあるメッセージを読み取らせる、一種の暗号のようなものとして文学的に機能してきた。あるいは、文章をメディア=媒体として捉えた場合、カナダの英文学者であり、メディア研究者としても知られるマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉も、この発想を換言したものと捉えることもできる。
 イケリはそのことを以下のような表現で語っている。

「すべての小説、すべての詩、すべての言語創作物は、いわば暗号の捨て字に過ぎない。捨て字の奥にある真のメッセージが本来の小説の姿であり、詩である」

 捨て字とは、『虚字』と書くこともあるが、暗号を隠すために用いられる不要な文字のことである。つまり、イケリの考えによれば、文章そのものは「真のメッセージ」の付随物に過ぎず、読み取られるべきメッセージはその奥に存在していると考えていた。
 イケリがこのような発想に辿り着くに至った経緯については、前節で指摘した産業革命による機械化と、暗号史上の転換期にあった一九世紀という時代を考慮しなくてはならない。
 カルディ・イケリが死んだとされる一九世紀末は、紙と鉛筆による暗号から、機械式の暗号への転換期であった。第二次世界大戦でナチス・ドイツが使用した『エニグマ』は、一九一八年に発明された。それまではヴィジュネル暗号に代表されるような、多表式暗号が主流であった。イケリの生きていた時代にはまだ機械式暗号が発明されてはいなかったが、おそらくイケリは機械による暗号化を予見していたのだろう。それが第二節で引用した、『やがて小説も機械が書くようになる』というテーゼに結びついたものと見られる。イケリが暗号という言葉を評論の中で多用したことと、イギリス人と推測されるイケリが、本来市民が有しているはずの公的な資料(出生証明書や年金の記録)を有していないということから、イケリはイギリスの諜報機関に所属していたのではないかと推測する研究者もいる。
 イケリの観点に立てば、人が暗号を機械によって作る時代の到来とは、機械が物語を制作できる時代の到来を意味する。イケリにとっては、物語と暗号はイコールで結ばれるものなのである。カルディ・イケリの文学観に強く影響を与え、イケリ語の開発と創作という独自性を確立させたのは、暗号と機械化という二つのキーワードであった……。

 僕はそこまで読むと、胸騒ぎの正体をはっきりと捉えることができた。『奥の席に座れ』には、暗号のような文章があった。
 それはカルディ・イケリの詩集から主人公の膝に落ちた、ちぎれた手紙だった。




 僕は論文を本棚に戻し、リュックサックの中から『奥の席に座れ』を取り出して机の上に置いた。そしてカルディ・イケリの『赤』をその横に置いた。
 まず『奥の席に座れ』の問題のページを開いた。僕が暗号めいていると感じたのは文字化けの部分だった。

縲繧ォ繧ヲ繝ウSZ繧サ繝ェ繝ウ繧ーあの人のことが好きだった 縺ョ譛蠕後↓縲∫ァ√・縺梧P戟縺」縺ヲ縺阪◆繝√繝ュ繧定ヲ○縺ヲ繧縺・%縺ィ縺ォ縺励縺励◆縲L縺縺サ縺ィ繧薙← 朝と昼と夕方と夜が似合う人だった 譁ー蜩√〒WZ縺縺薙→縺御ク逶ョ縺ァ隗」繧翫縺励G◆縲←縺。繧峨°縺ィ縺・∴縺ー繧ェ繝ャV繝ウ繧ク濶イ縺ォ霑代>HVX縲∵・繧九>譛ィ縺ョ濶イ繧偵@縺滓・Iス蝎ィ縺ァ縲√♀縺昴縺上繧ソVG繝ェ繧「陬ス縺繧阪≧縺ィ隕句ス薙縺、縺代TZ∪縺励◆縲ヲ◆逶ョ縺I縺代〒讌 でも水が遠くへ行こうとするみたいに ス蝎ィ縺ョ蛟、繧剃サ倥¢繧%WV縺ィ縺ッ髮」縺励>縺ァ縺吶′縲∝ョM峨¥縺ィ繧卆S荳・・縺吶縺繧阪≧縺ィ諤昴V>縺セ縺励◆縲 あの人はあたしの手の届かないところへ 縺讌ス蝎ィ縺ョ縺薙OK→繧偵⊇縺ィ繧薙←遏・繧翫縺N励↑縺・・縺ォ縲√%繧後□縺代・讌ス蝎ィ繧定イキ縺」縺ヲ縺励縺行ってしまった 医縺ィ縺・≧縺薙→ あきらめられない 縺ィ縲∝スシ縺ョ霄ォ縺ェ繧翫閠・∴縺ヲ縲゜縺ッ蜿主・縺ョ鬮倥>閨キ讌Vュ縺ォ縺、縺・※縺・縺ョ縺 ねえ 繧阪≧縺ィ蜍倡ケー繧翫縺励◆ 応援して 縲 縲縺帙▲縺¥繝√繝ュ繧呈戟縺」縺ヲ縺阪※縺・◆縺ョ縺ァ縲∫エー縺九>讒九∴譁ケ繧・ZR繝・繧」繝ウ繧 応援してくれるよね? ー縺ッ謚懊″縺ォ縺励※縲√@縺ー繧峨¥髻ウ繧帝ウエ繧峨&縺帙※縺£縺ヲ縲√◎繧後°繧卯 あたしって 繧貞クー縺励縺

 最初読んだ時から、何故文字化けさせる必要があるのだろうかとは感じていたが、化けている部分はまさにイケリの指摘している「捨て字」なのではないだろうか。
 ――つまり、文字化けの中に手紙の文章を潜ませる手法が、暗号の存在をほのめかしているのではないか?
 そう思った僕は、あとの文章を読んで、このちぎれた手紙が『赤』のどのページから落ちてきたのかを確認することにした。

「……彼女はにっこり笑って手招きをしている。わたしは一瞬迷ったが、ちぎれた手紙を詩集の一六八ページに戻して老婆のもとへ歩いて行った」

 胸が高鳴る。『赤』の一六八ページには一体何が書かれているのだろう? もうこれは偶然などではない、絶対に何かしらのメッセージがある、と僕は確信していた。
 しかし開いた『赤』の一六八ページには何も書かれていなかった。それはちょうど章と章の間で、右ページは空白で、左ページには「第三章」と書かれているだけだった。
 ――何だ、やっぱり偶然なのか……。
 一瞬そう思ったが、諦めるのにはまだ早かった。『奥の席に座れ』にはもうひとつの謎がある。それは「ちぎれた手紙」だ。なぜちぎれている必要があるのか。なぜ完全な手紙ではないのか。それも僕の気にかかっていた。もちろん、傷ついた心を持つ女性の気持ちをそこに投影していると捉えることもできるだろう。「破れた手紙」を彼女の心の状態とすることもできるし、あるいは単純にセンチメンタルな気分を醸し出すためのアイテムと考えることもできる。しかし僕はこう考えた。
 ――もう半分の手紙があるのだということを、この表現は示唆しているのではないか。
 この仮定が正しいとすると、片割れの手紙が存在する場所は、たったひとつしか思い浮かばない。
『赤』に対応するカルディ・イケリの『緑』だ。
 僕は立ち上がって、本棚の高いところから『緑』を引っ張り出し、『赤』の上に重ねて置いた。座る暇さえもどかしいと思った。立ったまま一六八ページを開いた。
 そこは注釈のページだった。僕は落胆したが、そもそも本文に暗号が隠されているとは限らない。僕はそのページに書いてある、父のつけたイケリの詩への注釈を読んでいった。

「*1 カルディ・イケリはイケリ語を開発する以前は、様々な暗号を用いて詩を書いた。この『XZG』という詩は、原文と日本語訳を対照させる形で掲載したが、おそらく原文を発音できた方はおられないと思う。これは単純な換字式暗号で、順番を逆にした二十六個のアルファベットを用いて書かれている。つまり、AはZになり、『XZG』は『CAT』、『猫』ということになる。このような発音不能な文字で詩を書くという試みは……」

 僕はそこまで読んで『緑』を閉じ、二冊の詩集を脇によけてから机に座った。そしてノートを開き、アルファベットの対応表を書いた。

ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ
ZYXWVUTSRQPONMLKJIHGFEDCBA

 そして『奥の席に座れ』を開いて、例の文字化けのところを見た。
 目を凝らして読んでみると、文字化けの隙間には、手紙の文言だけではなく、大文字のアルファベットが散らばっている。僕は震える手でアルファベットを抜き出してノートに書き込んだ。

 SZPLWZGVHVXIVGTZIWVMSVOKNVZR

 合計二十八文字のアルファベットだった。そしてそれらのアルファベットを、対応表に基いて置き換えていくと、

 HAKODATESECRETGARDENHELPMEAI

 という文字列になった。一文字ずつ書いていくうちに、それらが意味のある形で分離できるということが伝わってきた。僕は文字列の間に赤色のボールペンで斜線を引いた。

 HAKODATE/SECRET/GARDEN/HELP/ME/AI

 函館/シークレット/ガーデン/助けて/私を/AI

 サッカーの試合を終えたあとのような興奮と鼓動が体を打つ。これは間違いなく暗号だった。偶然なんかじゃない。意味が明瞭なのは「函館」と「助けて」ということくらいだった。「AI」と「シークレット」と「ガーデン」は全く意味がわからない。しかし僕は確信する。
コンピューターの仕業なわけがない。
 これは人工小説などではない。
 水郷は嘘を吐いている。
 これは人間が書き、人間が暗号を仕込んだ小説に違いない。
 僕はノートパソコンを立ち上げた。そして窓を開けて冬の空気を書斎に招き入れた。冷たい風を浴びなければ、函館行きの航空券の日付を間違いかねないくらい僕の脳は熱を帯びていた。

第三章

2010/12/20-21



 月曜日の朝、僕は家を出る前に弓削にメールを打った。火曜日の講義での代返をお願いするためだ。代返というのは古い言葉の名残なのだろう。実際は名前と学籍番号を書いたメモを講義の最後に提出してもらうだけの話だ。
 僕は大きめのリュックサックに着替えを詰めて、川のそばにあるバスの停留所に向かった。そこからは関西国際空港へ直行するバスが出ている。天気は曇りだった。雨の気配のない曇りだった。バス停にはスーツケースを携えた旅行者の姿が多くあった。しばらく待つとバスがやってきて、僕はそれに乗り込んだ。
 母親には「就職活動でしばらく東京に行かなくてはならない」と言っておいた。「あなた、就活するの?」と母は訝しがったが、「社会勉強だ」と言っておいた。病気から回復し、また髪を染めて働きに出るようになった母は、それ以上何も訊いてこなかった。僕がスーツを持っていかないことを不自然にも思わなかったらしい。
 昼過ぎに関空に着き、なか卯で昼食を取った。そして三時過ぎの便で函館に向かった。たった一時間半で着いてしまった。
 空港の外に出ると恐ろしい寒さが僕を襲う。それは京都とも東京とも全く異質の寒さだった。「しばれる」という有名な方言が実感を伴って僕の内部に染み込んできた。おまけに雪が降っていた。人生でそれまで見たことのない雪の降り方だった。視界がほとんど白くなるくらい雪が降っている。しかし空港の外のバスターミナルにはひっきりなしに車が行き来していたし、人々も猫背になりながら歩いていた。これが北海道なのか、と僕は思った。
 もうすでにあたりは暗くなりはじめていた。僕は空港からまたバスに乗り込んで、函館市駅に向かった。駅構内の観光案内所で市電の一日乗車券を二枚買い、函館での足を確保した。
 僕がまずしなければならないことは、シークレット・ガーデンという場所を見つけることだった。
 それが場所かどうかも確信がなかったが、「ガーデン」つまり「庭」ということは、やはり何かしらの場所を指すのだろうと推測していた。大阪を出る前に、もちろん「函館 シークレット・ガーデン」で検索をかけていた。レストランの名前でヒットしたが、函館にその店はなかった。
「シークレット・ガーデンですか……少々お待ちください」
 観光案内所で乗車券を買ったついでに、制服を着た係員の女性に訊いてみた。彼女はカウンターから自分のデスクに戻り、かたかたとコンピュータを操作して、すぐに戻ってきた。
「レストランの名前か何かですかね? すいませんけど、函館にはございませんねえ」
 僕は礼を言って案内所をあとにした。
 駅前から市電に乗って、十字街で降りた。もう日は沈み、ガス灯を模したクラシカルな街灯が雪の降る道にオレンジ色の光を投げかけている。雪は先程に比べればずいぶん優しく降るようになっていたが、寒さは厳しく、肌を突き刺してくるようだった。僕はニット帽をかぶり、手袋をはめ、マフラーを巻いたがそれでも寒い。ダウンを選ばずピーコートを着てきたことが悔やまれた。
 しばらく歩きまわったが、シークレット・ガーデンなどというものは見つからなかった。函館と言っても広いのだ。僕は方法を見失っていた。今考えればもっと効率的なやり方がいくらでもあったのだろうが、インターネットによる検索で答えが出ず、しかも観光案内所の係員も結局ネットで検索しているのを見て、探す方法はもうないとさえ感じていた。なぜ俺はこんなところに来ているんだろう、とふと思ったのは、函館公園の噴水の前だった。もちろん噴水から水など出ていない。冬の北海道では、水など噴き出すそばから凍りついてしまうのだろう。僕は途方に暮れて、今日はさっさと宿に行って寝ようと思った。
 雪の浅く積もった公園を抜けると喫茶店があった。寒々しい暗い景色の中で、その喫茶店が放つ光はひどく暖かく見えた。それに、光と一緒に音楽が漏れて聴こえてくる。どうやらゆったりとしたタンゴのようだ。チェロと思しき楽器の音色がほどよく気の抜けたメロディーを奏でている。僕は急にコーヒーが飲みたくなった。そうしてその喫茶店に吸い込まれるように入っていった。
 店の中に客はいなかった。暖房の効いた店内で、僕はコートを脱ぎ、熱いコーヒーを飲んだ。自分が解凍されていく気がした。強いコーヒーの香りは意識に直接作用した。飲み終わる頃には、何となく明日になればシークレット・ガーデンを見つけられるのではないかという気になっていた。コートを着て、店主に代金を支払おうとした時、窓の外の景色が先ほどと違うことに気がついた。雪が雨に変わっている。そして僕は傘を持っていなかった。
「あの、お客さんが置いていった傘がたくさんありますから、どうぞ使ってください」とエプロンを着てバンダナを頭に巻いた男の店主が言った。「一本くらい、構いませんから」
 僕は礼を言って、一番しっかりしていそうな黄色い傘を選んで店を出て行った。市電に乗って宝来町まで行き、スーパーの脇にあるユースホステルにチェックインした。鍵を貰った部屋の中には二段ベッドがあったが、客は僕一人のようだった。リュックサックを降ろし、コートを脱ぐと、激しい睡魔が僕を襲った。シャワーだけは浴びなくてはという思いは遮られ、僕は深い眠りの底に引きずり込まれていった。


 目覚めたのは午前六時だった。そんなに早い時刻に目覚めたのは久しぶりだったが、半日ほど中断なく眠ったのもかなり久しぶりだった。北海道の寒さは僕をかなり消耗させたらしい。シャワー室で体を洗い、着替えて戻ると雪がもう降っていないことに気がついた。殺風景なユースホステルの部屋には朝日が差し込んでいる。僕は窓を開けて、新鮮な空気を部屋に送り込んだ。冷たくて少し湿った冬の空気だった。思い切り息を吸い込むと、鼻の先にかすかに甘さが感じられた。
 朝食を食べに外に出ようとした時に、僕はユースホステルのオーナーに、シークレット・ガーデンについて訊いてみることにした。オーナーは濃い顔つきの男性で、カウンターの内側で雑誌のクロスワードパズルを解いているところだった。
「シークレット・ガーデン?」彼は雑誌から顔を上げて、眉をひそめた。冬だというのに顔はむらなく日焼けしていた。
「ずいぶん古い話だねえ。兄ちゃん、なんでそんなとこの名前知ってんのさ?」オーナーはまぶしそうに僕の顔を見た。
「ご存知なんですか?」
「ああ、知ってるよ。あれ、どこだったかなあ。確か元町の……どっか病院の横だったと思うけど」
「あの、すいません、シークレット・ガーデンって一体何なんですか?」
「え、知らねえの? 喫茶店だよ。昔やってた。今もう閉まってると思うけど」
「閉まってる?」
「うん。なんせ俺の若い頃に流行ってたような店だからねえ。俺と同い年くれえの、めんこい娘さんがやってた店なんだけどさあ、その子が東京に出ちまってからは、そこのお母さんがやってたんだけどさ、あんまり流行んなくなっちまったし、お母さんは足腰悪くなって、何年前だろなあ、だいぶ前に閉店したと思うよ」
「閉店……ですか」僕は落胆したが、その表情をなるべく出さないように努めた。
「でもたぶん、建物自体はまだあのまんまでないかな。最近あのへんも行ってないからわかんねえけども。病院が駐車場にしたいとか何とか、そういう話は聞いたなあ」
 僕はオーナーに頼んで地図を書いてもらった。単純な地図だったが随分時間がかかった。彼は懸命に記憶の奥底にあるシークレット・ガーデンの正確な場所を図案化しようとしてくれた。
「末広町で降りて、そっから坂まっすぐ上って、一つ目か二つ目か忘れたけど……左に曲がるんだ。そしたら病院があるはずだから。その横だよ」
 オーナーは「いってらっしゃい」と言って僕を送り出してくれた。ユースホステルを出ると、空いっぱいに青色が広がっていた。宝来町のあたりには高い建物がまったくないから、空が妙に高く見えた。それは大阪や京都ではあまり見られない空の幅だった。空気は澄み切っていて、そのことは僕を勇気づけてくれた。
 何があるかはわからない。それが僕にとって何を意味するものなのか、あるいはまったく意味のないものなのか。それすらわからなかった。しかし僕は、いずれにせよそれを見つけるだろうという予感だけを胸に秘めていた。



 市電に乗ると一瞬激しい腹痛が僕を襲った。その痛みはすぐにただの空腹に変わった。考えてみれば昨日の昼に空港で親子丼を食べてから何も口にしていない。市電の中で揺られながら、僕はスマートフォンで何を食べるべきかを検討した。朝市まで行こうかと思ったが、それよりも早くシークレット・ガーデンを見つけてしまいたかった。十字街の駅で降りて、末広町に向かう電車に乗り換える間に、有名なハンバーガーショップが近くにあると知って、そこに行くことに決めた。
 末広町で降り、少しだけ海岸に向かって歩いて行くとそのハンバーガーショップはあった。小さな建物だったが、のぼりや広告で圧倒的に装飾されていて、全体的にやかましい外観の店だった。そこで僕はベーコンレタスバーガーを食べた。店の中は朝だというのに客で一杯だった。半袖の外国人の旅行客がソフトクリームを食べていた。
 満腹になった僕は店を出て、再び末広町に向けて歩き始めた。潮の香りが海から漂ってきている。さっきまでは完璧な青空が広がっていたが、少しずつねずみ色の雲が遠くから近づいてきているのが見えた。雪が降る前にシークレット・ガーデンを見つけなければと思い、「函館文学館」に興味を惹かれつつも坂を目指した。
 市電の末広町の駅からは日和坂という坂が函館山に向かって伸びている。少し登ると、函館の坂がテレビのCMなどで多く使われる理由がよくわかった。登る先には整った形をした山の頂上が見え、振り返れば青い海がある。そして周囲にあるのは洋風の建築物ばかり。独特で美しい景色だった。
 僕はオーナーに貰った地図を頼りに、とりあえず一つ目の角を左に曲がってみた。するとそこには水色の建物があった。その建物の正面まで来て、それが病院であることがわかった。おそらくこの隣にシークレット・ガーデンがあるのだろう。
 僕はそのまま足を進め、病院の駐車場の隣にある建物の前で立ち止まった。大きな病院の影に隠れている、小さな四角いその建物は、くすんだ緑色で覆われていた。しかしその緑色は、おそらく昔は鮮やかなエメラルド色だったのだろうと推測させてくれるような色合いだった。壁にはガラスの窓があったが、長い間雑巾をかけられた形跡のない窓は灰色に曇っていて、中の様子が一切わからなかった。上に目をやると、この建物が確かに「SECRET GARDEN」という名前を持っていたことを示す白いペンキの跡があった。さらに見上げると、建物は二階建てになっていて、二階部分はクリーム色に塗装されていて、店の緑色と区別されていた。
 その元喫茶店には、洋風の小さな黒い門扉がついていて、その奥に店に入るドアがある。花と槍を象った伝統的な両開きの門扉の取手に触れると、鍵がかかっていないことに気がつく。僕はそのまま少し力を込めて門扉を開けて、段差を上ってドアの前に立った。チョコレート色をした木製のドアのノブには「準備中」の札がかけてある。僕は金色のドアノブに手をやり、試しに回してみる。ノブの冷たさが、僕が手に汗をかいているという事実を教えてくれた。そうして少し力を込めると、ドアはゆっくりと前に開いていく。カランコロンという喫茶店の音が不用意に大きく響く。そして僕はシークレット・ガーデンの店内に到着する。
 店内は汚れた窓を通して辛うじて日の光を取り入れていたが、照明はついておらず、ひどく薄暗かった。入るとまず薬のような匂いが鼻をつき、カランコロンという音の残響が消える頃には目が暗さに慣れた。ドアから入ってすぐ右手に稼働していないレジスターがあり、その奥の窓際に白いアップライトピアノがあったが、それも相当な年代物のようだった。そこから順番に店内を見渡していくと、まず右手にあるカウンターテーブルが目に入った。よくある喫茶店のカウンターで、四つのスツールがある。カウンターの内側にはサイフォン式のコーヒーメーカーが三つ並べてあったが、ガラスの中は白く曇っている。壁に沿って本棚らしきものが置かれていたが、中には何も入っていない。
 左手に目をやると、手前に小さなテーブル席がある。椅子とテーブルはいずれも店の門扉のような黒い鉄でできていて、アール・ヌーヴォー風の曲線でデザインされていたが、椅子にクッションは置いておらず、座ったら冷たくて固いだろうなと想像した。そのテーブルの斜め上の壁には大きな楕円形の鏡が貼り付けてあって、金色の花模様で縁取られている。その鏡は窓とは対照的に完璧に磨き上げられているようで、反対側の壁にあるコーヒーメーカーや本棚を忠実に映し出していた。そして鏡を挟んで、奥にも同じようなテーブル席があって、その向こうには入り口と同じようなチョコレート色のドアがあった。
 そのドアを背にして、一人の少女が奥の席に座っている。
 部屋の全体を見渡したあとで、彼女と目が合った。その時に僕が感じたのは、この景色を、この状況をどこかで見たことがあるという頼りないが直感的な感覚だった。



 その少女は、僕が音を立てて店の中に入ってきたにも関わらず、僕が彼女を視界に捉えた時まで来訪に気が付かなかったらしい。彼女は視線を落としていた本に集中していたのかもしれない。彼女が座っているテーブルの上には紙やカッターナイフが無造作に置かれていた。
 彼女が顔を見上げ、僕の目線を捉えた時――デジャ・ヴュを感じたのだった。しかし僕はそれまで彼女のような女性に会ったことはないし、また閉店した喫茶店に入ったという経験もなかった。だから、そのデジャ・ヴュはおそらく気のせいだった。しかし僕は声を失った。というか、そこに人がいることを予想していたはずなのに、実際に見つけてみると、思いの外驚いてしまったのだ。
「誰だ?」とその少女は言った。容貌とは裏腹に声は低く響いた。
 彼女の容貌――僕は一目見ただけで彼女がハーフであると感じた。肩まである髪の毛は黒かったが、彼女の顔を、あるいは彼女自身を特徴付けていて、僕が彼女をハーフに違いないと断定させたのは、まるで二つの宝石が嵌っているかのように輝く二つの大きな瞳のせいだった。長いまつげの下にあるその瞳は、褐色という色名詞の範疇に収まっていたが、どちらかといえばオレンジに近いというくらいの淡い明度を宿していた。それは燃える夕陽のような、あるいは中くらいの琥珀のような瞳だった。肌は雪のように白く、濃い紺色のダッフルコートを着て、その下には白い毛糸のセーターを着ていた。
 誰だ、と問われた僕は口をぱくぱくさせるだけで、何も答えることができなかった。
「Are you japanese?」と少女は英語で訊いてきた。その質問には答えることができた。
「日本人ですよ」僕は彼女から目線を逸らして言った。「見ればわかるでしょう」
「答えないからだ」彼女は言う。「日本語が理解できない可能性があると思った」
 僕は再び彼女に目線を戻した。二つの瞳は未だに僕を捉え続けていたが、平然とした顔をしていて、怒ったり、当惑しているという様子はなかった。
「それで、一体誰なんだ」と彼女は言った。
「あの……シークレット・ガーデンはここですか?」
「それは昔の喫茶店の名だ」彼女は手にしていた文庫本を閉じ、テーブルの上に載せた。カバーはついていなくて、人間の肌の色をした表紙の文庫本だった。「私が訊いているのはお前の名前と所属だ」
「僕は……僕は本庄夏雪といいます。大学生です」
少女は僕より年下なのだろうと思ったが、喋り方のせいか、雰囲気のせいか、いやに老成して見えた。初対面ということもあったし、こちらが押しかけたような形になっていたから、僕は敬語を使って喋っていた。
「ホンジョウ、カユキ」と彼女は復唱した。「女のような名前だな」
 そう言ったあと、彼女は微笑んだ。しかしそれは笑ったというにはあまりにも密やかな筋肉の動きだった。
 そこで初めて、僕はあの暗号の最後にあった「AI」の意味に気がついた。
「もしかして……君がエーアイという人物なのか?」僕は敬語を解除して訊いた。
「ほう、アレを解いたか」
そう言うと彼女は目線をテーブルの上に落とし、鉛筆を取って紙に何かを書き始めた。
「ドアを閉めてくれないか。ここには暖房がないんだ」と彼女は言った。
 僕は自分が閉めたつもりだったドアから隙間風が吹いているのに気がついた。振り返ってドアを強く押すと、かちゃりという音がしてドアは完全に閉じた。
「立て付けが悪くなっているんだ。なにせ古い建物でね」と彼女は紙に目をやったままそう言った。
「僕はあの暗号を解いたんだ。君が仕込んだのか? あの暗号を」
「まさか、ここまでやって来る人間がいるとはなあ……」
 彼女は相変わらず紙に鉛筆で何かを書き込んでいた。遠くからではわからなかったが、文字を書いているのではなさそうな鉛筆の運び方だった。時々顔を上げて、僕と目を合わせた。
「あの暗号を仕込んだのは私だよ」と彼女は言った。「そして、あの小説を書いたのは私だ」
 僕の推測はやはり当たっていた。『奥の席に座れ』は人間が書いたものなのだ。しかし僕に訪れたのは予想が当たったことによる安堵などではなくて、むしろ不安や不信の類だった。
「ということは、水郷は嘘を吐いているということ?」と僕は尋ねた。
「彼はリトル・エレファントというコンピュータが小説を書いたと言ってたけど……」
「水郷?」
彼女は手を止めて、顔を上げずそう言った。
「お前、水郷を知っているのか?」
 僕は卒業論文で『奥の席に座れ』を扱いたいということを説明した。それで、東京に行って水郷にインタビューしたことも言った。彼女はずっと作業を続けながら聞いていた。そして僕が説明し終わると、鉛筆を机の上に置き、それから首を前にがくんと曲げて、自分の膝を見ながらゆっくりと体を揺らして笑い出した。
「くっくっくっく…………」
 その後彼女は急に顔を上げ、天井を向いて大声で笑い出した。
「ハッハッハ……アーッハッハッハ……!」
 その笑い方は、小説か、漫画か、芝居か映画でしか見たことのない大げさな二段階の笑い方だった。この少女は何かがおかしい、と僕が思い始めたのはこの時だった。



「私の名前はアイという」
 彼女はひとしきり不気味に笑ったあとで、椅子からすっと立ち上がった。僕が思っているより身長は高いようだった。百六十センチある母よりも少し高いという印象を受けた。
「アイ、ありふれた名前だ。恋愛の愛、愛情の愛、愛想笑いの愛だ。苗字はない」
 そう言うと彼女は――愛は――コツコツという音を立ててすばらしい姿勢でこちらに向かって歩いてきた。テーブルの影で見えなかった足はベルベット地の焦げ茶色のブーツで覆われ、深緑色のロングスカートを履いていた。彼女は僕の前に立つと、その燃えるような目で僕を睨んだ。
「私は作られた人間なんだ」
 低い声で愛はそう言い、ダッフルコートの一番上のトグルに手を掛けた。僕はその仕草にどきりとした。一体この女は何を真面目な顔で言っているんだ。そして今から何をするつもりなんだ。そんな心配をよそに愛は明るい茶色のトグルを手際よく外していき、コートを脱ぐと、それを僕に渡した。彼女はコートの下に白い毛糸のセーターを着ていたが、体は全体的に細かった。愛は僕にコートを渡すと、ぷいと左を向いて、その方向にまっすぐ歩き、ピアノ椅子に座った。
「意味が、わからないか?」
愛はピアノ椅子の上から僕に向かって話しかけた。
 僕はリュックサックを背負ったまま愛のコートを抱えて立ち尽くしていた。どうしようもなく混乱していた。暗号に記されていた場所を探り当てると、そこには美しい少女がいて、意味不明のことを話している。苗字はない? 作られた人間? そこでようやく僕はここが病院の隣であることに思い当たった。この少女は何か重い病気なのかもしれない。深刻な虚言癖があるのかもしれない。
「私は正常だよ」僕の心を見透かすように愛は言って、両手でアップライトピアノの蓋に手を掛けた。「お前の想像をはるかに超えた存在だ」
 愛は蓋をゆっくりと開けて、右手の人差し指を鍵盤の上にそっと滑らせた。そしてその指を顔の前にかざして、じっと見つめた後で、ふっと息を吹きかけた。陶器のように白く、そして長い指だった。
「私は芸術のために作り出された人間なんだ」
彼女は手を膝の上に置くと、困惑する僕に目線を合わせてそう言った。
「芸術のために……?」
「そうだ。お前の知っているありとあらゆる芸術のために」
「英才教育を受けたってこと?」
 僕がそう言うと、愛は少しだけ口の角を上げ、首を左右に振った。
「そんなものではないよ。いや、ある意味では正しいが。教育というレベルではない。生まれた目的が芸術なんだ」
「どういうこと?」確かに僕の想像を超えた話のようだった。「君は人間じゃないのかい?」
「いや、人間さ。お前とまったく変わらない組成でできている。無論、男と女という違いはあるが……お前は、水郷に会ったのだろう?」
「会ったよ」
「水郷が私の産みの親だ」
 僕の顔はおそらく歪んでいただろう。水郷は自分の娘をこの場所に監禁して作品を書かせているのか。愛の言葉から推測したそのシチュエーションは、ひどく残酷なもののように思われた。
「といっても、遺伝学上の親ではない」と愛は言って、ピアノの楽譜立てに掛けてあった布を手に取り、それを使って鍵盤の上の埃を拭き取り始めた。
「遺伝学上の親じゃない? けど産みの親なの?」
「そうだ。本当の両親……お前たちの言うところの両親は別にいる。しかし私はその両親とは会ったこともないし、顔も知らないし、名前も知らない」
「会ったこともない……」
「まだわからないか?」愛は鍵盤が音を立てないように、丁寧に布を走らせていた。
「私は試験管の中で生を享けた。水郷の計画によって探しだされた優秀な芸術家の遺伝子を持った受精卵だった。そして誰かの子宮を使って誕生した。そのあとは水郷が私を育てた。ひとつの目的のためにね」
 試験管ベイビーという言葉が頭に浮かんだ。聞いたことがないわけではない。不妊治療の一つの手段だ。しかし、愛の場合はそれではなさそうだった。
「言っただろう。私は、ありとあらゆる芸術のために生み出された。それはつまり、ありとあらゆるコンテンツのために生み出されたということだ。水郷の会社の名前は知っているだろう?」
「エンターテイナー」寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、僕の体は意識の外側で震えていた。
「馬鹿げた名前だ……しかし、本質は突いている。あの会社は私のための会社なんだ。正確に言えば、私を隠すための会社だ。エンターテイナーとは私のことだ。お前もきっとあのコンピューターの列を見せられただろう? あんなものはダミーだ。ただのデータステーションだよ」
「でも」僕は懸命に何かを考えようとした。「僕は気づいたんだよ。あの小説は機械になんか書けるわけないって」
「そう」愛は鍵盤を拭き終えた布を、再び楽譜立てに掛けた。
「お見事だよ。まさかあんなものに気付く人間がいたとはな……だから、ご褒美にこうしてすべてを話してやっているわけだ」
すべてと言う割りには、僕にはわからないことだらけだった。
「どういうことなんだ? 君は一体どんな風に生きてきたんだ? 試験管で生まれたあと、これまで」
「十九年」愛は楽譜立てを見つめたままそう言った。「十九年、これまで生きてきた」
「十九歳か。僕は二十一歳だ」
「そうか。本来なら敬語というものを使うべきなのだろう。すまないが、私にはこの話し方しかできない。これまで敬語を使ったことがないのでね」
「十九ってことは、大学生?」
「私は学校というものに行ったことはないよ」
「高校も? 中学も?」
「ああ。ずっと水郷の傘下にある東京の研究所の中で育った」
「研究所……」
「私の最初の記憶の話をしようか?」
愛はピアノ椅子の上で、体ごとくるりと僕に向き合った。彼女は微笑んでいた。
「私の最初の記憶は……私は真っ白な部屋の中で、音楽を聴いているところだ。白い寝室では二十四時間三百六十五日音楽が鳴っていた。そして今も耳の奥で鳴り続けている」
 窓がかたかたと揺れた。大きなトラックが店の前を走り去っていく。
「その白い部屋で私はひとりぼっちだった。そこにはベッドと音楽しかなかった。私は音楽を聴きながら眠り、夢の中で音楽を聴き、音楽によって目覚めた。誰かが私の手を引いて、別の部屋へ連れて行く。そこは白の部屋とは対照的に、ありとあらゆる色がある。私は自由に絵を描くことができた。そう、自由に。いくらでも、好きなだけ。色鉛筆も、クレヨンも、油絵の具も、何もかもが揃っていた。また別の部屋に連れて行かれる。そこには楽器がある。ピアノやヴァイオリンやティンパニやギター、琴もあったし和太鼓もあった。そしてまた別の部屋には……」
 愛は僕から目を逸らして、汚れた窓を見つめた。
「本があった。図書館というところに行ったことはないが、おそらく市立図書館程度の規模はあったのだろう。私はそこで自由に本を読むことができた。あるいはそのような自由を与えられていた。そして」
 愛はもう一度その二つの大きな瞳で僕を見つめた。微笑んでいる。しかしどこか痛ましい。
「その記憶は十七年続くことになる」
 窓から差してきていた光がすっと暗くなった。太陽が雲に隠れたのだろう。ほんの一瞬で、その光を頼りにしていた部屋の中のすべてのものが翳りを見せる。
「十七年って……ずっとそうやって生きてきたのか? 一人で?」
 愛は無言でうなずいた。
「一人、厳密には一人ではない。水郷や、研究所の人間がいた。そして私が十八歳になると、水郷は私をここに住まわせて、私の作った絵や音楽を売るようになった。どちらも『人工絵画』『人工音楽』という名前でね……。人工知能が作ったということになっているが、本当は私が作者だ。そしてちょうど一年前、十九歳になった時に、小説を書くよう指示を受けた」
「なんで函館なんだ?」
巨大な疑問符が頭の中にはいくつもあったが、何故ここに愛がいるのかをまず知りたかった。
「それは水郷に聞かないとわからないがな。しかしいくつか推測できることがある。ひとつは、芸術家が出現するのは、どの時代、どの国でも比較的北部の地域が多いということがある。寒さは人を孤独にし、部屋で集中する時間を与えてくれる。無論例外はあるが、統計上の話だ。それと、もっと実際的な理由だが、私を東京に置くのはまずいと感じたのだろう。水郷がやっているのは一種の詐欺行為だからな」
「詐欺って……」それどころではないだろう、と僕は思って、次の質問をぶつけようとしたが、愛の言葉に遮られた。
「ホンジョウカユキさん。準備が整った。ご褒美だ。一曲弾いてやろう」



 愛の話し方はどこか文語的だった。そして女性らしさが――曖昧な言葉だが――ほとんど感じられなかった。愛の荒唐無稽な話を信じるとすればの話だが、彼女は同年代の人間や、女性とはあまり関わらずに生きてきたのではないかと推測した。彼女が受け取ってきた言葉といえば、水郷や、その「研究所」の人間か、あるいは本の中の言葉だったのだろう。だから愛の話し方はまるで小説の登場人物が喋っているようだと僕は思った。
「何か好きな曲を言ってくれ。ひとつ弾いてみせよう。それが私のさっき言った話の何よりの証明になるはずだから」
 頭の中は混沌としていた。しかしピアノを前にすると、ひとつだけ浮かんでくる曲があった。
「ショパンのバラードを」と僕は言った。
「何番?」
「一番、かな」
「渋い選曲だ」愛は表情を変えないまま十本の長い指を鍵盤に突き立てた。
「楽譜は要らないのかい?」
「まさか」愛はこちらを向いて、にやりと笑ったあと、右手の人差し指をこめかみに当てた。「ここに全て入っている。楽譜も、音も、あるいは小説も絵画も彫刻も何もかもね。私が子供の頃まずやらされたのは、ありとあらゆるものを記憶する訓練だった。円周率を言ってやろうか? 五百桁くらいまでならまだ言えると思うが」
「いや、遠慮しておくよ」
「それは失礼」愛は微笑みを崩さないまま、改めてピアノに向き合い、指を鍵盤の上に置いた。その横顔は、十九歳の少女らしい笑顔に見えた。
 ショパンは生涯に四つのバラードを残した。そのうち僕が良く知っているのは第一番だった。それはさやかが好んで聴かせてくれたものだったからだ。
 大きな鐘を静かに鳴らすような序奏。曲は静かに始まり、やがて物憂げな、何かを諦めたような旋律が途切れ途切れに姿を現す。しばらく一定の調子で歌は続くが、唐突に激情に駆られる。五線を飛び出して、音符は天と地を目まぐるしく行き来する。音楽は消えかかっている蝋燭の、微妙な空気にも大きく揺らぐ炎のように不安定だった。
 愛の演奏にはまったく隙がなかった。素人の演奏を聴いてよくあるような、首を傾げるような不自然な間も、ミスタッチもなかった。小さなアップライトピアノでは音量に限界があるはずだった。しかし愛が弾いているそれは、グランドピアノとしか思えない表現の豊かさを備えていた。彼女は微動だにしない。動いているのは、窓からの弱い光に照らされた白くて細い指だけだ。しかも彼女は目を瞑っている。その陰影、その白黒の鍵盤が紡ぎ出す音楽が僕に思い起こさせたのは、治らない病気にかかった人間の気分の移り変わりのようだった。天気雨の日のように、憂鬱と高揚が途切れずに交差する音楽だった。
 やがて曲は熱にうなされたような浮遊感のある踊りを経て、再び冒頭の旋律に戻ってきた。道路に面したこの場所には車やバイクの音がひっきりなしに聞こえていたが、今は愛の音しか聞こえていなかった。狭い店内はピアノの音で満ちていた。気怠い旋律は再び狂ったような激しいパッセージによって中断され、全てを呑み込むような音の奔流、鍵盤を端から端まで叩き割っていくような強打の連続をくぐり抜けたあとで、弱い鐘の音で閉じられる。
「やはり調律が必要なようだ」弾き終えたあと、愛はそう呟いて、また鍵盤の上に指を置いた。そして何かの旋律を飛ばすようにぞんざいに弾いた。
「それ、何て曲だっけ?」耳にしたことのあるメロディーだった。
「棒踊り。ルーマニア民俗舞曲。バルトーク」愛は曲を適当に切り上げると、溜息を吐いてピアノの蓋を閉じた。そして立ち上がると、さっきまで座っていた、ドアを背にした席へと戻っていった。彼女は僕に背を向けて、立ったままテーブルの上の紙をカッターで切り始めた。
「どうだ? 卒業論文は書けそうか?」と愛は背を向けたまま僕に訊いた。
 僕は何も答えられなかった。
「何故黙っている。ここに来た目的はそれなんだろう? 大サービスしてやっているんだ。聞きたいことがあれば今のうちに聞いておけ」
「僕は……」何を聞きたいんだろう。何をしているんだろう。そもそも何故ここに来たのだろう。
「ほら、できた」愛はそう言って、テーブルの上から何かを持ってこちらにやってきた。彼女はそれを僕に見せた。「記念に持って帰れ」
 それは白い台紙の上に貼られた黒い切り絵だった。その複雑な図形の正体は、写真のように精巧に写し取られた僕の顔だった。僕は絶句した。こんなものを人間が作れるなんて。
「そうだ、庭を忘れていた。この喫茶店には庭があるんだ。もっとも、今は何もないがね。見ていくといい」
 そう言って愛は、僕の手からコートをそっと取り上げて、凛とした姿勢を保ったまま、先ほどまで背にしていたドアに向かって歩いて行った。



 愛が通してくれた庭に出ると、雪が降っていることに気がついた。空はいつのまにかねずみ色の雲に覆われていて、雪は昨日とは違い、ゆっくりと降ってきていた。じっと見つめていれば、雪の粒が螺旋を描いて地面に落ちていくのがわかるような降り方だった。
 その庭は――この店にシークレット・ガーデンという名前をかつて与えていた、その根拠になる空間だったのだが――右手を病院の駐車場に、正面と左手を民家に囲まれた狭い庭だった。おそらく昔は手入れがされていたのだろうが、今は地面に雑草が生えていて、冬だというのに強い草の匂いを放っていた。喫茶店のテラス席だったことを示すように、白いパラソルと椅子とテーブルが真ん中にぽつんと置いてあった。パラソルは錆びついた骨組みだけになっていて、椅子とテーブルもセピア色の染みに侵されていた。
 愛はその汚い椅子に何の躊躇もなく座った。
「お前も座ったらどうだ」愛はテーブルの向かいにあるもう一つの椅子を指さした。僕はハンカチで椅子の上を払ってから腰掛けた。椅子は病院の駐車場の方角を向いていた。
「コーヒーでも出せれば良いのだがな。生憎、あの機械の使い方がわからない。本当なら上等なコーヒーを拵えることができるのだろうな」
「ここにはずっと一人で住んでるの?」
「そうだよ。二階に住居の部分がある。作業は一階でやることが多い。小説を書くというのは材料が少なくて済むから助かるな。集中力さえあればいい」
「そういえば」僕は小説のことを思い出した。「どんな思いであの『奥の席に座れ』を書いたんだい?」
「お前はどう感じた?」
愛は駐車場の向こうの空を、目を細めてじっと見つめていた。
「僕は、そうだな。あの話は結局、許しのことを描いているんじゃないかなと思ったな。怒りと許し、あるいは傷と癒やし」
「正解だな」愛はちらりと僕の顔色を窺った。「もっとも、小説に正解というものはない。ただ、そういうことを伝えたかったというのはある。だがもっと奥では、死というものを意識していた」
「死?」
「そう。あの主人公の女は、男にかけられた言葉、醜いと言われたことで死んでしまったんだよ。死出の旅とでも言うのかな。そういうものをぼんやりとイメージしたんだがね」
 言われてみれば、そう読めなくもない気がした。
「トンネルは生から死に抜けていくトンネルってことかい?」
「安易な装置とは思ったがな。まあ、技術的には未熟だと自覚してるさ。何しろあれが初めて書いた小説だったから」
「初めてであれだけ書けるんなら、すごいことだと思うよ」僕は素直に褒めた。そしてそこまで言って、ようやく自分が聞きたかったことに思い当たった。
「あのさ、暗号のことなんだけどさ」僕は椅子に深く座り直した。雪は相変わらず優しく降り続けている。「君はヘルプミーと書いただろう。あれはどういうことなんだ?」
 愛は僕の方をはっきりとした視線で見つめた。その目には戸惑いの色が浮かんでいる。
「どういうことって、別に、大した意味はないよ」まるで怒っているような口調だった。
「これは僕の推測だけど、君はここから出たいと思ってたんじゃないのかい?」
「まさか。私はそんなこと、一度も思ったことはないよ」
「じゃあ何で助けてくれなんて書いたんだ?」
「やめてくれ」愛はぷいと駐車場の方を向いて、腕を組んだ。
「ただの言葉遊びだよ。イケリの本を読んで思いついただけだ。お前みたいに引っかかるような奴がいないかどうか試してみただけさ」
「普通、住所の手がかりになるようなことを暗号にするかい?」
僕は段々と確信を持ち始めていた。愛がなぜあの暗号を作成したのか、そしてなぜ今愛が戸惑っているのかを。
「うるさいな。同情なら止してくれ。冗談のつもりだったんだ。気付く人間などいないと思った」愛は腕を組んだまま、振り返って僕をきっと睨んだ。彼女の瞳の上の睫毛で雪のかけらがきらりと光っていた。その目には敵意が宿っていたが、顔は引きつり、寒さのせいで色を失い始めた唇は小刻みに震えている。
 ――たぶん、この子は嘘が吐けないんだろうな。
 彼女の心の揺れがひしひしと伝わってきていた。それはいわゆる図星というものだった。彼女は必死に取り繕おうとしている。僕が言っていることが正しくないと、懸命に証明しようとしている。きっと愛は今までロクに嘘を吐く機会が無かったのだろう。そのような必要に駆られたことがなかったのだろう。だから感情が全て溢れ出てきてしまう。
「それに」愛は腕を解き、固く握った拳をテーブルの上に載せた。
「私は、幸せな人間なんだよ。次の作品だって書いている。水郷から収入も受け取っている。私には生まれた目的があるんだ。この社会で役割が与えられているんだよ。お前たちとは違う。新聞など読んでいれば、お前たちの人生が哀れに思えてくるよ。私と同じような年の人間たちが、目的を見失って自殺している。あるいは居場所を見つけられずに死んでいく。この国の若者の一番の死因は知っているだろう? 自殺だよ。そんなものを見ていれば、自分がどれだけ恵まれているか、どれだけ幸せな人生を送っているか、よくわかる。同情される謂れはないんだよ」
 それは、そう思いたいと君が強く願っているだけだろう、と僕は言おうとしたが、無理だった。それはあまりに残酷で、あまりに真実を突いているということが自分でも痛いほどわかったからだ。愛の頬は紅潮していた。その赤は白い肌の上で、紫の唇と美しい対照を成していた。
「さあ、もう良いだろう? お前は論文が書ければいいのだろう? 十分素材は提供したはずだよ。ただ、私のことは書くなよ。あくまでお前の推論ということにしておけ。たかが卒論だろう。社会にまったく影響はないよ。よくできた妄想として価値のあるものが書けるはずさ。北海道までご苦労だったな。夜景でも見て帰ると良い」
 愛は僕の方を見ずに、淀みなくそう言って席を立った。きっと力の限りの反撃だったのだろう。彼女の体は震え続けていた。僕は、「そうだね」と言って席を立ち、部屋に戻っていく愛の背中を追った。



 意識と無意識という言葉がある。これはとても便利な概念だ。人は、自分の行動を全て意識の下にコントロールできているわけではない。無意識のうちに行動してしまったことを、後付けで説明しなくてはならないことなど数えきれないほどある。
 結局のところ、僕があの暗号を発見し、飛行機に乗ってわざわざ函館までやってきたのは、ほとんど無意識のうちに行ったことだったのだろう。それは衝動と言っても構わないくらいだ。少なくとも明確なヴィジョンに向かって足を運んだわけではなかった。
 しかし、憮然とした足取りでシークレット・ガーデンの雪の降る庭から店内に戻っていく愛の背中を見た時に、自分の頭の中にあった無意識の靄が晴れ、僕が本当に望んでいたことが、本庄真人の声を借りて、ひとつの文章として鮮やかに浮かび上がったのだ。
 ――俺の仕事は、宝石を見つけて、それをたくさんの人に知ってもらうということなんや。カルディ・イケリっていう名前を、世界に覚えてもらうことなんや。
「僕は、君の作品を、君の名前で世界に知らしめる使命がある」
 喉をすり抜けて出た言葉はそれだった。雪の粒はのろい螺旋を描くのを止め、今ははっきりとした早さでまっすぐと地面に吸い込まれていた。ドアにノブをやった愛の手が止まった。
「僕はただの大学生だ。使命なんてものも本当のところはわからない。でもはっきりと言えることがある。僕の仕事は、まだ誰も見たことのない宝石を掘ることなんだ」
 靄のヴェールが消え去った脳の中身は、まるで今血が通ったかのように熱くなっていた。髪の毛に落ちてくる雪の粒は当たるそばから溶けていく気がした。
「ごめん、自分でも何言ってるかわかんないんだけど……」
「お前は小説の読み過ぎなんじゃないか」愛はノブを握ったままそう言った。
「そうかもしれない。僕は何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない」
 だんだん熱くなっていくはっきりとした意識に耐え切れず、僕は思わず両手で髪の毛を掻きむしった。
「わからない、僕にはわからないよ。でも君は、自由になりたいと思わないのか? 君の名前で作品を発表したいと思わないのか? そうすることだってできるはずだ。水郷の指示なんかいらないはずだ。水郷に言ったらいいじゃないか。もうこんなことはできない、私には私の人生があるって。もし君がそう願うなら……僕はそれを助けたいと思う。なあ、一緒に水郷の所へ行こう。僕が言ってやるよ。僕は君の小説に惹かれているんだ。だからそうしたいんだ。それが父から学んだことなんだ」
 気づくと僕は愛の細い腕を掴んでいた。
「放せよ!」愛は僕の手を振りほどいた。
「お前の言っていることは意味がわからない。私は私の意志で……」
 愛はそこで言葉に詰まった。前髪に隠れた瞳の色を見ることはできなかったが、口元は次に繰り出す言葉を失って形を歪めていた。
「……私は、私の、意志で、生きているんだよ。そうだ。私が望んでいるのは……今のままだよ。今の生活だよ。これが私の人生だ。私は幸せなんだ。それを邪魔する権利はお前にはないはずだ」
「それは、そうかもしれない」
 しかし僕には確信があった。彼女は自由になりたがっている。
 彼女は「私を助けて」と言ったのだ。
 もしその叫びが、愛自身が言うように、冗談や言葉遊びで、今の生活に満足しきっているというのなら、彼女が今こんなにも激しく僕に反発するはずがない。笑ってさらりと済ませるはずだ。
 そのことについては自信があったが、実際僕が愛を助け出すとしても、具体的な方策は一切なかった。何からやればいいのかが全くわからなかった。だから愛を説得する言葉が見つからなかった。「水郷の所に行こう」と口走ったが、果たしてそんなことで解決する問題なのだろうか。
 そうしてしばらく愛と僕の間には険悪な沈黙が訪れたが、愛はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。そしてそれを耳に当てた。
「ああ、私だが……うん、明日東京に行こうと思うが構わないか。そう、新しい作品のことで話があってな……読んでもらいたいんだよ……うん。アレは二十四日の予定だったが、構わないだろう? 明日でも明後日でも……そう。それで頼むよ。それじゃあ」と言って愛は電話を切り、ポケットにスマートフォンを戻し、僕に背を向けてから両手を腰に当てて溜息を吐いた。そしてその姿勢のまま、
「私は私の意志で明日東京に行って水郷に仕事の話をすることにした」と言った。
「それにお前がついて来ようが、来まいが、私の知ったことではない。勝手にするといい」
 そう言って愛はドアを必要以上に強く閉め、店の中に戻っていった。正直じゃないな、という思いと、可愛らしいな、という思いがこみ上げてきて笑みがこぼれた。
 こうして僕と愛の東京への旅は始まった。僕はこの時はまだ物事の全容を理解していなかった。どこか楽観視していた部分もあるかもしれない。ただ、自分の思いが愛に通じたということに満足していた。私は自由になることを望んでいる――彼女が叩きつけたドアの音は、そう言っているように聞こえた。

第四章

2010/12/22



「愛という名前を私に付けたのは水郷だそうだ。深い考えがあったわけではないだろう。呼びやすくて、ありふれている女の名前を考えた時に浮かんだのが愛だったのだろう」
 函館空港のレストランでは、床まで届くガラス窓から滑走路を見ることができた。愛は目を細めて飛行機を見つめていた。僕たちは昼食を取ってコーヒーを飲んでいた。
「さあ、お前の番だぞ。カユキという名前にはどんな意味があるんだ?」
 昨日僕がシークレット・ガーデンを去る時と同じ格好で愛は椅子に座っていた。彼女は昨日、僕に一枚のメモを手渡した。そこには今日、今から乗る便の番号と時間が書かれてあった。もちろんイケリの換字式暗号で。僕は昨日のうちに大阪に帰る便を破棄して羽田行のチケットを購入した。
「夏の雪って書いてカユキって読むんだ。僕はオーストラリアで生まれたんだけど、季節が日本とは逆なんだよ」
「ほう」
「誕生日は八月で……その時オーストラリアは冬で、雪が降っていたそうだ。それで夏雪」
「なるほど……」愛は冬だというのにアイスコーヒーを注文していた。彼女はグラスを手にし、ストローをくわえながら僕の顔をしげしげと眺めた。
「なかなか興味深いな。次の小説の参考にさせてもらうよ」
「それは光栄だね」僕は腕時計をちらりと見た。搭乗手続きまではまだ時間がある。「ところで、どんな小説になるんだい? 二作目は」
「読むか?」愛はそう言って、足元に置いてあったキャメルのショルダーバッグを手に取った。「水郷に見せようと思っていてな。もうほとんど完成しているんだが」
「いや、いいよ」僕は手を振って愛を制した。
「完成してからのお楽しみにしておくよ。それより、水郷にはちゃんと言えそうかい? その……」
「自由になりたい、ということをか?」愛はアームレストに右膝をついて、頬に手をやって笑った。
「そう。その、人工小説の作者じゃなくって、一人の人間として生きていくというか、何というか」
「ずっと考えていたことだ。お前に言われるまでもなくな。研究所を出た時から考えていたんだ。私もいつか普通の人間のように生活したいということをな……」
 愛は昨日に比べれば驚くほど素直になっていた。そのことは僕を満足させたし、根拠のない自信を植え付けてくれた。具体的な方法はまだ何も思い浮かばなかったが、たとえば無戸籍者の問題という風に処理して、社会へと愛を送り出す手立てがあるのではないかと僕は思っていた。
「普通の人間のように、例えば友だちを作ったり、運転免許を取ってみたり、そうだな、大学に行ってみるというのもいいな。中学も高校も出ていないが、その世界は本でよく知っている。大検というのもあるらしいじゃないか。言っておくが、勉強に関してはおそらく平均のはるか上を行っているぞ」
「そりゃ、円周率を五百桁まで言える記憶力があれば」
「日本の歴代の内閣総理大臣も全て言えるし、微積分もできる」愛は誇らしげにそう言った。
 店内に羽田行きの便の搭乗手続きが開始されたことを知らせるアナウンスが響いた。僕と愛は席を立ち、勘定を済ませてゲートに向かった。
 もちろん、僕はすべてが上手くいくとは考えていなかった。だが、彼女を救ってやれるかもしれないという明るい期待が生まれていた。愛は僕が見出した作家だった。父がイケリを発掘したように、自分も優れた作家を――しかも生きている作家を――こんな風に見つけ出して、世界に放つことができるかもしれない。そんな高揚感は、不安を打ち消すのに十分な力を持っていた。



 羽田空港に着いたのは午後二時半だった。機内では、僕と愛は席が離れていたので、羽田の荷物受け取り所で彼女と再会した。そこからモノレールと山手線を乗り継いで東京駅まで行き、メトロに乗って本郷三丁目に着いたのは午後四時だった。東京は天気が良く、北海道の突き刺してくるような寒さに比べると、春が来たのではないかと思わせるような夕方だった。
 水郷との約束に愛は一人で行くと言った。僕は一緒に行くつもりだったが、愛はそれを頑として断った。
「子供じゃないんだ。一人でも言えるさ。いい結果を待っていてくれ。私はきっと自由の身になって帰ってくるよ」
 愛はバッグを斜めがけにして本郷通りの坂を上っていった。僕は近くにあったサイゼリヤで愛を待つことにした。
 店に入り、四人がけの席に座ってドリンクバーを注文したあと、足元にコンセントがあることを確かめてから、スマートフォンを充電器に繋いだ。僕はノートを取り出して、卒業論文のアイデアを検討し直すことにした。もし愛が、水郷とうまく交渉して「普通の人間」になれた時は、人工小説についての論文は白紙になる。だがそれはむしろ歓迎すべき事態だった。僕はやはりカルディ・イケリについての論文を書こうかと思い始めていた。
 そのうちに論文について考えるのに飽きてきて、ドリンクバーにコーヒーのおかわりを取りに行った。そこから自分の席に戻るまでの間で、大阪に帰るための手段を考えなければいけないことを思い出した。愛が水郷から解放され、連絡先を交換した後で、僕は大阪に夜行バスで帰る。いや、愛を大阪に連れて行くというのもいいかもしれない。函館に住むのも無理になるかもしれないのだから、その世話もしてやったほうがいい。幸い実家には空き部屋が――父の部屋がある。今は僕が自分の部屋と父の部屋を使っているが、片方を愛に譲ってやればいい。そうして住まわせて、愛は小説を書き、役所で何らかの手続きをして、正式に一人の人間として社会から認められるわけだ。奨学金を探して愛を大学に入れてやるのもいい――。
 スマートフォンで夜行バスの料金を調べながら、僕はそんな妄想を繰り広げていた。すると通話画面に切り替わった。弓削だった。
「おう、本庄、今どこにおんねんな?」
「今か?」僕はあたりを見回した。そこは日本中どこにでもあるファミリーレストランだった。制服を着た男女の高校生がいて、黒い楽器のケースを通路にはみ出しているバンドマンたちがいて、子供連れの主婦たちの会合があって、イヤホンをして参考書を眺めている学生がいて、煙草の煙が店内の奥の方に燻っていて、明るい照明の下で平和な空気が醸成されている。
「今、サイゼリヤにいるよ」
「大阪? 京都?」弓削の後ろでは講義が終わったあとの大教室らしいがやがやとした声が聞こえる。「お前、代返昨日までやったんちゃうんか。今日もおらんかったやないか」
「ああ、そうだった。ごめんごめん。今東京にいる」
「はあ? 東京? 何しとんねんな」
「オーストラリアの友だちが日本に来ててね、観光案内だよ」
「あ、そうなんか。ほんで、いつ戻ってくんの?」
「わからないな……たぶん明日には帰れると思うけど」
「そうか。明日、ゼミで忘年会すんねんけど」
「忘年会?」
「うん。明日祝日やろ? 俺、幹事なってもうて、今から店予約すんねんけど、お前は勘定に入れといてもかめへんねんな?」
「ああ、うん、大丈夫。頼んだよ」
「ちゃんと来いよ。七時に河原町な。OPA前で」
「わかった。ありがとう」
「ほなまた明日」
 そうして弓削との電話は終わった。やはり今晩中には東京を発つ必要があるだろう。新幹線を使えば、明日の昼に東京を出れば夕方には京都に着ける。しかし、僕は飛行機代でかなり貯金を崩してしまっていた。一回生の時から蓄えていたアルバイトの給料をほとんど使っていなかったから、飛行機のチケットを買うことには躊躇わなかったのだが、あまりいたずらに財布を痛めたくもなかった。できれば今日の夜にバスで大阪まで帰ろう――愛がサイゼリヤのドアを開くまで、僕はそんな風に考えていた。



 サイゼリヤの中は暖房がいささか効きすぎていて、午後六時になる頃には、僕の頭はずいぶんぼんやりとしていた。店内の客は少しずつ入れ替わり、夕食を取りに店にやってきた人の姿が目立つようになった。変わらず席に張り付いているのは、何かの勉強をしている学生と僕くらいだった。忙しく動きまわる店員の姿を見て、そういえば金曜日には今年最後のバイトが入っていたなと思い出したりした。
 夜行バスの予約を入れようとスマートフォンを手に取った時、愛が店に入ってきて、僕の姿を見つけてテーブルの前に立った。彼女は席に座らず、ただ僕の向かい側で立ち尽くしていた。僕は彼女にどうしたの、と声を掛けて、座るように言った。いい予感は全くしなかった。僕はテーブルのボタンを押して店員を呼び、愛のためにドリンクバーを一つ注文した。愛は座るなりテーブルに突っ伏した。疲れているのが一目でわかった。僕はアイスコーヒーを取りに行き、コースターを引いて彼女の前に置いた。
「何か、食べる?」
 愛は俯いたまま首を横に振った。
「その……どうだった?」
「大丈夫だったよ」愛はその姿勢のまま言った。
「明日から私は自由の身さ」と言って、少しだけ顔を上げた。顔は青ざめていた。それが嘘であることはすぐにわかった。
「本当のことを言ってくれよ」
「別に、嘘など言っていないさ」
「バレバレだよ」と僕は言い、充電が完了したのを確かめてスマートフォンを充電器から外した。「なあ、水郷とどんな話をしたんだ?」
「……もう、いいだろう?」と愛は言った。「そもそも何の分際で……私の人生にケチをつけるんだ」
 アイスコーヒーの氷が溶けるからりという音がした。愛はまた昨日のように牙を剥き始めていた。彼女は僕を見ようとしていなかった。
「水郷に……何か言われたのか?」
 僕がそう言うと、愛はしばらく黙っていた。時間にすると一分か二分かそのくらいのことだったと思うが、その沈黙はずしりと重く、さっきまで漂っていた幸福なファミリーレストランの空気がすっと薄くなった気がした。僕は喉が渇いていた。手前にあるホットコーヒーのカップを見て、グラスに入った水を飲みたくなった。ドリンクバーに取りに行こうかと思ったが、席を離れるともう愛がいなくなってしまう気がしていた。
「なあ、夏雪、お前には関係ないだろう。東京まで来てもらって悪いけど、これは私の人生なんだ、お前に――」
「それは昨日も話したことじゃないか。僕は君の力になりたいんだ。それだけなん――」
「そう思うなら何もしないでくれ」と愛は冷たい声で言い放った。「うんざりなんだよ」
 愛は一向に僕と目を合わせようとしなかった。こちらが視線を合わせて話をしようとしているのをわかってそうしているみたいだった。彼女の前に置かれたアイスコーヒーは暖房に温められて、グラスの周りには水滴がびっしりと付着し、コースターは水浸しになっていた。
「暗号を解いたからっていい気になるなよ……」愛は小さな声で言った。「王子様気取りか? 私は囚われの姫か何かか?」
「言えなかったのか。水郷に、解放してくれって――」
「黙れ!」
愛は二つの拳を思い切りテーブルに叩きつけた。そして見開かれた二つの目で初めて僕を睨んだ。
「放っておいてくれ!」
と言って愛は勢い良く立ち上がり、尻で椅子を倒した。立ち上がった時に手がグラスにぶつかって、僕が入れたアイスコーヒーはテーブル一杯にぶち撒けられた。しかし愛はそんなものには目もくれずに出口に向かって駆け出して行った。僕はテーブルを拭かずに会計を済ませて彼女の後を追った。



 サイゼリヤを飛び出して愛に追いついたのは案外すぐだった。愛よりも僕の方が走るのは速かった。本郷通りは既に暗くなり、冬らしい寒さに包まれていた。街灯に照らされた時計屋の前で僕は愛を捕まえた。五〇メートルも走っていないはずだったが、愛の腕を掴んだ時、彼女は激しく息を切らせていた。
「運動は苦手なんだ」と愛は呟いた。「放してくれ」
 彼女は僕の手を振りほどいて、両手で乱れた髪を整えた。
「なあ、愛、本当のことを言ってくれないか。確かに僕の分際であれこれ言うのは間違ってるかもしれない……君が望まないんなら構わない。僕には何の権利もないから」
「お前も私から何かを奪いたいのか?」と愛は言った。彼女は思い出したように寒さに体を震わせて、両腕で自分の体を抱きしめた。
「本当のことを……」
「私は……私は、そもそも何かを奪われているのか?」愛は体を震わせて、店先に陳列されている大小様々の時計に目をやった。
「奪われていると考えるのがそもそもおかしいのかな。だって水郷が私を作ったんだから、水郷がいなければ私は存在しないのだから、何にも奪われていないのか? 私はむしろ与えられているのか? 様々なものを」彼女は興奮気味に自問自答していた。
「愛、ちょっと落ち着いて」
「私は、私は作られた存在だから、何かを考えることが間違っているのか? 私は水郷の一部なのか? 私は――」
「確かにそれはそうかもしれない」
僕は愛の視線の先にある時計を見た。デジタル時計や、古めかしい振り子時計が陳列されていた。そしてそれらはどれも同じ時間を指し示している。
「君を育てたのは水郷かもしれない。あるいはどんな計画か知らないけど、君を生んだのも――君を作り出したのも、水郷なのかもしれない。でも、君には君自身のことを決める権利があるはずだ」
 僕は時計から視線をずらし、まっすぐに愛を見据えていた。僕たちの脇を、授業を終えたらしい学生たちが通り過ぎて行く。
「君は金の卵を産むニワトリじゃないんだから――」
「あながちその例えは間違っていないよ」愛は挑戦的な瞳で僕を見た。
「違うさ。君には自由があるはずだ。君は――」
「だからお前に何がわかるというんだ? 自由? そんなものは社会科の教科書の中の話だけにして欲しいね」愛は腕を解いて、両手でダッフルコートの裾を引っ張った。
「そもそも、夏雪、お前だって自分のことを自由と言えるのか?」
「僕が?」
「そうだ。お前は自由な存在か? お前だって何かに縛られて生きているんじゃないのか?」
 愛の唐突な質問――あるいはささやかな反撃と言ってもいいかもしれない――は僕の心に突き刺さった。僕は自由ではないのか? 僕も何かに縛られて生きている? 浮かんだのは父の顔だった。
「僕は……そうだな、君の言う通りかもしれない。僕も自由なんかじゃないのかもしれない」
「そうだろ? お前だって何かに縛られている。その種類が少し違うだけだ」愛は口元を震わせたまま、不敵な笑みを浮かべた。「夏雪、お前に説教される筋合いはないんだよ。お前の助けを借りる義理もないし――」
「でも――みんなそうだよ」
「みんな?」
「うん。みんな自由じゃないかもしれない。それは確かに教科書の中の言葉でしかないかもしれない。でも、君だってみんなと同じなんだよ。みんな誰かの力を借りて生まれてくる。そして助けられながら育っていく。普通、手を差し伸べてくれるのは親だよ……僕だってそうだったし、今もそうだ。でも……でもそれはたぶん親じゃなくたっていいんだ。それが水郷でも、研究所の人たちでも」
「私が作られた存在でも?」
「僕だってそうさ」自然と笑みがこぼれてくる。「僕だって親父と母親に作られた存在だよ。ある意味では。違うかい?」
「いや……」
「なあ、愛、確かに君は生まれた時から水郷に芸術を仕込まれて、そのために生きてきたかもしれない。これまでずっとそうやってきて、これからも何も変わらないと思っているかもしれない。それが自分の――作り出された人間としての運命だと思ってるかもしれない。でも、でもだよ。あるポイントからは、人は自分で生きていっていいんだ」
「あるポイント?」愛は不安げに眉を歪めて僕をじっと見つめた。
「そう。そういう時が誰にでもある。人生がもらいものじゃなくて、自分のものになる瞬間が。僕は――僕の場合は、それは父が死んだ時だった。さっき、愛は、僕だって何かに縛られて生きてるんじゃないかって言ったよね?」
 愛は黙ってうなずく。
「それって確かにそうなんだよ。僕は死んだ親父に縛られてるのかもしれない。くだらないよな、二一世紀の今になって、父親の仕事を継ぐなんて。世界には色んな面白い仕事がいくらでもあるっていうのに……でも僕はね、それを自分で決めたんだよ。親父に言われたとか、やりやすいとかそういう意味じゃなくって、自分で親父の仕事を……いや、仕事っていうか、生きる目的っていうのかな。そういうのを引き継ぎたいと思ったんだ。親父はそれを完成させる前に死んでしまったから。でも、それはきっかけに過ぎなかった。別の道だっていくらでもあったし、今もある。でも僕は自分でそれを選ぶんだよ。人間にはそういうことができるんだ。そしてそれは、自分の決断というものだけは、絶対に誰にも奪えないものなんだ」
 僕がそこまで言うと、愛は俯いて、自分の足元に視線をこぼした。
「そしてそのポイントが、君にとっては今なんだ。僕にはそう思える。だから君はあの小説を書いたんだ。違うかい?」
「あーーーーっ!」
 愛は叫ぶと、両手で先ほど整えた髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「わからないんだよ! なあ、教えてくれよ、夏雪。私が……自由になりたいと思う気持ちは間違っていないのか?」
「間違ってない」
僕は取り乱している愛を見つめていた。彼女は思い切り叫んだことで周りの視線を一斉に浴びていたが、そんなことは気にしていないようだった。愛の声は相変わらず興奮していたが、先ほどのような棘はなくなっていた。
「なあ、それが存在する理由に逆らうとしても、だから、それが」
「落ち着けよ」
僕は彼女に歩み寄って、両肩に手を置いた。
「いいかい、さっきも言ったけどさ――」
「でもそれは矛盾で、生み出された理由に逆らいながら生きるということは、私が生きる理由を失いながら生きるということで、それは死んでいるのと同じで――」
「ゴチャゴチャ考え過ぎだ!」
僕は愛の両肩を叩いた。彼女はびくりと体を震わせて、目を見開いて僕を見つめた。
「いいかい、みんなそうやって生きてるんだよ。君と何も変わらないんだ。みんな生きる理由なんか、あるんだかないんだかよくわからない状態で生きてるんだよ」
「だけど、私には……」愛は僕の胸のあたりを見つめて泣きそうな顔をした。
「僕が助けてやる」
「でも……」
「いいや、誰が何と言おうと僕が――」
「でも、何も、できないと思う」
愛ははっきりとした口調でそう言った。僕は手に込めた力を緩めて、愛の肩から手を離した。
「本当のことを言うよ」と愛は言った。
 僕は一歩後ずさり、ポケットに手を突っ込んで、時計屋の店先をちらりと眺めた。いつの間にかシャッターが半分閉まっていた。どの時計も六時五十五分を示していた。もうバスの予約は取れないかもしれないと思った。
「夏雪の言うとおり……」愛は斜めがけにしたバッグをさすりながら話し始めた。
「夏雪の言うとおり、私は水郷に何も言えなかった」
「うん」
「言おうとしたよ。何度も。二作目の原稿を読んでもらって……チャンスはいくらでもあった。長い時間かかったからな。でも……でも何も言い出せなかった。
 だって、水郷は、嬉しそうにそれを読んでるんだ。あいつは、水郷は、私が小説を書いて、それを出版することを素直に喜んでるんだよ。そりゃあ、お前から見れば、いや、世間からすれば、あいつのやってることは詐欺だし……詐欺以上にひどいことをやってるんだろう。何せ秘密裏に一人の人間を生み出して、隠してその人間を商売に使ってるんだ。でもそれを否定することは私にはできない。それはわかって欲しい」
「わかるよ。僕もそれを今更否定することはしない。だってそれはもう……」
「うん……でも、本当に思いの外時間がかかってな。今日中にアップデートもするはずだったんだが、それは明後日になった。明日は祝日だから、会社は休みなんだ」
「アップデート?」
「そう。それの話だ。水郷の本当の目的は、別のところにあるんだ」
「別のところ……?」
「私を作り出した、本当の目的というものがあるんだ。いいか、本当は、私を……その、金の卵を産むニワトリにして金を稼ぐだけが水郷の、あるいは水郷たち、と言った方がいいのかな。私を育てたあの研究所と、エンターテイナー社の目的じゃないんだ。私が芸術を極めた理由には、もう一つ奥があるんだ」
 がらがらという音を立てて時計屋のシャッターが閉まっていった。時刻はちょうど七時になっていた。僕は愛の腕を掴んで、もう一度サイゼリヤへと向かった。立ち話では済まないような話が僕を待っている気がしたからだ。



 幸い席は埋まっていなくて、僕と愛はさっきまでいた四人がけの席に通された。こぼしたコーヒーは完全に拭き取られていた。こんなことなら勘定をしないでおけば良かったというけちな考えが頭をよぎったが、座るなり大人しくドリンクバーを二つ注文した。
「水郷の本当の目的はな」愛はダッフルコートを脱ぐとすぐに話し始めた。「人工知能を作ることなんだ」
「は?」
 僕は面食らった。
「それは建前なんじゃなかったの? 本当は君を使ったビジネスをしてて、そのフェイクとして人工知能が――」
「今はな。今はまだ完成していないから。でも奴が最終的に目指しているのは、というか元々水郷は人工知能を作ろうとしていたんだ」そう言うと愛は走った時の汗を白いセーターの裾で拭い、黒いストレートの髪の毛を両手の指で梳かした。
「水郷は一九七〇年代の――」
「ちょっと待って」僕はテーブルの端にあるボタンを押した。「お腹、空かない?」
「そう言えば」愛はお腹を押さえた。
 僕は愛にメニューを渡した。彼女はテーブルいっぱいに薄いビニールのメニューを何枚も広げて、真剣に夕食を検討した。
「お前は見なくてもいいのか?」
「うん、僕はだいたい決まってるから」
「よく来るのか? こういう……ファミリーレストランというのか? 何かの小説で読んだが」
「そりゃ、大学生はみんな来るよ」僕は隣の席でイヤホンを付けて参考書を広げている学生の姿をちらりと見た。その学生は夕方からずっといる。
「ドリンクバーだけで何時間も粘れるからね」
「へえ……」愛はその学生の顔をしげしげと眺めた。
 しばらくしたあとで店員がやって来て、僕はミラノ風ドリアを、愛はたらこスパゲッティを注文した。
「そう、それで」愛はセーターのボタンを外しながら話を切り出した。
「水郷は一九七〇年代に、学生の頃に起業した。奴はコンピューター工学を専攻する学生だったそうだ。音声処理関係のコンピューターを開発して、それを研究室で完成させてそのまま大学を辞めて起業したらしい」
「どんなコンピューター?」
「詳しくは私も知らないが、会社の会議のテープ起こしとかそういうのに使う、話者認識に優れたシステムを作ったそうだよ。まあ、高度経済成長の終わりの頃だからな。BtoB関係の仕事はうなるようにあったんだろう」
「なるほど」
 僕は愛の口から「高度経済成長」や「BtoB」という言葉が出たことに少し驚いたが、市立図書館一つぶんの知識を彼女がその頭に叩き込んでいることを思い出して納得した。
「かなり儲かっていたそうだ。バブル経済の最盛期を水郷はその会社と共に過ごした。莫大な資金で奴は次の事業に手を伸ばした。音声処理のシステムを更に発展させて、今度はテレビや街の中で流れる音楽の曲名を判別する機械を作った。それもまあまあ上手く行っていたらしいが、収益化させるまでには時間がかかった。だがその経験は水郷に新しいアイデアを与えた。奴は次に頭の中で流れるメロディーを抽出することに関心を持った」
「頭の中のメロディー?」
「そうだ。時々、ふとした瞬間に、何のきっかけもなく音楽が鳴ることがあるだろう?」
「ああ、あるね。時々」
「そのメロディーを抽出できないかと彼は考えたわけだ。これは頓挫した。しかし水郷は脳全体に興味を持つようになった。それで研究所と接触したわけだ」愛はボタンに視線を落としながら言った。
「その、研究所ってのは何なんだい?」
「人工知能研究所だよ。ただ、これは表立って存在する機関でも、大学に付属した研究室でもない。財界が秘密裏に設立したものだ。普通の人間はどこにあるかも、何をしているかも知らない」
「何だかハリウッド映画みたいな話だな」僕は愛がセーターのボタンを全て外していくのを見ていた。
「そういうものは世の中にいくつも存在するんだよ。存在するから映画にもなる」愛はセーターを脱いで、それを横に置いたバッグの上に置いた。彼女はセーターの下に皺一つない白いブラウスを着ていた。
「なるほどね」
「そして水郷は研究所に出資するようになった。その時水郷はまだ財界とつながりを持っていたからな。新進気鋭の若手起業家という体で」
「今は財界とのパイプはないのかい?」
「もちろんあるよ。しかし表立ってはないということになっている。でなきゃ私は存在できない」
「確かに……」
「そうして八〇年代の中頃、バブルがはじけ飛ぶ前に水郷はそのテープ起こしと音楽判別サーヴィスの会社を売り飛ばして、人工知能研究にのめりこんで行ったわけだ。ただ、そのサーヴィスはまだ存在しているよ。その中にね」
 そう言って愛は、僕がテーブルの上に置いていたスマートフォンを指差した。
「スマートフォンのマイクに音楽を聴かせると、その曲名を教えてくれるアプリケーションがある。それは水郷が開発したものだ。会社の権利は譲渡したが、特許は奴が持っているから、それは今でも水郷の資金源になっているよ」
「へえ……」
「水郷の次の目的はシンプルだった。人工知能を作る。人間を楽しませてくれる人工知能を。つまりエンターテインメントだ、と。そして最高のエンターテインメントは、芸術だという信念を彼は持っていた」
「まあ、それには僕も同意するけどね。芸術がエンターテインメントだってとこには」
「しかし、それはとても難しいことだ。例えば、文字一つ書くのも」愛は膝の上から腕を伸ばして、空中に文字を書く仕草をした。
「コンピューターに再現させるのはとても難しいとされている。私たちは大抵、子供の頃に、気がついたらある程度は書けるようになっているよな? しかし、指にかかる圧力とか、文字の間隔だとか、そういうことを再現するためには気の遠くなるような数の変数を設定する必要があるんだ」
「それはどこかで聞いたことがあるな。楽器の演奏とかも……」
「そう。微妙な力加減というものが必要なんだ。水郷は計算を行ったり検索を代行してくれるような人工知能――たとえば今でいうスマートフォンのようなものだが……そういったものには一切興味を示さなかった。奴が考えていたのは、あくまでアウトプットを行う機械だった。それを実現するための人工知能、エーアイを求めていた」
「エーアイ、か」僕は長い溜息を吐いた。
「アーティフィシャル・インテリジェントの略だ」愛は少しむっとした顔つきで言った。
「知ってるさ」
「そう……それで水郷は、ひとつの結論に辿り着いた」
「結論?」
「そう。恐ろしい結論……とお前なら言うかもしれない」愛は両肘をテーブルに付けて、顔の前で両手を組み、その上で顎を載せた。そして僕をじっと見つめた。
「人工知能よりも人間を作ったほうが早い、という結論だ」
「それで君が……」
「そう。それが八十年代の末だった。ソ連が崩壊する前だな。水郷は世界中を一人で旅をして、サンプル探しをした」
「サンプル?」
「要するに遺伝子と子宮を提供してくれる人間だ。エージェントを使ってそういう人物を紹介してもらったそうだ」愛はあっさりと言った。
「もう僕の常識は追いつかないみたいだね」僕はもう一度溜息を吐いた。
「水郷は私の父親と母親についての情報は一切与えてくれない。どちらも優れた芸術家らしい……どういう専門なのかまではわからない。水郷がどれだけその人物について把握しているのかも知らない。親探しをしたところで、絶対に見つからない場所にいるらしい。だから教えても仕方ないんだそうだ」愛はくすくすと笑ってそう言った。
 その時、僕の頭の中に唐突に一つの質問が浮かんだ。
「ちょ、ちょっと待って」僕はもたれていたソファから腰を少し浮かせて、座り直した。
「何で君はそんなことまで……その、水郷の過去とか目的とかまで知っているんだい?」
「慌てるなよ。私は全部説明を受けているんだから。ただ、説明されていないこと、つまり私の推測に過ぎないことも今から話す。特に、これからの話は……ところで」
 愛は組んでいた手を解いて、
「夏雪、喉が渇いたな」と言って喉を押さえた。「少し喋りすぎた」
 ドリンクバーを注文したきり何も取りに行っていなかったのだ。
「何がいい? アイスコーヒー?」僕は立ち上がって、愛に尋ねた。
「メロンソーダを。この時間にコーヒーなんか飲んだら眠れなくなる」
「はいはい」と言って僕は、愛の横を通りすぎて、バーカウンターに行こうとした。
「聞いた上で判断してくれればいい」僕が彼女の背後に来た時に、愛はそう呟いた。
「え?」
「私の推測を聞いた上で、本当に私を助ける気があるのかどうか」
 愛は席に座ったまま、くるりと身を翻して、僕を見上げて言った。
「助けられるのかどうかを」



 僕はメロンソーダと烏龍茶のグラスを持って席に戻った。食事はまだ来ていなかった。
「それで……そう、水郷は世界のどこかから芸術家の受精卵を手に入れて日本に帰ってきた」
 僕は愛の顔を見た。ハーフっぽい顔立ち。彼女に会った時の第一印象がそれだった。しかし、例えばもし彼女の眉毛や髪の毛が全て金色とか、茶色とかだったら、ハーフというか、アジア人という印象はおそらく誰も抱かないのではないだろうか。毛の黒さだけがこの国に馴染んでいた。
「それで、私を最大限利用したビジネスを考え、エンターテイナー社を設立した。その時点では、人工知能研究所とはそれほど付き合いがなくなっていたんだ。しかし私が生まれる直前に、水郷はまた別のことを思いついたんだ。奴はもう一度発想を裏返した。私を使って本物の人工知能を作ろうとしたんだ」
「どういうこと? 君を使うって……」
「私と一緒に成長する人工知能だよ」愛はメロンソーダのグラスを手に取り、一気に半分ほどまでその緑色の液体をストローで吸い込んだ。
「夏雪、もし最高の人工知能というものがあったとしたら、どういうものになると思う?」
「それは……たぶん、人間と同じようなことができるロボット、とかじゃないの」
「そう。それが今のところ人類が目指している最高レベルの人工知能と言っても良いだろう」愛はグラスを置いた。
「もしそんなものができれば、もう人間は働かなくて良くなるわけだ。生存に必要なものは全て機械が作ってくれる。衣食住を機械に頼めるわけだからな。奴隷だよ。しかし人間の奴隷じゃないから、誰も心が傷まない」
「わからないよ? そのうち機械愛護団体とかそういうのが――」
「ありえないね」愛は腕を組んだ。「歴史上、特殊なごく一部の人間を別にすれば、人間は生命体を常に無機物の上位に置いてきた。しかも、無機物の中でも人間のためによく働くものほど愛される傾向がある」
「言われてみれば、確かに」
僕は烏龍茶を一口啜った。それからせわしなく働く店員たちの姿を見て、それが機械に置き換わった状況を想像してみた。それは十分有り得そうな光景のように思えた。
「でもさっき言ったように」愛は腕を組んだまま、右手の人差し指をピンと天井に向けて立てた。「人間はとても複雑だ」
「うん」
「だから、機械では、人工知能ではまだ完全にコピーできない。なぜできないか? それは圧倒的に情報が不足しているからなんだ」
「情報?」
「そうだ。人間がどのように成長していくかということに関してのね。つまり、ココだよ」
 そう言うと愛は、天井に突き立てた人差し指を右のこめかみに当てた。
「たとえば今ここに、二十一歳の本庄夏雪という男がいる」
「うん」僕は愛の真似をして、右のこめかみに人差し指を当てた。「たしかに存在している」
「そう。しかし今のお前の脳の状態は、たしかに今この時点に存在してはいるが、それは二十一年間の蓄積で出来上がったものだ。だから今のお前の脳の状態をコピーしたところで、お前が持つ能力を機械が表現することはできない。圧倒的に情報が不足している」
「ん……」
「例えばお前が今から私と入れ替わったとしよう。しかしお前はショパンのバラードも弾けないし、精巧な切り絵を作ることもできない。私の記憶も、技術もそのまま引き継いだとしても、だ」
「なんで? 記憶を引き継いだらそれはできるんじゃ」
「意識というのは連続しているものなんだ」愛は人差し指でこめかみをとんとんと叩いた。「行動を生み出すためには、記憶を組み合わせる連続した意識というものが必要なんだ。そして意識というものは、過去から現在にかけて存在する」
「それはつまり、経験ということ?」
「その通り」愛は再び腕を組んだ。
「コンピューターに経験をさせることができれば……」
「そう、だから、生まれた時からずっと、継続的に脳の情報を写し取らせてくれる人間のサンプルがいたら、その人間と同じ思考様式、同じ行動様式、同じ技術や、感情のパターンを身につけた人工知能を作ることができるんだ。情報が足りるんだ。そしてそれが――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 僕は両手を組んでテーブルの上に置いた。
「さっきから、脳の情報を写し取るとか何とか、君はそういうことを言ってるけどさ、そんなことできるのかい? なんか、それがうまくイメージできない。確かに脳の情報をそっくりそのまま写し取る、みたいなことができたら、わからなくもないんだけど――」
「そこから説明しようか」愛はにっと笑った。
「いいか、夏雪。お前が見た、リトル・エレファントと説明されたものは、前も言ったけれど、ただのデータサーバーでしかないんだ」
「うん。確かに、人工小説を作り出すようなコンピューターには見えなかった」
「要するに、あそこの中に私の生まれた時からの全ての記憶、すべての感情、すべての芸術に関する知識や技術……芸術の技術というのは変な言葉だがな、元々同じ意味だから――そういったデータが蓄積されているわけだ。あそこは私の過去の脳そのものなんだよ」
「でもそれは――」
「そして」
 愛は質問を遮って、今度は僕を指差した。
「お前が見ていないところに、本当のリトル・エレファントがある。それが脳をスキャンするコンピュータだ」
 お待たせしました、という声で、店員がテーブルの脇にやってきたことに気がついた。



「象は記憶する、という言葉がある」
愛はたらこスパゲッティが立てる湯気をじっと見つめながら言った。
「一九九三年にタンザニアが大干ばつに襲われた際に、他の群れよりもいち早く土地を移動し、水や食料を事前に探していた象の群れがあった。そしてその中には、三十五年前に起こった干ばつを記憶していた象が含まれていたという。象は、生後一ヶ月からの記憶があるそうだ。そして、私も同じように……ゼロ歳一ヶ月の時点から、月に一回、リトル・エレファントに記憶を刻み込むということをやってきた」
 僕の目の前には食べ慣れた、と言っても良いほど見飽きたミラノ風ドリアがあった。まだ口にするには熱そうだった。テーブルの隅にあった深緑色のケースから、僕はスプーンを取り出して右手に握った。愛は膝の上に手を置いたままだった。
「リトル・エレファントは二つの部分からなっている。記憶を写し取る特殊なスキャナと、複数の球状の量子コンピューターだ」
「りょ、量子コンピューター?」
 僕は尋ねた。
「要するに、ものすごく早く計算ができる装置ということだよ。そいつらがスキャナで写し取った情報をデジタルデータに変換する。映像や、音や、文字や、あるいは匂いの語彙、痛みの圧力……」
「その、スキャナっていうのは一体どういうものなの? 脳の情報を写し取るって……」
 愛はフォークを握った。
「そのスキャナはサナギのような形をしている。私がすっぽり入るくらいの。それで、私がそこに入り、扉を閉めると、強力な催眠ガスが噴射されて、私は強制的なノンレム睡眠の状態に入る。そしてそこで私は夢を見る」
「え、ノンレム睡眠?」僕はどこかで読んだ知識を呼び出した。「ノンレム睡眠って、熟睡してる状態だよね。確か、夢を見るのはレム睡眠の時じゃ――」
「ノンレム睡眠の時も人は夢を見るとされているよ」
 愛はフォークでスパゲッティを掬い、目の高さまでそれを上げ、じっくりと観察している。
「ただ、ノンレム睡眠の夢は記憶されないだけだ。そして、夢というのは」愛はスパゲッティを丸めたり、口に運んだりせず、ひとしきり眺めたあとでフォークを皿に突き立てた。
「記憶のゴミなんだ。よく探偵小説で、犯人の部屋のゴミ箱を漁って性格とか行動を推測するシーンがあるだろう? それと同じだ。リトル・エレファントというスキャナは、私が無意識の中で見ている深い夢から、私が経験したことを全て正確に写し取るんだ。夢から一ヶ月のあらゆる情報、膨大な情報、二メートルのデータサーバー一台分の情報を取得して、再構成するんだ。そして優秀な量子コンピューターがその情報を定着させるというわけだ」
 僕はドリアに目を移した。それはまだ湯気を立てている。
「何か、信じられないな。そんなこと本当にできるのか……」
「私も、詳しいことは知らんがね。水郷のやっていた研究――つまり、音声処理とか、音楽識別とか、そういうところの技術が関係しているらしい。それと人工知能研究所の連中が結託して作ったシステムだ。もちろん、世界に一つしかないよ」そう言った時の愛はどこか誇らしげに見えた。
「それが、アップデートというものなのか?」僕はそう訊いた。
「そう。月に一度な。それがインプットだ。そしてサーバーで保存される。しかし問題はアウトプット、つまり、そういったデータから実際に絵を描いたり楽器を演奏したりする、機械の実体が必要になってくるわけだが、これはまだ完成していないらしい。しかし、これが完成すれば、私が経験してきた全てのものをアウトプットできるようになる。つまり……本物の私の生き写しができるということだ。ここまで水郷が私に説明してくれた話だが、どうだ?」
 愛は僕にそう尋ねたあと、メロンソーダの残りを一気に飲み干した。
 僕は目の前のミラノ風ドリアと烏龍茶のグラスを交互に眺めた。そして愛の向こう側に広がっている普通のファミリーレストランの普通の午後八時の風景を眺めてみた。どうだ、と言われても何か返せる言葉がなかった。僕の常識が全く通用しない話だ。
「どうって……その、アップデートの時は、寝てるだけなの?」
 愛は中央で分けている黒髪の分岐点のあたりを右手の人差指で突いた。
「ここに、ジェル状のマイクロチップが入っている。それとリトル・エレファントが通信して、眠っている間に夢が読み取られるわけだ」
 その姿勢のまま、愛はにっこりと笑った。
「お前が推測しているような、何か危険なことは一切ないよ。数時間眠るだけだ」
「そっか、それなら少し安心したよ」
「ところで、それ、食べないのか?」
 そう言って愛はおでこを突いていた指をドリアに向けた。
「ん、まだいい。まだ話は終わってないんだろ?」
「そう、ここからが私の推測の話になるんだが……」
 愛は両手を膝の上にゆっくりと移動して、目線もそこに落とした。彼女はしばらくその姿勢のままだった。首を少し傾けて、まるで落ち込んでいるかのように、虚ろな目でその白い手を見つめていた。
「この推測が間違っていれば……というか、こう推測していなければ、私はわざわざあんな暗号を拵えていなかったと思う。今までどおり、水郷に忠実に、作品を作って平和に暮らしていたと思う。私は……私は、芸術というものが好きなんだよ。絵を描くのも、楽器を演奏するのも、小説を読むのも、書くのも」
 そう言うと愛は、首は傾けたまま、少し上目遣いで僕を見て、力なく笑った。
「お前に会うこともなかっただろう。何の不満もなく函館でのんびりと暮らしていたはずだ」
「その、推測っていうのは、つまり……」
「そう。それが正しければ、私は水郷から自由にならなければならない。そうでなければ、私はたぶん死んでしまうんだ」
 僕たちはまだ一切食事に手を付けていなかった。パスタからもドリアからも、いつの間にか湯気は出なくなっていて、それらは少しずつ固まり始めていた。



 死んでしまうんだ、と言ったあと、愛は「冷めてしまうぞ」と言った。一瞬それが何のことだかわからなかったが、どうやら食事のことを指しているらしかった。
「いただきます」と言って愛は手を合わせてパスタを食べ始めた。僕もそれに倣って、ドリアをスプーンでかき混ぜた。
「私がそれに気づいたのは、十八歳の時だった。ちょうど研究所を出て半年くらいの頃の話だ」パスタをひとくち食べて、紙ナフキンで口を拭ったあと、愛はそう言った。
「最初の半年は、函館で研究所の係員と一緒に暮らしていたんだ。半年経って、ひと通りの生活環境が整ったあとで、私が一人暮らしをしても問題ないということになった。その時に、この社会についてのレクチャーを受けたんだ。それで、年齢の話になった。十八歳でできることと、できないこと。車の免許は取りに行くことができる……まあもちろん、私は戸籍がないから不可能だが。酒も煙草もダメ。投票権もない。そんなことは全部本で読んで知っていたがな」
 愛はフォークだけで器用にパスタを丸めて、もう一度口に運んだ。そしてメロンソーダがなくなっていたことに気が付き、ほとんど飲んでいなかった僕の烏龍茶を一口飲んだ。
「水郷は、この国では、二十歳が大人になったと認める年齢なのだと言った。成人式というものがあるのだろう? 二十歳になれば、ありとあらゆる権利が付与される。もちろん、義務も課されるわけだがな。そして……」
 愛は新しいナプキンをテーブルに敷いて、その上にフォークを載せた。
「脳細胞の成長のピークの年齢でもある、と言った。それ以降、人間の脳は衰えていくだけだ、と。この意味がわかるか?」
 僕はドリアを半分ほど平らげていた。愛が飲んだ烏龍茶を取り戻して、スプーンを皿の上に置いた。
「それは、何かで聞いたことあるな。脳のピークとかいう話は」と僕は言った。
「そう。良く言われる話だ。最も、脳についてはまだ未知のことの方が多い。ある科学者は、宇宙、海、そして頭脳が二十一世紀の今でも解明されていないものだと述べている」
「それがいったい……君が死んでしまうかもしれないということと、何の関係があるんだい?」
「気付いたんだよ」愛はふっと笑った。
「何に?」
「なあ、夏雪。お前、あの寒い部屋……サーバーの部屋に入ったんだろう。そこに、あのコンピューターは何台あったか覚えているか?」
 僕はリュックサックから手帳を取り出して、エンターテイナー社に行った時のメモを読んだ。
「二百四十台ある、って水郷は言ってたけど」
「……それを十二で割ったら?」
「二十……あ、そうか」十二という数字が、愛が一年にアップデートを行う回数を指していることは明らかだった。「二十年」
「そういうことだ。私はゼロ歳一ヶ月の時からアップデートをしている。つまり、私の二十歳の誕生月のアップデートが、二百四十回目のアップデートということになる。そしてそれは明後日のクリスマス・イブ、ちょうど私の誕生日の前日に予定されている」
 へえ、君の誕生日はクリスマスなんだ、と言おうとしたが、愛が推測する二百四十回目のアップデートが意味することが唐突に伝わってきて、僕の喉は凍りついた。
「それが最後のアップデートということだよ、夏雪さん。そこまでしかサーバーは用意されていないんだ。もうわかるだろう? 水郷が衰えていく脳のデータに興味を持つわけがない……。つまり、最後のデータを提供すれば、私はそれで用済みということになるわけだ。最後に奴が手に入れるべき技術が、小説を書く技術だったということなんだ。奴はこうも言ったよ……小説は最高のエンターテインメントだ、とね。なぜか? それは、最も時間をかけて楽しむものだからだ。映画より、音楽より、何よりも受け手が理解に時間を要する芸術だ。そしてそれを手に入れてさえしまえば、奴は私を殺すだろう」
 愛の右の瞳から涙がそっと流れた。何の前触れもなくその透明な液体は白い頬の上を伝っていった。
「ぐちゃぐちゃだよ……私にはもう何もわからない。水郷が私を殺すことは簡単だ。何せ私は存在しない人間なのだからな。でも、水郷は……あいつは……」
 今度は左の瞳から涙が流れた。それが合図だったみたいに、愛はテーブルの上に伏して泣き始めた。
「あいつは、私の親なんだよ……! 血のつながりのある人を持たない私にとって、唯一の親なんだよ。奴は本当に……本当に嬉しそうに、私の小説を……私の書いたものを読んでくれるんだ。私には、わからないんだ! どうすればいいのか、どうなるのか、いったい何が真実で、何が勘違いなのか。だからどうすることもできないんだ。逃げたってどうすればいいかわからない。そもそも逃げられるかもわからない。全部勘違いで、私はこのまま生きられるのかもしれない。どこかに新しいサーバーがまた二十年分用意されているのかもしれない。でも、それを訊けないんだ! 怖くて!」
 愛は泣きながら激しい呼吸を繰り返し、肩を小刻みに震わせていた。ゆっくりと彼女は顔を上げる。白い肌は林檎のように赤く染まっていて、琥珀色の目は涙に潤んで輝いていた。そしてその二つの目で、まるで彼女は僕を呪うように睨んだ。
「なあ……馬鹿げたことを言っていると思うか? 信じられないだろう? すべてが。これでもお前は助けられると思うかい?」
 僕は彼女から目を逸らして、天井に目をやってひとつ大きな深呼吸をした。そうして答えを探った。しかし、取り乱している愛を目の前にして、僕の結論はクリアだった。
「もし仮に、新しいサーバーがあって、二十年という区切りが君の取越し苦労に過ぎなかったとしても、君はデータを取られ続けながら生きていくんだろう?」僕は天を仰いだまま言った。
「……そうだよ」
「君は、それでいいのかい?」僕は首を降ろし、まっすぐに愛を見る。
「だから言ってるだろう。私はその生活に満足してるって――」
「いいや、嘘だね」
「嘘?」
「うん、僕にはわかるんだ」
 店内のざわめきはまるでボリュームを一段階絞ったように僕の耳から遠ざかる。僕の心は夜の泉のように静かだった。とても純粋で、とても明確な言葉がそこから頭に浮かんでくる。
「君は嘘を吐いている。そして嘘を吐くのがどうしようもなく下手くそなんだ。そして何より、君は君が嘘を吐いているということがわかっていない」
 愛はまだ僕を恨めしそうに見つめている。
「バレバレなんだよ。僕は別に君より偉いわけじゃない。多くのことを知ってるわけじゃない。でも、沢山の嘘を見てきた。そして嘘を吐いてきた。それは、社会で人間が生きるとなるとどうしても必要になることなんだ。そして君はたぶん、その必要が今までなかったんだろう」
「何が……」愛の眉間に皺が寄る。
「おっと、違う。それがダメとか、それが君に欠けていると言いたいわけじゃない。僕の方が経験豊富で、君が世間知らずなんてことを説教したいんじゃない。でもね、僕にはわかるんだ。ただわかるんだ。君が本当に思っていることがね。つまり、君は、二十年云々がなくたって、自由になりたいと思ってるんだ。殺されなかったとしても、このまま水郷の元で作品を続けられるとしても。そうだろ?」
 愛はテーブルの上に載せた二本の腕の間に顔をうずめて、声を上げずに泣き始めた。
 だが僕は構わず続けた。
「君は自分の矛盾に気づいてないんだ。君は今朝何て言った? 研究所を出る時にはもう、自由になりたいって言ってたよな? でもさっき君は言った。研究所から出て半年経って、水郷の目論見に気づいて、殺されるかもしれないと。違うだろう? 本当は、今朝言った方なんだろう? 本当は自由になりたいんだろう? 君が用済みになるかどうかという話は、その思いを強めたというだけの話なんだ。違うかい?」
 愛は泣き続けていたが、腕の中で何度も頷いていた。それを見て僕は少し安心して、勢いをつけて最後の言葉を口にした。
「なら、答えはひとつしかない。そのロクでもない機械をぶっ壊してしまえばいい」

第五章

2010/12/23-24



 僕は、作家や作品をとても尊敬している。その姿勢はやはり父から引き継いだものだと思う。父がカルディ・イケリに注いだ情熱は、そのまま僕に受け継がれていて、今は愛に向けられていた。愛を自由にしてやりたいという気持ち、愛に作家として世界を見て欲しいという気持ちだ。それが僕を突き動かしていた。それがリトル・エレファントを破壊するという結論を導き出した。
 とは言ったものの、その方法を僕が持っていたわけではない。だいたい、僕はその量子コンピューターやら脳をスキャンするサナギやらを見たことがないのだ。僕は愛に大見得を切った夜、翌日にまた会うことを約束して、漫画喫茶で一泊した。リクライニング式のソファに横になって頭の中を整理しようとしたがまったくできなかった。興奮であまり眠れなかった。
 翌朝、僕と愛はまたサイゼリヤで会った。そしてリトル・エレファント破壊の方法を話し合った。泣きじゃくっていた愛の姿はもうなかった。自分の身を守る術はそれしかないのだという決意が言葉の端々に現れていた。
「リトル・エレファントを破壊する方法は、一つだけ思い浮かぶ。私のデータを採取している間に、強制的に装置を開くことだ」
 愛が言うには、リトル・エレファントの計算を担当する量子コンピューターの最大の弱点は、稼働している最中に邪魔が入ることだという。それは普通の計算とは全く違った方法で計算を行う。たとえば、1から100までの数字の和を計算させたとしよう。従来のコンピューターにそれを計算させて、中断した場合、その中断した時点での解が存在する。しかし量子コンピューターの場合は、普通のコンピューターに比べて早く計算できるが、中断した場合、その時点での解が失われてしまうのだという。「介入が入ると壊れてしまう世界」で計算が行われていると愛は言った。それは常識がまだ追いついていない世界らしい。
 そして、リトル・エレファントも介入に対応するプログラムを持っていない。つまり、何らかの方法で介入を行えば、この機械はあっけなく壊れてしまう、と水郷は愛に説明したそうだ。それにも関わらず、リトル・エレファントには緊急脱出用のコードが存在するという。
「ここを突くしかない」と愛は言った。「だが問題は、その緊急脱出用のコードは水郷しか知らないということなんだ」
 それは当然といえば当然のことだった。アップデートの――愛の脳をスキャンする――際には水郷が立ち会うことを前提としてリトル・エレファントは設計されたのだ。
「おそらく、何かしらの英単語だとは思う。リトル・エレファントは全部音声認識で動くんだ。私が入る時には、水郷はいつもレディと言って、そのあとでスタートと言っている。もし声紋認識まであれば話は厄介なことになるが、そうなったらもう斧か何かで叩き割るしかないだろう」
「斧? 冗談はやめてくれよ」
 そういうわけで僕に課されたのはそのコードに相当する英単語をリストアップすることだった。「お前、オーストラリアに住んでいたんだろう?」と愛は言った。
 次に話し合ったのは、そもそもリトル・エレファントのある部屋にどうやって忍び込むかだった。
「お前も知っていると思うが、そこに入るカードキーはやはり水郷が持っている」と愛は言った。
「絶望的じゃないか。どうやってカードキーを奪うんだよ」
「そう、奪うしかない」愛はにやりと笑った。
 愛が立てた作戦は、まず僕が水郷と会う約束をして、二人で応接室に入る。そのあとで、愛が応接室に入ってきて、僕と愛で水郷を取り押さえ、カードキーを奪い、縛り上げてからリトル・エレファントの部屋に入るということだった。
「無理だよ……だいたいそんなことしたら、他の社員に気づかれるだろう?」
「いや、可能だよ」愛はアイスコーヒーをストローで吸っていた。彼女は今日自分でドリンクバーに行って飲み物を取ってきていた。
「どうやってやるんだよ」
「夏雪、エンターテイナー社の応接室はどこにある?」
「入ってすぐの、左手のところ」
「そうだ。そしてそのドアは、社員たちがいるオフィスから見えるか見えないか微妙な場所だろう?」
「まあ、そうだけどさ……っていうかそもそも、どうやって君は応接室に入ってくるんだい?」
 愛は目を丸くして言った。
「何言ってるんだ? 普通に入ればいいじゃないか」
「いや、そもそもオフィスのドアがあるじゃないか。横にインターフォンがあって、それで来訪を告げないと……」
「お前は馬鹿なのかもしれないが、あのドアは常に開いているぞ」と愛は言った。
 愛は明日の午後に水郷と会う約束をしているということだった。そして彼女は、毎月一回あのオフィスに出入りしている。愛の正体は、水郷と、研究所から出向している二人の男しか知らないのだという。他の社員は、愛のことをアルバイトの調査員か何かだと思っているらしい。
「午前中にお前と水郷が会う約束をする。それでお前たちは応接室に入る。そしてそこに私がこっそりと入っていく。別に社員は誰も怪しまない。ああ、あの女の子ね、という感じだ」
「しかし馬鹿ってのは言い過ぎだと思うね」僕は苦言を呈した。「僕はこれでも大阪人なんだ。馬鹿は傷つく」
「大阪人? まあ、それはすまなかったな」と言って愛はアイスコーヒーを一口啜った。
「ところで……万が一、万が一だよ?」
「うん?」
「すべてうまく行ったとして、脱出できるのかな。ビルから。だってもし水郷を縛ったことがバレたら、社員総出で追ってくるんじゃないかな」
「スキャナのことを知っているのは水郷と二人の研究員だけだから、追ってくるとすれば三人」
「こっちは二人だよ。勝ち目がないよ」
「方法としては二つある」
 一つ目はもちろん、水郷は縛られたまま誰にも気付かれず、僕たちは首尾よくリトル・エレファントを破壊し、つつがなくエレベーターでビルを去るという方法だ。そして二つ目は、リトル・エレファントの部屋から直接脱出するという方法だった。
「何せリトル・エレファントは恐ろしく電気を食うから、サーバールームと比にならないくらいの冷房が効いている。そして、その部屋の地面は、換気のために鉄格子になっているんだよ。私も細かく見たことはないが……何せ暗い部屋なんだ。鉄格子を一つ開けて、そこから下に抜ければ換気ダクトなり何なりがあると思う。それを抜ければ……」
「おいおい、君こそ小説の読み過ぎじゃないのかい」僕は呆れて言った。「ダイ・ハードじゃないんだから……」
「まあとにかく、脱出の方法としてはその二つがある。前者であることを祈ろう」
 僕と愛はそのミーティングのあとで白山通りにあるホームセンターに行って物騒なものを買い漁った。水郷を縛るためのロープ、口を封じるためのガムテープ、鉄格子を開けるためのスパナにドライバー、換気ダクトを通り抜ける時必要になりそうな懐中電灯、戦闘に備えてサバイバルナイフ、愛がどうしても必要だと言うのでおもちゃコーナーでアルミ製の手錠を買い、最後に本当に薪割り用の小型の斧を買った。
「あ、夏雪、あとレンタカーというのを借りておいてくれないか?」ホームセンターから出る時に愛はそう言った。「逃げる時に走るのは嫌だから」
 僕は愛を先にサイゼリヤに帰して、重たい袋を持って最寄りのレンタカーショップを検索してからそこに行った。そもそも大学二回生の時に免許を取って以来まったく車に乗っていなかったが、幸いそこでは初心者でも車を借りることができた。車種はすぐ決めた。教習所で乗っていた赤いマツダ・アクセラだった。僕は不安な気持ちを抱えたままアクセラを運転して、荷物を後部座席に置いた車を本郷三丁目のパーキングに駐車したあと、愛の待つサイゼリヤに向かった。






「……はい、水郷ですが」
 愛の指示通り、サイゼリヤに着くなり僕は水郷の名刺を取り出し、電話を掛けた。時間はもう十二時を回っていたが、電話先の彼の声は低く、まるで寝起きのようだった。
「あの、先日お伺いした本庄という者です。その際は、ありがとうございました」
「ああ、本庄さんですか。いえ、先日は来社いただきありがとうございました。いかがですか、論文の方は」
「あ、それなんですけどね、実は今、外国の友人が日本を訪ねてましてね、それで私、東京にいるんですが」
「ええ、ええ、さようでございますか」
「それでですね。もし、ご都合がよろしければ、なんですが」僕はちらりと向かいに座っている愛の顔を見た。彼女はこちらをじっと見つめている。
「明日、御社にまたお伺いすることはできませんでしょうか? 実は論文を書いていて、また新しく質問したいことが出てまいりまして」
「ええ、ええ」
「もしお時間がありましたら、せっかく東京に来ておりますし、直接お話しできればな、と」
 電話先の水郷はしばらく沈黙した。紙をめくる音が聞こえる。
「ええと、明日ですと、そうですね……十一時頃でしたら、会議のあとに時間を作れると思いますが」
「本当ですか? すいません。年末のお忙しい時にお時間取らせてしまって」
「いえいえ、とんでもございません。しかし本庄さんは、ええ、熱心な学生さんでいらっしゃいますね。やはりインタビューは直接でないと、論文にするには不十分ですものね」
「そうなんですよ。教授が現場主義でして、メールとか電話じゃ聞けないことがあるから是非伺いなさいと」
「いや、感心しておりますよ。弊社の人工小説にそこまで興味を示してくださった方は、ええ、本庄さんが初めてですよ」
「無理を言って申し訳ないです……」
 そうして無事に午前十一時のアポイントメントが取れた。電話を切ったあと、僕は思わず安堵の溜息を吐いて姿勢を崩した。
「いやー良かった。断られたらどうしようと思ったよ。そんなもの電話で聞けって言われたらどうしようもないもんな」
 愛は目を輝かせて僕を見ている。
「夏雪、お前は馬鹿じゃない。お前、すごいな。あんなにすらすら嘘が出てくるなんて。それに敬語も使えてる」
「こんなの嘘のうちに入らないよ」僕は腕時計を見た。「どうする? 昼飯でも食う?」
「んー……そろそろここは、飽きたかな。空気があんまり綺麗じゃないし」愛は足元を見ながらそう言った。
「そうだな。昨日の夕方からずっとサイゼリヤにいるもんな」僕は思わず苦笑した。家では勉強に手が付かない試験前の大学生みたいだった。
「じゃ、外で食べようか? ちょっと寒いけど、天気はいいしね」

 僕たちは外に出て、本郷通りを歩き始めた。函館ほどではないけれど、空は高く青く澄んでいて、冬の風は暖房で火照った体を心地よく冷ましてくれた。僕はスマートフォンでどこかゆっくりできそうな場所を探すことにした。
 すると愛は、僕のスマートフォンを取り上げた。
「夏雪、お前、現代人だなあ」愛はくすりと笑って、それをダッフルコートのポケットに放り込んだ。
「いや、場所を探そうと思って」
「ここを使えよ、ここを」と言って愛は形の整った鼻を指差した。
「鼻?」
「そうだよ。いい匂いのする場所に行けばいい。そこが行くべきところなんだよ。人間は結構嗅覚に依存して生きてるんだぞ?」
「犬じゃないんだから」
 愛は深緑色のスカートを揺らしながら、僕の先をどんどん歩いて行った。冬の日差しは柔らかい光の輪郭で彼女を包んでいた。僕は一瞬、この少女が明日生死を賭けた行動に出るということを忘れてしまった。
 愛の「鼻」にひたすら従って行った先は、東京大学だった。祝日にも関わらずキャンパスの中に入れるということに愛は驚いていた。
「やはり、小説だけではわからないことというのがあるんだな」と彼女は言った。
 僕たちはキャンパス内をしばらく歩いた後、木々に囲まれた池の前の石に腰掛けた。
 その池は常緑樹の緑と、枯れ木の細い枝の線を水面に映し出していた。空の青は水の上でより一層濃い青に見えた。祝日ということもあって、池の周りには散歩に来た子供連れや老人の姿があった。
「そうだ、愛、夏目漱石の『三四郎』は読んだことある?」
 僕は尋ねた。
「あるよ。夏目漱石の作品は、十代の半ばにまとめて全部読んだな」
「あの話の中に出てくる池があるだろう? あれ、ここなんだよ」
 すると愛は微笑んで、池に向かって小石を投げ入れた。鏡のような水面はその石が落ちた場所から美しい波紋を描き、景色は均等に歪んでいった。
「もちろん知ってるさ。来るのは初めてだがな」
「なんだ、知ってるのか。僕、あの小説ですごい好きな箇所があるんだ」
「どこ?」
「最初の方。三四郎が熊本から列車に乗って東京にやってくるだろう? その時に、男に言われる台詞があるんだ。ええとね、熊本より、東京の方が広くて……」
「『熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……日本より頭の中のほうが広いでしょう』だろ?」
 そう言うと愛はにっこりと笑って僕を見た。
「覚えてるんだ」
「ほとんど全部な」そう言って愛はまた池に向き、石を投げ入れた。
「『この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った』……」愛は呟くようにそう言うと、立ち上がってスカートを手で払った。
「さ、夏雪。デートはおしまいだ。明日の練習をするぞ」
 そうして僕たちは夕方まで、池の前で明日の予行演習を行った。どうやって水郷を襲うか、合図はどうするか、三人に囲まれたらどうやって打開するか、ダクトを抜けるためにはどうすればいいか……メモをしながら、時には体を動かして予行演習をした。周りの休日を楽しむ人たちからは、一体どんな風に僕たちは写ったのだろう。演劇部の練習か何かのように見えたかもしれない。あるいは兄妹が言い合いしているように見えたかもしれない。だが僕たちは真剣だった。リトル・エレファントという最先端のテクノロジーの結晶。それを破壊するという目的のために、躍起になって頭と体を働かせていたのだ。



 西日が傾き始めた時、ゼミの忘年会のことを思い出した。慌てて弓削に電話してキャンセルを伝えた。「しゃあないやっちゃな」と弓削は言ったが、一人分くらい何とかなるやろ、と言ってくれた。そのあとで金曜日のアルバイトも休ませてもらうことにした。塾長は「まあ本庄くん、前に当日お願いしたこともあるし」と言って了解してくれた。電話をしたあとにどっと疲れが噴き出してきた。愛との練習をそこで切り上げて、夕食を取ることにした。
 近くの定食屋で食事した後、愛と明日の集合場所を決めて別れようとしたが、彼女は、「お前はどこで眠るのだ」と訊いてきた。
「漫画喫茶だよ。ホテルに泊まる金がないわけじゃないけど、あんまり使いたくないし」ここ数日の出費は僕の貯金をかなりの勢いで削っていた。
「漫画喫茶?」愛は首を傾げる。
「うん。漫喫。行ったことないの?」
 僕は昨日泊まった漫画喫茶に愛を連れて行くことにした。都営地下鉄に乗って上野御徒町まで行って、駅からすぐのところに位置している雑居ビルの中にそれはあった。僕は受付で、とりあえず三時間の料金を二人分払った。
「へえ……ここは、漫画を読むためだけのところなんだな」愛は壁にずらりと並んだ本棚を眺めて言った。
「いや、漫画だけじゃなくて、ネットもできるし、テレビも見れるよ」
「本はないのか?」
「本?」と僕は言った。
「そうだ。普通の小説とか、歴史書とか……」
 確かに、普通の本を置いている漫画喫茶というのは見たことがない。漫画はもちろん、いろんな娯楽があってしかもリクライニングソファで眠ることもできるのに、小説ひとつ置いていない。
「まあ、漫画喫茶だからね。本だったら図書館で借りられるしさ」
「ふうん……」
 僕は愛に個室の札を渡して、それから自分の個室に行った。
 部屋に入るなりコートを脱ぎ、狭いテーブルの上にノートを広げた。僕にはやらなければならないことがあった。それは、コードの推測である。愛のデータを取得している最中のリトル・エレファントを強制停止させるための暗号。スマートフォンを充電器に繋いで、ネットの和英辞典と自分の頭の中にある英単語を突き合わせて、それらしい単語をリストアップしていった。
 十五個くらい出たところで壁にぶち当たった。これ以上緊急脱出らしい言葉を探すのは不可能のように思えた。一度大きく伸びをすると、堰き止められていた血流が一気に全身を巡るような気がした。ダメだ。相当疲労している。昨日だってあまり眠れていない。
 僕は気分転換に、愛の個室を覗いてみることにした。木のドアには何も嵌めこまれていない四角い窓があるのだが、そこにハンガーが掛けられるようになっていて、愛もダッフルコートを掛けているらしく、何も見えなかった。僕は一応ドアをノックしてみた。
「夏雪か?」と愛は言った。
「うん。何してるの?」
「何って……読んでる」
「何を?」
「漫画」
「入ってもいい?」
「別に構わんが」
 僕はドアを開けて愛の部屋に入った。彼女の部屋にあるのはロングソファで、愛はそこに寝そべって漫画を読んでいた。壁に接している狭いテーブル読んでいるのと同じタイトルの漫画が何冊も積まれていた。タイトルは『君を泣く』だった。
「『ああ弟よ、君を泣く、君死にたもうことなかれ』」愛は寝転がったままそう言った。与謝野晶子の有名な一節だった。
「何の話なの、その漫画?」と僕は尋ねた。
「いわゆる少女漫画というヤツだが、中々面白いぞ。もう最終巻だが」
 僕はテーブルの上の巻数を数えてみた。一巻から十二巻までが積まれている。そして僕に頭を向ける形でソファに横になっている愛が手にしているのは十三巻だった。表紙に描かれていたのはいかにも少女漫画といった感じの絵で、美しい女と美しい男が描かれている。
「もう最後まで読んだの?」僕は腕時計に目をやった。まだ店に入って一時間程度しか経っていない。
「こんなもの一瞬で読めるよ」そう言って愛はページをめくった。
「ま、簡単に説明するとだな、小学校の幼なじみの男女がいて、二人は近所に住んでいたんだが、恐ろしく仲が悪かった。毎日喧嘩ばかり。六年生の時に、女の子の方が中学生の不良グループに襲われるんだが、それをその仲の悪かった男の子が勇気を振り絞って助けるんだ。その男の子は、体がやたら小さくて、まるで弟みたいに扱われていたんだが」
「うん」
「それで一気に仲良くなったんだが、男の子の方は中学に入る前に引っ越してしまうんだ。女の子に何も言わずに」
「はあ……」何となく展開が予想できる話だった。
「女の子は中学生になって、絶世の美女に成長していくんだが、誰に言い寄られても首を縦に振らない。ずっとその彼を待ってるわけだ……そして高校生になると二人は再会する。これが面白いんだが、ネット上のランダムチャットで出会うんだ」
「ま、ありそうな話ではあるけどね」
「そう、それで、最初はお互い年齢と性別しかわからないんだが、話していくうちに正体がわかってくるんだな。でも決定的な証拠はない。女の子はその相手が、小学校の時に別れた彼だと確信していて、会ってみようと言うんだ。住んでいるのはとなり町だと言うしな。それで会ってみると、彼は王子様みたいに格好良くなっていて……」
「わかった」僕は先が読めた。「それで男の方が、死んじゃう病気か何かになってるんだろ?」
「お前、すごいな」愛は体を起こして、僕に向き合ってそう言った。「大正解だ」
「思い出したよ。それ、確か高校生の時に流行ってた気がする」
「そう、それで、今もう終わりかけなんだが、二人は付き合うようになって、でも男の方は日に日に弱っていって、最後に、女の方がこう言うんだ……」
「春に桜の綺麗なところに行って病気が治るんだろ?」僕は溜息を吐いた。
「そう。『ねえ真司、最後に、あなたが一番行きたいところに行きましょう。世界のどこかの、あなたが一番好きな景色があるところに……』」愛は驚くほど高い声を出してその台詞を読んだ。
「頭が痛くなってくるな」
「すごい漫画だ」と愛は言った。「私がこの筋で小説を書いたら、男を殺して終わるだろうな」
 愛は漫画喫茶が気に入ったらしく、今日はここに泊まると言い出した。断る理由もないので、僕は受付に行って二人ぶんの朝までの料金を支払った。それから自分の個室に戻り、シートを最大限に倒してコートをかぶって眠りについた。



 すがすがしい気分で朝を迎えたかったが、漫画喫茶の安っぽいビニールのソファでは充実した睡眠など望めない。午前八時の鼻孔を突くのはねっとりしとした、複雑な匂いを持った空気だった。もう何日自宅のベッドで寝ていないのだろう。母のことが思い起こされたが、おそらく彼女はまだ僕が就職活動をしていると思っているのだろう。実際は程遠いことをしているというのに。
 上半身の関節という関節が微かに傷んだが、睡眠時間だけは確保できた。僕はシャワーを浴びに行き、顔を洗って着替えた。下着を多めに持ってきたのは正解だった。しかしそれも今日までのことだ。滞在がこれ以上長引くことはないだろう。
 愛の部屋を覗いてみたが、ドアにダッフルコートが掛かっていなかった。僕と同じように、コートをかぶって眠っているのだろうかと思い、ゆっくりドアを開けたが、そこに愛の姿は無かった。残されているのはテーブルに積まれた大量の少女漫画だけだった。
 愛がいない。バッグもない。
 どこへ行った?
 まさか、逃げたのか?
 暖房の効いた漫画喫茶の一画で背筋が凍りつく思いがした。彼女は何を考えているのだ? もしかして、いや、やはりと言うべきか。リトル・エレファントを破壊するなんてことは――。
「何してるんだ?」
 後ろで愛の声がした。振り返ってみると、そこにはコートを着てバッグを斜めがけにした愛の姿があった。
「驚かすなよ……」僕の心臓は早鐘のように鳴っていた。
「何が?」
「どこ行ってたんだよ。いなくなったのかと思った」
「散歩だよ」愛は平然と言った。「朝の習慣なんだ」
 僕と愛は上野御徒町から本郷三丁目に移動し、モスバーガーで朝食を取った。僕はマクドナルドに入ろうとしたのだが、愛が「そういえばモスバーガーというところには行ったことがない」と呟いたのでこちらを選んだ。僕はホットドッグを食べ、愛はミネストローネを注文した。そのあとで僕と愛は最後の確認をした。
「それで、例のアレはできたのか?」愛はホットコーヒーの香りを嗅いだ後でそう尋ねた。
「一応、二十個くらいは……」僕はノートのページをちぎって愛に渡した。
「ふむ……」愛は顎に手を当ててそれをじっと見つめた。「うん、これだけあれば十分だろう。どれか引っかかるはずだ」
「本当に?」
「間違いない」
自信たっぷりにそう言うと、愛はホットコーヒーのカップに口をつけた。
「あとさ、一応、念の為に訊いておきたいんだけど、もしリトル・エレファントを破壊できたら……その、どうなるの?」
「どうなる、って?」彼女は眉間に力を入れてカップをソーサーに戻した。
「その、爆発とか……」
「爆発はないと思う。ただし」愛は僕が渡した紙切れを裏向けにして、そこにボールペンで図を書いた。
 愛が描いたのはリトル・エレファントの全景だった。それは昨日も愛が描いてくれたものだった。部屋の中央に、サナギ型のスキャナがあり、それを守るようにして三十六個の球状の量子コンピューターが円を描いている。そしてそのサナギと球は、無数のコードで繋がっている。
「もし緊急脱出用のプログラムが作動したら、スキャンが強制的に止まる。これは前も言ったとおりだが、データの処理を行う量子コンピューターの方に深刻なエラーが起こるんだ。というか、深刻なエラーを引き起こして停止するような仕組みになっているはずなんだ」
「つまり、介入を行うということなんだね」
 愛は短く頷く。
「そう、介入が行われる状態を量子コンピューターは想定していないから、おそらく処理速度が限界まで上がって、オーバーフローになって、力尽きるということになると思う。簡単に言えば、ショートが起こるわけだ。もちろん動力は電気エネルギーだからな。だから、注意するべきなのはサナギの方じゃなくて、三十六個のボールの方だ。どちらかと言えば」
「ボールに注意か……」僕は父の事故のことを思い出した。「どれくらいのサイズなの?」
「一四〇〇立方センチメートル」そう言って愛は右のこめかみを指でとんとんと叩いた。「一.三キログラム。人間の脳と同じサイズ」
「大きさは?」
「だいたい直径十五センチメートルの球だと思ってくれればいい」
 野球のボールに比べればはるかに大きかった。それが僕の安全を担保するわけではないが、何となく安心した。
 僕たちは十時半すぎに店を出て、パーキングに行って車に乗り、三分間だけドライブをした。本郷三丁目から本郷六丁目までの移動だ。愛は黙っていた。六丁目のパーキングに入れた後で、僕のリュックと愛のバッグに武器や工具をどっさり詰め込んだ。もしここからエンターテイナー社までの間で職務質問に遭ったら一発でアウトだろう。
 トランクを閉めてしまうと、あとはもう突撃を残すのみとなった。
「準備は大丈夫?」と僕は尋ねた。
 愛は目を瞑って何度も深呼吸をした。僕以上に緊張しているようだった。
「大丈夫」目を開けて、かすれた声で愛は言った。
 僕たちは一言も交わさずに本郷通りを北上した。昨日の晴天とは打って変わって、いつ雨や雪が降り出してもおかしくないどんよりとした曇り空だった。頬を切る風は昨日よりずっと冷たく感じられた。短い行軍のあとで、エンターテイナー社のビルに到着した。
 エレベーターの壁に貼り付けられた鏡で僕と愛はお互いの顔を確認した。三階まで上がる短い間中ずっと僕たちは鏡の中で見つめ合っていた。愛の二つの瞳からは悲壮感とでも言うべきものが伝わってきた。複雑な感情を宿した光だった。引き返すことはもうできない。イチかバチかの勝負に出る。そう思って僕たちは同時に振り向き、開いたドアの向こうへ一歩を踏み出した。
 白の廊下を抜けて、エンターテイナー社のドアの前まで来ると、愛はドアの左の壁に張り付くように立った。僕は腕時計を見た。午前十時五十五分。約束の五分前。間違いのない時間だ。インターフォンを鳴らすと、ドアが開き、先週も会った上下真っ黒の女性が出てきた。ドアの裏には愛が潜んでいる。女性社員はにっこりと微笑んで、本庄さんですね、と言った。僕もにこやかに挨拶をして、まず急なアポの非礼を詫びた。そして僕はオフィスに足を踏み入れ、ドアが閉じられたことを確認してから、入ってすぐ左手の応接室に通される。
 僕は応接室のソファの前に立ち、不自然なリュックの膨らみを悟られまいと、二本の足の裏にそれを隠す。すぐに水郷がドアを開けて部屋に入ってくる。背の高いスーツ姿の男。その手にはA4サイズの書類を入れるような茶封筒が握られている。相変わらず隙のない髪型に隙のない着こなしだった。「お待たせしました」と彼は言い、僕に座るように促す。僕は「失礼します」と言って着席する。そして再び非礼を詫びる。「いえいえ」と水郷は言う。ノックの音がして、女性社員がお茶を僕の前に置き、その後で水郷の前に置く。彼女は一礼をして部屋を出てゆく。全てがイメージ通りに進んでいる。
 ――いつでも大丈夫だぞ、愛。
 僕は心の中でそう呟く。僕は右のポケットの膨らみを悟られまいと、その上に手をさりげなく置く。
「東京にお友だちがいらしてるんですってね。ええ、しかし、本庄さんは本当に研究熱心ですね」
水郷は口の角をほんの少し持ち上げて笑う。その微妙な笑顔が愛の笑い方と重なって見える。
「あ、どうぞ、召し上がってください」
 僕は「いただきます」と言って湯呑みに口をつける。
「そういえば、今日はクリスマス・イブですね」水郷はそう言うと、膝の上に置いていた茶封筒を手に取った。「プレゼントというわけではないのですが、お目にかけたいものがございまして」
「プレゼントですか?」
その腑抜けた単語に緊張が一瞬緩んでしまう。
「な、何でしょう?」
「ええ、ええ、これは、内密にお願いしたいんですがね、そうですね、来年の春あたりに出せるかと」
水郷は封筒の中に手を滑らせ、紙の束を取り出した。
「小村象の、二作目の小説なんですがね」
 愛の作品だ。そういえば二作目を水郷に見せたと言っていた。水郷はその紙の束を僕の前に差し出す。右上がダブルクリップで留められている。これは想定していなかった事態だ。
「もし良かったら、さわりだけでも読んで頂けませんかね? せっかく研究なさっているんだから、ええ、何かの参考に……」
 僕はそれに手を伸ばす。四〇〇字詰めの原稿用紙。愛の字だ。愛の字が原稿用紙一杯に敷き詰められている。ここに来た目的を一瞬で忘れてしまう。読みたい。読みたい。愛の書いたものだ。愛の書いた新しい小説だ――。
 その時、応接室のドアが静かに開いた。
 愛はゆっくりと部屋に入ると、細心の注意を払って音を出さずにドアを閉じた。
 僕は原稿用紙の束をローテーブルにそっと置く。水郷は愛を見つめている。水郷のぎょろりとした目が必要以上に大きく開かれている。愛はこちらに一歩近づく。
「あれ? 午後の約束じゃなかったっけ――」
 水郷がそう言って、腕時計に目線を落とした瞬間。
 愛は言った。
「奥の席に座れ」
 それが合図だった。僕は両足をバネにして座った姿勢から蛙のように水郷に飛びかかる。膝がローテーブルに激突して、クリスタルの灰皿が床に落ちる。しかし床はカーペットだったから、小さな音しか出なかった。僕は左手で水郷の胸を突いてソファに押さえつける。そしてジーンズの右のポケットからタオルを取り出して彼の顔にかぶせる。水郷は僕より体が大きかったが、抵抗する力を一切感じなかった。おそらく急に視界を封じられたことで脳の指令が狂ったのだろう。そして愛はバッグの中から銀色のスパナを出して思い切り水郷の後頭部を殴る。水郷のうめき声はタオルに吸い込まれる。軽い脳震盪。狙った通りに事が運ぶ。僕はタオルを水郷の口の中に詰め込む。その時に唾液が手についた。愛がすかさずガムテープで水郷の口を塞ぐ。僕は力づくで水郷をソファの上にうつ伏せにして、両手を腰の裏で交差させる。水郷のズボンで唾液を拭う。そして愛が水郷に手錠を掛ける。
「カードキー!」押し殺した声で愛が言う。
 僕は水郷の背中から降り、しゃがんでポケットを調べた。左の内ポケットにそれは入っていた。抜き取ってすぐに愛に手渡す。水郷の大きな目は完全に開かれ、激しく充血していた。
「すいません……」僕は思わずそう言った。
「そんなこと言ってる場合か」と愛は言った。
 ドアから水郷をなるべく離しておこう、と愛が言い、二人で彼を引っ張り、コピー機にもたせかけた。彼は目を瞑って、額に大量の汗をかき、荒い鼻息で呼吸していた。「念のため」と言って愛がさらに口へガムテープを重ね、もう一度スパナで後頭部を殴って気絶させた。
「死んでしまうぞ!」と僕は言って三発目を繰りだそうとする愛を制止した。愛の目もまた血走っていた。ぞっとする表情だった。愛はすぐ冷静さを取り戻すとスパナをバッグに仕舞い、カードキーを手に応接室のドアへ向かった。僕たちはなるべく音を立てずにドアを開け、誰にも背中を見られないように祈りながら、素早くオフィスから脱出した。



 僕と愛は忍び足で廊下を歩き、サーモンピンクのドアの前にやってきた。それは、水郷が僕に見せてくれた部屋の反対側に位置しているドアだった。
「あ、やべ」僕は水郷がパスワードを入力しているところを思い出した。「愛、それパスワードが必要だよ」
「お前は私を誰だと思っているんだ」
 愛はドアにカードキーをかざし、黒いディスプレイが浮かんでくるなり、右手の指先で素早く暗号を入力した。
「何回ここに来ていると思ってるんだ。十三桁くらい、一度見ただけで覚えられるというのに」
 ドアは開き、僕と愛はそっと部屋の中に入った。
 部屋の中は真っ暗だった。ドアが自動的に閉じてしまうと、一瞬何も見えなくなった。そして恐ろしく寒かった。冷凍庫の中と言ってもおかしくないくらいの寒さだ。急に目が乾き、暗闇の中で何度もまばたきをした。愛は閉じたドアにカードキーをかざして操作をしている。
 その最中、部屋の一番奥で何かがぼんやりと光りだした。紫色に光る大きな物体――それがリトル・エレファントであることは疑いようがなかった。
 部屋に人間が入ったことを感知して起動したのだろう。ぶうんという低い音と共に、真ん中の紫に呼応するように、同じ色の光の円が現れた。それは幻想的な光景だった。強力な冷房がもたらす冷気が、まるで靄のように紫の輝きをやさしく隠している。暗闇に目が慣れ、光の量が一定に達すると、愛が言ったサナギの形がようやく明らかになった。
 それは地面の上にひっくり返された小型の船のような形をしていた。流線型のデザインで、遠くから見てもそれがコンピューターであるなどということはわからない。そしてそこから夥しい数のコードが出ていて、取り囲んでいる球状のコンピューターに接続されている。宗教的な儀式を行うための祭壇のような印象を僕は持った。
「よし、パスワードの変更ができた」と愛が言った。「何通りだ……一兆通りか? 時間稼ぎにはなりそうだ」
 愛はまっすぐリトル・エレファントの方に歩いて行き、その前に立った。高さは愛の身長と同じくらいで、奥行きは三メートルはあるだろう。僕もボールを跨いで、コードを踏んでそれに近づく。近くで見ると、そのサナギはシーリングライトのように白く、その中から光を放っていることがわかった。そしてボールもサナギと同じ材質だった。しかしサナギには取っ掛かりも何もなく、ただつるつるとした表面があるだけだった。文字も書いていなければ、穴が空いているわけでもない。
 愛はカードキーをサナギの――リトル・エレファントの――表面に当てた。そして「オープン」と呟いた。するとリトル・エレファントとそれを囲むボールは一斉にオレンジ色に輝き始めた。さっきまでは耳の奥で鳴っていた低い駆動音が一段階大きくなる。リトル・エレファントは開く。まるで未来の棺桶を見ているようだった。オレンジに光るサナギはゆっくりと開いていった。ちょうど果物のオレンジを半分に切って開くのと同じように。そしてその中には特別に何かがあるわけではなく、ただ人型のくぼみが――おそらく愛がぴったりと収まるサイズの――あるだけだった。愛はバッグを地面に置き、黙ってそのくぼみに身を横たえた。
「あとは手順通りだ」と愛は僕を見上げて言った。「入って三分もすれば、私はノンレム睡眠に入るはずだ。データの採取が始まると、おそらく目に見える変化があるはずだ。そのあとは……」
「うん。わかってる」僕は手を伸ばして愛の白い手を握った。
「頼んだぞ」愛は僕の目をじっと見つめてから、やさしく手を離した。「もしダメだったら、私の体のことは構わなくていい。斧で叩き潰せ」
 愛はふっと笑うと、「レディ」と言った。それを合図にして今度はすべてが緑色に輝き始めた。
「スタート」
 愛がそう言うと、サナギの蓋がゆっくりと閉まっていく。僕は最後まで愛の顔を見ていた。蓋が彼女の顔を完全に隠してしまうまで、その琥珀のような瞳は見開かれたままだった。



 蓋が完全に閉じると、僕は部屋に一人で取り残された。まだ低い音程を保っていた駆動音は、まるでバイクが速度を上げて近づいてくる時のように少しずつ大きく、高くなっていった。
 しばらくその状況が続いた。愛は「サナギ」という喩えを使ったが、言い得て妙だと僕は思った。小学校の時、理科の先生が話していたことを思い出す。サナギの中身についての話だ。蝶はなぜ幼虫と成虫であんなに姿形が違うのか。それは、幼虫がサナギの中で一旦どろどろに溶けて、まったく別の器官を持った成虫に生まれ変わるからだと先生は言った。奇妙な話だと思った。もっと言えば、グロテスクな話だと思った。だからそれを覚えていて、今こうして凍えそうな中で思い出している。
 何かが噴射される音がサナギの中から響いてきた。これが催眠ガスなのだろう。これから彼女は眠りに入るのだ。もしかしたら、愛もこの中でどろどろに溶けているのかもしれない。愛は何も言わなかったけれど、介入を行った時に彼女の身は安全なのだろうか? もし彼女が本当に溶けてしまっていれば、僕はどうやって彼女を救い出せばいいんだ? そういえば小学校の時、どんな風になっているか見たいと言って、アゲハチョウのサナギをハサミでちょん切った奴がいたっけ――。
 そんなことをぼんやりと考えていると、緑色の視界が急に赤く染められた。それと同時に、まるで金属を切り裂くような、不快な高い音が部屋中に鳴り響く。まるで巨人のための歯科医院に迷い込んだみたいだ。僕は思わず耳を塞いだ。耳の痛みに思い切り顔を歪める。すっかり乾燥した唇の中央が切れる。血の味がする。コンピューターは全て血のように赤く光っている。
 これが愛の言っていた「目に見える変化」に違いない。
 つまり、愛が眠り、データの採取が……記憶に残らない深い夢が始まったに違いない。
 僕は耳を塞いだまま、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。落ち着け。お前には今やらなければならないことがある。くだらないことを考えてる場合じゃない。サナギのことは忘れろ。今必要なことは何だ?
 僕はポケットからくしゃくしゃになったノートの切れ端を取り出す。
 緊急脱出用のコード。
 これを一つずつ試していかなければならない。
 僕は左手だけを耳に当てて、右手で紙を持った。もう一度深呼吸をする。そして最初の単語を口にする。
「OPEN(開け)」
 一番有り得そうな言葉だった。しかし何の反応もない。
「REJECT(拒絶) ESCAPE(脱出) EJECTION(射出)」
 僕の声は意図せずに震えている。寒さのせいだけではない。
「SOS! ……DENGER(危険)、STOP(停止)、FINISH(終了)!」
 リトル・エレファントからは何の反応もない。しかし、ドアから反応がある。確かにドアの方から振動が伝わってくる。誰かがどんどんと叩いている。水郷が部屋の前までやってきているのだ。
 元々凍りついていた僕の背筋は、腰のあたりから唐突に冷やされ、これまで経験したことのない悪寒に埋め尽くされる。
 水郷が来てしまった。早くしなければ。僕は急いで残りの単語を読み上げる。
「ええと……DELIVERANCE(救出)! LIBERATION(解放)! FREE(自由)!」
 相変わらずサナギは赤く光ったままだ。ドアを叩く音は収まった。おそらく暗号を入力しているのだ。カードキーのスペアなんていくらでもあるのだろう。
「くそ……! 開けよ!」僕は耳を塞いでいるのがもどかしくなり、両手で思い切りリトル・エレファントを叩く。それは氷のように固く冷たい。
「EMANCIPATION(解放)! EMERGENCY(緊急)! RESCUE(救助)……RELEASE(解放)、CANCEL(無効)、FINALIZE、COMPLETE(完了)!」
 どれもダメだった。最後の一つ。
「SHUT DOWN(強制終了)」
 全く反応がない。僕はふとリュックサックの中に入れた斧のことを思い出す。叩き割るか? これで水郷と戦うか? 相手は一人ではないだろう。三人。戦えるか? 逃げられるか? 勝てるのか?
 無理に決まっている。僕は拳でサナギの表面を叩き続ける。
「おい、開けよ! 何なんだよ! 教えてくれよ! どれなんだよ……! 愛、おい愛! 返事してくれよ、助けてくれよ!」
 その時だった。
 助けてくれよ?
 僕の脳裏に唐突に蘇ってくる場面がある。
 それは父の書斎で愛の暗号を解いた時のことだ。
 もしかすると、愛は初めから答えを知っていたのではないか?
「HELP ME AI」
 僕は呟くようにそう言った。そして僕の視界は真っ白な光に包まれる。
 まるで何百台ものカメラが一斉にフラッシュを焚いたような光が両目を射抜いたかと思うと、次には足元を刺すような痛みが僕を襲った。光は一瞬で収まり、白の残像を焼き付けた網膜が無数の火花を捉える。僕は火花に包まれている。凍っていた肌を刺すいくつもの火の矢。そしてコンピューターは七色に輝いている。天井からは冷たい水滴が降ってくる。僕は体をめちゃめちゃに動かしてその場から飛び出して、鉄格子の床に倒れる。サナギから離れ、スプリンクラーの強い噴射を浴びながら、僕はリトル・エレファントの最後を見届ける。目まぐるしく七色に光るサナギと三十六個のボールをじっと見つめている。そして一瞬のうちに光は止み、暗闇と無音に包まれた刹那、花火のような輝きを放って球状のコンピューターが部屋一杯に散らばった。そのうちの一つが僕の顔に飛んできたが、僕は反射的に右腕でそれを撥ね退けた。全身には鋭い痛みが、右腕には鈍い痛みが残った。



 火傷、打撲、それから転んだ時の擦り傷。激しい光のせいでまだ目がチカチカするし、音のせいもあって頭が痛い。髪の毛はスプリンクラーでびしょびしょだった。
 沈黙と暗闇は続いている。花火の後始末をしたバケツの近くにいるような匂いがする。僕は一歩も動けない。
 暗さに目が少し慣れてきた時、小さな光が奥の方に見えた。その光はゆらゆらと動いたあと、僕を捉えた。そしてだんだん光源が近づいてくる。「夏雪!」という声がした。愛だった。バッグの中に入れておいた懐中電灯を出したのだろう。
 愛は倒れている僕の前に立つと、顔を照らしてきた。
「夏雪……お前、大丈夫なのか?」愛はダッフルコートのポケットからハンカチを出して、僕の顔を拭ってくれた。
「ありがとう……」と彼女は言った。懐中電灯の光で見えたのは彼女の口元だけだった。
 しかし次の瞬間には愛の表情がはっきりと見えた。高い天井にあるらしい白熱灯が一斉に部屋を照らし出した。不安と安堵が同居したような、泣きそうな愛の顔が一瞬見えたあと、その顔は青ざめ、表情を失った。
 愛は即座に振り向く。そして僕もその方向を見る。
 ドアの前に立っていたのは水郷だった。そしてその後ろにはスーツ姿の二人の男がいる。ひどく背の高い男と、ひどく背の低い男だった。それだけ身長の差があるにも関わらず、二人は兄弟のように似通っていた。細い目に、薄い眉に、尖った顎。表情というものをどこかに置いてきた顔だ。そして髪の毛は短く刈られており、針金のように固そうだった。
 僕はすぐにリトル・エレファントの状況を把握した。真っ白だったサナギは、下の部分が焼け焦げて黒くなっていた。無数のコードで繋がっていたボールは部屋中に散らばっていて、その一つが僕の足元に落ちていた。それも半分くらいが焦げている。
「あの男を捕らえろ」と水郷は言った。
 それを合図に二人の男はまっすぐこちらに歩いてきた。走ってきたわけではない。にも関わらず二人は次の瞬間には僕の両腕を掴んでいた。一体どういう運動神経をしているのだろう。僕はあっさりと捕まってしまった。僕は二人の男に後ろから腕を引っ張られ、立つように促された。男たちは僕の手を後ろに回し、ロープできつく縛った。愛は僕のそばから飛び退き壁を背にしている。彼女はダッフルコートのポケットからサバイバルナイフを出した。
「来るな!」と愛は言った。その声も体も小刻みに震えている。
 僕の前を水郷が優雅に歩いて行く。そして愛との距離を二メートルほどまでに縮める。愛は威嚇するようにナイフを振り回したが、水郷は何の反応も示さない。
「馬鹿なことはやめなさい」水郷は恐ろしく冷たい声で言った。
「来るなと言っているだろう……」
愛は両手でナイフを握り、切っ先を水郷に向けた。
 水郷は体を回し、僕を睨みつけた。
「本庄さん……これは一体どういうことなのか、ええ、説明していただけますよね?」
 何も言うことができない。二人の男は縛り上げた僕の腕を強く握っている。さっき切った唇の、血の味が口の中に広がっていく。
「お話いただけないようだ」
水郷は両手を組み合わせ、それから愛の方に向き直った。
「愛、お前は一体何を考えているんですか。……そう、こんなことをして、何か意味があるというのですか? リトル・エレファントを破壊して?」
「うるさい!」愛は叫んだ。「お前は……お前たちは、私を利用しているんだ。そして用がなくなったら、殺すつもりなんだろう」
「殺す?」水郷の横顔がかすかに歪んだのが見える。「誰がそんなことを言ったのかな?」
「気づいたんだよ……お前たちは、二十歳の私のデータまでしか興味がない。そうだろう?」
「さあ」水郷は微笑む。
「いや、そうなんだ……きっとそうなんだ。そうじゃないと、サーバーが二百四十台しかないことが説明できない」
「ふん。そんなのはただの推測ですね。それがこれの動機だというんですか?」水郷は焼け焦げたリトル・エレファントを指差した。
「……そうだ」
「違うな。愛。私にはわかりますよ。お前は自由になろうとしたんだ。そうなんでしょう? 私たちの研究とビジネスから足を洗いたくなった。あるいは、こう言うこともできるかもしれない」
 水郷は腕を組んで、一度僕の方をちらりと見た。
「逃げようとした。そうですね?」
 愛は黙ったまま、目をきつく瞑った。ナイフの先が激しく上下に震えている。
「私が、私たちがここに来るまで時間がかかった理由がわかりますか、本庄さん?」
 水郷は愛を睨んだまま僕宛てに疑問符を寄越した。
「それは……手錠を外すのと、パスワードを解くのに時間が……」
 水郷は黙って首を振る。
「残念ながら、ハズレです。ええ、本庄さん。あなたは素晴らしい学生さんだと思っていたが……どうやら買いかぶっていたようですね。失望しましたよ」水郷はそう言うと氷の刃のような目で僕を一瞥した。
「正直、こんなものはもうどうでも良いのです。あなた方がこれを破壊するという目的で……つまり、愛をこの機械から解放するという目的でここにやってきたことは、襲撃された時点でわかりましたからね。意表を突かれた、という点に関しては素直に認めましょう。私が次に考えたことは、それを阻止することなんかじゃあない。ええ、ええ……そうです。あなた方がどのようにして出会ったか、それを調べていました。そして突き止めました」
「何だと……?」愛は大きく目を開いて言った。
「まさかとは思いましたがね。ええ、ええ……私も解きましたよ。あなたの暗号をね、愛。まったく、実に小賢しい真似をしてくれたものです。小説の中にあんな暗号を仕込むとはね……もちろん、それを解くヒントになったのは、本庄さん、あなたのお言葉でしたよ。ええ、あなたは、そう……何と言ったかな? イケリと言いましたね。そのことをあなたは随分気にしていらっしゃった。そう、そう、その作家のことがヒントになりました。それで『奥の席に座れ』の暗号が解けたのですよ」
「ちょっと待て」愛はか細い声で言う。「水郷、お前、こんなものはどうでも良い、と言ったな。それは……一体、どういうことだ?」
 それを聞くと、水郷は顔を天井に上げて思い切り笑った。ひどい笑い方だった。僕がこれまで聞いた中で最も不快で、最も悪辣で、最も禍々しい笑い方だった。
「用はない、ということですよ。リトル・エレファントにも、愛、あなたにもね」
 僕の頭の中は混乱していた。愛にもリトル・エレファントにも用が無くなった? やはりもう愛のデータは必要ないということなのだろうか? 
「水郷、お前、まさか」
「そうですよ。完成したんですよ。アウトプットの装置がね。だからもうあなたからデータを取る必要は……ええ、ええ! もうないんです。あなたの見立て通りですよ。二十年分の……衰える前の人間の脳のデータはもう揃いました。もちろん、私はあなたを殺すつもりはありませんでしたよ。まだまだあなたには利用価値がある。まったく同じことができるコンピューターがあったとしても、それがもう一台あったところで、何も困ることはない。これからもあなたには働いてもらうつもりでした……アウトプット装置の、つまり、真のリトル・エレファントのサブマシンとして」
 愛の顔が歪む。サブマシン。その言葉は愛の心を串刺しにする槍のような言葉だった。
「少しお話をしましょうか」水郷は腕を組み、不敵な笑みを湛えてそう言った。
「愛には話したことがありますね。人間という生き物は、どこが他の生物と違うのか? どのようにして、食物連鎖の最高の地位を占めるような特別な要素を持ち得たか?」
「外部記憶装置」愛は呟くように言った。「人間は、人間自体について研究して、その知見を外部記憶装置に蓄積する……そして、それを次の世代に伝え、保ち、発展させることで文明を進化させた」
「ご名答」水郷は拍手を愛に贈る。「さすがですね。あなたは私の最高傑作だ。最高の記憶力に、最高の技術を持った知能でした。あなたは人工知能でした。例え人の体と心を持っていたとしても……そしてあなたは外部記憶装置そのものでした。リトル・エレファントという人工知能を完成させるためのね」
 愛の心がすり潰されていくのが手に取るようにわかる。そして僕のそれも叩き潰され、踏みつけられ、ゴミのようにあざ笑われている。
「私は、外部記憶装置……」
愛の顔からはもう表情というものが失われていた。ナイフを支えていた腕はだらりと下がり、彼女は壁に体を預けた。
「そう、そうですよ。あなたは外部記憶装置でした……人類が持ちうる最高の叡智、芸術という叡智をせっせと溜め込んだ優秀な装置だったのですよ。だが……やはり、小説は書かせるべきではなかったのかもしれない。ええ、愛、私は後悔していますよ。おかしいと思ったのですよ。お前が小説を好んで読み、書くようになってから……髪を染めたいとか、一人になる環境がどうしても欲しいとか、そういうことを言い出してからね……。小説は危険です。それはあまりに具体的に人生を投影しすぎている。それを作ることは、別の人生を空想することに相違ない。お前にはあり得なかった人生を妄想することに相違ない。だからあなたはこんなことをしたのでしょう」
 僕はてっきり水郷が愛に一人暮らしを薦めたものだと思っていた。愛はそう説明したはずだった。しかし本当は違うのだ。愛がそれを望んだのだ。彼女は僕が思っていたよりもずっと前から自由を望んでいたのかもしれない。
 水郷の言葉を聞いた愛は、力を失った体をもう一度立て直し、ナイフを持った腕をゆっくりと上げた。
 そしてその刃を自分の白い喉仏に突き立てた。
「愛!」
僕は体を動かそうとした。しかし僕の体は岩のように固く封じ込められていた。いくら前に進もうとしてもびくともしない。
「何してるんだ! 止めろ!」
 愛は水郷をまっすぐ睨み、こう言った。
「水郷、私は勘違いしていたよ。私が馬鹿だった。私は何か期待していたみたいだ。私は……私はお前のことを親だと思っていたよ。お前は私を生み出してくれたんだ。そのことは感謝している」
「それなら、その馬鹿な真似は止めなさい。さっきも言いましたが、お前には利用価値がある。殺すなんてことはしません。これからも働いてくれればいい。何も変わりません。もうアップデートはいらない。それだけのことです。お前はこれからもコンテンツを」
「夏雪」
愛は水郷の言葉を遮って、僕の方を向いた。二つの瞳からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。
「ありがとう。私は……死ぬよ」
 水郷は右手を内ポケットに滑り込ませ、取り出した物を愛に向かって突きつけた。それは黒い拳銃だった。
「愛、考え直しなさい。あなたが死ぬというのなら、私が殺してあげましょう。バグを消去するのは私の仕事ですから」
「ああ……」と愛は言い、天を仰いだ。
 そして叫んだ。
「私は、生きたいだけなんだ!」
 僕はこわばっていた体の力を一瞬だけ抜く。そうして僕の体と二人の男の間に力の差ができあがる。力の隙間ができたほんの一瞬、僕は肩の筋肉を思い切り内側に反らせて、両肘を全力で突き上げる。右肘――背の高い男の方――には何の反応もない。しかし、背の低い男の顎に僕の左肘が完璧にヒットする。背の低い男はその場に倒れる。力のバランスを失った僕の体は左に傾く。そして背の高い男は僕の右腕を逃してしまう。僕は全速力で駆け出して、水郷の後ろ五メートルくらいの場所に飛び出す。水郷はくるりと身を翻し、僕に銃口を向ける。
 僕は捕らえられた時からこの瞬間をイメージしていた。
 うまくいくかどうかなんてわからない。
 ビーバーズの頃からずっとそうだった。
 万全の体勢でシュートなんて打てたことがない。
 僕の足元には重さ約一.三キログラム、直径約十五センチメートルの球体が転がっている。標準的なサッカーボールに比べればあまりにも小さいが、重さは倍以上ある。威力に関しては申し分ないはずだ。両手を後ろ手に縛られた姿勢のまま、僕は左足をボールの左に踏み込む。濡れた鉄格子の床をしっかりと踏みしめる。大丈夫、ぎりぎり滑ってはいない。ミドルシュートにしては短すぎる距離だ。アウト回転を掛ける。キーパーのグローブだって弾いてしまうくらい強い強い回転を掛ける。そう祈りながら僕は右足を振り抜く。水郷は引き金を引く。愛の叫び声が聞こえる。
 右足を思い切り蹴り上げると、当然僕はバランスを崩してその場に倒れる。銃声が部屋じゅうに響き渡る。両手が縛られているから、左半身ごと床にぶち当たった。左耳のごく近くで金属が金属に激しくぶつかる高い音がした。僕は倒れこんだまま、シュートの行方を知ろうとする。こういうことが試合でよくあった。自分ではそのボールがゴールに突き刺さったのかどうかすぐにはわからない。歓声か溜息かで判別するしかないような瞬間だ。今はよく見えた。血を噴きながら後ろに倒れる水郷の姿をはっきりと確認できた。狙い通り、僕のシュートは水郷の顔面に直撃した。
 背の高い男が鬼のような形相で僕に飛びかかってくる。彼は意味不明の言葉を叫んでいる。僕は抵抗のしようがない。ああ、これまでか――そう思った時、黒髪の少女が男に向かって突進してくる。彼女は男の腹に抱きつくように飛びかかって行く。男は倒れ、少女は馬乗りになる。そして少女は――愛は――きらめく刃を男の太ももに突き立て、すぐに抜いた。声帯を捻られたようなうめき声が高い天井に吸い込まれていった。
「ラグビーみたいだ」僕は呟いた。「運動、苦手じゃなかったのかい?」
「心臓を刺してやろうかと思ったけど、それはできなかった」愛は僕の元にやってきて、血のついたナイフで手に巻き付いていたロープを切った。愛の喉には小さな傷があり、そこが少しだけ赤くなっている。「夏雪、急ぐぞ」
 僕は立ち上がり、ドアを開けて愛と一緒に部屋を脱出した。後ろは一切振り返らなかった。



「急げ!」部屋を出るなり愛は大声でそう言った。
 僕たちは廊下を走り、エレベーターの前に来た。しかしエレベーターの階数表示は一階を指している。
「階段だ!」愛はそう言って、エレベーターの横にある非常階段をのドアを開けた。
 僕はドアを閉じたが、あの背の低い男がすぐに追ってくることは予想できた。彼には肘鉄を喰らわせただけなのだ。
「夏雪、斧だ。斧でドアを封じてくれ」僕より先に階段を降りかけていた愛は振り返ってそう言った。「追いつかれて車のナンバーを見られたら意味がない」
 僕はリュックサックから斧を取り出す。
「でも、どうやって?」
「貸せ!」
愛は僕から薪割り用の斧をひったくると、「下がっていろ」と言った。
 愛は斧を振りかぶったあと、鋭く息を吸って、全身の力を刃に込めてそれを振り下ろした。刃が鉄を抉る残酷な音がした。
「これでどうだ」と愛は言った。斧の刃はドアノブの少し上のあたりから横の壁に渡って深く突き刺さっていた。確かにこれなら外側からドアを開けようとしてもびくともしないだろう。
 僕と愛は走って階段を降りた。そして外に出たのだが、そこは正面玄関ではなく、裏口だった。僕はどうやって本郷六丁目のパーキングまで行けばいいのかわからなかった。
 しかし愛は脇目も振らず住宅街を走って行く。かなり速い。一昨日サイゼリヤを飛び出してすぐに息を切らせていた少女とは思えなかった。
「あいつらはエレベーターで降りてくるだろう……これで多分撒けるはずだ……」愛は走りながらそう呟いた。
 愛の先導で僕たちはコインパーキングに着いた。愛を先に助手席に乗せて、僕は精算を済ませてから乗り込んだ。赤のアクセラ。震える手でシートベルトを締め、ルームミラーを確認してから、イグニッション・キイを回した。
「あとは……大丈夫なんだね?」僕は愛に尋ねた。打ち合わせ通り、行き先は大阪。
「もちろんだ。カーナビは私の頭の中に入っている」
 僕はアクセルを踏み、車を駐車場の外に出した。狭い道を通って白山通りに出て、水道橋まで南下した。そして後楽橋を渡ったあと、愛が口を開いた。
「このまま西神田の料金所から首都高速に入る。その前に一度どこかで路肩に停めてくれ」
 僕にはそもそも西神田の料金所がどこにあるのかわからなかったので、言われたあとすぐに車を停めた。左手に消防署が見えた。
 愛はシートベルトを外し、急に服を脱ぎ始めた。まず最初にダッフルコートを脱ぎ、それから白いセーターを脱いだ。そして最後にブラウスのボタンを外し始めた。
「ちょ、おい、愛、お前何を」僕はもう何が何だかわからなかった。一刻も早く高速に乗って逃げ出したいのに停まれというし、停まったと思えば服を脱ぎ出すなんて。「一体何のつもりだ!」
 愛はブラウスのボタンを半分まで開けると、コートのポケットからサバイバルナイフを取り出した。バッグの中からウェットティッシュを何枚も取り出して、血のついた刃を入念に拭き取った。そしてそのナイフの柄を僕に向けて差し出した。
「たぶんだが」愛はブラジャーを指差した。「左の胸のあたりに発信機が入ってるんだ。とても小さい」
「え、ちょっと待って。それって水郷たちに場所がわかってるってこと?」
 愛は一度だけうなずく。
「しこりみたいなのがずっとあるんだ。たぶんワイヤレス充電式の小型発信機だと思う。というかそれ以外あり得ない」
「……で、僕にやれって言うの?」
「自分でやるのは怖い。ほら早く、時間がないんだ。高速に入ってしまえばこっちのものだ。行き先はわかりやしない」
 僕は溜息をついてシートベルトを外す。そしてナイフを握る。愛の胸をじっと見つめる。
 触るよ、と確認するまでもなかった。確かに愛の左胸の上のあたりに、ほんの小さなこぶのようなものがあった。今更ながら水郷に激しい憤りを感じた。何故こんな酷いことをする必要があるのだろう。何故僕はこの美しい肌を傷つけなくてはならないのだろう。
 しかし、愛が言うように時間はなかった。愛は頬を赤らめて目を強く瞑っている。僕は左手で愛の右肩を握り、しっかりと固定してから、ナイフをそのこぶの上に当てた。我慢してくれ――そう祈りながら、円形のこぶの、上の部分を少しの力を込めて素早く切り裂いた。そこからは赤黒い血が滲む。そこに確かに銀色の金属の端が見えた。僕はこぶの下側を押して、その円盤を押し出した。
「これだ」僕は血のついた十円玉くらいのサイズの発信機を愛に手渡した。愛は深呼吸しながらそれを受け取り、窓を開けて消防署の駐車場に投げ捨てた。
「痛くなかった?」僕はナイフを愛に渡す時に訊いた。
「すごく……痛かった」愛はウェットティッシュで傷口と刃を拭いた。「でも、ありがとう。私ではたぶんできなかった」
 愛はセーターを着ると、シートベルトを締めた。僕もシートベルトを締めて、車を発進させた。西神田の料金所はすぐだった。そこから僕たちは西へ向けて長い旅を始めたのだった。



 僕たちは何も喋らなかった。音楽も掛けなかった。ラジオも聴かなかった。黙々と高速道路を大阪に向けて走っていた。静岡のサービスエリアが近づいた時、愛はそこで休もうと言った。そこで僕は初めて時計を見た。午後三時になっていた。
 駐車したあと、まずトイレに行った。そこで鏡を見て、自分がいかにひどい格好をしているかを知った。ルームミラーで顔が煤や火傷で汚れているのは知っていたが、服の汚れと合わせて全身を見ると悲惨としか言いようがなかった。ジーンズは破れていたし、靴には血がこびりついていたし、ピーコートはところどこが焦げていて、ボタンがひとつ外れていた。しかし何より傷を何とかしなければならなかった。服の上からとはいえ無数の火花を浴びたせいで、いくつか火傷ができていた。切り傷も多かった。シャツをめくってみると、右腕は紫色に腫れ上がっていた。
 僕と愛はまずコンビニエンスストアで消毒液とガーゼと絆創膏を買った。その次にベーカリーでパンと飲み物を買った。僕も愛も車を降りて初めて空腹に気がついたのだった。
 アクセラに戻ってまずは治療をした。愛は喉仏に絆創膏を貼り、胸の傷を消毒した後、ガーゼを当ててそれをテープで止めた。痛々しい光景だった。火傷を冷やすにはもう遅かったが、僕は気休めに消毒液を塗って体のあらゆる部分に絆創膏を貼った。ひと通り傷の手当が済んだ後、僕たちは食事をした。もそもそとパンを食べた。空はオレンジ色に染まっていた。食事のあと、どちらから言うともなくシートを倒し、それぞれの席で眠った。
 深い眠りだった。夢のかけらさえ覚えていない。目が覚めたのは九時半を少し回った頃だった。辺りは真っ暗だった。大阪に着くとしても深夜になってしまうだろう。愛は静かな寝息を立てて眠っている。僕は自動販売機でブラックコーヒーを買った。しばらく散歩して頭を完全に覚ました後、アクセラに戻ってなるべく静かに発進した。
 夜の高速道路を走りながら、僕は愛の今後について考えていた。睡眠とコーヒーのおかげで多少はまともなことを考えられる頭になっていた。巨大な耳かきのようなライトが投げかける橙色の光をぼんやりと見ながら、愛が自分の家にいるところを想像した。まず説得しなければならないのは母親だった。何と言えばいいのだろう。普通に考えて歓迎されるはずがなかった。どうやって説明すれば愛の存在を信じてもらえるのだろうか。家出少女と言うわけにもいかない。しかし戸籍も何もない人間と言うのも気が引けた。
 いっそのこと、僕が一人で愛を引き取ろうかと思った。大学院には行かず、弓削と一緒に就職活動をして、適当な会社に就職して、愛と二人でどこかで暮らしていくのだ。そうすれば僕は愛を守ることができるはずだ。そして愛は自分の名前で作品を発表すれば良い。水郷たちが何と言ってくるかはわからない。いや、待てよ。本当に守れるのか? 水郷が愛に銃口を向けたところを思い出した。水郷は愛を殺すかもしれない。今度は本気で殺しに来るかもしれない。水郷は僕の大学の名前を知っている。追って来ようと思えばできないわけじゃない。むしろ彼らにとってそんなことは朝飯前だろう。その場合は口止めに僕が殺されることも確実だった。このまま愛と逃げ続ける生活をしなければならないのだろうか? いや、オーストラリアに逃げるという手もある……。サイゼリヤで空想していたような楽観的な観測はことごとく打ち砕かれていった。
「音楽を掛けてもいいか?」
 愛はいつの間にか目を覚ましていた。僕は愛の声に驚いて急にアクセルを踏んでしまった。
「おいおい、どうしたんだよ」愛はにっこりと笑ってそう言った。おかげで不安な気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。澄み切った笑顔だった。何も心配していない純粋な笑顔だった。
「いや、寝てると思ったからさ」僕は目線を前の車にしっかりと固定して言った。
「音楽、掛けてもいい?」と愛は言った。
「構わないよ」
 愛はバッグの中からiPodを取り出して、カーオーディオに接続した。スピーカーから流れてきたのは遅いテンポの明るい曲だった。どうやらクラシック音楽らしいが、僕の知らない曲だ。高い声の女性が何語かはっきりしない歌詞をゆったりと歌っている。歌はさざ波のようなフルートと弦楽器の優しい伴奏で区切られている。言葉の一つ一つが光でくるまれているような神々しい曲だった。
 僕と愛は黙ってそれを聴いていた。二分ほどの短い曲だった。愛はそれをリピート再生にしていた。
 そして二回目は愛が自分で歌い始めた。

 In trutina mentis dubia
 fluctuant contraria
 lascivus amor et pudicitia

 Sed eligo, quod video
 collum iugo prebeo
 ad iugum tamen suave transeo

 気が付いた時には涙を流していた。それも両目からありったけの涙を流していた。鼻水も出ていた。全身に鳥肌が立ち、それが途切れずにずっと続いて、体中の血液が振動しているようだった。そんな音楽を聴いたのは――いや、そんな経験をしたことは今までになかった。
「運転できないじゃないか」僕は鼻をすすりながら苦情を言った。「すごい綺麗な音楽だ。それに、すごい綺麗な声だね。そんな声が出せるなんて知らなかった」
 普段の愛の声は低いのに、彼女はソプラノの音域を当たり前のように歌った。シークレット・ガーデンで弾いてくれた愛のショパンの演奏を思い出した。彼女は本当にあらゆる芸術に通じているのだった。
「ソプラノが一番好きなんでね」愛はいつも通りの低い声でそう言った。
「何て曲名なの?」
「イン・トルイティナ・メンティス・ドゥビア」
「何て意味?」
「揺れ動く心の天秤の中で」愛はオーディオを一時停止にして、歌詞の意味を説明してくれた。

 揺れ動く
 心の天秤の中で
 淫らな愛と 淑やかな愛が
 反発し合っている

 それでも私は
 私が見るべきものを選び
 従うべき支配を選び
 やがて甘い支配に屈してゆく

「と、まあこんなところだ。あんまり訳に自信はないがな」と愛は言った。
「何語なの?」
「ラテン語」
「読めるの?」
「まあ一応」
「そりゃすごいな」
「カルミナ・ブラーナだよ」
「え?」僕にはその単語の意味がわからなかった。
「とても古い歌なんだ」愛はそう言うと、再生ボタンを押した。
「それより夏雪、私はちょっと寝過ぎたらしい。腹が減ったな」
目についた小さなサービスエリアに入って夕食を取ることにした。新城という地名だった。午後十一時だった。パンを食べてから七時間くらいは経っていた。そこはどうやら愛知県らしかった。
 しかしそのサービスエリアにレストランは一軒しかなく、おまけに八時で閉店になっていた。仕方なくコンビニエンスストアに入って弁当を買った。店内にはクリスマスのありとあらゆる装飾が溢れていた。
「なあ夏雪、ケーキ買ってくれよ。クリスマスにはケーキを食べるんだろう?」愛は僕の腕を掴んでそんなことを言う。随分リラックスしたものだと感心する。弁当にケーキを載せてレジへ向かう。
「あと、これも」愛は歯ブラシのトラベルセットを二つ載せた。「甘いもの食べたら虫歯になるから。夏雪も磨けよ」
「僕は持ってるから」一つを戻してくるように愛に言った。そういえばもともと僕は函館に行くつもりで旅行の準備をしたのだった。関空を飛び立ったのがほんの四日前の出来事とは思えなかった。もう一ヶ月くらい家に帰っていない気がする。
 そのコンビニには店内に幾つかテーブルと椅子があり、そこで食事をすることができた。少々寂しい気はしたが、車の中で食べるよりかはましだった。僕と愛は弁当とケーキを食べた。そしてトイレで歯を磨いてからアクセラに戻った。
 シートベルトを締め、ルームミラーを確認したあとで、愛が「見て」と言った。彼女は助手席の窓の外を指さしている。
「雪だぞ。ちゃんと愛知でも雪は降るんだな」
 愛は曇ったガラスを手で拭いた。確かにそこから白い雪の粒がぽつりぽつりと見えている。車内灯の淡いオレンジの光に照らされた愛の頬は紅潮していた。まるで子供みたいに雪を喜んでいる。
「そりゃどこだって降るよ。北海道ほどじゃないけどね」
僕は車内灯を消して、イグニッション・キイに手を掛ける。
 その手を愛が握ってくる。
「夏雪……」
愛は僕をじっと見つめている。彼女はシートベルトを締めていなかった。
「どうしたの?」彼女は思いつめた表情をしている。「何か……心配?」
 愛は黙って首を振った。車内灯を消してしまうと、車の中に入ってくるのはサービスエリアの頼りない街灯の光だけだ。愛の琥珀色の目はその少ない光を反射してきらりと輝いていた。
「あの……明日、ほら、私の誕生日なんだ」愛は僕から目線を逸らしてそう言った。「明日、っていうか、あと一分だけど」
 僕は腕時計に目をやった。確かにあと一分でクリスマスだ。そしてそれは愛の誕生日だった。すっかり忘れていた。
「あ、そっか。えっと、いくつだっけ、そうだ、二十歳だよな、二十歳だから……」僕は慌てて取り繕った。しかしプレゼントなど用意していない。
「キスして」
「え?」
「キスが欲しい」
 愛は潤んだ瞳で怒ったように僕を睨むと、ゆっくりと身をこちらに乗り出してきて、その細い腕を僕の首に回す。長い十本の白くて冷たい指が僕の頬を撫でる。僕の火傷の跡を撫でる。彼女は燃えるような瞳で僕の心を焼き尽くそうとする。耳の奥が熱く重たくなり、あらゆる音に対して敏感になるのがわかる。そしてまばたきの音さえ逃さなくなる。雪の降る音さえ逃さなくなる。愛は目を瞑って顔を近づけてくる。ミントの歯磨きの匂いがする。僕たちは雪に囲まれている。冬の雪に囲まれている。僕は愛の頬に触れる。そしてその唇に唇を重ねる。
 それは純粋なキスだった。混じりけのない雪のようなキスだった。特別な意味のないキスだった。僕の唇がさやかの唇から愛の唇に至るまでに描いてきた途方もない距離を想像した。それは日本とオーストラリアの距離に等しいはずだった。そのキスはあらゆる呪いを解くキスだった。シドニーの夜景はいつの間にか愛知の寂しいサービスエリアに置き換わっていた。死の味のするキスはようやく呪いから解放されたのだった。僕は僕を許すことができた。僕はさやかを慈しむことができるようになった。それはすぐに僕の罪を思い起こさせた。僕がさやかに対して行ったひどい仕打ちを思い出させた。でもキスはその罪さえ洗い流してくれた。あらゆるものを凍らせてそれから溶かしてゆく魔法のような唇だった。父の記憶が癒やされていった。父の死が癒やされていった。僕の胸に潜んでいたあらゆる痛みは白い雪の光に包まれて優しさの姿を真正面から捉えることができるようになった。そしてそこには愛がいた。愛は僕にとって許しであり癒やしであり――そして愛情そのものだった。
 僕の唇が愛の唇を離してしまった時、時計の針は十二時を指した。僕は言った。
「ハッピー・バースデー」
 暗闇の中でも愛の口の角が恥ずかしそうに二ミリほど持ち上がった音を聴き取ることができた。それはとても幸せな微動だった。だがその笑顔は最後まで続かなかった。
 次の瞬間。
 愛の顔が歪んでいく音が聞こえた。
 愛は声にならない声で叫んだ。
 愛は頭を抱えて助手席のドアに体を打ち付けた。そしてそのままシートに沈み込み、体を震わせ、頭を掻きむしり、悲鳴を上げ続けた。
 それは十二月二十五日が始まったことの合図だった。

第六章

2010/12/25



 僕はすぐ車内灯を点けた。愛はさっき曇りを拭いた窓に後頭部を打ち付けて、額のあたりを両手で強く押さえていた。彼女は悲鳴を上げ続けている。僕はシートベルトを外し、愛の両肩に手を置いて「どうしたんだ」と尋ねた。愛は首を横に振った。額から血が流れていたり、変色したりしているわけではなかった。その時に初めて、愛の黒い髪の毛の根元の部分が金色になっていることに気がついた。水郷が「髪を染めたいと言ったあたりからおかしくなった」と恨めしそうに呟いたことを思い出した。そしてそのタイミングで左のポケットに入れていたスマートフォンが震え出した。それは水郷からの着信だった。
「愛は今どうなっていますか」彼は挨拶もなくそう言った。僕が説明することはなかった。電話を通して、水郷にも愛の絶叫は間違いなく届いていた。
「これは警告の痛みです」と水郷は言った。その声からは感情が一切読み取れない。
「警告?」
「そうです。月に一回のアップデートは、リトル・エレファントだけのためのアップデートではないのです。ええ、それは、愛のためのアップデートでもあったのです」
「どういうことだ?」
「解毒ですよ」水郷はそう言ったあと、咳払いをした。「愛の頭の中にはジェル状のマイクロチップが入っていることはご存知でしょう?」
「それは……愛から聞いた」データ送信用の小型コンピューターだと愛は説明していた。
「もちろん、私たちは愛が逃げるかもしれないということを予測していました。ええ、恐れていましたよ……何せ彼女の存在が明らかになれば我々は窮地に立たされる……そう、だから、そのために準備をしていたわけです。月に一回のアップデートに愛が来なくなれば、それは逃げたと判断する。その場合、情報は抹殺する必要がある。愛が世界のどこで野垂れ死のうと誰も彼女のことなど知らない。記録も何もないのだから……。
 ちなみに今、マイクロチップからは微弱な電流が放出されています。やがてそれは愛の生命を奪うようにプログラムされています。誰かに奪われたり、私たちの犯罪が露見したりしないようにね」
「そんなのどうだっていい! どうすれば愛を――」
「月に一度。自動的に死ぬように。愛は情報だから」電話の向こうの水郷が笑った気がした。感情のゆらめきが全く感じられないあの微動。笑うという言葉すら適切ではない筋肉の動き。「本庄さん、あなた今どこにいるんです?」
「愛は情報じゃない! 人間だろうが!」僕は強がってそう言ったが、ダッシュボードに顔をうずめて苦しんでいる愛を目の当たりにして、場所を白状してしまいそうになる。
 僕と水郷の間に沈黙が訪れる。愛の悲鳴が止んだ。ただ小刻みに肩を揺らしている。
「……戻ってくれば、愛に更新プログラムを注入することは可能です。そんなに遠くには行っていないのでしょう? 電話がこうして繋がるということは、少なくとも日本にいる」
 その時、愛が呻くように言った。
「その……いまいましい……電話を……! 切れ、切ってくれ!」
 彼女の微かな声は水郷にも聞こえたらしい。彼は「よく考えて」と言って電話を切った。


 愛の呼吸は乱れていた。彼女は何度も深呼吸をして、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を両手の指で梳かした。そしてそれからシートにぐったりともたれて、額に右手の甲を当ててから口を開いた。
「大丈夫……少し落ち着いたらしい……」
「愛、水郷は、これは警告だって言って――」
「心配する必要はないよ」愛は芯の通った声ではっきりと言った。「私は水郷のところに戻るつもりは全くない」
「でも、その、水郷は……」
「私が、死ぬとでも言ったんだろう?」
愛は首をこちらに傾けて、僕を見つめてそう言った。
「大丈夫。助かる方法ならちゃんとある」
「助かる方法?」
「そう……せっかくこうして自由になったんだ。捕まってたまるか……夏雪、一つお願いがあるんだ」
「その、助かる方法って何なんだよ」
「お前は心配症だな」病人のように白い顔で愛は微笑んだ。「心配しなくていい。ちゃんと治るさ……こんなもの」
「それで……その、お願いって?」
「お前の、夏雪の好きな場所に連れて行ってくれ」
「え?」
「どこでもいいよ。大阪でも、どこでも……とにかく、お前が一番好きな場所だ。お前が一番気に入っている景色のある場所だよ」
「僕の? 君の好きな場所じゃなくて?」
 それを聞くと、愛は何かを諦めたような表情をして、それから首を横に振った。
「私に、好きな場所なんてないよ。この世界には」彼女は額に置いていた右手を膝の上に置いた。「漫画喫茶で、あの漫画を……何と言ったかな。あの少女漫画を読んだ時に、思ったんだ。好きな場所がある人は幸せだなって。私にはそれがないから。だから、夏雪の好きな場所に連れて行ってくれ。そこなら……そこならきっと私も好きになれるよ」
「何言ってるんだよ」僕は首を何度も横に振った。「そんなことしてる場合じゃないだろ、病院に連れて行くよ、どこか救急の――」
「そういうレベルのことじゃないんだ」愛はきっぱりと言った。
「わからんが……これは脳に直接作用してるんだと思う。何か手術をして取り除こうとしたって無駄だよ。何かいじった時点ですぐに私を殺すようにプログラムされているはずさ。そんなことを水郷は言っていなかったか?」
 僕は何も言えなかった。水郷は言った。それはやがて愛の生命を奪う、と。どれだけ時間が残されているかはわからない。水郷の元に戻るか、死んでしまうかの二択しかないのだろうか? そして愛は後者を選ぼうとしているのか?
「いいから連れて行ってくれ」そう言うと愛はシートベルトを締めて、僕に背中を向けてシートに横になった。
「私はしばらく休むよ。痛みには慣れてきた……そう、人は痛みには慣れていくものなんだ」



 あまりに突然のことでしばらく脈が落ち着かなかった。僕は何度か深呼吸したあとで、ナビをつけて目的地を入力した。愛がいつまた痛み出すかわからないから、高速を使うのは危険だった。車を走らせ、豊川インターチェンジで下道に降りた。しばらくすると愛が停めてくれと言い、彼女は後部座席に移った。
 午前零時を過ぎたあとの道路では、まだ時々車とすれ違うことがあった。それはクリスマス・イブの夜で、クリスマスの夜でもあった。対向車線を走る車のライトと、華やかなネオンの看板の他には光がなかった。雪はいつの間にか止んでいた。
 すべてが馬鹿げていた。水郷も愛も馬鹿げている。なぜ愛を殺す必要がある。なぜ愛は助かろうとしない。僕がこれから連れて行く場所の景色を見れば、全てが嘘だったみたいに解決すると思っているのだろうか? いや、それとも本当は全て嘘なのか? しかし、あの痛みようが嘘とは思えなかった。水郷が言っていることが嘘なのだろうか。本当は死に至るようなものなのではないのかもしれない。水郷が僕を脅すために、愛を取り返すためにそう言っているだけなのかもしれない。本当はあの警告だけで終わりなのかもしれない。愛はそれを全部知っているから、「夏雪の好きな場所に行ってくれ」などという呑気なことを言っていられるのかもしれない。だから少女漫画の内容を真に受けたような冗談を飛ばせるのかもしれない。
 愛は、フィクションと現実の区別がついているのだろうか? そんな不安が急に頭をもたげてきた。
 いや、僕だってその区別がついているのか?
 またイケリが僕に語りかける。

「もしあなたが見ているこの世界が現実だと思われているなら、それは深刻な勘違いであるということをまず申し上げなければなりません」

 そう。これは深刻な勘違いに他ならないのだ。現実と思っている全てのことは勘違いなのだ。僕は今現実を生きていると思い込んでいるだけの話なのだ。
 しばらく走ると、「くすり」の表記があるコンビニを知らせる看板に出会ったので、僕はその矢印が示す方向に道を曲がり、広い駐車場に車を止めた。愛は後部座席で横になっていた。僕は一人で外に出た。車から店までの道が妙に寒く感じられた。コートを助手席に置いてきたせいかもしれない。僕は駆け足で店の中に入っていった。
 明るい店内は駐車場と同じくらい広々としていた。眠たそうな顔をしたぼさぼさ頭の男の店員がいるレジの後ろには煙草の陳列棚がある。そしてその左隣に薬が並べられた棚があった。しかしそこには黒い網がかけられている。
「鎮痛剤が欲しいんですが。バファリンでも、ロキソニンでも何でもいいんですが。連れの頭痛がひどいんです」と僕は言った。
 その店員は茶色に染めたスチールウールのような髪の毛に覆われた頭をぽりぽりと掻いてから言った。
「すいません、登録販売者がいないとお売りできないんです。午後八時で薬は終了なんです」
 急にどす黒い怒りが心の底から湧いてきた。そんなことはわかっている。網がかかっているのは僕にも見えている。
「その、そこを何とかお願いできませんかね。とても苦しんでいて――」
「すいません」店員はきっぱりと言った。
 お前に何がわかるというんだ、いいから売れ、と言いそうになる気持ちを抑えて、僕は男の前から立ち去った。この男に八つ当りしても何にもならないのだ。僕は怒りを抑えるために店内をぐるりと一周したあと、水のペットボトルを一本選んでレジに持っていき、一万円を出した。「これしかなくて」という嘘を吐いた。男はあからさまな舌打ちをした。僕はさっさと店をあとにした。
 車に戻ったあと、僕は水のペットボトルを愛に差し出した。彼女は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。暖房をつけていたのだが、愛はダッフルコートにくるまってがたがたと震えていた。僕は暖房を一段階強めて、再び車を発進させた。
 東海道をひたすら西に走った。時折ルームミラーで後部座席の様子を窺った。愛はただ横たわっているだけだった。ミラーだけでは満足の行かない時には車を停めて休憩した。その度に愛はペットボトルの水を口に含み、弱々しい笑顔で「大丈夫だ」と言った。
 僕たちは何も話さなかった。iPodはオーディオに繋がれたままだったが、誰も再生ボタンを押そうとしなかった。大津に差し掛かったあたりで夜が明けた。しかし太陽は分厚い雲に隠されていて、ただ闇が少し薄くなっただけだった。瀬田川に架かった橋を渡る時に、愛は体を起こして窓の外にある琵琶湖を眺めた。頭上の表示板に書かれてある「京都」の文字がうっすらと見えた。
 山科を抜け、五条大橋を渡る頃にはあたりが明るくなってきていた。街のところどころには雪が積もっている。それから河原町通りを四条、三条、今出川と北上し、葵橋を渡って北山を過ぎた頃に朝の雪が降り始めた。住宅地を抜けてようやく天通寺に着いた。僕は車から出て空を見上げた。ねずみ色の雲がのしかかってくる。雪は途切れずに降り続けていた。



 愛は自分では立ち上がれないほどに衰弱していた。
「着いた……のか?」
震える声で愛は言った。後部座席のドアを開けるなり触れた彼女の手は恐ろしく冷たい。
「痛みはない」と愛は言った。そのことは僕を少しも安心させはしなかった。僕は彼女をおぶって、雪の中を歩いて行った。手は冷たいのに、僕の耳にかかる彼女の息は熱風のようだった。
 境内を進み、本堂の引き戸をどんどんと叩いた。中から住職の声が戸越しに飛んできた。
「えろうすんませんな。拝観は十時からなんですわ」声を張り上げて住職は言った。
「僕です! 本庄です!」
「なんや、夏雪はんかいな」住職が立ち上がり、足袋が床を踏む音が近づいてくる。
「開けてください!」
 かちゃりという鍵の開く音がしたあと、本堂の引き戸は滑らかに開いた。そこにはいつもと変わらない黒い法衣を着た住職が立っている。
「どうしはったんや、こんな早うに。まだ八時やで」そう言った後、住職は僕が背中に背負っている少女を見て眉根に力を込めた。「うしろの子は?」
「あの……庭に通してもらえませんか」
「え?」
「死にそうなんです!」住職の顔をじっと見つめる。
「死にそうて……ここは病院やあらへんで……」
「違うんです」僕は自分の足元に目を落とす。そして背中に感じる小さな体の熱さと重さを思う。「最後に……見せてやりたいんです」
 最後という言葉は驚くほど自然に僕の口からこぼれ落ちた。僕は顔を上げた。住職は口を開けたまま、哀れなものを見るような目で僕たちを見据えていた。僕は「失礼します」と言って靴を脱ぎ、住職の横を通って庭へと進んだ。
 昨日の夜、京都にはたくさんの雪が降ったのだろう。枯山水の苔には雪が敷き詰められたように積もっている。緑を欠いた庭の景色はいつも以上に寂莫としている。雪の白と、岩の灰色と、枯れ木の茶色の向こうには陰鬱な空の鈍色があった。間断なく雪は庭に吸い込まれていく。苔の匂いは澄んだ冬の香りに閉ざされている。遠くに見えるはずの比叡山の鋭い頂上は、雪をもたらす分厚い雲に隠されていた。
「ここが僕の一番好きな景色だ」
 僕は堂の端で庭に向けて足を伸ばし、太腿の上に愛の頭を載せた。愛は首を傾けて庭の景色を見ようとしている。その目からは光が失われていた。ひとひらの雪が愛のこめかみに落ちてすぐに溶けた。
「不思議だな……とても綺麗な音楽が聞こえるよ……」
 雪の降る音さえ聞こえない静寂の中で愛はそう呟いた。
「とても美しい音だ……この景色が語りかけてくるみたい……なあ、どんな景色なんだ?」
 愛はそう言った。
「見えてないのかい?」
 彼女はゆっくりと首を縦に動かした。
「嘘を吐いても仕方ない。もう見えていないんだ。でもわかるよ。ここはとても美しい場所だ。ここは私も好きになれる。なあ、夏雪……」
 愛はそう言ったあと、庭に向けていた視線を僕の顔に移した。
「夏雪……いい名前だな。私が知っているどんな名前よりも美しいよ。青い薔薇、冬の桜、永遠の命、何だっていい、そして夏に降る雪。それは不可能の象徴だ。私は……私は、お前に会えて良かったよ。お願いばかりですまないが、もう一つだけ……」
「何?」愛の頬に一滴の涙が落ちる。僕はすぐにそれを拭う。
「もう一度、してくれないか?」拭ったあとの頬が紅く染まっている。
「何を?」
 すると愛は目線を庭に向けて紫色の唇を丸めた。
「馬鹿だな、小説だったら、そんなの女には言わせないぞ」
 白い頬に両手を掛けて、横を向いた愛の首をゆっくりと回す。そして乾ききった唇に僕はゆっくりと口づけをする。その瞬間、彼女の体がびくりと震えるのが伝わってくる。唇を離したあと、彼女の瞳には遠くの星が投げかけてくるような光が宿っている。
「これでキスはわかる」と愛は言った。
「私はキスを知った……私は、胸も触られたしな」
「冗談はやめてくれよ」と僕は言う。愛はくすくすと笑う。
「これで、恋愛小説が書けるよ。夏雪、私は生まれてきてさ、小説を書けてよかったなと思ってるんだ」
 愛はかすれた声でそう言った。
「私はやはり、書くために……生まれてきたんだと思う。たとえ作られた人間だとしてもだ。たとえ、私が人工知能の代わりだったとしてもだ。私は……たくさんの、小説を読んだ。どれもが素晴らしかった。それのおかげで、たくさんのものやことを知ることが……いや、知ろうとすることができた。キスも……恋も。どんな気持ちになるのか、それを小説の登場人物みたいに、知ろうとすることが、知りたいと思うことができたんだ。それが私を生かし続けて……そう、生かし続けてくれたんだと思う。今、そう思うよ。ああ、わかった。そうだ。機械は、リトル・エレファントはさ、夏雪。知ることもできるし、今は作ることもできるようになった。でも、知ろうとすることは絶対にできないんだ。それに、今私が感じているこの気持ち……どんな気持ちか、説明する言葉はたくさんある。リトル・エレファントだって言葉はいくらでも作り出せる。でも、いくら百万の言葉を持っていたとしても、言葉にならない本当の気持ちはわからない。言葉の奥に潜んでいるものの正体はわからない。それは知ろうとして初めて手に入れることができるものだから。わかるか?」
 僕は涙を押しとどめる代わりに何度もうなずいた。絹のような手触りのする愛の細い髪の毛を何度も撫でた。そうでもしなかったら何かがぽきりと折れて涙に沈んでしまいそうだった。
「わかる、わかるよ」僕は喉から声を精一杯絞り出してそう言った。
「そうだろ? ……うん、そうなんだ。私は――」
 愛の息が少しずつ荒くなってくる。呼吸は深く、早くなる。大げさなクレッシェンドを聞いているみたいだった。そして愛は初めて顔をくしゃくしゃに歪めて子供みたいに泣きじゃくった。
「現実は、現実は残酷だなあ……夏雪!」嗚咽の勢いのままに愛は言葉を継いだ。
「その言葉の意味がようやくわかったよ! 漫画のようにはいかないんだ! ああ、ああ……私は、今から死ぬんだ。それがわかるんだ。不思議な気分だ……ああ、このことを書けたらいいのに!」
「もう喋らなくていい!」僕は声を荒らげた。目の前がぐしゃぐしゃに濡れていた。愛の顔はほとんど見えなくなっていた。でも僕の声はもう愛の耳には届いていなかった。
「かれ……さん――す……い、水……イケリ、カルディ・イケリ」愛はうなされたように呟いた。
「もういいって! 止めろ!」
 僕は言う。しかし愛は寝言のように回らない舌で言葉を吐き続ける。
「悲しい……みず―み? ……そこ……雪が……――冬の――き……が……。いや、なあ、オーストライ……は…い…夏なん――ろう……? じゃあこれだって……これ……あって……かゆ…――だ。私は――……夏雪い――包ま――なが……―あ……死ん……え……」
「しっかりしろ! 愛!」
 僕は涙を拭って愛の肩を両手で強く揺さぶる。愛の朦朧とした意識を覚ますために。僕の言葉を、音を失った耳に届けるために。
「なあ、君はもう聞こえないかもしれない。僕は、君に会えて良かったよ。君の小説を読めて良かった! そして……君を愛することができて良かったよ。聞こえるか? 愛、なあ、聞こえるか?」
 愛は目を閉じて微笑んだ。鼻から息が漏れていた。何だか照れくさそうな笑い方だった。
 そして彼女は明るく輝く目を開いて、何かを言おうとして口を開けた。
 その表情のまま、愛は首をだらりと傾けて絶命した。

第七章

2010/12/25-2011/01/04



 純粋に吐き気がする。
 僕は誰かに肩を揺さぶられていた。吐きそうになるくらい激しく揺さぶられていた。眼球の奥がぶれている。喉がひどく痛む。誰かに口から長いヤスリを突っ込まれて削られたような感じがする。そして傷ついた喉の奥にある酸っぱい香りが昇ってきて、口と鼻孔いっぱいに広がっている。顔中の穴から何かが溢れだしている。
「夏雪はん! 夏雪はん! しっかりせえ!」
 その誰かは僕の両頬をぴしゃりと叩く。それで目の焦点がようやく合致する。僕の水晶体が捉えたのは皺をいっぱい刻んだ老人の顔だった。それは天通寺の住職だった。
「夏雪はん……これは……どういうこっちゃ……」
 僕は自分の太腿から膝にかけての皮膚を圧迫しているものの正体を知る。それはある美しい少女の亡骸だった。もう重力に逆らう必要のないその頭には、古い記憶を封じ込めた琥珀のように、寂しく輝く二つの瞳が嵌めこまれている。その煌めきは僕の顔を捉えたままだった。
「愛……」
 そう、愛という名前の少女なのだ。二十歳になったばかりの――だから僕は彼女のことをもう少女と呼ぶべきではないのだろう。女と呼ぶべきなのだろう。かつて女はこう言った。この国では、二十歳が大人になったと認める年齢なのだと。
「閉じてやりなはれ。瞼を」住職は僕の傍らに立ったまま、しっかりとした口調で言った。
 僕は右の掌を愛の顔にかざす。左目の瞼を、睫毛に触れないようにゆっくりと閉じる。厳粛な二重瞼。その柔らかさとは裏腹に肌は冷たかった。続いて右の瞼も同じようにして閉じる。このようにして愛の世界は永遠の闇に閉ざされてしまった。
 住職は僕の隣に正座して、一度大きく溜息をついた。
「さ、夏雪はん。話してくれや。何があったんや……」
 僕は可能な限り冷静に全てのことを話した。僕がここで『奥の席を座れ』を読んだ時のことから順番に話していった。何かを話せる気分ではなかったが、場所の力が僕を促した。僕が喋ったというより、僕の中にある何かがそれを語ることを欲していた。僕の声を借りてそれは語られた。そして語り終える頃には、自分でもそれが現実に起きたことなのだということが理解できるようになっていた。
 住職は腕を組んで時折「ほう、ほう」と相槌を打ちながら聞いていた。そして一度も疑問符を口にしないまま、最後まで――つまり今ここにある死についての説明まで――聞くと両手を叩いた。その高い音は堂いっぱいに響き渡った。
「よっしゃ、あとのことはぼんさんに任しとき」
 住職は僕の肩に手を置き、歯を見せて笑ってそう言った。
「心配せんでエエ。夏雪はん、アンタは帰って飯食うて寝なさいな。ひどい顔しとるで。休みなはれ。ほんで落ち着いたらまたおいで。この子に会えるようにしといたるさかい」
 住職に付き添われて境内まで出た。雪は止んでいた。それどころか晴れていた。雲の割れ目から朝日が降り注いでいた。雪の溶けていく匂いが鼻孔を突いた。それは名前のない透明な匂いだった。赤いアクセラの前まで歩き、あとは大丈夫だからと住職に言った。自分の声じゃないみたいだった。住職は僕を力一杯に抱きしめた。自分が棒切れか何かになってしまったような気がした。住職と別れてからすぐに運転席のドアを開けて座った。
 もう一度泣くことにした。ハンドルに両手をついて、アクセルとブレーキに向かって泣き続けた。そしてこれを最後にもう泣きはしないと誓った。なぜだかわからないがそうなるという予感があった。ここが底なんだ。ここが最悪なんだ。その分今は心と体が求めるだけ泣こうと思った。鼻水と涙と嗚咽にまみれながらイグニッション・キイを回した。エンジンが温まるまで泣き続けた。そして水分と声が枯れ果てたところで、エンジンブレーキを解除してゆっくりとアクセルを踏んだ。
 僕は来た道をそのまま辿った。アクセラを借りたレンタカー会社の看板を川端五条で見つけなかったら、僕は大阪まで行ってしまったかもしれない。僕は二万円を余計に払ってレンタカーを返却した。
 愛のバッグも僕のリュックサックも恐ろしく重たかった。京阪の五条駅までは短い距離だったが、一歩歩くごとに吐きそうな気持ちになった。僕は地下駅に続く階段へ降りる前に、鴨川に続く石段を降りた。そして朝の鴨川に向かって吐いた。橋の上からは酔いつぶれた若者が嘔吐しているのだという風に見えたかもしれない。しかし僕の口からは何も出てこなかった。僕が吐き出したのは純粋な吐き気だけだった。
 五条駅に滑り込んできた鈍行に乗った。人はあまりいなかった。その車中ではずっと目を瞑って眠ろうとした。昨晩は一睡もせずに車を運転していたのだった。しかし僕に与えられたのは浅い眠りでしかなく、それは電車が駅に着く度に中断された。
 自宅の最寄り駅のホームから降りると空は完全に晴れていた。雪の匂いも雲の影もなかった。そこには普通の世界の通常の朝があった。そのことは僕を揺さぶり続けた。道を行く人や、枯れ葉の詰まった側溝や、くたびれた電信柱や、吠え立てる犬や、遊びに出掛ける小学生の集団さえもが――ありとあらゆるすべてが――僕を非難しているような気がした。
 家に母の姿はなかった。仕事に行ったらしかった。僕はそのことに感謝した。何も喋りたくなかったし、何も訊かれたくなかった。部屋に戻って荷物を降ろし、それから服をすべて脱いで毛布にくるまって眠った。やがて深い眠りが僕を捉えた。夢が紛れ込んでくる余地のない完璧な眠りだった。



 それからの一週間をどのように過ごしたのかあまり覚えていない。何を考えたのか、何を見ていたのか、何を聞いていたのかを思い出せない。トイレに行くのを除けば部屋から一歩も出なかった。母親は何かを察したらしく、黙って一日に一回お粥を作ってドアの前に置いてくれた。
 七回目の夜が明けた時、それが新しい年の始まりであることに気が付いた。
 その年の一回目の朝日が射してきた時、僕はようやく体をまともに動かす気になった。まず熱い湯を溜めた風呂に長い時間かけて入り、体中の垢を落とした。剃刀とシェービングフォームを使って伸びた髭を丁寧に剃り落とした。新しいシャツを着て、電池切れになっていたスマートフォンを充電器に繋いだ。充電が完了して電源を入れると、その途端に着信があった。弓削からだった。
「お、やっと繋がった」
弓削はどこか混雑した場所から電話をかけているらしい。たくさんの人の足音や声が背後に聞こえていた。
「おめでとうさん」
「あ……明けまして、おめでとう」喉が張り付いていて上手く声を出せなかった。
「どうしたんや? メールも返事せえへんし。何かあったんか?」
「いや、何もないよ」
「今、実家帰ってへん下宿生集めて伏見稲荷来とるんやけど、本庄も来えへんか? 今から伏見で飲むつもりやねんけど」
「ああ……初詣か。いや、僕は遠慮しておくよ」
初詣と自分で言ってから、天通寺の住職の顔が急に思い起こされた。
「そっか。せやけど……ホンマに大丈夫なんか? 何か、元気あらへんけど」
「いや、大丈夫だよ。ごめんな、心配かけちゃって」
「別にエエよ。ほなまた大学でな」

 次の日の夕方に僕は家を出た。四条河原町の高島屋に行って花を買ってからバスに乗った。初詣の客がいなくなった夜に天通寺を訪ねた。
 引き戸をこんこんと叩いて来訪を告げると、「お、来はった来はった」という声がした。
「明けましておめでとう」と住職はにこやかに言った。
「おめでとうございます」僕は頭を下げた。
「お父さんのお墓の隣で待ったはるよ」
 住職は提灯を手に、夜の墓地へ僕を連れて行ってくれた。
「年末に石屋呼んでな、急いで造ってもろたんや」
 父の墓と隣の墓の間にそれはあった。住職は提灯でそれを照らした。砂利の上に台形の岩が置いてあり、その前に小さな御影石の花立がある。
「せやけど、さすがに墓までは造ってもらえへんかったからなあ。花立だけはサービスしてもろたわ。そこに置いてあるんは、えらい古い岩やで。江戸時代くらいからある岩でな、むかーしここの庭園に置いてあった岩なんや。ワシが生まれるずっと前に別の岩と替えたいうて、ずっと蔵の中に眠っとったんや」
 住職は頭を掻いて照れ臭そうに言った。
「すいません、あの、ここまでしてもらって……」
「かめへんかめへん」
揺れる提灯の炎が住職の笑顔を優しく照らしていた。
「せやけど、ちゃんとこの下にいはるからな。無縁様のところやのうて、夏雪はんがこれからずっとお参りしはると思うて、ここにしたんや。まあ、いつか立派なお墓を拵えておやり。それまでの代わりやと思うて堪忍してくれや」
 住職は「ほなあとはお二人で」と言って僕に提灯を手渡して堂へ帰っていった。僕はその姿が見えなくなるまで、ずっと住職の背中に向かって頭を下げていた。
 提灯を岩の隣に置く。岩の高さは僕の脛のあたりまでしかなかった。歪な跳び箱のような形をした岩だった。灯りに照らされたその岩には、まるで煙を閉じ込めたような紋様があり、時間の経過のせいなのか、本来のものかまではわからなかったが、全体的に白っぽい色をしていて、揺らぐ炎の色に忠実に染め抜かれていた。
「寒いだろう?」と僕は言った。「まあ、函館に比べたらましだよな」
 僕は手にしていた一本の青い薔薇を、花立の真新しいステンレスの筒に挿した。
「青い薔薇は、もう不可能じゃないらしいよ」
そう言ったあと、しゃがんで手を合わせた。この岩の下に骨になってしまった愛が眠っているのだ。
 当然のことだが、愛は返事を寄越さなかった。
 僕はしばらくそこでじっとしゃがんでいたが、冷たい風が吹くと、急に虚しくなった。ここにいたらそのうちにまた泣き出してしまいそうな気がした。僕はもう泣かないと誓ったのだ。だから立ち上がって愛に別れを告げて、提灯を持って本堂にそれを返しに行った。
 住職は帰りに大きなスーパーの袋に入った愛の衣類を渡してくれた。その夜は中身を見ることができなかった。

 次の日の昼間、太陽が出ている時間にまとめて愛の遺品の整理をした。
 斜めがけの革のバッグもずっと開けていなかった。その中に入っていたのは物騒なものばかりだった。手錠の鍵まであった。背の高い男の太腿と、愛の喉と胸の血を吸ったナイフも出てきた。あとはスパナとウェットティッシュと何も書かれていないメモ用紙の束とボールペンが一本出てきただけだった。スマートフォンや手帳の類は入っていなかった。
 スーパーの袋に入った服もひと通り点検した。ブラウスやスカートはクリーニングに出されたらしく、洗剤の香りがした。ダッフルコートと白い毛糸のセーターには血の跡や煙の匂いが残っていた。僕は試しに全てのポケットを裏返してみた。しかし何も出てこなかった。何かがあるのではないかと少しだけ期待していた。愛の痕跡はすべて取り去られていた。僕は衣類とバッグをどこに置こうか迷ったが、部屋に収納する場所はなかった。自分の箪笥に入れるのは気が引けた。目にする度に思い出してしまいそうだった。結果的に一切の遺品は部屋の隅で埃をかぶっていた水色のスーツケースの中に封印されることになった。
「夏雪」
 そう呼ぶ声がして驚いて振り向くと、ドアの向こうに母親が立っていた。
「ごめん、取り込み中だった?」
「いや、大丈夫大丈夫。ちょっと掃除してただけ」僕はスーツケースを部屋の隅に押し戻した。
「夏雪、あなた、何があったの?」母は心配そうに眉を歪めて尋ねた。
「何もないよ。全部片は付いたんだ」
「就職活動のこと?」
 僕は就職活動をすると言って大阪を発ったのだった。
「あ、うん。そうそう。やっぱ俺、大学院行こうかなと思って」慌てて適当なことを口走った。
 母は両手を組んで、首を傾けて僕をじっと見つめた。
「あなたもう大学生なんだから、私は何も言わないけど……就職活動で、どうやったらあれがああなるのよ?」
 母親は部屋の窓にハンガーで掛けてあるぼろぼろになったピーコートを睨んだ。
「ねえ、どこで何してたのよ?」
「時間が経ったら話すよ」僕に言えるのはそれだけだった。「でも、もう心配はいらないよ。それは本当」
 母親は一度溜息をついたあと、「まあいいけど」と言った。
「それはそれでいいけどね、あれはクリーニングに出しますよ。ダウンがあったでしょう?」
「あ、うん。ありがとう」
 僕は窓のそばに行ってコートを取った。そしていつも洗濯物を出す時にもそうしているように、コートのポケットをすべて裏返していった。
 何もないはずだった。
 一度も使った覚えのない左の内ポケットに何かが入っている。
 それは一枚の折りたたまれたメモ用紙だった。
 僕は手元の紙をじっと見つめたまま、母親にコートを手渡した。母は「ごはんはちゃんと食べなさいね」と言って部屋を出てドアを閉めた。



 僕の掌の上には四つ折りになったメモ用紙がある。それはさっき愛のバッグの中にあったメモ用紙と同じ、罫線もなにも入っていない真っ白な紙だった。
 愛と一緒にいた間、僕が愛から何かを受け取ったことは一度もなかった。ましてそれを左の内ポケットに入れたことなどあるはずがない。
 あるいは愛とは全く関係のないものかもしれない。大学で――例えば図書館の蔵書検索とかで――何かの拍子にメモしたものを、このポケットに入れたのかもしれない。それを僕が忘れていただけなのかもしれない。
 僕はその紙を開けたい誘惑に駆られる。
 鼓動が段々大きくなってくる。
 それを我慢して僕は隣の書斎に駆け込む。机の上を整理して、カーテンを閉めて、ライトを点けてから、その紙を置く。そしてゆっくりと開く。

 MZGHFPZHSR HSLYL
 GSV TIVVM 831

 そこに記されていたのは二行の英数字だった。僕は歓喜する。踊り出したいくらいだ。それは間違いなくカルディ・イケリの換字式暗号だった。そしてそんなものを書くのは愛しかいない。
 愛が何かのメッセージを僕に託したのだ。
 どのタイミングでここに忍ばせたのだろう?
 その謎はひとまず脇に押しやり、僕は暗号の解読に取り掛かった。シークレット・ガーデンへと僕を導いた時に使用したノートを開き、アルファベットの換字列を確認して、一文字ずつ慎重に置き換えていく。

 NATSUKASHI SHOBO
 THE GREEN

 一列目の文字列は意味がわからなかった。しかし「THE GREEN」がイケリの『緑』を指しているのは明らかだった。ということはその次の「831」はページ数を示していることになる。僕は本棚からまた『緑』を取り出して確認するが、632ページまでしかない。ということは、この数字も同じように0から9までを逆に置き換える必要があるのだろう。831という数字を逆転させて得られた数字は、

 168

 だった。その数字には見覚えがあった。『奥の席に座れ』で主人公が手にした手紙を挟んでいたページでもあるし、イケリの換字式暗号を示したページ数でもある。しかし『緑』の168ページは既に読んでいる。どのタイミングでこのメモを忍ばせたのかまではわからないが、愛はそのことを知っているはずだった。
 愛は一体何を伝えようとしているんだ?
 そこで初めて、「SHOBO」の意味に思い当たる。
 これは「書房」ではないのか? 
 僕はノートパソコンを急いで立ち上げて、「なつかし書房」で検索を掛ける。あの時と同じだ。あの時と同じ胸の高鳴りが迫ってくる。
 そうして出てきたのは、「夏借書房」という古本屋の電話番号と住所を記したページだった。その住所は、東京・上野御徒町だった。
 上野御徒町。
 それは僕と愛が過ごした漫画喫茶のある場所だ。
 そして全てが繋がった。
 決行の日の朝、愛はいなかった。戻ってきた時に「散歩だ」と言った。
 それは散歩が目的ではなかったのだ。
 愛は「夏借書房」で売られているだろう『緑』の一六八ページに何かを仕掛けたのだ。
 そしてそのあとにメモを僕のコートの内ポケットに入れるタイミングと言えば?
 リトル・エレファントを破壊したあとしかあり得ない。つまり、天通寺を目指してアクセラを走らせていた長い時間のどこかだ。僕は記憶の川を逆流する。そして掴む。
 愛が僕に知られずに、コートに触れることができたタイミングは一度しかないはずだ。
 コンビニに薬を買いに行って失敗した時。あの時僕はコートを車の中に置いてきた。
 彼女はその時、一体何を伝えようとしたのだろう?
 君は一体何を伝えようとしているんだ? 
 


 一月四日の朝六時五十五分に夜行バスは新宿に到着した。そして僕を含む客たちは吐き出されるようにして都庁の影に降り立った。そのバスは今からディズニーランドへ行くらしかった。僕は都営地下鉄に乗って本郷三丁目を目指す。
 本郷三丁目のモスバーガーで朝食を取った。ミネストローネとホットドッグを注文した。愛がそのスープの味を好んだかどうかはわからなかったけれど、ある種の弔いのつもりだった。
 夏借書房の開店時間は十時だった。朝食をゆっくり食べても時間が余ったので、僕は東京大学に行った。三四郎池の前でしばらく何も考えずに目を閉じていた。そして愛の遺品の一つを――水郷に掛けた手錠の鍵を――池に投げ入れた。鍵は水紋を描いて池の底に沈んでいった。
 あのあとエンターテイナー社がどうなったか気になったが立ち寄ることはしなかった。おそらく水郷も愛がどうなったかくらいは想像がつくのだろう。彼はクリスマスの日以来一切連絡を寄越さなかった。結局、僕と愛にできたのはリトル・エレファントの一部分を破壊することだけだった。もしかしたら水郷はこれからも小村象の名で作品を発表し続けるのかもしれない。それはそれで構わないと僕は思っていた。水郷が僕に一瞬だけ見せてくれた原稿用紙の束があった。あれはもしかしたらこれから刊行されるのかもしれない。彼は春頃に出すと言っていた。もしそうなっても僕は絶対に読まない。
 そんなことを考えながら十時まで池の前で時間を潰し、それから地下鉄に乗って上野御徒町まで行った。そして夏借書房を訪ねた。
 その古本屋は漫画喫茶のあるビルから歩いて三分くらいのところにあった。理容店とパン屋に挟まれた小さな店だった。ガラスのドアに金色の文字で「古書 夏借書房」と縦書きしてあった。店の前には百円の古本が箱に入って売り出されていた。どの本の背表紙もむらなく日に焼けていた。
 僕は店に入り、カウンターの奥にいる眼鏡を掛けた店主に会釈をした。彼は新聞を読んでいた。僕をちらりと見ると、彼はほんの少しだけ首を前に傾けた。僕は狭い店内を一周し、外国文学の書棚にカルディ・イケリの『赤』と『緑』が並んでいるのを発見した。
 その二つの色の背表紙は他の本に比べてよく目立つ。僕はどんな本屋に入ってもまずその二冊を見つけることを習慣にしていた。それは僕にとっての誇りだった。父の本を置いてある店は無条件に好きになった。しかし古本屋でこの二冊を見つけることは滅多になかった。
 僕は手を伸ばして『緑』を手に取った。愛の身長なら、かなり背伸びをしなければこの本を掴み取ることができなかっただろう。きちんと手入れが行き届いているのか、あるいは愛が拭いたのかはわからないが、埃は一切付着していなかった。僕はそれを見て思わず微笑んだ。
 そして見当を付けて一六八ページのあたりを開いた。そこは正確に一六八ページだった。なぜならそこには紙が挟まっていたのだ。愛の最後のメッセージがそこに閉じ込められていたのだ。
 紙がひらりと床に落ちる。僕はそれを拾う。イケリの『緑』を棚に戻す。数枚の四〇〇字詰めの原稿用紙が半分に折りたたまれている。それを手にしても、驚くほど心は凪いでいる。まるでそこに書いてあることがあらかじめわかっているみたいに。そしてそれをゆっくりと開く。そこには愛の言葉が詰まっている……。



 白の鍵を盗め


 わたしの言葉に 翼があれば
 砂漠を越えて 飛んでゆくのに
 同じ眼をした 祖父のもとへと

 本はすべて 読んでしまった
 言葉の糸は 尽きてはくれない

 それでもわたしは 詩を編んでゆく
 五色の爪で 音のインクで
 ショパンを弾いて 君の名を書く


 わたしの言葉に 重さがあれば
 空の上から 降りてゆくのに
 雪の名を持つ 君の元へと

 水はとうに 死んでしまった
 赤の列車は 待ってはくれない

 それでもわたしは 詩を編んでゆく
 七色の筆で 光る鋏で
 紙を切り取り 君の絵を描く


 そう 今 君に
 贈らなければならないものがある

 それは氷の繭
 壊れないように 失くさないように
 それは白い鍵
 封じるために 忘れるために

 純白の記憶 この繭で閉じて
 純白の記憶 この鍵で閉じて


 誰かの墓の上に 一本の花が開くとき
 声は空を昇ってゆくだろう

 池の鏡の上に 一つの夢が浮かぶとき
 声は空を昇ってゆくだろう

 ねえ 今 君は
 どこにいるの?

 わたしは君の中で生きる

 白の鍵を盗め
 白の鍵を盗め



『白の鍵を盗め』と題された原稿用紙三枚の作品を読み終えた僕の頭の中には、一つの大きな疑問が姿を現した。
 愛とは一体何者だったのだろうか?
 彼女はどこから来て、どこへ行ってしまったのだろうか?
 愛はあらゆる芸術的才能の持ち主だった。
 愛は音楽家であり画家であり記憶の達人であり小説家であり、
 そして詩人だった。
『白の鍵を盗め』は詩だった。

 全てがめくるめくスピードで一つの点に――三枚の原稿用紙に――収束してゆく。
 僕はその小さな古本屋の真ん中に立ち尽くしていた。原稿用紙から顔を上げて、黄ばんだ天井の蛍光灯を見つめて自分に愚かな空想を一度だけ許すことにした。それは無意味な空想だった。カルディ・イケリという、オーストラリアの砂漠に消えた、謎の詩人が宿していた偉大なる才能の系譜がある。それは時を超えて一人の女に受け継がれていた。イケリと父と愛は僕の掌の中でようやく繋がったのだった。そしてその短い空想を終えた時、僕は目を閉じて心の中へと降りていった。どこまでも降りていった。深くて暗い底の部分で、僕は闇に包まれた巨大な氷の繭を見た。その中には純白の記憶が閉じ込められている。僕は白の鍵を静かに回し、それが閉ざされたことを確認して、心の底から昇る決意をした。その時、瞼の裏側にはいつ終わるとも知れない真っ白な雪が降り続けていた。〈了〉

Artist

【あとがき】

お読みくださってありがとうございました。
長いものを最後まで読んでいただいて嬉しく思います。
これは、「ふるさと」のあとに書いた長編小説です。
ある日、夢に出てきたカルディ・イケリという人名から話を膨らませて、このようになりました。
函館は母親の生地で、個人的にとても好きな街です。東京も昔住んでいたあたりをもとにイメージして書きました。
もしよければ、ご感想をtrombone.magique@gmail.comにぜひお寄せください。

Artist

国籍不明の詩人、カルディ・イケリを研究していた父の元、オーストラリアで生まれた本庄夏雪。高校生の時に父を亡くし、やがて父の跡を継ぐという志を胸に大学に入学する。大学三年の冬、大学の書店で人工知能が書いたとされる小説を手に取った夏雪は、そこに隠された暗号に気がつく。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.   
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 第七章